マイトレーヤ

仮借なき人類への罵倒にして、限りなき人間への賛歌

序 兜率天にて

 数多の菩薩が集い修行する天界の兜率天(とそつてん)において、長く修行のために瞑想を続けていたマイトレーヤ、すなわち末法の世に下界に現れ衆生を救済すると伝えられる未来仏たる弥勒菩薩は、青い蓮の台(うてな)の上でとうとうその眼を開くと、言った。 

「私はこの青い蓮の上に長いこと座り、本当に長いあいだ衆生を救う方法について考えてきた。師たる仏陀は、この青い蓮が枯れるまで修行を続けよと仰ったが、この蓮はちっとも枯れる気配がない。この蓮は本当に枯れるのだろうか。もしや私の修行が終わり、衆生を救済する方法が見つかるまで枯れることはないのではないだろうか」

 そう一人ごちると、マイトレーヤは己の座す青い蓮の花弁を撫でつけ、また言った。

「私の修行には下界の時間で五十六億七千万年もかかるといわれている。この蓮は、もしやそれまで枯れないとでもいうのだろうか。そしてこの私は、それ程の長い時間ずっとこの上で座り続けなければならないのだろうか」

 答える声はない。もとより彼は答えなど期待していなかった。彼の座る青蓮華(しょうれんげ)は見渡す限りの光素(エーテル)の雲海の中から伸びていて、彼の眼に映るのはただ蓮の花と葉の群ればかり、他の修行者の姿などないからである。

 マイトレーヤの眼前には、金色の清らかなる天上の光を浴びる、色とりどりの蓮の花が、互いの美を競うようにして咲き誇っている。柔らかな月光を思わせる黄蓮華、優美なる桃蓮華、そして清浄なる白蓮華……。それらの花は、どれもがほぼ完全に純粋な天上の光素からなっていて、地上のそれとは比較にならぬほど美しい。

 中でもマイトレーヤの座所である青蓮華は、一際立派であった。それは彼の体重を支えてびくともせぬほどに強靭で、その透き通るような瑠璃の花弁は、まさに宝玉と見まごうばかりである。

 それでも、マイトレーヤは呟かざるを得ない。

「どんな美しい花であっても、こう毎日目にしていれば飽きがくる。第一いくらこの蓮が大きくとも、私一人が座れば一杯になってしまう大きさでしかない。だからろくに動けもしない。いったい私は、自由に動くこともできないのか」

 そう考えたとき、マイトレーヤの心には影が射した。それは彼が修行を始めて以来、その時に至るまで、決して抱いたことのない暗い思いだった。

 天界はあらゆる場所が神聖なる光に満ちていて、喜ばしい輝きに溢れている。しかし彼の眼にはその光景が急に、明るさを失ったかに見えた。とりどりに己固有の色彩の光輝を放ち、それまで彼の眼を楽しませてきた蓮華達までもが色褪せて見えた。

 荘厳なる金光も、生の喜びにその花弁を震わす蓮達も、今や彼の眼には以前のように映らなくなっていたのである。

 マイトレーヤは戸惑い、己の眼を擦った。こんなことは初めてだった。しかしいくら擦っても、彼の眼に映るものに変化はない。

「これはどうしたことだ。世界は何一つ変わっていないというのに、私の目には何もかもがまるで違ってみえるとは。

 天を満たす輝かしい光も、地を埋める花の姿も、昨日までと何も変わってなどいない。それなのに、なぜこうも違って見えるのだ」

 花の色はもはや彼の目を楽しませはしない。御仏の偉大を示す神々しさに満ちた光も、彼の心に敬虔な気持ちを生ぜしめず、どこか縁遠いものにしか思えない。

 それを確かめると、彼はついに立ち上がった。彼が修行を始めて数千年、絶えてなかったことだった。

 マイトレーヤを支えて微動だにしなかった青い蓮が、この時ばかりは動揺したように震えた。それを見て彼は言った。

「青い蓮よ。青蓮華よ。何を震える?お前は私を責めているのか。未だ答えを得ぬというのに、立ち上がったこの私を。

 私の友よ。蓮の華よ。修行を中断した私のことを、お前は責めるのか。お前、花であることを忘れてしまった花よ。青蓮華よ」

 答えはない。彼は続けていった。

「私は毎日お前の上で考えた。シッダールタの説いた教えを忘れた末法の世に生きる人々を救う方法を、探し続けた。気の遠くなる程の時間、とても覚えていられないほどの長い年月を費やして、おかげでいくらか悟るところもあった。

