第一部  2012年12月21日 

 

 

 

 西暦2012年も終わりに近いその日の朝のこと、師走の近畿地方には少し以前から頑固に居座っている寒冷前線のために、空気のきんと凍りついたような、厳しい寒さが続いていた。殊に四方を山に囲まれた盆地である京都の街の人々には、寒さが一層身に沁みた。 

 そもそも、この年の冬の訪れは早かった。紅葉は例年より早く始まり、例年のように街には大勢の観光客が押し寄せてきて、しかし例年よりも心なしか早く、そのシーズンは終わったのだった。師走の声を聞く頃にはもう本格的な寒気が街を襲い、降り積もる程の降雪も何度かあって、観光客の足を遠ざけた。 

 特にこの数日というもの、世間をひどく賑わせているもう一つの要因が加わったこともあって、地元の人間といえども用がなければ極力外出を控えるようになっていた。仕事のある人々もそれが終われば、余程の刹那主義者でもない限りは、先を争うように帰宅してしまった。 

 このように、まだクリスマスの前だというのに京都の街は、あたかも身を潜めるように、活気を失ってしまっていたのである。 

 であるからその日、西暦2012年12月21日の午前九時に、広隆寺の宝物殿に収蔵されている名高い弥勒菩薩像が動き出す瞬間を誰も目にした者がいなかったのは、むしろ当然のことだった。

 

 その運命の日の朝、国宝第一号として知られ、その優美な姿で名高い広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の身体に乗り移り、それを動かしたのは勿論あの、マイトレーヤである。兜率天から地上に下生するに当たり、物体としての身体を必要とした彼が、とりあえずその像を借り受けたのである。

 その仮の身体に宿り、彼が為したことはまず、周囲を見回すことだった。そうして彼は自分――その神霊と、それが宿った身体――が奇妙な場所にいることに気が付いた。

 仏像として寺に安置されている身体を借りる以上、彼は自分がその新しい目で最初に観る景色は、その寺の法堂であろうと推測していた。しかし実際に彼が目にしたものは、どうもおかしな景色なのだった。

 まず、彼は自分が高い台の上にいることを知った。その空間には彼自身(の身体の)他にも数多い仏像が陳列されていたが、彼はその並びにおいて中心に配置されていたらしい。

 部屋は床も壁も天井も残らず木材でできていて、一見すると寺のようにも見える。香が焚かれ、賽銭箱もしっかり置かれているが、それも寺としては特におかしなことではない。

 しかし今やマイトレーヤの身体となっている像や他の仏像の前には寺院には不似合いな仕切りが設けられており、人々が近づけないようになっている。おまけに各々の像の前には何やらそれぞれの像の由来や説明のようなものが記されていて、これもやはりまともな寺の内のようには思われない。

 これを見るとマイトレーヤは怪訝に思った。しかしともあれ床に下りることに決めた。地上に降りたつもりであったのに、またも降りなければならないことを考えると、いささか滑稽にも思われたが。彼は組んでいた足を解き、静かに立ち上がると、その後は軽やかに床に舞い降りたのだった。

 その時、一人の男が部屋の中へと入ってきた。その男は初老といったところで、髪はまだ豊かだが白く、見るからに見るからに柔和そうな顔立ちをしていたが、今はそれに似合わない紺色の、厳めしい印象を与える服を身に着けていた。

 男はマイトレーヤに気付くとまず眉を顰め、次いで非常な驚きに打たれたとでも言うように目を瞠った。彼は何度もマイトレーヤの姿を見て、またその身体――木像としての弥勒菩薩像――の置かれていた台の上に目を走らせ、何度も何度も見比べていた。

 マイトレーヤはそんな彼に近づき、親しげに声を掛けた。

 「驚くことはない、ハセガワよ」

 男――警備員である長谷川はまた非常に驚いて言った。

 「ど、どうして私の名を……」

 「君の胸にある名札に書いてある」マイトレーヤは落ち着いた声で応えた。

 「ああ……。あの、それより、貴方は……」

 「私の名はマイトレーヤだ」

 「マイト……?」

 「または弥勒菩薩とも呼ばれている」

 「おお、やはり!」

 相手が跪いて自分を拝もうとするのがわかったので、マイトレーヤはそれを制して言った。

 「そのようなことをしなくともよい。それよりハセガワよ、君に聞きたいことがあるのだ。一体ここは何なのだ?ここは寺ではないのだろうか」

 「いいえ、ここは寺の敷地の中でございます」

 「しかしそれにしては、この部屋は少し奇妙にも思えるが」

 「ああ……それは、こちらは宝物殿でございますから。貴方様を始めとした、この寺が収蔵する貴重な仏像を保存する、そのための建物なのでございます」

 「なるほど。それで君は、ここで何をしているのだ。君は僧侶ではないようだが」

 「私はここで警備の役目をさせて頂いているのです。なにしろここは、一般のお客さんにも公開しておりますので、貴重な寺の宝に滅多なことがあってはならないと、こうして見張っているのです」

 「ほう。しかし、そんなに警戒しなくともよさそうなものだが。それは確かに世の中に盗人の絶えた(ためし)とてないが、今のこの国は貧しくないそうではないか。夜の間ならともかく、仏の姿を拝みに来た善男善女を見張ることもあるまいに」

 すると警備員の長谷川は心苦しそうに言った。

 「仰るとおりでございます。が……最近はマナーの悪いお客さんも少なくないもので。私などからすれば、信じられないような真似を平気でするような方もいるのです。それで慌てて注意すると、『こちらは金を払った客だぞ』などと横柄な態度で居直る始末で……」

 「何?……それは確かに嘆かわしい風潮だが、しかしそれはどういうことだ?ここにある仏像を見るためには金を払わなければならないというのか」

 「は、はい。宝物間に入るには、入館料を頂いております」

 「なんと嘆かわしい。それではまるで、見世物のようではないか!仮にも仏の姿を象ったものを、客寄せにして金を取るとは!たしかに君が言うような客も厚かましい恥知らずの輩ではあるが、しかし彼らは世俗の人間であろう。それより、いやしくも俗世間を捨てた僧の身でありながら、拝むべき仏像を利用して金銭を儲ける方が言語道断ではないか!」

 「も、申し訳ありません!弥勒様のお怒りはごもっともですが、ですが……」

 「いや、ハセガワよ。君を責めているわけではない。君は僧侶ではなく、彼らに雇われている身なのであるから。それに、寺の事情とて全く理解できないわけではない。君のような警備の人間を雇い、また古い貴重な仏像や建物を保存するためにはそれなりの収入が入用なのであろう。しかし、それにしても他にやり方がありそうなものだが。

 まあいい。それより、私は行かなければならないのだった」

 「どちらに行かれるのですか」

 長谷川の問いに、マイトレーヤは答えて言った。「それを探しているのだ」と。

 その時、部屋の外から何人もの僧らしく見える格好をした男たちがどやどやと押し寄せてきた。それは、仏像が警備員と対話しているという前代未聞の事件を目にした受付の男が泡を喰って呼んだ、寺の人間だった。

 「ああ、なんということだ!」

 僧の一人が、空になった台座を見上げて悲鳴を上げた。

 「あの弥勒菩薩像がなくなったら、この寺は一体どうなってしまうんだ!」

 別の僧が長谷川に向かって叫んだ。

 「長谷川さん!これは一体どういうことだ?あんたの責任だぞ!」

 「皆さん、落ち着いてください。弥勒菩薩様のお像は、なくなってしまったわけじゃありません。ほら、こちらにいらっしゃいます」

 その時初めて、寺の僧侶達はマイトレーヤの存在に気が付いたのだった。その姿を見た彼らは、ある者は見知った弥勒像にそっくりであることに驚き言葉を失ったが、ある者はその事実を頑固に認めようとしなかった。その内の一人が言った。

 「じゃあ、あんたはこの人が、私達の大事な弥勒菩薩像であるというのか」

 「その通りだ」

 マイトレーヤは長谷川の代わりに、自ら進み出て言った。

 「私はマイトレーヤ。お前たちの言うところの、弥勒菩薩と呼ばれる者だ。知っての通り私は天界で修行をしていたのだが、この度少し事情があって地上に降りることにしたのだ。そこで地上で活動するために、この身体を借りたのだ」

 その言葉を聞くと、僧達は怯えた。彼らの中には事態を未だ理解できない者も多かったのだが、それでもマイトレーヤの発する神聖な雰囲気が、彼らを圧したのである。

 しかしそれでも、その一人が言った。

 「しかし、それは困ります」と。

 「困る?何が困るというのだ」

 「何故ならその像は、私達の寺の物だからです。たとえ貴方が本当に、あの弥勒菩薩様であったとしても、他人の所有する物を勝手に持ち出してもいいものでしょうか?」

 「それは違うな。何故ならこの像は、他ならぬ私の姿を写したものであるからだ。だから僧よ、この像は私のものなのだ」

 「しかし、それは理由になっておりません。いくらその像が貴方の似姿であったとしても、それで貴方の所有する物ということにはならないはずです。

 例えば、人からの依頼で画家があるモデルの肖像画を描くとしたら、描き上がった絵は誰のものでしょうか?それは、描いた時にはその画家の物です。依頼人が代金を支払えば、それは依頼人の所有物となります。つまり絵のモデルとなったのが誰であったとしても、モデルとなった人物にその絵の所有権があるわけではないのです。

 このような理由で、その弥勒菩薩像はこの寺のものなのです。それはこの国の法律によっても認められていることなのです」

 「たしかに、君の言うことは正しい。法律とやらに従えば、この像は確かにこの寺の物なのだろう。しかし、それは所詮は地上の法律の定めるところに過ぎないのであって、天の決まりではそうではないのだ」

