12  物質には実体のないこと・仮名(けみょう) 

 

 その時、再び学内放送が流れた。 

 「十四時三十分となりました。三時限目の講義を終了してください。本日は五時限目以降の講義は休講となります。以降の講義のない学生は学生課にて連絡事項を確認した上、速やかに帰宅してください。繰り返します。本日は五時限目以降の講義は休講となります。講義のない学生は速やかに帰宅してください」

 人々はその声にハッとして時計を見上げた。そして慌ただしく、どこか後ろめたいと言う表情を浮かべながら去っていった。残ったのはそれまでの半数にも満たなかった。

 やがて、周囲の建物や正門の方向から多くの学生達が姿を現した。マイトレーヤはそれを見て、しばらく対話を止めて様子を見ることにした。それらの人々の中から、自分達の輪に加わる者もいるかもしれない、と考えたからである。

 しかし彼の気遣いは無駄に終わった。それらの人々の多くはそのまま帰路に着き、あるいはまた別の講義を受けるために別の建物に吸い込まれていった。結局、彼らの輪に新たに加わった人間はいなかったので、マイトレーヤの対話の相手は純粋にその人数を減らしただけとなった。

 そうして見ている内にもう、キャンパス内を歩いている人間はどこにもいなくなってしまった。マイトレーヤは嘆息を洩らした。

 「まったく驚くべきことだ。あんなに多くの学生達が出てきたというのに、彼等は脇目も振らずに何処かへと駆け足で去っていってしまった。まるで何者かに追い立てられているかのようではないか?この国の学府はどこでもこのように慌ただしいのだろうか」

 すると残った学生の一人が、彼を慰めるように言った。

 「いいえ、そんなことはありません。たしかに大学というのは暇なようでいて、なんだかんだで単位を取らないといけないし、サークルにも出ないといけないし、バイトをしなければ欲しい本も買えないし、できれば可愛い彼女も欲しいし、何かとやることが多いのです。でもそうやってあれこれ手を広げさえしなければ、大学生というのは人生においてもっとも暇な時期といえます。

 けれど今日に限っては、彼らがあのように忙しそうに見える理由があるのです。というのは数日前から世間を賑わせている、いや世間を恐怖に陥れている凶悪な大量殺人事件の犯人が、どうやらこの街に近づいてきているらしいのです。いやそれどころか、もう既に市内に入っているのではないかとも言われています。それで先程から、普段はやらない学内放送まで流して、遅い時間の講義を休講にして、学生に帰宅を促しているのです。というのは、その正体不明の殺人犯というのは夜にしか出ないからです。あくまで、今までのところは……ですが」

 「成程、それで講義のない者は帰ってしまうと言うわけか。それに次が四時限目の講義ということは、これが今日の最後の講義と言うことになるから、必然的に皆がその講義に出ているということになる。しかしそうなると、君達はもう講義はないということになる訳だが、帰らなくていいのかね?」

 「僕達は家が近くなので、慌てて帰る必要はないんです。特に僕なんて大学の敷地内の寮に住んでいるもので。そこの連中なら、呼べば来てくれるかもしれませんが」

 「いや、それには及ばない。私は別に、多くの者と話たいわけではないのだから」

 マイトレーヤがそう言ったとき、キャンパス内の道路を一台の自動車が通り掛かった。それは些か荒っぽい運転で、危うく彼らの一人に接触しそうになった。幸い負傷はなく、一同は胸を撫で下ろした。一人が言った。

 「危ないな。学内をあんな速度で走るなんて、何考えてるんだ」

 「今の奴、工学部の有名なボンボンだよ。成人祝いに親に高級車を買ってもらったとかで、さんざん自慢してるらしいよ」

 「ふん、学生の分際で車を持ってる奴なんて、大抵碌なもんじゃない」

 マイトレーヤはそのような人々の会話を、微笑を浮かべて聴いた。自分の持っていない物への欲望と、それを手に入れた者への羨望。そのような感情を補償するために相手を軽蔑し、自尊心を満足させる。しかしてその軽蔑は根拠もない、単なる偏見である。

 これが人間か、と彼は密かに感心した。師の言葉は正しかった。彼等はあまりにも容易く心を乱し、その結果苦悩している。その根源にあるのは欲望である、と。

 しかし彼にはどうしてもわからなかった。彼は思った。

 (どうしてあのような鉄の塊を、あんなにも彼らは欲しがるのだろう。あんな、実体もないものを)と……。

 その時一人の学生が言った。

 「弥勒菩薩様、先の話で、少し気になることがあるのですが」

 「何だろうか」

 「先のお話に拠れば、僕達の肉体は代謝によって日々作り変えられているので、まったく不安定であるということでした。それは確かに、仰るとおりだと思います。

 しかしそれは、僕たち人間を含めた動物にとっては正しいですが、単なる物体――例えば、今僕らのすぐ傍を通りすぎたあの自動車のような――の場合はあてはまりません。まあ自動車なら部品を交換することもあるでしょうが、仮にそうではないと仮定すれば、物体は常に同一の材料から構成されているということができます。ということは、僕たちのような人間よりも、自動車のような単なる物体の方が確かな実体を有する「存在」に近いということなのでしょうか」

 「いや、それはおかしいんじゃないか?単なる物体の方が、僕たち人間よりも確固たる存在だなんて」

 言ったのはBだった。Cも口を開いた。

 「そもそも物体である以上、「存在」とは認められないよ。今までの議論から、弥勒菩薩様ならそう仰ると思うよ。自動車だってやっぱり、いずれは壊れるんだから」

 「いえ、別に僕は自動車なら「存在」の名に値すると言いたいわけではないんです。ただ先の話から、それでも人間よりは存在に近いのかな、と……」

 「若者よ、君の疑問は理解した。それはなかなか面白い問いである。……けれど若者よ、君は考え違いをしている。そもそも「車」という実体など、この世にはどこにもないのだ。そして勿論人間にも、実体などと言うものはない。だから人間と比べてどちらが確固たる存在かなど、そもそも議論はできないのだ」

 この言葉に人々は驚き、彼にそのように言う理由を問うた。そこで彼は言った。

 「人々よ、それでは答えよう。ただしあらかじめ断っておくが、これからする話は私自身が考え出したものではない。昔からよく参照されてきた『ミリンダ王の問い』という古い対話において説かれた考えなのだ。剽窃などと言われたら敵わないので、まずそれを告げておく。

 さて、それではそれに倣って「車」を例にして話そう。ここに一台の車があるとする。この車は君達も知っての通り、様々な部分(部品)から構成されている。例えば轅(ながえ)。例えば車軸。そして車輪、車室……」

 「ち、ちょっと待ってください、弥勒菩薩様。ナガエって何ですか?」

 「……ああ、これは失敬。古い対話を思い起こしていたので、ついつい古い時代の車を私は思い描いていたのだ。それは古代インドの王が乗る牛車なのだが……。

 やりなおそう。ところで、この時代の車の部品は何と言う?」

 マイトレーヤは少し呆れた様子のBから現代の自動車に関する知識を教わり、また語りだした。

 「ありがとう。それでは仕切りなおそう。人々よ、ここに一台の車があるとする。この車はボディー、タイヤやハンドル、ブレーキやアクセル、ガラスやシートなどと言った実に様々な部品が組み合わさってできている。即ちこれらの部品が揃っていなくては、「車」とは言えない。

 さてBよ、それでは聞くが、これらの部品が即ち「車」なのであろうか?」

 「どういう意味でしょうか?」

 「つまりこれらの部品のどれか、たとえばタイヤが車なのだろうか?」

 「いいえ。タイヤは車の一部ですが、車そのものではありません」

 「それでは、ボディーが車なのだろうか?」

 「いいえ。ボディーだけでは車とはいえません」

 「それではハンドル……ブレーキやアクセル……ガラスやシートが車なのだろうか?」

 「いいえ。それらは車の一部ではありますが、車そのものではありません」

 「そうか。ではCよ、君に聞くが、それらの部品の総体が「車」なのだろうか?」

 「(少し考えて)……いいえ、そうではありません。なぜなら、それらの部品が全て揃っていても、それだけでは車としての機能を持たないからです。タイヤはタイヤのあるべき場所に、ハンドルはハンドルのあるべき場所になければいけません。そうでなければ正しい「車」の形になりませんし、人間を乗せて走ったり、曲がったり、止まったりする車の機能、即ち車の本質を有することにならないからです。そこまでしてやっと、車は車になるのです」

 「Cよ、その通りだ。車とはまさにそのようなものだ。そのような部品があり、それを正しく組み合わせることによって「車」という形ができる。そして車とはそのようなものである故に、「実体」がないと言えるのだ」

 「どうしてでしょうか?」

 「それはこうなのだ。先に君が言ってくれたように、車とは数多くの部品から出来上がっている。そのような部品があって初めて「車」なるものはこの世に現れるのであり、故に車という物体はこれらの部分に依存してこの世に出現するのだと言える。

 わかるだろうか?つまりこの世には、「車という物体」など元々なかったのだ。あるのはただ、それを構成する各々の部分(部品)のみなのだ。しかしこれを正しく組み立てることで、それまではこの世になかった「車」というものとなって立ち現れる。これは、実に不思議なことなのだ。

 しかし人々よ、それは、それらの部品のある特定の組み立て方を仮にそのように呼んでいるというに過ぎないのであって、「車」という実体はどこにもないのだ。なぜなら先も言ったように、真にあると言えるのはその各々の部品に過ぎないのであって、「車」なるものはどこにもないからである。