 しかし、どうやらここまでのようだ。これ以上一人で考え続けていても、何一つ悟るところはない。ここで考え付く限りのことを、私は全て考え尽くしてしまったのだ」

 蓮の台がまた、微かに揺れた。彼は構わず続けた。

「私は諦めたわけではない。降りるべき時が来たから、蓮よ、私はお前から降りるのだ。毎日同じ処に座し、毎日同じものを見続けて、これ以上何を得ろと言うのか。いいや、何も得られはしない。

 どんなに美しいものであっても、毎日眺めていれば飽きてしまうものだ。蓮よ。お前には悪いが、それが花であるなら尚更のこと。

 花は、いつか散るからこそ美しいのだ。それなのにお前は、一体どれだけ咲き続けるつもりなのか。私が答えを得るときまであと何千年、いや、何万年も咲いているというのか。蓮よ。お前、花であることを忘れてしまった花よ。青蓮華よ。それだけの時間があれば、宝石でさえ塵に還るというのに。

 ……地上では。あの、めまぐるしい地上では」

 そう言って、マイトレーヤはとうとう、その足を一歩前に踏み出した。己の座所であるところの、青蓮華から降りるために。

 そのとき、どこからともなく“声〟が響いた。

 ――私の弟子よ。弥勒菩薩よ。未来仏であるところのマイトレーヤよ。お前は蓮を降りようというのか。道行未だ成らざるというのに。

 それともお前はもう、衆生を救済する法を見出したというのか。青い蓮は、まだ枯れていないというのに。

 周囲には誰もいない。しかしマイトレーヤに驚きはなかった。彼はそれを、半ば予想していた。

「師よ。世尊よ。川を渡り仏陀となった、偉大なる釈尊よ。蓮は未だ枯れず、私は未だ答えを得てはおりません。

 それでも、私は蓮を降りるのです。降りなければならないのです」

 ――それは何故だ。マイトレーヤよ。未来仏であるところの弥勒菩薩よ。

「師よ。既に悟りを得られた仏陀であるシッダールタよ。それはこうした訳なのです。

 私は確かに私の座所である青い蓮の上で、長く修行をしてきました。それは師である貴方が、私こそが末法の世に衆生を救う未来仏であると予言されたからです。それで私はそれを信じ、己の運命として受け入れ、貴方の尊い教えを忘れた末法の世の人々を救う方法を思案し続けてきたのです。

 しかし、いくら気の遠くなるほどの長い歳月をそれに費やしても、いっこうにその方法がわからないのです。それどころか、私の胸の内にはいつからかまったく別の、ある恐ろしい考えが、いや、疑問が浮かんできたのです。私はその新しい問いにすっかりとり憑かれてしまい、今ではもう古い問いについて、全く考えられないほどになってしまったのです」

 ――その新しい問いとは何なのか。マイトレーヤよ。衆生を救済するべく運命づけられた未来仏よ。

 「師よ。仏陀よ。私は気が狂ったのかもしれません。それは、本当に恐ろしい問いなのです。こんなことを思いつくのは、私が魔に惑わされたからかもしれません。

 師よ。慈悲深き方よ。その問いとはこうなのです。

 なぜ――何故、私は衆生を救済しなければならないのか?何故、他ならぬこの私が、それをしなければならないのか?」

 マイトレーヤが意を決し、そう口にした時、彼の青蓮華は激しく揺れた。青蓮華だけではない。周囲を埋めるが如き無数の蓮達もまた、一つ残らず、脅かされたようにひどく震えた。

 ――見よ。私の弟子よ、マイトレーヤよ。そなたの口にした問いを聞いて、蓮達が怯えている。未来の救済者たるそなたが口にしたとは思えぬその問いを聞いて、震えているのだ。