 「どういうことでしょうか」

 「僧達よ。この像の姿をよく見るがいい。この像の優美な姿を目にすれば、古代にこの像を彫った仏師が如何に優れた芸術家であったかがよくわかるだろう。そしてもう一つのことも、自ずとわかるであろう。

 僧達よ。このような素晴らしい像を造った仏師は、そもそも何故このような像を彫ったのであるか、考えたことがあるか?直接の原因としては、それは時の権力者の命令に拠ったのかもしれない。しかし、決してそれだけではない。この像を彫った彼は当然ながら、弥勒なる菩薩が遠い未来に地上に降り、衆生を救済すると言われていることを知っていた。そしてその伝説を信じ、私に向けて願を掛けたからこそ、この像にはこのような精神性が宿ったのに他ならない。

 僧達よ。だからこの像には造り手のそのような願い――私という菩薩への大願――が込められている。いわばこの像は、地上の事情においてはその権力者に捧げられているのだが、精神的にはこの私に捧げられているのだ。そして、像を捧げられた権力者がいなくなった今、この像を直接に捧げられたのは私だけなのだ。だから私は、この像を私のものだというのだ。

 今日私がこの地上に降りてきたのは、仏師の望む衆生救済の時が来た為ではない。が、それと関係がないことでもない。だから私がこうしてこの身体を借りるのは、彼の大願を成就するためでもあるのだ。お前たちは、それでも邪魔するというのか」

 マイトレーヤはこう言った。

 その場に集まった僧の多くは、この言葉に感銘を受けた。警備の長谷川に至っては、涙を流さんばかりに有難がった。しかしそれでも、一向に納得しようとしない者も少なからずあった。その内の一人が言った。

 「……だけど、その像はこの寺の物です」

 「愚か者!」

 マイトレーヤはこれを聞くと烈火の如く怒った。

 「それでもお前たちは僧なのか。いやしくも仏僧のはしくれである以上、何かに執着するなどもっての外だとわからぬか。それも、この像を以ってして衆生を教化するというならまだしも、お前たちはこれを見世物にしているだけではないか!

 さらに言うなら、お前たちは大乗の教えを奉ずる立場なのだから、自己の悟りのみではなく、衆生の救済を願っている筈ではないか。それならばむしろお前たちは、私がこうして地上に降りてきたことを歓喜し、進んで私に協力しなくてはならないのではないのか。

 しかしお前たちはそれを喜ばないばかりか、私を恐れ戸惑い(それは仕方のないことだが)、迷惑に思い、そればかりか私の行いを妨げようという。なんと嘆かわしいことだ。

 お前達は、それでも僧なのか。恥を知れ!」

 マイトレーヤの一喝と共に、神気がその身体から放たれ、僧達の幾人かを忽ち打ちのめした。それは全て、マイトレーヤの歩みを妨害せんと心中で企てていた者達であった。彼等はそれどころか、動き出した彼を利用して金儲けしようとすら考えていたのである。

 仲間が不思議な力によって倒されるのを見て、残る僧達は恐れをなした。またこのような不思議な力を有する以上、このマイトレーヤは確かに弥勒菩薩その人であると確信できたので、平伏して赦しを請うた。

 そこでマイトレーヤは彼らを赦して聞いた。

 「僧達よ。私がこのようにして地上に降りてきた訳は、別に君たちを徒に騒がせるためではない。何を隠そう、人間というものを知りたいと望んだからなのだ。師である仏陀の教えを受けるでもなく、内部の自分と議論するのでもなく、対等の立場で対話できる相手が欲しいのだ。そこで君達に問うのだが、この街に私とそのような対話ができる人間がいるだろうか?」

 僧達は戸惑い、互いに顔を見合わせた。マイトレーヤはさらに言った。

 「なんなら、君たちでもよい。我こそはという者はないか」

 これには皆が慌てて首を振った。ある者がおずおずと言った。

 「この寺にも、教義について議論のできる者はおります。しかし、貴方様はより専門的な議論をお望みなのでしょうから、私達にはそのお相手は務まらないことでしょう。この街には我々のような僧侶を輩出する専門の大学がございまして、仏教学の講師がおりますから、そこに出向かれては如何でしょうか」

 「ああ、それはいけない。僧達よ、私が望むのはそんな議論ではない。勘違いをされては困るが、私はこの国で仏教などと呼ばれている宗教の教義について語り合いたいわけではないのだ。私が欲するのは、既に誰かによって説かれた知識をそのまま鵜呑みにするのでもなく、常にそれらを疑い、あらゆる先入見に捕らわれることなく、真摯に自分の頭で考えを進めることのできる人物なのだ。どこかにそのような人間はいないだろうか」

 すると、比較的歳の若い僧が言った。

 「私共には、そのような人間について思い当たる人物はおりません。ですがそういう事情でしたら、良い場所があります。この街には教育機関が多く、そのために学問の街などとも言われているのですが、その中心とも言える大学があります。

 なにしろ人数も多いことですし、この国の一、二を争う大学ですから、優秀な教授や学生が集まっています。そこならばきっと、貴方様の議論にも耐えうる人間がいるに違いありません」

 優秀な人間が集まると聞いて、マイトレーヤはその提案にはあまり気が乗らなかった。彼が求めるのは単に頭脳の優れた人間などではないからである。彼が対話の相手に求める賢明さというものは、試験などで測れる類のものではなかったのだ。

 しかし外に行く当てもないことだし、彼としてはそう簡単に求める人間に出会えるなどとは考えていなかったので、とにかく行ってみることに決めた。もっとも大して期待はしていなかったが、ともあれ彼はその大学の名や方角を聞くと、僧達や長谷川に別れを告げて寺を出た。

 このような経緯があって、天界から下生した弥勒菩薩であるところのマイトレーヤは、京都の学問の中心地――京都大学にその足を向けたのである。

 

2  対話の始まり・議論の前提

 

 京都市左京区吉田本町に位置する、京都大学吉田キャンパスにマイトレーヤが到着したのは、ちょうど正午の頃であった。彼はその大学の象徴たる大楠の樹、そしてその背後に聳え立つ時計台を見上げ、今が2012年の12月21日の正午であることを知ったのだった。

 冬の快晴の空を背景に、その見事な葉をそよがせている大クスを目にして、彼はその木を気に入った。そして言った。

 「この木の下こそ、私が人々と対話を始めるのに相応しい」

 この日の京都大学はまだ年末年始の休暇に入っておらず、また平日ということもあって多くの学生の姿があった。その大半は午前の講義が終わって昼食を摂るために移動するか、もうその日の講義がないために帰宅しようとしている人々だった。

 マイトレーヤの(学生達にとっては)奇異な姿はそんな彼らの目を引き付けた。彼は熱帯のインドの修行者にこそ相応しいものの、日本の真冬の寒さには明らかに不適切な薄着であったし、それを差し引いても異国の古代の衣装は奇異な物に見えたのである。

 とはいえもちろんのこと、彼等の誰一人として今自分が目にしている人物が未来仏とも称される弥勒菩薩であることを知らなかったし、勘付く筈もなかった。にも拘わらず、彼の姿を目にした者は誰もがその神秘な雰囲気に魅せられ、「この人はきっと非凡の人に違いない。けれど、一体誰なのだろう」と思わずにいられないのだった。

 広場の中央にあるクスの樹に向かって歩みを進める彼を見て、人々は自然と道を譲った。そして彼が通り過ぎると振り返り、彼を目で追わずにいられなかった。

 彼はその場の誰よりも悠々と歩き、いかにも自然な動作で、楠を囲む縁石の上に昇った。誰もそれを奇妙には思わなかった。それは彼があまりにも堂々としていたからで、その出来事があたかもずっと以前から約束されていたとでもいうような、当然の出来事に思えたのである。

 このような次第で、マイトレーヤがまだ口を開かない内から自然と説法の如き場が出来上がっていたのだった。

 その場にいた人々は、彼が何か尊いことを口にするのではないか、と固唾を飲んで見守っていた。マイトレーヤは人々のそんな願いをすぐに感じ取ったが、しかし彼の望むことは説法などではなく彼らとの対話に他ならなかったので、まずこう言った。

 「真理を求め、学を究めんと欲する人々よ。知っての通り私は君達の師ではなく、また先達ですらなく、君たちと等しく学究の徒である。

 人々よ、私は君達との対話を望む。あらゆる先入見に囚われず、先人の教えに拘泥せず、己が道を歩む者、真摯に真理を求める者との対話を望む。

 私は修行者である。道の途上にいる者である。沙門であり、学生であり、仏弟子であるところのマイトレーヤという者である」

 彼が名乗りを上げ、その望むところを告げても、その対話の相手として我こそはと名乗りを上げる者はいなかった。というのも、彼らの殆どは事態を呑み込めてはいなかったのであり、そもそも彼らの大半はマイトレーヤの何者であるかを知らず、それが未来仏とも救世主とも言われる弥勒菩薩の名前であることを知るのは、ほんの数人しかいなかったのである。

 その時、一人の女学生が進み出てきて、おずおずと彼に言った。

 「あの、貴方は先ほど御自分の名前が、マイトレーヤであると仰ったのですか」

 「いかにも、それが私の名前である」彼は頷いて言った。

 「それではもしや貴方様は、未来仏であるところの弥勒菩薩様なのですか」

 「女よ。たしかにその呼び名もまた、私を示す名の一つである」

 その女学生は歓喜の声を上げた。彼を取り巻いていた学生達の中にもそれによって驚きの色を浮かべる者達がいて、まじまじと彼の顔を見つめた。しかし大半は事態を全く理解できずに焦れて、その女学生に尋ねた。