 つまり人々よ。実体があると言えるのはタイヤやボディーやハンドル……などといった部品に過ぎないのであって、「車」というものはそれらの部品を組み合わせることによってこの世に出現した「現象」に過ぎないのだ。だから部品に実体はあっても、車には実体がない。

 もちろん、部品に実体があると言ったのは話をわかりやすくするために言っているのであって、タイヤやハンドルに本当に実体があるわけではない。タイヤはタイヤで、ゴムやホイールと言った更に細かい部分に分割されていくからだ。つまり「タイヤ」という物体もまた、ゴムやホイールといった部品に依って生じた「現象」に過ぎない。

 どうやら、君達はまだ納得できないらしい。それでは聞くが、君達は山奥に森が広がっているのを見て、そこに「森がある」というだろうか?川の流れるのを見て、そこに「川がある」というだろうか?」

 「弥勒菩薩よ、私達は日常でそのように言います」

 「そうか。ではBよ、『森という物体』はあるだろうか?」

 「いいえ」

 「Cよ。『川という物体』はあるだろうか?」

 「ありません、弥勒菩薩よ」

 「Bよ、Cよ、その通りだ。『森という物体』も『川という物体』もない。そのようなものはどこにもないのだ。

 森が森であるために最低限必要であるのは、無数の樹木だけである。樹に分け入って『森』を探しても見つかるのは樹木ばかりで、どこにも「森」というものそのものはない。それは、「森」の正体が木の集まりに依って生じる現象に過ぎず、その現象を「森」と呼んでいるに過ぎないからだ。

 「川」もまたそのようなものだ。「川」を構成するのは河原の土、川底の石、そして流れる水だけだ。どこにも『川という物体』はない」

 「そうでしょうか?川の場合は、流れる水がその本体であると言えるのでは?」

 「いやBよ、そうではない。流れる水は決して川の本体ではない。君たちが或る特定の川について語る時、それは単なる水の流れではない筈だ。それは「或る特定の流路を流れる水の流れ」なのだ。

 例えばある水源から生じるA川という川があるとする。それはB谷を通り、下流のC町に達し、D湾に流れ込むとする。ここで、仮に工事によってこのA川の流れを全く変えてしまうことができるとする。流れの変わった水はB谷ではなくE山間部を通り、F市に流れ込み、G湾に注ぐとする。

 どうだろう?この場合、そのように大幅に流れを変えた川をA川と呼ぶ者はいないであろう。同じ水源から生じた水であっても、その流路が違えばそれは別の川であり、別の名称で呼ばれるのだ。それは川が「水の流れ」を実体としている訳ではないからなのだ。そしてだからといって、「川」がその流路の河原の土や石をその実体としているわけではないのは言うまでもないことだ。いくら河原があっても、流れる水がなければ誰もそれを「川」とは呼ばないであろうから。

 だから人々よ。「川」とは(ある特定の流路の)河原の土、川底の石、そして流れる水という部分に依って出現する、「川という現象」に他ならないのだ。 

 そして、これと同じことは君たちにも言える。君達も「頭」や「胴体」、「内臓」や「骨格」、「手足」といった部分に依って構成されているが、かといって「頭」や「胴体」が人間であるというわけではない。それらの部分が集まり、人間という「現象」として現れたのが君たちなのだ。しかし「人間」などという実体はどこにもないのであり、それはそのような部分の組合せを呼ぶ「人間という仮の名前」に過ぎないのだ。

 もちろん、それらの頭や胴といった部分もまた、より微細な部分によって構成されている「現象」に過ぎない。君達も知っての通り、君たちの肉体は細胞にまで区分され、ついには分子のレベルにまで行き着く。だから人間も車も、森や川と同じく実体がないと言えるのだ。それらは全て、実体のない現象なのだ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

13  物質には実体のないこと・素粒子

 

 するとBが言った。

 「弥勒菩薩様。そうなると、この世の物体には全て実体がないということになりますね」

 「Bよ、その通りである」

 「では、「水」はどうでしょうか?水は車や人間とは違って、どこまで分割しても、水は水で、水のままです。あるいは「鉄」だって、どこまで分割しても鉄のままです。このように素材、といいますか元素のレベルまでいけば、それは実体があると言えるのではないでしょうか?」

 「Bよ、残念ながらそれは通じない。科学の発達していない近代以前ならそれでも通るかもしれないが、この現代には水は分子であることはわかってしまっているではないか。水はH2Oという表記に表される通り、二つの水素原子と一つの酸素原子という部分に依って構成される分子と言う「現象」なのだ」  

 「それなら、鉄ならいいんじゃないですか?水は分子ですけれど、鉄は原子のレベルで鉄だったはずです。僕は科学はあまり詳しくないですし、受験以来勉強してないのでウロ覚えですが、元素記号にFeというのがあったと思いますし……」

 「いや、それはどうでしょうか?」

 と理学部二回生のCが言った。

 「確かに鉄は元素番号26の金属元素です。でも、だからといって原子を実体として考えるのは如何なものでしょう?そもそも自然状態では普通、物質は原子の状態では存在しないんですよ。鉄がいわゆる「鉄」としての性質を得るのは、鉄原子同士が金属結合をしているからであって、それによって僕たちの知っているあの強固な金属としての鉄の性質を得るわけです。

 ……ところでBさん、原子の構造ってどんなものかご存知ですか?」

 「おいおい、文系だからって馬鹿にするなよ。陽子と中性子から成る原子核というのがあって、その周りを電子が回っているんだろう?」

 「そうですね、そう習いますよね。……でも、それは実は違うんですよ」

 「え?(少し慌てて)でも、高校の授業ではそう習ったんだが」

 「あれは、実際の原子の構造というのが複雑でわかりにくいために、敢えて簡略化したモデルなんですよ。といっても、もちろんまるっきり違うと言うわけではないですが。

 まず、あの高校の化学の授業で習うモデルと違うのは、電子です。あのモデルの原子核と電子は、まるで惑星の周囲を廻る衛星みたいな感じに書かれてましたよね。だけどそもそも電子は、あんなはっきりした形で存在するわけじゃないんですよ」

 「というと?」

 「電子は原子核の周りに、雲みたいな形で漂っているんですよ」

 「……どういう意味だ?」

 「いや、そのままの意味ですよ。電子の雲みたいなものがあって、その中に原子核が浮かんでいるんです。といっても言葉だけじゃわかりにくいでしょうから、本のイラストなりネットなりで調べてみるといいですよ」

 「(しばらく考えて)やっぱりうまく想像できないが、しかしとにかく、電子があのイラストみたいに原子核の周りを廻っているというのは間違いなんだな?」

 「そうですね。というか実際の原子モデルにおいては、電子は確率的に分布しているので、簡略化したイラストに表すのは難しいんです」

 「……確率的に分布?」

 「それについては説明するのが面倒なので、量子力学の本でも読んでください。まあ、

それはそれとして、もう一つあのモデルと実際の原子とで大きく異なる点があるんです。それは原子核の大きさです」

 「原子核の大きさ?」

 「あのモデルでは、原子核が結構大きく書かれてましたよね。原子全体の三分の一位でしょうか?……でも実はあれも、わかりやすくするために敢えてそのように書かれているだけなんです。実際は、一つの原子全体に占める原子核の大きさというのは、もっともっと小さいんですよ。具体的に言うと、原子の半径の十万分の一の大きさしかないんです」

 「そんなに小さいのか!」

 「小さいんです。だから原子の実際の姿と言うのは、ふわふわ漂う電子雲の中に、ほんのちっちゃな原子核が浮いている、というようなものなんです。分子とか原子なんていうと、一般的なイメージでは何となく小さな粒のようなものを想像してしまいがちですが、実態はそんな曖昧なものなんです。だから原子と原子が結合するというのも、要は双方の電子雲と電子雲がくっついているだけで、どこからどこまでが一つの原子なのか定義するのも難しいんです」

 「原子って、そんな曖昧な物だったのか?……しかしそうだとすると、分子だってそんな電子の雲の集まりの中に、ポツポツと原子核が浮かんでいるってだけのことになるんじゃないのか?」

 「そうです。そう考えると不思議じゃありませんか?目で見ることもできる、この手で触れることもできる、なにより他ならぬ僕たち自身の肉体を形作っている「物質」の正体が、突き詰めていくとこんな曖昧なものだなんて。僕たちの肉体は電子雲の塊のようなもので、つまり何か小さな粒がぎっちり詰まっているようなものじゃなく、スカスカなんですよ。……つまり僕の言いたいのは、こんな見るからに不明瞭でスカスカな原子なんてものに、実体の資格があるか、ということなんです。

 そもそも原子にしたところで、分割不可能な最小の要素というわけではありません。先も言ったように原子は原子核と電子に依って構成されているわけですし、その原子核もまた陽子と中性子に依って構成されているわけですからね。その陽子を構成するのはクオーク……つまり素粒子になるわけですが」

 「素粒子?素粒子って、物質の一番小さな単位じゃなかったか?」

 「そうですね。少なくとも現在の時点では素粒子は内部構造を持たない、つまりそれ以上分割することができないと考えられていますが……」

 「だったら、素粒子が実体ということでいいんじゃないか。たしかに原子の場合は構造があやふやで、はっきりしていないから実体として捉えるのは難しい。けど素粒子にはそんな構造はないわけだし、実体として考えることができるんじゃないか?」

