ドグマ・カルマ

ゴオォォォォン…………ゴオォォォォン………… 

  

 先程から奇妙な音が響いてい 

 その音は外から聞こえてくるようである 

 近くの工場で発生し、この部屋まで響いてくるのであろう、騒音。……僕は前から気になっていたのだ。町に幾らでもあるどんな工場からも、不思議と似たような音が聞こえてくる。ちょうどこんな重々しい感じの、それでいて寂寥感を抱かせる、胸苦しくなる音が……。 

……この音は、一体どんな作業から生じているのだろう?どうも、重い金属同士を打ちつけているように聞こえるのだが……。 

 

ゴオォォォォォォォォン………… 

 

何の工場かは知らないが、これだけはっきりと音が聞こえるのだから、余程近くにあるのだろう。きっとこの部屋から見える範囲に存在しているに違いない。 

しかし生憎この部屋の窓は磨りガラスだったので、その工場の姿を確認することはできなかった。そんなことの為に、わざわざ窓を開けるのも面倒。その代わり、僕はその工場の有様を脳裏に思い描いてみることにした。……浮かぶのは、半ば薄汚れた細い煙突。古ぼけたその煙突が、陰鬱な曇り空に向かって高く伸びていて……そしてその先端からは、いかにも人体に有害そうな、得体の知れない黒い煤煙が、絶えることなく吐き出されている……。 

 再び、部屋を見回す。……何度見ても殺風景な部屋だ。物といえば、床に落ちている一冊の本しかなかった。

 溜息を吐き、僕は結局そのを拾うことにした

本へと手を伸ばしそのまま床に腰を下ろ

 眺める。……それは、奇妙な本だった。

 分厚い外観からは重厚な印象を受けるのに、実際に手に取ってみるとほどでもない。持っていて腕が疲れてくる程の過度な重量はなく、といってその威厳を損なうほどに軽くない。心地よい重量感。そして、どこか手に馴染むような感触。

 僕は思わずその黒い表紙を撫で僕てみた。

 これは……革、だろうか?だが、それは僕が知っているどんな動物の革とも違うように思え。どことなく異質な感触だが、石油製品のような人工でもない。質感は奇妙だが、それでいて、不思議と手に馴染むのだ。……いずれにせよ、最近造られたものではないようだった。黒革にはしっとりとした艶がまだ残っているものの、全体の古びた印象は拭えない。

 本を観察していた僕は、そのうちおかしなことに気がついた。表紙にはどこにも、本の題名が記されていないのだ。……その代わり、黒革の表紙の全面に、毒々しい紅でおかしな文様が描かれている。

 何だ、これは?

 それは一目でオカルトの類とわかる、ひどく怪しげな紋様だった。西洋の魔法陣のように見えるが、よく観察するとそうではないことがわかる。魔法陣というものは普通幾つかの円が同心円状に並んでいるが、この紋様はそれが螺旋になっているのだ。毒々しい紅色の線が、表紙全体を埋めるようにして螺旋模様を描いている。……そしてその螺旋の内部のあちこちに、見たこともない奇妙な文字や記号が並べられている……。

魔法陣というのは円形しかないものと思っていた僕は少しばかり感心しじっとその紋様を見つめていた。……しかしそうしている内に、ふと自分が渦の中心に呑み込まれてゆくような錯覚がして、慌ててそれから目を逸らした。

 随分意味ありげな紋様に見えるが、何か意味でもあるのだろうか一見西洋風だが、眺めていると東洋風にも見えてくる。神秘的というべきか……それとも、禍々しいと表現するべきだろうか?

そんなことをしている内に、僕はまだ読んでもいないこの本に、強く惹かれている自分に気がついた。

 ……何故だろう?僕は本などというものにそれほど興味を持っているわけではないのに。……少なくとも、そのはずだった。

 しかしこの本を手にしていると、れが何よりも貴重なものに思えてきてどうにも仕方がないのだ。金銭的な価値とか、骨董的価値とかいった、そんな下世話な意味で貴重だと言っているのではない。そんな、くだらない価値ではない。この本を見ていると……これは、普通の本ではないのではないか……とても特別なものではないのか……そんな風に思えてきて……

 この本に書かれていることは下らない物語などではないし、何の役にも立たないような、つまらない知識なんかでもない。そんな風に思えてならないのだ。

 ……これに記されているのはきっと、何か素晴らしいことだ。そう、他ならぬこの僕にとって、重要なことが書いてあるはずなのだ。それが例え小説だろうと、何かの論文であろうと、たとえオカルトであっても。それがどれだけ奇妙な内容で、一見するとナンセンスにしか思えなくても、それは少なくとも今の僕にとって、必要な何かであるに違いないのだ。……そう……この僕にとって……。

 これは、僕のための本なのだ……!

 

 ゴオォォォォン…………

 

またあの音が部屋に響いて、僕は我に帰った。……そして、たった今自分が考えていたことを思い返して、違和感を覚えた。

 ……一体、僕は何を考えているのだ?まだ読んだこともない本に対して、「僕のための本」だなんて……。どうもおかしい。僕という人間はこんなに空想的だったろうか?まるで、自分ではないみたいだ。

この本のせいだろうか?この本が発する神秘的な……いや、奇妙な波動が、知らぬ間に僕の精神を侵していのかもしれない。……それとも、あの音のせいか?あの、重々しく鳴動する音。重い金属と金属とを打ち付けあう、あの音……。あれを聞いていると、どこか物哀しいような、うすら寒いような気分にさせられる。あの音が、僕を感傷的にさせているのだろうか?

 窓の外は薄暗くて、やはり向こう側を見ることはできない。まだ明るい時間のはずなのだが、薄暗いのは曇っているためだろうそう考え、僕は憂鬱になった。昔から曇り空が嫌いだった。陰鬱な曇天が眼に入ると、こちらの気分までが沈みこんでしまい、周りの何もかもが無意味であるように思えてきて、どうでもよくなってしまうのだ。それなら、いっそ雨が降ってくれた方がましだった。

 ……まあいい。見えもしない外のことより、今はこの本の方が気に掛かる。……妄想じみたおかしな期待を抱くのは馬鹿げているが、それでもこの本に、僕の何かが反応していることは確かなのだ。

 ……この古ぼけた、一冊の本に。

 本。本というものに僕がこんな期待感を抱いたのは、いつ以来だろう?長らく遠ざかっていたが、子供の頃はよく本を読んでいたような気がする。その頃の、瑞々しい感覚が甦る……

ずっと昔……そう、まだ幼かった頃には、本を開く時にはいつも胸が高鳴っていたような気がする。一冊の本の中には、必ずなにかしら重要なことが書かれていると信じていた。どんな本にも、この世界の何か大事な秘密が隠されている。そしてそれは大人には読むことができないもので、まだ純粋な子供にしか見ることができないで……。いつのまにか失くしていた、そんな子供の頃の感覚。

 その頃、自分はどんな本を読んでいたのだろう?

 僕は過去を思い出そうとしたが、幼い頃のことは霧がかかったのようにぼんやりとしていて、全く思い出せない。……まあ、子供の頃の話だから、所詮たいした本ではなかっただろう。絵本とか、子供向けの教材などを読んでいただけのはずだ。

 ……それでも、僕はそんな本の中に、世界の秘密が記されていると信じていたのだ……。

 懐かしいような、寂しいような回想から戻り、僕は再び手の中を見た。手の中には、先に眺めた時と変わらず例の本が納まっていて、僕は思わず安堵の息を吐いた。……考えこんでいるうちに、落としてしまったのではと誤解したのだ。そんな勘違いをしてしまうほどに、その本は僕の手に馴染んでいた。まるで幾つもの夜をともにした、慣れ親しんだ恋人の肌のように……。

 僕は今、この本を開こうとしている。後で落胆しないために、過度に期待せず、冷静になろうと自身に言い聞かせながら。……けれど心のどこかで、そんなつまらない危惧など打ち破ってくれることを、本当は強く望んでいる自分がいる。……何もかもが新鮮だった子供の頃とはあまりに遠く隔たった、この色褪せてしまった世界を打ち破ってくれるような、そんな期待。何ら目新しいものなどない、この気詰まりで陳腐な日常から常識という薄皮をそっと剥ぎ取って、この世界の裏側で今も密かに息づいている魅力的な神秘や、明かされるやいなや忽ち世界をひっくり返してしまう、その為に厳重に封じられている危険極まりない真理といった、そんな素晴らしいものを見せてくれるという期待感を、僕は抱いていた。何もかもが煌めいて見えた、子供の頃に抱いていたような、そんな期待を……!

 

 ゴオオオオオオォォォォォォォォォォンンンンンンン……………

 

一際大きな音が部屋の中に響いて、僕は顔を上げた。

その音は、それまでになく長い余韻を残して、消えた。

後にはもはや揺るぎない、確固とした静寂が待っていた。

僕は再び本に目を落とした。……高揚していた気分は、依然として損なわれていない。

――僕はゆっくりと、その本を開いた。

震える手で、慎重に表紙を捲る。すぐに扉が現われて、そこに?タイトルらしきものが記されていた。

ドグマ・カルマ

それだけ書かれている。

作者の名前、出版社の名称、そういった記述はどこを探しても見当たらない。普通の本なら、およそありえない。昔の本だから……と、考えるべきなのだろうか?それともこれは出版社から出た一般的な書籍ではなく、自費出版の類なのかもしれない。……目次もない。僕は首を捻り、しかし高まり続ける妖しい期待に胸を躍らせながら、また頁を捲る……。

……そしてついに、本文が現れた……。

 

「  1

 

あなたはいま、薄暗い洞窟の中を歩いています。

手には、あなたの周りをほんの僅かに照らしてくれるランプを持っています。他には、何一つとして持ってはいません。

前を照らしても、後ろを照らしても、どこまでも闇が広がるばかりで、先を見通すことはできません。

ランプを消してみますか?

 

ランプを消す……2へ

消さない  ……3へ」

 

 ……何だこれは?

どんな文章が出てくるのかと、あれこれ考えて期待していた僕は、これ以上ないという程の戸惑いを覚えた。……これは、小説なのか?しかしこんな小説があるのか?

僕は困惑しながらも、とにかく指示に従うことにした。好奇心から、「2」を選ぶことにする。

選択肢の数字は頁数とは異なっているようだが、「2」ならばすぐ次の頁に載っている筈だった

 そうして開いた頁にはそっけな、短い一文が記されていた。

 

 「  2 

 

  あなたは恐怖のあまり錯乱して、死んでしまいました。 

 

     1へ戻る」 

 

 ……その頁に書かれていたのはそれだけだった。その隣の頁には、挿絵が描かれている。 

西洋風の、銅版画を思わせる白黒の挿絵。それは薄暗い洞窟の中で、倒れている男の絵だった。うつ伏せに倒れているために男の表情はわからない。……だが、挿絵の迫力のせいだろうか?僕はその男の、恐怖に歪んだままこときれている顔をこの上なくリアルに想像してしまい、背筋に悪寒が走った。 

ことさら不気味さを煽り立てているわけではない。それなのに無機質に死体を描いたその絵は却って限りなく不気味なものに思えた。 

 ……一体なんなのだ、これは? 

 意味がわからない。ランプを消すか消さないか、そんな選択に、一体何の意味があると言うのだろう?しかもそんな無意味な選択で、随分とあっさり死んでしまった 

 戸惑っているうちに、ふと考え付いたことがあった。 

……これはひょっとして、ゲームブックではないのか? 

僕は子供の頃に読んで、それきりすっかり忘れていたゲームブックの何冊かを思い浮かべた。 

ゲームブックとは決まりきった物語を読むだけの小説とは異なり、読者に幾つもの選択肢を提供することで、その先の展開が変化していくという一風変わった形式の本だ。その名の通りゲームの要素が加わっており、間違った選択肢を選ぶとゲームオーバーになってしまう。本によっては、読者の選ぶ選択肢によって結末までも異なったりするのだが……。 

 ……僕は再び本に視線を落とした。 

 この本は、本当にゲームブックなのだろうか?内容を見る限り、そうとしか思えない。しかしそうであったとしても、はたしてこんなゲームブックがあるものだろうか?ハードカバーの、しかも革装の、ゲームブックなんて。 

 ゲームブックなどというものは所詮色物で、安価な文庫本しかないもの僕は思っていた。ひょっとしたら児童書の類ならありうる話かもしれないが、この本ははどう見たって児童書とは思えない。立派過ぎる装丁を見ても、いきなり死んでしまうという理不尽で暗いストーリーからしても。……それにこの本は普通のハードカバーの本と比較しても、よほど豪華で凝った造りなのだ。どうにも、ちぐはぐな印象を受ける。 

 第一、この本はとても年代物のように見える。ゲームブックというものが、そんなに昔からあったとは思えない。詳しく知っているわけではないが、できたのはわりと最近の話だろう。……少なくとも、戦前ということはないはずだ。しかしこの本は、戦前のものだといわれても即座に頷けるだけの風格を備えている……。 

 大体……これが本当にゲームブックだったとしても、おかしい。内容が、奇妙過ぎる。僕は大昔に読んだ、普通のゲームブックを思い出した。細かい内容までは覚えていないが、僕が読んだそれはどれもファンタジーの、いわゆるロールプレイングゲーム風の世界観とストーリーだった。

 そして、それらは最初に物語のあらすじや設定といった説明や、読者の分身となる主人公の紹介などがされるはずなのだ。

それなのに、この本では何の説明もなしにいきなり、「あなた」が洞窟を歩いている、という記述から始まっている。そして、いきなり死んでしまう。はっきり言って、訳がわからない。冗談にしてもブラックに過ぎる。

……。なんだろう?僕は、何か引っかかるものを覚えた。この本から受ける印象、雰囲気が、何かに似ているような気がする。得体が知れない、不可解な、この感じ。ゲームブックよりも、なにかしっくりくるものがあるような……。

 ……それにしても。僕は失望を覚えていた。この本から受けていた、何か重要なことが書いてあるという期待を、僕はものの見事に裏切られたと思ったのだ。勿論、僕が勝手に期待していたに過ぎないのだが、それでもダメージは大きかった。

……所詮、現実はこんなものなのだ。期待したことは、大抵は期待外れに終わるものだ。……まして、これは偶々手に取っただけの本ではないか……。

 空しく自分を慰めながら、それでも僕は再び本を開いていた。

 ……まあいい。それでもこれが奇妙な……いや、珍妙な本であることはたしかだ。ひょっとしたらこれは、どこかの裕福な道楽者が考案し、特別に作らせた本なのかもしれない。ゲームブックというものがまだ一般に存在していなかった時代に、独自にそれを考え出した趣味人がいたのかもしれない。……もしそうなら、十分に興味深いではないか。

 期待していたものとは全く異なるものの、改めて考えてみれば、内容だってそれほど捨てたものではない。……それが醸し出している奇妙な雰囲気は不気味で、どこか捨てがたい魅力があった。挿絵だって、随分と本格的だ。その絵は不条理な悪夢のような、不可思議な、どこか不穏な緊張を見る者に与えている。

 肩肘張らずに、気楽に楽しむことにしよう。

 僕は先ほど中断していた「2」を再び開いた。文中の指示には「1に戻る」とあるが、最初に戻っても仕方がない。

 僕はそのまま頁を捲り、「3」へと進んだ。

 

 「  3

 

あなたは、暗い洞窟の中を歩いています。

ランプの明かりを頼りに歩いていると、分かれ道に差し掛かりました。

  道は三つに分かれています。

  どの道も暗く、先に何があるのか全くわかりません。

  どの道を進みますか?

 

    右の道  ……4へ

真ん中の道……5へ

左の道  ……6へ」

 

 先ほどとは違う、本格的な選択肢。やはりこれは、ゲームブックのようだ。

 ……さて、どうしたものだろう?手掛りは何もない。事前情報が何もないのだから、これは純粋に運に任せるしかないだろう。

 少し迷った末、僕は真ん中の道を選ぶことにした。勿論、ただの勘だ。

 僕は頁をパラパラと捲り、「5」のパラグラフを見つけた。

 

 「  5

 

あなたは、真ん中の道を選びました。

しばらく歩いていると、前方に何かが見えてきました。

それは、立派な扉でした。

洞窟の壁に、頑丈そうな樫の扉がはめ込まれています。

あなたは、その扉を……

 

開く ……18へ

開かない……3へ」

 

少し胸が弾んだ。ようやく、物語が動き出しそうだ。

文中に出てくるその扉、先程のように挿絵で描かれてい。西洋風の、重厚な木の扉である。……いかにも何かが起こりそうな、妖しげな雰囲気を漂わせている。

選択肢に注意を戻す。「開かない」という選択肢は「3」を指示している。「3」のパラグラフは先程読んだ、道が三方に別れていた場面なのだから、要するに一つ前の選択肢に戻るということだ。一旦戻って、他の二つの道を調べてからこの扉を開く、ということもできるわけだ。

だが、ここでそれを選んでも仕方がない。どちらにせよ、いずれはこの扉を開かなければならないのだから、今調べておけばいい。もしこれが罠で、また死んでしまったとしても、「3」に戻ってやり直せばいいだけだ。

そうなのだ。これがテレビゲームであったら、死んでしまったら最初からやり直さねばならず、面倒な場合がある。だがこの本の場合には、死んだら前の選択肢に戻るだけでいい。たったそれだけで、いくらでもやり直すことができるのだ。この点がテレビゲームと違って、より手軽なゲームブックの、利点と言えるのかもしれない。

もっとも、それはいまいち緊張感に欠けるという、欠点とも言えるわけだが。

とにかく、それほど警戒する必要はない。僕はそう考えて、気楽に「開く」を選ぶことにした。

僕は「18」へと進んだ。

 

「  18

 

  あなたは、扉を開ました。

取っ手に手をかけると、鍵は掛かっていません。それを確認したあなたはそぅっと扉を開き、中を覘きました。

  けれど何も見えません。扉の中は真っ暗で

  それでも少し目が慣れてくると、そこが人の住む部屋であることがわかりました。今でも使われているようで、幾つかの家具が置かれています。

  ランプを掲げてみると、部屋の様子が詳しくわかりました。あなたから見て右側の壁には、手前に書棚が据えられています。その奥には書き物用の机が置かれています。

あなたから見て左側には、一人用の小さなベッドがあります。

  何を調べますか?

 

    机  ……19へ

    書棚 ……20へ

    ベッド……21へ」

 

どうやら、ここから先には進めないようだ。

けれど、僕は落胆しなかった。ゲームブックなどではこういうパターンでなにか役に立つアイテムを手に入れるとか、情報を得ることができるということがあるからだ

ひょっとしたら、この先で必要となるアイテムがあるかもしれない。もしそうなら、最初にここに来たのはむしろ正解だったといえる。二度手間を省くことができるからだ。

さて、何から調べよう?

少し考えて、僕は情報が手に入ることを期待して、書棚を調べることにした。何しろ、まだ主人公が置かれている状況も、その冒険の目的もわかっていないのである。何もわからないことには、いまいち感情移入しにくいというものだ。

僕は「20」へと進んだ。

 

「  20

 

 あなたは書棚の前に立ちました。書棚には上から下まで、本がぎっしりと詰められています。

 期待して書棚を覘いたあなたは、しかしがっかりしてしまいます。本はあなたの知らない言語で記されているものが多く、その殆どは読むことができなかったからです。

 それでもよく調べると、下から三番目の棚の隅に、あなたにも読める言語で書かれた本がわずかに置いてありました。

 そこには、

 

『第六次元における精神の多面展開』

『ドグラ・マグラの秘密』

『幻獣標本図鑑』

『怪奇!鳥人間の全て』

『ソニー・ビーンの一族 ―その栄光と挫折

『夢魔の世界』

 

 

 ……という本が並んでいます」

 

この中から、読む本を選べということか?

書名を見る限り、手掛りとなるどころか、少しでも物語に関わるような本があるとは思えないのだが。

僕は続く文章に目を落とした……。

「あなたはその内の一冊に手を伸ばしました。 

 しかしその時、後ろから近づいてきた誰かに背中を刺されてしまいました。 

 あなたは死んでしまいました。 

 

    52へ」 

 

……なんだって? 

何かの間違いかと見直しても、間違いなくそう書かれている。 

僕はまたわけがわからなくなった。 

どうしていきなり出てきた奴に、あっさり殺されなければならないのださっぱり意味がわからない。部屋を調べているうちに、敵が入ってきていたということか?……しかし、敵が現われたのなら戦わなければ、ゲームにならないではないか。 

戸惑った僕は、他の選択肢も確認してみることにした。前のパラグラフに戻り、選択肢の中から「机を調べる」という「19」へ進む。 

 

「  19 

 

あなたは、部屋の奥にある机を調べることにしました。 

それは質素な書き物机ですが清潔に保たれており、今でも使用されている形跡があります。 

机の上には、何もありません。 

あなたは屈みこんで、机の引き出しに手を伸ばしました。 

その時、あなたの後ろで物音がました。物音がしたのは、ベッドの上からです。」 

 

ベッド?……僕は先の記述に従い、部屋の配置を思い浮かべた。部屋の右側に書棚と書き物机があり、左側にベッド。……たしかに、右側にある書棚や机を見ていれば、左側にあるベッドには背を向けているということになる。 

では、最初からベッドには誰かがいたということだろうか?この部屋の、持ち主が。文中での描写がなかっただけで、突然やってきた闖入者を、後ろからずっと見ていたということなのか? 

 

「あなたは物音に気付きませんでした」 

 

僕は思わず、本の中の「自分」に文句を言いたくなった。それはお前、鈍すぎるだろう……。 

 

「あなたは屈みこんで、机の引き出しに手を掛けました。そんなあなたに、ベッドの上にいた人物がそっと近づきました。 

手にはナイフを持っています」 

 

……僕は思わず顔を上げて、自分の後ろを振り返った。馬鹿げたことだが、現実の自分の背後に今、誰かが立っているような気がしたのだ。……夢中になって本を読んでいる僕の後ろに、ナイフを持った見知らぬ誰かが立っているような気が……。

……勿論、そんな人物などいない。部屋にいるのは相変らず僕一人で、後ろには白い壁があるだけだった。

苦笑して、僕は続きを読んだ。

 

「あなたはそのナイフで刺されてしまいました。

あなたは死んでしまいました。

 

   52へ」

 

結局、また死んでしまった。

どういうことだ?不思議に思うと同時に、僕はこの本の主人公に対し、不満を抱いていた。この主人公は、いくらなんでも鈍すぎるのではないだろうか。せっかく選択肢が与えられているというのに、肝心なところで全くこちらの思い通りの行動を取ってくれない。これでは、選択肢の意味が殆どないではないか。

……まあとにかく、ここまで読んできた結果として、謎の人物がベッドの上にいることはわかった。とすれば正解は自ずと見えてくる。まず最初にベッドを調べればいいのだ。そうすれば勿論その人物に気付きよって不意打ちを喰らって死ぬこともない。

最初にベッドを調べることでその人物と対決し、相手を倒す。その後にゆっくりと部屋を調べるどうやらこれが、この場面の「正解」であるようだ。

手順を理解して安心しながら、僕は「ベッドを調べる」という「21」へと進んだ……。

 

「  21

 

 あなたは、ベッドに近づきました。

 ベッドの上には誰かが座っていました。

 その人物はあなたをじっと見つめています。

 部屋は薄暗いため、あなたからは相手の顔を見ることはできません。

 人がいるとは思わなかったあなたは、ひどく驚いてしまいました。あまり驚いたので、声を出すこともできません。

 その人物はベッドを下り、動けないあなたに向かって、ゆっくりと近づいてきました。」

 

右の頁はそこで文章が終わっている。

その隣……左の頁の挿絵には、近づいてくる不穏な人影が描かれている。文中の描写通り、顔は陰になっている。それがこちらの不安を煽る。

僕は言い知れぬ不安を抱いた。なにか、雲行きが怪しい。まさか……また……?

 

「相手はナイフを持っています。

 あなたは殺されてしまいました。

 薄れゆく意識の中、最期にあなたが見たものは、相手の口元に浮かんだ薄笑いでした。

 

 52へ」

 

僕は暫し間呆然として、左頁の挿絵を眺めていた。

黒を背景にして、例の如くそっけなく、背中にナイフの刺さった死体が描かれている。……結局、また死んでしまった。

これは一体、何なのだ?またしてもわからなくなった。どの選択肢を選んでも、結末が変わらない。

……まともではない。これでは全く、意味がない。これは、ゲームとして成立していない。

普通のゲームブックなら、敵が現れたら戦うことになる。行動の選択肢が出てきて、間違った選択の結果死んでしまうこともあるが、うまくやれば倒すことができる。当然だ。そうでなければ、意味がない。出てきた敵に、常に問答無用に殺されてしまうのでは、ゲームにならないではないか……。

……それとも、この道を選んだこと自体が、間違いだったとでもいうのだろうか?この真ん中の道は、丸ごと外れだったということなのか?

だとしても、後味が悪い。……なんとも嫌な感じだ。

僕はまたしても、この本の価値を疑い始めた。

手掛りと思われるものが出てきたのに、結局何一つとして満足に調べることができなかった。……むしろ謎が増えたとさえ言える。部屋にいたのは、結局何者だったのだろう。……なぜ、部屋に入ったくらいで、問答無用で刺されなければならなかったのだ?……相手が怪物ならまだわかる。だが、本の記述を見ても、挿絵を見ても、相手は人間として描かれている。

……僕はここで、本を閉じることもできる。

僕は迷った。これ以上読んでも、時間が無駄になるだけかもしれない。散々時間を費やした挙句、今の結果と変わらない、わけのわからない結末しか待っていないのかもしれない……。

……そうも考えたが、なぜか僕は本を閉じることができなかった。

僕はこのナンセンスな、不条理な展開に惹かれている自分に気がついた。これがどんな物語なのか、無性に気になって仕方がないのだ。

なぜ主人公は、こんな不気味な洞窟を一人で探検しているのか?この洞窟は何なのか、中には一体何があるのか?主人公は、この洞窟で、一体何をすればいい?

そして、この主人公は一体何者なのだ?

……結局、僕は続きを読んでみることにした。場面は、最初の分岐点に戻っていた。

 

「  52

 

 あなたはランプの明かりを頼りに、一人で暗い洞窟の中を歩いています。

 しばらく進むと、道が三つに分かれています。

 どの道に進みますか?

 

 右の道  ……72へ

 真ん中の道……62へ

 左の道  ……55へ」

 

真ん中は駄目だった。次に選ぶべきは右か、左か?

…………

今度は、右を選んでみよう。

「72」へ。

 

「  72

 

あなたは右の道を選びました。

 右の道では、壁からじくじくと水が滲みだしています。地面も濡れていて、あなたは何度も足を滑らせそうになりました。

 滑らないように気をつけながら歩いていると、また道が分かれています。

 どちらに進みますか?

 

   右の道……105へ

   左の道…… 78へ」

 

また分かれ道か……。

しかし、ともかく奥へ進むことができたのだから、この道は正解だったのかもしれない。まさか、この二つの道のどちらも行き止まり、なんてことはないだろう。……さすがに。

とにかく、当面は一番奥まで行くことを目指せばいいのだ。そうすれば、そこにはきっと何かが待っているはずだ。退治すべき魔物か、囚われの姫か。……或いは、神聖な宝物か。

とりあえずは、この分かれ道だ。どちらを選ぶべきか?

僕はここまでの全体図を思い描いてみた。最初に道が三つに分かれていて、そのうち真ん中が行き止まりだった。左の道はまだ行っておらず、何があるかはわからない。右の道、つまり現在探索している道は奥へと延びていて、さらに二つに分岐している……。

おそらく、片方はさらに奥へと通じている、正解の道。そしてもう一方の道は、主人公を惑わせて殺す為の罠なのだ。そう、さっきのように。……ひょっとしたら先に進む為の重要なイベントやアイテムがあるのかもしれないが、先の体験から判断する限り、この本にそんなまともな展開は期待しないほうが良さそうだった。

どちらが正解で、どちらが罠なのか?

迷った末、僕はまた右へと進むことにした。

「105」に進む。

 

「  105

 

あなたは右の道に入りました。

 道は曲がりくねっており、あなたは漠然とした不安を感じながら歩いています。

 しばらく進むと、目の前に扉が現れました」

 

扉?僕は先程のことを思い出し、多少の気後れを感じた。こちらは外れだったのかもしれない……。

 

「両開きの、水色のペンキで塗られた扉です。

 その扉を見あなたは「なんだか安っぽいな」と感じています

両手で押すと、扉は軽い音を立てて開きました。

キィィィィ……。 

 

 ……扉の中は、外と同じく岩肌が剥き出しになっています。ただ、少しだけ広い空間になっており、壁には松明が掛かっています。 

  

 部屋の真ん中にはヒヨコ人間が立っています。 

 

  彼の名前はピエール・ロティです。 

ヒヨコ人間は、あなたに話しかけてきました。 

  

 「ピィちゃんとお呼び下さい」 

  

 どうしますか? 

  

     戦う       ……107へ 

     逃げる      ……111へ 

 「どこがピエールだよ」  ……177へ」 

 

……ヒヨコ人間?ピィちゃん?多少の緊張を感じていた僕は、思わず脱力した。

ヒヨコ人間なる胡散臭いものを想像できない。僕は挿絵がないものかと頁を捲ってみたが、次の頁は全く別の場面だったので慌てて頁を戻した。どうやら、ヒヨコ人間ピエール・ロティ(自称ピィちゃん)なる生物の挿絵はないものらしい。……欲しい時に限って。

それはさておき、僕は少し嬉しくなっていた。ようやく、「戦う」とか「逃げる」とかいう、ゲームブックらしいまともな選択肢が登場したからだ。モンスターが出てきて戦うのは、ファンタジーもののゲームブックの定番だろう。現われたのがヒヨコ人間というわけのわからない生き物なのが、ひっかかるが……。

当然「戦う」を選ぶことにする。三つ目の選択肢に心惹かれるものもあるが、その好奇心はどうにか捻じ伏せた。どうしても気になるなら、後で確認すればいい。

僕は「107」へと進んだ。

 

「  107

 

 あなたはヒヨコ人間ピエール・ロティと戦うことにしました。

 ピエール・ロティは様子を窺っています。

 何をしますか?

 

    殴る   ……126へ

    蹴る   ……130へ

 松明を押し当てる……177へ」

 

これだけか、と少し呆れた僕の脳裏に、この本の最初の記述が甦ってきた。……そういえば、この本の主人公は松明以外、なにも持ってはいないのだ。つまり、ファンタジーの定番である剣のような武器はない。そして、どうやら魔法も使えないらしい。

どうしようかと少し迷った末、僕は「蹴る」ことにした。「殴る」と「蹴る」にたいして差があるとも思えないが、一般的には蹴りのほうが威力が強い筈だ。

勿論、「松明を押し当てる」という選択肢も、若干気になるところではあるが……。ヒヨコ人間なる間の抜けたものにそんな残虐な真似をするのも、さすがに気が引けた。

それに、これまでの展開を思い起こしてみれば。最期の選択肢が罠だという可能性は高い。「177」に進んだ途端、ピエールは豹変するのではないか、という不吉な予感がするのだ。……ようやく、少しユーモラスな場面に行き当たったというのに、そんな展開はさすがにごめんだ。

僕は「130」へと進んだ。

 

「  130

 

あなたはピエール・ロティを蹴りました。

ドガッ!」

 

ドガッ!というのは効果音らしい。

 

「渾身の力を込めたあなたの蹴りは、ピエール・ロティには全く効いていないようです。

 

 ピエール「初対面の相手に足を向けることが、果たして紳士の振る舞いと言えるでしょうか?」

 

 どうしますか?

 

    殴る   ……126へ

    蹴る   ……131へ

 松明を押し当てる……177へ」

 

……どうやら「蹴る」は正解ではないようだ。

冷静にそう考えながらも、僕は多少腹を立てていた。本の中のこととはいえ、ヒヨコ人間などというわけのわからないものに紳士の振る舞いなど云々されたくはない。その、もったいぶった喋り方も気に障った。

松明を押し当ててやろうか。そう思った僕は、しかしあることに気が付いた。選択肢の指す数字が、前とほとんど変わっていない。「殴る」は前と変わらず「126」へ向かうことを指示し、「松明を押し当てる」も前と同じく「177」だ。だが、「蹴る」だけは前と違い「131」を……つまり、今読んでいる部分の、すぐ次のパラグラフを指示している。

それに気がついた僕は、再び「蹴る」を選ぶことにした。選択肢の内容が同じでも、数字の指すパラグラフが変わっているのだから、次は違う結果が待っているはずだ。

僕は頁を捲った。

 

 「  131

 

 あなたは、またピエールを蹴りました。

 ドガッ!

 やはりピエールは痛くも痒くもないようです。

 

 ピエール「おやおや。私の言うことが聞こえていなかったのでしょうか?」

 

 どうしますか?

 

    殴る   ……126へ

    蹴る   ……132へ

 松明を押し当てる……177へ」

 

……たしかに相手の反応は変わっているが、先ほどと対して変わらない。どうやら、これ以上「蹴る」を選んでも意味はないらしい。

……そんなことはわかっていた。わかっていたのだが、僕はもはや引っ込みがつかないものを感じていた。ピエールの余裕ぶった態度が、どうにも癪に障る。……何がピエールだ、ヒヨコ人間のくせに。そんな不快感が、今の僕を支配していた。

「蹴る」が指す数字はまた一つ増え、「132」になっている。

僕はまた、すぐ次のパラグラフへと進んだ。

 

「  132 

 

 あなたはまたしてもピエールに蹴りかかりました。 

 ドガッ! 

 やっぱり効きません。 

  

 「この方には言葉が通じないようだ」 

  

 どうしますか? 

 

    殴る   ……126へ 

    蹴る   ……133へ 

 松明を押し当てる……177へ」 

 

僕は意地になって「蹴る」を選んだ。 

 

「  133 

 

 

 あなたはまたピエールを蹴りました。 

 ドガッ! 

 効きません。相手は呆れているようです。 

  

 「全く、困ったものだ」 

 

 どうしますか? 

  

    殴る   ……126へ 

    蹴る   ……134へ 

 松明を押し当てる……177へ」 

 

また「蹴る」を選ぶ。 

 

 

「  134 

 

 あなたはピエールを蹴りました。 

 ドガッ! 

 効きません。 

 

 ピエール「困ったものだ」 

 

どうしますか? 

 

    殴る   ……126へ 

    蹴る   ……135へ

 松明を押し当てる……177へ」

 

「蹴る」を選ぶ。

 

「  135

 

 あなたはピエールを蹴りました。

 ドガッ!

 効きません。

 

 ピエール「困ったものだ」

 

どうしますか?

 

    殴る   ……126へ

    蹴る   ……136へ

 松明を押し当てる……177へ」

 

僕は「蹴る」を選ぶ。

 

「ピエール「困ったものだ」 」             」

 

「蹴る」を選ぶ。

 

「ピエール「困ったものだ」

 

「蹴る」を選ぶ……。

 

「困ったものだ」……

 

僕は延々と「蹴る」を選び続けた。その度に全く変わらないナレーションが繰り返され、ピエールは一言だけ発言する。その変わらない場面の中で、ピエールの言葉だけが「困ったものだ」から「私にどうしろと言うのですか?」になった。しばらくそれが続いた後、ピエールの言葉は「あなたは何がしたいのですか?」に変化した。

当然、僕はその発言に怒り狂った。そして延々と、執拗にヒヨコ人間ピエール・ロティを蹴り続けた。

ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

 ドガッ!

 

「あなたは何がしたいのですか?」…………・

 

…………

その内、ピエールは「いい加減にしてもらえませんか?」と一度だけ言った。僕は面白がってまたピエールに蹴りを入れた。その時のピエールの反応は「…………」で、その後は何度やっても変わらなかった。 

 

「  176 

 

 あなたはピエールを蹴りました。 

 ドガッ! 

 効きません。 

 

 ピエール「…………」 

 

 どうしますか? 