 「おい、一体何だというんだ。ミロクボサツとは一体何のことだ」

 「そうだ。その人は結局、何者なんだ」

 そこで女学生は人々に向き直り、彼について彼女の知っていることを語った。菩薩というのはつまり仏教において仏陀(悟った者)を目指す修行者のことであり、修行者ではあっても人智を超えた不思議な知恵と能力を持つ者である。特にその中でも弥勒菩薩は釈迦の次に悟りを開いて仏陀となると予言されており、遠い未来に衆生を救済すると言われているのだ……などと彼女は語った。それを聞いた学生が言った。

 「ミロクという仏様がいることはわかった。だがそれはそれとして、この人は一体誰だと言うんだ。だってまさか、本物の仏様だというわけではないだろう」

 マイトレーヤはその学生の言葉を聞いて、彼が仏と菩薩の違いを理解していないことに気付いた。そこで訂正しようとしたのだが、その前に女学生が口を開いたのだった。

 「もちろん、この方は本物の弥勒菩薩様に決まっているわ!」

 学生達はそれを聞くと失笑した。そして言った。

 「そんなことがあるわけがないだろう。その人は確かにお寺の仏像みたいに妙ちきりんな格好をしているし、なんだかやたらとありがたい感じだが、だからといって本物の仏様の筈がないじゃないか」

 「いいえ、本当なのよ。私はさっきニュースで見たのよ。ついさっき、あの広隆寺の有名な弥勒菩薩像が突然動き始めて、どこかに行ってしまったって、ネットで大騒ぎになっているわ」

 人々はそれを聞くと一驚し、どれも似通った薄い板のような物を一斉に取り出して、なにやら一心に眺め始めた。マイトレーヤは天界においても時折、その千里眼によって地上の知識を得ていたので、その板がその時代における携帯型の情報端末であることを知っており、彼らがそれを使って先の女の発言の真偽を確認しているのであることを推測することができた。とはいえ、それを知っていても尚、人々が一様にその手許を覗き込んでいる姿を見て、滑稽の感を受けずにはいられなかった。

 他方、彼にそのように思われているとも知らない人々は欲しい情報を各々が手に入れて、口々に驚きの声を上げていた。そして広隆寺の弥勒菩薩像の写真と、彼らの眼前にいるマイトレーヤを見比べてはその驚きを新たにした。

 それでも人々は半信半疑といったところだった。中でも疑い深い学生が言った。

 「しかし、こんなことが現実にある筈がない。可動部分もない、動力もない仏像が勝手に動き回る筈がないんだ。仏像は盗まれたのに違いないし、動いたなんていうのは単なる見間違いで、でなければ虚偽の証言に決まってるよ」

 これに反論したのは例の女学生だった。

 「何人もの人が目撃しているのよ。そうでなければ、私達の目の前におられるこの方のことをどう説明できるというの?この方がお歩きになって、お話になる姿を私達はこの目で見ているわ。元から動くように造られている物が動くのは不思議でも何でもない、動かない筈の物が動くからこそ奇跡であり、この方が本物の弥勒菩薩様である証拠なのよ」

 「そんな馬鹿な。この人だって、単に盗まれた仏像にたまたま似ているだけの人なんだろう。……いいや、じゃあ本人に聞こうじゃないか。貴方は本当に、広隆寺というお寺に祀られていた仏像なんですか?何か証拠はあるのですか?」

 それまでマイトレーヤは黙って彼らのやりとりを見守っていたのだが、質問されたので答えようと口を開いた。が、その前に甲高い声が上がった。それは例の女だった。

 「なんて失礼なことを!この乱れきった世の中を救うためにこの方は地上に降りてきてくださったのに、その正体を疑うなんて!」

 これを聞くと人々の間に、この世を救うとはどういうことかという疑問が起こった。するとこの女学生は得々と、未来仏たる弥勒菩薩は末法の世に地上に降りてきて、衆生を救うと云われているのだと語った。これをきくと人々は感心した。

 マイトレーヤは口を閉ざして黙っていた。と、ある学生が言った。

 「でも、それはたしか遠い遠い未来の話じゃなかったか?なんでも、何億年も先の話だと聞いたことがあるんだが。お釈迦様が亡くなってからまだ、たった二千五百年程度じゃないか。それなのに、どうして地上に降りてきたのですか?」

 彼が最後に敬語になったのは、それがマイトレーヤに向かっての問いだったからだった。そこでマイトレーヤは彼に応えようとした。……が、それを遮って品のない大声を上げたのは、やはり例の女学生だった。

 「そんなの決まっているわ!今のこの世の中があまりに乱れきっているので、早く修行を終えて降りてきてくださったのよ。私たちを救ってくださるために!」

 「だまるがいい、不遜な女よ」

 マイトレーヤは厳しい声で言った。女は虚を突かれ、あっけにとられて彼を見た。

 「お前は私が答えようとするのを三度も遮った。女よ、何の権利があってお前は、わたしに向かって放たれた問いに我が物顔で答えるのだ。それともお前は私のことについて、私自身よりも多くを知っているとでも言うのか」

 女の顔は見る間に青ざめた。マイトレーヤは改めて先の問いに答えた。

 「若者達よ、では先程からの問いに順に答えよう。まず最初の問いは、私が弥勒菩薩であるかということであった。その応えは是である。私は確かに修行中の菩薩であり、国によってはミロクという名で呼ばれている。ただ断っておくが、私は仏ではない。仏とは仏陀のことであり、既に悟りを開いた修行完成者を指す言葉であり、そして私はまだ修行を終えていないからだ。

 さて次の問いは、私の身体が広隆寺の弥勒菩薩像であるかどうか、ということだった。これも応えは是である。それは私がこの下界に降りるには、物質としての身体が必要であったからだ。しかし動くはずのない身体が動く理由についてはあえて説明はしない。説明をしても意味がないからだ。また、私が弥勒菩薩の本人であるという証拠を私は示すことはできない。

 最後の問いに移ろう。どうして私が、5億6千7百万年であるとか、56億7千万年とも言われる長い時の過ぎる前に地上に降りてきたかということであるが、その答えは簡単である。単に、私の修行はまだ終わっていないというだけのことだ。だから人々よ、私は別に君たちを救いに来たわけではないのだ」

 そして、にも拘わらず私がここに来た理由については、既に最初に話してある。若者達よ、私は君達と話がしたいのだ。私はずっと天界で修行をしていたために、人間というものをよく知らない。私は人間を知りたいのだ」

 集まった人々は戸惑い、互いの顔を見合わせた。女学生はマイトレーヤの先の叱責にまだショックを受けていたが、彼の言葉を受けて言った。

 「弥勒菩薩様。それでは貴方様は、私たちを救いに来てくださったのではないのですか。本当に、56億年などという長い時が過ぎるまで、救ってくださらないというのですか」

 「女よ。5億6千7百万年などというのは私の師である釈尊の予言なのであり、その当否については私の知るところではない。ただ、私の修行がまだ済んでいないということ、それがいつ完成するか見当もつかないということは確かだ」

 「僕達と話をすることが、何かの役に立つのですか」

 これを言ったのは学生の一人であった。彼らもようやく最初の驚きや戸惑いが消えて、自由にものが言える気分になってきたのであった。マイトレーヤはそれを察し、喜びつつこれに答えた。

 「君の言うとおりだ、若者よ。私は君達と話をすることで、きっと新しい見解を得るであろう」

 「菩薩であられる貴方が長く考えてわからない、まだ知らないことについて、僕たちが知っているとは到底思えないのですが。一体あなたは僕達に何を求めておいでなのですか」

 「若者よ、勘違いをしてはいけない。私が長年考え続けてきたこと、即ち「衆生を如何にして救うことができるのか」という問いの答えを、君たちに求めているのではないのだ。私はそのことではなく、少し以前から私を悩ませる新たな問いの手がかりを求めてきたのだ。というのは、私の心に湧き上がった全く新しい疑問、迷い、悩みについて解決しないことには、私はもうこれ以上修行ができないと考えたからなのだ」

 「一体何なのですか、その新しい問いとは?貴方ほどの方を悩ませる疑問であり、迷いというのは?」

 「よくぞ訊ねてくれた、若者よ。それはこうなのだ。先程も話した通り私――即ち市である仏陀の予言により衆生救済の運命を課せられた弥勒菩薩であるところの私――は、しかしそもそもどうして、人間などを救わなければならないのだろうか?ということだ」

 この言葉を聞くと人々は非常に驚いた。そして一様に戸惑い、何か恐ろしいことを聞かされたような気がして押し黙った。

 その時、例の女学生が憤然として叫んだ。 

 「この人は贋者だ!」と。

 人々が騒ぎ始める中、この女はマイトレーヤを指差してまた言った。

 「この人は本物の弥勒菩薩様なんかじゃないわ!」

 そのように無遠慮に指差されてもマイトレーヤは何ら怒りを覚えることもなく、ただ静かにこう言った。

 「女よ、私は贋者などではない」

 「嘘よ!だって本物の弥勒菩薩様なら、そんな馬鹿げた疑いを起こす筈がないわ!弥勒様は慈悲深いお方なのだから、人間を救うことに何の疑問も覚えないし、私を怒鳴りつけたりする筈がないのよ!