 「それは――」

 「それはどうだろうな」

 Cの言葉を遮っていったのは、奥から進み出てきた壮年の男だった。その肌は白く、髪も白い物が混じっているが、元は金色のようだった。

 BもCも、そして勿論マイトレーヤも、聴衆の中にこの白人の男がいたことは知っていた(というのも日本人の若い学生ばかりの中に壮年の、しかも白人男性が一人だけ混じっていたから)。しかしそれまではずっと黙って聞き役に徹していたのが唐突に口を挿んできたので、BもCも当惑しているようだった。しかし一向に当の本人は、そのような若者達の反応など意に介していないように見えた。

 一方マイトレーヤはといえば、この白人の男を見て、或る奇妙な印象を受けていた。しかし彼は、それについては表に出さなかった。代わりに言った。

 「貴方は?」

 「私は客員教授のハイド・O・アッシュフィールドと言います。遺伝子工学が専門で、この大学の総合人間学部に属しております」

 「アッシュフィールド?その姓は確か……」

 マイトレーヤは先程の留学生を探した。彼はまだそこにいた。たしかに似ている、とマイトレーヤはそう思った。しかしその留学生――即ちナッシング・アッシュフィールドはマイトレーヤの視線に出会うと、その目を逸らしてしまった。教授の方のアッシュフィールドはそれを見て微笑みつつ言った。

 「ええ。あちらのナッシングは私の息子です。といっても専攻が違うので、残念ながら教え子ではありませんがね」

 「成程。ところで貴方は、先程何かを言いかけたようだが?」

 「そうでした。どうやら話がだんだんと私の専門に近づいてきたようなので、つい口を挿んでしまったのです。素粒子こそが確固たる「実体」として相応しいのでは、ということでしたが、それはちょっと難しいと言わざるをえませんな」

 「どうしてでしょうか?」

 これはBが言った。アッシュフィールド博士は彼を見て言った。

 「というのは、素粒子などと気軽に言いますが、その実態は我々が日常的な意味で知っている物質とは全くかけ離れた性質を持っているからです。原子より大きな領域における物理学の法則は、素粒子の領域では全く通用しません。要はそれほど性質が違うわけで、そのために量子力学やら素粒子物理学という、一般の物理学とは異なる特殊な専門領域が必要とされるわけです。そこの彼は素粒子と言う言葉から、物質の最小構成単位だと短絡的に考えたのでしょうが、そんなに単純なことではないのです。

 そもそも素粒子と一口に言っても、その全てが物質を構成しているわけではない。素粒子はフェルミ粒子とボース粒子と、大きく二つに分けられます。この内、物質を構成するのはフェルミ粒子だけで、先ほど少しだけ名前が出たクオークやレプトンはこちらに含まれます。他方、ボース粒子は物質を構成するわけではなく、力を媒介する粒子です。力というのは素粒子間の相互作用力なのですが、まあそれに関しては省きますが、例えば誰でも知っている「光」はフォトン、つまり「光子」としてこのボース粒子に含まれるわけなのです。「光」を物質として捉えることは、少なくとも一般的とはいえません。

 まあそれでも、フェルミ粒子の方は物質を構成するわけですから先程から言われる永遠不変の「実体」として捉えられると思うかもしれません。ですが、それにはやはり決定的な問題があるのです。それは――」

 「それは、物質というのはつまり、エネルギーの一様態でしかないからだ」

 博士の言葉を引き取ってそう言ったのはマイトレーヤだった。博士はこれを聞くと、僅かに驚いたような表情を見せて言った。

 「おお……その通りです。私もまさに、そう言おうと思っていたのです。しかし貴方は、一体どこで、誰からそのような知識を得たのですかな。たしか貴方はブッディズムの開祖であるシャカの弟子で、天国で修行していたということでしたが、それも師の教えなのですか、それとも瞑想でそのようなことまで洞察できるものなのですか?」

 「年経た博士よ、それは言わぬことにしておこう。それを言うなら私も、異国の学者である君がどうしてそのように流暢な日本語を操れるのか君に聞かなければならなくなる」

 「成程、それはそうだ。突っ込むべきことではないことを、突っ込んで聞くべきではありませんね……お互いに」

 そうして二人が笑みを交わしていると、Bが遠慮がちに質問を発した。それは彼だけではなく、その場にいた多くの者が抱いた疑問だった。

 「あの、今のはどういう意味ですか?エネルギーがどうとかいうのは……」

 「ああ……、君は文系だと言っていたな。しかし文系とは言っても、E=mc2(二乗)という公式は知っているだろう。もっとも私は、日本のハイスクールのカリキュラムまでは知らないが、まあかいつまんで言えば質量はエネルギーに転換できるし、その逆もまた可ということだ。君は核分裂反応を知っているだろう」

 「何となくは」

 「これはこれは、なんとも頼りない答えだ。この国の学生なら、昨年のフクシマの原発事故のニュースはチェックしてるだろうに。そんなことも知らないで君は原発に反対するのか?君のような無知と偏見の輩が、ろくな知識もないままに「放射性廃棄物は危ないからとにかく厭だ、持ち込むな」なんぞと言って、不寛容にもヒステリックな反発運動をするのだろうな。

 ……まあいい。とにかく君にもわかるように説明すると、昨年のこの国における大地震以来とかく叩かれている原子力発電というのはウラン235に中性子を吸収させることで不安定にし、核分裂を起こさせ、その際に生じる莫大な熱エネルギーを回収して発電しているわけだ。核分裂反応を経てウラン235は、より軽い二つの原子核に変わるわけなのだが、この時に質量欠損が起こっているのだ」

 「質量欠損?」

 「つまり、反応前の物質と反応後に生じた物質とでは質量において等式が成り立たず、反応後の方が質量が小さくなってしまっているということだ。その消失した分の質量が即ち、エネルギーに変換したということだ。第二次大戦においてこの国のヒロシマに落とされたという原子爆弾にはおよそ50キログラムのウラン235が搭載されていたというが、そこから実際に消失したのは0・7グラム程度だったと言われている。……つまりたったそれだけの質量の消失で都市を灰塵に帰すほどの熱エネルギーを発生させたわけだから、質量が有するエネルギーがどれほど莫大なものかわかるだろう。

 しかし実は、そんな核分裂反応などより物質と反物質が衝突した際に生じる対消滅反応の方が、更に莫大なエネルギーを発生させられるのだがね」

 「反物質……ですか?SFとかにでてくる?」

 「SFだって?まさか君は反物質が、フィクションの産物だとでも思っているのかね。反物質は前世紀の前半には既に発見されているし、今では反粒子のみならず反原子核までも生成することができるようになったというのに!

 いいかね、反物質というのは反粒子によって組成されている物質のことだ。そして反粒子というのは、ある素粒子に対して質量とスピンは全く同じで、しかし電荷が全く逆の性質の粒子のことを言う。例えば電子はマイナスの電荷を持つが、陽電子というのはこれに対してプラスの電荷を持っている。だからこの陽電子は、マイナスの電荷を持つ普通の電子に対して反物質ということになるのだ。

 そしてこの物質と反物質が衝突すると、対消滅と言う現象が起きる。この消滅というのは文字通りの消滅で、衝突した物質と反物質は完全にこの世から消えてしまうのだ。もちろん単に物質の消滅だけが起きるわけではなく、先にも説明したとおり、消滅した質量はエネルギーに変換されて放出されるというわけなのだ。そこで得られるエネルギーは核分裂反応とは比較にならない莫大なものだ。ヒロシマの原爆では50キログラムのウランに対して0・7グラムの質量欠損しか起こらないと言ったのを覚えていると思うが、対消滅の場合には衝突した物質と反物質が完全にこの世から消滅するわけなのだからね。

 また対消滅とは逆に、対生成という現象もある。これは非常に高いエネルギーを持たせた粒子同士を衝突させることで、何もなかった場所に新たな粒子が誕生するというものだ。これは衝突前の粒子が有するエネルギーが粒子に変換するというもので、対消滅とは反対にエネルギーが質量に変換されたと言えるわけだ。

 わかったかね?このように、質量とエネルギーは相互に変換が可能なものなのだ。そう考えれば、物質というのはエネルギーの一様態に過ぎない、ということができる。

 この国では人間が死ぬと火葬するのだろう?そうやって綺麗さっぱり燃やしてしまえば、人間は文字通り灰塵に帰す。灰は灰に、塵は塵にというわけだ。しかしそれでも、通常の火力で燃やすだけでは灰や塵が残ってしまう。云わば人間の残骸だ。

 しかし対消滅の場合はそうではない。(こんなことは現実には不可能だが)もし仮に、君という人間にとっての反物質を用意することができれば、君は文字通り塵一つ残さず、完全に綺麗さっぱり、何一つ痕跡を残さずに一瞬にしてこの世から消滅することができるのだよ。まあ仮にそんなことが可能だとしても、その時は死ぬのは君一人では済まないだろうがね――何しろ、人間大の質量が消滅するとなると、どれほどの規模のエネルギーの放出が起きるか想像もつかないからね……」

 博士の言葉にBはもちろんのこと、その場にいた殆どの人間が顔を青くした。それは博士が脅かすように語った対消滅の威力ではなく、塵一つ残さずに一人の人間が完全に消失する、という対消滅なる現象への恐怖だった。病気で死ぬ、老衰で死ぬ、刺されて死ぬ、飢えて死ぬ、毒物で死ぬ、焼かれて死ぬ、撃たれて死ぬ……等等の日常と隣り合わせの死の形態には慣れていても(そう誤解していても)、この世からの完全なる、唐突な消滅などという耳慣れない死に方は彼らに、何かしら不気味な、得体の知れない新しい恐怖を呼び起こしたのである。