 

    殴る   ……126へ 

    蹴る   ……177へ 

 松明を押し当てる……177へ」 

 

また「蹴る」を選ぼうとして、おかしなことに気が付いた僕は、ようやく我に帰った。「蹴る」の示す数字が「177」となり、「松明を押し当てる」の指示と同じになってしまっている。 

……ということは、この次の展開は今までと違うのだ。つまり、「蹴る」という選択肢は最終的には「松明を押し当てる」の結果と同じになるというわけなのだ。延々と繰り返した「蹴る」という行為は、ここでお終いにしなければならないようだった。 

それにしても、僕は何回ピエールに蹴りを入れたのだろう?ピエールを一回蹴るにはパラグラフを1つ費やし、また「蹴る」を選ぶとすぐ次のパラグラフに続くわけだから……。僕はパラパラと頁を戻し、「蹴る」の最初の場面を探した。……「130」だ。ピエールを最初に蹴ったのが「130」で、今は「176」なのだから、なんと僕は四十七回もピエールを蹴ったことになる。ここでまた「蹴る」を選べば、四十八回となるわけだ。我ながら呆れてしまった。 

冷静になってみれば、どうしてあんなにむきになっていたのか、自分でも不思議になったほどだ。いくら珍妙な相手だろうと、所詮本の中のキャラクターではないか。 

僕は苦笑を漏らし、頁を捲ろうとした。「177」に進もうと思ったのだ。今まで延々と同じ行動を取り続けたのだから、その結果を見たいと思うのは当然だった。 

頁を捲った先に待っている展開が、ついに怒り狂ったピエールの反撃だということは容易に想像がついた。最初は温厚だったピエールも、いくら痛くはないとはいえ、延々と蹴られ続けていれば逆上もするだろう。何せ五十回近いのだ。あの「…………」からは、押し殺した彼の怒りが感じられる。 

期待しながら頁を捲ろうとした、僕の指が止まった。……ふいに、厭な予感がしたのだ。 

……次の頁は、見ないほうがいい気がする。 

根拠はないが、確信があった。捲ろうとして本の頁を摘んだ僕は、異常な敵意を感じとったのだ。……そう思ってみると、両手に収まった本そのものに、静かに怒り狂うヒヨコ人間のどす黒い怨念が滲み付いているように見えてきた。

今さらながら、僕は悪いことをしたような気分になった。なにもしていないおとなしい相手を四十七回も延々と蹴り続けるなど、あまり正気の所業とは思えない。……というか、狂っている。そう考えると、物に憑かれたように「蹴る」を選び続けていたさっきまでの自分までが怖く思えてきて、次の頁を見るのがさらに怖くなった。

迷った末、僕は頁を捲るのを後回しにし、まだ選んでいない「殴る」という選択肢を選んでみることにした。「蹴る」が最終的に「松明を押し当てる」と同じ結果になった以上、常識的に考えれば「殴る」が正解ということになる。

……勿論、この本に常識など通用すれば、の話だが。

僕は「126」を開いた。

 

「  126

 

 あなたはピエール・ロティに殴りかかろうとしました。

しかし、あなたは石に躓いてしまいました。倒れかかったあなたは、しかしピエール・ロティが受け止めてくれたので、死なずにすみました。

あなたはお礼を言いました。

 

 ピエール「気にしないで下さい。我々は親友ではないですか」

 

 あなたはヒヨコ人間と友達になれました」

 

……やはり「殴る」が正解だったらしい。……だが、この展開は正直、どうなのだ?

釈然としないまま、僕は先へと読み進んだ。

 

 ピエール「それでは、友情の証にこれを差し上げましょう」

 

 あなたは一冊の本を受け取りました。

 中身はスカスカです。あなたはこれが何かを聞きました。

 

 ピエール「これですか?これは詩集です。珍品揃いの私のコレクションの中でも、一際異彩を放つ奇書。珍品中の珍品、幻魔怪奇詩集『ドグマ・カルマ』なのです」 」

 

『ドグマ・カルマ』だって?

それは、この本のタイトルと同じじゃないか。そう思い、僕は思わずにやりとした。作中に、同じタイトルの本を登場させるとは。……もっとも、僕が持っているこの『ドグマ・カルマ』はゲームブックで、作中の『ドグマ・カルマ』は詩集だというのだから、その内容は当然同じにはならないはずだが。

それにしても、どうして詩集が「幻魔怪奇」になるのだ?

 

「ピエール「どうして幻魔怪奇などという大層な枕詞が付くのか、あなたは不思議に思っているでしょう。それはもっともな疑問です。実はこの詩集は、本来なら生まれるはずのなかった詩集なのですよ。……いや、より正確に言えば、産まれて来なかった者の編んだ詩集というわけなのです」 」

 

生まれるはずのなかった詩集?産まれてこなかった者の編んだ詩集?……さっぱり意味がわからない。

 

「ピエール「この詩集を編んだ詩人は、本当ならとても高名な詩人になるはずだったのですよ。産まれてくれば、の話ですがね。しかし、残念ながらその詩人は、この世に誕生することができなかったのです。その時代の人々に熱狂的に迎えられ、後世にもその名を残すはずだったその詩人は、しかしその母親の子宮の中で死んでしまったのですな……。これは実際、人類全体の損失ですよ、非常に惜しい」

 

産まれてこなかった詩人……。おかしな話だ。

そして、当然の疑問を抱いた。

産まれてこなかったのに、どうして偉大な詩人になるとわかるのか?大体、どれだけ偉大な詩人だろうと、産まれてこなかった人間の詩集が存在するはずがないではないか。

 

 

「ピエール「おっと、あなたは今こう考えましたな?「そんな詩集がこの世に存在している筈がない」、とね。いや、残念です、あなたの感性は、信じられないほど狭いようだ……。いや、お気になさらず。あなたはまだお若いのだから、こうしたことに目端が利かなくても無理はない。いいのですよ、年を重ねれば自然とこうした趣もわかってくるものですからな……。

……何の話でしたかな?そうそう、たしかに、それは存在しないはずの詩集です。でもね、あなた……。だからこそ、この上ない珍品なのですよ」

     「つまりこの詩集はですな、その夭折の詩人、どころか産まれてすら来なかった詩人の編んだ詩集というわけなのです。だが、その本来の詩集、すなわちその詩人がめでたくこの世に産まれてきた場合に編んだであろう詩集とは、若干異なってしまっています。なにせ、産まれてくることができなかったわけですから、幾分性格が歪んでしまうのは致し方ないことでしょう?この詩集には、その心根が歪んでしまった詩人の書いた、多少歪んだ詩が納められているというわけです。その評価に関しては、私の口からは言い難いのですが……。まあ、できるだけ差し障りのない表現をするなら、訳がわからない。とてもまともとはいえません。まあ、まともな人生をおくれなかったのだから無理もないことです。むしろ私としては、そのわけのわからないところが気に入っているのですがね……」  」

 

長々とわけのわからないことを喋り続けるピエール・ロティ。僕はまたしても苛ついてきた。こんな与太話を聞いていると、こちらまで頭がおかしくなりそうだ。

僕はいつまで、このヒヨコ人間の下らない繰言を聞いていなければならないのだろう?やはり松明を押し付けてやればよかったのかもしれない。

本の中では人の気も知らず、ヒヨコ人間が喋り続けている。

 

「ピエール「あなたに渡したその詩集はスカスカで、殆ど中身が入っていません。その詩集を完全なものにしたければ、この洞窟のあちこちに隠されている詩を集めることです」

 

洞窟のあちこちにある詩を集める?僕はその言葉に反応した。初めて、このゲームブックの指針めいたことを言われたからだ。 

……これがこの洞窟探索の目的、この本のストーリーなのだろうか?首を捻らざるを得なかった。詩を集めておかしな詩集を完成させるというのもおかしなストーリーだが、詩集の名前が『ドグマ・カルマ』だというのは意味深に思える。本の題名と同じ名前を付けるということは、それが物語にとって重要だという証だろう。 

僕は再び本に目を落とした。開いていた頁は、先のピエールの長台詞で終わっている。頁を捲ると、そこにはそれまでの印象とは違う、異質の文章が記述されていた。……どうやら、それが例の詩人の詩であるらしかった。 

 

「あなたが受け取った詩集はスカスカで、残っている詩は一篇しかありませんでした。詩集を開いたあなたは、それを読んでみることにしました。 

 

 

     空にいるから 

 

 

  「空にいるから」と呟いて 

   君はその姿を消した 

   屋上に残った白光(ひかり) 

   ぽっかりと浮かぶ入道雲 

 

 

  「空にいるから」と呟いて 

   君がまた姿を隠した 

   柔らかな夢の残滓 

   うす寒い夜明けの空気 

 

 

   あなたは どこにいるのだ 

平凡な昼下がり 

   夢の形が紛れ込む 

   爆発した虹の破片(かけら) 

   僕に向かって降り注ぎ 

   曖昧な脳に喰い込んで…… 

 

 

 「空にいるから」と呟いて

  僕も空へと飛び立った

  あの雲を越えようとし

  間抜けな足が 空を切った

                」

 

……

…………

これが、その詩人の詩らしい。

訳はわからないが、僕は少し肩透かしを食った気分だった。「幻魔怪奇詩集」などというおどろおどろしい名前や、ピエールが散々脅かしてきたせいでもっと凶悪なものを想像していたのだが、案外普通に思える。明るくもないが、特に禍々しいわけでもない。

 

「詩集を受け取ったあなたは親友に別れを告げて、その部屋を出ました。先の分岐点に戻ります。……196へ」

 

どうやら無事に乗り越えたらしい。重要そうなアイテムを手に入れて、やるべきことも明らかになって、僕は少し満足していた。このおかしな本も、思っていたよりまっとうな一面があったのだ……。

少し浮かれていた僕は、その時ふと例の「177」のことを思い出した。散々ピエールに蹴りつけるか、或いは松明を押し当てるという些か残酷な真似をすることによって到達することのできるパラグラフ。先ほどは不気味に思えたせいで見るつもりにはなれなかったが、思い出してみると無性に気になる。

一体どうなるのか、ピエールがどんな態度を取るのか、好奇心が抑えきれない。

結局、僕は好奇心に負けて、「177」を開いてしまった。

 

 

……

…………

……………………

……僕はチラッとその挿絵を見ただけで、すぐにその頁を閉じてしまった。ほんの短い間だけ眼にしたその挿絵には、奇怪なヒヨコ人間の姿と、そのヒヨコ人間にクチャクチャと喰われている、グロテスクな死体が描かれていた。……細密に、おぞましく。

……僕は見たのを後悔した。ヒヨコ人間は、やはりグロテスクで醜悪な、人外の化け物だったのだ。(クチャクチャ

 

気を取り直した僕は、指示通り「196」へと進んだ。場面は先の分かれ道に戻ったようだ。今回は死ななかったため、一番最初の場面に戻されるということはないようだった。

 

「  196

 

ピィちゃんと別れたあなたは、前の分かれ道まで戻りました。

あなたはさらに奥へと足を進めました」

 

先ほど行かなかった方の、左の道を進むというわけだ。こちらが、ちゃんと奥へと続く道であればいいが……。

 

「しばらく歩いていると、また道が分かれています。

 どちらに進みますか?

 

  右の道……222へ

  左の道……254へ」

 

……また分かれ道か。多少うんざりしてきたが、しかしこれは奥へと順調に進んでいるということだと思い直した。ピエールの部屋では重要そうなアイテムも手に入れたし、進展していると言える。

さて、どちらに進もう?

先の分かれ道では、左右に分かれた道のうち右を選んで、ヒヨコ人間の部屋に出た。また右を選ぶことには、何かいやな予感がするが……。

僕は右の道へ進むことにした。

 

「  222

 

 あなたは右の道を選びました。

 暫く歩いていると、少し広い空間に出ました。

隅には藁が敷き詰めてあります。それはどうやら、動物の寝床のようです。

あなたは、ここが動物の巣であることに気が付きました。

 その動物は、あなたに話しかけてきました。

 あなたに声を掛けてきたのは、どんな動物ですか?

 

   身の丈三メートルの白蛇……162へ

   唸り声を上げる紅い獅子…… 41へ

   人間の頭を持つ牛   ……232へ」

 

人間の頭を持つ牛?気味が悪いな……。

……それにしても。この選択肢を見たとき、僕は引っかかるものを感じた。これは、やはり何かに似ている。……そうだ。これは、まるで心理テストのようではないか?

最初から、この雰囲気が何かに似ていると思っていたが、その正体がようやくわかった。これは、心理テストの本とそっくりなのだ。丁寧語で書かれた、二人称の文。唐突な舞台設定に、提示される選択肢……。違うのは、心理テストでは設問の後に心理分析の結果が載っているのに、これにはそれがないということだ。

そのことに気付いたことで、僕はこの本から感じていた得体の知れない不気味な雰囲気にも、漸く得心がいった。……というのも、僕は心理テストの本を読んでいる時、なんとなく薄気味悪さを感じることがあったのだ。まるで、催眠術をかけられているかのような気分がして……。自分の精神の奥深くまで踏み入って、忘れていた過去を引きずり出されているような、無理やり自分の心の闇を、薄汚い部分を見させられるような。……この本の底に流れている陰鬱さは、それと全く同じなのだ。

だが、だからといって、これが心理テストの本であるとも思えない。ゲームブックもそうだが、本屋に並んでいるような手軽な心理テストの本が出たのも、それほど昔の話ではないはずだ。……でも、もしこれが、心理テストだったとしたら……これは、何を診断する問題なのだろう……?

まあ、それはいい。それより、設問はどうするべきか。これまでの経験からして、この本では簡単にゲームオーバーになってしまう。今回の設問を見ても、選ぶ動物が外れならあっさりと殺されるであろうことが目に見えている。……そして、いくら本の中の出来事とはいえ、死ぬ場面を読むのはやはり薄気味が悪い。

……そういえば、今は何時だろう?ふと、そんなことが気になった。思い立って本から顔を上げてみると、いつしか部屋の中はまた少し薄暗くなっていた。

日が、暮れかけているのかもしれない。窓の外を見ても……やはり景色は見えないが、少し暗くなっているのはわかる。

明かりをつけようか。そう思ったが、やめた。まだ、それほど暗いわけでははない。……それに、明るい蛍光灯の下で、この本を読むのは合わない気がする。せっかく、こんなおかしな本を読んでいるのだから、雰囲気は大事にしたい。また、本に目を落とす。

……さて、どうする?

獅子は論外だ。殺されるのが目に見えている。……いや、あからさまに危険そうだから、却ってその方が安全かもしれない。……駄目だ。そう考えることを見越して、やはり罠を仕掛けている可能性もある。見事罠にかかって、馬鹿にされるような気がする……。もしそうだったら、悔しすぎる。

蛇はどうだろう?獅子に比べて、蛇には凶暴そうなイメージはない。白い蛇というのはどこか神秘的な印象がある。……だが、三メートルというその大きさがひっかかる。それに、やはり蛇というのが引っかかる。蛇にはどこか、狡猾な印象がある。

……最後の選択肢。人間の顔を持った牛。不気味といえば、他の二つよりも余程不気味だ。人面犬ならぬ、人面牛ということか。

だが、危険性という観点からすれば、人面牛はそれほど危険には思えない。人間の顔を持っていても、牛であることには変わりはないのだから。……よくよく考えてみると、人面牛に殺されるという図が、どうしても想像できないことに僕は気付いた。それもその筈、他の二つの動物に比べ、牛には攻撃手段がないではないか。

そうしたわけで、僕は人面牛を選ぶことにした。

 

「  232

 

 あなたに声を掛けてきたのは、一頭の牛でした。その牛は、人間の顔を持っています。

 牛は部屋の真ん中から、あなたをじっと見つめています」

 

今度はちゃんと挿絵が付いていた。画面の中央に、異形の牛が静かに佇んでいる絵だ。ずんぐりとした牛の白い体に、確かに人間の顔が生えている。

牛の胴体は横向きに描かれていて、しかしその人間の顔は、まっすぐにこちらを向いていた。その顔が妙にリアルなので、僕はまるで、絵の中からこの牛に見つめられているように感じられて、なんとも気味の悪い思いをした。

その顔は若い男のようにも見えたし、見ようによっては女のようにも、老人のようにも見えた。何もかもを見透かすような、静かな瞳が印象に残る。牛の胴体から生えているという異常な状態であるにも拘らず、そのことについて全く頓着しているようには見えない。まるで冗談のような姿なのに、その顔はまるで聖者のようで、悟りきったような表情を浮かべている……。

「その動物は、あなたに話しかけてきました。 

 

 (くだん)  「おや、また来たのかね」 

 あなた「また?何のことだ」 

 件  「ああ……そうだったな。君に言っても無駄なのだった」 

 あなた「何を言っているんだ?あんた、僕を知っているのか」 

 件  「知っているとも言える。だが、知らないとも言えるな」 

 あなた「わけのわからないことを言わないでくれ」 

 件  「私は本当のことを言っているのだが」 

 あなた「いいから答えろ。あんたは誰なんだ?そして僕は、この僕は一体何者なんだ?」 

 件  「君は君だ。私はそれしか言えないし、実際それが全てなのだ」 

 あなた「答えになっていない」 

 件  「これ以上、私に言えることはない。不服ならここから出て行きたまえ」 

 あなた「お前……いい加減にしないと……」 

 件  「しないと?」 

 あなた「ウッ!…………」 

 件  「しないと?」 

 あなた「    」 

 件  「いい加減にしないと、どうするというのだね?」 

 あなた「……すみませんでした……」 

 件  「君は懲りない男だね」 

 あなた「……どうか、教えてください。このままでは、頭がどうにかなってしまいそうで……。わからないんです。一体どうして、自分がこんな目に遭っているのか……」

 件  「自業自得だ」

 あなた「……え……」

 件  「全ての事象には、必ずその原因がある。君が今、こうして此処に来ていることにも」

 あなた「…………」

 件  「わかるかね?」

 あなた「……わかりません」

 件  「ここは、人の思いの行き着く場所だ。君がどうなるかも、君次第。それを努々忘れてはならない」

 あなた「……はい」

 件  「ここには様々な者がいるし、日々様々なことが起きている。それをうまく利用すれば、君の望みが叶う日も、いつかは来るかもしれない」

 あなた「本当ですか?」

 件  「君次第だ。言っただろう、全ては君の選択次第だ」

 あなた「なんだか桃の匂いがする」

 件  「君は、私の話を聞いていないね」

 あなた「ニカラグアの出身です」

 件  「君の虚言にはうんざりするよ」

 あなた「二度と帰れない旅に出たい」

 件  「行ってきたまえ。そして二度と帰ってくるな」

 あなた「まあ、そう仰らずに……」

 件  「ようやく正気に戻ったようだ」

 あなた「…………あっ」

 件  「どうしたね?」

 あなた「いえ……なんでも……」

 件  「そうかね?なにか気付いたのではないかね?」

あなた「はい……いえ……やはり、まだ……」

件  「いいだろう。では、ここから出る方法を教えてやろう」

 あなた「えッ?よろしいのですか?」

 件  「まあ、構わんだろう」

 あなた「ありがとうございます!」

 件  「よし。では、紙と筆を出しなさい」

 あなた「え?」

 件  「紙と筆だ。私に会いに来た以上、当然持ってきたのだろうね?」

 

あなたは懸命に身体中を探りました。しかしいくら探しても、持っていない物は持っていないのです。

 

 件  「おや。持っていないのかね?」

 あなた「その…………」

 件  「本当に持っていないのかね?」

 あなた「はい……持っていると思ったのですが……」

 件  「ああ……それは残念だ」

 

その動物は、本当に気の毒そうな顔をしました。

 

「それは残念だ」

 

あなたは死んでしまいました。

 

287へ」

 

……また死んでしまった。ようやくまともなストーリーになると思ったのに……。

わけのわからない人面牛と交わした、わけのわからない会話。結局、何も知ることができなかった。……会話の選択肢くらい、用意しておいてくれればいいものを、これでは何にもならない。

結局、この道も外れだったと言うことだろうか?しかし、この得体の知れない動物は、何も有益なものはもたらさなかったものの、外に出る方法を知っていると言っていた。……それは何となく、重要なことであるように思える。なぜ紙と筆が必要なのかわからないが、それさえあれば、脱出できるということだろうか。一応、覚えておくことにしよう。

それにしても、今回の死に方は奇妙だった。どうして死んでしまったのか、その理由が抜け落ちている。この牛に殺されたということは、間違いないのだろうが……。

それにしても、また僕は死んでしまった。これでもう、二回も死んでしまったというわけだ。

……二回?二回だったよな……?

僕はこれまでのことを思い出そうとしたが、なぜだかうまく行かなかった。よくわからないが、なんだか頭がぼんやりする。……何か、忘れているような気がするが……。

ゲームでは、一定回数を超えたらゲームオーバーになってしまう。あるいは何度でもやり直しができる代わり、その回数によって点数が付けられたり、評価が下がったりするのだ。このゲームは、どちらのタイプなのだろう?

……いや。僕は苦笑した。何を考えているのだ、僕は?これは本なのだから、何度でもやり直しはできるのだと、さっき考えたばかりではないか。気に入らなければ、前の場面に戻ればいいだけなのだから……。

 

「  287

 

あなたは暗い洞窟の中を、ランプの明かりを頼りに歩いています。

 道が三つに分かれています。

 どの道を行きますか?

 

   右の道  …… 511へ

   真ん中の道……1050へ

   左の道  …… 1006へ」

 

最初の場面だ。

既に正解はわかっている。右の道が正解だ。最初に右の道を選んで、後はヒヨコ人間や、あのおかしな人面牛の部屋ではないほうに進めばいい。そうすれば今まで行った事のない奥まで行けるはずだ。

だがその時、僕はまだ左の道には行っていないことに気がついた。すると、俄然左の道が気になりはじめた。……左の道を行くと、何があるのだろう?

また、罠かもしれない。思わせぶりで、そのくせ何の得にもならず、理不尽に殺されるだけかもしれない。それなら、先に進んだ方がいい。……だが、気になる。どうしても気になってしまう……。もし右の道が結局は行き止まりで、本当は左の道こそが正解だったらどうする?

……いや。いくらなんでも、それはないだろう。右の道があれほど奥へと通じている以上、左が正解ということはないはずだ。もしそうだとすれば、あまりにも道が複雑すぎて、到底覚えきれなくなってしまう。……左の道は、やはり罠だと考えるべきだろう。

……いや、それでも行ってみるべきか?どうせ、何度でもやり直しはできるのだ。いつまでも気に掛かってしまう位なら、面倒でも一つずつ可能性を潰しておいたほうがいい。……結局、僕は左の道を調べておくことにした。

僕という人間は、いつもそうなのだ。テレビゲームのRPGでも、ダンジョンなんかに入った時は、必ず全ての道を確認してみなければ気がすまない。全ての道を確かめる前にクリアしてしまいそうになると、わざわざ引き返してまで確認に行く。攻略上の必要がなくても、どうせ何もありはしないのだとわかってはいても、なにか特殊なアイテムを見落としているのではないか、などと思うと、気になって仕方がないのだ。

勿論、そんな面倒なことを、好き好んでしているわけではない。時間の無駄だと思いながら、嫌々やっているのだ。息抜きのためにゲームをしているのに、むしろストレスを溜めて……。

自分自身に辟易しながら、僕は左の道を選んだ。

 

「  1006

 

 あなたは左の道を選びました。

 しばらく歩いていると、洞窟の先にぼんやりとした明かりが見えてきました。

 その明かりの中に、何かが浮かび上がっています。

それは、小さな祠でした。

木製の、粗末な古い祠です。

小さな扉の前には、なぜか古い日本人形が供えてあります。

 あなたは、祠の扉の中を覗き込みました。

 何かがきらきらと光っています。

 あなたは、中にある物を確かめたいと思っています。しかし、中を調べるためには、人形をどかさなくていけません。

 人形をどかして、中を調べますか?

 

   はい ………1191へ

   いいえ………1242へ」

 

あからさまに怪しい。触った途端に襲い掛かってくるような気がする。充分にありえる話だ。こんな怪しげな場所に供えられた、不気味な日本人形。どう考えても、罠としか思えない。

だが、調べてみなければ気になって仕方がない。無駄だと思いながらも、こうやって足を運んだのだから。その甲斐あって、なにか重要そうなものが、手に入りそうなのに。

僕は、試しに「はい」を選んでみた。

 

「  1242

 

 祠に近づき、その古い人形を手に取ったあなたは、それを放り投げました。

 

真由美ちゃん「どうしてこんなことするの?」

 

 あなたは祠を開きました。すると眩い光が中から溢れ出し、辺りを照らし出しました。祠の中には、美しい輝きを放つ白い宝玉が祀られています。

 あなたは「宝玉」を手に入れました。

 これを持っていれば、どんな罠にかかっても痛みを感じることはありません。

あなたは大事に玉をしまいました。

 その時、あなたは自分を見つめる視線に気付きました。なんだろうと思って見回すと、床に落ちた人形があなたをじっと見ていたのです。

 

 真由美ちゃん「うふふふふ」

 

 薄気味悪いと思ったあなたは、人形を拾い上げ、その首をもぎ取ってしまいました。

「これでゆっくり寝られるだろう?」

 

         1508へ」

本当に気味の悪い人形だ。いい気味だ。 

だがまあ、もう危険はなさそうなので僕は安心していた。だって、首をもぎ取ったのだから。もう告げ口もできないだろう。 

そんなおかしな人形など気にならないほど、僕は上機嫌だった。 

大して期待などしていなかったというのに、重要そうなアイテムを手に入れることができた。僕がゲームをしていて、してやったりと思うのはこういう時だ。引き返してみても成果がなければ腹が立つが、貴重なアイテムが手に入ると嬉しくて堪らない。所詮は、ゲームなのだとわかってはいても。 

それにしても、この宝玉とやらは一体何の役に立つのだろう?それは、少し不思議に思った。罠にかかっても痛みを感じないと言われても、これは本なのだから痛みなど感じないのは当然だ。本の中の主人公が罠にかかっても、現実にいる僕は痛くも痒くもない。本の中の登場人物は、もとより痛みなど感じない。この玉がなければ攻略できない場所があると、そういうことなのだろうか? 

まあいい。僕は気にしないことにした。きっと、どこかで役に立つのだろう。 

……その時、僕は誰かからの視線を感じた。まさか……。そんなはずはない。この部屋には、僕しかいないのだ。……そう思いながらも脳裏にはすでに、見も知らぬ少女の姿が浮かび上がっている 

……僕はゆっくりと、本から顔を上げた。 

いつのまにか夕暮時になっていたようで、窓の磨りガラスには僅かに夕陽の赤が滲んでいる。 

その赤い光も、しかし既に半分消えかけている。 

もう、夕方か……。多少の驚きを感じながら、僕は部屋を見回した。部屋の中も、かなり暗くなっている。 

……僕はぎくりとした。薄暗い部屋の隅に、何か小さなものが転がっているのを、見たような気がして……。そう……人形の、首のような。 

……何も、ない。 

部屋のどこを見回しても、おかしな物など見当たらない。部屋の中には僕しかいない。僕とこの本以外は何もない。変わらない、さっきと同じ、白くて狭いだけの部屋……。 

本を手に、僕は窓へと近づいた。開けるためではない。そちらの方が明るいからだ。 

……そう言えば、あれからあの音が聞こえない。あの工場の作業音。今日の操業はもう、終わったのだろうか。部屋の中にはもう、何の音も存在しない。……いや。どこか遠くで、小さな声が聞こえている。……それはカラスの鳴く声だった。誰かに呼びかけているような、どことなく寂しげで、郷愁を誘う啼き声……。僕の知らない、どこか、遠くで……。 

僕は少し、このおかしな本にのめり込み過ぎているのかもしれない。本の中の人形が、現実に出て来るかも知れないと、本気で怯えるなんて。……だが、今さら止めようとは思わない。この本を読み終えるまで、僕は他のことには一切手が付かないだろう。 

続きを読もう。また、続きを……。 

 

「  1508 

 

 あなたは左の道引き返し、最初の分岐点に戻ってきました。 

 どちらの道に進みますか? 

 

 右の道  ……2056へ 

 真ん中の道……1337へ」 

 

僕はもちろん右の道を選んだ。真ん中の道へ行っても無駄だ。 

……それにしても。僕は改めて思った。左の道に行っておいて本当によかった。貴重そうなアイテムを手に入れることができたし、おかしな化物が出てくる事もなかった。何より、おかしな死に方をすることもなかった。延々と死に続けるだけでは、いくらなんでも気が滅入ってしまう。 

こうなってくると、結末がどうなっているのか一層興味が湧いてきた。このB級的な味わいが、なんとも言えない。……このおかしな本には、一体どんな結末が待っているのだろう? そう思うと楽しみだ。おかしな本だからこそ、普通の本では考えられないような、そんなおかしな結末が待っているのに違いない……。 

 

「  2056 

 

 右の道は壁から水が滲みだして、地面も濡れています。あなたは滑らないように気をつけて歩かなくてはなりません。

 三十分ほど歩いていると、また道が分かれていました。

 どちらに進みますか?

 

 右の道……2849へ

 左の道……1443へ」

 

右の道は、あの奇妙なヒヨコ人間ピエール・ロティがいる部屋だったはずだ。既に一度行ったことがあるのだから、そちらに行っても仕方がない。

勿論、左の道を選ぶ。

 

「  1443

 

 あなたは左の道を歩いています。

 しばらく歩いていると、道が左右に分かれています。

 どちらに進みますか?

 

 右の道……2542へ

 左の道……2217へ」

 

……ここまでが、さっき通った道だ。ここで右の道を選ぶと、あのおかしな人面牛のところに行ってしまう。

それにしても、本当にあの部屋は何だったのだろう?あの化物は?……あの思わせぶりな会話は?

まあいい。僕は気にするのを止めた。どうせ意味などないだろう。

左の道を選ぶ。この道こそが、奥へと通じているはずだ。

少し胸が弾むのを感じた。ここから先は、まだ足を踏み入れたことのない、未知の領域なのだ。

 

「  2217

 

あなたは左の道を歩いています。

しばらく進んだところで、あなたはお地蔵様を見つけました。

小さなお地蔵様が、道の脇に佇んでいます。

ただよく見ると、そのお地蔵様には首がありません。

あなたは首が落ちていないか、辺りを探してみました。しかし、見つけることはできません。

あなたは諦めて、先へ進むことにしました。

 

そうして歩いていると、今度は何かが落ちています。近づいてみると、それはラジオのようです。壊れかけていましたが、あなたがあちこち弄っていると……

 

「……ザ…………ザザ…………」

 

音は出るようです。さらに色々弄っていると、誰かの声が聞こえてきました。

 

「……きこ……える…………?……私よ……私……あなたの……ザザ……ブッ……」

そこに別の声が割り込んできました

 

「……残念でした…………時間切れ…………」

 

あなたはスイッチを切りました。

「お前はいつもそうだ!」

 

プツン。

 

また歩いていると、道端に花が咲いています。あなたが今までにみたことがない花です。

それは小さな黒い花でした。「こんなところにこんな可憐な花が咲いているなんて」と、あなたは感動します。

あなたは思わずその花を摘んでしまいました。すると花はたちまち萎れてしまい、ついには枯れてしまいました。

耳を澄ませてみると、花たちがあなたに話しかける声が聞こえてきました。

 

「あなたひどいわ。かわいそう、あの子」

「お前は呪われた。二度とここから出られない」

「ありがとう!これでようやく私は死ねるわ」

「私のこと……覚えてる?」

 

 さらに先へ進むと、そこは行き止まりでした

諦められないあなたが辺りを調べていると、隠されていたボタンを見つけ出すことができました。

 ボタンは三つあります。

 どれを押しますか?

 

  赤いボタン……3542へ

  青いボタン……777へ

  黄のボタン……2702へ」

 

赤、青、黄か……。考えていても仕方がない。僕は青いボタンを押すことにした。

 

「 777

 

 おめでとうございます!あなたは、見事ここまでたどり着くことができました!ここで終了です。お疲れ様でした」

 

……なんだって?ここで終わり?

そんなことがあっていいはずがない。何一つわかっていないのに。これでは、ただ洞窟内をうろついていただけじゃないか……。詩集の『ドグマ・カルマ』だって何の進展もないままだ。

ここで終わりなんて、人を馬鹿にするにも程がある。

僕は前の選択肢に戻り、今度は赤いボタンを選んだ。

 

「  3542

 

 あなたは赤いボタンを押しました。

「カチッ」という軽い音が響き、次いで地面が揺れ始めました。驚いたあなたが見守っていると、なんと地面に穴が開き始め、下へと続く階段が現れました。階段を覗き込んでも、底には闇が広がっているばかりです。

 あなたは、勇気を出して下りることにしました」

 

そうこなくっちゃ……。まだまだ続いてもらわないと……。

次ページには例によって、あの挿絵が描かれている。地面にぽっかりと口を開けた階段が……。僕を、底暗い闇へと誘う階段が。それを見た僕は、まるでこのまま、地獄の底まで下ってゆくような気持ちになる。

 

「あなたはゆっくりと、慎重に狭い階段を下りています。そうするうちに、不意に幼い頃のことを思い出しました。

 その夜、まだ子供だったあなたは不意に目を覚ましました。いつもならそんなことはありません。どうして起きてしまったのか、あなた自身にもわかりませんでした。ただどうしようもなく恐い夢を見てしまったような、漠然とした記憶があるだけです。何かに追い立てられるような、見てはいけない物を見てしまったような……。そんな、得体のしれない恐怖感ばかりが残っています。

ふと気付くと、あなたは暗い部屋に一人きりです。いつもは、必ず誰かが一緒に寝てくれているのに……。そこであなたは思い出しました。今日は珍しく来客があって、大人たちは皆お酒を飲んで騒いでいたのです。その若い男の人はとても優しくて、あなたもまるでお兄さんができたようでわくわくしました。……けれど、夜も更けて眠くなったあなたは、祖母に連れられて二階に寝かしつけられたのでした。 

 皆、まだ起きているのでしょうか?祖母は、自分を寝かしつけた後、また戻ってしまったのでしょうか?辺りはシンと静まり返って、何も見えない暗闇の中にカチカチ、カチカチという置時計の音が響くばかり。……あなたは、心細くて泣き出したくなりました。得体の知れないものが、この部屋のどこかで、自分をじっと見ているような気がするのです。夢の中に出た恐ろしいものが、すぐ後ろから自分を見つめていて、今にも襲い掛かってくるようで……。 

 怖くなったあなたは、下に降りてみることにしました。 

部屋を出ても、辺りは暗く、物音の一つも聞こえません。皆、もう寝てしまったのでしょうか?下の部屋で、皆は寝ているのでしょうか? 

真っ暗な家の中は普段見慣れたものとはまるで違ったものに見えて、あなたは別世界に迷い込んだように心許ない気がしました。この家には、もう誰もいないのではないか、皆で僕を置いて出て行ってしまったのではないか。そんなはずはないとわかっていても、そう考えると怖くてたまらなくなります。あなたは、思わず泣き出しそうになりました。 

やっとの思いで階段にたどり着いても、やはり下からは何も聞こえてはきません。階段の下は明かりもなく、不気味な暗闇が覗いているばかり。いつも見ている階段も、それはまるで不気味な異世界に通じているように思えます。……それでも、立ち止まっていると怪物に追いつかれそうな気がするので、あなたは恐る恐る、細い階段を降り始めました。 

 辺りは暗く、自分の足元しか見えません。あなたは慎重に、一段一段下りて行きます。今にも暗闇に呑みこまれるような恐怖を押し殺し、何かが背後にいるような、そんな予感に怯えながら……。古い木の板に足を踏み出す度に鳴る、悲鳴のような音にゾッとしながら……。 

 ……すると、下から、なにか物音が聞こえたような気がしました。耳を澄ませてみると、押し殺した声で、誰かが話をしているようです。よかった、やっぱり、まだ皆起きているんだ。あなたはすっかり安心して…… 

 …………………… 

 

 ……洞窟の中の階段を下りたあなたは、物思いから覚めました。目の前には扉があります。外の様子を窺った後、あなたは慎重に扉を開きました。 

 警戒していたような襲撃はなく、あなたは無事に扉の外へ出ることができました。目の前には、上の階と同じような通路がまっすぐに延びていて、その先は暗闇の中に消えています。 

 あなたはゆっくりと歩き出しました。 

 ザッザッ……ザッザッ……。 

 足音が洞窟内に反響します。 

 あなたはふと思いついて、足を止めてみました。

 ザッザ…………ザ…………。

 あなたの足音に一瞬遅れて、足音が聞こえたような気がしました。

 振り返ってみても、そこには誰もいません。

 先ほど出てきた扉が、ぼんやりと遠くに見えるだけです。

 扉は開け放されています。あなたは首を傾げました。ちゃんと扉は閉めたはずです。思い違いで、閉めていなかったのか……。それとも……誰かが開けたのか?

 しかし辺りには、やはり誰もいません。

 恐くなったあなたは、走り出しました。タッタッタ……タッタッタ……。その足音にも、こころなしか、別の足音が混じっているような気がします。あなたは夢中で走り続けます。

タッタッタ……タッタッタ……。

 タッタッタ……タッタッタ……。

……そうして必死に駆けていたあなたは、突然広い空間に出ました。

 そこは横に細長い広間になっており、壁には松明が架かっています。おかげで、部屋の全体を見回すことができました。あなたは不思議に思いました。

松明?誰がそんなものを用意したのだろう、と……。

入り口の向かいの壁には細い穴が等間隔に六つ並んでいて、それぞれが奥に向かって続いています。扉はなく、奥にはただ、深い闇が広がっているばかり……。

 それぞれの道の上には、一から六まで番号が彫られています。

 

 どの道を選びますか?

 

   一の道……2879へ

   二の道……2883へ

   三の道……2889へ

   四の道……2901へ

   五の道……2908へ

   六の道……2915へ」

 

六本の道か……。いきなり数が増えた。いよいよ、佳境ということだろうか?この道の内、一本だけが正解、ということなのだろうか。そして、残りは全部外れなのか……?

あるいは、さっきのようにアイテムがあるのかもしれない。これまでの道にあった首のない地蔵だの、ラジオだのといった思わせぶりなものも気になる……。

手掛りは何もない。考えていても仕方がない。やはり最初は、勘で決めるしかないだろう。確立は六分の一。

僕は五の道を選んだ。

 

「  2908

 

 あなたは五の道を歩いています。

その道は、ひどく細い道になっていました。あなたは身体をぶつけないように、気をつけて歩かなくてはなりません。

突然、目の前に人影が現われたので、あなたはとても驚きました。恐る恐る松明をかざしたあなたは、そこに鏡台が置いてあることに気がつきました。人影だと思ったものは、鏡に映ったあなた自身の姿だったのです。

すっかり安心したあなたは、その鏡を覗き込みました。そして、思わず息を呑みました。

 不思議なことに、鏡の中にはあなたの子供の頃の姿が映っていたのです。あなたの傍らには、子供の頃によく遊んでくれた人がいて、幼いあなたに絵本を読んでくれています。

 

 その人は誰ですか?