 それとも、何か証拠でもあるというの?貴方が本物の弥勒様であるという証拠が!」

 「証拠か。そのようなものはない。またたとえ証拠など示せたとしても、私はそのようなことをしようとは思わない。そんなことに意味がないからだ」

 「意味がない?詭弁だわ。証拠があるなら見せればいいじゃない!」

 「女よ。お前は私に、何をして見せろと言うのだ?お前は何を以ってして、私をお前の信じる弥勒菩薩だと信じると言うのだ。

 女よ。例えば私は、超常の奇跡を起こすことができる。それを見ればお前達は、少なくとも私を普通の人間だとは思わなくなるに違いない。

 しかし、私はそれをしない。それは私が普通の人間ではないことの証にはなり得ても、私が弥勒菩薩であることの証拠にはなり得ないからだ」

 「どうしてですか。あなたが、神仏にしか為し得ないような奇跡を見せてくれれば、私達は貴方を信じることができます」

 マイトレーヤは嘆息した。そして言った。

 「女よ。お前は神仏にしか為し得ない奇跡を見せろという。しかし、一体それが何になると言うのだ。私がどのような奇跡を示しても、それは私が超常の力を持っていることの証となるだけで、私はひょっとしたら悪魔や魔物と呼ばれる者であるかもしれないではないか?神仏にしかできぬこととお前は気軽に言うが、神仏でもないお前がどうして、それを魔物の仕業と区別することができるのだ。

 女よ、いやこの場に集まった全ての人々よ。そもそも私は、この私がマイトレーヤであること……いや、未来仏と呼ばれる弥勒菩薩であるということを信じてもらおうとは思っていないのだ。何故ならこの「マイトレーヤ」という名前の「私」、この「私」というこの個性は、この対話において考慮せられるべきではないからだ。だから私は、「私が弥勒菩薩であること」を決して証明しないし、あえて主張をしないのだ」

 すると学生の一人が言った。

 「そうでしょうか?対話においてそれを発言したのが誰であったかということは重要だと思います。何故なら、たとえ同じ趣旨の発言であっても、それを言ったのがどんな人間かによって、全く重みが異なってくるからです。例えば、何事につけてもいいかげんな人間が説教するより、普段から勤勉で真面目な人間からされる説教の方が、断然説得力があるではありませんか」

 「学生よ、君の言うことは一理ある。しかし残念ながらその喩えは、君達の日常生活のみに妥当な事柄であるからだ。

 たとえば、ここに一人の女がいたとしよう。この女には恋人がおり、その男には頻繁に他の女と浮気をする困った癖があるとする。女は恋人が浮気する度にその男を問い質す。すると男は彼女に謝り、二度と浮気などしないと誓うのだ。

 学生よ。発言した者の人間性が問題となるのは、このような場合であるのだ。このような事例においては女はその恋人の普段の振る舞いから、その誓いを信じることも出来ようし、また信じないこともできるであろう。それを判断する決め手となるのは、その男の人格であり、個性である。

 学生よ。学問の場においてはしかし、そうではない。真理を追究する場においては純粋にその理論だけが考慮されるべきであり、その正誤だけが判断の材料となるべきなのだ。学術的な議論の場においてその発言は、その発言者の人格・信望・立場に拠って判断せられるべきではない。それはあってはならないのだ」

 「しかし学術的な議論の場においても、その人のそれまでの実績や肩書きが議論の行方を左右することはよくあります。また同じ趣旨のことであっても、それをその道の専門家が口にするのと、まったくの門外漢が口にするのとでは、自ずと説得力が違ってきます。だから日常生活だけでなくとも、学問の場においてもその人の人間性やその他――例えば実績や肩書きや、周囲からの評価など――は、判断のための有力な材料なのです」

 「学生よ。私は端的に言おう。君の言うそれは判断とは言わない――少なくとも論理的な判断とは。むしろそれこそが、私のもっとも恐れることなのだ。君は自分には理解の及ばないことについて、自身の判断を放棄しているだけであり、信頼できる権威ある他者の判断に依存しているに過ぎないのだ。

 例えば、ある数学上の難解な命題があるとする。ここに数学の知識の全くない子供にその解答を教え、正確に語らせることができるとする。もちろんその幼子は自分の話す答えの意味を解さず、そえが正答であるかどうかも知らない。

 人々よ。例えそのような場合でも、その答えは確かに正しいのだ。幼子がその意味も知らずにたどたどしく口にしたその証明も、紙に記した答えも、数学上は全く正しいのだ。

 また、ここに一人の清廉潔白の人物がいるとしよう。彼は人々の信望厚く、学術の場でも声望の高い有能な学者であるとする。彼は専門家の間でも抜きん出ていて、専門外の者からすれば、彼の理論はほとんど魔術のように見えるであろう。

 たとえこのような人の言葉であれ、彼が間違いを犯せばそれは、端的に間違いであるのだ。彼の名声も権威も、決してその間違いを正解に塗り替えはしない。

 学生よ。このように、その人間の人格は正誤に関係がない。正解を口にした幼子の解答は正しいのであり、誤りを犯した専門家の答えは誤まっているのだ。ただしそれを正しく判断するには、君たち自身の頭脳で問題を理解して、判断を下さなくてはならない。

 人々よ。私が君たちに求めることは、このようなことなのである。私が何者であるかにこだわらず、私の発言の真意を理解し、その上でその当否を判断してもらいたい。

 だから私は、マイトレーヤという名前ではあるけれども、自分が弥勒菩薩であると主張することはしないし、また証明をしないのだ。私は君達に当たり前の人間として認識してもらい、一人の友として、共に真理を探求する学友マイトレーヤとして扱ってもらいたいのだ」

 マイトレーヤはこう言った。しかし彼を非難したあの女学生の姿は、もうどこにもなかった。

 

3  形而上学の否定

 

 マイトレーヤが語り終えた時、最初に集まった物見高い人々のいくらかは去っており、その数は減っていた。彼はしかし全く気にせず、まだ残っている人々に向けて何でも思った通りを言って欲しい、また聞きたいことがあれば何でもいってくれ、と告げた。

 その時学生の一人が言った。

 「聞いてもいいでしょうか」

 「もちろんだ。君たちは何でも思ったことを口にするがいい。私はそれについて誠意を持って、私にできる限りの答えを用意しよう。それこそが、私の疑問に付き合ってくれる君達への礼儀であるのだから。

 但し。あらかじめ私は言っておくが、私に答えられない問いというものもある。君たちに語るべきと思わないことについては私は口を閉ざす。それは例えば、霊魂についての話であるとか、死後の世界のことであるとか、あるいは輪廻、生まれ変わりについてなどである。また、いわゆる神や仏の実在如何についても、私は口を開かない。このような形而上の事柄について私は何事も漏らさない。

 人々よ。それは、これらのことについて私は証明することができないからである。形而上の事柄については、君たち人間の知識では正しく理解することができないし、君達の言葉では正確に語ることができないからだ。

 さて、若者よ。このことを踏まえつつ、私になんなりと質問するがよい。それとも君が抱いた疑問は、こうした類の問いなのだろうか?」

 「いいえ、違います。ぼくがしようと思っている質問はそのようなものではなく、もっと素朴な、興味本位の質問です、議論にもならないことなので、ひょっとしたらするべきではないのかもしれません」

 「そのように堅苦しく考えないで、何でも聞いてくれ。答えられない問いであるなら、私は答えないだけのことだ」

 「それでは質問します。そもそも貴方はどうして、ここに来られたのでしょうか?つまり、地球上には仏教国は他にもあるというのに、どうして日本を選ばれたのでしょう。……しかも、この京都の地に」

 「答えよう。その問いの答えは単純である。即ち、君たちと同じく「私」もまた、日本人だからだ」

 その言葉は人々を大いに驚かせた。先の質問を発した学生が、彼らを代表して聞いた。

 「貴方は日本人なのですか?そういえば確かに日本語を話してらっしゃいますが、それにしても……」

 「いや、すまない。今のは冗談のつもりだったのだ。私は日本人ではない。日本語がわかるのは、まあ長い修行の賜物だとでも思ってくれ」

 人々はその答えに納得しつつ、彼が冗談を言ったという事実に驚いた。彼が本物の弥勒菩薩であるかはさておき(もちろんそれについては、誰もが全面的に信じているわけではなかったのである)、この見るからに尊い神秘的な人物が冗談を言うという事実がいかにも意外であり、少なからず親しみを覚えたのだった。そんな彼らを見回して、改めてマイトレーヤは言った。

 「先の質問に答えよう。私がこの日本という国、その中の京都という一都市に降りて来たのは特別な理由があったためではない。私はあらゆる人々と意思を通ずることができるから、私は私の目的を果たすために、地上の何処に降りてもよかったのだ。

 しかし私は、地上で活動するための肉の身体を持たない。そこで仮の身体が必要となるのだが、できればそれは「私」の身体であることが望ましい。私は別に、その気になれば地上のどのような像にでもその体を借りて動かすことができるというものの、他者を象った像を借りては無用な混乱を起こしかねないからだ。それは例えば、私がかの西洋の神の像を借りて歩いた時に起こるであろう混乱を想像するならば容易く納得してもらえるであろう。

 それでは、なぜ私はこの京都と呼ばれる地に降りたのか?これについては、簡潔に答えることができる。それは私が、数ある私を象ったものの中からこの像を特に気に入ったからなのだ。だから、私が今この場所にいる理由については何ら必然としての理由はない。現に私は、この地で望む答えが見つからなかった場合はまた別の地、他の国を回ってみるつもりでいるのだ。これで納得してもらえるだろうか」

 「よくわかりましたが、まだ伺いたいことがあります。そうしてこの街に降り立った貴方はどうしてここに……つまり、この大学に来られたのでしょうか」

 「というと?」

 「つまり、この街にはこの大学のほかにも多くの大学があるからです。先の話に拠れば、貴方はつい先程この地に降り立って、今はまだ正午を回ったところですから貴方はほとんどまっすぐにこの大学に来られたということになります。これはおかしなことです。何故ならこの地には、他の都市より明らかに寺院の数が多いわけですし、仏教を専門に教えている大学だってあるのです。議論をお望みであるならむしろそちらに向かった方がよかったのではないですか。……もちろん、この大学にも仏教史や仏教哲学の専門家はいるでしょうが、しかし数はそれほど多いという訳でははないでしょう」