 そんな彼らの反応には一切構わずに博士は言った。

 「まあ要するに、君たちが確固なものとして普段考えている物質というものも、つまりはエネルギーという形のないものと本質的には変りがないということだ。そこで聞きたいのは、君達は「エネルギー」を「実体」として捉えることができるのかね?」

 Bはもちろん、その場にいたほとんどの人々は首を振った。それを見て博士は頷くと、マイトレーヤに向き直って言った。

 「そういうことなのでしょう、貴方の仰りたいことは?」

 マイトレーヤは頷いた。そして言った。

 「その通りだ、異国の学者よ。しかし人々よ、勘違いをしてほしくはないが、物質がエネルギーに転換するからといって、それは消滅してしまったということにはならないし、それを以って物質が「無」であるということではないのだ。物質がエネルギーになることは消滅ではなく、単にその様態を変えたということなのだから。

 とはいえ博士も言った通り、エネルギーを以ってしてそれを「実体」と捉えることは君たちの価値観では難しいであろう。君たちが確固なものとして捉えるあらゆる物質的現象は、その意味ではやはり確固たるものなどではないのだ。

 故に人々よ、今までの議論からしても、あらゆる意味で物質的現象は「実体」としては不十分なものなのだ。それは君達のような生物でも、自動車のような無機物の集合体でも事情は全く変わらないのだ。

 だから人々よ、物質的現象には全て実体がない。実体がないことが、物質的現象の本質なのだ」

 マイトレーヤはこう言った。

14  再び大乗について 

 

 その時、一人の初老の男が前に進み出てきた。マイトレーヤはもちろんその男を覚えていた――それは以前に対話をした、この大学の仏教学者のA教授であった。彼は自分の受け持つ講義があったために、また多少はマイトレーヤから大乗の教えを非難されたために(それは彼の誤解であったのだが)、その腹立たしさもあって席を外したのだが、いつの間にやら戻ってきていたのだった。そしてしばらくはおとなしく話を聞いていたのだが、どうしても我慢が仕切れなくなって口を出したのだった。 

 「どうも先程は、私の講義があったために中座させていただきましたが、また戻ってまいりました。まあ正直申し上げれば途中でうっちゃってしまったのですが。……いやなに、学生なんかは却って大喜びしておりましたよ。そもそも大学の講義なんぞあってもなくても構わないもので、やる気のある学生は独学で勉強しますし、やる気がない連中に無理して勉強させたところで身につくわけもありませんからな。もっとも昨今は周囲の目が何かと厳しくなってきておりますので辟易しますが。なかなか息苦しいと申しますか、昔はもっと大らかなものだったのですがね。 

 まあそれはともかく、講義を途中で終わらせて戻って参ったわけですが、何しろ私が席を外しておる間にどんな議論があったのかもわからないので、後ろの方にそっと混じって聞いておったのです。……と、どうやら人間には実体がない、人間は物質的現象に過ぎぬというお話をされていらっしゃる。近くにいた学生にも尋ねましたが、どうやらずっとその辺りの話をされていたとか。

 話の全てを伺ったわけではないのではっきりとは申せませんが、人間には実体はないという貴方のお話は、大乗の「空」の思想を想起させます。いえ、その仰るところの理屈は違いますがとにかく物質的現象には実体はないと主張するのですから、目指すところは同じというわけです。

 が、どうも先程からのお話では、大乗の解く「空」とはまた違った仕方で貴方は論じておられる(もっとも、既にお話があったのかもしれませんが)。人間の新陳代謝の話であるとか、原子やら素粒子といった科学の話やら、かと思えばあの自動車の喩えの話では、小乗の仏典(と言って差し支えありますまい)を持ち出しておられる。

 しかし、私はあえてもう一度申し上げますが、人間(やその他一切のもの)を実体のない「空」として見るのは、大乗仏教の立場なのです。いえ、もちろんそのような思想は小乗の頃からその萌芽がありますが、それを深化させ発展させ、前面に打ち出したのは大乗仏教ではありませんか。それなのにどうして貴方は大乗の「空」の思想を、敢えて無視しておられるのですか」

 「A博士よ。私もまた先に言ったことをもう一度言うが、私はなにも大乗の思想の全てを否定するつもりはない。大乗はその本質は宗教でありながら釈迦の教えを受け継いでいる面もあるので、純粋に哲学的な一面もある。私はそれについては考慮の対象とすることができる。人間、いやあらゆる存在者を縁起に依って生じる現象、即ち実体のない無自性の空として見る大乗の思想もまた、私は評価する。それは確かに、人間を実体のない現象として見る点で私と同じである。

 しかし博士よ、私はこの説にあまり説得力を感じないのだ」

 「なんですと?それはまた、どうしてでしょうか」

 「A博士よ。あらゆる者は無自性である、対立する他者があって始めて存在できると大乗は説く。故にあらゆる存在者は独立では存在できない、よって実体のない現象であると。……しかし博士よ。これは、「誰だってひとりでは生きていけない」などというよく言われる、しかしありふれた、底の浅い説教とどこが違うというのだろうか」

 これを聞くとA博士は仰天し、唾を飛ばしながら怒鳴った。

 「貴方はまた、なんということを仰るのです!大乗の空の思想はそのような皮相的なものでは断じてありません!『中論』において龍樹(ナーガールジュナ)は釈迦の説いた縁起の考えを援用しながら、あらゆるものは相対的であり、一切は空であると説いたのです。それによりその頃流布していた説一切有部の思想を否定して法すらも空であると反論したのですし、「あらゆる執着を絶て」という釈迦の教えに拘泥するあまり却ってそれに執着している小乗の徒に対し、釈迦の教えにさえ執着してはならないと説いたのです。これに対して釈迦の教えを相対化するものだという批判も出ましたが、これはむしろ釈迦の教えを深化させ、徹底化させたのだと言えるのです。そしてこの相対化があってこそ、あの「不生不滅 不断不常 不一不異 不来不去」などという神秘的な表現が可能となるのではありませんか」

 「A博士よ。そのような神秘的などと云われる表現こそが、私が大乗の思想を敬遠する理由であるのだ。君はその「生じたのでもなく滅したのでもなく、断絶しておらず常にあるのでもなく、一如でもなく異なるのでもなく、来たのでもなく去るのでもない」という言葉を神秘的というが、しかしその実は単に矛盾した、支離滅裂な文章でしかないではないか?一体そのような矛盾した言葉で、何を言い得るというのだ」

 「貴方はそのように仰るが、大乗の思想は何も神秘的な印象を与えたいがために、このような表現を使っているわけではありません。論理的な文章だけが正しいのではない、いいえ論理的な文章では言い表せない境地というものがあるのです。貴方がご存知かどうかは知らないが、西洋のカントという哲学者は人間の思考力を超えた問題、即ち神や霊魂といった形而上の事柄については二律背反に陥ってしまうと言っております。つまりは矛盾です。カントはこれに思い至り、形而上の事柄については語るのをやめてしまいますが、龍樹はあえて矛盾した表現を用いることで、本来は言葉では言いえぬことを言い表そうとしたのです。いわばカントよりも千五百年以上も前に仏教思想はこの形而上の疑問にぶつかり、それを越える解答を提出していたというわけです」

 「しかしA博士よ。私には、言いえぬことを敢えて語ろうとした龍樹菩薩よりも、口を噤んだそのカントという哲学者の方が賢明であると思えるのだが。それはまた、形而上のことについて語るのを拒んだ釈迦と同じ態度でもある。

 博士よ。白状すれば私もまた、ほんの一時期だが大乗について学んだことはあるのだ。その経典の膨大なことを知り、そのどこかに私の求める答えがあるのではないかと考えたのだ。特に大乗の興ったインドではなく、中国や日本に渡って複雑化したその思想は実に霊妙で神秘的に思え、そこに真理があるのではと期待させたのだ。私は師である釈尊にその許可を求めたわけではないが、師も私を止めることはしなかった。

 そして私は、大乗の経典の幾つかを手に入れた。特に私にとっては目新しい、漢訳化された経典や禅宗の書は興味を持って読んだ。しかしすぐに、それが私の求めるものではないことに気が付いた。……というより私は、その大半を理解できなかったからだ」

 「なんですって?ご冗談でしょう」

 「本当だ。それは徒に複雑で謎めいた書き方をしていて、神秘の靄に覆われており、釈迦の説かれた率直な教えとはまるで正反対のものだった。特に禅宗の公案というものは、端的に言って論理的ではない。そもそも理解できるように書かれてはいない。それは単に難解だからではなく、合理的な理解を拒む文章なのだ。そして私には、合理的でないものは理解できない。私は多くの現代人と同じく、論理的な思考能力しか持たないからだ。

 A博士よ。矛盾した文章でしか言い表せないものもあると君は言う。それは確かにその通りであるかもしれない。神秘主義や否定神学と呼ばれるものがあることを私は知っているし、ひょっとしたらそこには真理があるのかもしれない。それを私は否定しない。というのは、私はそれが理解できないからで、理解できない以上、それについては何事もいえないのだ」

 その時、高らかに鐘の音が響き渡った。鐘は四つ鳴った。人々は思わず頭上を見上げ、今が午後の四時であることを知った。

 しかしマイトレーヤとA博士は特に気に掛けずに議論に戻った。A博士が言った。

 「しかし何故あなたは、そこで諦めてしまわれたのですか。そこに真理があるのかもしれないと認めてらっしゃるのに」

 「確かにその通りだ。しかし私には、その先にあるものは自分の求めるものではないと思えたのだ。いや、それには理由はない。単なる私の勘に過ぎないが、これによっては衆生は救済できないと思えたのだ。