 

   叔父   ……11298へ

   祖父   …… 3542へ

 年の離れた兄 ……66626へ

 父の弟子   …… 6809へ

 近所のおじさん……54999へ」

 

……この質問に何の意味があるんだ?とてもゲームブックとは思えない。これではまるっきり、心理テストだ。

心理テストには、このような設問がよくある。ある特定の状況を設定して、その時誰を思い浮かべたか、と読者に尋ねるテストだ。そしてそのテストの結果で、その思い浮かんだ人物について、自分がどう思っているかわかるというものだが……。

……これは、まるでその心理テストそのものではないか。こんなものを選ばせて、どうなるというのだろう?そこに列挙された人物が、洞窟探検と何の関わりがあるというのだ……?

戸惑いながらも僕は、なんとなく思い浮かんだ「父の弟子」という選択肢を選んでみた。

……そして開いた「6809」を見て、僕は目を疑った。

 

「 6809

 

 それは、あなたのお父さんのお弟子さんでした。子供の頃のあなたは、その人によく懐いています。

さて、その人はあなたに絵本を読んであげながら、どんなことを考えていると思いますか?

 

「この子の眼はとても綺麗だ」    …… 5022へ

「この仔の首は今にも折れそうだ」  …… 5025へ

 「こいつは去年死んだはずなのに」  …… 6225へ

「俺は騙されない。お前は妹を殺し」 ……47410へ

 「僕が君のお父さんなんだよ」    ……11155へ」

 

…………

何なのだ……これは?

わからない。わけがわからない。一体何の意味がある?この、不気味な選択肢は何なんだ?

この設問から僕は何かたまらなく厭わしい、忌まわしいものを感じとった。この設問は、それまでとは違う、何者かの悪意を感じる。

僕は怖くなり、前の設問に戻ろうとした。そして、自分の失敗に気付いて舌打ちした。取り乱していた僕は、前の設問のページに挿んでおいた指を、いつのまにか抜いてしまっていたのだ。

これでは、どこを開けばいいのかわからない。前のパラグラフを示す数字も、はっきりとは覚えていない。……ここまで来てかなり数字の桁が大きくなり、しかも数字が入り乱れているので、当てずっぽうで探して見つけ出せるとも思えない。

……このまま進めるしかないのだ。諦めるしかなかった。ここまで来るための手間を思えば、最初からやり直すことはいくらなんでも面倒過ぎる。

どれを選べばいい?……しかし正直言って、どの選択肢も不気味に思える。とりわけ、最後の選択肢がこの上なく厭だった。なぜか知らないが、気持ち悪い。気持ち悪い。生理的に受け付けない。気持ち悪い。気持ち悪い……。

……それなのに。どうして僕は、最後の選択肢を選んでしまうのだろう?自分でもわからなかった。どうしてもわからない。それなのに、選ばずにいられない……。

 

「  11165

 

 鏡の中のまだ小さな頃のあなたが、突然あなたの方を向いて言いました。

 「一緒に遊ぼうよ」

 その人も言いました。

 「それはいい。君もこっちに来なさい」

 あなたも言いました。

 「いま、参ります」

 あなたの魂は鏡の中に呑みこまれてしまいました。そして、もう戻っては来れませんでした。

 

   最初に戻る……37664へ」

 

……僕は呆然とその頁を見ていた。挿絵が付いていて、それには鏡に呑み込まれつつある人間の姿が描かれている。不気味なのは、その鏡の背景になっている暗闇に、無数の目が描かれていることだった。

……わけがわからない。わけがわからないのは今までにも散々あったが、しかし今回の悪夢に、僕はこれまでにない嫌悪感を覚えていた。

 

僕は37664を開いた。そこには、いい加減うんざりしてくるように何度も繰り返した、最初の場面の記述がある……。

……最初の場面?

その時になって、ようやく僕は疑問を覚えた。本来なら、とっくの昔に気付いていたはずのことに。気付いて当たり前の事実に……。

僕は「37664」を開いている

 

「  37664 

 

 あなたは、ランプの明かりを頼りに暗い洞窟の中を歩いています。 

 しばらく歩いていると、道が三つに分かれています。 

 どの道を選びますか? 

 

 右の道  ……32242へ 

 真ん中の道……43781へ 

 左の道  ……1867へ」 

 

この記述自体は、たしかに一番最初の場面の説明だ。ランプの明かりを頼りに進み、最初の分岐点に出る。道は三つに分かれている。道が三つに分かれているのは、一番最初だけなのだから、それはわかる。 

だが、数字が全然違う。いくらなんでも、数字が大きすぎる。これは最初の選択肢だ。たしかに最初の場面に戻っているのに。最初の場面なら、数字は当然「1」になっているはずなのに。

……本当に、そうだったろうか?なんだか頭がぼんやりする。……最初。最初の選択肢は、この三択だったか?その前に、なにかなかったか?

……駄目だ。思い出せない。

僕は、自分の記憶が信じられなくなってきた。

どうして僕は今まで、こんな簡単なことに気がつかなかったのだろう?明らかにおかしな事態なのに。今回は洞窟のかなり奥まで進むことができたが、今までは進んでは死んでやり直し、を繰り返してきたのだ。その度に僕は、最初の場面に戻っていたはずだ。……それなのに、数字はいつのまにこんなにも膨れ上がっていたのだ?いつのまに一万を越えていた?……どう考えても、この数字は尋常とは思えない。

僕はいつの間にか、本のかなり後ろを開いている。そんなことも意識していなかった。いつのまにこんなに読み進んでいたのだ?

今までのやり直しも、実はそうだったのだろうか?僕は死ぬ度に最初の場面に戻っていた。……けれど、同じ最初の場面に戻っていたのではなく、ただそう思い込んでいただけで、本当は違うページを開いていたのか……?

ありえない。普通なら、こんなことはありえない。絶対に気がつくはずだ。それなのに僕は、全くおかしいとも思わず読み進めていた。それは僕が、この本にのめりこんでいたせいなのか?いつのまにか、冷静な判断を失ってしまうほどに夢中になっていたということなのか?

しばし呆然としていた僕は、また手の中の『ドグマ・カルマ』に視線を戻した。……どうして、別の場所から再開させる必要があるのだろう、と考えながら……。

罠にかかって死んだ読者にやり直しをさせたいのなら、単純に「1」から再開させればいいだけの話だ。「1」こそが紛れもなく最初の場面なのだから、死んだ者をわざわざ別の「最初の地点」へと導く必要はない。そんなことをすれば、一冊の本の中に無数の「最初の地点」を作らなければならなくなり、必然的にかなり分厚いものになってしまうだろう。……この本が、そうであるように。

わざわざそんな造りにしたのは何の為か?……もう、答えはわかっていた。読者に「リセット」させないためだ。それまでに読者が選んだ選択肢を、それまでの体験を抹消させず、以降の展開に反映指せるためなのだ。このゲームブックにおいては、一度どこかの部屋で死んで、「最初の」地点に戻った時、それは既に本当の意味での「最初」の状態ではなくなっている。一度死んだという事実が、その主人公に刻み込まれているのだ。僕がやり直す度に最初に戻ったつもりでいても、本の中の「僕」には「一度死んだ」という記録が、しっかりと付けられていた……。

……この本にはきっと、そうした無数の可能性の、全てが記されているのだ。最初の三叉路で、「僕」の運命は三つに枝分かれする。「最初に右の道を選んだ自分」と「最初に左の道を選んだ自分」は完全に別物となり、その後は決して交わることはない。このゲームブックの世界は、選択肢の度に際限なく枝分かれしていくことで、無数の並行世界を作り出している。……何度も繰り返す中で、僕は何回も「最初の場面」に立ち戻る。だが厳密には、その「最初の場面」はその度に異なっている。だからこそ、数字がどんどん膨れ上がる。だからこそ、この本はこんなに分厚い……。

……「37664」の「僕」は、既に何度も何度も死んでしまった僕だ。最初の部屋で死に、ヒヨコ人間から奇怪な詩集を貰い、人面牛にわけのわからない仕方で殺された僕だ。宝玉を手に入れるために人形を無慈悲に破壊し、先の部屋で不気味な鏡に呑み込まれた「僕」なのだ……。所詮ゲームブックなのだからと侮って、何度も何度もやり直せると、安易に死に続けた僕の分身…………。

僕は……僕は、何度やり直したのだろう?何度も何度も、死んだ気がする。

その時、僕は重大な問題に直面した。死んだ回数がカウントされているとしたら、やり直しの回数にも限りがあるのではないか?

充分ありうる話だった。そうでなければ、わざわざこんな煩雑な真似をするだろうか?信じられないほどの手間をかけて、こんな複雑なゲームブックを作るだろうか?……この本を造った人間は、まともな神経の持ち主ではない。僕は先に、この本の作者は粋な趣味人か酔狂な金持ちだと想像していたが、それは違う。これは、そんな生易しいものではない。この本を書いた作者は、間違いなく狂人だ。……絶対に、まともではない。

死がカウントされる。今までは何度でもやり直せると思っていたが、もうそんな楽観は許されない。次に死んだら、いきなりゲームオーバーを宣告されるかもしれない。……パラグラフの番号をいちいち記憶しておけば、前の選択肢に戻ることは可能だろう。……そのはずだが、どうも安心できない。この本を書いた作者、気違いじみた執念を持つ作者が、そんな姑息なまねを許すだろうか?こんな、常軌を逸した男が…………。

……いつまでも考えていても仕方がない。僕は選択肢に意識を戻した。

選ぶべきは、当然右の道だ。何回やり直しを重ねたとしても、この洞窟自体の構造は変わっていないのだから。

左の道では宝玉を手に入れたから、もう用はない。真ん中の道は最初に行って、もう無駄だとわかっている。どうやっても、謎の人物に殺されるしかない部屋……。

…………

……待てよ?

その時、脳裏に閃くものがあった。

そうとは限らないのではないか?最初、まだ一度もやり直していない一番最初に、僕は真ん中の道を選び、その先にあった部屋で問答無用で殺された。だが考えてみれば、今回もそうなるとは限らないのではないか?

なぜなら、今ここにいる「僕」は、何度も死んでやり直しを経験している「僕」なのだ。枝分かれした無数の可能性の、その先端にいる『僕』なのだ。その時点で、読み始めた頃の「僕」とは違う存在になっている。……つまりこの洞窟の内部において、時間経過が生じていると考えることが可能なのだ。

仮に、僕がいま左の道に行ったとしても、あの「宝玉」はもうないはずだ。既に、それを手に入れてしまっているのだから。……そう、テレビゲームと同じなのだ。せっかく無数に可能性が分岐しているのだから、そうした仕掛けがあっても不思議はない。……何より、普通では考えられないほどの手間と時間をかけてこの本を書いた作者が、気違いめいた執念を持つその人物が、そんな可能性を考え付かない方がおかしい……。

そう思うと、抑えきれない興味が湧いた。

もう一度、あの真ん中の道に行ってみたら……どうなる?

最初は、どの選択肢を選んでも、問答無用に殺されるだけだった。しかし今行ってみれば、ひょっとしたら違う展開が待っているかもしれない。……そう、思い出してみれば、あの部屋には思わせぶりな品物が随分とあったではないか。手掛りになりそうな本のたくさん詰まった本棚とか、いかにも怪しげな机の引き出しとか……。あれらは、本当に調べることができないのか?

そうではないのだ。きっと、あれらの品は、ちゃんと調べることができるのだ!そうでなければ……、そうでなければ、あの部屋は全く無意味な存在になってしまう。あんなにも意味ありげな品で溢れた、思わせぶりなあの部屋が……

僕はもう、好奇心を抑えることができなくなっていた。今まで散々振り回された、この『ドグマ・カルマ』という奇妙な書物、その異常性を、この目で確認してみたくて堪らなくなっていた。だから僕は、またしても、あの真ん中の道を行くことにした……。

 

「  43781

 

 あなたは、真ん中の道を歩いています。

 暗い道が不安を煽り、あなたはとても弱気になっています。

 気後れしながら歩いているうちに、あなたはもう扉の前に着いてしまいました。

頑丈な木の扉が、あなたの目の前に佇んでいます。

 あなたは迷いを振り払い、一つ大きく息を吐くと、絶対に音を立てないようにと気をつけながら、その扉を開きました。

  どこを調べますか?

 

   本棚 ……47410へ

   机  ……27779へ

   ベッド……66479へ」

 

当然、真っ先にベッドを調べなければならない。前回は、そこに謎の人物が座っていた。そして僕は、なに一つできずに殺されてしまったのだ……。

ここに奴がいなければ、それは即ち前回の展開とは異なっているるということになる。僕の想像した、このゲームブックの中に時間経過が生じているという仮説が証明されるのだ。

……僕は、我知らず震える指で、頁を繰った……。

 

「 66479

 

あなたは、真っ先にベッドを調べることにしました。一人用の、少し狭いベッドです。

そこにはだれもいません。

ベッドには何もないようです。

 

どうしますか?

 

 机を調べる …… 64221へ

 本棚を調べる…… 65801へ

部屋を出る ……100065へ」

 

……いない。ベッドには誰もいない。

やった!あまりの嬉しさに、僕は叫び出したくなった。たしかに、展開に変化が生じている!この本は、単純な繰り返しなどではないのだ。なんて、手が込んだ本だろう!

僕は『ドグマ・カルマ』を惚れ惚れと見つめた。……こんなゲームブックは、見たことも聞いたこともない。これは紛れもない、正真正銘の奇書なのだ!

この本を読む前に感じていた、説明のつかない高揚感を思い出した。この本には何か重要なことが書かれているという予感。これは僕にとって必要な本、そう、「僕のための本」なのだ、という、あの期待感。……その期待は、正しかったのだ。なぜならこの本のストーリーは、僕の選択によって無限に変化していくのだから。今ここまで読みすすめた本の中の「僕」は、まさしく僕の志向、性格に基づいて洞窟を歩き回ってきた、僕自身に他ならないのだ……!

一頻り興奮した僕は、再び本の世界に入った。

選択肢は三つある。そのうちの最後、「部屋を出る」という選択肢が僕の目に止まった。この選択肢は、たしか前にはなかった筈だ。

……前にはなかった選択肢。僕はその意味するものを考え、少し冷静になった。頭が冷え、新たな可能性を思いつき、慄然とする。

……そうだ。まだ、危機が去ったわけではないのだ。

僕を殺した犯人は、前回はベッドの上にいた。それが、今回はいない。それによって、僕は自分の仮説を証明することができた。……だが、まだそれだけでは、犯人がこの部屋にいないことの証明にはならないのだ。本の中に時間経過が存在しているのなら、今回の犯人は別の場所……例えば、机に向かっているということだって、充分にありうるのだから……。

……そう。今、この瞬間にも……

僕は慌てて頁を捲った。今すぐ、机を調べなければ!

「  64221 

 

 あなたは机を調べました。 

 机の前には誰もいません。 

 机の上には、書きかけの便箋が置かれています。 

引き出しがほんの僅かに開いています。 

 

どうしますか? 

 

引き出しを開ける……52432へ 

便箋を調べる  ……44712へ 

本棚を調べる  ……77239へ 

この部屋を出る ……8995へ」 

 

まだ安心はできない。ひょっとしたら、本棚の前にいるかもしれない! 

 

「  77239 

 

 あなたは本棚を調べました。 

 本棚の前には誰もいません。」 

  

……よかった……。 

僕はへたり込みそうになった。心の底から安堵を覚えた。今、この部屋には、奴はいないのだ……。 

これで何も心配することなく、部屋の探索に専念できる。 

 

「本棚には沢山の書物が並んでいます。 

あなたは本を一冊一冊調べましたが、読める本は僅かしかありません。 

その本のうち、あなたは 

『幻獣標本図鑑』 

を読むことにしました。 

その本には、世界中の幻獣が項目別に分類されており、それぞれに詳細な標本図と解説が付されています」 

 

やはり、本を調べることができる!前は調べられなかったのに! 

しかし、どうやら自分で読む本を選ぶことまではできないようだ。その点は少し残念だった。

……それにしても、幻獣についての本?なんで、そんな本を読もうとするのだ。洞窟探索に役立つとも思えないのに。

 

「その本の頁を捲っていたあなたは、「(くだん)」という項目に目を留めました。

 牛の身体に、人の顔を持った動物の写真と、その解剖図が載っています」

 

……(くだん)だって?思わず身を乗りだした。牛の身体に、人の顔……!それは、あの人面牛のことなのか?

 

「解説にはこう書かれてあります。

 

〈件。日本の幻獣。牛の身体に人の顔を持つ。天災や疫病などの世の中の大きな変革期の前に生まれ、これから起こることを予言すると言われている。

江戸時代になってから、全国各地で目撃例がある。大抵の場合、農民が飼育しているごく普通の牛から生まれてくる。飢饉や疫病などを予言し、予言した後は死んでしまう。『よって件の如し』という言葉は、件の予言したことが必ず当たることから生じた言葉である。

疫病の予言については、興味深い話がある。件は、予言を聞いたものに紙と筆を用意させ、自分の姿を描き写すことを要求する。件の写し絵を持っている限り疫病には罹らないから、他の者にも書き写してやれというのである。このため、江戸時代には版木で刷った件の絵がばら撒かれた。また明治時代にも件の目撃例があるが、それを報じた当時の新聞記事では、疑わしい話としながらも目撃者の描いた件の絵姿を転載している〉」

 

(くだん)……。僕は脳裏に、あの人面牛の姿を思い描いていていた。あの、わけのわからなかった動物。

全く思いがけず、あの化け物の正体を知ることができた。……それと同時に、あの時のやり取りの一部も理解することができた。紙と筆を用意しろというのはつまり、この言い伝えと関係があったというわけだ。

本棚の本を僕が自分で選んだわけでもないのに都合よく件の説明が出てきたというのも、やはり僕のそれまでの体験がこのパラグラフに反映されているからだろう。僕があの部屋で件と会っていなかったら、この説明は全く意味を成さなかったのだから……。

 

「あなたは本を閉じ、本棚に戻しました。

 その時、挟まっていた紙が二枚、床に落ちました。

 あなたはそれを拾いました。その紙には、どちらも詩のようなものが書かれています。

 

あなたは作品番号37番『しったかめったか』、25番『緑色の涙』を手に入れました。」

 

詩?……『ドグマ・カルマ』の詩片!

正直に言えば、その時の僕は詩集の存在を忘れかけていた。無理もないだろう。物語の序盤に手に入れてから、一度も見つからなかったのだから。しかし、やはり嬉しい。

次の頁には、その『しったかめったか』とかいう詩が見開きで載せられている。

 

 

   しったかめったか

 

   しったかめったか ボロ小屋で

   しったかめったか 生受けた

   しったかめったか 博士の子供

   いろんなことを  教わった

 

   しったかめったか 家を出た

   たったかたったか うろついた

   やたらめったら  口にして

   しったかしったか 囃された

 

   しったかめったか 捕まった

   めったやたらと  なぐられた

   めったかめったか なぐられて

   すたこらさっさ  逃げ出した

 

   しったかめったか 扉を開けた

   しったかめったか 細ぅく開けた

   しったかめったか 耳がいい

   とってもとっても おどろいた

 

   しったかしったか 知ったのか?

   しったかめったか うなずいた

   しったかめったか 気をつけろ

   しったかめったか 刃物は怖い

 

  しったかめったか 鳥になれ」

 

……これは詩なのか?詩というより、子供向けの童謡のような……。そう、マザーグースのような印象を受ける。言葉遊びといい、どことなく不穏な言葉といい……。

「しったかめったか」というのは、子供の名前だろうか?最後のホラー的展開は何だ?鳥になれとはどういう意味だ?

次の頁にはもう一つの、『緑色の涙』が載っている。

 

「    緑色の涙

 

 最後の死がまもなく訪れる

 映らない画面の裏側に

 蔓延る堕落を僕は見出した

 破滅を招く禁断の儀式!

 あの時君は何を見たの?

 

 また加速する崩壊の響き

 失い続ける安定には

 二度と解けない錠を仕掛けた

 変色する太陽の下

   君は無邪気に微笑んでいた

 

 (でたらめな長い呪文の中に

   神の名前が隠されていた)

 

   降り続くオレンジの雨

   剥れ落ちる理性の大地

   響き渡る神の哄笑が

   金切り声で空を揺らした

   月が罅割れ すとんと落ちる……

 

   君は初めて蒼褪めて

   色の涙を流した

   僕は初めて君を抱き締めた

 「最後の死がまもなく訪れる」

   君の爪が背中に喰い込んだ  」

 

 

……こちらには、たしかに怪奇っぽい雰囲気がある。少し気になったが、僕はそれらについて考えることを止めた。詩の内容は、別に探索には関係ない。言ってしまえば、例えそれが詩と言えないものでも、一向に構わないのだ。手に入れることさえできれば。物語さえ進めば……。

とにかく、ようやく詩集の方の『ドグマ・カルマ』の完成に、一歩近づいたのだ。ここまで来て、初めて明確な進展があった。

 

「あなたは紙を詩集に納めました。

 本棚には、もう調べるところはないようです。

 

どうしますか?

 

 机を調べる  ……110022へ

 ベッドを調べる……33663へ

 この部屋を出る……66336へ」

 

勿論、次に調べるべきものは机だ。さっきは誰もいないのを確認しただけで、机の上のノートも、机の引き出しも調べることができなかったのだから。

ここの机を使っているのは、当然例の、僕を殺した謎の人物のはずだ。机の上の便箋を書いていた人間も、十中八九そいつだろう。本棚を見るより、本人の書いたものを読んだ方が、そいつの正体を知る直接の手掛りとなるだろう。

この部屋の人物について、僕は知っておいた方がいい。……また、殺されない為にも。

手掛りは必ず用意されているはずだ。僕はもう、それを確信していた。一見無意味に思えた、以前は調べられなかった本棚を、ここにきてちゃんと調べることができたように。謎でしかなかった件の正体を、明かすことができたように。……この本はどれだけ意味不明で理不尽のように思えても、ちゃんと謎解きの手掛りを用意してくれているのだ……。

 

「  110022 

  

 本棚を調べたあなたは、次に机を調べることにしました。 

机の上には、まだ書きかけの便箋が置かれています。 

机の抽斗は、僅かに開いています。開けてみると中には筆記用具が揃っており、また数冊のノートが入っていました。 

ノートはどうやら日記のようです。 

 

どちらを調べますか? 

 

書きかけの便箋 ……153007へ

 抽斗の中のノート……123456へ」

 

書き途中の手紙と、日記帳らしきノート……。

どちらから見るべきだろうか?

僕はノートを選んだ。野次馬的な好奇心を優先すれば手紙の方に軍配が上がるが、誰かに送る手紙などに有益な情報が載っているとは思えない。それより、日記帳の方が確実に、その人物の内面に接近できるはずだと思ったのだ……。

 

 

 「  123456

 

あなたは机の抽斗の中から、一番上に置いてあったノートを取り出し、読み始めました。

 ノートには持ち主の几帳面さを窺わせる、整然とした字が並んでいます。

 

(ノートの記述)

 

『学生時代からの友であり同僚であるM博士の突拍子もない話に私は仰天し、驚きを隠すことができなかった。私は到底彼の話を鵜呑みにすることができない。心から彼のことを尊敬しているにも拘らず、だ。……それが科学者としての自分の矜持に拠るのか、それともつまらない常識に束縛される、忸怩たる私の小心に拠るのかは、我ながら判然としない。

そもそも彼との付き合いは我々が、この大学に学生として入学した頃まで遡る。私も、そして同期である彼もあの頃は当然若かった。専門の近い同期として出発した我々二人の間に如何なる奇縁があったのか、卒業してから暫くは離れていたものの、今では共に母校に奉職する同僚となっている。……しかし、学生時代からすでに厳然と存在していた彼と私の間にある、学者としての懸隔は、さらに深いものとなっていた。それが非凡の才を持つ天才である彼と、所詮は勤勉な秀才でしかない私との間の、如何ともしがたい差なのだ。私がまがりなりにも学部長の地位を得ていることなど、その懸隔を埋めるには全く不十分で、些かも役には立たない。それは単に、生来の破天荒な性分から大学を飛び出してしまった彼と、生来の小心から一心に大学に奉職し続けていた私との、性格の差に過ぎないからだ。研究者としての格も、業績も、彼の方が著しく勝っていることは、学部内外から漏れる陰口に耳を傾けなくとも、私自身が十二分に承知している。

だからこそ、彼のような偉大な学者がよりにもよって、わけのわからない非科学的なことを言い出した時、私にはそれも彼一流の冗談、或いは何かの比喩としか思えなかった(私に対する揶揄、或いは皮肉とは全く思わなかった。彼は、そんなものとは無縁な人格を有しているからだ。良くも悪くもM博士は自分の行う研究にしか興味を持たない人間であり、一切の世俗的なもの……人間関係、そして学内の地位などといった瑣末なもの……を超越している)。だが彼の話を聞き、その顔色を観察しているうちに、私はM博士が冗談や迂遠な比喩を述べているのではないことを発見した。それで私は改めて心底から驚嘆し、一から話を聞き返さなくてはならなかった。

M博士の足元にも及ばないとはいえ、私も卑しくも学者の端くれとして、おいそれと魂などというものを信じるわけにはいかない。なによりも、無二の友でありかつ敬愛する学者である彼がそのような謬見に惑わされているのを、黙って見過ごすことなどできない。私はM博士の真意を確かめる為に彼の話に耳を傾け、可能ならば論駁しなければならないという悲壮な決意を固めていた。……しかし私は、博士の話を聞いているうちに、自分の今まで持っていた知識が……観念が、そして常識が……正しいのか、それとも彼の言っている事の方が正しいのか、段々とわからなくなってしまった。

彼の話は理路整然にはほど遠く、支離滅裂と言ってしまってもいいくらいで、時に訳のわからないことまで呟いていた。そのため、私はそんな彼の思想を逐一表記することはできない(もっとも思想と表現したことを知ったら彼は怒るかもしれない。私には想像もつかない高度な論理体系をその頭脳に有している博士自身は、それが自明の理論であり、論理学的正当性を有していると考えているようだったからだ。だが生来の小心である私は、それを理論などと呼ぶ勇気は到底持てない)。しかしとにかくその時の会話を、思い出せる限り、ここに記しておくことにする。それが果たして意味のある行為なのか、私自身にもよくわからない。だが私には、この奇態で頓狂な記述が、いつの日か、誰かの役に立つかもしれないと思えるのだ……。

 

「 君は些か唯物論に毒されすぎているのではないかね!なるほど君は優秀な学者であるし、その信念から我輩の主張を非科学的だと断じている。だが忘れてもらっては困るのだが、我輩もまた君と同じ、学究の道を歩む者だよ。よもや君が、それを忘れているなどということはないと思うがね……」

「 勿論です……。いやそれどころか、あなたは私なぞより余程素晴らしい研究者だ。だからこそ、私は不思議でならないのですよ。よりによってまさかあなたが、そんなおかしなことを言い出すなんて……」

「 またそれだ……。君はまた我輩のいうことを、おかしなことなどと決め付けようとする。一体全体、何がそんなにおかしいなどと言うのかね?」

「 ……だってそうでしょう……。『脳は、ものを考えるところではない』などと……。数十年も昔の話ならいざ知らず、今では脳の機能は随分と明らかになってきています。脳がどんな機能を担っているか……例えば言語を司るのが脳のどの部位か、計算機能を担っているのはどこか、快楽や情動の正体、そしてどのように記憶が形成されるのか……などなどが明らかになり、それらことごとくが脳の機能に依存しているのです。それでもまだ人間が、脳でものを考えているのではないなどと仰るのですか?人間の精神作用が脳髄に依存していないなどというのは、大脳生理学の発達していなかった大昔にしか成り立たないのです。人間の精神……それは心と言い換えることもできますが……それはつまり、脳という物体に依存した、電気信号と神経伝達物質の引き起こす、いわば化学反応に過ぎないのですよ。脳に依存しない精神などというものはどこにもない。精神とは全て顕微鏡の中で確認することのできる物質的な、化学的現象に過ぎないのです……」

「 おやおや、随分大きく出たね!君は人間の精神活動を司るのが脳内の科学的反応であると主張するばかりか、精神の存在そのものまで否定してしまった!君は要素還元主義者だ、この唯物論の亡者め!脳という器官には未だに多くの謎が残っていることを、まさか忘れているわけではないだろうに。……いやそれより、君は我輩の言ったことを正確には理解してはくれなかったようだ。そもそも我輩は一言も、「脳はものを考えるところではない」などといった覚えはないのだがね……。脳味噌が人間の思考に大いに貢献していることは、今では我輩だって認めているよ。私が言いたいのは別のことだ。つまり、脳自体がものを考えているわけではないと……そう言っているのだよ」

「 ……何が違うというのですか?」

「 君が言ったように、今日の我々は我々自身の頭蓋骨の中にある脳味噌というものの機能について、多くのことを知っている。我々の行動、会話や運動と言った日常の動作も、勉強や芸術活動といった高度な行為も、それどころか肉体の恒常性の維持といったことまで、複雑怪奇な脳髄の機能であることがわかっている。それに、記憶や学習のメカニズムというものは、神経細胞のネットワークが変化することによって起きているという説が今や常識だ。意識に上る頻度が多いことについて記憶が強化されるのは、それによって細胞同士の結びつきが強化されるからだ、といった次第でね。……こうして考えれば、人間の精神と脳という物体的存在が密接に結びついているのは疑いない。だからこそ君は、人間の意識の正体というのは、百四十億にものぼる神経細胞による、電気信号と化学反応にしか過ぎないなどと言うのだろうが……」

「 ……違うのですか?」

「 違うね……。なるほど、我々はものを考えるという行為においてたしかに脳味噌に依存しているのだろう。脳がなければ、満足にものを考えることもできやしない。それこそ、1+1の答えだって出せないだろう。だがね、だからといって人間の心というものを脳内の化学反応そのものだと決め付けるのは早計というものだよ。事態は全く逆かもしれない。そうは思わないかね?」

「 逆……?逆とは、どういう意味ですか?」

「 いいかい……。君の意見ではまず最初に脳内に物質的な反応が生じて、それによって人間の精神が生じるという順番になる。つまり、脳内にまず『体内の糖分が不足している』という情報が電気的信号によって伝わってきて、それにより我々の精神が『腹が減っている』と感じるわけだ。だから『そろそろ食堂に行くか』だの『今日はカツ丼にするか』だの、はたまた『ここはひとつ前から狙っていたあの女も誘ってみるか』だのといった思考さえ、まず脳内にそれを指示するような物質的・化学的反応があって、それを我々の精神が受け取る、ということになる。物質→精神という不可逆的な順序があるわけだ。

だが、果たしてそうはっきりと言いきれるものだろうかね?順序はまるっきり反対かもしれないよ。脳内の物質的反応の結果として意識が発生するのではなく、人間の意識、心の動きがまず先にあるのであって、それに添う形で電気信号が発生しているのかもしれない。君達唯物論者は原因と結果を履き違え、全く逆に考えているんだ。

そもそもだね、脳味噌の専門化連中の言う脳機能というのは、あれだろう?脳の一部に損傷を負った患者にどんな機能障害が起こるか症例を集めたり、気の毒な動物の脳の一部を破壊することによって生ずる変化を観察したり、或いは、人間が活動する時に脳のどの部分が活発に働いているかを機械で調べたりして割り出しているわけだ。計算している時はこの部分が働いている、だったらここが計算を司る場所だ、読書や会話している時はここが反応している、そんならここが言語中枢だ……といった具合にね……。だがね、冷静に考えてみればこれは、人間の精神活動と脳味噌が密接に結びついていることを証明していても、その原因と結果の順番までも証明するものではないではないか。そこで我輩は主張するのだよ、精神は脳味噌なんぞという物体によって生じる副次的なものではない。心は脳の機能にその存在を依存しているのではなく脳味噌がなくても厳然と存在している、独立独歩たる心なるものがまずあるのであって、脳味噌なる物体はその活動に役立つために利用されているに過ぎないのだ、とね。脳味噌なんてものは、心にとっては単なる便利な道具なのさ。心というものは、脳味噌がなくても存在できるし、それだけで活動もできるものなんだ」

「 そんな馬鹿な……。脳がなくても精神が活動できるというなら、何の為に脳があるのですか?」

「 まあ、まあ、落ち着きたまえ。慌てちゃいけない。心というものを人間の場合に限定しているから、話がややこしくなるんだよ。脳がなくても立派に生きている生物なんていくらでもいるだろう。単細胞生物を見たまえ。彼らは脳味噌なんぞというハイカラなものを持ってやいないのに、ちゃあんと立派に生きているじゃないか。植物だってそうだ。植物には人間などよりよっぽどでかくなる奴があるが、誰も脳味噌なんて持っていないじゃないか」

「 いや、だから、植物には心なんてないのですよ」

「 おや、こいつはまた辛辣なご意見だ。エコロジストとかいう連中が聞いたら、おっと連中なんて言っちゃいけない、エコロジスト様が聞いたら頭から湯気を噴いて怒り出すだろうぜ。植物にも心はある、と言っている連中は科学者の中にもいるのだよ。君は例の実験を知らないのかい?ほら、植物を火で焼こうとすると、植物が反応するとかいう……」

「 ああ……しかし、あんなのはインチキでしょう?」

「 まあ我輩も自分の手でやったことはないが、それは置いておこう。どこまでいっても平行線だろうからね……。話を戻すと、つまり脳味噌というのはあくまで道具に過ぎないのだよ。身体を制御するために必要な莫大な機構、元々はそれを調整する為の装置に過ぎなかったのだ。動物というのは進化の過程で、単細胞生物だった頃からは考えもつかない巨大な身体を手に入れた。それは喜ぶべきことだよ、大きくなればなるほど外敵にやられる危険が減って、各個体が生存競争に勝ち残る確率は高まるのだからね。だがその代わり、その身体を一から造り上げて、さらには健康に維持していくための調整器官が必要になってしまった。それが脳味噌様の正体さ。そりゃもう、偉いものだよ。目の玉が飛び出るほど沢山の栄養を捧げるに値するものだよ。なにせそれがなかったら、腕や脚といった部分は勿論、心臓だって動いてはくれないのだからね。もし心臓を自分の意志で動かさなければならなかったら、我々はとっくの昔に死んでいるよ。だって、もし自分の意志で心臓を動かさなければならないとしたら、我々は皆寝ている間におっ死んでしまうよ。まったく脳味噌様様じゃないか?そのお陰で、我々は精々気をつけて、食って寝ているだけでいいんだから。栄養さえちゃんと摂っていれば、脳味噌の方で勝手に一人前の身体までデザインしてくれるんだ。いちいちこんな風になりたい、あんな風になりたい何ぞと思い煩うこともなくね……。もっとも、これには賛否両論だろうがね。我輩のように背が低いと、面倒でも自分でデザインしたいと思ったものさ。腹にこんなに脂肪はいらない、脚はもう少し長い方がいい、鼻だってもうちょっとだけ高ければなァ……なんてね。もっとも君には、縁のない話だね」

  M博士は私を見上げて、冗談混じりにそう言った。私はむしろ、無駄に高い自分の身長を持て余しているのに……。

「 とにかく……身体が大きく、そして複雑化するにつれて脳味噌の役割はますます重要になっていった。それが人間になると、もっと厄介なことになった。この人間って奴は、動物としてはそれほど大きくもないくせに、不相応にご立派な脳味噌を手に入れてしまったのさ。それも、生きるためには直接必要ではない方向にね。その結果、精神とか、自我とか、理性とか、そんなようなものが生まれたわけだ。まあ、たしかに使える能力と言えなくもない。今日の地球上における人間様の繁栄を見ればわかるようにね。もっともそのせいで、何のために生きるのか、僕は生きるに値するのか、なぁんてことを考え出して自分から死んじまう奴がいるんだから、それも果たして良いことナのかどうか……。動物を見たまえよ、そんなつまらないことで悩んでいる奴なんていやしないじゃないか……。

まあとにかく、その人間様の持つ御立派な、偉大なる脳味噌様様のおかげで、我々は他の動物とは比べ物にならない思考能力を得たわけだ。僕らが複雑な数学を解いたり、高等な論文を理解したり小説を読んで感動するのも、こうして我輩と君が会話しているのだって、全ては脳味噌様のおかげなのだ。

だがね……。だからといって、心の正体が脳味噌だとか、脳味噌の活動から心が生まれる、なんぞと考えてはいけない。脳味噌っていうのは、さっきもいったが単なる装置に過ぎないのだよ。心というのは、どんな単純な生物でも持っている。単細胞生物だって、ひどく単純な心を持っているのだ。その単純な心を、複雑にしてしまうのが脳味噌だ。いうなれば脳味噌とは、心の拡張装置、機能増幅装置というわけだ。君が言ったとおり、記憶とは神経細胞のネットワークに過ぎない。コンピューターに記録するデータと同じさ。心ってやつは、それだけではひどく単純な代物で、とてもとても沢山のことを覚えておくことなんかできない。だから脳味噌という物質、神経細胞という物質的な装置を使って、その役目を補うわけだ。それによって我々は、複雑な物事を理解したり、考えたりすることもできるようになった。……電卓やコンピューターと同じだよ。とても暗算できやしない複雑な計算でも、電卓さえあれば簡単にできる。とても自分では記憶できない長い文章でもコンピューターなら保存しておけるし、複雑な作業をこなすこともできる。だからといって電卓もコンピューターも、それ自体が考えているわけではないし、ましてや自分の意志で動くこともできやしない。まさか君は、コンピューターが考えているなんていわないだろうね?」