 学生の疑問を正しく理解するとマイトレーヤは言った。

 「たしかに君の疑問はもっともだ。しかし、その理由も別に深い理由があるわけではなく、単純な理由だ。私はここに降りてきたとき、さしあたってどこに向かうべきかを考えていなかった。そこで、最初に出会った者達に聞くとこの大学を勧められたのだ。

 もっともその者達にしたところで、最初は君のかんがえたのとちょうど同じように、寺や仏教学を教える大学に赴くように勧めてきた。しかし私はそれを断ったのだ。というのは、私は仏教なる宗教について語りたいわけではないからだ。……いや、もっと正直に言えば、私は現在言われているところの「仏教」なる宗教については、全く関心を持っていないのだ」

 他ならぬ菩薩であるところのマイトレーヤがそのように言うのを聞いて、人々は戸惑いを抱いた。彼等はてっきりマイトレーヤが、仏教の教理についての問答を期待していると思い込んでいたので、彼がそのように仏教を否定するかのごとき発言をすることが俄には信じられなかったのである。

 先とは異なる、別の一人が言った。

 「それは一体、どういうことでしょうか。どうして関心がないなどと仰るのですか」

 「問われるまでもない。私が先程話したことがそのまま、その理由となっている。私は霊魂のこと、死後生・輪廻・神仏といった形而上のことについて語るつもりはないのだ。それは論理では証明できないからだ」

 「しかし、神仏の確かに実在することについては、もう明らかではありませんか。なにしろ、菩薩であるあなた自身がここにこうして私達の目の前にいるのですから」

 「それについても先程の繰り返しになる。私は君達に、この「私」が弥勒菩薩であるということは信じないでくれと頼んだ筈だ。だからこの対話において、私はただのマイトレーヤという名前の人間であるのだ。

 そして私は、先の理由から、宗教については語ることをしない。それは必然的に形而上の事物に触れざるを得ないからだ。そしてこの国で信じられている「仏教」というものは「仏(であるところの釈尊)の教え」ではなく、「仏教という名の宗教」に他ならない。だから私は仏教、特に「大乗仏教」とか呼ばれているものについては語ることを欲しないのだ」

「しかし、しかし貴方は釈尊の弟子ではないのですか?」

 これは明らかに学生ではない、教員らしき年配の男が言った。

 「失礼。私はこの大学の教授で、Aと申します。仏教史が専門なもので、つい口を出してしまったのです。

 私の問いは、形而上の問いではありません。シャカ族の皇子として古代インドに実在した、ゴウタマ・シッダールタのことを言っているのです。貴方は先に、自分は釈迦の弟子であると仰った。弟子であるなら、師である仏陀の教えである仏教の教理を、忠実に受け入れるべきである、そうではないでしょうか?」

 「弟子は師の教えを忠実に受け入れるべき?いいや、それはおかしな話だ。少なくとも私は、たとえそれが師の教えであったとしても、間違っているとわかれば受け入れることはしないであろう。察するに、それは君自身の願望ではないのか?」

 年配の男が口を噤むのを見てマイトレーヤは微笑を洩らし、さらに言った。

 「まあ確かに、弟子にとって師の教えが全く教わるに値しないものとすればそもそも師弟関係が成り立たない。だからたとえ全面的に受け入れることが出来なかったとしても、その核心において基本的に受け入れることができれば、弟子は弟子のままでいられることだろう。そうした意味で私は、師である釈尊の教えに概ね賛同する者として、彼の弟子であるのだ。いや、その核心について言えば、私は師の理論は既に完成されていると考えているし、全く手を加える余地のないものと見ているのだ。

 しかし人々よ。私がそのように尊重するのはあくまで人間としてのゴウタマ・シッダールタの教えであり、彼がその生前に生み出した「知恵」である。私がそれを尊ぶのは、それが形而上の問題に一切触れない、純粋な哲学上の理論であり、思想であるからだ。一つの完成された思想を打ち立てたということ、ゴウタマ・シッダールタの尊い点はこの一点に尽きるのだ。

 これに対して、今日のこの国の人々が信奉している「仏教」なるものは、実はこのシッダールタの生み出した哲学思想とは全く異なったものである。それは端的に宗教であり、全く哲学とは異なるのだ。

 私がこのようにいうのは根拠ないことではない。原始仏典などと呼ばれる最初期の経典は比較的よくシッダールタの教えを伝えているのだが、そこには形而上の問いに答えることを釈尊がきっぱりと拒否したことが明瞭に記されている。

 だというのに大乗の経典なるものを紐解くと、釈尊本人が進んでそのようなことを話したことにされてしまっている。この一事を採ってみても、大乗のそれが釈尊その人の教えと全くかけ離れていることがわかるであろう。だからこそ私は、大乗のそれを釈尊の説いた教えとは認めないし、論じるつもりもないのである」

 「では、あくまで貴方は大乗の教えを否定なさると言うのですか?現代の仏教の主役である大乗仏教を!」

 「その通りだ。ただし勘違いして欲しくないのは、私はそれを論じないと言っているだけで、その功績を認めないわけではないということだ。過去の時代、生存の苦しみにあえぐ人々を、それでいて釈尊の教えでは救われなかった人々を救ったことは事実であるからだ。釈尊の教えは難解であり、また実践が困難であるために、どうしても大衆には受け入れられ難い。だからそのような人々の心の支えになったという点では、大乗の教えは優れているのである。私はその功績を認めて、しかし両者は別物だと言っているのだ」

 「しかし大乗仏教においても、釈尊の説いた基本的な教義や思想は受け継がれているのです。それどころか釈迦の当時は単純だったそれを、高度に発展させているのです」

 「認めよう。たしかに後世の仏教徒――むしろ学者というべきだが――は、釈迦の説いた教えを高度に体系化したとは言える。しかし私に言わせれば、それこそが民衆を置き去りにした要因に他ならないのだが。

 しかし、博士よ。いくら大乗仏教が部分的に釈尊の思想を織り込んでいるにしても、その本質が宗教であることになんら変わりはないのだ。それを生み出した釈尊ではなく、その死後五百年の後に誕生したナーガールジュナ(龍樹)という人物であったことは君も知っているはずだが、彼は人間である筈の釈迦を「如来」などという全くの神的な超越者に変えてしまったのだ。これによって仏教はその本質を転換し、神仏に祈りを捧げればその願いを叶え、その苦しみから救済し、極楽浄土という楽園に導く宗教になってしまったのだ。

 私の理解に拠れば、釈迦の教えの本質は哲学であり、それを継承し学問として発展させようとしたのが上座部(小乗)仏教であり、大乗のそれは宗教である。そして私は、宗教については論じない」

 マイトレーヤはこう言った。

 

4  仏教についての見解

 

 さてその時、学生の輪の中から一人の学生が遠慮がちに声を上げた。

 「あの、ちょっといいでしょうか?先程から教授と仏教についての話をなさっていますが、恥ずかしながら僕は仏教についてくわしく知りません。貴方は先程から上座部仏教と大乗仏教のことについて議論しておられますが、一体何が違うのか、具体的なことがまったくわからないのです。これはおそらく僕だけでなく、この場における学生の殆どがそうであると思いますし、それどころかこの国の大部分の人々がそうであると思うのです。ですから、何がそんなに問題であるのか、その触りだけでも教えてくださいませんか」

 マイトレーヤは大乗の教えについては論じるつもりはなかった。が、それが必要な手順であると思ったので、快く承諾した。

 「まずは釈迦本人が唱えた教えから話そう。それは実は上座部とか小乗などと呼ばれる教えとも厳密には異なるのだが、ここでは便宜上それらを同じものとして語ろう。……さて、君たちは仏教についてあまり詳しくないと言ったが、それでも仏教の修行者の目的が悟りを開くことだということは知っているだろう」

 「一応は」

 「結構。さて、悟りというとなにか大仰に聞えるかもしれないが、これは乱暴に言ってしまえば、あらゆる煩悩を捨て去る境地に到ることに他ならない。

 では、なぜそのように、煩悩を捨て去らなければならないのか。わかるだろうか」

 「いや、そう言われると……。でも煩悩っていうのは要するに欲望で、そんなものは偉いお坊様には相応しくないからじゃないですか?それか、悟りを開けば、天国に行けるとか……」

 「成程、どちらもそれほど間違っているという訳ではない。悟りを開いて煩悩を捨て去れば極楽浄土に行くことができると言われている。それは天国のようなものだ。

 しかしもっと正しく言えば、僧が煩悩を捨て去らなければいけない理由は、それが人間の苦しみの原因であるからだ。釈尊は人間の生の本質は苦しみであると見抜いた。そしてまた、そのように人間が苦しむ原因こそが煩悩であり、この世のあらゆる物事への執着の心に他ならないと見抜いたのだ」

 「執着が苦しみの原因であるとは、どういうことでしょうか」

 「例えば人間は、自分が所有していない物を欲する。金銭が欲しい、美味なる食物が欲しい、華美な衣服が欲しい、広い家屋が欲しい、美しい恋人が欲しい……そのように願う。そしてそのような執着は形あるものだけではなく、例えば若さであるとか、外見の美しさであるとか、名声あるいは地位であったりするのだ。

 しかし。だれもが経験して知っているように、そのように欲した物が手に入るとは限らない。いやむしろ、手に入らないことの方が多いのだ。そうして手に入らない物に人は思い焦がれ、徒に神経を悩まし、それを有する者に嫉妬を覚える。このように煩悩、即ち物事への執着は、人の心を絶えず悩ませ苦しめている。

 では、運良くそうした煩悩の対象である物を手に入れることができたら、その者は満足して幸福になれるのであろうか?もちろん、彼はそれを首尾よく手に入れたことを喜び、その境地を楽しむであろう。一見、彼は幸せに見える。