 君達も知っての通り、私は遠い未来に衆生を救済するという使命を負わされている。もっとも今はその使命に疑問を感じ、不満さえ抱いたので、こうして地上に降りてきているのだが、とにかく私はそのために修行をしていたのだ。

 さて、その衆生の救済というのはつまり、私の師である釈迦の救いの手から洩れた人々を、この私が改めて救うということに他ならない。その救いというのはつまり、娑婆の生存苦から解脱し、涅槃に達する手助けをするということだ。

 しかしその為には、悟りに到るための真理の教えを、誰にでもわかるように語らねばならない(と、その頃の私は考えていた)。しかしその点から言えば、大乗の神秘的な言説はまったくもって適切ではないのだ。というのは、論理的な言説であるならばそれが難解であったとしても、訓練に拠って誰にでも理解できる可能性はある。論理的な思考能力は、万人に共通のものだからだ。

 これに対して、論理的でない言説、矛盾した表現を駆使した神秘的な言説はそうではない。それは端的に言って非論理的であるので、理性によっては理解ができない。それを理解するために必要なのは、ある種の特殊なセンスなのだ。そしてセンスというものは、論理的な能力とは違って、磨くのが難しい。

 A博士よ。大乗仏教はそもそも、徒に釈迦の教えの研究に耽る小乗の徒への反発として、民衆に開かれた教えとして始まったのではなかったか。しかし大乗の思想の本質はこのように、却って万人に開かれたものではない。私はそこに矛盾を見るのだ」

 「それは誤解です。確かに大乗の思想は、民衆に開かれたものとは言えません。しかしその教えはそもそも小乗への批判として生じたものに過ぎず、民衆はそんなものは知らなくともいいのです。教理上の問答は俗世間を離れて修行する、職業僧だけが学び、実践すればよい。大乗の本質は「利他」を唱える「菩薩道」、即ち「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という菩薩の精神です。そして、そのようなありがたい菩薩や如来に縋り、心正しく利他的に生きれば俗世間の凡夫でも未来世には成仏できると説く、それが大乗の大乗たる由縁なのです」

 「しかしそれでは、出家した僧侶と俗世間の凡夫とでは、同じく成仏を願いながら行く道が異なることになる。教理……いや真理を追究する学問(修行)の道と、凡夫の純粋なる信仰の道と。大乗の徒は自分たちだけ特権的に教理を学んでおきながら、民衆には「とにかく念仏を唱えろ」と言って無知な段階に留めているだけではないだろうか。そしてその結果として現代に到り、近代的な教育を受けてもはや信仰心を抱けない人々が、道に迷って苦しむことになったのではないか?」

 「なんということを……。貴方は、大乗の教えをまるでわかっておられん!

 前々からずっと感じておりましたが、やはり貴方は菩薩には相応しくない。先も言いましたが菩薩とは「利他」の精神を持たねばならんのです。だから、人間を救済することに迷いを覚えたという貴方は既に、菩薩としては失格者に他ならないのだ!

 よって私はもう、貴方を弥勒菩薩とは認めません。いやそもそも、貴方のような方が、弥勒菩薩などである筈がなかったのだ。貴方は広隆寺の弥勒菩薩像に似ているだけの、そしてそのことを利用して一芝居打ったというだけの、単なる浅はかな若者に過ぎん!」

 「A博士よ、ありがとう。君は私の望む通りのことを言ってくれた。最初に言った通り私は、自分が弥勒菩薩であると証明することを欲しない。私は何者でもない、単なるマイトレーヤという名の人間として扱ってくれることだけを望む。

 というのも君が言ったように私は、単に広隆寺の弥勒菩薩像に似ているだけのごく普通の人間であるかもしれない。そうでなくともその弥勒像に取り憑いた死霊や生霊であるかもしれないし、または悪魔や妖怪かもしれない。あるいはこれは単なる夢や幻であって、ここにいる私自身や君たちも全て、誰かの見ている夢の中の登場人物なのかもしれない。あるいはこれは現実の出来事などではなく、全ては紙の上やコンピューターの画面上の出来事であって、私達はその登場人物に過ぎないのかもしれない。

 だから人々よ、私の話すことを、弥勒菩薩の言葉などと思ってはいけない。それはその姿を借りただけの、生霊や悪魔の言葉かもしれないのだから。或いは私は単に物語の登場人物に過ぎず、その口を借りて語っているのは別の人間なのであり、その正体はかつて大学で少しばかり哲学を齧ったというだけの、小説家を目指しながら何年かけても芽が出ず、以前は働いて食い扶持を稼いでいたものの結局は実家に帰り、今では家族に甘えてただ飯を食らっていながらろくに家の手伝いもしない、まさに塵(ゴミ)野郎の名に相応しい人間の屑であるかもしれないのだから」

 マイトレーヤはこういった。

 

15  解散

 

 するとA博士は言った。

 「……それで結局、貴方は一体何を求もとめておられるのか」

 「博士よ。それはこうなのだ。最初にも言ったことだが、私は自分に課せられた使命、いや宿命に疑問を抱いてしまった。それで、この疑問が晴れるまでは再び修行には戻れないと思い、こうして下界に降りてきたのだ。即ち私の疑問とは、私が人間を救わなければならない理由である。どうしてこの私が、何の見返りもないというのに、ろくに知りもしない人間達のためにこんなにも苦労しなければならないのか。人間ははたして、この私がそこまでして、救う価値のあるものなのか?

 私には、どうもそのようには思われなかった。私からすれば人間とはどうしようもなく無能で、非力で、卑劣で、愚かであって、そしておまけに短命である。しかし私は気が付いた。そもそも私は人間のことを、知識としては知っていても、直に知ってはいないのだ。そんなにも徒労の生、生存苦ばかりが多くそれでいて実りの少ない生を、どうしてそのように不満も抱くことなく耐え忍ぶことができるのか?

 しかしこうして地上に降りてきて実際に話してみると、君達はあまりそのような自分自身を――即ちその生が徒労に近いことを――あまり自覚してはいないことがわかった。そこで私は、まず彼らにそのことを――自分達がいかに不完全な生物であり、存在論的には全く頼りない儚い者であり、「存在」の名には値せず、如何なる意味でも確固とした実体を持たない単なる「現象」でしかないことを指摘したのだ。

 もちろん、まだまだ言い得ることはある。しかしそうした私の目的はもう、これまでの対話によって達成されたことと思う。

 さて人々よ、それでは改めて聞かせてもらいたい。君達は一体何を考えて、日々その貴重な生を消費しているのだろうか?」

 マイトレーヤの言葉に、人々は顔を見合わせたが、答える者はなかった。ある者は困惑していたし、ある者は気分が塞いでいたし、それに大部分の者は彼の無神経な発言に、怒りを感じていたからである。

 さらにいうならば、彼等は先程の鐘の音を聞いて以来、直に四時限目の講義が終わると思い、どこかそわそわしていたのである。

 その時、またしても放送が流れた。

 『十六時十五分になりました。四時限目の講義を終了してください。繰り返します。四時限目の講義を直ちに終了してください。

 繰り返しお知らせしておりますが、本日は五時限目以降の講義は休講となりました。休講になった講義の連絡事項については各学生課の掲示板に掲示してありますので、該当の学生は確認してから帰宅してください。

 本日の講義は終了しました。まだ残っている学生は速やかに帰宅し、夜間の外出はできる限り控えてください』

 放送は始まった時と同じく、些か唐突に終わった。と同時に、先程のように大勢ではないにしろ、それでも少ないない数の人々が周囲の建物から吐き出されてきた。彼等は脇目も振らず、どこか焦っているような表情でせかせかと歩き去ろうとしている。

 それを見るとマイトレーヤの周りの人々も、我先にと動き出した。ある者は時間を気にし、ある者は出てきた人々の中に仲間を見い出し合流しようと向かった。彼等は或いは後ろめたいという顔で、或いは安堵したとでもいうような表情を浮かべていた。

 BもCも含め、マイトレーヤの周囲にはほとんど誰もいなくなった。A博士も歩き去ろうとしながら、彼に向かって言った。

 「貴方が本当の弥勒菩薩かどうかはわからんが、申し上げておきましょう。貴方は人間を知りたいと仰る。そして学生達と対話し、その考えを聞こうとしなさった。……けれど私に言わせれば、そんなことは全く役には立たないでしょう。彼等は貴方の指摘したようなことを、全く考えようなどとはしないのですから。

 なるほど、彼等は確かに優秀です。少なくとも彼等は、この国の平均的な水準の人々と比較すれば、実によく勉強ができます。よく本も読むでしょうし、それらはおそらく、難解な専門書なのでしょう。知的好奇心も旺盛だし、思考する習慣が身についている。

 しかし。言ってみればそれは、ただそれだけのことなのです。彼等はいわゆる哲学や思想について――全てではないにしろ――興味はあるでしょうし、自分自身で思考を巡らせることもあるでしょう。でもそれは、言ってみれば心情の伴わない、単なる議論なのです。彼らが思想や人生について論じるにしても、それは別に彼らの心情の吐露ではなく、頭の中の考えを口にしているに過ぎんのです。即ちそれは血の通わない単なる理論であり、実感の伴わない知識であるに過ぎません。いわばそれは単なる知的なゲームなのです。彼の思想には汗も涙も伴わず、ましてや血など流れてはいないのです。彼らの思想は、彼らの人生から出たものではない。彼等は人生に苦悩などせんのですな。