「 勿論ですよ。でも、それと人間の脳では……」

「 同じだよ。脳味噌なんていったところで、結局は物体に過ぎないじゃないか。違うのは使っている素材が生きた細胞か、無機物かの違いだけさ。だったらどうして、脳味噌が人間の精神の、心の、正体だなんていえるのだね?それこそ非科学的というものじゃないか?脳味噌もコンピューターも、物質という点では同じなんだぜ。

だったらなぜ、電卓と同じただの物質でしかない脳味噌が、叩くものもいないのに自力で動けるのか?しかしこれは質問自体が間違っている。脳味噌は自力で動けるんじゃない、動くことなんてできないんだ。電卓と同じで、脳味噌だって叩くやつがいなければ自力では動けない。だから、物質的装置でしかない脳味噌を動かす奴が、ちゃぁんと他にいるはずなんだよ。自分では動けない機械を、外部から動かす者が……。それが、心だというわけだ。それ自体は単純で、素朴なものでもいいんだ。電卓を叩くだけなら、複雑な操作は必要ないからね。単細胞生物のような単純な心でも、複雑な装置である脳味噌を起動させることで、人間らしい複雑な思考活動が可能になる。

どうだね?納得していただけたかね?脳味噌と心は全くの別物だ。脳味噌と心は密接に絡みついて行動しているが、互いに独立した存在なのだ。これこそが最初に我輩が言った、『脳味噌自体がものを考えているわけではない』という意味名のだよ」

ここまでのM博士の意見には、私としても納得せざるを得なかった。私のどこか奥深くでは、尤もらしく聞こえるが、全面的に受け入れることはできないぞなどと、執念深く自説の主張を続ける声もあったのだが、少なくとも表面的には彼の意見にすっかり圧倒されてしまって、さすがはM博士と感服しきりだったのだ。博士の主張には一見奇異の念を受けるが、それは私が常識に凝り固まった堅苦しい脳髄をもっているためであって、物の見方をひっくり返せば充分に検討に値する、論拠のある話であったのだ。

……それなのに、どうしてそこから、あんな恐ろしい話になってしまったのだろう?もはや学問的態度など欠片もない、忌まわしいオカルトそのものの話に。しかしそれは、紛れもなく私のせいだったのだ。私が思わず発していた、あの愚かしい質問から、M博士との狂気じみた恐ろしい対話は始まったのだ……。

「 では……その心というのは、一体何なのですか?」

「 おいおい、我輩にそんなことを聞かないでくれよ。私はあくまで科学者だよ。心の正体なんて、私には専門外だよ」

「 だって……」

「 いや、勘違いしてもらっては困る。精神科学は精神の働きを研究する学問だが、精神の正体がわかるわけではないのだ。たしかに我輩は徹底した唯物論者である君の考えを攻撃して、精神が単なる物質たる脳味噌に決して還元されやしないということを主張した。いわば、間接的に心なるものの実在を主張したわけだ。しかし我輩はただ、突き詰めて考えると心というものの存在をどうしても想定せずにはいられない、と言いたかっただけなのだ。心というものが物質からはみだしている以上、その正体まで論じることは、科学の範疇を越えているよ。……ただ……まあ……私が考えるに、心というものは我々の、全ての細胞に宿っているのだと思うね」

「 細胞全てに?人間の細胞の、一つ一つに心があるというのですか……」

「 そうだよ……。なにも脳味噌だけではない。生きている我々の細胞、一つ一つに心が宿っているのだよ。なに、そうおかしな話じゃない。なにも細胞の一つ一つが自我を持っているとか、腕には腕の、心臓には心臓の、自意識があるなんて言い出さないから安心してくれたまえ……」

「 しかし、……それなら、どういうことです?」

「 ほら、最近、クローンが話題になっているだろう……。ほら、ほら、あの……例の……」

「 クローン?羊の、あれですか…………」

「 ああ……。うん、まあ、それでもいい。とにかく、あのクローンの造り方を知っているだろう?あれは、ある卵子が有している核を殺して、代わりにある個体の体細胞の核を入れるんだ。そうして造った胚は、そのオリジナルとなった個体と全く同じ遺伝子を有する。それが、クローンと言うわけだ」

「 それが、関係あるのですか?」

「 大有りだよ。動物の体細胞から造ったクローン個体が普通の個体と同じように成長すると言うのなら、そのクローンにも心が、魂があるということじゃないか。では、その心は、一体どこから来たのかな?決まっている、その体細胞から来たのじゃないか。羊でできることなら、人間でも可能だろうよ。例えば人間の手から取ってきた体細胞でクローン人間を造ったとしたら、そのクローン人間にもちゃんと自我が宿るはずだ。だったら、その自我は、どこから来たのだろうね?そう、オリジナルの人間の、手の細胞の一片に宿っていた心が、そのクローンの自我に成長したのだよ……」

「 しかし……それは仮定の話でしょう?自我が宿るとは限らないじゃないですか……。羊で成功したのは、動物には比較的単純な本能しかなかったからかもしれませんし……。動物だから表面化しなかっただけで、クローン人間を造ってみたら精神的な異常が見つかるかもしれませんよ……」

「 うん……まあ……そうかもしれないね……」

その時……何かを含んだ博士の声音に、その表情に、不吉なものを覚えて、空恐ろしくなった。

「 あなたは……まさか……」

「 おいおい……。なにを心配しているのだね?まさか実際に、私がそんなことを試したとでも?まさか……私にはそんな技術はないよ。だって専門外じゃないか……」

「そうですよね……ハハ……ハハハ……」

誤魔化すように笑いながら……、僕はしかし、嫌な予感を捨て切れなかった。博士は、確信を持っている……。何かを知っていながら、隠している……そんな予感を……。たしかに博士がいくら天才であろうと、専門外のクローン技術までをも扱えるとは考えにくい……いや……博士なら或いは、とも思うが、いかんせん設備がないのだから不可能なはずだ。……でも、もしかしたら、誰かが行った秘密の実験を、博士は知っていたのかも知れない。人知れず行われた狂気の実験を……。あるいは、博士は積極的にそれに協力したのかもしれない……そんな…恐ろしい予感が……。

「 とにかくだね……我輩には、クローン人間の自我形成に問題が生じるとは思えない……遺伝子的には問題ないのだからね。まあ、あくまで仮定の話として考えてくれ。もしそうなら、やはり体細胞にも心があるということになるだろう?最初はたった一片だったそれが分裂して……次第に分化して……腕や足、内臓、頭……脳味噌が生じる。その元は、たった一個の細胞だ。たった一個の細胞に宿っていた魂が、分裂して、身体を形成する……。そして生じた脳味噌によって、その単純だった魂は、複雑な物事を理解できるようになる……。人間も、動物も、その魂は実は同じさ…………。違うのは脳味噌だけだ。そして、植物も……。植物と言うのは、我々動物とは違って脳味噌がない。だけど、心がないというわけではないのさ……。我々とはまったく違う進化をした、我々とは違う在り方をする、だけど我々のお仲間さ。一つ一つの細胞を比べてみれば、たいして違わないじゃないか……あっちの細胞には細胞壁なんてものがあるけれどね……。我々の細胞に心が宿っていると言うのなら、植物にもそれと大差ない心があるはずだよ…………」

「 単細胞生物にも心がある、というのはそういうことですか……」

「 そうさ。考えてみれば、自然の生殖による発生だって、大差ないだろう?精子や卵子と言ったところで、別に特別な代物じゃあない。普通の体細胞に比べて、半分の遺伝子を持っているだけに過ぎないじゃないか。それが受精して、一揃いの遺伝子を持った、一人前の細胞になるわけだ……。物質的には、遺伝子の足し算に過ぎないよ」

遺伝子の足し算……。生命の神秘も、この博士にかかっては形無しだ。……あれ?待てよ……でも、それは……。

僕は博士に、思いついたことを言ってみた。

「 それはわかりましたが……。でも、それなら……それらの生殖細胞にも魂があるのですよね?」

「 そういうことになる。普通の体細胞が持つそれと、変わらない魂がね」

「 ということは、精子と卵子は、それぞれが魂を持っているということになります。それは、その元となった男性と女性の魂なのですよね?」

「 全くもって、そのとおり」

「 精子と卵子は、それぞれ別の魂を持っている。でも受精によって、二つの魂が一つの受精卵に宿ることになります。……なら、それは魂が融合したと言うことではないですか?」

すると博士は……どうしたことか、身体を揺すり、何かを真剣に考え始めた。

「 おお…………!」

「 博士?」

「 そのとおりだ。君の言うとおりだよ。そうか……そうか……。言われてみればその通りだ。ハハ…………。面白い。実に面白い!魂の融合か……。魂とは、融合できるものなのか!不思議だ……不可思議だ。なるほど、それはたしかにクローンとは違う。物質的にはただの遺伝子の足し算だが、魂の……生命の融合とは……。これだから君と話すのは楽しいよ。それは我輩にはない視点だ……」

「 いえ……そんな……」

「 いや、我輩は本当に感心しているのだよ……。君はあくまで自然の交配というものに、神秘を見出そうとするのだね……」

「 いえ……ただ、思いついただけで……」

「 面白い……。いや、それはたしかにその通りだ……。なるほど、受精によって生まれた子供は遺伝子だけではなく、命そのものを二人の人間から同時に受け継いでいるわけか。それならたしかに、もはやどちらの人間ともいえない……アハ……ハ……。受精によって生まれた子供の魂の独自性は保証された……だが、クローン人間の魂の独自性は否定されてしまったわけだ………気の毒に……」

気の毒……?気の毒とはどういう意味だ?例のクローン羊のことだろうか?僕は、なんとなく居心地が悪くなってしまった。

「 いや……そうはいっても、クローンがオリジナルと同じと言うわけではないでしょう?」

「 それはそうだよ。よく勘違いをしている奴がいるが、クローンを造ったところでそれはオリジナルと同一人物にはならない。自分のクローンを造って永遠に生きたい、なんて無理な話だ。クローンはオリジナルとまったく同じ遺伝子を持っている。ただそれだけなのだ。遺伝子はあくまで初期設定のようなものに過ぎない。成長する環境によっていくらでも変化してしまう。自然に生まれる双子と同じようにね……。まあ、先の話で言えば、同じ魂を持っているとは言えるがね。切り離した手足が勝手に動いているのを見て、それをまだ自分だと思うかどうかは、それは、君……人それぞれだ」

「SFなどでは、記憶をコピーするなんてありますがね」

……僕は後悔した。何の気なしに言ったことだったのだが……それを聞いた博士の表情を見て……。

「ハハハ……。まあ……そんなことができれば面白いがね……。仮に、仮にだよ、そんなことが可能だとして、それで何になる?どこかの金持ちが、その満ち足りた生活を永遠に楽しみたいと考えて自分の若いクローンを造らせて、記憶をコピーしたとしても……それはやっぱり別人だよ。本人の寿命が延びるわけじゃない。寿命どおりに死ぬだけさ。……これが科学者か何かで、実現したい研究があるというなら、話は変わってくるがね。自分は死んでも、自分のクローンがいつかそれを達成する、と信じて死ねるわけだ。しかしそれなら、子孫や研究者仲間に託すのと変わらない……」

「では、本人の脳をクローンに移植しては?それは、本人といえるのではないでしょうか?」

……博士は、耐えられないという様子で哄笑を始めた。なぜだろう……僕は……何か変なことをいってしまったのだろうか?

「 まったく面白い……。本当は知っているのではないかね?まあいい……。脳を移植する、そんなことが可能だとしてもたいして意味はないよ。身体が若返ったところで、脳は年老いているのだからね……。身体が年老いる前に、脳が参ってしまうだけさ。……だが……それはたしかに面白い仮定だ……。さっきも言ったが、私は脳が魂の在り処だとは考えていない……。脳は、その個人の記憶や性格を保管している倉庫で、それ以上でもそれ以下でもない。だが脳味噌も身体の一部であることに変わりはないから、他の細胞同様に魂を持っているともいえる……。そしてクローンは、本体から離れてしまったとはいえ同じ魂を有しているはずだから……。なるほど、同一人物といえるかもしれない……」

博士はずっと考え込んでいる……。僕は……僕はだんだん恐くなってきた。今、博士が何を考えているのか?さっき言っていた、自分が死んだ後も研究の達成を望む学者……それは、博士自身なのでは……そんな気がして……。

「 我輩は脳という器官の役割を、記憶の倉庫と演算装置だと考えた……。だがそれによって、脳が身体の一部ということを見落としていた。あらゆる細胞に魂があるのなら、脳にだってそれはあるのだ……。「脳に魂があるわけではない」、ではなく、「脳にのみ」魂があるわけではない、が正しいのか……それなら……。いや、どちらにしろ脳の移植が不可能である以上、意味はない……」

ぶつぶつと独り言を言い続け……。

「 もし、クローンではなく全くの他人に脳を移植することができたとしたら……そんなことが可能だったとしたら、それはどうなる?……脳を只のコンピューターだと考えるなら、それは脳の記憶と人格を持つことになる。だが、メインの身体は他者のものなのだから、他者の魂が残っているのだから、それは他者のデータが別のデータに書き換えられただけ、ということだ……。……人格が同じでも、魂は別物だ……。だが……脳は単なるコンピューターではない。身体の一部として、魂を宿してもいる……。そう考えると、どういうことになる?移植後の人間は、一体、どちらの人間なのだ?それが可能なら……それで生存できるなら……魂の融合……いや、この場合は共存か……。いや、脳でなくてもいい……あらゆる細胞に、魂が宿っているのだから…………」

「 ……博士……?」

「 ああ……すまない。色々と……考えさせられてね……。まあいい。ところで、まだ他にも謎はあるよ」

「 と……言いますと?」

「 脳を演算装置だと考えても、やはり不思議なことがあるのだよ。……我々が何かを考える時、脳では電気信号が行き交い、神経伝達物質のやり取りという化学反応が生じている。しかし、なぜそんなことが起きるのだろうね?それは機械によって観測できる、物理的な現象ではないか。魂や心というのは、物質的なものではないのに。君は哲学には詳しいかね?といっても、我輩もさほど詳しいわけではないのだが。デカルトは知っての通り、近世哲学の祖とも言われる17世紀の哲学者だ。彼は二元論者だった。そして、物質である体と物質ではない精神が、どうして結びついているか思索したそうだ。そして、脳の一部である松果体に注目した。精神は松果体を通じて、物質である肉体と関わりあっていると考えたわけだ……。もちろん今では、松果体の役割もわかってきているし、そんな考えは間違っているわけだが。……だが一概に、その考え方までを否定するべきではないと思うね。現に、物質的な脳の働きと、精神の働きは密接に連関している。それを結びつける鍵は、やはり脳にあるのか……、それとも……」

「 それとも……?」

「 ここから先は、完全に我輩の空想だがね……。それは、実は生命そのものに備わる機能なのではないか……あるいは、精神そのものの機能ではないか……と、我輩はそう思うのだよ。心というものは、非常に限定された条件の下、非常に極小な領域において、物理的な影響力を行使できるのではないか……」

「 まさか……」

「 まあ、誰でもそう言うだろうね……。でも、君も知っているだろうが、量子力学には不確定性原理というものが通用している……。電子の位置の観測において、その位置を確率的にしか予測できないというものだ。それは極小の領域において、観測という行為がその結果に影響を及ぼしてしまうからなのだが……。これは非常に示唆に富んでいると思うのだよ。極小の領域において、どうしても観測できない部分がある。だったら、そこに精神が関与していても、わからないわけだ。どうしても物理的に観測できない領域においてのみ、物理的な常識とは違反する事象が……つまり、精神による物質への作用が……隠されているのではないか、とね」

「 そんな……まさか…………」

「 テレパシーなんていうものも、存外馬鹿にしたものでもない……。双子の片方に危機が生じるともう片方がそれを察する、なんて話があるだろう?双子というのは、元々は一つの細胞から別れた者達だ……。別々に成長し、全く別の個体になっても、元は一つの魂を共有していたんだ……。だったら、共鳴することだって、ありそうな話じゃないか?」

「 まさか…………」

「 心には、まだ解明されていない不可思議な力があるのだよ。それは、現実に影響を及ぼすにはあまりに些細な力だ……。だが、場合によっては、うまい使い道があるのかもしれない……。世の中の超能力者なんて連中は大抵紛い物だろうが……ひょっとすると…………」

「 まさか……そんな……」

博士の言葉は……僕には突拍子もなく聞こえた……。先程まではまだ納得できていたというのに……。……それでも、熱に浮かされたような彼の言葉を聞いているうちに、自分の中の常識が揺らいでいることに気付いてもいた……。まさか……でも……。

「 では……幽霊は、本当にいるのでしょうか……」

博士は一瞬ぽかんとして、不意に……大笑いを始めた。

「 おいおい……幽霊、と来たか。そんなもの、いるわけがないだろう……と、言いたいところだが……」

……博士が真剣に考え始めるのを見て、僕はますます恐ろしくなった……。

「 博士……?」

「 いや、我輩はそんなもの信じていないよ。残念ながら、見たことがないからね。……どうしたのかね、顔色が真っ青じゃないか。君、何か心当たりでもあるのかね?」

「 ……いえ……」

「 ……本当かな?まあいい。いや、そう簡単に決め付けるわけにはいかないと思ってね。科学の領域から外れているものだからと言って、無碍に切って捨てるほど吾輩は頭が固くはないつもりだ。しかしもちろん、我輩はそんなものを信じてはいない。幽霊も、死後の世界もね。ヒトは、いや生物は、死んだらそこでお終いさ。消滅だよ」

「そうですよね……」

「でも……もし、肉体が死んでも魂が残ったなら……」

「え?」

「魂と言うのはさっき言った通り、それだけでは複雑な思考もできないし、記憶もできない……。だから脳が必要になるのだ。……もし万が一、脳が死んでも魂が残ると仮定しても……それは、生前の個人としての記憶や人格、思考力というものを殆ど失っている……剥き出しの魂……」

「博士……もう、いいですから……」

「君、シンクロニシティを知っているかね?」

「え……ユングの……あれですか……?」

「そう……共時性という奴さ……。意味のある偶然。あれなんかは、ただの偶然と考えてしまうこともできるわけだ。よく我々は、約束もしていないのに知り合いとばったり会ったりする。あるいは、昔の知り合いと偶々同じ職場で再会したとか……あれなんかも「偶然」だと言えるし、実際に偶然であることもあるだろうが……。中には、偶然とは言い難い例があることも確かだ。そうした時、人によっては運命なんていう言葉を持ち出すがね……。天の神様の決めた運命、だ……。私に言わせれば、あれも精神の謎めいた力じゃないかと思うのだよ……」

「……どういうことですか……」

「精神が物理作用に及ぼす影響力は微小だと、我輩はさっき言ったが……その対象が、同じ精神だったらどうだろう?それは物理法則とは全く違った法則で、影響を及ぼすかもしれないよ……。誰かが考えたことが、遠く離れた場所で誰かに影響を及ぼしているのかもしれない……。強く思えば願いは叶う、なんて戯けた妄想を言う輩がいるが、案外馬鹿にしたものでもないかもしれないな」

 

話が明るい方に向いてきたので、僕は内心胸を撫で下ろしていた。内容は変わらず怪しげだが、こうした話ならまだ救いがある……。 

「……だとしたら、呪いというのもありうる話だ」 

「え…………?」 

「強く何かを思っていても、いつも叶えられるわけではない……それは、思いを向けられる相手が、同じことを思ってはいないからだ。思いというものは常に前向きなわけではない、恨みや妬み、むしろそうしたものの方が強いものだ……。それでも、恨まれた相手が常に不幸になるわけではない。……それは、恨まれた方にも、それに抵抗するだけの力があるからだ……だが…………」 

「……………………」 

「死んだ後……いや、死ぬその瞬間、精神と身体……そして脳の結びつきは離れていく。その時、魂は脳の持っていた記憶や思考力を失ってしまう。それは、とても無防備な状態だ……。もしその時、他人からの悪意に曝されたら……?」 

「博士……もう……」 

「死にゆく魂に、それに抗う力はない……。誰かの憎しみに、抵抗もできずに蝕まれてしまうだろう。君……、ひょっとすると、地獄の正体とはそういうことかもしれないぜ……。仏教では生前に行った善悪……業と言うものが、来世の生まれ変わりを決定すると言うだろう。輪廻転生なんて、我輩はそんなものは信じていないが……もし、生前の行いが、その人間の死に際を決定するとしたら、恐ろしい話じゃないか」 

「そんな……。い、いや、でも……だとしても、死にゆく、ということは、苦しむのは死ぬ直前の一瞬だけ、ということですよね……?死んだら、そこで魂は消滅するのだから……」 

「おいおい、幽霊がいるか、といったのは君だろう……。我輩にはそんなことはわからないと言ったはずだ。まあ、そうだと思うがね。でも、それでも気休めにはならないだろうよ……」 

「……え……?」 

「魂というものが、肉体の死とともに消えるものだとしても……だからといって苦しみが一瞬とは限らない。走馬灯というやつがあるだろう。死ぬ前に自分の人生を体験する、というあれだよ。まあそんなものが本当にあるかは知らないが、現実の時間と、意識が体験する時間が常に一致するとは限らない。それは日常でよく体験することだ。それに、夢の中でもよくあることだ。まさに死のうとするその一瞬……、その刹那に、人が何を見るものなのか……そんなことは我輩には……いや、この世の誰にもわからないよ……。臨死体験をしたとか、一度死んで生き返った、なんて連中は、結局の所本当に死んではいなかった、ということだからね。我輩は死に逝く人を看取ったことが何度もあるが、傍で見ている我輩にとっては一瞬でも、死んでゆく相手は違うものを、違う時間で、感じていたかもしれない。そう考えると、彼らの死に際が改めて感慨深く思えてくるから不思議じゃないか。……死というのは、まさに永遠の謎だ……。なあ……少し、楽しみとは思わんかね?我輩にも、君にも、それはいつか必ず訪れる一瞬なのだよ……。生きている人間にとっての永遠の謎が、解かれる瞬間を、我々もいつか味わうのだ……。……どうした?君、震えているのかね……?気をしっかり持ちたまえよ。君が先か、我輩が先か……是非このことを覚えておいて、人間の最期というものを自覚的にしっかりと、確認といこうじゃないか。……ねえ君、もし我輩が先に死にそうになったら、その時ばかりは我輩に対する恨みを、ちょっと弛めておいてくれたまえよ…………」 

 

…………………… 

何だこれは……。

何なのだこれは?

日記ではない……。論文でもない……。意味がよくわからないが……気味が悪い。……とにかく、気味が悪い。ノートを持つ手が、震えている。

気味が悪い……。

僕はノートを閉じた。これ以上、見たくない……。

死……死ぬ瞬間……考えたくもない……。死ぬ瞬間、他人の憎しみの念に襲われるだって?死ぬ間際の一瞬に……走馬灯の如く……延々と続く罰を受ける……。そんな……おお……そんな馬鹿げた……恐ろしい話…………。

ノートを引き出しにしまおうとして……何かが、そこから落ちた。新聞の切抜きだ……。ノートに挿んであったようだ……。

……僕はそれを拾い上げた。

 

「――日未明、※※県※※※市の公園で若い女性の他殺体が発見された。被害者は前日の深夜に何者かに刃物で刺されたものと見られている。被害者は襲われた後しばらく生存していたが、現場は夜間人通りが少ないため、発見が遅れた模様。所持品は全て奪われており、被害者の身元は未だ不明。県警は地理に詳しい人物の犯行と見做し、物取りと怨恨の両方の線で捜査を続けている」

 

……なんだろう、この記事は?こういっては何だが、ありふれた事件の一つにしか見えない。どうしてこんなものを残しているのだろう?被害者が知人だとか……?

僕はそれをノートに戻した。

さて……どうするか。そう考えて、僕は机の上の便箋を思い出した。よし、あれを……。

そう思ったとき、僕はやっとそいつの存在に気がついた。僕のすぐ傍で、じっと僕を見ていた人物に……。

顔はわからない。仮面をつけてい。奇怪な仮面を。ただ目、鼻、口が開いているだけの、真っ白な仮面……。口が大きく、笑みの形に歪んでいる……。

いつからそこにいたのか……僕は動けなかった。そいつが……腕を振り上げ……ナイフを打ち下ろしてくる様を、僕は身動きできないまま見上げていた。そんな僕の顔に、鋭いナイフが突き立てられる……僕の、右目に。

鋭い切っ先が、僕の眼球に進入してくる……まるで時が止まったように、僕はその感触を長々と味わっていた。角膜がぷつんと弾けるような感触があって……眼の肉を切り裂き……刃先がそのまま脳に到達した。……頭蓋骨の奥の奥に異物が侵入する、普段味わえない新鮮な感覚になぜか僕は興奮を覚える。叫び出しそうなほどの堪らない快感……。僕はその悦楽に酔い痴れ、もっと欲しい、もっと欲しいと残った目で訴える。

仮面は僕の意思を汲み取ったようだった。その手が無造作にナイフを捻ると、僕の脳味噌が掻き回されたぷつぷつと脳の中の大事な何かが切れてゆく。……途端に激烈な痛みが僕を襲った。悲鳴を上げようとした。止めてくれと叫ぼうとした。できなかった。僕はせめて目で訴えようとした。相手の仮面を……もちろん、残った左目で……見た。そして、仮面を……その笑顔を見て……ようやく悲鳴を上げた。

「ヒィィィィァァァァァアアアア―――――」

 

 

 

 

 「――――――――ァァァァァァアアアアアア!」

地面に倒れ、のたうち回った。脳味噌が焼け付くような激烈な痛みに、まだ襲われているような気がして……。

「ああっああっ!ひいぃぃぃぃぃ!」

ひたすら喚き、駆け回り、狂ったように悲鳴を上げ続けた。

――気がつくと、痛みは嘘のように治まっていた。いや、消えていた。痛みどころか、傷痕すらない……。

いつのまにか、僕はまた最初の地点に戻っていた

痛みが消えても、僕はしばらく動くことができなかった。極限の恐怖と、……あの感触が、頭から離れない。

あの冷たい、鋭い刃物が僕の頭の中を、脳髄を貫いてゆく……無慈悲で生々しい感触が。僕の角膜を、ぷつんと音を立てて切り裂き、眼球に進入したあの一瞬が……。

どれだけの間そうしていたのか……。僕はようやく、正気を取り戻し、立ち上がった。

また僕は死んだのか……。またここに戻ってきたのか……。

空ろにそれだけを思い、また先程の死の感触を思い出して、ぶるりと全身を震わせた。

何度もやり直したはずなのに……何度も死んだはずなのに、どうして今回ばかり、こんなに苦しいのだろう。恐ろしいのだろう……?

そう考えて、はっと気付いた。恐ろしい可能性に……。

慌てて懐を探る。そこにあったのは……。

袋の中の、硬い感触……。だがそれはもはや、原型を留めていなかった。中の物を取り出してみると……、案の定、砕けてしまっていた。

あの宝玉があらゆる痛みを消してくれる、魔法の玉が、壊れてしまった

どうして!何かの拍子に壊れたのか?回数制限があったのか?僕は叫びたくなった。……今まで、何回死んでも僕が平気だったのは、現実感がなかったからだ。例えどれほどの酷い目に遭って死んでも、全く痛みを感じなかったからだ。

この、宝玉のお陰で。

それが、もう……ない。

……僕はもう、何にも守られていないのだ。この、狂気の洞窟の中、たった一人で……。

そう思うと絶望のあまり、目の前が真っ暗になった。

何度でも、やり直しができること。それはもはや僕にとって、残酷な事実でしかなかった。これから何度も、何度も、何度も、何度も、僕は死の苦痛を体験しなければならないのだから……。

……僕は、また死ななければならないのだ。……その痛みを、存分にこの身で味わうことになるのだ。何度も……何度も……何度も……何度も…………

僕は悲鳴を上げ、夢中で駆け出した。

僕は走った……無我夢中で走った……。暗い洞窟の中を……この、恐ろしい迷宮を…………。最初の分岐点……あの、僕が殺された部屋……我知らず絶叫し……右の道へと逃げた…………あの……仮面を被った奴は、まだあそこにいるのだろうか……?ひょっとしたら、その辺を歩いているのではないか……そんな不安に……僕は気が狂いそうになった……。次の分岐点……ああ……あの、奇怪なヒヨコ人間……おかしな詩集……次の分岐点……奇妙な動物がいる部屋……不可思議な動物……なぜ、僕は不思議に思わなかったのだろう?あんな連中が、この世にいる筈がないのに……。恐ろしい……恐ろしい……恐ろしい……恐ろしい…………。

僕は逃げた……首のない地蔵……壊れたラジオ……「今日は絶好の※※日和です」……見たこともない奇妙な花……階段の部屋に入り……夢中で駆け下りようとして…………

 

「あ、ちょっと待って下さい」

 

……唐突に耳にした声に、僕はびくりと立ち止まった。

何処から聞こえてきたのかと、ぶるぶる震えながら。それでも辺りを見回した。……すると、また、声が聞こえる……。

 

「ここですよ。こ・こ」

 

……僕は震え上がった。その声が、すぐ近くで聞こえた気がしたので……。恐る恐る、声が聞こえた方を、僕は見た。……今、まさに僕が降りようとしていた、狭い階段の暗がりを……。

突然そこから手が伸びてきて、手をむんずと掴まれたので、僕は甲高い悲鳴をあげた。それは全く、後から思い出して恥ずかしくなったほどの情けない悲鳴で……それほど、僕は怖かったわけで……。……なぜなら、僕の腕を掴んでいたそれが、どう見ても異形のそれだったから……。

泣き叫ぶ僕の耳元に、三度声が届いた。

 

「落ち着いてください。私ですよ、私」

 

……その声に、僕はようやく少しばかり落ち着いて、声の主へと向き直った。それというのも、その声に聞き覚えがあったからで……。はっきりとは思い出せないものの、確かに、どこかで聞いたような気がしたからで……。

……見ると、暗がりに沈んでいた相手が、一歩一歩、ゆっくりとこちらに上がってくる。僕はまた恐ろしくなったが、腕を掴まれていてはどうしようもなく、慄えながら相手が姿を現すのを待った。

 

「どうも。またお会いましたな」

 

現われた相手を見て、僕は危うくへたり込んでしまいそうになった。現われたのは、確かに以前、会ったことのある相手……すなわちそれは、ヒヨコ人間、ピエール・ロティだったのだ……。 

僕がホッとして息を吐くのを見て、ピエールが声を上げる。

「ようやく落ち着いて下さいましたな。これも、私の愛らしい容姿のお蔭というわけですか」

その言葉に、僕は苦笑した。確かに、僕が思わず安堵したのは、奴の容姿によるところが大きかったからだ。……その醜悪な容姿は、愛らしいものとは程遠いとしても。

安心した途端、疑問が湧いた。

「……なんで、あんたがこんな処に?」

僕は思わず聞いていた。ピエールがいるのは、ここに来る途中の部屋だったはずだ。

「ノンノン」

ピエールは、きざったらしく指を振って見せた。

「そんな呼び方は、幾らなんでも失礼ではないですかな?いくら、親しい友人である私達の間とはいえ」

友人になどなった覚えはなかったが、僕はとりあえずその要求を容れた。

「ピエールが……」

「ノンノン」

言い終わる前に、ピエールがまた指を振る。気取った調子で、僕の顔の前で。……激しく苛ついたが、我慢した。

「……ピィちゃんが、何でこんな処に?」

「お答えしましょう。ですが、その前に上に上がってくれませんかな?こんな狭い階段で話すのは、いささか窮屈に過ぎますからな」

怒りに震えつつ、僕はヒヨコ人間のいう通りに階段を上がらざるを得なかった。最初からそう言えば良いものを、つまらないことにこだわって……。

我を忘れるほどの極限の恐怖に襲われていた僕は、人間ではないとはいえ、多少でも言葉が通じる相手に出会えたことに、少し安堵していたのだ。……最初は。しかしそんな気持ちは、これまでの短いやり取りで忽ち吹き飛んでしまっていた。

「いや、これでようやく落ち着いて話せますな」

せいせいとした様子で、そう話している姿も憎たらしい。

こんな相手と落ち着いて話したくなどない。そう思ったが、僕は再び質問した。どうしても、聞いておきたいことだった。

「それで、どうしてこんな処にいるんだ?……ピィちゃんは、自由にあの部屋から出られるのか?」

「勿論ですよ」

そのこともなげな答えは、僕には以外なものだった。何故か、この連中は部屋の外には出られない。そう信じ込んでいたので……。

……そして、恐ろしくなった。なぜなら、それはつまり、あの相手……僕の腹を抉った謎の怪人物……までもが、自由に辺りを徘徊できるのだと気づいたから……。

「それで、私が此処に来たのはですな」

こちらの気も知らず、ピエールがまた口を開く。

「貴方が見落としていることを、親切に御忠告に上がったわけなのです」

「……見落としていること?」

「ええ。どうやら貴方は、この階は全て見て回ったとお考えのようです。そうではありませんか?」

「ああ……」

僕は頷いた。この階については、分かれ道も全て確認し、調べつくしている筈だった。行っていない道は、ないと思っていた。

「ところが、そうではないのです。貴方が、まだ足を踏み入れていない、それどころか目にしたことのない道が、この階にはまだ存在するのですよ……」

「まさか……」

相手の言葉を、僕は簡単には信じられなかった。自慢ではないが、僕は自分の几帳面さを知り尽くしている。見落としなど、あるはずがない。

なかなか信じようとしない僕を見て、ピエールはやおら立ち上がり、部屋の中のある一点へと歩いていった。……それはあのスイッチ……今も目の前にある、下へと続く階段を出現させた、あの三色のスイッチの前だった。

「このスイッチ、全て試しましたかな?」

その質問を受けて、自分の記憶を探った僕は、首を横に振った。思わずハッとしながら。そう言えば、僕が押したのは、赤と青のボタンの二つだけだ。まだ、黄色のボタンは押していない。

……そこで僕は、奇妙な違和感を覚えた。赤のボタンを押したら、下へと続く階段が出現した。……だが、青のボタンを押した時に何が起こったか、どうにも思い出せないのだ。確かに、押したという記憶だけはあるのに……。

首を捻る僕を尻目に、ヒヨコ人間は得意そうに黄色のボタンを押した。止める暇もなかった。

……途端に、洞窟全体が揺れ動いた。僕は恐怖し、思わず地面に伏せた。

そして、聞いた。ここではない、どこか違う場所で、ズゴゴゴゴ……という、地鳴りのような音が鳴っているのを……。

揺れも、地響きも、すぐに治まった。立ち上がると、僕はすぐにピエールに尋ねた。

「今のは?」

「今まで隠されていた、秘密の道が現われた音ですよ。さあさあ、いつまでもこんな処で油を売っていないで、行くとしましょう」

ピエールに急き立てられ、僕は来た道を戻る羽目になった。気は進まなかったものの、どちらにしても、見に行かずにはいられない。全てを確認しなければ気が済まない、あの忌まわしい、几帳面な性質のせいで……。

 

ピエールと共に道を戻り、それを見つけたとき、僕は思わず言葉を失った。本当に、今までに見たことのない道が出現していたからである。……いや……正確には、門が……。

今まで通り過ぎていた、あの首のない地蔵……その近くの岩壁に、見覚えのない門が出現していて、中を少し覗いてみると、その先には広大な空間が広がっていた。

門の上には厳めしい字で、何やら碑文が刻まれている。しかし、残念ながら、僕には読むことができない。アルファベットだが、英語の綴りではない……。

「……これは?」

僕が聞くと、ピエールが振り向いて答えた。

「それなのですけどね……これこそ、あの有名な地獄門ですよ」

したり顔で答える台詞に、僕は仰天した。

「地獄門だって?ダンテの『神曲』に出てくる?」

「おや、読んだことがおありですか?お若いのに、感心ですな」

満足げに言うピエール。僕は多少得意に思わないでもなかったが、それ以上に高所からものを言っているようなヒヨコ人間の言い草が気に食わなかった。

「では、この門の上に書いてある文字、なんと書いてあるかはご存知でしょう?」

試すように言う。僕は多少怯んだが、負けて堪るかと記憶を振り絞った。

「たしか……。我をくぐる者、全ての希望を捨てろ、とか……」

うろ覚えの記憶を、なんとか引っ張り出す。はっきりと覚えていないことが悔しかった。

「そうそう、そんな感じです。いや、本当に読んでおられたのですな。感服しました」

やはり、疑っていたものらしい。当然だ、という顔を作ったものの、実は内心では冷や汗を掻いていた。……実を言えば、僕は煉獄篇までしか読んでいないのだ。

幸い気付かれなかったようで、ピエールが話を続ける。

「しかし、この碑文の文章は、実は違うのです。……いえいえ、貴方の記憶違いと言うわけではないのです。我々の前に現われたこの門は、厳密に言えばダンテの『神曲』に出てきたものとは違うのですよ。これはその出張版、という奴ですな」

「……出張版?」

「そうです。ダンテがウェルギリウスに連れられて通ったというあの地獄門、あれこそが正式な地獄門でして、その上には確かにおどろおどろしく、一切の望みを捨てよ、汝等、我をくぐる者、とこんな感じで書かれているという次第ですが、ここにある門はそれとは違うのです。あちらを本店とするなら、こちらはいわば支店ということもできるわけですな」

「支店だって?」

僕は驚き、そして呆れた。地獄門などという恐ろしげなものに、そんな種類があるとは……。

僕の漏らした呟きに、ピエールが律儀に答える。

「左様です。なにせここは、本来は地獄門が通じているような場所ではないのですからね。支店という言い方が拙ければ、東門とか、裏門などとも表現できますが。とにかく、元々門がなかった場所にこれを作って、無理やりあっちとつなげたというわけです。……だから、こちらの門は普段は閉じられている上に、隠されているというわけですな」