 しかしその幸福は長続きするものではない。その喜びが大きければ大きいほど、それが恋人や子供であれば彼らを愛すれば愛するほど、次はそれを失うことを恐れるようになる。いつかそれらの物や人を失う時の心の痛みを恐れ、その後に待つであろう味気なさ、淋しさ、惨めさを思い浮かべては苦しむ。たとえ失わなかったにしても、それを防ぐためにも彼は常に気を配らなければならず、しかもそれを完全に防ぐことは不可能であるのだ。というのはあらゆる物事はいずれ失われるものであるし、或いは自分自身が失われてしまう時がいずれは必ず来るからだ。

 このように、あらゆる物事への執着の心こそ、人間のあらゆる苦の原因である。従ってそのような執着の一切を捨て去ることができれば、その者はもはや心を乱すことはなくなる。彼或いは彼女はもはや、手に入らない物を思って嘆くこともなくなり、自身の持ち物を失うことを恐れる必要もなく、実際に失っても心を乱すことはない。

 だから人々よ、このようにあらゆる執着を捨てることさえできればもはや心を乱すことはなく、平穏なる境地に安住することができるのだ。それは人間の生の形の転換であり、苦しみの存在しない完全なる平安の境地なのである。これが即ち悟りなのであり、釈迦が唱えた人間の理想の姿なのだ」

 「しかし、そうはいっても欲望はなかなか消えません。そんな簡単に欲望が消せるなら、そもそも必死になって欲しがったりはしませんよ」

 「その通りだ。しかしシッダールタの天才は、そのように絶ち難いあらゆる煩悩が実は、一つの誤謬に拠って生じていることに気付いたことにある。その誤謬とは、この地上にあるあらゆる物に実体が備わっているというものだ、即ち、この地上にあたかも確固たる実体の如くに存在するかに見えるあらゆる物体は全て、その本質は「空」である。どのような物も、この世のものである限り不変ということはあり得ず、変化を免れない無常である。そしてそのように実体がないのなら、そんな物に執着することが如何に無意味であり、その取得や喪失にいちいち一喜一憂することが、如何に愚かしいことかわかるであろう。

 また更に言うならば、そのように考えている我々人間もまた、「空」であることを免れない。煩悩を抱く我々もまたそのように実体がないのなら、どうして物に執着して自分の生を豊かにする必要があるであろう。外見の変化を憂え、病を得ることを嘆き、老いを厭う必要があるだろう、死を恐れる必要があるだろう?

 このように、この世の一切が空であることを知れば物事への執着はなくなり、それによって人生の一切の苦悩が消滅する。それは自然の態度では到達できない、全く新しい人間の在り方なのだ。これこそが釈尊の発見の根本なのだ。

 このように釈尊の教えの本来は、その理論は明快で、神秘的なところは全くない。それは生まれや階級を問わず、特別な資質や才能を必要とせず、誰もが実行可能な教えなのだ(とはいえ、それを完璧に実践するのが難しいことも事実だが)。そしてそのような境地に達する者こそ、煩悩の河を渡った者であり、あらゆる迷いを捨てた仏陀(悟った者)と呼ばれるのだ。

 若者達よ。今見たように、そもそもの始まりにおいては「仏陀」というのはそのような平安の境地に到った者への尊称であり、尊敬を払うべきではあるが、しかし単なる人間に他ならなかった。しかし大乗仏教が興るとこの仏陀という言葉の意味が変わってしまった。彼等は仏陀を単なる人間ではなく、何か神秘的な、絶対的な神通力を有する超越者にしてしまったのだ。

 そしてそれとは別に彼等は、「菩薩」などという存在者をも用意した。これは自己の悟りを開くことより、地上の民衆を教化して極楽に導くことを願うというなんとも人間にとって都合のよい者達なのだ。そんな彼等は仏陀(あるいは如来とも言われるが)程ではなくとも測り知れないほどの神通力を持っているから、人間はそのような菩薩に祈りを捧げることで修行などせずとも死後に成仏し(仏になり)、極楽に行けることになった。

 このように、釈尊本来の教えが純粋なる哲学であるのに対し、大乗仏教においては絶対的超越者たる如来や菩薩を持ち出し、ただ祈っていれば救われると説いている。前者は神仏に頼らず、云わば自己の心の持ちようによって平安に達しようと努力するのに対し、後者では修行者が努力せずとも、神仏に祈ってさえいれば救われると説くのだ。聞いての通りこの二つの態度は全く別のものであり、根本的に性質の異なるものであり、並べて論じることにそもそも何の意味もないのだ。

 だから私は両者は区別するし、その優劣を云々するわけではないが、私は後者については論じない。若者よ、これでわかってもらえただろうか?」

 マイトレーヤはこのようにして、仏教なるものへの自身の見解を語り終えた。すると先に彼に質問した学生が言った。

 「ありがとうございました。おかげで、おおまかにではありますが仏教のこと、そして貴方が先程から何を問題と見做していたのかが、わかったような気がします。しかし、今の説明を伺っていて、少し気になることがあったのですが……」

 「言ってみてくれ」

 「はい。釈迦の教え(とその流れを汲む上座部仏教)ではあらゆる煩悩、つまり執着を捨てることで悟りに達することができるのであり、その平安の境地を目指すのが仏教の修行とのことでした。それは理解できるのですが、僕はそれを聞いた時、少し「おや?」と思ったのです」

 「ほう。なぜだろう」

 「僕はそれまで、仏教でいう煩悩というのは欲望、つまり富や名誉といった世俗的なものへの欲望であると思っていたのです。そうした世俗的な、まあ言ってみれば卑しい欲望を捨てることこそが仏教の修行だと思っていました。

 しかし貴方の説明を聞くと、そのような世俗的なものへの欲望だけではなくて、普通なら非難されないような、親兄弟や実の子供なんかに対する愛情までも捨てなくてはならない、と言われているようで、それで戸惑ってしまったのです」

 「君の理解は正しい。私は実際にそのつもりで言ったのだ。悟りを目指す修行者は、そういった人間には当たり前の情愛をも捨てなければならない。何故ならそのような自然な情愛もまた、執着に他ならないからだ」

 「そんな!家族に対する愛情は、別に悪いものではないではありませんか」

 「若者よ。たしかにそうした愛情は、富や金品といった物質的な欲望と同じに解するべきではないかもしれない。しかしそれでもやはり、それが執着であることに変わりはない。むしろ涅槃の境地を目指す者にとっては、そのような愛情の方がより大きな障害とすら言えるのだ」

 「そんな馬鹿なことが!」

 「では、喩えによって語ろう。ここに二人の人間がいるとする。一人は即物的な男で、ある高級な車を手に入れたいと願っており、ついにそれを手に入れたとする。もう一人は感情の豊かな女で、愛する夫との間にようやく産まれた一人息子の成長を、なにより楽しみにしていたとする。

 さてこの二人が世の無常を感じ、それぞれ己のもっとも大事に考えるもの――男にとっては自動車であり、女にとっては一人息子――への執着を断って、仏道修行に入るとする。この場合、男が自動車を捨てるのと、女が息子を捨てるのと、どちらが困難であろう?」

 学生は即座に答えた。

 「そんなの、女の人に決まっていますよ!」

 「その通りだ。普通に考えれば、そうなのだ。だからこそ、永遠の平安を願う修行者にとって、情愛はむしろより大きな妨げとなると言えるのだ」

 「しかし。……そのような当たり前の愛情までも否定してしまったら、僕達の人生に意味なんてなくなってしまいますよ」

 「その通りだ。悟りに達するためには、人生におけるあらゆる喜びを捨ててしまわなければならない」

 「僕にはわかりません。そんなにまでして悟ったところで、いいことがあるんですか」

 「あらゆる迷いや苦しみを捨てた、平安の境地――即ち涅槃に達することができる」

 「それは幸福ってことですか?」

 「若者よ。私はその問いに正しく答えることができない。何故なら私は未だ修行中の身であり、悟りの境地に達してはいないからだ。しかし恐らく、その境地は君の考えるような意味での幸福ではないであろう。そこでは一切の悲しみ苦しみがない代わりに、喜びもまたないのであるから」

 「そんなの、死んでるようなものですよ!」

 「私が思うに、まさに君の言う通りなのであろう。生きながら死んでいるというのが、その境地の一つの表現であるだろう」

 「それが仏教の究極の目標なんですか?そんなの願い下げだ!」

 若い学生はそのように叫んだが、それはその場にいたほとんど全ての人々の総意であった。マイトレーヤはそれを察したが、それは彼には意外なことではなかった。

 その時、仏教史学者のAが進み出た。

 「まったくもって、そこの彼の言うとおりだ。小乗仏教には宗教としての致命的な欠陥がある。それは、あまりにも人を選ぶという点だ。人間の欲望を抑えようとするのは宗教の最も重要な役割の一つではあるが、小乗のそれはあまりに度を過ぎている。そのために実践できるものは限られ、生活に苦しむ大多数の民衆に対して開かれていない。だからこそ小乗仏教は多くの国において衰退し、大乗仏教が大多数を占めているのだ。

 弥勒菩薩を名乗る方よ、それでも貴方は大乗の教えを軽んじ、小乗の教えの方が優れていると言うのですか」

 「A博士よ、私はどちらがより優れているかなどと言った覚えはない。両者は別のものであり、それぞれに長所と短所があるのだ。

 釈尊や上座部仏教の教えが民衆に開かれていないことは紛れもない事実だ。しかし一つだけ言わせてもらうなら、この教えが今から二千五百年の以前に説かれた教えであることは理解してもらいたい。インドには今も根強い階級制度の残滓が残っているが、古代における階級差別は今とは比較にならないものだったのだ。高いカーストの者はともかく、低いカーストに生まれた者には生活は厳しく、人生における楽しみや喜びは少ない半面、苦しみはずっと多かった。そしてそのことに不満を抱いても、決してそこから抜け出すことは叶わなかったのだ。