 だから彼らに、貴方の言葉など届かない。何故というに、彼等は若いからです。貴方がいくら人生の無常や人間の儚いことを説いたとしても、彼等はそれを本当の意味で、即ち実感としてできない。彼等は「死」というものがあることを知っているし、人間が必ず死ぬことを知っている。けれど同時に彼等は、自分だけは死なないと思っている。それは少なくとも遠い未来のことであるし、ひょっとしたら自分だけは死なないのではないかと、何の根拠もなく信じているのです」

 A博士はそう言い残して去った。後にはマイトレーヤを含めて三人しか残らなかった。彼と、ハイド・O・アッシュフィールド博士と、彼の息子である留学生ナッシング・アッシュフィールドである。

 博士であるアッシュフィールドは、彼に向かって言った。

 「残念ながら、A博士の言うとおりですね。ただ少し意見が違うのは、私にいわせれば若者にしたところで、完全に死を忘れているわけではないということです。たとえ無意識にでも、彼等はたしかに死の影を感じ取っている。ただ目を逸らしているだけのことで、なんといっても若いうちは、いくらでも目を惹く物があるわけですからね。まあ、気を落とさないことですね」

 「ありがとう。しかしせっかくだが、気遣いは無用だ。なにしろ私は気を落としてなどいないからだ。ただ、このように私を認めず、私を決して受け入れようとしない人々の態度を見て、この私がこのように骨を折ってやる価値が本当にこの連中にあるのかと、改めて考えずにはいられないのはたしかだが。私はもうこんなことはすぐにでも投げ出してしまって、存分に好きな本でも読むか、温かい布団で眠るか、他の小説でも書くか、あるいはバイトでも探したいのだ。

 それに、そうそう簡単に私の求める対話の相手が現れるなどとは私は期待していない。いやそれどころか、私にとって有益なだけの情報とて、簡単に得られるなどとは思っていないのだ。その点では、今の対話はそれなりに有益ではあった。

 しかし私が真に求める、私にとって掛け替えのない対話の相手に巡り逢うには、まだまだ何年もの時間がかかるであろう。なにしろ私は、とても運が悪い方なのだから」

 マイトレーヤはこう言った。

 

16  存在論と認識論 

 

 辺りは既に暗くなり始めており、彼等はそれ以上そこに留まることはできなかった。なにしろ世間を騒がす血腥い事件のために学生は帰宅を促されており、先程から警備員らしき男達が学生を見つけては帰るように促している。さすがに帰宅を強制する権能はないようだが、それでも彼らに捕まれば面倒になることは目に見えていた。 

 すると博士が言った。 

 「ミロクさん――こう呼ばせてもらいますよ、私もやはり貴方を弥勒菩薩だなどと信じきれないのでね――貴方はこれからどうするおつもりですかな?というのは、行く場所なり変える場所なり、それともこれから行くべき場所でもあるのですか。この寒空に、とても信じ難いような軽装だが」 

 「博士よ。私には帰るべき場所などない。広隆寺は私ではなく、この身体の帰るべき場所に過ぎないし、まだ天に帰るわけにはいかないからだ。もっとも、君はそれを信じてはいないようだが。 

 また、私には特に行くべき場所はない。というのは私には特にあてなどないのだから、どこに行くのも自由なのだ。ただ、今日のところはここに留まるつもりでいる」 

 「ほう。それはまたどうして?」

 「というのは、私はここの学生ともうすこし話してみたいのだ。今日私が話したのは、この大学の学生のほんの一部に過ぎない。その学生達は議論の相手としてはそれなりであったし、それほど期待しているわけではないが、ここに話しておくべき若者がいるかもしれないという気もするのだ。

 それにこれから街に出たところで、これまでの様子ではどうやら出歩いている人間などはそれほどいないだろう。私はどこか人目のない場所で眠ることにしよう」

 「その格好で?どう考えても凍死すると思いますが」

 「寒さなど感じない。何しろ、私の身体は木でできているから」

 「そうですか。しかしいくら貴方がそう言ったところで、その格好で屋外で寝ていたら騒ぎになるに違いない。警察に突き出されるのは貴方にとっても望むところではないでしょう。どうですかな、私の研究室に来ては?寝る場所くらい提供できますよ」

 「それはありがたい。私とて人目を気にしないわけではないのだから。いや、他人に無遠慮に眺められるのは不愉快でもある。しかし、よいのかね?学内に留まってはならないのではないのか」

 「なに、それは用のない学生だけですよ。現に我々教員には帰宅の指示は出ていない。なにしろ、文系の連中はともかくとして、我々のような理系の研究室では手を放せないような実験をしているところもありましてね。まあ、むやみに屋外にさえ出なければ構わないということです」

 「では、お言葉に甘えることにしよう」

 マイトレーヤは言った。こうして彼は、アッシュフィールド親子と共に博士の研究室に向かうことにした。

 

 アッシュフィールド博士がマイトレーヤと、彼の息子であるナッシングを連れて向かったのは総合人間学部の大学院棟だった。それは五階建ての真新しい、近代的な建物で、博士は自分の研究室だけでなく、息子のナッシングの属する研究室もまたその中にあるのだと言った。マイトレーヤは興味を覚えて訊ねた。

 「総合人間学部というのは一体、何を学ぶ場なのだ?」

 「それは難しい質問ですね。まあ私も詳しくはないですが、ざっくばらんに言えば文系と理系の垣根を越えたバランスよい教育を施すというのが目的らしい。というのも、今では良い意味でも悪い意味でも専門化が進んでいるから文系にしても理系にしても自分の専門分野のことしか知ろうとしない。それではあまりに視野が狭くなるというわけで、文系理系の両方に通ずる総合的な視野を有する人材を育てるというわけです」

 「成程。それは結構なことだ」

 「とはいえ現実は、そうそう理想通りにはいかないようです。というのも、この学部にはそうした趣旨から文系の研究室と理系の研究室が混在しているのだが、結局はそこで文系と理系の学生は分別されてしまうのです。要は教える側の人間が結局は、自分の専門分野からはなかなか抜け出せないというわけで、文系と理系の研究室の間にはそれほど交流もない。私の息子の研究室もここにあるのだが、彼のところも残念ながらそうした内の一つです」

 「そういえば聞いていなかったが、ナッシングはどのような学問を専攻しているのだ」

 「哲学ですよ。なあ、ナッシング?」

 振り返った父親の言葉に息子が曖昧に頷くのを、マイトレーヤは見た。

 

 博士の部屋は三階にあった。扉は電子ロックで施錠されておりパスワードを知らなければ開けることはできないようになっていた。マイトレーヤは博士が開錠する様子を盗み見ていたが、博士がさりげなく立ち位置を変えたので果たせなかった(といっても彼はその気になれば、地上のどんな鍵でも開けることができたのだが)。

 博士の部屋はよく片付けられており、彼の神経質な正確を窺わせるものだった。事務的な書棚や机の他にはテーブルやソファーのセットもあり、ここで寝ることもできそうであったが、どうやら博士にはそれを許す気はないようだった。博士は、息子のナッシングが一人で退室しようとするのを止めて、言った。

 「どこへ行くんだ、ナッシング」

 「……僕の研究室だよ。僕はもういいだろう?」

 「いや、お前はここにいてくれ。私としては、彼に隣の学生達の部屋を使ってもらうつもりなのだが、さすがに部外者にパスワードを教えるわけにはいかないだろう。お前に教えるから、お前は彼の面倒を見てやってくれ。私はもう少ししたら、研究所の方にも顔を出さなければならないから。ミロクさん、勝手に決めてしまったが、それでいいですかね?」

 マイトレーヤは鷹揚に頷いた。

 「構わない。なにしろ私は、一夜の宿を借りる側の身なのだから。それと、私のことは単にマイトレーヤと呼んでくれて構わない。敬語もやめて、当たり前の若者に話しかけるようにしてほしい。察するところ、君は私を単なる普通の人間の若者だとしか思っていないようだから」

 「……おや、わかってしまったかね。ではお言葉に甘えて、君の事はマイトレーヤ君と呼ばせてもらおうか。しかしそうは言っても、君のことを普通の若者と同じだとはさすがに考えてはいないよ。先程の手品の件はともかくとして、それを抜きにしても君の言うことはなかなかユニークだし、君は……そう、なかなかエキセントリックな存在、いや現象だよ」

 「それはありがとう、と言っておこう。しかしそれより私は、早く本題に入ってほしいと願うのだ。君が私を案内して、寝床まで提供してくれるのは何か用件があるからだろう」

 「話が早くて助かる。と言っても、別に用件というほどのことでもない。君の先程の話に興味を覚えたというだけの話さ。……ほら、人間は「現象」に過ぎないという話だよ。というのも、私の息子のナッシングが必死に研究している哲学の分野がたしか、「現象学」とかいう名前だったと思い出してね。私は哲学などにはまったくの門外漢だが、何か関係があるのかね」

 「成程。しかし残念ながら私は、その問いには答えられない。というのも私は、その現象学なる学問について知らないからだ。できれば、先にその学問について教えてもらいたいものだ」

 「だそうだ、ナッシング」

 父親とマイトレーヤの視線を受け、この若者はおずおずと、諦めたように言った。

 「……それなら説明してみるよ。但し先に言っておくけれど、僕がこの学問について本格的に研究を始めたのはわりと最近のことで、充分に理解しているとはいえないということを覚えておいてほしい。というのもこの学問――正確には哲学の一流派――の理論はかなり複雑で難解なんだ。それを僕のような初学者が、しかもわかりやすく掻い摘んで説明するとなると、かなり正確さを欠いた説明になってしまう。だから正確なことが知りたければ、ちゃんとした専門家が書いた入門書を読んで欲しい。