そんなピエールの説明も、僕はあまり聞いてはいなかった。特に、大事なこととも思わなかったのだ。

「それで結局、これには何て書いてあるんだ?」

「ああ、そうでしたな。この文……。なんと書いてあると思います?」

「知るわけないだろう」

僕は不機嫌に応じた。ラテン語だか、イタリア語だか知らないが、ヒヨコ人間というおかしな生き物に読める文章が僕には読めないということが、無性に腹立たしかったのだ。

「実はですな、なんと驚くべきことに、これは……いらっしゃいませ、ご主人様と書いてあるのですよ。ま、意訳ですけどね」

「……何だって?」

「そちらのお国柄に合わせたつもりなのでしょうな。ま、微妙に間違っていますがね

ピエールが笑う。何とも、厭な感じの笑い方だった。……外国から自分の国がこんな認識をされているのかと思うと、僕はなんだか惨めな気持ちになった。……そして、腹も立った。ほんの一部の人間のせいで、何の関係もない僕が、なぜ羞恥を覚えなくてはならないのだ?恥知らずな、オタク人間共め……

「さ、行きましょう」

僕の内心の怒りも知らず、ピエールが僕を促す。それで僕は我に帰った。

「行く、だって?」

「この中にですよ。そのために来たのでしょう?」

当然のようにピエールがいう。僕は躊躇った。

「僕は、行くなんて言った覚えは……」

正直言って、怖れを感じていた。新たな道ができたと聞いて来たのだから、確かに行く気はあったのだ。……だが、それがこんなものだとは思わなかった。普通の道でも危険だろうに、よりにもよって地獄門などという、恐ろしげなものだとは……。

「ああ、危険があるとお考えなのですかな?大丈夫ですよ。……ほら、思い出してみて下さい。地獄門に入ったダンテだって、古代の詩人ウェルギリウスに導かれて、無事に地獄を抜けたではありませんか。あれは、特に危険なことはなかったでしょう?……それに、実を言えばこれからお連れするのはアトラクションみたいなものなので、たいした危険はありませんよ、私が保証します」

……それを聞いても、僕は気が進まなかった。当然だろう。なんといっても、そうやって保証している当人が、この上なく胡散臭い存在なのだから……。

動こうとしない僕に、ピエールが言う。

「別に行かないというのならそれでもいいのですが。……しかし、幾ら迷ったところで、どうせ貴方は行くのでしょう?だったら、迷うだけ時間の無駄というものですよ」

……ピエールの言うとおりだった。こうしてこの目でみてしまった以上、探索して見なければ気がすまない。僕はそういう人間なのだ。特にこの階は全て踏破し、調べつくしたものと思っていただけに、このままにしておけば気になってしまって仕方がない。……今まで隠されていた秘密の道だということも、好奇心をそそった。

「この中でしか、手に入らないものもありますよ?」

その言葉が決定打となった。

こうして僕は、ヒヨコ人間ピエール・ロティと共に、地獄門をくぐることになってしまったのだった。

 

……地獄門をくぐり、目に入ってきた光景に、僕は思わず息を呑んだ。それほど、門をくぐる前と後では、自分を取り巻く世界ががらりと変わっていたのだ。 

僕の前にはいまや、広大な世界が広がっていた。狭苦しい洞窟に慣れてしまっていた僕には信じられないようなスケールの大きい光景だった。……だがそれは決して、心の休まる光景などではなかった。地獄門の内の世界は広く、それでいて一本の草も生えていない程、酷く荒れ果てていたから……。

どこからともなく、おかしな音が聞こえてくる。気味の悪い風の音のような、獣の遠吠えのような、不気味な音が……。

特に僕を驚かせたのは、空があることだった。どんよりと黒い不吉な雲が、いつ晴れるという気配もなく立ち籠めていたが、しかしそれでも、空であることには変わりはない。僕はてっきり、自分が洞窟の中から、外の世界に出てきたものと思ってしまった。

「そうではありませんよ」

僕の疑問を聞いて、ピエールが答える。

「ここも、紛れもなく、我々のいた洞窟の内部なのです。もっとも、内部などと表現していいのかどうか、私にもいまいちわかりませんがね。そもそもここは、一方が他方に含まれていると表現できるような、包含関係には収まらない世界なのですから。……まあ、その辺はともかくとして、ここはちゃんと地獄です。……さ、行きましょうか」

歩き始めるピエールに付いて、僕も足を踏み出した。

荒野を歩き続けるうちに、僕等は走り回っているおかしな集団に行き合った。それで僕は始めて、この地獄に入った瞬間から、遠くから聞こえてきていたおかしな音が、これらの人々の放つ悲鳴や苦痛の叫び、嘆きの声であることを知った。

「あれが、生前何もしなかった人々です」

ピエールが言う。目の前を行き過ぎる恐ろしい光景に震え上がりながら、僕もなけなしの記憶を甦らせていた。地獄門を入ったところにいるのは、確か……。

「この地獄の玄関とも言える場所にいるのは、生前悪事を働いたわけではないものの、特に何事も為さずにただ凡々と生きていた、要するに世の中の大多数の人間ですな。まあ要するに中途半端な生き方をした人間というわけで、だったら中途半端に死んでいなさいよ、というわけです。死ぬに死ねない、ってやつですな」

人々は蜂や虻に追われ苦痛の呻きを上げながら走り回り、そして何故か互いの身体を叩き合っている。

「最近では現世の人間が増えたとかで、地獄の中もどこもかしこも人数が増えてしまっているそうですが、その中でも特に人間が増えているのがここだそうですよ。死んだ人間の大半が、ここでああして走り回っているわけですな。まあ元々、ずっと昔からそうだったのですがね」

飄々とピエールは語る。その顔には、微塵も同情の色がない。

「ところで、これから我々はダンテと同じく、アケロン河を渡るためにカロンの渡し舟に乗らなければならないのですが、一つ問題がありましてね。というのも最初に言った通り我々が入ったのは正式な門ではなくて、言わば裏門だったわけで、だから少し勝手が違うのですよ。例の本では地獄門をくぐってわりとすぐにカロンの渡しまで着いたのですが、この裏門からだとぐるりと回っていかなければならないのですな。つまり、少しだけ時間がかかるというわけです。……まあ、そんな厭そうな顔をしないで。ただ少し歩かなくてはならないと言うだけなのですから。……お伝えしておかねばならないこともあるので、むしろちょうどいいくらいです」

「……伝えておくこと?」

苦痛に喘ぎながら走り回る人々の群れを見て、げんなりしながら僕は言った。道中、ずっとこんな光景を見なければならないと思うと、どうにも気が滅入って仕方がない。

一方ピエールの方はと言えば、星も見えない暗鬱な空を背景にして、それでいておかしなほどの快活な口調で、上機嫌で僕に話しかけてくるのだった。

「何だ?」

「この旅の趣旨というやつです。ここに入ったのは、なにも地獄巡りを楽しもうというわけでも、ダンテのように最愛の女性、ベアトリーチェに会いに行くというわけでもないのですよ。地獄門をくぐる前にも一度言いましたが、これは一種のアトラクションなのです」

「アトラクション?」

半分精気を失っていた僕も、その思いもよらない言葉にはつい反応してしまった。……無理もない。この地獄の旅路が、実はアトラクションだなどと言われて、驚かない人間はいないだろう。

「そうです。いや、ここが地獄だというのは本当なのですがね。我々がここに来たのは、ある特殊な目的があってのことで、そのためにぜひともこの地獄ツアーを敢行しなければならなかった、という次第なのですよ。はっきり言ってしまえば、これは……実は、探偵小説なのですよ」

「……探偵小説?」

僕は呟いた。さっきから、馬鹿みたいに相手の言葉を繰り返していることは自覚していたが、別に気にしなかった。それだけ疲れきっていたし、まともな反応を返すには、ヒヨコ人間の語る話は訳がわからなすぎる。

ピエールは特に気にもせず、得々と話を続ける。

「そう、探偵小説なのです。これから我々はあちこちを巡り、その先で様々な人間と会い、その話を聞くことになります。そのために、このツアーが必要だった訳ですな。……それで、その話を聞き終わったあとに、事件の概要を説明します。それを聞いて、それまで会った人間との会話を思い出して、一体誰が犯人なのかをあなたに当ててもらうという、こういった趣向なのです。……つまり、この旅それ自体が探偵小説であり、我々はその探偵小説の登場人物となるわけですな」

楽しくて仕方がない、といった調子でピエールが説明する。だが残念ながら僕は、その説明を聞いてもいまいちピンと来なかった。

「……つまり、これから会う人間の中に、実は犯人が混ざっているから、それを当てろ、と?」

「さあ……残念ながらその質問には、お答えできないのです。貴方の仰った通りかもしれませんし、そうではないかもしれない。探偵小説と言っても、普通とは違った、と言うより著しく変わった趣向ですからな……」

思わせぶりな言い方に、僕はまた苛立ちを覚える。

「……じゃあ、事件の概要を聞くのが最後なのは、何でなんだ?普通は、事件の概要を聞いてから、ヒントとして関係者の証言を聞くものじゃないのか?」

こうしたものに普通の場合などあるものか知らないが、とりあえず僕はそう言った。どう考えても、先に事件の概要を聞いておいた方が、頭の中で整理しやすい。全体像も知らずに、関係者の証言など聞かされても、混乱するばかりだ。

「それについても、残念ながらお答えできません。……ただ、これはサービスで一つヒントを出すわけですが。貴方はこれから会う人が事件の関係者であり、その話を事件に関しての証言だと決めてかかっていますが、そうとは限りません。……いえ、もうはっきり言ってしまいますが、彼らの話は事件とは直接関係ないのです。なにせこれは、普通の趣向の探偵小説とは、まるで趣が違っておりますからな。その点、お気に留めて置いたほうがよろしいですな」

ピエールの説明、いやヒントは、ますます僕を混乱させるばかりだった。関係者ではない?事件の証言とは限らない?……それでどうやって、事件を解決しろと言うのだ。そもそも、それでは話を聞く意味などないのではないか?

頭を悩ませる僕に対して、ピエールはやはり上機嫌だった。

「まあそういうわけで、私はこの物語のワトソン役にして、貴方の地獄巡りの案内をするウェルギリウス、と言うわけなのです」

……そして僕は、ホームズにしてダンテという寸法か。僕はそう独りごちた。

「ダンテの案内人ということならばベアトリーチェという手もあるわけでして、私としてはそのほうがいいのですが。今回の私は地獄のみの案内人ですからな。それは、我慢しておきますよ」

そう言って、ピエールはアハハ……と笑う。醜悪なヒヨコ人間の冗談に、しかし僕は笑えなかった。世の中には、たとえ冗談であっても、口にしてはならないことがあるはずなのだ。

それから、僕等は延々と歩いた。陰鬱な空の下、荒れ果てた大地の上を、押し合いへしあいしながら走る無益者の群れを掻き分けて、ひたすら歩いた。目の前で揺れる、奇っ怪なヒヨコ人間の、背中を見ながら……。

――その詩人は、古代の詩聖に導かれて地獄を下った。天上に昇った、最愛の女性に逢うために……。

同じ道を、僕はヒヨコ人間と共に行く。

 

どれ位の距離を歩いたのか、ついにそれまでと違う光景が現れて、僕の目に映った。向こう岸が見えないほどの巨大な、満々と水を湛えた大河である。

「あれが、アケロン川ですよ」

振り返り、ピエールが言う。初めて目にした冥界の河の姿に、思わず僕は感嘆の息を漏らした。

岸の辺りに、人が大勢屯している。ピエールは、どうやら僕をそこに連れて行こうとしているらしかった。

「あそこが、カロンの渡しです。この河を渡るには、あそこでカロンの操る船に乗せてもらうしかないわけですな。だからあそこにいる人の群れは、皆地獄行きの罪人と言うわけですよ」

ピエールの説明で、僕は以前に本で読んだ場面を思い出していた。うろ覚えだったものの、本の中の世界を実際に見ることができて、嬉しかったのだ。

「さあ、行きましょう。あれに乗らなければ、本物の地獄には行けませんよ」

「でも、時間がかかるんじゃないか?あんなに人が並んでいるのに」

岸辺には、大地を埋め尽くすほどの大勢の人間が集まり、順番を待っている。これを待たねばならないのかと思うと、気が遠くなりそうだった。

そんな僕の懸念に、ピエールは不敵に笑って見せた。

「なに、大丈夫ですよ。私に任せておきなさい」

そう言って、人の群れに向かってずんずん進んでいく。不安に思いながらも、僕はその後に従った。

どうするのかと思って見ていると、不思議なことが起こった。ピエールが屯している集団に近づくと、一斉にその人垣は割れて、ピエールを中心に道ができたのだ。……それはまるで、旧約に言うモーセのエジプト脱出の、あの海が割れる壮大なスペクタクルを思わせた。

というのはもちろん冗談で、僕の目の前に起きた光景はそんな神聖で壮大な場面などではなく、もっと滑稽かつ陳腐なものだった。人々が退いたのは、偉大な聖人の威光に打たれたためなどでは断じてなく、単に異様な風体のヒヨコ人間が近づいて来たため、怖れを為して逃げただけのことだった。それはさながら、突如として現われた怪物相手に群集が阿鼻叫喚で逃げ惑う、B級のパニック映画のような光景だった。……どうやら、ピエールを地獄の悪鬼か何かと勘違いしているらしかった。

どんなもんですかな、という自慢げな顔でピエールが振り向く。僕は完全に勘違いしている様子のピエールを促して、先を急いだ。

人の群れを抜けると、目の前にアケロン河の岸が現われる。その岸辺には小さな渡し舟が停まっており、厳めしい顔に白い髭を生やした、癇癖の強そうな老人の姿があった。

「彼がカロンです」

ピエールがそっと囁いた。どうやら、あの老人が渡し守のカロンらしい。

モーセの十戒よろしく、人の群れを割って現われた僕等(主にピエール)を見て、カロンが声をあげた。

「い、一体何だ、おぬしらは!」

少し狼狽している。……さしもの地獄の獄卒も、どうやらヒヨコ人間の異様な外見に気おされているらしかった。

そんな老人に、ピエールは気負うことなく近づいていった。縮こまる老人に、気安げに声を掛けた。

「初めまして、カロン。私は、ピエールと言う者です。……落ち着いて下さい、大丈夫、私は紳士です……。こちらは、私の友人でして、決して怪しい者ではありません……」

そう言って、にやりと笑う。老人の緊張を解こうとしているようだったが、その異様な容貌に浮かんだ不気味な笑みは、却って老人を震え上がらせただけだった。

「そ、そのピエールが、何用でここへ来た?」

「貴方への願いは、決まっているではありませんか。私達を、向こう岸に渡して欲しいのですよ」

「なんだと?しかし、それは……」

カロンは躊躇いがちに、何故か僕の方を顧みた。

「まあまあ……。渡船料は、ちゃんと二人分払いますから」

そう言って、ピエールは何かを渡す。

「いや、そういう問題ではなく、だな……」

「まあまあ……」

それから先の会話は、僕には聞き取れなかった。二人は声を潜め、小声で会話をしていたからだ。二人、特にカロンの方は、何事かを気にするように頻りに僕の方を振り返った。 

だが、どうやって言いくるめたものか、結局その数分後には、僕はピエールと共に船上の人となっていたのである。

船には、僕、ピエール、そして渡守であるカロンの三人しか乗っていない。船にはまだまだ余裕があるように見えたが、他の乗客の姿はなかった。カロンがいくら乗せようとしても、誰も乗ろうとはしなかったのだ。人々は、カロンに櫂で打たれることよりも、インコ人間と同じ船に乗ることを怖がっていた。

僕は暫らく船縁に寄りかかって、すぐ下を流れてゆく川の水面を眺めていた。底の見えない、濁った灰色の川。靄が立ち籠める水面に指を伸ばして触れると、まるで凍りつくように冷たい。これでは落ちたらすぐに動けなくなってしまうだろう。僕は慌てて指を引っ込めた。それだけで、魂を持っていかれそうな気がして……。

改めて実感する。

これが、あの有名なアケロンの川。死の国の川なのだ……。

僕はしばし感慨に耽っていた。

しかしアケロン川はあまりに広く、ようやく状況に慣れてきたこともあって、すぐに退屈を覚え始めた。どんな川であれ、所詮は川なのだ。眺めていて楽しいものではない。

カロンは黙々と櫂を漕いでいる。仕方なく、僕はピエールに話しかけた。

……さっき、何を話していたんだ?」

「何、他愛ないことですよ。ちょっと、粉薬を効かしただけ……」

まともに答える気はないらしい。仕方なく、僕はまた船の下を過ぎる、濁った水面に目を落とした。船の行く先を見ても、来た方を振り返っても、果てしない河の流れがあるばかりだった。他は靄のせいで何も見えない。

……と、ふいに、辺りが揺れ始めた。河の波のせいではなく、地面全体が揺れているとわかった。大気が震え、爆発したように思われて、僕は忽ち意識を失ってしまった……。

 

肩を揺すられて、僕は目を覚ました。

「お目覚めですか」

飛び起きた。目覚めた僕の眼に、ピエールの奇怪な顔面が大写しで映っていたからだ。

そしてすぐに僕は、辺りの光景が全く違ってしまっていることに気がついた。

船の上ではない。あれほど周囲を埋め尽くしていた水はここにはない。固い地面の上に、僕は横たわっていたのだ。

いや、それは正確には、地面ではなかった。僕が寝ていたのは、冷たい氷の上だったのだ。

そう気付くと、途端に寒さが身に沁みた。

「ここは……?」

辺りを見回す。僕の周囲に広がっていたのは、どこまでも続く氷原だった。相変らずの暗い空、シンと冷えた空気、立ち込める靄……。

その寒々しい光景に、僕は立ち竦んだ。地獄門を入って見た光景も荒れ果てて見えたが、ここは一層荒涼としているように見えた。

「ここですか。ここは、コキュートスですよ」

「……コキュートスだって?」

思わず、僕は頓狂な声をあげた。コキュートスといえば……。

「……それは、地獄の最下圏のはずじゃなかったか?」

大きく九層に分かれた地獄、その一番下の圏が、コキュートスという名前だったはずだ。

「その通り。神をも恐れぬ罪人共でひしめき合う地獄の中でも、もっとも最悪の罪人が落とされる地獄の最下層、それがこのコキュートスです。此処に落とされた罪人たちは皆この氷の沼に浸かって、氷付けになっているわけですな」

僕は怖気を振るった。数多の罪人の中でも、もっとも罪の重い連中。歴史に残る人物が……いやそれどころか、神話に出てくるような恐ろしい悪役が、此処にいるはずなのだ。そう、確かダンテの神曲に拠れば、ここには神に逆らったルシフェルまでもいるはずなのだ……。

「何で、僕等はこんな処にいるんだ?まだ地獄の玄関を抜けたばかりだったのに、いきなり最下層だなんて……」

状況が把握しきれず、僕は不満げにいった。無理もないだろう。何せ、アケロンの河を渡っていると思ったら、いきなり最下層に到着したと言われたのだ。ダンテもアケロンの河渡りの最中に気を失っていたが、彼が目覚めたのは順番どおり、第一の圏だった筈だった。

「なぜって、それは、我々が会おうとする人物が此処にいるからに決まっていますよ。だから、余分な手間は一切省いて、一足先に此処に下りてきた訳です」

「一足どころじゃないだろう?」

不満をぶつけても、インコ人間は些かも気に留めない。

「アッハ!そうですな、一足どころか、二足でも三足でも足りませんな。第一圏どころか、一気に第九圏に堕ちたのですからな!これは傑作、アハハハハハハ……」

何がおかしいのか、一人で受けて笑い出す。僕は呆れた。

「目的の相手が此処にいるからって、全部素通りしなくてもいいのに……」

ダンテは長い地獄巡りをして、ようやくこの最下層まで辿り着いたというのに、僕は途中経過を一切すっ飛ばしてしまった。地獄をじっくり見たかったのかと聞かれれば正直微妙なところだが、その殆どを見ずに済ましてしまったと思うと、どこかしら残念な気持ちもあった。

僕の訴えを聞いて、ピエールはまた笑う。

「あちこち見て廻りたかったですって?そんな、御冗談を。そんな余裕なんて、とてもありませんよ!時間的に!……そしてなにより、力量的にね。正直、これだけでも一杯一杯なのですからね!」

訳のわからないことを言い始める。誰に余裕がないのだ?

「まあ、そう残念がらずに。考えようによっては、いいとこ取りともいえますよ。なにせ、余分な苦労は一切しないで、もっとも奥まったところを見られるわけですからな。それに、何といっても私達の目的は、ある残虐な、世にも奇妙な、前代未聞の犯罪事件の解決にあるわけでして、その手掛りを得ることだと思い出していただきたい。それを考えれば、途中の有象無象の罪人達なんて私達にとっては何の手掛りにもならないわけですよ。……でも、ここならまさに打ってつけ。なにせこのコキュートスには、ありとあらゆる反逆者たちが氷付けにされて、この氷の沼に漬けられているわけですからな。……さあ、そろそろ立ち上がって、動き出すと致しましょう。ぐずぐずしていると、貴方もここで氷漬けにされてしまいますよ……」

その脅かしを真に受けたわけでもないが、僕は立ち上がった。……目を凝らしてみると、確かに視線の先で、氷の沼から無数に何かが生えているのがわかる。

そちらに向けて歩き出すピエールを追って、僕も歩き出した。

少し歩くと、僕の前には奇奇怪怪な、そして空前絶後の奇観が広がっていた。見渡す限りの氷原に、それを埋め尽くさんばかりの無数の亡者が浸かっている。亡者達は首まで氷に浸かり、生白い顔だけを曝しながら、寒さに唇を震わしているのである。

言葉を失くし、立ち尽くす僕を全く顧みず、ピエールはすたすた歩いて行く。仕方なく、僕も急いでその後を追った。

「このコキュートスには、ありとあらゆる凶悪な反逆者達が落とされるわけですが……」

歩きながらピエールが説明を始める。

「それも、全体が四つの円に分かれております。我々がいるのは第一の円、カイーナですな。第二の円はアンテノーラ、これには祖国への反逆者が落とされており、第三の円トロメアには、自分の招いた客に対する裏切りものがいるわけです。そして第四の円ジュデッカ、この名はかのイエスを裏切ったイスカリオテのユダにその名を由来する訳ですが、その名の通り恩ある主を裏切った者達が、そこに堕とされているわけです。ジュデッカにはまずそのユダに、カエサルを裏切ったブルータスといった錚々たる面子がおりまして、これも主である神を裏切った悪魔王ルシフェルの牙に噛まれ、その身を苛まれているのです。地獄は漏斗状になっておりまして、第九圏は最下層に当たるわけですが、その中でもこのジュデッカは最下層の一番下、つまりこの世界の底に当たるわけですな……」

そういいながらピエールは器用に、氷面から生えた無数の首を避けて歩く。その首達は大抵はしょげ返ってしおらしげな様子を見せているのだが、中には恨めしげに睨んでくる奴らもいるので僕はすっかり緊張してしまい、濫立する彼らをうっかり蹴ってしまわないように、おっかなびっくり歩かなくてはならなかった。

「それで、ここは一番外側に当たるカイーナなのですが。その名の由来は、創世記に出てくるカインという人物です。貴方は、カインはご存知でしょうな?」

こちらの苦労も知らぬげに尋ねてくる。ちょうどその時僕は、一見していかにも短気そうな男の首を踏み越えようとしてぎょろりと睨まれた所だったので、ピエールに腹を立てる余裕もない。

「弟を殺した悪人だろう?」

それ位は知っている。……が、それどころではなかった。僕がそう答えた途端、その場にいた無数の首が、一斉に僕を睨んだからだ。

それに気付かぬように、飄々とピエールが答える。

「そう、そのカインです。つまりその名を冠したこのカイーナには、骨肉の縁に連なる同族を裏切り殺した人でなしの輩が氷漬けにされているわけですな」

……つまりここにいるのは、皆が肉親を殺した連中ばかりで、だから一斉に僕を睨んだというわけなのだった。

「その弟殺しのカインですが、貴方は彼が最初の殺人者だということを知っていましたか?」

「……最初の殺人者?」

「そうです。カインは、人類の内で初めて殺人という罪を犯した人物なのですよ。なんといっても彼は、最初の人間であるアダムと、その妻であるイブの間に生まれた、最初の子供なのですからな。そして、彼の次に生まれた弟のアベルを殺してしまったわけです。アダムとイブは神に禁じられた知恵の樹の実を食べるという原罪こそ犯しましたが、殺人という罪は犯してはいません。だから、カインこそ人類最初の殺人者なのですよ」

「……人間の生んだ最初の子供が、最初の殺人者だった……」

「まったくもってその通り。最初の人間であるアダムとイブが原罪を犯し、その次に生まれてきた人類最初の子供が、いきなり殺人を犯してしまう。いやはや、何とも意味深で、人間という種を象徴的に表した話だとは思いませんか?」

自分には関係ないからか、ヒヨコ人間は空恐ろしいことを気楽に言う。ひょっとしたら皮肉が混じっていたかも知れないが、不気味な首で足の踏み場もない氷原を歩く僕としては、そんなことに気を払う余裕もない。

「それで貴方は、どうしてカインが弟を殺したのかはご存知ですかな?」

「え?」

その質問に気を取られた僕は、危うく足元の禿頭の老人を蹴ってしまいそうになった。

「いや、知らない……」

「おやおや、それはいけませんね。弟を殺したことは知っているのに、その理由は知らないなんて。気にならなかったのですかな?」

そう言われるとその通りなので、僕は腹は立ったが、なにも言えなかった。

「まあ、それについては、後でゆっくり……、おっと」

「なにすんだい!」

突然ピエールが調子外れの声を出したと思うと、どこからか罵声が上がった。まだ距離が離れていたので僕の位置からはよくわからなかったが、どうやらピエールがうっかりと女の首を蹴るか何かしたものらしい。

「これは、失礼を致しました。麗しき女性の顔面を踏みつけるなど、全く紳士として恥ずかしいことをしてしまいましたな」

「何が紳士だい、このけったいな鳥野郎!」

ピエールは一応謝っているようだが、遠くから聞いていても、全く誠意が感じられない。相手が怒るのは(鳥野郎という表現についても)全く当然といえるだろう。

「あんたね、人の顔を土足で踏んづけておいて……」

「うるさいわね、そんなに騒がないでよ」

罵声を上げる女の声を遮って、別の女の声が聞こえた。もっとも、声から受ける印象は大して違わない。

「ちょっと顔を踏まれた位で騒いじゃって。あなたの顔なんて、いくら踏まれたところで大して変わりはしないじゃないの。ちょっとあなた、もっと踏んであげなさいよ」

「言いやがったね、このあばずれ女!」

「あばずれはそっちじゃない、この犯罪者!」

女同士で言い合いを始める。その時になって、漸く僕は追いつき、事態をこの眼で見ることができた。

ピエールの足元で、二人の女が罵りあいをしている。どちらも若い女で、首まで氷に埋まっているのも同じだった。そして、どうにも品の良くない印象を受ける点でも共通していた。

向かって右側の女はそばかすのある、赤毛に近い栗色の髪の女(の首)で、どこかすれた印象を受ける。顔がどこか汚れているのと、怒鳴っている言葉から判断するに、どうやらこちらがピエールに踏まれた女らしい。

他方、左側の女はブロンドの長い髪で、それだけ見ると右側の女より多少はましに見えそうなものだが、やはりそれほどの違いはない。実際にこの眼で見ても、やはり二人の女の印象は全体的によく似ているといえた。

……僕は少し驚いていた。この地獄にいるということは、即ちこの女達は自分の親族のものを殺した大罪人であるのだ。もっとも、この罵りあいを見ていれば、それほど以外ともいえないのかも知れないが……」

「おや、貴方。丁度良いところに」

ピエールが、追いついた僕を振り向く。どう見ても、反省している様子はない。僕は聞いた。

「何が丁度いいって?」

「実はですな、我々の目の前にいるこの二人の女、実は互いによく似た罪を犯しまして、こうして仲良く氷漬けにされているのです。そこで問題なのですが、この二人は一体、どんな罪を犯したと思いますか?二人の会話をヒントに、考えてみて下さい。」

唐突な言葉に僕が面食らっていると、また足元で叫びが上がる。

「ちょっと、ふざけないでよ!」

その言葉を発したのは、左側のブロンドの髪の女である。

「私を、こんな薄汚い犯罪者と一緒にしないで欲しいわ!」

「犯罪者だって?よくもぬけぬけとこの女!」

すかさず右側の、赤毛の女が言い返す。

「だったら、あんたは犯罪者じゃないってのかい?ああ、確かにあたしは罪を犯したさ。でも、だったらあんたも同罪だよ!いや、あたしに言わせれば、あんたの方が酷いね。あんたの方がよっぽど薄汚い、忌まわしい犯罪者だよ。一緒にするなだって?こっちの台詞だよ、この淫乱女!」

「淫乱だって!それはあなたじゃない、この売女!言っておくけど私はね、犯罪なんて何一つ犯しちゃいないの。私のしたことは、あなたの時代ならいざしらず、今では合法的に許されているのよ。だけどあなたのしたことは、どんな時代でも許されちゃいない、最低の汚らわしい犯罪じゃないの!」

「よく言うよ、だったらなんであんたはここにいるのさ!」

「そりゃ、聖なる教えに背いてしまったからよ。でもね、少なくとも私は、社会の掟に背いたりはしなかったわ」

「なにが社会の掟さ、そんなものここでは何にもなりゃしないんだよ。あんたはあたしをそうやっていつも犯罪者呼ばわりするけどね、言っておくけどあんたのしたことだって、あたしの時代なら立派に縛り首になるような罪なんだよ!」

「だから、時代が違うって言ってるじゃない!あなたの生きていた頃のような野蛮な時代と一緒にしないで!」

…………

僕の目の前で、女達は口を極めて相手への非難を繰り返している。

「どうです、わかりましたかな?」

ピエールに聞かれても、僕は曖昧な顔を浮かべて、首を振るしかなかった。正直、さっぱりわからない。わかったのは、この二人の生まれた時代が異なるということと、この二人の女が、実際よく似た連中だということだけだ。

「困りましたな、これはほんの肩慣らしの問題のつもりでしたのに。この二人の会話と、我々がいるこのカイーナという場所の特性を考えれば、自ずとわかるはずですぞ?」

そう言われても、わからないものはわからない。……というより、氷の上に首だけ出して、凶暴な顔で喚きたてる二人の女に……その醜さに……圧倒されて、考える気力も湧かないのだ。

「仕方ありませんな、答えをお教えしましょう。……この二人、実はどちらも、自分の子供を殺したのですよ

僕は思わずぎくりとして、二人の女の顔を見た。

「こんな人殺しと一緒にしないで!」

先にそう叫んだのは、やはりブロンドの髪の女だった。

「この女はね、自分の赤ん坊を殺したのよ!自分が貧しくて、生きていくのがやっとだからといって、自分がお腹を痛めて産んだ、やっと歩けるようになったばかりの赤ん坊を縊り殺したのよ!それが本当に、人間のすることかしら?この血も涙もない、児殺し!」

「言いやがったね、この人でなし!あたしが嬰児殺しなら、あんたなんて胎児殺しじゃないか!」

胎児殺し?」

聞きなれない、おぞましい響きの単語を聞いて、僕は思わず声を上げてしまった。赤毛の女が、味方を得たような顔で僕を見る。

「そうさ、この女はあたしが自分の赤ん坊を殺したといって非難するけどね、そういう自分はまだ産み落としてすらいない、自分の腹の中にいる子供を殺したんだよ!」

「つまり、堕胎したというわけですな」

と、ピエールが解説を入れる。

「そうさ!この女は、まだ母親の身体から出ることもできない、弱々しい胎児を殺したんだよ!可愛そうな赤ちゃん、目を開けるどころか、この世に生まれることもないまま、殺されちまうなんて!」

「なに言ってるのよ!」

ブロンドの女が叫び返す。

「何度も言ってるじゃない!あなたの時代には堕胎は禁じられていたそうだけどね、私の生まれた時代には、堕胎はちゃんと法律で認められているのよ!あなたの時代とは違う、近代的な国家の民主的な政府が、ちゃんと犯罪じゃないって認めてくれていたんだから!ねえ、そこのあなた、あなたの国でも認められているのでしょう?」

この最後の言葉はこちらへ向けての質問だったので、僕は頷かざるを得なかった。それを見て、ブロンドの女が勢いづく。

「ほら、みなさい!あなた達中世の人間とは違って、私達の時代は進んでいるの!」

これで僕は、赤毛の女――自分の赤ん坊を殺したという女が中世の封建時代の人間だということ、堕胎したというブロンドの女が、もっと後の――現代とは限らないが、少なくとも近世の――人間であることを理解した。

「何が私達だい、男に媚びやがって!聖書の教えもろくに知らないような、野蛮な豚を味方にして威張るんじゃないよ!」

僕を睨みつけながら、赤毛の女が叫ぶ。

「時代が何だ、社会の掟が何だ!そんなもの、永遠の聖なる掟の前には、何にもなりゃしないんだよ!あんたはあたしを責めるけどね、あんただって結局のところ、食い扶持が増えて困るのが厭で、自分の子供を殺したんだろうが!」

「あなたと一緒にしないでよ!私がお腹の子を堕ろしたのはね、別に私のためじゃない。父親のわからないような子供を産むのが、かわいそうだと思ったからよ。父親がいなくて肩身の狭い思いをしたり、寂しがったりするくらいなら、いっそ産まない方が子供のためだと思ったのよ。私は、あなたとは違うのよ!」

「いいや、違わないね!」

赤毛の女が、むきになって言う。

「自分のためじゃないだって?子供のために、産まなかっただって?誤魔化すんじゃないよ!父親がいるかいないかなんて、大した問題じゃないだろう!貧しくて、ひもじい暮らしをしていても、それでも生きたいと願う子供だっているんだ。生きるか死ぬか決めるのは、あんたじゃなくて、その子供自身なんだよ!あんたは卑怯な誤魔化しを言って、自分を正当化しているだけなんだ!」

「おや」

僕にだけ聞こえるような小さな声で、呟いたのは勿論ピエールである。そのまま、そっと囁いてくる。

「気付きましたか?あの女性、中世の人間だというわりには、随分と変わったものの考え方をしていますね。子供の人格やら、その自我やらを尊重しているような言い方です。随分と近代的な考えではないですか?中世の庶民なら、人間の命は神様から授かったものなのだから、人の勝手な考えで奪ってはならない、とでも言うべきところだと思ったのですがね」

「……それをいうなら、そもそもキリスト教では自殺が認められてはいないんだから、生まれてきた子供は死ぬことを選べないはずだといってやるべきじゃないか?」

ごもっとも。そこのところ、少し書き直した方がいいのではないですかね?」

僕等が会話を交わす間にも、中世生まれ(?)の赤毛の女の叫びは続いていた。

「あたしから言わせれば、せっかく命を授かっておきながら、産まれてこなかった赤ん坊が気の毒で仕方ないよ!あんたは、なんて人でなしだろう!」

「人でなしはあなたの方よ!一度生まれてきてから死ぬ方が、子供にとっては苦しいに決まっているじゃない!その方がよっぽど残酷だわ!それなら、まだ産まないうちに堕ろしてしまったほうが、苦痛がない分ましよ!」

「……とまあ、こういう次第で」

怒鳴りあう二人の女を背に、ピエールが振り返る。

「事情はもうお分かり頂けたと思いますが、さて貴方なら、どちらに軍配を上げますかな?」

正直に言えば五十歩百歩。そうは思ったが、一応答えた。

「心情的に言えば赤毛の女に味方したいところだけど……。筋が通っているのは、ブロンドの女じゃないかな」

「ほう。どうしてそう思われるのです?」

「だって、ブロンドの女が生まれた時代には、堕胎が法的に許されていたんだろう?赤毛の女は、自分の生まれた中世には許されなかったと言っているけど、もう時代が変わっているんだから、その批判は当たらないじゃないか」

「成る程。しかしそう思うのは、やはり貴方がキリスト教圏ではない、東洋の生まれだからでしょうな」

とピエールが言う。関係ないことだが、僕はこのインコ人間の生まれがどこなのか、初めて気になった。名前の響きではフランスっぽいが、果たしてそれを信じていいのだろうか?……なにせ外見では、判断など不可能なのだから。

「彼等にとっては、ことはそう簡単ではないのですよ。政教分離と口では言っても、なかなかそれを徹底させるのは難しい。実際キリスト教圏の国では、現代においても堕胎は認めるべきか否か、ということが政治的論争の焦点にもなりますからな。……とはいえ、これくらいにしておきましょう。我々は、とんだ道草を食ってしまいました」

そう言い放って歩き出すピエールの後に、僕も付いていった。口汚く少し哀しい、女達の論争の声を背中に聞きながら……。

一度振り返った僕に、ピエールが言った。

「貴方は、なぜそう彼女等を気にするのです?あの二人のことを気に掛ける必要などありませんよ。彼女達が口にしたこと、あれはね、実は全てまやかしに過ぎません。ここで氷漬けにされて、そして互いに口論している内に思いついた後付けの理由ですよ。生前の彼女等が自分の子供を殺める時、あそこまで考えていたはずはありません。……だって、もし生前に悔いる気持ちがあったのなら、こんな地獄の底にまで落とされた筈はないのですからね。さあさあ、早く行きましょう。なんたって、私達がこれから会いに行くのは、もっと大物なのですからね」