 今の、とりわけこの国の多数の人々のように豊かな人間にとっては、苦しみを捨てる代わりに喜びをも捨てよ、と説いたところで受け入れ難いことは承知している。しかし苦痛に満ちた生を送る古代の人々にとってその教えは、君たちほどに受け入れ難いものではなかったのだ。

 そして大乗の教えもまた、多くの苦しめる人々の心を救ってきたという点では、これも優れている。いやむしろ、その点では上座部仏教よりもよい働きをしてきた。私はそれを認めている」

 「貴方がそれを認めているならば、小乗ではなく大乗について語れば宜しいでしょう」

 「Aよ。しかし私は何度でも言うが、大乗の教えは宗教なのだ。良い意味でも悪い意味でも、それは徹頭徹尾、宗教であるのだ。

 悪い意味と言ったのは、こういうことだ。確かに大乗仏教においては如来や菩薩などという民衆にとっては有難い存在を提示することで、人々に希望をもたらしたし、規律をもたらすこともできた。それは、人々の心がまだ素直で、純粋に信仰心を抱くことが出来たからだ。しかし、今はどうだろう?近代化が進んだこの世のどこに、神仏の実在することを心から信じる者がいるというのだ。東洋においても西洋においても、特に豊かな先進国と呼ばれる国々おいて、人々の信仰心は薄れている。

 Aよ。時に信仰が、人を救うことがあるのは事実だ。私は、世の中には神への信仰によってしか救われない人間があることを知っている。

 しかし、私はこうも言おう。世の中には、信仰によっては決して救われない人間がいることも、また事実であると」

 「だから大乗については語らないと仰るのですね」

 「その通りだ。しかし君は誤解しているようだが、そもそも私は釈尊の教えについて語るつもりもまた、なかったのだ。それは質問されたので答えただけのことで、別に語る必然性はなかったのだ。私は最初に話したとおり、人間を知るために、君たちと話がしたいだけなのだから」

 マイトレーヤはこう言った。

 

5  人間なるものの真実について

 

 その時、マイトレーヤの――そして人々の頭上で響き渡った声があった。

 『こちらは学生課です。ただ今、12時50になりました。13時より三時限目の講義が始まりますが、その前に本日の日程に関してお知らせします。

 先日より報道されております通り、近畿地方においては連日に渡り大量殺人事件が発生しております。犯人は京都市内に接近しているとの見方もあり、府警より18時以降の外出を控えるようにとの勧告がありました。

 そこで協議の結果、本日は講義を四時限目までとし、五時限目以降の講義は休講とする措置を採りました。五時限目以降の講義を受講している学生は、各学生課の掲示板に連絡事項を貼り出しておきますので、確認してください。

 繰り返します。本日の五時限目以降の講義は休講となりました。講義のない学生は学生課にて連絡事項を確認の上、速やかに帰宅してください』

 放送は以上だった。マイトレーヤは黙してそれを聞き、連日の大量殺人事件なるものに多少興味を惹かれたが、あえて誰かに尋ねようとまでは思わなかった。他方、人々はその放送に多大なる関心を抱いたようで、どの顔も興奮気味だった。彼等は互いに言葉を交わしたり、先程の板のような情報端末を取り出して一人で話したりしていた。

 マイトレーヤは彼らのそのような狂態を観察していたが、その内に鐘が一つ鳴るのを聞いた。それは大学の象徴たる時計台が、午後の一時を告げたのだった。すると後に残ったのは先の三分の一程の数の学生に過ぎなかった。仏教史学者だというAの姿も見えない。

 マイトレーヤは不思議に思った。そして言った。

 「どうして彼等はあのように、先を争うようにしていなくなったのだろう?」

 すると学生の一人が答えた。

 「午後の最初の講義が始まったからですよ。先程の放送でもありましたが、一時から講義が始まるのです。彼等は受講している講義があるので、席を外したのです」

 「成程、勉強熱心なことだ。さぞや魅力のある講義なのだろうな。教える立場であるA博士は当然だが、学生達までもがあのように慌てて行ってしまうのだから」

 彼がそのように感心して見せると、先の学生は苦笑して言った。

 「どうですかね。実際は、そこまで魅力のある講義なんてあまりないですよ。皆、単に卒業に必要な単位を取るために、仕方なく出席しているに過ぎません。特に今日の講義の場合、これから年末年始で大学が休みに入るので今後の日程や課題を聞く必要があって、いつもより出席率がいいのですよ」

 学生はこのように言い、さらに現代のこの国における大学生の実態について、皮肉を交えて語った。そこでマイトレーヤは思わず嘆いた。

 「なんとも嘆かわしいことだ。愚かしいことだ。学問に熱心でなく、真理に興味がなく、学ぶ意欲も目的もないのに、師に教えを受けているとは。……しかし、それなら君達はどうしてこの場に残っているのだ」

 すると数人の学生が答えた。

 「僕はこの時間の講義がないので――」

 「僕は本当は講義があるのですが、サボってここにいるのです。大学の講義なんかよりこっちの方が断然面白そうですからね。だって貴方が本当に弥勒菩薩なのだとしたら、まさに前代未聞の椿事ではないですか。そしてそんな貴方が、一体僕たちにどんなことを説いて下さるのか大いに興味があるのです」

 「若者よ。そのように言ってくれるのは有難いが、君は少し思い違いをしている。君の口振りだと私がまるで、自分の知っていることについてただ一方的に語るように聞えてしまう。しかしそうではなく、私は君達と対話したいのだ。

 始めに語ったように、私は人間を救うための修行をしている時、ある疑問に襲われた。それは、そもそもどうしてこの私が人間を救わなければならないのか、という疑問であった。そんな疑問が浮かぶのは考えてみれば当然のことで、私は人間と直接に接し、言葉を交わしたことがないのだった。よく知らない者達のことを、どうして苦労してまで救わなければならないと思えるだろう?

 だから君達よ、私は君達との対話を望む。私に、人間なるものについて教えてくれ。そしてはたして人間なるものが、私が長年に渡って苦しい修行をしてまで救うに値するものであるかどうか、見極めさせてくれ」

 このような率直な物言いを受けて、その場に残っていた人々は呆れ、また困惑した。彼らの大半はマイトレーヤのことをあの弥勒菩薩であると心から信じている訳ではなかったものの、それでも尚「もしかしたら本物かもしれない」という思いを完全には拭いきれていなかったので。それほどまでにマイトレーヤの姿は、その振る舞いは、人々の目に神秘の存在らしく映ったのである。

 そのような事情であったから、マイトレーヤがこのように言うのを聞いて人々は困惑したし、また緊張もした。何故なら自分達の発言如何によって、未来の救世主たる弥勒菩薩が人間を見限り、永遠に見捨ててしまう可能性があるのであったから。

 そこで人々は互いに示し合わせたように、口々に人間の美点を挙げ連ね始めた。

 「人間は賢い生き物です」

 「人間は理性的な生き物です」

 「人間は善良な生き物です」

 「人間は平和を愛する生き物です」

 「人間は争いを嫌う生き物です」

 「人間は平等を尊ぶ生き物です」

 「人間は不平等を憎む生き物です」

 「人間は公正を好む生き物です」

 「人間は不正に憤る生き物です」

 「人間は勤勉であることを望む生き物です」

 「人間は怠惰であることを蔑む生き物です」

 「人間は進歩する生き物です」

 「人間は停滞しない生き物です」

 「人間は高尚な趣味を持つ生き物です」

 「人間は低俗な趣味を嫌う生き物です」

 「人間は調和を重んじる生き物です」

 「人間は不調和を疎んじる生き物です」

 「人間は節度を保つ生き物です」

 「人間は規律を尊重し、堅く守ります」

       ・

       ・

       ・

 人々は彼らの思いつくままに人間の美点と思えることを口にした。マイトレーヤは黙したまま、いちいちそれを聞いていたが、やがて彼らが満足して口を閉じたのを知ると、こう言った。

 「君達は人間について知っている限りのことを私に教えてくれた。その全てが本当であるならば、人間とは実に素晴らしい生き物であり、知的生物として完璧に近く、まさに私が救うのに躊躇を覚えないものだ。

 ……しかし、人々よ。どうも私には、君達の言うことが俄には信じられないのだが」

 すると人々は口々に「そんなことはない」と訴えた。そこでマイトレーヤは言った。

 「それでは問おう。君達の言うところに拠れば、人間は争いを嫌い平和を愛する生き物であるとのことだった。たしかにこの国では――少なくとも表面的には――大きな争いは起きてはいないようだ(あくまで表面的には)。しかしこの地上全体を見れば、今も各地で血で血を洗う傷ましい紛争が起きているようだ。君たちはこれをどう説明する?」

 その問いに人々は口を噤んだ。しかしその内の一人が言った。

 「残念ながら、それはたしかに事実です。この地上には今も夥しいほどの血が流れています。けれど現代の世界はかつての帝国主義の時代、即ち軍事力ばかりが物を言う無秩序な世界ではなくなっているのです。世界中の大半の国家が加盟している国際機関があって、国際的に通用する法的枠組がちゃんとあるのです。国家間の争いを調停し、また必要とあらば紛争終結のために働きかけます。あらゆる努力をし、現在起きている紛争もいずれは、解決できることでしょう」