 ところで、まず最初に言っておかなければならないのは、僕が専攻する現象学でいう「現象」と、さっき弥勒様が口にしておられた「現象」というのは、同じ「現象」という言葉を使ってはいてもその意味は違っていると思うんだ。少なくとも、僕はそう思った。これは別に珍しいことではなくて、哲学の世界では哲学者によってその言葉に与える意味は違ってしまうことが多いんだ(とは言ってもやっぱり同じ言葉を使っているわけだから、ある程度は似たような意味なのだけど)。それで僕が思うに、弥勒様は現象という言葉を存在論的に使っているけど、現象学は認識論的に使っているんだ」

 「そう言われてもわからない。存在論と認識論とは何だ?」

 「まず、弥勒様が先に言われてたこと――正直、耳慣れない考えを聞いたので戸惑っているのだけれど、あれは存在論に分類されるのだと思う。

 存在論というのはその名の通り、存在についての哲学の一分野なんだ。存在とは何か、何がどのように存在しているのか、真に存在していると言えるものは何か?そして……そもそもなぜ存在するのか、存在することに何か意味があるのか?……大雑把に言うと、こうしたことを考える学問なんだ。

 僕はインド哲学や中国哲学、そして仏教思想については詳しくないのだけど、少なくとも西洋では古代ギリシャの時代から、形而上学においては「実体」ということが常に問題となってきた。この実体という言葉についても哲学者によって込める意味は微妙に違うけど、大体「永遠不変なもの」とか「真に存在するもの」とかいう感じの意味で使われる。こういう意味で使われるから、実体は「真理」とか「本質」とか、「世界の第一原因」とか、或いは単純に超越者としての「神」の同義語であったりもする。

 こうした、永遠に変化せずに存在し続ける「実体」に対して、僕等が生きるこの現実世界は「現象界」と表現される。これは要するに実体の名に値しないということ、真の存在ではないということなんだ。つまりこの現実世界の僕らは――先程ミロク様が仰った通りに――真の存在とは言えない(ただし人間の物質的肉体と精神は現象に過ぎないけど、霊魂は実体で、死後も存在するんじゃないかと言う人もいるけれど)。

 僕等の日常的な感覚から言ったら僕らの身体は目に見え、手で触れられるからより確固とした存在で、真理や法則のような目に見えないものはあやふやなものに思える。だけど哲学の世界では、現実世界の住人である僕等が「現象」の名で呼ばれ、「真理」とか「法則」、「本質」なんかの方が「実体」と見なされる。それは普通の感覚ではおかしく聞えるかもしれないけど、現実の僕らはどうしても変化を免れないし、いつかは死んでしまうから、やはり真に存在するとはいえないんだ」

 「そういわれても解りづらいな。具体例を出してくれないか」

 「そうだね……。父さん、はプラトンをご存知でしょう?プラトンのいういわゆるイデアがつまり本質とか実体の側で、現実の物が現象なんだ。

 プラトンのイデア――形相ともいうけど――は物の本質のようなものだけど、あれは観念的な存在なんだ。よく例に挙げられるのは三角形だね。僕らは「三角形」という図形がどんなものか知っている。その性質を知っているし、頭に思い描くことができる。けれど、それは現実の紙の上に描いたどんな三角形とも異なる。人間が手で描いた三角形は、例え定規を使って書いても不正確だし、いつかは滅びてしまう。それに対して、人間が思い浮かべる三角形は正確だし、永遠に滅びることはない。それは三角形の本質、普遍的な三角形を……つまり三角形のイデアを、僕等が知っているからなんだ。

 といってもプラトンの考えが後世の思想家と異なるのは、プラトンはこのイデアを実在するものとして考えていたことだ。といっても現実の世界じゃなく、プラトンが信じていたイデア界というもう一つの世界があって、そこに実在すると考えていたんだ。

 こうしたイデアと言う神秘的な考えは彼独特のもので、その弟子であるアリストテレスは師の考えを引き継がなかった。それ以降の存在論はアリストテレスの形而上学が哲学の主流になり、更にキリスト教が興ると神学として受け継がれていくことになる。だけど現実こそが可変的な現象であり、その現象の背後に不変の本質があり、本質が現象を基づけているという図式はプラトン以来ずっと変わらなかったんだ」

 「なるほど……。では、認識論というのは?」

 「認識論は昔から、存在論と並んで哲学の主要な分野の一つだった。というか、プラトンの頃から認識論は存在論と分かち難く結びついていたんだ。

 存在論が存在についての学問であるのと同じく、認識論は認識についての学問だと言える。人間はどうやって物事を認識しているのか?人間は何を知ることができるのか、そして何については知ることができないのか?何かが「正しく」て、何かが「間違っている」ということがどうして言えるのか?そもそも、認識とはどういうことか?……そんなことを研究してきたんだ。

 例えば、僕たちが「何か」についての知識を得るには、感覚を通じて行っている。つまり、視覚によって対象の外観を知り、嗅覚によってその匂いを知り、触覚によってその感触を知る。それが動物なら聴覚によって鳴き声を知ることができるし、食べられる動物なら味覚によって味を知る。こんな感じで僕たちは感覚――知覚――によって直接的にその対象についての情報を知ることができる。

 だけど人間が知識を得るのはそういった直接的な体験に拠ってばかりじゃない。というのも、直接に得られる体験には限りがあるからだ。「リンゴ」という物体について知るには実際に手にとって、切って内部の構造を見て、食べてその味を知ればいい。でもそうやって得られる知識は本当は「その」リンゴにのみ確実に言えることなんだ。だって僕が知っているのは、厳密に言えばそうやって手で触れたり食べたりして直接に調べることのできたリンゴだけで、他のリンゴについては何も知らないんだから。でも実際は僕はリンゴと言うものを知っているし、多少の差はあれ世の中のリンゴというリンゴが同じような構造を有していることを「知って」いる。それは僕等が感覚のみによって知識を得るわけではなくて、そうした個々の事物を通じてリンゴの本質を認識しているからなんだ。それは僕等に理性とか、想像や推論する能力というものがあるからで、知覚に拠っては知ることのできない抽象的な概念とか、目には見えない物事の因果関係を洞察することができるのも、このような思考能力があるからに他ならない。

 例えば、数学の問題なんかもそうだ。子供の頃、最初に単純な足し算や引き算を覚える時は誰だって、数字を現実の何かに置き換えて理解するよね。2+3=5という式だったら実際に二つのリンゴと三つのリンゴを示して、足した結果が五つのリンゴになることを子供に見せて、感覚的に理解させる。つまりは視覚や触覚といった直接的な感覚を通じて、2+3=5という抽象的な算式――法則――を正しいと教え込むんだ。

 そしてこうやって抽象的な数や法則を覚えさせることによって(思考する能力を獲得することによって)、人は直接的な知覚を通じては認識できないものについて理解できるようになる。10000+20000なんて、実際に数を数えるのでは時間が掛かりすぎる計算だって、計算の原理さえ知っていれば考える間もなく解けてしまう。六十兆なんていう数字にしたところで、僕らは現実にはそんなとんでもない量の物を目にすることはないけれど(いや、見たとしてもどれほどの数か見当がつかないだろうけれど)、それでも物凄く大きな数だということはなんとなくわかる。こうしたことは皆、人間に理性や思考力が備わっているからなんだ。「精神」とか「神」なんて目にも見えない、触れられないものを認識(想像)できるのも理性のお陰だ。

 そんなわけで、知覚という限られた能力だけでなく思考によってたくさんのことを人間は認識することができるというわけだけど、一方で人間の認識能力には限度があるんじゃないかということも古くから言われてきた。さっき人間は「神」のような抽象的な存在についても認識することができると言ったけれど、それは人間が「神」について完全な認識に達することができるということじゃない。何故なら「神」という存在は――もし神なんてものが本当に実在するなら、の話だけど――どう考えても人間よりもあらゆる意味で優れていて、はるかに偉大な存在であるからだ。神は人間のみならずこの世界の全てを創造した創造主であり、完全な存在であるから、不完全な被造物に過ぎない人間が理解できる筈はない。人間が蟻という昆虫を理解できてもその反対はありえないように、神より下等な人間が自分よりも偉大な存在を完全に理解することはできないんだ。

 人間の認識はそのように不完全なものだと見なされたんだけど、時代が進むにつれて認識への懐疑は更に深まってくる。というのも科学の発展に伴い得られた新知識がそれまでの世界観――キリスト教的世界観――と合致しないとわかったからだ。それまで絶対的な真理と考えられてきた次々と覆されてしまった結果、理性や真理への信頼が揺らいだ。

 こうした懐疑論の隆盛の最中、近代哲学の祖と言われるデカルトが現れる。デカルトは懐疑主義を徹底的に推し進め、既存の知識や学問の蓄積は勿論、自身の体験や知覚、信念から記憶まで全て疑った。例えば何かを見たり触れたりしたとしても、それは幻覚かもしれないし、夢の中でも同じような体験をすることはできる。だから視覚や触覚は信用できず、何かが存在するという根拠にはならないと彼は考えたんだ。

 そうして人間の認識を全て疑い、周囲にある全ての「存在」を疑った彼が得た結論が、それでも「思考する自分」が存在することだけは疑い得ないという確信――つまり有名な『我思う、故に我あり』――だったんだ」