「大物って、まだ誰かに会うのか?僕はてっきり、あの二人に会いにきたのかと思ったよ」

「まさか」

ピエールは大げさに肩を竦めた。

「あんな、名も無い二人の女に会うためだけに、こんな地獄の底にまでわざわざ来るものですか。私の目当てはね、大物中の大物です。世界的にも広く知られている、神話に登場するようなスケールの大きな人物なのですから。人類という種族の全体において、ある一つの類型の象徴を為す、代表的な人物なのですよ……」

ピエールのもったいぶった口調に、僕も思わず唾を呑んだ。

「一体……誰なんだ?僕も知っている人なのか」

「勿論ですよ」

なぜか声を潜めるように、ヒヨコ人間はそっと囁いてきた。

「それはね、実を言えば先程も、我々が話題にしていた人物です。この最下層における第一の円、カイーナの名の由来となった人物。……そう、何を隠そう、あの弟殺しの、カインなのですよ……」

「誰だ、俺を呼んだのは?」

唐突に響いた声に、既にピエールの言葉に驚いていた僕は、さらに飛び上がった。慌てて周囲を見回すと、辺りにはあれほど密生していた生首の群れは見当たらなくなっていて、ぽっかりと開いた空間の真ん中に、立派な体格を持つ一人の男が、半身を氷漬けにされていた状態で立っていた。そう、このコキュートスで首まで氷漬けにされていた他の亡者とは異なり、彼が氷に埋まるのはその下半身のみで、彼の上半身は氷の沼から突き出ていたのだ。……とはいえ極寒のこの地では、埋まっていない上半身も半ば凍り付いているに等しく、その姿はまるで芸術家によって生み出された、彫刻の胸像のように僕の目には見えた。 

僕はピエールを振り返った。ピエールが保証するように頷いたので、僕は確信することができた。その男こそが、あの弟殺しのカインなのだ……。

思わず、しげしげと眺めてしまった。カインの顔を表現するのなら、まず挙げるべき特徴はその憂わしげな瞳だろう。カインの顔付きは厳めしく、勇壮な戦士のようにも見ることはできそうなのに、その物思わし気な瞳が彼を、酷く陰鬱な青年に見せていた。頬は、まるで鋭い刃物で肉をこそぎ取ったように痩せこけており、顔色は悪く、眉間に刻まれた深い皺は彼の、あまりにも長い歳月の苦悩を表しているように思える。

……僕は圧倒されていた。相手が神話に出てくるような伝説の人物だから、ではない。目の前の人物が発している、只ならぬ雰囲気に呑まれていたのだ。弟殺しという大罪を犯した、人類最初の殺人者は、しかし並の善人と呼ばれる人間達よりよほど高潔な、聖人とも言える存在に映った。……少なくとも、到底悪人には見えなかった。冷たい氷原から生えたその上半身は固く引き締められていて、一切の無駄がなく、逞しい腕で頭を押さえているその姿は、彼が永遠の悔恨に苦しんでいることを示している。……その美しさ……その気高さ……。それは真理を求める厳格な苦行僧のようであり、偉大なる賢者の彫像のようにも思われた。

「そなた達は何者だ?何用があって、この愚かな男を訪ね来たのだ?かつてこの地を行き過ぎた、偉大なる詩篇を書き上げたフィレンツェの詩人にもついに顧みられることのなかった、この世にも穢れた罪人に?」

抑制されたカインの低い声が、静寂の氷原に響いた。僕は答えようとしたが、それを果たせなかった。極度の緊張に、どうしても言葉が出なかったのだ。

……よって、彼の言葉に答えたのは必然的に、あの男となってしまった。

「いやどうも、お初にお眼に掛かります、カイン殿。私は、ピエール・ロティと申します。よろしければ、ぜひ親愛の情を込めてピィちゃんとお呼び下さい。後ろにいるのは、私の無二の親友です」

ひょこひょこと進み出たピエールの姿を見て、半ば氷に覆われていたカインの厳格な表情が、どこか呆気に取られたように変わった。……僕の目には、永遠の苦悩を刻んだかのようなカインの眉間の皺が、ピエールを見たせいで僅かに、しかし確かに深くなってしまったように見えた。

僕の緊張も、カインの威厳も。そして場に満ちようとしていた神聖な雰囲気さえも、この男のせいであっけなく雲散霧消してしまっていた。

「……一体、何者なのだ……そなたは?」

どこか恐る恐るといった響きを声に籠めて、カインが言う。その声からは相手に失礼にならないようにと心がけている気遣いがひしひしと感じられたので、僕はとても申し訳ない気分になった。できることなら、僕はカインに土下座したい。

「私は、ヒヨコ人間です」

何の説明にもなっていないことを、ピエールが宣う。

「……そうか……」

何とも言えない表情で、カインが頷く。ひょっとしたら彼は、今の現世にはこういう人間が溢れているのだ、という誤まった理解をしてしまったのかもしれなかった。……しかし、無力な僕にはなにもできない。

赦してください。

「それで、……ヒヨコ人間であるところのピエール殿が、一体何用で此処に来たのだ?」

「それなんですがね」

と、ピエールは僕を指差した。

「この私の友人に、貴方についての物語を語っていただきたいと思いまして。私の友人は遥か東の地の出身なもので、貴方のことも詳しくは知らないのですよ」

カインの眼が、僕に向けられる。僕は瞬時、恐れた。彼の厳しい眼差しが、僕に向けられることを。ピエールの言葉が僕を恥じ入らせていたことも、僕の恐れを煽った。

……だが、それは杞憂だった。僕に向けられたカインの視線は、僕が思っていたよりもずっと穏やかだったのだ。それで僕は、カインの苛烈なまでに厳しいその眼光は、彼自身に対してしか向けられないものなのだと知った。

「……いいだろう。この愚かな男の昔語でも、後世の者への戒めとなるなら、幾分は役に立つかもしれぬ」

自嘲気味に呟いて、それからカインは語り始めた。

「我が名は、カイン。最初の人間であるアダムとイブの最初の息子であり、そして彼らの二番目の息子を殺した男。それにより、私は忌まわしい人類最初の殺人者となり、そして最初の弟殺しとなった。このいと低き地、穢らわしい肉親殺しの罪人共が堕とされるこの不浄の地の名前は、その忌まわしい勲に拠る」

氷の沼を哀しげに見回し、カインは続けた。

「無垢なる弟アベルを殺した罪により、私は永久に呪われた身となった。大能者により私は地より追放され、土地を耕す農夫であった私は、以来放浪の身と成り果てた。私は妻を得て息子を産み、子孫は増え栄えたが、しかし神の起こした地を覆う洪水によって、我が子孫もまた死に絶えた。それとて、この私の忌まわしい血を受けた彼らが、正義ではなかった為なのだ」

「そうと決まったわけではないでしょう。子孫の不行跡は、彼等自身の責任ですよ」

「いや、それすらも私への罰なのだ」

ピエールが嘴を挿むが、カインは沈痛な面持ちで首を振る。

「私が罪を犯したとき、神は私を追放したが、命を奪うことはしなかった。それどころか、私を殺した者に、七倍の復讐を加えると約束してくださった。……しかし、私がその罪深い生を終えた後、神は私をこの底深い地に堕とし、肉親殺しの忌まわしい象徴とした。以来、私はこうして見せしめとして佇んでいる。貴き方によって、私の同胞がいと高き地に引き上げられた時も、私一人はこうして残された」

ピエールが補足を始めた。

「彼はキリストが、地獄にいた多くの先人を天界に導いたことを言っているのですよ。多くの人は地獄には罪を犯した悪人しかいないと考えているようですが、辺獄(リンボ)と呼ばれる地獄の第一圏には、罪を犯したどころか学芸などで名を成した偉大なる先人達が納められているのです。例を挙げれば、まずソクラテス、プラトン、アリストテレスといった古代の哲人達、医学の祖であるヒッポクラテス、芸術の分野ではホメロスがいますし、ダンテを導いたウェルギリウスも、元はと言えばそこにいたのです。……というのは、彼らはキリスト生誕以前に生まれたために、その尊い教えを知らないのですな。いくら偉大な先人達と言っても、正しい教えを知らなかったからには、天界で永遠の祝福を受けるわけにはいかないというわけです」

それには少し疑問も覚えたが、とりあえず僕は黙って聞いていた。

「しかしですな、これには例外があるのです。イエス・キリスト本人が、彼らの内の一部を直々に天界にあげたというのですな。キリストは現世で一度死した時に黄泉を下って、地獄を征服したと言われているのです。その時に、人類の始祖であるアダムとイブ、洪水伝説のノア、預言者モーゼ、またアブラハム、ダビデ、ヤコブといった旧約の錚々たる面々を始めとした人々を辺獄から救い出し、永遠の祝福の下に置いたのですよ」

「……そして、我が弟も。私が殺したアベルもまた、彼らと共に天界に昇った。父と母も。他の兄弟たちも。残されたのは、罪を犯した私だけだ」

そう言って口を閉じると、カインは寂しげな顔を見せた。僕は、圧倒されてなにも言うことができなかった。

「これが、私という罪深い人間の物語だ。……他にまだ、聞きたいことがあるか?」

「あります。勿論ありますよ。貴方は、一番肝心なことをお話になっていない」

そう言い出したのは、勿論ピエールだった。

「肝心なこと?」

「そうです。そもそも、貴方がどうして弟を殺したのか?これを聞かなければ、貴方に会いに来た意味がないのですよ」

そのあまりの傍若無人ぶりに、僕の顔中から血の気が引いた。あのヒヨコ野郎の口を閉じていなかった自分の不手際を悔やんだ。

……だがカインはそれを聞いても、僅かに寂しげな笑みを見せただけだった。

「そうだな。それを話さねばならない。……私は……私は、弟に嫉妬していたのだ」

「……嫉妬?」

「そうだ……若者よ」

思わず呟いた僕に、カインがその一瞥をくれた。

「私はかつて、地を耕す農夫だった。そして私の弟、無垢なるアベルは羊飼いだった。私達は務めを分けて、それぞれの仕事に満足し、そして力を合わせて生きていたのだ。ある時、私達二人は、自分達の務めから得たものを、それぞれ神に捧げることにした。私は作物を、アベルは子羊を。……そして、神が歓ばれたのは、弟の供物だったのだ。それまで、私は無垢な弟を愛しこそすれ、憎んだことなどなかった。……しかし、私はこの時初めてアベルを憎んだ。神が私より、弟を愛していると知ったからだ。それで私は、何も知らない弟に「さあ、野原へ行こう」といって誘った。そしてその血を流したのだ……」

カインが目を伏せる。

「ありがとうございました、カイン殿。さて、では次へ行きましょう」

後半は僕に向けて、ピエールが言った。僕は戸惑った。

「行くって?」

「これでカインの話は終わりです。だから、次の人の許へ、話を聞きに行くのですよ」

僕は思わずカインを振り返った。これでは、彼の過去の傷を掘り返しに来たようなものではないか。しかしカインは、気にするなというように小さく首を振った。

「ほら、行きますよ」

「……どこに行くんだ?また、地獄を下るのか?」

そう言ったのは、まさか地獄の上層に逆戻りするはずはないだろうと思ったからである。だが、案に相違してヒヨコ人間はその太い首を振った。

「いいえ、この先には特に会いに行くべき人はいません。それともジュデッカまで降りて、悪魔王ルシフェルに齧られるイスカリオテのユダを見たいですかな?」

その申し出に、僕は首を振った。伝説中の伝説である魔王を見たいという気もなくはなかったが、カインの姿を見てしまった以上、相手がどんな罪人でも好奇心のために見に行くことには気が引けたから……。

「では、次へ行きましょう」

「だから、次ってどこに行くんだ?下るのでないなら、どこにも行く場所はないじゃないか」

「扉がありますので、心配は無用ですよ。後ろを見てごらんなさい」

訝しく思いながら振り向くと、僕のすぐ後ろに、見覚えのない扉がいつのまにかあった。誓って言うが、それまでには決してそんなものはなかったというのに……。

荒涼とした氷原の上に、突如として現われた扉。だが、勿論その後ろには何もない氷原が広がっているばかりなので、その扉には何の意味もない。

しかしピエールが扉を開くと、その中には、どこかの豪華な部屋の内装が覗けた。勿論ありえない話であって、不可能な事態なのだが、その時には僕の感覚はすっかり麻痺してしまっていた。

ピエールに促され、僕は扉に近づいた。

一度だけ、カインを振り向いた。この哀れな殺人者は、僕の顔をじっと見ていた。僕はその時、カインの顔に、それまでとは違う何かの感情が浮かんでいるような気がしたが、それが何なのかは、ついにわからなかった。

 

扉を抜けた先は、別世界だった。

西洋の宮殿の一室のような、贅を凝らした部屋。固く冷たい氷原を踏んでいた足は、今は豪華な赤い絨毯を踏んでいる。あまりに変貌した光景に、僕はしばし呆然となった。

「ようこそ吾が屋敷へ!お待ちしていましたよ」

部屋の中央には料理の並んだ方形のテーブルが座を占めていて、並んだ椅子には立派な衣装を纏った貴族めいた連中が腰を下ろしていた。ただ奇妙なことは、彼らが皆芝居じみた仮面を被っていて、その素顔を隠していることだった。

僕等に向けて張りのある声をかけてきたのはその一番上座に座っていた人物で、満面に喜色を浮かべて立ち上がっていた。

「お招きいただき光栄です、公爵。今日はとても珍しいパーティーを開催されるとのことで、とても楽しみにしておりました」

臆することなく、答えたのはピエールである。

公爵と呼ばれた人物が、機嫌よく答えた。

「そう、今夜は愉快なお祭りです。一夜限りの無礼講、浮かれて騒ぎ、どんなことをしても咎めるものはおりません。どうかそれを肝に銘じて……ハハハ……窮屈な帽子などお脱ぎになって頂きたい……そちらの貴方もね。では、どうぞお席に」

勧められるまま席に着こうとしたが、空いている椅子は公爵の間近の、上座の席しかなかった。僕は戸惑ったが、ピエールは何ら気にすることなくそれに座ったので、僕もその隣に腰を下ろすしかなかった。

「それでは、パーティーを始めましょう!」

公爵がそう宣言した途端、使用人らしき人々がどこからともなく現われて、テーブルの中央に巨大なパイを置いていった。それは、普通に目にするようなパイの何倍もの大きさで、それだけで居並ぶ人々の食欲を満たすことができるのでは、と思われるほどだった。部屋には香ばしい匂いが満ち、焼きたてのパイはその熱気で暖が取れるのではと思えるほどに熱かった。

誇らしげに公爵が声を上げる。

「これは、我が家自慢のシェフが丹精込めて拵えた、特製のミートパイです。どうぞ、ご照覧下さい」

その声と共に、シェフらしき人物がパイにナイフを当てる。次の瞬間生じた事態に、僕は驚いた。シェフが手早くナイフを閃かせた途端、パイの表面にできた切れ目から、生きた鳥が勢いよく飛び出してきたのだ。それも一羽や二羽ではなく、熱帯産らしき色とりどりの小鳥が、次から次へと飛び出した。人々が驚き、歓声をあげる。部屋中に、パイから飛び出た赤やら黄色やら緑やらの鳥が半狂乱で飛び回った。人々は悲鳴を上げるどころか手を叩いて喝采し、中にはそれを捕まえようとする者もいて、大変な騒ぎとなった。

僕は慌てて、隣に座るピエールを見た。この事態にもピエールは落ち着き払って騒ぎを眺めている。

「一体、どうなっているんだ?」

ピエールがすまし顔で答えた。

「あのパイには、沢山の小鳥が生きたまま焼き込んであったのですよ。あれは公爵自慢の余興で、こうした席を盛り上げるためのいつもの手口なのです」

なんでもないことのような言い方に、僕は驚いた。

「生きた鳥を焼き込むって、そんなことができるわけないじゃないか」

僕は、鳥が飛び出てきたパイを見た。巨大なパイはいまやすっかり萎んでしまっていて、中に大きな空洞があったことがわかる。その中に、鳥を潜ませていたのだろうが……。

「中に鳥を入れたまま焼いたら、死んでしまうに決まっているじゃないか」

パイが運ばれてきた時、それは焼き立てであることを示すように湯気を立てていた。生地を焼き上げた後に鳥を入れたのか……とも考えたが、パイを仔細に眺めても、そんな細工がなされていた形跡はない。首を捻る僕に、ピエールが言う。

「私に聞かれても、残念ながらお答えできませんよ。……というのも、私もあれの仕掛けは存じ上げていないからです。悪戯好きな公爵殿に何度お願いしても、教えていただけないのですからな」

「おっと、人聞きの悪いことを仰られては困りますな」

そう言ったのは公爵だった。

「私が吝嗇のように思われては困るから正直に言うのですが、実を言えばこの私自身、あれの仕掛けは知らないのですよ。あれは元々古い時代によく使われていた料理法で、いつしか失われてしまっていたものを、我が家自慢のシェフが復活させたものなのです。彼はそれを大層誇りに思っておりまして、主人である私にもその秘密を漏らしてはくれないのですよ」

そう言って茶目っ気たっぷりにウィンクすると公爵は立ち上がって、未だ大騒ぎの人々に声を掛けた。

「皆さん、どうかお静まりを。こちらの手違いで、どうもとんでもないパイが混じってしまったようです。我が屋敷に伝わる特製のミートパイを楽しみにしていらした皆さんには、大変申し訳ないことをしてしまいました」

招待客達が、手を叩いて愉快な笑い声を上げる。……どこかに飛んでいってしまったのか、鳥達の姿はもうどこにもなかった。あの巨大なパイの抜け殻も、いつのまにか片付けられていた。

「さあ、今度こそ間違いなく、皆さんお待ちかねのミートパイの登場です。どうぞ存分に、ご賞味下さい」

それを合図にして入ってきた使用人たちが、それぞれの客の前にパイの乗った皿を置いていく。先にピエールの前に皿が置かれたので、僕はそれを横目で見た。それは確かにおいしそうには見えたが、ごく普通のものにしか見えず、先に巨大なパイを見せ付けられたばかりの僕の目には、どこか貧相にさえ見えた。

その時、僕の前にも皿が置かれた。僕は何気なく、後ろに立った使用人の顔を見て、不可思議な既視感を抱いた。若い、整った顔立ちの女。美しい金色の髪を、邪魔にならないようにまとめている。

……確かに、どこかで、見たような……。そう思ってその横顔を見ていると、視線に気付いたのか、女が僕の方を振り向いた。僕は思わず聞いていた。

「どこかで、お会いしませんでしたか?」

「あら、いやですわ。おからかいになっては……」

はにかみながらそう言うと、礼儀正しく去っていく。それを見ていたのか、ピエールがからかうように声をかけてくる。

「おやおや、貴方もなかなか隅に置けませんな。初対面の女性に、いきなり声を掛けるなんて」

僕はそれには構わなかった。まだ、あの女を目で追っていた。その姿というより、その声があることを気付かせていた。

「初対面じゃない。気付いているんだろう?……あれは、あれは地獄で会った、あの女じゃないか……!」

コキュートス……あの地獄の最下層の氷の沼で、首まで氷漬けになっていたブロンドの女。子供を堕胎したという罪で、肉親を裏切った罪人が堕ちるカイーナにいた筈の女。

「どうなっているんだ。なんで、あの女がここにいるんだ?いや……そもそも、ここはどこなんだ?地獄じゃないのか」

「地獄ではありませんよ。そもそも、こんな豪勢な地獄などが合っていいわけないではありませんか」

こともなげにピエールは言う。

「でも、僕等は地獄門をくぐって、そこからまだ出ていないじゃないか。ここはまだ、地獄なんだろう?」

「出たのですよ、あの扉を抜けることによって……。なにも、煉獄に抜けるばかりが地獄を抜ける方法ではありません。思い出してください、ダンテの描いた地獄変に、今我々の目の前に広がっているような光景はありましたかな?……ないでしょう?」

……そういわれれば、頷くしかなかった。こんな愉快で豪勢な地獄など、ある筈がない。……と思うのに、僕はこれが現実の光景とも思えなかった。それに、何か……地獄どころか極楽のような宴の中にいて、僕は……それでも目の前の光景が、地獄さながら、或いはせいぜいその一歩手前のもののように思えていたのだ。

「……だったら、ここはどこなんだ?」

「それにはお答えできないのです。というのも、これが極度に秘匿性の高い、秘密の宴だからなのです。ここにおられる皆さんが仮面を被っているのもそのためですし、ホストである公爵の名前もまた、お伝えすることはできません。ただ、これは考えれば分かってしまうことなので言ってしまいますが、ここがあなたの暮らす時代、場所とは異なるということです。あのブロンドの女性が生きているということを考慮すれば、この時代が少なくとも近世であることはお分かりいただけると思います。……さあさあ、そんなことより我々も、このパイを頂きましょう。せっかくの特別メニューが、冷めてしまうではないですか……」

気付くと、もう他の客達はパイに手を付け始めている。僕は自分の皿に目を落とし、小さな声で尋ねた。

「……でも、これのどこが、特別メニューなんだ?どう見ても、普通のパイにしか見えないけれど……」

パイを自分の嘴に入れ、それをしっかりと飲み込んでからピエールがいう。

「これは、別に特別な料理法を使ったものではありません。ただ、とても珍しい食材を使用しているのです。普段は滅多にお眼にかかれない……いやまあ、素材自体はいくらでもその辺りを闊歩しているのですがね……少なくとも口にすることは滅多にない、そんな特別な肉を使ったミートパイなのですよ」

またパイを口に入れて、ピエールは世にも幸せそうな顔をする。それを見て、僕も思わずパイに手を伸ばした。

「特別な肉って、珍しい動物を使っているってことか?」

ゲテモノを想像して思わず顔をしかめたが、匂いを嗅いでもわからない。

「いえ、動物としては珍しいものではありません。数は非常に多いですし、言ってみれば貴方にとって最も身近な動物だとさえ言えるでしょうね。まあ、とにかく一口どうぞ」

少し躊躇ったものの、食欲をそそる香ばしい匂いと、空腹も手伝って僕はそれを口元に運んだ。

「如何ですかな?」

ピエールがそう言った瞬間である

「そのパイを食べるのはおやめなさい!」

唐突に部屋に飛び込んできた青年が、部屋にいた全員に向けて叫んだ。声には切迫した響きがあり、その表情を見るとかなり焦っている。

青年は東洋人のようだった。頭髪がごく短く、朴訥な顔立ちをしている。格好は白い麻のフロックコート姿で、その顔には精一杯の怒りの表情を浮かべていた。

僕はその青年の顔にも、どこか見覚えがあるような気がしていた。……だが、それが誰なのか思い出すことは、どうしてもできなかった。

青年がまた叫びをあげた。

 「そのパイを食べてはいけません、肉を食らってはいけません!肉を食べることは、この上ない罪悪なのです!」

その言葉に思わずぎくりとして、僕は手を皿に戻した。しかし僕の隣ではピエールが素知らぬ顔で食事を続けていたし、人々の多くも興味深げに青年を見ながら、その咀嚼をやめようとはしていなかった。それを見て青年が、絶望的といった顔を浮かべる。

僕の疑問を見て取ったのか、公爵が言った。

「あれは、ビヂテリアンです。どこで嗅ぎつけてくるのか、こうした会合にはよく彼らがやって来るのです。この場にいる面々はすっかり慣れてしまい、相手にしないどころか、却って刺激的だと喜んでいる人もいるくらいです」

「ビヂテリアン?」

「貴方の時代の言葉で言えばベジタリアン、つまり菜食主義者ですよ」

そう言ったのはピエールだった。

「彼らは動物性の食品を口にすることを拒みます。彼らの中にも二種類あって、自分の健康を保つ為に肉食をしないという予防派と、動物が可哀想だから食べないのだという同情派に分かれています。あの青年は、熱烈な同情派の信者ですね。……そもそも、予防派の人の関心はもっぱら自分の健康に向いているので、他人の主義にまで干渉しようとするのはもっぱら同情派です」

「ようこそ、お若いビヂテリアンの方。本日は飛び入り参加大歓迎の席ですので、よろしければ貴方の席も用意しようと思うのですが、どうですかな?」

「結構です!」

公爵の言葉に激昂して、青年は大声をあげた。青年は、なにか本当に怒っているように見えました。

「貴方は、どうしてそんなに怒っているのですか。肉を食べることが、はたしてそんなに悪いことなのでしょうか?」

「勿論、悪いことです!わたくし達ビヂテリアンは、何度もそのことをあなた方に訴えてきたはずです。わたくし達はなにも、自分達の掲げる菜食主義という考えを、強引に他の人に押し付けるようなものではありません。それだけど貴方達のしていることだけは、どうにも我慢ができないのです。腹に据えかねるのです。特に食べるものに困っているわけでもないのに、ただただ美味しいものが食べたい、変わったものが食べたいと言って、かあいそうな動物を無理に太らせたりする。珍しい鳥や獣を探して、それを殺してきたりする。それはあんまり気の毒です」

「貴方の仰ることもわかりますがね」

苦笑を浮かべつつ、公爵は反論を始めた。

「しかし、それなら我々は何を食べて生きていけばいいのですかね?」

「勿論、米や小麦といった穀物や、野菜や、木の実なんかを食べるのです。動物を殺すなんて残酷な真似をしなくとも、わたくし達は生きてゆけます」

「そうは言いますが、人間は昔から動物や魚の肉を食べてきたのですよ。生物学的な見地から言っても、人間は雑食性の動物なのです。それが、人間と言う動物の本然なのです。貴方は、ライオンや狼のような肉食動物も肉食を止めて、草を食べるべきだとお考えなのですか?そんなことをしたら、彼らは飢えて死んでしまうでしょう」

「彼らのような肉食の獣に、肉を喰うのを止めろなどとはわたくしはいうことができません。なぜなら貴方の仰る通り、肉を喰わなければ彼らは死んでしまうからです。そうした意味では、彼らは自分と同じ動物を殺さなくては生きていけない、気の毒な動物たちなのです。……しかし、人間はそうではない。確かに人間という生物は肉を栄養に変えることができる肉体を持っていますが、しかし同時に草食性でもあるので、肉を食べなくても生きていけます。人間が生物学的に雑食だというのは、決して肉を食べることを正当化するものではありません。わたくし達人間は考えることができるし、それによって自分の行動を選ぶことができるのですから。持って生まれた自然の性向に身を任せるべきだというのなら、そもそもわたくし達は服を着ることもしなくなるでしょうし、法律で悪いことを取り締まることだっておかしいということになってしまいます」

「しかし、一体人間に肉を一切食べないで生きていくことができるのでしょうか?私のような人間には、甚だ疑問です。第一、肉を食べないと力が湧いてこない」

その公爵の言葉は冗談めかしていて、仮面を被った客人はどっと笑ったが、青年はにこりともせずに反論した。

「肉を食べなくても、人間が生きていくのにまったく問題はありません。それは、栄養学的にも保証されていることです。肉を食べなければ力が湧かないというのは、失礼ながら多分に気分の問題であるか、或いは迷信的であるとさえ言えます。現に私共の国では、古くに仏様の教えが伝わったために、早い段階から聖職にあるもののみならず一般大衆に到るまで、四足の獣を殺し、肉を喰うということを禁じていました。もっとも俗人は魚や鳥肉なんかは食べていたのですが、それもほんのちょびっとですし、仏門に入った僧侶達はそれすらも禁じて、生臭の類は全く食べなかったのです。それでも彼らは達者で厳しい修行に励んでいましたし、ともすると俗人よりもよっぽど長生きすることさえあるのです」

「お話は興味深く拝聴しましたが、しかしそれは貴方達の国の文化、というより、仏教の教えに基づく考え方ではないですか」

「そうです。仏様は、一切の肉食を禁じておられます。それは、どんな動物にも魂があって、痛いと思う心があるのであって、ゆえに憐れむべきだと知っておられるからだという貴い、慈悲深いお考えからくるのです」

「成る程、しかしそれは、あなた方の信じる神様の教えであって、それを私達に押し付けるのは不合理ではありませんか」

「いいえ、これはただ仏教の奉ずる原理の話ではなく、普遍的な真理なのです」

「しかし、私達はキリスト教徒であって、必然的に主の教えに従うものなのですが、その教えには肉食を禁ずるという掟がないのですよ。貴方もご存知だとは思いますが、その昔地上が悪で満ちていたとき、神は洪水を起こして地上の生き物の一切を滅ぼしてしまおうとなされました。ただ心の清いノアの一族だけは別で、神はノアに大きな箱舟を造るように言われ、そしてまた動物の種を絶やさない為に、全ての動物の中から雌雄七匹ずつ、或いは三匹ずつ選び、船に乗せるように命じられました。そして大洪水の後、神はノアに言われました。すなわち、すべての地に動くもの、全ての海の魚とともに君たちの手に与えよう。生きて動いているものはみな君たちの食糧にしてよろしい、と。これは神が私達人間と、そして全ての肉なるものとの間に結ばれた神聖なる契約なのです。だから私達は自由に生き物の肉を食べる権利を持っているのだし、またそうしなければ神との契約に違反してしまうのです」

「それでは、貴方達の神様は、動物達がかあいそうだとは思っていないのですか」

「全ての獣や鳥や魚達は、人間のために造られたのです。人間が幸福になる為にのみ、生き物は存在するのです」

「そんな神さまうその神さまです!」

突然、青年が叫んだ。その声を聞いて、さすがに仮面の客人達もざわついた。中には、怒りを感じている者もあるようだった。

公爵がそれを静めるような手振りをしつつ、落ち着いて彼に言った。

「まあ、落ち着いて下さい。貴方は本当に、びっくりするようなことを唐突に仰いますな。他の文明の神様を指して、嘘の神様呼ばわりをするなんて……。本当に、そうお考えですかな?」

冷静な窘められ、青年は途端に恥じ入るように真っ赤な顔になった。

「少し言い過ぎたようです。貴方達の神様の教えを、決して否定するものではありません。……ですが、わたくしは考えを撤回するつもりもありません。全ての動物に対して、憐れみを感じないような、そんな人間ばかりを贔屓して、他の動物を差別するような神さまは、本当の神さまとは思いません。……これはきっと、貴方が神さまの考えを誤解しているせいだとわたくしは思います」

「しかし、聖書にそう書いてあるのですがね?」

「書いてある言葉というのは、幾らでも解釈できるものですから」

「あなたは強情な方だ。しかし、こうした神学的な議論はもう止めにしましょうか。貴方に付き合う為に聖書を持ち出したのだが、なにせ私自身、それを信じているわけではないのですからね」

「何ですって?」

青年が驚きの声をあげた。

「貴方のところの神さまを、貴方は信じていないのですか?」

「ええ、実を言えば。私ときたら、すっかり近代科学技術の信奉者ですよ。いわゆる、『神は死んだ』というやつでして。ですからここからは宗教思想抜きに、誰にでも受け入れられるような、唯物論に基づく討論に入りませんかな?」

「……お望みとあらば」

そう言ったと思うと、青年はコートの隠しから、一冊の本を取り出して、部屋中に見えるように掲げた。

「ここに取り出だしましたるこの本は、我々の信奉する仏教の経典でもなければ、あなた方の信じるキリスト教の神学研究の本でもございません。これは紛れもない学術的書物、人種としてはわたくしよりあなた方の近縁であるドイツの科学者、エルンスト・ヘッケル博士の著した『宇宙の謎』であります。皆様方もご承知であられるこの書物、これを読めば動物を食べるのがとんでもない悪なのだということが、忽ちの内にお分かりになるでしょう」

……青年がそう言った途端、不可思議なことが起こった。青年が掲げていた書物、それがドロンと煙を出したと思うと、いつのまにやら一人のいかにも学者然とした壮年の男が、僕達の前に立っていたのだ。僕はこの手品めいた現象に目を丸くしたが、居並ぶ面々は誰一人おかしいとも思っていない様子で、突然現われた(と僕には思える)その男を面白がって注視していた。

周囲を眺め、彼はしっかりとした発音で、開口一番告げた。

「個体発生は系統発生を繰り返す!」

途端に敵味方の別なくあらゆる人間が拍手した。ただ一人、訳のわからなかった僕だけが取り残されていたが……。

「我輩の提出したこの法則は、今では学会のみならず広く世間に流布しており、常識の如くになっておる。つまりこれは動物の発生段階に着目し、胚の成長における形態の変化が、これ恰も生物種の進化の過程を忠実になぞっていることを言うのである。そもそも、動物の幼胚が、より下等な動物の親に類似していることには、それまでの多くの学者が気付いておった。カエルも鳥も蛇も人間もドジョウも、あらゆる脊椎動物の胚発生は最初期には全く変わらない。人間の胚も最初は一つのマン丸い細胞で、これは全ての動物の共通の祖先である原始動物と変わらないのである。それが成長して両生類や爬虫類と別れる。この段階では、人の子とイヌの仔はまだ区別が付かん。さらに成長してイヌとようやく分かれても、まだサルの子供と区別が付かん。もっともこれは、誕生した後もそう違いがないことは、皆さんご承知の通りである。……まあとにかく、こうした次第で人間の胎児は精子と卵子が出会ってオギャアと産まれてくるまで、何億年という単位に渡る原始生物から人間に至るあらゆる進化の段階を、僅か四十週という短い期間で反復しているのである。単細胞生物という一本の幹から散々枝分かれして、系統樹という樹の一番先っぽの枝にたどり着くまでの過程を追うのである。これすなわち、個体発生は系統発生を繰り返すという、我輩の発見した生物学上の大真理なのである!」

ヘッケル博士の大論説が終わると、割れんばかりの拍手が湧き起こった。誰もが喝采をあげた。特に例の青年などは感激しきりで、顔中に滂沱の涙を流しながら、

「ヘッケル博士!わたくしがそのありがたい証明の、任にあたってもよろしうございます!」

などと繰り返し繰り返し叫んでいた。

拍手が止んだ時、ヘッケル博士の姿はまた、跡形もなく消え失せていた。だが、やはり誰もそれを気にしていない。

「そうしたわけで」

落ち着きを取り戻した青年が、しかし未だ頬を薔薇色に上気させたまま口火を切った。

「元々、かのダーウィン博士の発見された進化論に拠れば、我々がそうした進化の過程を経て、そしてサルから分化してヒトと呼ばれる動物になったことは今の時代には科学的に証明されていることであります。それに加え、ヘッケル博士が仰った通り、我々は生まれてくる時に、原始的な単細胞生物を初めとして、両生類やら爬虫類やら、そういった様々な生物の進化の段階を経ているのです。この、産まれて来る時に、ということを考えてみてごらんなさい。種族としてのヒトは遠い昔にサルから別れたとも言えますが、個々の生物としての我々はしかし、母親の胎内にいるときには別の生物だったのです。胎内にいる時の我々、それは精々数十年前のことでありましょう、我々は単細胞生物であり、魚の仲間であり、ネズミであり、イヌであり、サルだったのであります。人間である我々には、しかし人間ではなかった頃があったのです。それは科学的に証明されていることであるのです。そうであれば、仲間である動物を食べることが、どうして正しいことでありましょう?それは、共食いというものであります。忌避すべき悪徳であります。貴方方だって自分たちと同じ人間を食べることを、まさか正しいこととはいえないでしょう。どんな時でも、人間を食べたりしないでしょう。人間を食べることが悪なら、他の動物たちを食べることも、等しく悪ではありませんか!」

大演説、だった。青年が堂々とそう叫び終えた途端、これも先のヘッケル博士の時に劣らぬような、大拍手が湧き起こった。仮面の客人の中には、確かに心を動かしている者もいたようだった。

公爵もまた、青年を祝福するようにその手を叩いていた。……しかしそれは僕の目には、その主張に心を動かされ心底から参ってしまったという表情ではなく、相手の実力を認め、その健闘を称えているという風情だった。それは自分を相手の下に置くのではなく、あくまで上位者としての位置を保つ、そんな余裕の感じられる目線だった。よく見れば、青年の主張に僅かなりとも悔悟しているように見えるのはほんの少数でしかなく、その場にいる大多数の者は、やはりそんな態度なのだった。

……そして、何より、僕は見てしまったのだ。青年が終わり近くに叫んだあの言葉……。あの、人間を食べることを正しいとはいえないだろうというあの言葉、それを聞いた時に公爵が、にやりと笑みを浮かべる様を見てしまったのだ。あの、意味深な、不気味な微笑が、僕の背筋を寒くしていた。

「成る程、貴方の主張は、とても理に適っていますな」

公爵が、口を開いた……。

「だから貴方は、動物を食べることは悪であり、植物だけを食べるべきだと仰るわけですね」

「その通りです」

挑戦的な眼つきで、青年は公爵を見返す。

「では貴方は、植物は殺してもいいと仰るわけですね」

「それは……」 

青年が、僅かに口ごもる。 

「だって、そうではありませんか。動物が生きているのは勿論ですが、植物だって紛れもない生物で、その意味では我々の中までありましょう。植物を食べるには、まあ木の実や葉を食べるくらいなら命を奪っているとはいえませんが、小麦や米といった穀物を食べることは、これは種を食べているわけですから、命を奪っているということになります。それは貴方が先程仰った、仏教の聖人といえど変わらないはずですね。その点、どうお考えですかな?」 

「確かに、植物でも命を奪うことには変わりません。しかし私は、植物だからといって命を奪ってもいいとは言った覚えはありません。植物でも、食べてしまうことは悪いことです。でも、それは仕方のないことであって、だからこそ無駄に生命を奪うこと、大食を戒めるという教えがあるのです」 

「それでいいのですかね?それは矛盾ではありませんか?そこの部分を仕方ないという一語で割り切ってしまえば、畢竟動物を殺して食べることも、最小限であれば仕方ないということになりませんか。動物の命と植物の命を、貴方は明確に区別しようとしていますが、それはなぜでしょう?」 