 「それは素晴らしいことだ」

 人々は胸を撫で下ろした。そんな彼らを見て、マイトレーヤはまた言った。

 「しかし、まだ気に掛かることがある。というのも、人間は平等を尊ぶということであった。しかしこの国を見ると、大人達は子供を自分の都合のいいように利用しているし、雇用主はその労働者を支配して好き勝手に振舞っているように見える。上司は部下に対して、現場の実情を無視した手前勝手な要求を押し付け、口では部下の自由な意見を求めておきながら、いざ口にすると聞く耳を持たずに却って叱責したりする。あまつさえ、就業時間内には到底終わらないような仕事量を割り当てておきながら、残業をすると厭味を言う。そしてそれはどのように正当化しても結局、残業代が惜しいだけなのだ。そもそもそのように一人の仕事量が多いのは、賃金をケチって適正な人数を雇わないからだというのに。それに上流と呼びうる階層の者は自分達以下の階級の者を蔑んでいるし、中流は中流で下流の者を見下している。平等を尊ぶ人間が、これはどうしたことであろう?」

 「それは誤解です。たとえ子供が、親の言いなりになって自分のやりたいことを犠牲にしたとしても、それは結果として本人の為になるのです。ミュージシャンになりたいだの分不相応にも作家になりたいなどと望んだところで、なれるわけがないですからね。

 雇用主と労働者の関係についても同様です。彼等はその立場上、指導する側とされる側に分けられますがそれは見せかけに過ぎないのであり、法的には対等の立場であるのです。上下関係のように見えるのは単なる見せかけだけで、本当は対等なのです。それは決して単なる建前ではなく、どんなに周囲から見て悲惨なほど一方的でも、実態としてそうであったとしても、法律上で対等なら対等と思わなければならないのです。

 中流階級の人が下流の人を見下すのは、自分達もまた上流の人から蔑まれているのを知っているからです。そんな上流の人達は、まあそれだけ税金を多く払っているわけだから、多少の傲慢な態度は多めに見てやろうと自分達に言い聞かせているのです。或いは、金があるからといって幸せとは限らない、そういう家庭の方がえてして内情はドロドロしているものさ、などとよくも知らないのに勝手に思い込んでいて、それで自分を慰めているのです。下流の人たちがどう考えているかは知りませんが、まあ彼等は彼らなりに何かを考えているのでしょう」

 「なるほど、そうかもしれない」

 人々はまた安堵した。マイトレーヤはまた言った。

「しかし君たちの言葉に拠れば、人間は高尚なものを好み、低俗なものを軽蔑するということだった。しかしこれはどうだろう?私の見たところでは、この国ではどうやら事情が全く正反対であるようではないか。ストーリーにまるで深みのない映画や小説がもてはやされて、リメイクする必要の全くない過去の名作を知名度ばかりの役者を起用して撮り直したり、漫画やアニメーションの名作を実写化して見るも無残なものにする。それらは私の見るところ駄作に他ならないのだが、全く理解不能なことに、それが話題になって大衆の支持を得ている。中身が全くないにも拘わらず、人気の俳優や女優を起用して視聴率を得るテレビ番組。他方、重厚なテーマや芸術性、または技法に見るべきところのある実験的な作品については大衆に受け入れられず、それどころかその存在すら認知されない始末。そうして、真に価値ある作品が埋もれているではないか」

 「それは誤解です。たしかにこの国においては、大衆は作品の出来にはあまりこだわることもなく、話題性や俳優・女優、それに知名度などによって鑑賞する作品を決めています。それは、そのような低俗な作品の方が気楽に鑑賞できますし、特に見るべき内容もないので、何も考えずに見ることができるからです。

 それに対して、本当に見るべき作品――確固としたテーマのある作品や高度な技法を用いた芸術作品は敬遠されます。それは気軽に楽しむためには少し高尚過ぎますし、そもそも理解することが困難で、できる限り頭を使いたくない大衆に、考えることを要求してくるからです。私達は単なる気晴らしとして、それらを消費したいだけだというのに。 

 しかしだからといって、私たちがそうした高尚な芸術作品を無視しているということにはなりません。それが本当に価値のあるものならば、どこかで誰かが評価してくれる筈だからです。私たちには理解できない、はっきり言って訳のわからないものであっても、その道の専門家がどうにかこうにか理解して、詳細な解説を添えて、私たちに紹介してくれるからです。そのような専門家のお墨付きがあって初めてそれを安心して受け入れることができるのだし、その解説があってわかったような気になれます。いえ、理解することはできないかもしれませんが、した振りをすればいいのです。

 このように私達は高尚なものを受容し、それを次代に引き継ぎます。ひょっとしたら取りこぼしてしまうものもあるかもしれませんが、そんなことは些細な問題です」

 「そうだろうか?そのように取りこぼした作品の中に、真に優れた作品、人類全体の宝とも言われるべき作品があるかもしれない。そういうことはないのか?」

 「たしかに、そのような可能性は否定できません。あのゴッホにしても生前には全くと言っていいほど評価はされず、存命中に売れた絵はたった一枚きりであったと言われています。それなのに今では、彼の絵は人類全体の財産といっても過言ではありませんし、彼の地元では偉人として称えられているのです。この日本においても、今ではまるで聖人のように語られるあの宮澤賢治にしても、生前に刊行された詩集『春と修羅』は殆ど売れなかったそうですし(もっとも評価する人はいたそうですが)、童話の『注文の多い料理店』だって同様です。今では日本の大抵の本屋に彼の本が置かれており、すっかり国民的作家となっていることを思えば、これは信じ難い話です。彼の場合は少数ながら彼に注目していた人たちがいて、死後に再評価されたのでことなきを得ましたが、もしも埋もれたままだったら……と思うとゾッとします。そうしたら、あの名作『銀河鉄道の夜』だって知られることなく、それに影響を受けた数々の派生作品だって生まれてはいなかったでしょうから。

 これは幸運な例ですが、素晴らしい作品が世の人々に見向きもされず、それどころか専門家であっても天才の仕事を全く理解できないで見落とすこともあります。というより、このようなことはよくあるのかもしれません。何故なら何かの専門家とか評論家などといわれる連中は、大抵は保守的な俗物なのですから。だから真の天才による先駆的な作品を理解できず、または天才への嫉妬から、口を極めて罵るようなことすらするのです。専門家などといっても、彼等は所詮は凡人なのですからね。

 不遇な生涯を終えた天才達は、そのような連中の被害者です。ゴッホが精神を病んで拳銃自殺したのだって、突き詰めれば世間に認められなかったからに違いないのです。ニーチェにしたところでその思想は発表当時は理解されず、彼が漸く評価され始めたのは晩年のことで、その頃には彼もまた精神を病んでいたのです。

 このように、専門家に見る目がないのはまったく嘆かわしいことです。でも、心配はいりません。というのは、このようなことはごく稀なことだからですし、些か手遅れの感はありますが、彼らだって結局は評価されたわけではないですか。そもそも真の天才なんていうのはそんなに大勢いる筈がないので、それを考えると取り零しなんてないようにも思えます。いや、ないのでしょう。だって、そんな風に未だ埋もれたままの天才の話なんて、未だかつて聞いたことがないですからね……。仮にあったとして、それはその道の専門家の手落ちであって、大衆の罪ではありませんよ」

 「成程、よくわかった。たしかに君の理屈からすれば、君たちには何ら落ち度はないと言えるわけだ。では、その問題については終わりにして、次の問題に移ろう。

 君たちは、人間は公正を尊び不正を憎むと言った。これは事実だろうか?私のみたところ、人間は確かに公正な(少なくともそのように見える)法律を作るが、君たちは何とかしてそのような公正な法の網を潜ろうとするではないか」

 「そんなことはありません。たしかに私達は、どのような公正な法律による規制でも疎ましく感じますし、なんとか自分だけは法の網を掻い潜って、利益を得ることはできないかと考えます。しかし例えそのような人間でも、社会全体としては法の秩序が保たれていることを望みます。なにしろその方が暮らしやすいですから。だから、陰で不正な犯罪がどれほど行われていようと、全体から見れば公正の方が優勢であるといえるのです」

 「成程。たしかにその通りだ」

 マイトレーヤは頷き、続けて言った。

 「君達のいうことはいちいち尤もだ。お陰で私は人間という生き物について、正しく理解することができた。人間が備えているのは美点ばかりで、欠点などというものは全くないか、あったとしてもほんの些細なものであるようだ。

 人々よ、私は君達を賞賛する。そのように優れた生き物である君たちであるなら、私があえて救おうなどとせずとも、いずれは自分達で自分達の問題を解決するであろう。君たちはあらゆる問題を解決し、自分達の手で地上に王道楽土を築くであろう。

 人々よ。よって私はもう、君達のために思い悩むことは止めようと思う。君達との対話の必要もない。私はこのまま地上を去ることにしよう」

 そうして彼が実際に立ち去ろうとすると、人々は慌てて彼を引き止めた。そして彼等は今度は口々に人間の欠点を挙げ連ね、このような愚かな人類にはぜひとも救済の手が必要であると語った。マイトレーヤはこれを聞くと怒り、厳しい声を発した。

 「お前達は何を言っているか、自分でわかっているのか?先程はさも自分達を聖人君子ででもあるかのように褒め称えておいて、今度はそれを貶めるというのか。お前達は人間についてあれこれと言ったが、実はたった一つのことを言ったに過ぎないのだ――即ち、人間は嘘を吐く生き物であると。

 そもそも私は、集合としての人間に興味があるのではない。世間、社会、国家、人類なぞといった抽象的な人々の集合体について知りたいわけではないのだ。何故ならそのようなことは、人間の歴史を顧みれば自ずとわかるものだからである。それより私は、個々の人間の心が、その動きが見たいのだ。

 まやかしも虚飾も必要ない。私は君達の、生きた感情が見たいのだ」

 マイトレーヤはこう言った。