 「しかし、師よ。これが私の真実の問いなのです。師よ。仏陀よ。なぜ私が、それをしなければならないのでしょうか。なぜ私でなければならないのでしょうか」

 ――マイトレーヤよ。それは、それがそなたの運命だからである。

「では、一体誰がそのような運命を定めたのでしょうか。師よ、それは貴方なのですか。この私にそのような、だいそれた重荷を課したのは」

 ――それは違う。マイトレーヤよ。私は己の視たことを口にしただけなのだ。巡る因果の糸をどこまでも辿り、私は遠い未来を“視”た。私の未来視が正しいのなら、それはたしかにこれから起こるのだ。定めたのは私ではない。

「では、誰がそれを定めたのでしょうか」

 ――マイトレーヤよ。定めた者など誰もいないのだ。あえて言うなら、それはそなた自身である。あるいは、世界そのものである。

 マイトレーヤは困惑した。尊敬する師の言葉が、理解できなかったからである。

「師よ。千里の先を見通す偉大なる方よ。未来視(みらいし)よ。それは私が自らの意志で、それをすることを欲するということでしょうか」

 ――その通りである。弟子よ。

「師よ。貴方を疑うことをお赦しください。それに間違いはないのですか。貴方の視た未来が変わるということは、絶対に起こり得ないことなのですか」

 ――マイトレーヤよ。それは今まで一度だって起こりはしなかった。しかし、全くないことだとは言い切れない。なぜなら、この世の事象を司る因果の糸は、それが長大になればなるほど捻れが生じるものだからである。

「師よ。世尊よ。それなら私を巡る因果の糸には、その捻れが生じたものに違いありません。なぜなら、私が自らの意志で衆生を救おうなどと考えることは、今では考えられないことだからです。己の運命に疑問を抱かずに修行をしていた私は、もはや存在しないのです。長大なる時の流れの中で生じた捻れが私に、消すことのできない疑問を植え付けたのです。それは私の心に付いたシミのようで、拭っても拭っても決して消えることはありません。――師よ。釈尊よ。世尊よ。私はこの問いに答えの見つからない限り、もう以前の古い問いについては考えることはできません」

 ――では、どうするというのだ。私の弟子よ、マイトレーヤよ。

「私のこの新しい問いの答えを得るためには、ここにいても無益なのです。なぜ、私が衆生を救わねばならないのか。そのために長い修行に耐えねばならぬのか。……その答えを得るためには、私は救う対象たる衆生のことをもっと知らなければならないのです。この目で衆生を見て、この身で彼らに接して、心で見極めなければならないのです。衆生を救うべきか。否か。彼らを知ってなお、私が――

 瞬時、マイトレーヤはそれを口にするか迷い、そして意を決して言った。

「私がそれでもなお、彼らを救いたいと思えるかどうかを」

 ――マイトレーヤよ。

 弟子の告白を受けて、天上に響く声は言った。

 ――それでお前は地上に降りて、衆生と接してくると言うのだな。彼らを救うためではなく、彼らを救うべきか否か、見極めるために。

「その通りです。師よ」

 ――その答えが出るまでは、そなたは以前の問いについて、即ち衆生を救済する方法については、考えることができないというのだな。

「その通りです。偉大なる師よ」

 ――そして衆生と接した結果、彼らを救済しないという答えが出ることもまた、あり得るというのだな。マイトレーヤよ。

 未来に衆生を救済すると言われるマイトレーヤは、わずかな躊躇いを覚えつつ、言った。

「その通りです。師よ」

 ――是(よし)。

 師の答えを聞いて。

 マイトレーヤは、己が耳を疑った。幻聴を聞いたとさえ思った。

 彼は自分が赦されるとは、まさか思っていなかった。彼はそれ程その問いを、己が心の未熟さ、狭小からでたものと思い、自嘲していたのである。

 しかしそれは幻聴ではなかった。師の声は言った。

 ――行くがよい。マイトレーヤよ、私の弟子よ。下界に降り、衆生と接し、その心を見極めるがよい。しかしこれだけは忘れてはならない。それは同時に、マイトレーヤよ、そなた自身の心を見極めることだということを。

 マイトレーヤは師に感謝の言葉を述べた。そして慣れ親しんだ、青い蓮の花びらからついに足を踏み出し、光の雲海へと降り立った。それは実に、数千年振りのことだった。

 彼の表情は明るく、心は軽やかに踊った。

 解放の喜びではなかった。それは敬愛する師に、偉大なる仏陀に己の疑問を打ち明け、それを肯定された喜びであった。

 青い蓮に別れを告げ、彼は天界を後にした。

 