「なぜって、常識でわかるではありませんか。植物と動物は違うものです。そんなことは、誰でもわかります」 

「はたしてそうでしょうか?植物と動物は、そんなにはっきりと分けられるものですかな。生物の最小単位である細胞の観点から見れば、両者の大きな違いは精々細胞壁があるかないか程度ではありませんか。バクテリアなんてのは分類上は動物に入ってますが、昔は植物に入っていたという曖昧な代物ですし、ミドリムシなんかになるとムシの名前がついているくせに、光合成なんて高等な真似をやらかすではありませんか」 

「そんなことは瑣末な問題であり、重箱の隅を突付くような、言ってみれば単なる難癖でしかありません。確かに植物と動物の境界線は曖昧ですが、そんな曖昧なのは貴方の仰ったバクテリアのようなものしかありません。議論すべきは現実における実践の問題なのですから、現実感覚において植物と動物が区別できるということで充分です。貴方はバクテリアに関心をお持ちのようですが、バクテリアを殺したところで、実際問題私達はあまり気にはなりません。同じように、植物の命を奪うことも、勿論それは良いことではありませんが、動物を殺してしまったときより胸が痛まないのです」 

「それは差別ではないです 

「え?」 

ぎくりという顔を、青年は浮かべた。 

「それは差別というものでしょう。貴方は動物を仲間だと言っておきながら、バクテリアは殺しても良いという。植物を殺すのは、それほど胸が痛まないという。貴方は先程、我々キリスト教徒の神は動物と比べて人間を贔屓する、それは差別ではないかと非難されましたが、私から言わせれば貴方も、植物に比べて動物を贔屓しています。同じ地球の生物として、仲間であるのに……。それはやっぱり、差別ですよ」

明らかに青年は狼狽していた。頬は高潮し、視線を目まぐるしく彷徨わせていた。やがて、また口を開いた。

「それでも……実際、そうなのです。人間の感情として、そうなのです。親が死んでしまったとき、私たちは涙を流します。見知らぬ子供であっても、いたいけな子供が死んでしまうのを見るときにはわたくし達の心は痛みます。それは、人間としての普遍的な感情なのです。同じように、可愛い動物が殺される時も、心が痛みます。でも、植物の命を奪う時にはそれほどでもありませんし、ましてバクテリアが体内で死んでいると考えても、胸は痛みません。それは客観的な事実です。動物が死んだ時に、わたくしの中に悲しいという感情が生じていることは、客観的な事実です。わたくしの涙が、それを証明できます」

「貴方の中でどんな感情が生じているかは、貴方にしか本当にはわからないと反論することもできますが、とりあえず認めておきましょう。ただ、それは決して、人類全体にとって普遍的なことではないのですよ。例を申し上げるなら、私は父親が死んでも泣きませんでした。全く、これっぽっちも、悲しくなんてありませんでした。まさか、そんな筈はないなんて言わないでしょうね?」

反論の声は上がらなかった。青年は、絶句していたのである。

「いたいけな子供が死ぬ場面を見ればさすがに多少は気の毒にも思うかも知れませんが、しかし涙を流すかどうかは保証しかねます。ですが、動物が殺されるところを見ても、悲しいという感情は湧きませんな。客観的に。私が貴方の主張を認めたように、貴方も私のいうことが虚偽ではないと認めてほしいものです。……そうそう。言い忘れていましたが、私は食べますよ」

「は?」

脈絡のない言葉に、青年は呆けたような声を出した。実際、聞いていた僕も、公爵の言葉が何を指していたのかわからなかった。

テーブルの上に両肘を乗せ、指を組んで台を作り、そこに立派な髭の生えた形のよい顎を乗せながら、公爵は言い直した。

私は人間の肉も食べますよ。勿論、必要があれば、の話ですがね。生命の危機に曝されれば、何ら罪の意識も抱かず、私はそれをするでしょうね。……それが、生物の全ての種に対して公平な、真に平等な態度だとは思いませんか?」

そう言い放った時の公爵は一見ふざけているように見えて、その裏には誤魔化しでない真剣な顔が隠されていて、その時の彼は、悟りを開いた聖人のようにさえ見えたのだった。

……そして僕は、目を疑った。

この世のものとも思われない、不思議なものを僕は見た。公爵の首の後ろ辺りに、何か神聖な輝きを放っている、光の輪のようなものが見えたのである。それは西洋の油絵に描かれる天使の頭上の輪のような、或いは仏像の背負っている光背のような、そんな清らかさに満ちていた。……僕は絶句し、目を疑った。

気をつけてみると、その場にいた殆どの人間の後ろに、そんな光の輪が付いていた。それどころか、僕の背後にも、それはあったのだ。僕の後ろにあったその輪は、最初はごく小さなものだったが、次第に強く光り始め、公爵やその他の人々と同じくらいにまでなった。……と、思った瞬間、パッと消えてしまった。そうすると、他の人の光の輪も、もうなくなっていた。……いや、消えてしまったというより、それはまだ残っているのに、目には見えなくなった、という方が近いように思えた。まだ、首の後ろに、それがあるのを感じるのだ……。

思いがけない事態に、僕は度肝を抜かれてしまった。

……青年にもそれが見えていたのか、それは僕にはわからない。しかし彼はわなわなと震え、一杯に見開いた目でひたすら公爵を凝視するばかりだった。公爵はにんまりと笑うと、己の勝利を確信したものかばっと立ち上がり、誇らしげに宣言した。

「さあ皆さん、愉快な余興はこれでお仕舞い!これからが、今宵の祭りの本番です!大いに歌い、飲み、そして、肉を喰らおうではありませんか!カーニヴァルの、始まり始まりィ!」

高らかに公爵が、指を鳴らした瞬間だった。それを待ち望んでいたように人々が盛大な歓呼の声を上げ、どこに隠れていたものか、部屋の外から変てこな衣装を纏った人々が踊りながら入ってきた。原始的な、未開の部族が纏っているような衣装に身を包んだ人々ばかりが五十人ばかり、男も女も、老人も子供もいる。輪になって踊りながら、おかしな歌を歌い出した。

 

フェヒ ホ フン!

イギリス人の血の匂い!

生きているのか死んでいるのか

とにかくそいつの骨をば挽いて

おれっちのパンをこしらえよう!

 

忽ち、部屋の中は熱狂的な騒ぎとなった。仮面を被った人々も我先にと彼らに加わり、一つの輪になって踊り、その歌を歌った。それを聞いて青年は青褪め、声の限りに叫び出した。

「おやめなさい!その罪深い歌を、今すぐおやめなさい!」

彼が幾ら裂けんでも、しかし聞くものはいなかった。誰も彼もが我を忘れ、さながら一つの大きな生物になったように、歌い、踊り、かつ騒いでいる。

「汚らわしい、十五世紀の亡霊めお前達は豆でも食っていればいいのだ!お前たちにハ、それがふさわしいというものだ!」

彼の叫びは支離滅裂で、意味の取れないものになっていた。当然、耳を寄せるものはいない。公爵その人は彼に視線を注いでいたが、彼は青年の味方ではない。僕とピエールは騒ぎにこそ加わってはいなかったが、単なる傍観者に過ぎなかった。

幾分力を失った声で、それでも彼はまた叫んだ。

「貴方達は数限りない罪を犯したが、中でも二つの、二つの赦されない大罪を犯している!それはキリスト教のみならず、人類全体の、それこそ絶対に普遍的な、決して人間が犯してはならない、二つの罪だ!犯罪などというのも生温い、忌まわしい、穢らわしい絶対の禁忌なのだ!止めなさい!今すぐ悔い改めなさい!」

「禁忌ですと?」

そう言ったのは公爵だった。よく光る、何かを見透かすような眼で彼を見た。それは鋭くはあっても、決して責めているわけでもない眼だったが、青年はそれに脅かされたように、ギョッとして身を退いた。

「その二つの禁忌の内、一つは貴方も経験があるのではないですかな?」

感電したかのように、青年の身体が傍目にも、大きく震え出した。

「何を――何を言うのです。俺は……わたくしは、わたくしは決して、そのような……」

「私たちの教義には、こういう教えがあります。情欲を持って女性を見たものは、姦淫の罪を犯したに等しいと……」

「ああ!」

 

フェヒ ホ フン!

イギリス人の血の匂い!

生きているのか死んでいるのか

とにかくそいつの骨をば挽いて

おれっちのパンをこしらえよう!

 

苦しげに身を捩り、青年が絶叫する。

「ああ!止めてくれ!その歌を止めてくれ!」

 

 

フェヒ ホ フン!

※※※※の肉の匂い!

生きているのか死んでいるのか

とにかくそいつの服をば裂いて

おれっちのパンをこしらえよう!

 

輪になった人々の回転はますます速くなり、いたぶるように、囃すように、一際高く歌った。

「止めろ!止めてくれ!」

「これが瓶詰めの地獄だ!」

「ああ!」

「なぜそんなにひとりばかりを想う!」

「ああ!」

「おいおい、あの顔いろは少し青かったよ」

 

黙ってゐろ

俺のいもうとの死に顔が

まっ青だろうが黒かろうが

きさまにどう斯う云われるか

 

 

パペサタン、パペサタン、アレッペ!

パペサタン、パペサタン、アレッペ!

パペサタン、パペサタン、アレッペ!

パペサタン、パペサタン、アレッペ!

 

……

…………

………………

……そうした騒ぎを、しかし僕は最後まで見ていなかった。突然、僕は何者かに腕を引かれて、部屋を出てしまったので……。 

……部屋の中では未だ、気違いじみた乱痴気騒ぎが続いている。僕はそこから抜けられたことに安堵を覚えながら、僕を引っ張り出した相手の顔を見た。そして驚愕し、思わず顔を強ばらせた……。 

……それはあの、ブロンドの髪の、あの女……。この時代では単なる使用人に過ぎぬ、しかし死後に地獄に堕ちることが定められている、あの、若い女だったのだ……。

「何ですか?まるで、お化けを見るような顔で……」

思わず相手の顔をじっと見ていると、不思議そうに女が言った。僕は慌てて取り繕った。

「いや、何でもないよ……」

「そうですか?それなら、いいんですけど」

女が笑う。……おかしなことにその時、この使用人姿の女を初めて見た時に、すぐにあのブロンドの女だと気付かなかった訳が、わかった気がした。……地獄にいたあの女には精気がなく、顔は疲れ果てていて、また極限の寒さに震え、青褪めていた。当然、化粧などしていたはずもない。……それが今、僕の目の前にいる女はばっちり化粧している。全身に活力を漲らせ、溢れるような精気を発散していた。

……そして、いい匂いがした。

「先程の話ですけど……」

「え?」

「ほら、私をどこかで見たっていう話。あれ、本当だったんですか?」

「ああ……。いや、ごめん。僕の勘違いだったよ」

地獄でお前を見たのだなどとは言えず、僕は誤魔化した。

……すると、女が思いがけないことを言い出した。

「そうなんですか?私、どこかで、貴方を見たような気がするんですけど……」

「なんだって?」

僕は驚いた。そんな筈はないのだ。僕がこの女に会ったのは地獄、この女が死んだ後の話で、生前にそれを知っている筈がない。

……だが、この女の発言が果たして、単なる勘違いと言い切れるだろうか?ひょっとしたら、何らかの関連があるのかもしれない。僕は、咄嗟に、そう考えたのだ……。

食いついた僕の表情を見て、女が僕の目を見つめてきた。その視線は、僕にはどこか覚えがあるものだった。

「ここじゃ何だから、静かな場所で話しましょうよ……」

…………

………

……

 

 

……その部屋を出ると、扉の前でピエールが待っていた。

「お楽しみだったようですな?」

笑いながら言う。……それは、人間とは違うその顔をもってしても直ちにわかるような、そんな厭な感じの笑いだった。

女中部屋の扉を静かに閉めながら、僕はピエールから眼を逸らした。……中には、女が一人で眠っている。

「おや。私は別に、責めているわけではありませんよ。最初に公爵が仰っていたではありませんか。今夜は無礼講で、何をしても責められることはないのだと……ね……」

……それを聞いて初めて、僕は今夜のパーティーの趣旨を悟った。……最初から、そういう催しだったのだ……。

「それにしても、貴方も大胆ですな。……まさか、地獄に堕ちると知っている女性と、関係を結ぶなんて、ね……」

「……そんなつもりはなかったんだ」

僕は呻くように言った。そう、本当に、僕にはそんな下心はなかったのだ。ただ……いつのまにか……。

歩き出すピエールの後に従い、僕も項垂れたまま歩き出した。

「ですから、弁解などする必要はありませんよ。しかし、地獄に堕ちる可能性のあることを敢えてするなど、実に剛毅な話だと思った次第で……」

「地獄だって?僕が?」

思わず、僕はいった。

「なんでだ?僕は別に、疚しいことをしたわけじゃないぞ。姦通したわけじゃない。僕には恋人なんていないし、あの女だって特定の相手はいないと言っていた……」

「一応、確かめたというわけですね」

ニヤニヤと笑う。僕は顔を伏せた。

「しかし、そういう問題ではないのですよ。あの女が、何で地獄に堕とされることになったか、当然覚えていますよね?そう、堕胎の罪で、あの女は地獄行きとなるのですよ。堕胎……つまり、身籠った赤子を殺すわけです。……その堕胎する赤子が、果たして、貴方の子供ではないと言い切れますかな?」

……変な息苦しさを感じて、僕は丘に上がった魚のように、口をパクパクと開き、喘いだ。呼吸ができない……声も出ない……。僕は立ち尽くした……。

……ようやく、声が出せるようになって、僕はいった。

「そんな馬鹿な……。そんな、だって、たった一晩で……」

「一晩でも、そうしたことは充分ありますよ」

「いや、だって……おかしいじゃないか。あの女はもう、地獄に堕ちていたんだ。それを、確かに見たじゃないか。今さら、僕が、何をしたって……」

「自分でもわかっていることを人に聞くのは、よくないですね。確かに我々からすれば先に会った彼女は地獄に堕ちた彼女で、その後に生きている彼女に会ったわけですが、客観的な時系列から言えば、生きている彼女の方が時間的に前であることは明白です。ここは、過去の時代なのですよ。……彼女、地獄で、なんと言っていました?父親のわからない子供を生むのが不憫だから堕ろしたんだ、と言ってませんでしたかな?今日の貴方は、彼女にとってまさに行きずりの、一夜限りの男に違いありませんよ。今晩のことが原因で貴方の子供を身籠った彼女が、その子を堕ろして地獄行き、となったと考えても別におかしくはないですよ」

「そんなことはありえない……。いや、もしも、万が一、そうだったとして……僕に、何の罪がある?子供を堕ろすのはあの女の意志だ、僕の知らない処ですることじゃないか……。まさか僕がこの時代に残って、面倒を見るわけにもいかないし……」

「お望みならできますよ?」

こともなげに放たれた言葉に、僕は心底ぎくり、とした。

「いや……冗談ですがね……。しかしよろしいですかな、確かに普通の場合なら、その理屈は通るかもしれません。一夜限りの性交渉は、道義的にはともかくとして、堕胎の罪には当たらないでしょう。……しかし貴方は、甚だ変則的な形ではありますが、あの女が堕胎をする女だと、そうして地獄に堕ちる運命にある女だと、予め知っていたのですよ。予測できて然るべきだったのですよ。それを考えず、衝動的に関係を持ってしまった貴方は、やはり充分に堕胎の罪の片棒を背負ったことになる。まあ、そう思われても仕方ないのではないですかな?」

……ぐうの音も出なかった。

僕の子供……僕の子供……。僕の子供が地獄に堕ちる……いや……違う……子供は堕ろされて……僕の子供は殺される……殺したのは誰だ?…………殺したのはあの女……種を播いたのが……僕……あの女は地獄に堕ちる……あの女は地獄に落ちる…………。

…………そして……僕も……?

「もしもし……もしもし……?」

……その声も、どこか遠くで聞こえるようだった……。

「弱りましたな……多少、薬が効きすぎましたな!ちょっとからかいがてら、注意して差し上げようと思っただけなのですが。これからメインイベント、いよいよ大詰めだというのに、主役の探偵である貴方がこの調子では、どうにも困りますな」

「……メイン……イベント……?」

空ろに、僕は繰り返した。特に心に留まったわけでもないが、それでも反応が返ってきたことに力を得たのか、ピエールが話し始める。

「そうです。本日のメインイベントにして、また同時に、私達の旅の大詰めでもあります。最初に、これは探偵小説だと話したのを、覚えているでしょうな?まず、事件解明の手掛りとなる人々に会いにいって、それから、事件の被害者から事件の概要を聞いて、犯人を当てるという趣向なのだと。そうした訳で我々は地獄に赴き、そして先程のパーティーに出たことで、会うべき人には全て会ったことになるのです。ですから、愈々、問題の出題篇。そして同時に、貴方が探偵となってその事件を解き明かす、解決篇が始まるというわけなのですよ!」

……ピエールが楽しそうに語るその言葉も、今の僕にとっては何ら、心を弾ませるようなものではなかった。……それでも、このわけのわからない、馬鹿げた悪夢のような旅から抜け出せるのだと思うと、少しは嬉しく思えてきた。

「それでは、参りましょう。場所はこの屋敷の地下です。はぐれないようについてきて下さいね」

僕はまたしても、ひたすらピエールの後について歩いた。足元を見て歩き、時々重苦しい想念に浸りながら、薄暗い屋敷の中をあちこちと歩き回り、曲がりくねり、ついにその、息苦しい部屋にたどり着いていたのだった。

部屋の中は闇に深く閉ざされ、自分の周囲でさえも、はっきりとは見通せないほどだった。部屋全体の広さも判然とせず、明かりは部屋の真ん中にある蝋燭だけしかないので、壁際はほぼ完全に闇に沈んでいる。……部屋には数人の人影があり、僕達の他にも何人かいるようだったが、その顔はわからなかったし、どれほどの人数がいるのか全く見当が付かなかった。

部屋の中央と思われる辺りに小さな丸いテーブルが据えられていて、その上に置かれた蜀台に、一本の蝋燭が刺さっている。それが、この部屋の光源の全てだった。部屋の中央のみをぼんやりと照らし出しているそれは、その傍にある一脚の椅子の姿を浮かび上がらせていた。……そこには、一人の人物……身体の造りから、どうやら女らしい……が座っていて、そしてその人物の傍には、これは男のものらしい影が一人、付き添うようにして立っていた。

「……一体、何が始まるんだ?」

只ならぬ怪しげな雰囲気に、僕は思わずそっと聞いていた。

「これから、心霊治療を行うのです」

「……心霊治療?」

「そうです。或いはもう見当が付いているかもしれませんが、あの椅子に座っている人物こそが、問題の事件の被害者なのです。彼女は恐ろしい、密室殺人……それも、警察がついに解明することのなかった、ある完全犯罪によって殺されてしまったのです。これからその事件について話してもらうので、その前に聞いた会話をヒントにしながら、一体彼女の身に何が起こったのか、そして犯人が誰なのか、貴方に推理してほしいのです」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

奇妙な説明を聞いて、ようやく正気に戻りかけていた僕は、慌てて口を挿んだ。

「密室殺人、そして完全犯罪の被害者だって?あんたは何を言っているんだ。殺人事件の被害者が、どうして無事にあそこに座っているんだ?」

それとも……あれは、死体なのだろうか?そう考えて、僕はぞくっとした。しかし、死体であれば、口が聞けないではないか……。

「そう、現在の彼女は、いたって平凡な人生を送る、幸福な人間の一人でしかありません。勿論、事件になど巻き込まれたこともなければ、殺されたことなどあるはずもない。問題となっているのは、彼女の前世なのですよ」

「……前世?」

「はい。これまでは幸福な人生を歩んでいる彼女ですが、時折、酷い悪夢に魘されることがあるのです。しかもそれは、奇妙に生々しい、苦痛までも伴った、臨場感たっぷりの悪夢なのだそうで……。その夢を見ると、彼女自身の人格まで変貌してしまったような感じがして、ついには日常生活に支障をきたすまでになったのですよ。それで彼女は色々と治療方法を探ったのですが、それによるとどうも悪夢の原因は、彼女の前世に由来するのだということ明らかになったのです。……つまり彼女は、前世において何らかの酷い殺され方をして、それがあまりにも強烈な体験だったために、こうして生れ変わってからもその記憶が時々甦り、苦しんでいる、とこうしたわけなのです。ですから今夜は催眠術師を招いて彼女に逆行催眠を施し、前世で彼女が殺された場面を語ってもらい、そしてその恐ろしい犯行を暴こうという趣向なのです。……勿論、それで犯人を捕まえるなどということは不可能なのですが、犯人の卑劣な犯行を暴き、その謎を解くことで彼女の無念を少しでも晴らし、以て現在の彼女の苦痛を和らげようといういうわけですな……」

僕は、思わず頭を抱えた。ヒヨコ人間の語るとんでもない、到底正気とは思えない話を聞いていると、それを聞いているこっちの頭まで、おかしくなってくるような気がした。この連中の狂気が僕の脳髄に感染して、狂気の世界を正常に、正常な世界を異常なものに、置き換えてしまうように思われた。

……これはただのゲームなんだ。僕は強いて自分に言い聞かせた。本当らしくピエールは語っているが、これはあくまで探偵ごっこなのであって、ピエールはもう答えを知っているし、このおかしな話は全て、作り話なのだ。あの女性は前世の記憶に苦しむ演技をしているだけの役者で、いや……それどころか、実在すらしていないのかもしれないのだ……。そう思った。

「そろそろ始まりますよ……」 

考えこんでいた僕に、ピエールがそう告げてきた。まるでその言葉に合わせたかのように、女性の近くに控えていた男……催眠術師だというその男が動いた。テーブルの方へ近づけば、必然的に蝋燭の火の灯す範囲に入ることになり、闇に隠されていた男の姿が露わになる。……僕は少しだけ驚いた。いかにも催眠術師然とした、胡散臭い男があらわれるだろうと思っていたのに、予想に反して現われた男の姿は理知的で、どこか探偵のようにも見えた。 

「よくわかりましたね。あれは、探偵ですよ。催眠術師であり、かつ今回の事件の探偵なのです」 

「探偵だって?でも……探偵は、僕の役じゃなかったのか?」 

「勿論、貴方が探偵ですよ。しかし、これはいわばクイズのようものですからね。ひょっとしたら……お気を害さないでくださいよ、可能性の話をしているのですからな……貴方が謎を解くことができない、という可能性だってあるわけです。そんな時、正解がわからなければ気になって仕方ないでしょう?あの男はそんな時のために、貴方に代わって事件解決に当たる役なのですよ。まあ彼については、貴方のライバル役なのだと考えて下されば良いのです。彼に負けないように、しっかり推理して下さいね…………」

『皆さん!』

突然、声が響いた。バリトンの利いた渋い声。暗闇の中でも、それが探偵の発した声だとすぐ知れた――僕のイメージする、探偵の声そのものだったので。

「今から、聴取を開始したいと思います。彼女は――お名前は明かせませんが――、すでに先程から、深い催眠状態に入っています。これから私は彼女に色々と質問してゆくわけですが、その答えは全て、彼女の前世……つまり、彼女が殺害された場面についてのものであるとお考え下さい」

そう言うと彼は、椅子に座る女へと向き直った。……以下、女と探偵との会話である。

…………

 

「貴方は、今、何を見ていますか?」

「……何も……何も……見ていません……」

「何も見ていない?」

真っ暗なんです……何も……何も見えない……」

「なるほど。自分が今どこにいるか、貴方はわかりますか」

「……わかりません。ただ、とても、とても落ち着く処……

「貴方にとって、そこはとても心地よい場所。そうなのですね?」

「……はい……」

「そこは、どんな場所ですか?広いですか、狭いですか?」

「広い……狭い……。よくわからない……。でも……二人だと、少し狭い……」

「二人?そこに、貴方の外に、誰かいるのですか?」

「…………」

「答えて下さい。誰かいるのですか?」

「兄が……兄が…います…………」

「お兄さんが?貴方と二人きりで?」

「はい……」

「暗い部屋で、お兄さんと二人きりで、何をしていたんですか?」

「……何を……?」

「答えて下さい」

「いいえ……何もしていませんでした……」

「正直に答えて下さい。何をしていたのですか?」

「何も……私達は……何もしていません……」

「ふむ……。では、その前は?以前には、お兄さんと何かあったのではないですか?」

「…………」

「答えて下さい」

「時々……兄が……触ってくることがありました……」

「触ってくる。貴方の身体を?」

「……は…い…………」

「貴方は今、暗く、そして狭い場所にいるのでしたね。お兄さんと、二人きりで。……貴方は今、服を着ていますか?」

「……いいえ……」

「裸なのですね。お兄さんも?」

「……はい…………ァ……」

「どうしました?」

「……あ……ああ……あ…………」

「どうしました?」

「ああ……兄が……突然……」

「どうしました?」

「兄が……兄が……私の首を…………」

「首を絞められているのですか?手で?」

「違います……違います……なにか、太い……綱のようなもので……兄が…ああ、兄が私を……私の首を……ああっ!」

「落ち着いて!」

「ああっ!助けて!助けて!……どうして…………あ…………」

「落ち着いて下さい!」

「……………………」

「もしもし、もしもし!」

「あ……ああ…………」

「……それで、貴方は死んでしまったのですね?」

「……はい…………」

「わかりました。それから、どうなりました?」

「それから……。それから……?」

「お兄さんが貴方を殺した後、貴方の体はどうなりました?お兄さんの犯行は、露見したのですか?」

「いいえ……。兄は、裁かれることはありませんでした……」

「貴方のお兄さんは、犯行を隠し通したのですね……」

「いいえ……そもそも……事件にはならなかったのです……」

「事件にならなかった?貴方の死体を見れば、殺人事件であることはわかるでしょう。自殺に偽装したということですか?」

「いいえ……私の死体は……消えてしまったのです……」

「死体が、消える?貴方自身にも、わからないのですか?」

「……わかりません……どうしても…………ああ…………」

「わかりました。少し落ち着いて。気を楽にして」

「……あ……あ…………」

「それにしても、おかしな話ですね。死体が消えてしまったとしても、人が一人いなくなれば、騒ぎにはなりそうなものですが……」

「私は……私は、最初から…いなかったことにされたのです……」

「最初から、いなかった?どういう意味です?」

「私は、最初から、いなかったのです……。私の存在を知っていたのは……兄だけ…………」

「お兄さんだけが、貴方のことを知っていた。だから、貴方がいなくなっても、殺されてしまっても、騒ぎにはならなかった。…………そういうことですか?」

「……はい……」

「……わかりました。最後に、もう一つだけ。……それは本当に、貴方のお兄さんでしたか?」

「……え……?」

「部屋は真っ暗で、なにも見えなかったのでしょう?貴方の隣にいたのは……首を絞めたのは、本当にお兄さんだったのですか?」

「……わかりません……。そう言われると……。あれが、本当に、私の兄だったのか……。ひょっとしたら……ああ……ひょっとしたら……」

「ひょっとしたら?何です」

「あれは……弟だったのかもしれない……」

「弟?貴方には弟さんもいるのですか?……しかし、貴方のことを知っているのは、お兄さんだけではなかったのですか?」

「……わからない……何も……何もかも……」

「しっかり、落ち着いて」

「……ああ……何か……何かが、私に近づいてくる……光……ああ……あれが……光…………。ああ……近づいてくる…………近づいて……くる……融ける…………私が……融けて……………」

「もしもし?もしもし!」

「……………………」

 

(女性、がっくりと頭を垂れる。探偵、テーブルの上の燭台を手に取り、女性の座る椅子から離れる。女性の姿が闇に呑み込まれ、探偵はこちらに向き直る)

「残念ながらここまでのようです。前世の彼女の意識はここで途切れ、転生への準備に入ってしまいました。これ以上、彼女から聞けることはありません。……さあ、この証言を元にして、彼女の見に一体何が起こったのか、彼女を殺した犯人が誰だったのか、そしてその状況を、解明することができますかな?」

(探偵、優雅に一礼。そのまま動きを止める)

 

「さて、そういうわけです。これで出題篇は終了ということですね。そしていよいよ解決篇、貴方に解いて頂くわけなのですが…………。おや、どうしました?随分と顔色が悪いですが」

「気持ち悪いんだ……」

我ながら、弱々しい声がでた。実際、気分は最悪だった。訳のわからない話を延々と聞かされて、脳の中を引っ掻き回されたように感じていた。

「それはいけませんな。まあそれは我慢して頂くとして。どうです?もう、お分かりですかな?」

僕は不機嫌に応じた。

「わかるわけがないだろう。こんな、訳のわからない話……。一体、何を手掛りに解けっていうんだ?」

「そこはそれ、貴方は他の人よりも、多くの情報を持っていらっしゃるはずですよ。最初に言ったでしょう、ここに来るまでの旅路、それそのものがヒントであると……」

「……ここに来るまで……?」

僕は、この物語が始まってからのことを思い返した。

地獄門をくぐって地獄に入り、カロンの渡し舟に乗り、コキュートスに堕とされたこと。おかしな二人の女に会い、そして、弟殺しのカインの話を聞いたこと。……それから、おかしなドアを抜けてこの屋敷に入り、公爵主催のパーティーに出席したこと。鳥の飛び出すパイ、謎めいたミートパイ……そう言えば、結局何の肉か聞いていなかった……突然飛び込んできたおかしなビヂテリアンの青年と、公爵との議論……。ヘッケル博士。個体発生は系統発生を繰り返す……。公爵の謎めいた笑み……カーニヴァル……猟奇的なマザーグースの歌……ブロンドの女……地獄に落ちる女。

……それらが、どうこの事件と結びつくというのか?考えれば考えるほど、わからなくなった。

「一体、どういうことなんだ?僕が今まで会った人の中に、犯人がいるっていうことなのか?」

「お答えできません……と、言いたいところですが、大ヒントを差し上げましょう。はっきり言ってしまえば、その中に犯人などいません。関係者すらいません。彼らは、あくまでもこの事件の全容を明らかにし、解明するための手掛りでしかないのですよ。事件との関係性といった直接的、具体的なつながりではなく、彼らの存在、そしてその口にしていた言葉の中に、この奇怪な、謎めいた事件の全容を暴くための、重大な手がかりが隠されているのです。……大事なのは、思い込みを捨てること。そして彼らを、彼らの存在を抽象化し、概念化することです。それが、ヒントになるのですよ」

……ピエールの言っていることは、はっきりいって何一つ理解することはできなかった。一体、何がこの奇怪な事件の、ヒントになると言うのか?あのおかしな連中の、乱痴気騒ぎの、何が手掛りだというんだ?……そもそも、これは推理物なのか?こんなもの、探偵小説として、機能していないではないか……。

こちらの顔色を見て、ピエールがいう。

「どうですかな?降参ですかな?」

「……ああ」

僕は頷いた。癪ではあったが、正直言えばもう、どうでもよかったのだ。この事件の真相になど、一片の興味すら感じない。……ただ、とにかくもう、この異常な世界から、抜け出したい一心だった。探偵になどならなくていい、何もいらない、とにかく、早く此処から出たい。頭がおかしくなりそうだ……。

ピエールは残念そうな声色で、しかしあっさりといった。

「そうですか。では仕方ありませんな。あの探偵に主役を割り振って、解決篇スタートとゆきますか」

その声と共に、スイッチが入ったように、また探偵が動き出した。僕はもう、なにも言う気力もなく、その寸劇を見守った……。

 

「どうですか、皆さん。お分かりになりましたか?」

「わかるわけないだろう!」

暗闇の中から、野太い声が響く。それまでは人形のように身動きしなかった部屋の中の人物達、俄かに動きはじめる。ただしその姿は影法師のようで、顔は見えない。

「あの女は、結局何も言っていないじゃないか!」

「落ち着いて下さい、警部。確かに、戸惑うのはもっともな話です。彼女の証言は実に曖昧で、殆どはっきりとしたことは言っていない。殺害現場にしても、真っ暗でなにも見えない、どこかわからない、ただ懐かしい、心地よい場所だと言っているだけ。……おまけに、死体が消えてしまっただの、自分は最初から存在していないだの、謎めいたことまで口にしています。そして止めに、はっきりしていると思われた、兄に殺されたのだという証言まで翻し、弟かも知れないなどと曖昧なことを言い出す始末。唯一はっきりしていることと言えば、手で首を絞められたという、殺害方法だけ。これで事件の全容を明らかにするというのは、不可能に思えます」

「不可能だ!」

「いや、そう決め付けるのは早計ですよ。この、一見不可解な状況……曖昧な証言、それら全てを合理的に説明できる状況が、たった一つだけあるのですよ」

「なんだって?」

暗闇の中の一同、驚く気配。

「いいですか。鍵になるのは、曖昧な彼女の証言の中でも、もっとも謎めいた一言です。……そう、自分が最初からいなかったことにされたという、あの言葉ですよ」

「あの訳のわからない言葉が、なんだというんだ?」

「皆さんは彼女の証言を聞いていく中で、おそらくこんな想像をしていたのではないでしょうか。つまり、彼女は実のお兄さんと近親相姦の関係に陥っていた。真っ暗な狭い場所で、幾ら兄妹といっても裸で二人きり、などという証言を聞けば、そう思ってしまうのが妥当です。彼女が曖昧なことしか言わないのは、それを罪だと思っていたため……お兄さんの方から一方的に言い寄っていただけだとしても、やはり隠しておきたいことには違いありませんからね。そして、その罪深い情事の現場で、突如豹変した兄に、彼女は殺されてしまった……。そうしたストーリーが、導き出されるのではないでしょうか。……しかし、これは誤りです」

「誤り?」

「そうです。いえ、他人事のように言っていますが、実は私は皆さんに謝罪しなければなりません。これは、私の質問の仕方が拙かったせいで、皆さんをミスリードするような形になってしまったと言えるのです。あの状況には、まるっきり違う解釈の仕方があるのですよ。そのヒントとなったのが、彼女の謎めいた二つの証言……自分が最初からいなかった、そして自分を殺したのが、兄か弟かわからないという証言です」

「そんなものが、なんだというんだ。只の戯言だろう」

「貴方がそう思うのももっともです。なにせ只でさえ彼女の証言は、催眠術によって呼び起こした、前世の記憶、という一風変わったものですからね。……しかし、彼女の記憶は曖昧に聞こえますが、しかし曖昧だということはその証言が嘘や捏造ではなく、真実であるということも示しているのです。自分が最初から存在しなかったことにされた……こんなことは、普通ならありえません。大昔ならいざしらず、今は生まれた子供はきちんと戸籍に記載されて、役所で管理されています。届出をしていない子供でも、普通に生活をしていれば、世間に隠しておけるものではありません。特殊なケース……例えば貴族の娘が、とある事情の下に子供を秘密裏に生んで、世間に隠して育てる、などということもあるかもしれませんが、それでもその存在を兄しか知らない、ということは不可能でしょう。だって、彼女を生んだ両親がいるはずですから」

「しかし、両親はすでに死んでいるという可能性だってあるのではないですか?……それに、実はその兄こそが、彼女の父親であるかもしれません……」

「確かに、そうしたケースも考えられます。彼女の兄が、同時に彼女の父親でもある……つまり貴方が言いたいのは、彼女が忌まわしい近親相姦の結果として生まれてきた子供である、ということですね。だからこそ、彼女は世間の目からは隠されなければならなかった、と。確かに辻褄はあいますね。貴族の家には、近親相姦が付きものだと言いますから。……しかし、たとえそうだったとしても、兄しか知らない、ということがあるでしょうか?母親に当たる人物が死んでしまって、他に肉親がいないとしても、親族がいるでしょう。屋敷には、使用人たちもいるでしょう。彼らに隠して、人間一人の存在を隠したまま育て上げることができるでしょうか?可能性は皆無ではありませんが、やはり無理がある。……そんな無理のある推理より、もっと単純な説明ができますよ。それなら、彼女が相手を兄か弟かわからない、といったことも完璧に説明できますし、殺害現場も特定できます。しかも、彼女と彼が、近親相姦の間柄などではなかったことまでわかりますよ」

「……一体なんなんだ!勿体ぶらずにさっさと言え!」

「わかりました。では、お教えしましょう。……そもそも、彼女は、この世にまだ産まれていなかったのですよ」

瞬間、辺りを包む静寂。驚愕というより、皆が意味を図りかねている気配。

「思い出してみて下さい。彼女は、自分がいる場所を、真っ暗でなにも見えない場所だと表現しましたね。そう……そこは、母親の胎内、つまり子宮の中だったのですよ。それなら、一片の光もないのは当然です。その上、彼女はまだ目を開くこともできなかった。心地よい場所、というのも当てはまりますね。そして、当然裸のわけです。……そして、二人では狭いという証言」

「……まさか……」

「そう、彼女は、双子の片割れだったのですよ。二卵性双生児の、男と女の双子です。……いや、前世の話ですから、彼女が女性であったとは限りませんが。……とにかく、子宮の中に二人でいる状況を、彼女は狭いと表現したのです。どうです、これで納得がいくではありませんか。まだ産まれていないのですから、相手が兄か弟か、自分こそが彼の姉なのか妹なのか、まだ決まっていなかったのですよ」