「師よ。世尊よ。偉大なる仏陀よ」

 師の許しを得たマイトレーヤが喜び勇んで去った後、兜率天の蓮の花咲く雲海で、釈尊に語りかける声があった。

 もちろんそれはマイトレーヤではない。他の修行者でもない。ここは、彼一人のための修行場だったのである。

 天上の“声”が、それに答えた。

 ――何を問うのか。蓮よ。青蓮華よ。

 釈尊に問いかけたのは、マイトレーヤの座していたあの青い蓮であった。天上の蓮の花園においても一際大きい、その青蓮華が、声を発していたのである。

「師よ。悟りを開かれた方よ。本当によかったのでしょうか。あの方は本当に大丈夫なのでしょうか」

 “声”は慈しみ深い声音で答えた。

 ――青い蓮よ。私の可愛い弟子を乗せてくれていたお前よ。青蓮華よ。お前はマイトレーヤが心配なのだね。

「師よ。あの方は誰よりも清らかな心を持った方です。慈悲深い心を持った方です。私は誰よりもそのことを知っています。けれどあの方には、少し真面目すぎるところがある。……あの方があのような疑問を抱いたのは、きっとそのために違いないのです」

 ――青蓮華よ。お前は私が彼の問いに、気分を害しているのではないかと思っているのだね。

 “声”は微笑を含んでいた。対する蓮の答えには、恥じらいが含まれていた。

「違うのですか。あの方が言いつけを破り、答えを得る前に私から降りようとしたことも、あの方があのような、あの方らしくもない疑問をその心に抱かれたことも、私にはなにか、常から外れたことのように思えるのです。定められた道から外れたことのように思えるのです。……本当にあの方の仰ったとおり、因果が捩れてしまったのでしょうか」

 ――蓮よ。青蓮華よ。何も心配することはない。因果の糸は捩れてなどいない。それは今のところ、かつて私が視た通りに巡っている。マイトレーヤの問いはむしろ、私にそれを確信させた。

「師よ。煩悩の川を渡られた方よ。それは何故なのでしょうか」

 ――清らかなる蓮よ。それはマイトレーヤの発した問いが、正しい問いであったからである。

「なぜあの問いが、正しい問いなのでしょうか?」

 ――蓮よ。末法の世の人間が救われないのは、単に彼らが私の教えを忘れてしまったからだけではない。末法の世の人間が、かつて私が教えを説いた頃の人々とは違ってしまっているからなのだ。

 末法の世の人々はいたずらに知恵を、いや、知識を身につけている。賢しらに知識と理性を備えた彼らはもはや、目に映るもの意外は信じようとはせず、なまじ自分の頭で考えようとするために、先人の知恵から学ぶということがない。

 自分で考えるということはむしろ必要なことだから、それ自体は悪いことではない。本当の問題は、彼らの自我が肥大しているということなのだ。彼らは自己を第一にし、大事にするあまりに極端に利己的になっている。なまじものを知ったために、その知識で自らの利益だけを図り、それが賢いことであると考え違いをしている。本当の知恵とはそんな卑小なものではないのに、彼らはそんな計算高さこそが、至上の知恵であると思っているのだ。

 末法の世の人間は、もちろんその全てではないが、皆が多かれ少なかれそのような考えを持っている。皆が自分のみの利益を追い求め、価値あるものを独り占めしようとするために争いが起こり、結局は世の中全体を不幸にしてしまっている。

 これが末法の世の姿である。蓮よ、このような世の中においては、かつて私が説いた教えを実践することは困難なのだ。

 「それは何故なのですか、師よ。如来よ」

 ――かつて私が下界にあり、人々に説法したとき、世の人々の多くは苦しみの中にあった。世に富は少なく、その少ない富を僅かな人々が独占していた。人々の多くは飢え、虐げられていた。生まれながらに階級が定まっていたために、そこから抜け出せる者は殆どいなかった。世はまさに苦界そのものであった。

 だから私は一切は空であり、あらゆる執着を捨てることを説いた。執着があるから苦しみがあるのだ。執着があるからそれが手に入らぬことに苦しみ、また失われることにも苦しむ。執着こそが苦の源泉なのだ。執着がなければ、苦しみもないのだ。

 もちろん末法の世でも、この真理は変わらない。いつの世であっても病も老いもなくならず、何人も死からは逃れられない。だから末法の世の人も、執着を捨てれば苦しみから逃れることができる。

 しかし末法の世においては、偽りの豊かさがある。富がある。飢えるものは減り、死に至る病も減っている。死の運命から逃れることはできないが、彼らはより長く生きることができる。便利な道具が増え、生活の労苦は減り、多くの者が美食を楽しむことができる。また、貧しく生まれついた者であっても、努力によって裕福になることもできる。

 青蓮華よ。このような世においては、かつてのように執着を捨てることは困難なのだ。なぜなら執着を捨てることは苦から解放される代わりに、楽を捨てなければならないことでもあるからである。

 かつて私の教えが受け入れられたのは、苦に比べて楽が、つまりは生の喜びが、圧倒的に少なかったからなのだ。しかし末法の世においてはそうではない。人々が煩悩を捨てて清浄の境地に到ることは、以前よりも困難になっている。彼らは快楽を追い求め、しかもそれを手に入れることができる境遇にある。

 しかし、だからといって幸福というわけでもない。彼らは富を追い求め、奪い合い、結果として尽きることのない闘争の内にいるからだ。分け合うほどに富はあるのに、奪い合うことによって不幸になっている。それは新しい形の苦界である。

 青い蓮よ。このような末法の世においては、新しい形の救いが必要なのだ。マイトレーヤ、私の弟子こそが、それをもたらす救い主なのだ。

「私もそれを信じております。師よ。あの方が救済者となることを。……しかしそれと、あの方を悩ませるあの問いがどう結びつくのか、私にはわからないのです」

 ――それはこういう訳なのだ、青い蓮よ。青蓮華よ。末法の世の人々が不幸なのは、彼らの自我が肥大し、己の利益のみを追い求めているからである。そうして互いに争い、貶めあい、他者をただ敵としてのみ見ていることで、新たな苦界を作っている。

 それを救う方法はただ一つ。彼らが自分の利益だけを追うのをやめ、徒に争わないようにさせることだ。煩悩を否定せず、快楽を捨てさせず、しかしそれにあまりこだわり過ぎることもなく、分け合うことを覚えることだ。青い蓮よ、だからマイトレーヤの問いは正しいのだ。

 「わかりません、師よ。どういうことでしょうか」

 ――私の弟子、マイトレーヤの問いは、なぜ自分が衆生を救済せねばならないかということであった。それはつまり、なぜ他者を救わねばならないのかということである。青い蓮よ、つまりマイトレーヤの問いの答えは、そのまま末法の世の人々を救済する法となり得るのだ。なまじ知識を得たばかりに自我が肥大し、利己的になってしまっている人々が、それでも他者を救うべき理由となるのだ。マイトレーヤが見つける答えは、末法の世の人々の意識を変えるものとなる。そのとき、人々は利己的でありながら、同時に利他的にもなれるであろう。

 それは新しい悟りなのだ。執着を捨てることで苦を捨て去る古い悟りは、同時に生の喜びをも捨てるものであった。それは虚無であり、生の否定であった。

 マイトレーヤのもたらす新しい悟りは、それとは違うものだ。それは生を肯定し、苦と楽を同時に肯定する、力強い悟りとなるであろう。

 師の言葉を聴き終えると、歓喜に満ちた声で青蓮華は言った。

「師よ。偉大なる方よ。世尊よ。私は今こそ理解しました。貴方の真意を、そしてあの方、私の上で長く修行されていたあの尊い方が、来たるべき救世主であることを。

 私は喜びに満ちています。苦界である下界が救われることを知って。そして私がそのために、あの素晴らしい方の修行の場として、微力ながらも役に立てたことを……」

 それを聞き、労わりに満ちた声で、“声”は言った。

 ――長い間ご苦労であった。青い蓮よ。青蓮華よ。

 答えはなかった。マイトレーヤ、弥勒菩薩の座していた青い蓮は、すなわちもう枯れていたのである。