しばらく、押し黙る気配。誰一人声を出す者はない。彼女の証言を思い返し、探偵の言葉を検証している者、ひたすら驚き呆れる者。

先程警部と呼ばれた人物の声が、その静寂を破る。

「ちょっと待ってくれ!しかし彼女は、自分が殺されたと言っているんだぞ!君はまさか……」

「そう、これは確かに殺人です。空前絶後、史上類を見ない奇々怪々な殺人事件、つまりこれは……子宮内殺人なのです!」

『そんな馬鹿な!』

声を合わせて驚く一同。

「そう考えれば全てに納得がいくのです!彼女は自分が存在しなかったことにされたと言った。当たり前です、そもそも生まれてこなかったのですから!事件にならなかったのも当然です、誰が産まれてくる前の胎児が、殺人を犯すなどと考えるでしょう!凶器はもうお分かりですね、綱のようなもの、つまり臍の緒です!胎内では呼吸をしていませんから、首を絞めて殺したというのは窒息死ではなく、首の骨を折ったのでしょう!」

興奮してまくし立てる探偵。未だ戸惑いを隠せぬ一同。

「しかし、君……常識で考えたまえよ。まだ産まれてきてもいない胎児が、殺人などするわけがないじゃないか。それは君、偶然に臍の緒が彼女の首に絡まってしまっただけなのではないかね?つまりこれは殺人などではなく、事故だったのだよ。それを彼女は、殺人だと勘違いしてしまったわけだ。そうだろう?」

「なるほど。……しかし、死体はどこに消えたんです?」

「……死体……?」

「彼女の死体です。彼女は、自分の死体は消えてしまったのだといった。彼女の死体は、どこに行ったのです?」

「それは……彼女の兄、だか弟だかが生まれるとき、一緒に母胎から出たんだろう?」

「それなら、彼女は消えてしまったとは言わないはずです。それにもしそうであったなら、少なくとも彼女の存在は、母親には伝わったはずです。社会的には認知されていなくとも、ね……」

「……何が言いたいんだ?」

「つまり彼女の死体は、彼によって隠されてしまったのですよ。証拠隠滅です。そしてそれは、彼が明確な殺意を持っていたことを示しているのです!」

「そんな馬鹿な……。子宮の中で、どうやって死体を隠すというんだ?」

食べたのです

「……食べた……?」

「彼女の遺体を、彼は食べたのですよ」

聴衆の一人が嘔吐し、辺りが騒がしくなる。他の者も探偵の言葉に一様に眉を顰め、口元を抑えている。

「そんな……そんなおぞましいことが、あってたまるか!ありえない!いたいけな赤ん坊が殺人を犯し、その上……その上……死体を、食べるなど!そんなことは、あってはならない!」

「申し訳ありませんが、合理的な反論をお願いします」

「そもそも、そんな赤ん坊に、固形物を消化できるわけがないだろうが!」

「なるほど、それはもっともです。……しかしですね、少し考えてもらいたいのは……これは一体、いつ頃起こった事件なのでしょうね?」

「何?」

「おそらく皆さんは、二人の赤ん坊がもう人間の姿をとって、かなり大きくなった段階での犯行だと考えているのでしょう。だからこそ、自分と同じくらいの大きさの胎児を、同じ胎児が食べることなど不可能だと考えている。……しかし、妊娠期間はおよそ十ヶ月以上あるのですよ。その、どの段階で事件が起こされたのか、それは彼女の証言だけでは明らかにはならない問題です」

「つまり、どういうことなんだ?」

「つまりこの事件は、彼女がまだ充分に成長する前……ひょっとしたら、ヒトの姿を取り始める前に、起きた事件なのかもしれないのです。そして、死んでしまった彼女が成長を止めた後、すくすくと大きくなった彼がパクリと、口の中に隠してしまった……というのはどうです?」

「しかし、大きさの問題ではないだろう!」

「では、噛み砕いたというのはどうです?原型のわからないほど噛み砕いて、出産時に羊水と一緒に排出されてしまった……」

「歯など生えていない!」

「なら、手で千切ったのですよ。赤ん坊の握力は、なかなか馬鹿にできないといいますからね。……もういいでしょう、可能性など幾らでも考えられるのですよ。なんたってこの事件の犯人は、母親の子宮の中で殺人を犯そうと考えた、前代未聞、空前絶後、これ以上ないほどの早熟な天才児なのですからね……」

探偵が口を閉じる。沈黙が部屋を支配する。ふいに、弱々しい女の声が上がる。

「どうして……どうしてその赤ん坊は、自分の妹を殺したのですか?動機は、動機は何だったのですか?」

「そんなこと、僕にはわかりませんよ。動機などというものは、一人犯人自身しか、本当にはわからないものです。ましてやこれは、まだこの世に生まれる前の、胎児の犯行なのですからね……」

「許せん!」

突然、激昂した声が上がる。

「こんな卑劣な、いやおぞましい犯行を、決して見過ごすわけにはいかん!そいつは、生まれながらの犯罪者だ!野放しにはできん!」

「そうだ!」

忽ち別の声が上がる。

「人間のすることじゃない!いや、そんなやつ、人間じゃない!悪魔だ!悪魔の子だ!とっつかまえて、処刑すべきだ!」

「そうだ!奴を高く吊るせ!」

「悪魔を高く吊るせ!」

興奮する人々に、困惑する探偵。

「落ち着いて下さい、皆さん……」

「これが落ち着いていられるか!」

「お前も悪魔の味方か!」

「いえ、皆さんのお気持ちも充分わかるのですが……。残念ながら、私は事件の全容は解明したものの、その犯人がどこの誰なのかはわからないのですよ。なんといっても前世の話ですし、彼女だって生まれる前だったのですから、それがいつの時代か、この国の出来事だったのかすらわからない。ひょっとしたら、百年以上も前の出来事かもしれません。ですから、その犯人が、現在も生きているとは限らないのです……」

「ふざけるな!なんとかしろ!」

「なんとかしろと言われましても……」

突如として、響き渡る絶叫。椅子に座っていた女が恐怖に怯えた表情で、頭を掻き毟って叫んでいる。駆け寄る人々。女は半狂乱になって、暴れ、そして昏倒する。

「可哀想に……」 

誰かが言う。 

「無理もない。あんな恐ろしい目にあったんだ」 

「彼女はきっと聞いていたんだ。そのおぞましい事実に、耐えられなかったのだ」 

「やっぱり、犯人は許しちゃおけない。奴は人間じゃない。俺がこの手でぶっ殺してくれる!」 

「落ち着いて下さい。犯行当時、犯人は胎児だったのですよ。責任能力はありません。この犯行だけで、死刑にできるとは……」 

「胎児のしたことだからこそ、赦せないんだろうが!」 

そうだそうだ、と声が上がる。 

人々、探偵に詰め寄る。 

「お前は奴に味方するのか!」 

「とんでもない、気持ちは皆さんと同じですよ……」

「だったら、犯人を探し出せ!お前はもう、知っているはずだ!」

「いや、それは無理ですよ。さっきもお話したとおり……」

「嘘を吐くな!お前は知っているはずだ!それでいて、奴を庇っているんだ!」

「いや、参ったな……。本当に、不可能なんですってば……」

「やかましい!」

激昂する人々。悲鳴が上がり、倒れる探偵。床に血が流れる。興奮した人々、探偵の死体を散々蹴りつける。

「奴は人類の敵だ!人類史上、最悪の犯罪者だ!我々は、なんとしても奴を探し出し、処刑せねばならない!奴に味方する連中は全員敵だ!一人残らず、始末してやる!」

歓声が上がる。

……暗転。

舞台変わる。街の広場。群集。

「俺達は、奴を赦さない!」

群衆の一人が叫ぶ。

「奴は人間じゃない!奴は産まれる前の赤ん坊を、自分の妹を、明確な殺意を持って殺したのだ!奴を野放しにしてはならない!」

聴衆にどよめきが走る。

「赤ん坊を殺したって?」

嬰児殺しだ!赦されざる犯罪だ!」

「そんな奴は地獄に堕ちろ!」

「違う、児どころの話じゃない!これは、胎児殺しだ!」

「そうだ、胎児殺しだ!胎児による、胎児の殺人だ!」

「胎児による殺人だって?」

「そうだ!これは子宮内殺人なのだ!」

「子宮内殺人!」

一人の上流階級の夫人、そう叫んで卒倒する。居合わせた女性、全てが顔が青褪めさせる。

「子宮内殺人!」

「子宮内殺人!」

「子宮内殺人ですって!」

「なんておぞましい!」

「赤ちゃんが殺人を犯すなんて、何かの間違いでは?」

「いいや、確かな話だ!だからこそ、赦せないんだ!」

「それが本当なら、確かに赦されないことだわ!」

「人類にとってあってはならない、恐ろしい犯罪です!」

「俺達人間の歴史から、この事件は消してしまわなければならない!この汚らわしい事実を跡形もなく消し去り、俺達の記憶からも永遠に抹消してしまわなければならない!人類の誇りのために!」

「そうだ!」

「その通りだ!」

「人類の誇りのために!」

「人類の誇りのために!」

「人類の未来のために!」

「パペサタン、パペサタン、アレッペ!」

「誰だ、おかしな言葉を呟いたのは!」

「今のは涜神の言葉だ!」

「悪魔が紛れ込んでいるぞ!」

「殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」

そして誰かが殺される。

 

 

その狂乱の光景を、僕が遠くから眺めていると、どこに行っていたものか、群集の中でも一際目立つ奇怪なヒヨコ人間の姿が現われ、こちらに向かってぴょこぴょこと歩いてきた。

「いやはや、大変な騒ぎですな」

「……よく言うよ」

僕は力なく呟いた。

「あんたが仕掛けたことじゃないか」

「そうでしたかな?確かに私はあれを謎解きに利用しましたが、別に私が事件を起こしたわけではないですよ」

ピエールの戯言に付き合う気力はなかった。

「……一体、どこにヒントがあったんだ?」

一応聞いておく。あの馬鹿げた解答を聞いてもわからなかった。

「おやおや、わかりませんか?まず最初に我々はあのコキュートスで、肉親を殺した者達に会いました。最初に話したのは二人の女、そう、子殺しをした女達です。その内一人は、……貴方もよぅくご存知の……堕胎した女、つまりは胎児殺しの女ですな。次にカイン。これは言わずともわかるでしょう、弟殺しです。これは弟に限らず、兄でも姉でも妹でもいいですが。次に、我々は公爵のパーティーに参加しましたね。あの時の議論を思い出してもらえればわかりますが、議論の焦点は食事、さらに言えば肉食です。そして、特に思い出してもらいたいのは……あの肉のことです」

「肉?ミートパイの?」

「そうです。気付きました?あれは人肉だったのですよ」

「!」

僕は衝撃を受けた。あの時の肉。あれが……。

途端に吐き気を覚える。

「大丈夫ですよ。使われたのは心身ともに清らかな、公爵が厳選した美少女の肉ですからね。そう思えば気持ち悪くなどないでしょう?」

えずきを堪える僕にピエールは愉快気に笑って言う。僕は本気でこいつに殺意を覚えた。

「それにしても本当に気付かなかったとは。カーニヴァルと言っていたでしょう?カニバリズムは人肉食のことですよ。他にもまだまだヒントはありましたよ。例えばあの時出てきた東洋人の菜食主義者。あちらはさすがに気付いたでしょうが、あれは詩人のケンジ・ミヤザワですよ。東洋の聖人とも言われた彼ですが、妹の死を深く嘆いた彼にはじつは……」

「もういい」

僕はピエールの際限ない話をさえぎった。どうでもいい。もう、一刻も早く、この場を離れたいとしか思わなかった。

「もう、この事件は……謎解きは終わったんだろう?だったら、早くこの物語を終わらせてくれよ」

「おやおや、結末を見ないで終わらせてくれだなんて、つれないことを仰いますな。まあ、いいでしょう。……あ、その前にこれをどうぞ」

そう言ってピエールが差し出す紙を、僕は受け取った。

「これは?」

「例の詩人の詩篇です。貴方は問題を解けなかったわけですが、差し上げます。参加賞ということで」

……詩集。怪奇詩集ドグマ・カルマ。その詩片。……すっかり忘れていたし、今さらもうどうでもよかった。……が、とにかくこれで終わるというのだから、とにかく安堵を覚えた。

興味もないまま、紙にざっと視線を走らせた。作品番号66番。

 

「  公園で踊る君を

 

公園で踊る君を見た

 公園で踊る君を見ていた

 

味気ない深夜の帰り道

 足元を見て歩いていた僕は

 寂しい公園で一人踊る

 君の美しい姿を見た

青白い街灯の下、

 君は軽やかなステップを踏んで

 誰もいない公園に

 軽快なリズムを生み出していた……

 

 公園で踊る君を見た

 公園で踊る君を見つけた

 

 踊り続ける君を見て

僕の胸が強く疼いた

ありふれた夜の公園を

 君は華やかな舞台に変える

 招かれざる秘密の観客にとって

 君はその夜の主役だった……

 

  公園で踊る君を犯した

  公園で踊る君を犯した」

 

 

…………

ピエールに文句を言おうと、さっと顔を上げた時、僕は自分の頭が、誰かに唐突に捕まれるのを感じた。何本もの手に押さえられ、何かに強引に頭を押し付けられる。手も押さえ込まれ、前に引っ張られて、厳重に固定される。

……気付くと僕は、ギロチン台に据えられていた。

混乱して周りを見やると、僕はすっかり取り囲まれていて、四方から興奮した群集の野次が飛んできた。

「この人でなし!」

「鬼畜野朗!」

「地獄に堕ちろ!」

「悪魔の子め!」

「呪われた罪人め!」

…………

その他、聞くに堪えない罵詈雑言が浴びせられた。

僕は狼狽えながらも、彼らに向かって必死に叫んだ。

「違う!僕じゃない!」

すると、群集はさらに殺気立つ。

「何を言うんだ!」

「お前だ!お前の仕業に違いない!」

「どうしてだ!なんで、僕がやったなんて言うんだ!」

「自分のしたことではないって言うのか」

「そうだ!僕じゃない、僕じゃない!」

「何か証拠でもあるのか

「証拠だって?」

「そうだ。お前がやったのではないという、証拠があるのか!」

僕は動転していた。証拠を示すべきは向こうであるという、そんなことすら思いつかなかったのだ。代わりに叫んだ。

「僕は……僕は、双子なんかじゃない!僕には双子の妹なんていない!だから僕は、犯人じゃない!」

「わかるもんか!」

女の声がした。

「あの可哀想な双子の子は、産まれる前に死んじまったんだからね!だからあの子は、その存在ごとなかったことになっちまったんだ!あんたのいうことなんか、何の証拠にもなりゃしないよ!」

「僕は殺してなんかいない!僕はそんなことをしていない!」

「じゃあ聞くが、お前は産まれる前のことを覚えているのか?」

それは、他の激昂した声とは違う、幾分穏やかな声だった。僕はその声に、盲目的な群集とは違う、冷静な理知の響きを感じ、必死にそれに縋りつこうとした。

「いいえ、覚えていません!僕は他の人と同じ、ごく普通の、赤ん坊だったのです!決してそんな、恐ろしいことのできる胎児ではありません!」

「……だったら、どうしてそんなことが言える?」

「は?」

突然冷たくなった声に、背筋が冷えた。

「胎児であった頃の記憶がない君に、どうして胎内にいた頃の犯行を否認することができるのだ?」

目の前が真っ暗になった。僕は危うく失神しそうになった。群集が、そうだそうだその通りだと叫んでいる。その声が、どこか遠くで聞こえる。失われそうになる意識を必死になって繋ぎとめ、僕はまた叫んだ。 

「嘘です、今のは嘘です!母の胎内にいた頃のことを、僕は覚えています!僕は決して、そんな忌まわしい真似はしませんでした!」 

「覚えている、だって?」 

群集がざわめく。全員の意見を代表するように、威厳のある老人が前に出てきたと思うと、こう言った。

「産まれる前のことを覚えているということは、お前は普通の人間ではない。赤子は、明確な意識を持っていないのが普通だ。胎児であった頃をはっきりと覚えているというお前なら、あのおぞましい犯行も可能であった筈だ。……やはり、お前が犯人だ」

「そんな馬鹿な!」

僕は叫んだ。力いっぱい叫んだ。理不尽な扱いに、全力で抗議の声をあげた。

「そんなことを言うなら、誰でも犯人にしてしまうことができるではないですか!誰が、そんな犯行を否定できるって言うんだ!僕だけじゃない、あんた達も容疑者だ!人類全てが容疑者だ!」

「その通りだ」

あまりにもあっけなく、老人が認める。僕は呆けた。

「この忌まわしい犯罪は、人類の誰もが犯しうる行為だ。我々の誰もが、それを犯した可能性を否定できない犯行だ。胎児であった頃を覚えていないという人間でも、ただ忘れているだけやもしれぬ。被害者は相手を男であるといっていたが、或いは女であった可能性も捨てきれぬ。その意味では、お前のいうとおり、人類全てが容疑者と言える」

「だったら……」

「しかし、そうであるからこそ、誰かを断罪してけじめをつけねばならんのだ。この事件の容疑者は人類全体だと言えるが、それを認めるには、その行為はあまりにもおぞましい。あまりにも穢らわしい悪徳だ。よってこの事件は、一刻も早く闇に葬ってしまわねばならぬ。……幸い、未だ明らかとなった被害者は一人だけなのだから、一人を犯人に挙げればそれで済む。そして、人類全てが容疑者であるなら、つまりその犯人は誰でもよいと言えるのだ」

ふざけるな、という僕の叫びは、しかし湧き起こった歓声で誰の耳にも届かなかった。僕は暴れ、逃れようとしたが、首も両手もしっかり固定されていて、どうしても動くことができなかった。

もがく僕の元に、ピエールがやってきて、言った。

「こんな話をご存知ですかな?ギロチンにかけられた人間は、首だけになってもまだしばらくは生きているのだ、という説があるのですよ。これは単なる無責任な噂話などではなく、医学会において真面目に論じられ、未だ意見が一致していない問題なのですよ。二十世紀の始めの頃、ある医師がギロチンにかけられた直後の罪人の首を調べて、大声で呼びかけてみたところ、瞼が少し動いたのだそうです。それは、まるで眠っている人間が目覚めた時のような、そんな動作だったそうですよ。そして、呼びかけたその医師を、じっと見返したというのです。それは死人の目ではなく、明らかに生きている人間の目の動きだったと、その医師は正式な報告書にそう記述しています」

……僕はそんな言葉を聞いてはいなかった。ただ、ひたすら半狂乱となって暴れ、口汚い言葉を喚いていただけだった。

「遅かれ早かれ死んでしまうのはたしかなのですが、切り落とされた瞬間に絶命する、というのは誤解のようです。その医師の報告では、首が切断されてから三十秒程は反応を示したといいますし、場合によっては二分ほど生きたままだった、という者もいます。……どうです、興味深い話だと思いませんか?」

「執行!」

唐突に声が響き渡ったと思うと、首筋に強い衝撃を感じた。あっと思う間もなく、僕の首は胴体を離れ、重い刃の落ちた衝撃で、前方に向かって大きくポーンと跳ねた。斬り飛ばされた僕の視界は、澄み切った青い空、歓声を上げる群衆、白い石畳、ギロチン台の横で微笑んでいるヒヨコ人間、という循環を、ひたすら何度も繰り返した。それは僕の首が前方に向かって飛びながらくるくるくるくるくるくるくるくると縦方向に素早く回転していたからだった。空、人々、石畳、ピエール、空、群集、石畳、ピエール、空、群集、石畳、ピエール………………。

空……。青い空……。

……そうして、気付くと僕は首だけの姿で、冷たい石畳に無様に転がっていた。地面と並行の状態で、視界はどこまでも延びる石畳と、その上で騒いでいる人々で埋められている。

僕は思った。……空が……空が見たい……と…………。

……首だけになった僕に、群集はもう興味を失っていた。ひょっとすると、多少は罪悪感があったのかも知れない。勿論、浮かれて騒いではいたが……。

……転がっている僕に、たった一つ、近づいてくる足音がある……。

「いやはや、とんだ災難でしたな」

ピエールの声。

忌まわしいヒヨコ人間の声。

「おや、聞こえていませんかな?もう死んでしまいましたかな?ふむ……おお、やはりまだ生きていらっしゃる。何か言っておきたいことはありませんかな?」

「僕は鳥になる」

……僕はピエールに呪詛の言葉を吐こうとした。しかし、実際に口を突いて出たのは、全く違う言葉だった。自分でも、なぜそんな言葉が出たかわからない、意味のわからない言葉……。

「僕は鳥になる」

「鳥になる?おや、突然何を言われるのですか、貴方は?」

珍しくピエールが、首を捻っている。しかし、僕自身にもよくわからない。また口を開いたが、漏れてくるものは同じだった。

「僕は鳥になる」

「ふーむ、これはどうやら、よほど重要な言葉とみえますな。いわば、遺言とも言えるのですから、迂闊に判断するわけにはいきませんな。……ふむ、察するところ貴方が仰りたいところは、母親の胎内で生まれてきたからこそ、こんな謂れのない疑いを向けられる羽目になってしまったのだと。卵から産まれてくる鳥であるなら、こんな悲劇は生じないはずだ、だから次に生まれ変る時には鳥として産まれてくる、とそう仰りたいわけですな?」

「僕は鳥になる」

「貴方の思いはよくわかりますが、しかしこればっかりは我々が決められることではないですからな。誰が決めるのかは知りませんが、その方によーくお願いすることですな?」

「僕は鳥になる」

「しかし、人間にして同時に鳥でもある私からいわせてもらえば、鳥という生き方は貴方が思っているほど楽しいものではありませんよ?鳥には鳥で、人間などには全く思いも付かないような、そんな苦労が……」

「僕は鳥に……

 

 

 

……

…………

気付くと僕は、洞窟の中に、一人で横たわっていた。見覚えのある、洞窟の中……。

近くには、首のない地蔵の姿がある……。

その近くに開いていたはずの、あの恐ろしい地獄門の姿は、どこにもない。……そして、あのヒヨコ人間の姿もない……。

夢だったのか?僕はそう思った。だがたとえ夢だったにしても、あまりにも恐ろしい体験だった……。

思い出して、思わず体が震えた時。

「僕は鳥になる」

……

……僕は、振り返った。起き上がった僕の後ろ、地面の上に、無造作に転がっている生首がある……。

「僕は鳥になる」

それは、紛れもなく僕の……僕自身の首だった。空ろな表情で、なにも見ていない目で、うわ言のように同じ言葉を呟き続けている。例の言葉を。……まるで、先程までの僕のように……。

「僕は鳥になる」

……どういうことだ?僕は正気を失いそうになった。僕はさっき、確かに首を刎ねられた。首を切られて、ポーンと飛んだ。あの時の視界……くるくる廻る視界……。それをはっきりと覚えている。首を切られた時の衝撃も……。口を開こうとすると何故か出てくる、あの謎めいた言葉も……。

「僕は鳥になる」

……そう、この言葉を……。

僕は転がる首を見た。確かに、僕の物である首……。

……だが……今の僕にも、ちゃんと首は付いているのだ……。

どういうことなんだ……?僕の首が、二つある。……僕には記憶がある。さっきまでの記憶が、全てある。……だが、その記憶の中の出来事に当てはまるのは、疑いなくそこに転がっている、生首の方なのだ。ギロチンに掛けられた記憶そのままの、先程まで僕が味わっていた首だけの状態の、生首の方なのだ……。

……だったら……僕は……。

僕は、誰だ?

「僕は鳥になる」

……恐慌し、その場を逃げ出そうとした僕に、声が掛かった。

「待ちたまえ」

僕は恐怖した……。またあの、ピエールが来たのかと思って……。

「僕は鳥になる」

しかし、姿を現したのはヒヨコ人間ではなかった。それと似たような、異様な姿ではあったものの……。

牛の身体に、奇妙なほどの内省的な人間の顔を併せ持つ……それは、件なのだった。

「その首を置いて行くつもりかね?」

奇妙に落ち着き払った声で、言う。

「なんで……貴方が、ここに……?」

震えながら……僕は、なんとかそれだけをいった。

件は僕を見て、そしてあの、恐るべき首を見た。

「君があの首の使い方をわからないのではないかと思って、心配になって来てみたのだよ。やはり正解だった」

「使い方……?」

「僕は鳥になる」

戸惑う僕の声に、僕の声が重なる。……鳥肌が立った。

「君の生首には、ちゃんとした使い道があるのだよ。……さあ、手に取ってみたまえ」

当然ながら、僕は躊躇した。生首であるというだけでも気持ち悪いことこの上ないのに、それは僕自身の生首なのだ。

件が言った。

「何をしているのだね?君がやるしかないのだよ。なんといっても私の手はこんなだから、物を持つには向いていないのでね」

前足の蹄を見せつけながら、件がいう。……この、得体の知れない化物もまた、恐ろしく思えてきて、僕は恐る恐る僕の生首を手に取って、持ち上げた。……ずしりと重い重量感……。その重みで、手を掛けた部分の肌が、ぬるりと引っ張られる感触……。……紛れもない、自分の肌の感触……。

「僕は鳥になる」

僕の手に肌を引っ張られながら、僕の唇が動いて、声を発した。僕は間近で、それをみてしまった。自分の顔が動いて、声を発するその姿……。それを目の当たりにする、この気味の悪さ……。

……それでも、僕はどうしても気になって、僕の顔を持ち上げて、それを覗き込んだ。

……やはり、僅かに瞼が開いている。はっきりとした覚醒状態ではないものの、死んでいるとも思えない。あの時ピエールが言っていたように、ただ眠そうな顔にしか見えない。……僕にはそれが、まだ生きているように見えた。

でも……。改めて、おかしいと気付く。この首の中で、まだ僕が生きているというなら、今ここでこうしている僕は誰なのだ?

「僕は鳥になる」

「何をしている?さあ、此処に置くんだ」

件の声で、僕は我に帰った。いけない……余分なことを考えてはいけない。……真面目に考えると、おかしくなりそうだ……。

件が示していたのは、あの、首のない地蔵だった。戸惑って、僕は人面牛に聞く。

「……ここに?地蔵の首の代わりに、僕の首を?」

「そうだ。早くしたまえ」 

悪い冗談にしか思えなかったが、僕は黙ってその指示に従った。とにかく僕は、この僕の手元にある首から、解放されたかったのだ。 

石造りの地蔵の、ざらざらとした首の切れ目に合わせ、僕の生首を僕は置いた。 

……何の変哲もない地蔵の胴体の上に、僕の首が乗っている光景は、実際に目の当たりにすると、どうしようもなくシュールで滑稽だった。僕は聞いた。 

「一体、これが……」 

「シッ!……始まるぞ」

件に注意され、視線を地蔵に戻した。……すると……驚くべきことに、僕の首がはじめて例の言葉以外のことを、呟き始めたのだった。……僕等はそれに、黙って耳を傾けた。

 

「ある温かい、春の夜のことだ。俺は、どことも知れぬ山の中に迷い込んでいた。お月さんは一向に顔を出さず、山の中は真っ暗闇。道も何にもわかりゃしない。俺は途方に暮れていた。

その時だ。俺の前に突然、でっかい桜の樹が姿を現したのだ。それはまったく、今までに見たこともないような立派な樹で、他のどんな桜の樹と比較して言ってみたところで、到底その素晴らしさは言い尽くせるものではない。……大きさだけの話ではない、その美しさもまた、格別だった。折よく姿を現した月が、無数の枝の先から溢れんばかりの花びらを、金色にきらきらと光らせていて、その花がはらはらと舞い降りてくる様は、自然の為した業ながら神品とでも言いたくなるほどの、そんな神々しさに満ちていた。

さっき俺は、月が出たといった。そう、眩しいまでの、黄金の満月が姿を現したのだ。だから勿論、辺りの様子はすっかりわかる。道も探せば見つかるだろう。だがその時の俺にはもう、道を急ぐなどという殊勝な心持はすっかり失せてしまっていた。どうせ急ぐ旅でもなし、こんな美しい桜の樹を前にして、通り過ぎるなんていう法はない。第一、そんな真似をしようものならこんな立派な桜の樹に、失礼が過ぎるというものだ。そんな風流心のない奴は、神罰に当たっても文句は言えまい。

こうして、俺はその木の下を、一夜の宿に定めることにした。屋根はないが、なに、雨一つ降る気配もなし、降るのはただ美しい花びらと、月から零れる光ばかり……。俺は桜の太い根っこを枕にして、満開の花を見上げながら、夢のような心地で、いつしかウトウトまどろんでいた。

……その内、俺はふと目を開いた。自分の横に、何者かの気配を感じたからだ。いや、気配もなにも、何か柔らかく、そして温かいものが寝ている俺の隣にいて、黙って俺の顔を覗き込んでいる。それがわかったから、すわ盗人かと思い、俺は慌てて飛び起きた。

だが驚いたことに、それは盗人どころか美しい女で、花も恥らうような乙女だったのだ。それが寝ている俺の横で、しどけない姿で横たわっているのだから、それを見た時の俺の驚きはわかるだろう。

正直に言えば、俺は恐ろしかった。姿こそ美しいが、こんな夜中に女が一人で山の中にいるなど、どう考えても尋常ではない。これは妖怪変化の類、いやよしんば人間であったとしても、それはもはや生あるものではあるまい、世に無念を残して死んだ、悪霊の類に間違いない。咄嗟に俺はそう思った。

俺が口を開こうとした時だった。女が、パッと華やいだ笑みを浮かべたのだ。それはまるで、夜の闇を一時に追い払ってしまうような、そんな輝くばかりの美しい笑みだった。思わずそれに見惚れ、ぼぅっとなっていると、突然女が覆い被さってきて、俺の口を吸い始めた。女の体が放つ、思わずとろんとするような、花のような匂い。俺の口の中を這い回る、甘い女の舌。……俺は気がつくと、夢中で女の口を吸っていた。おかしいと思わなかったわけではない、だが俺は、これほどまでに美しい女が、妖しの者である筈がないと思ったのだ。いや、先の考えと矛盾していることはわかっている。しかし女の体は死人のものにしては温かいし、いい匂いもするし、何より、とても柔らかだったのだ。

俺は女を怪しんでいたことも忘れ、夢中で女を抱いた。それは今考えても、本当に夢のような心地だった。女が甘い声を漏らすたびに、その響きが夜気を震わせ、頭上の桜の花が感応したように揺れたと思うと、薄紅の花びらが一枚、夢のようにはらりと落ちる。その花びらが、俺の下に横たわる、女の白い肌身に落ちる。女がまた声を漏らす。するとまた、女の上に花びらが落ちる……。俺は我を忘れていた。この女の美しい肢体を、舞い落ちる花びらで埋め尽くしてやる。そう思った。

……それから、どれくらい経ったのだろう?気がつくと、俺は桜の花を見上げていた。いつのまにか、下になっているのは俺のほうだった。そして俺の身体はもう、半分ほどがあの、薄紅の花びらに埋まっている。女はと言えば、俺の上になっている。寝転んでいる俺の目からは、女の後ろにあの美しい桜の樹があって、そしてその枝を透いて、天心の月までも覗いている。……あの時俺が見たほど美しい光景が、この世にまたとあるだろうか?

俺の上で踊りながら、女がこんなことを言い出した。

「あなた、桜の樹の下に埋まっているのが何か、知っている?」

俺は答えた。

「桜の樹の下?さあ、お宝でも埋まっているのかい」

「馬鹿ねぇ」

くすくすと笑いながら、女が言った。

「桜の樹の下にはね、人間の死体が埋まっているのよ」

「……人間の死体?」

「そう。桜の木はね、人間の死体を養分にして育つのよ。人間の死体と、そこに残っている魂を吸い取って、蕾をつけるの。……だから桜の花は、こんなにも美しいのよ」

……そう語った時、女の顔に浮かんだ、妖しいまでの美しい微笑み……。それを見た時、当然ながら俺は思った。

そうか、この女は桜の精なのだ。そしてこの女は、通りがかった人間を捕まえては、その精を搾り取って花を咲かせるのだ。だからこそこの桜の木は、これほどまでに美しいのだ。そして俺は、薄紅の花びらに埋め尽くされそうになっているこの俺は、今まさにこの桜の餌食になろうとしているのだ……。

それがわかって、少し恐ろしくはあったが、しかし俺はどうする気にもなれなかった。正直に言えば、俺はもう、その女にぞっこん惚れ込んでしまっていたのだ。その時の俺の心持ちは、この女に殺されるなら、それはもう仕方がない、こんな楽しい思いをしながら死んで、その精をもってこの樹が美しい花を着けるというのなら、それはこれ以上ない素晴らしいことではないか、そういう心持ちだった。

そんな観念したような気持でいると、また女が尋ねてきた。

「ねえ、桜の樹の下には死体があると、さっき話したけれど……」

「ああ」

「だったら、月には何が埋まっていると思う?」

「月に?」

おかしな質問に、俺は少し困った。どうにも訳がわからないので、仕方なく思いついたことを口にした。

「そうだな。桜の下に、人間の死体が埋まっているのなら……」

「ええ……」

「お月さんに埋まっているのはきっと、神様の死体だろうな」

そう答えたその時の俺には、しかし何の考えもあるわけではなかった。どうせこんなことに、答えがあるものじゃないだろう、そんな軽い気持で言ってみただけだった。

だが俺がそう口走った途端、全く思いがけないことに、女は酷く苦しみ始めたのだ。呻き声を上げて、これ以上ないというほどの、憎々しいという顔を浮かべていた。

「やっぱりあ知っていたね!」

女はそう叫んだと思うと、それぎり姿を消してしまった。

何がなんだかわからない俺が辺りを見回していると、世にも恐ろしい、不可思議なことがまた起こった。まるで蝋燭の火を吹き消すように、突然月の光が消えてしまったのだ。辺りは何も見えない暗闇に沈んで、あの美しい桜の樹も、もうどこにも見当たらない。

わけがわからず、とにかく恐ろしい思いがして、俺は着物をかき集めると、後も見ないで駆け出した。……だが、辺りは自分の鼻の先もわからないような真の闇だ。走り出したはいいものの、石に躓く、木立にぶつかる。それでも俺は死に物狂いで、手探りで山を駆けずり回った……。

……ふと厭な予感がして、俺は足を止めた。恐る恐る手探りすると、なんとそれは切り立った崖の、本当に一歩手前だったのだ。俺は本当に後少しで、落ちて死ぬところだったのだ……。

……と、思うまもなく、俺は突然後ろから、誰かに強く押されてしまった。俺はよろめいて、足を踏み外して、そのまま崖から落ちてしまった。俺は必死で後ろを振り向いたが、やはり辺りは真っ暗で、俺の背中を押した奴が誰なのか、見ることはできなかった。そうして俺は無明の闇の中を、どこまでも一人で落ちていったのだ…………」

 

僕の首が、口を閉じる。

……長い話だった。語り終えた首は、もはや口を開こうとしない。開いていた瞼も今は閉ざされ、本当の地蔵のようになっている。

……今の話はなんだったのだ?訳のわからない物語。何の役にも立ちはしない……。

戸惑って件の方をみると、彼もまた僕の顔を見上げていた。

その唇が、ゆっくりと開かれる。

「……ところで、そろそろ目覚めなくていいのかね?」

 

 

 

 「――――――――ァァァァァァアアアアアア!」

僕はのたうち回った。脳味噌が焼け付くような激烈な痛みに、まだ襲われているような気がして……。

「ああっああっ!ひいぃぃぃぃぃ!」

ひたすら喚き、駆け回り、狂ったように悲鳴を上げ続けた。

――気がつくと、痛みは嘘のように治まっていた。いや、消えていた。痛みどころか、傷痕すらない……。

……いつのまにか、僕はまた、最初の地点に戻っていた。

痛みが消えても、僕はしばらく動くことができなかった。極限の恐怖と、……あの感触が、頭から離れない。

あの冷たい、鋭い刃物が僕の頭の中を、脳髄を貫いてゆく……無慈悲で生々しい感触が。僕の角膜を、ぷつんと音を立てて切り裂き、眼球に進入したあの一瞬が……。

どれだけの間そうしていたのか……。僕はようやく、正気を取り戻し、立ち上がった。

また僕は死んだのか……。またここに戻ってきたのか……。

空ろにそれだけを思い、また先程の死の感触を思い出して、ぶるりと全身を震わせた。

何度もやり直したはずなのに……何度も死んだはずなのに、どうして今回ばかり、こんなに苦しいのだろう。恐ろしいのだろう……?

そう考えて、はっと気付いた。恐ろしい可能性に……。

慌てて懐を探る。そこにあったのは……。

袋の中の、硬い感触……。だがそれはもはや、原型を留めていなかった。中の物を取り出してみると……、案の定、砕けてしまっていた。あの宝玉が、あらゆる痛みを消してくれる、魔法の玉が!

どうして!何かの拍子に壊れたのか?回数制限があったのか?僕は叫びたくなった。……今まで、何回死んでも僕が平気だったのは、現実感がなかったからだ。例えどれほどの酷い目に遭って死んでも、全く痛みを感じなかったからだ。この、宝玉のお陰で。……それが、もう……ない。

…………あれ……………?

その時僕は、なんともいえない、おかしな感覚に襲われた。……この場面、この思考を、僕は一度やったような気がする。すでに済ませていたような気がする。……そんな錯覚……。

しかしそんな訳のわからない錯覚は、差し迫った恐怖の前に忽ち消え去ってしまった。大事な宝玉が失われてしまったという、恐ろしい事態の前に……。

……僕はもう、何にも守られていないのだ。この、狂気の洞窟の中、たった一人で……。

そう思うと絶望のあまり、目の前が真っ暗になった。

何度でも、やり直しができること。それはもはや僕にとって、残酷な事実でしかなかった。これから何度も、何度も、何度も、何度も、僕は死の苦痛を体験しなければならないのだから……。