 そこでマイトレーヤが訊ねて言った。

 「なるほど、「考える私」だけは、か。それでそのデカルトという者は、自分の周囲にある人物や物体についてはどのような結論を出したのだろう」

 「それは……最終的に、彼は「神」を持ち出してくるんだ。人間の認識は不完全なものだから信用できない。だからこの世界の存在は疑うことができる。でも、もしもこの世界が存在していないとしたら、人間は不完全な認識能力を与えられたことによって神に欺かれているということになる。だけど、完全な存在者である神が人間を騙すはずがない――だから世界は存在する筈だ、と彼は考えたんだ」

 「馬鹿々々しい!」と叫んだのは博士だった。「全てを疑うなどと言っておきながら、結局は神を持ち出すというのか」

 「たしかにその批判はもっともで、実際その辺りの理論の進め方は散々批判されている。もっともデカルトを擁護させてもらうと、彼は教会に無神論者だと睨まれていたから、そのカムフラージュとしてとってつけたように神を持ち出したのだとも言われている。

 それに、たとえ今から見れば残念な点があるとはいえ、デカルトが哲学史上に成した功績の大きかったことは確かだよ。彼のお陰で近代哲学が始まったのだと言われているし、それまで形而上学としての存在論が主流だった哲学が認識論中心にシフトしたんだ。例えばカントは、人間はこの世の現象については理解することができるが『物自体』については知ることができないと言った」

 「『物自体』とは?」

 「物自体というのはカント哲学の用語なんだ。さっき存在論について話した時、「現象」と「本質」について話したよね。「現象」というのはいわば仮の存在で、「本質」の方が真の存在なんだと。物自体というのは、乱暴に言ってみれば後者の本質の方なんだ。

 そして現実世界の事物は、この「物自体」を通じてこの世に現れる「現象」に過ぎない。人間はこの「現象」については認識できるけど、その奥にある本質である「物自体」については完全に知ることはできないんだ」

 「ふん……まあいい。それでお前の学ぶ現象学というのは?」

 

17  現象学

 

 「『現象学』というのは二十世紀の初めにオーストリアの哲学者エドムント・フッサールが創始した認識論の一分野なんだ。彼は哲学を、誰にとっても正しいと確実に認めることのできる厳密な学問として構築し直そうと構想し、その基礎としてこの現象学という方法論を編み出したんだ。というのも、彼は元々は数学者で、そんな彼の目から見ると哲学と言うのは一つの学問としては、あまりに統一を欠いているように見えたからなんだ。実際、哲学史に残るような大哲学者の理論を比較するとその結論は見事にバラバラなんだから、数学者であるフッサールがそう思っても無理はなかったと思う。

 そこで、彼の生み出した現象学的方法というのはこうだった。僕たち人間の意識には、様々な偏見や先入見、雑多な価値観や根拠の不確かな曖昧な信念が入り込んでしまっている。それら全てを一旦リセットしてしまい、確実に正しいと認められるものだけを組み上げていかなくてはならないとフッサールは考えた――ちょうど、あらゆる存在を疑ったデカルトのように。そこで彼は、自分を含めた全ての事物の「実在すること」を信じないことにした。デカルトの時も言ったけど、例えば目の前にコップがあったとしても、それが本当に存在するかどうかは結局わからないからね。フッサールは自分の周りの物の実在を無条件に信じることを自然的な視方といい、学問的な態度ではないと批判した。自然的視方には「それが実在する」ということが無条件に前提されているからだ。

 で、フッサールがどうしたかというと、彼は自分も含めたあらゆる客観的な対象がはた

して本当に存在するのかどうかという問題については、判断を保留することにしたんだ。フッサールはそうして対象の実在性を考慮に入れないことを「括弧に入れる」とか「判断中止(エポケー)」といった言葉で表現している。そうしてあらゆる対象を「括弧に入れて」しまうと、残るのは自分自身の意識――彼は「純粋意識」と呼んでいる――だけになる。こうした手続きをフッサールは『現象学的還元』と呼んだんだ」

 「現象学的還元ね……。しかし、括弧に入れるなどと言われてもよくわからんな」

 「例えば、ここにコップがあるよね。僕たちは普通このコップを見て、「ここにコップが存在する」と考える。だけどそれは――昼間ミロク様がやって見せたように――単なる幻覚かもしれないし、或いは夢を見ているだけかもしれない。時代が進めば立体映像だって可能になるだろう。とにかく、「コップがここにあること」は確実ではない。

 だけど、そこで現象学では少し違う考え方をする。確かに「コップがここに存在する」ことは確実ではない。コップが見えるからと言って、それは幻覚や夢や立体映像だという可能性を捨てきれないから。だけど『僕がコップの映像を見ているということ』、つまり『コップの映像』があるということ、これは疑えないじゃないか?或いは別の言い方をすれば、『コップの映像』が『僕の意識』に『現れている』ということは確実に言えるんだ。現に見えているコップが本当は存在しなかったとしても、コップの映像が――少なくとも僕にとっては――あることは、疑い得ないんだ。つまりフッサールは対象の実在についての判断を保留することで、主観的な意識の領域内の出来事の確実性を保証したんだ」

 「ふん、成程な。還元というのは理解した。……しかし、そのフッサールというのはどうしてわざわざそんな面倒なことをしたんだ?やっていることはデカルトと大して変わらんように思うが」

 「たしかにあらゆる対象の実在することを疑ったという点ではデカルトに似ている。でもデカルトは「考える私」の存在を確信したあと、その他の対象――客観的な世界の実在性を証明するために、結局は「人間を欺かない善良な神」を持ち出さなくてはならなかった。

 フッサールはもちろんそれを知っていたんだろうし、それによって「自分以外の他者の存在」を論理に拠って証明するのは一筋縄ではいかないと考えたんだろう。だからこそ「判断中止」という手続きが必要だったんだ。さっきも言った通り、フッサールが目指したのは誰もが確実に認めることのできる「厳密な学としての哲学」なんだから、実在するかどうかもわからないものを学術的な考察の対象にすることはできなかった。

 そこで「還元」の手続きが役に立つ。自然的視方による(実在するものと措定された)コップは確実なものではないけど、括弧に入れた「コップ」なら考察の対象にすることができる。というのは、そうした手続きを経たコップは実在する対象としてのコップそのものではなく『コップの映像』であり、意識に与えられた『コップの現れ』であり、つまり『現象』なんだから。現象学はこうして不確実な外界の領域を遮断して、考察の対象を内在的な主観の領域にすることで、哲学の厳密性を守ろうとしたんだ」

 「……成程。確かにここまで聞く限りでは正しい方法に思えるな」

 そう言ったのはマイトレーヤだった。ナッシングはこれを聞くと顔を輝かせた。そんな彼に頷いてみせると、マイトレーヤは感想を言った。

 「そして君が先程言ったように、たしかに私と君……いや現象学では、「現象」という言葉を違う意味で用いているようだ。現象学の言う「現象」とはつまり、「意識に現れる対象」のことなのだな。それは主観的な意識にとっての対象ではあっても、あくまで意識内に現れた対象に過ぎない。それは自分の外部に存在する客観的対象ではなく、自分の意識が構成した意識内容に過ぎないというわけだ」

 「その通りです。それに対して貴方の仰る「現象」は意識の外部にある対象のことのようです。貴方の仰っていたのはどれも存在論的な意味での現象、つまり「本質」と「現象」の対比における現象です。といっても貴方の仰ったのは僕には耳慣れない議論で――おそらく仏教哲学を含めた東洋哲学から来ているのでしょうが――まだ整理しきれていないものですから。貴方は実体とか本質と対比される現象という意味だけでなく単なる出来事としての現象とか科学用語としての自然現象など、実に多義的に現象という言葉を用いておられました。これは言葉をまず厳密に定義しようとする哲学の姿勢とは正反対なように思われます。……どうして貴方はあんなにも多様なやり方で、果てには原子や素粒子まで持ち出して語られたのでしょうか」

 「ナッシングよ。それは私が出会った人々があまりに素朴に「自分は存在する」「世界は存在する」と信じきっているように見えたからだ。彼等は「死」を忘れている。いや、少なくとも忘れたがっているし、忘れたフリをしている。しかしそれでは私が知りたい、人間の本当の姿を見ることができない。そこで私は様々な観点から、彼らが所詮は一時的な現象に過ぎないということを示し、その素朴な幻想を打ち砕かなくてはならなかったのだ。

 君の研究する現象学とは違って、私は主観的意識の外部にある客観的対象を捨象することはしなかった。しかしだからと言って私は、自分の外部の客観的対象が実在すると素朴に信じていたわけではない。むしろ、そうした客観的世界が実在すると仮定したとしても、それでも尚確固たる存在の名に値するものなど何もないのだ、ということを示したかったからなのだ」

 「……成程」

 感心した声を出したのは博士の方のアッシュフィールドであった。

 「確かに聞いていると、マイトレーヤ君とナッシュの言う現象学とでは異なることを意味しているようだ。……ただ、ではどちらの意見に私が感心したか、と言われれば、断然マイトレーヤ君の方だよ。彼の主張とて私には到底頷けないものだが、それでもある程度は説得力があるからだ。ナッシュよ、残念ながら現象学というのは頂けないな」

 「な……。何でさ?」

 「何故?何故と聞くのか。ではこちらから聞くが。お前は現象学においては客観的な対象物が実在するかどうかの判断を保留すると言った。それをお前は括弧に入れるとか「判断中止」などと言った」

 「……そうだよ」

 「それでは聞くが、現象学ではその括弧に入れた対象を、いつ括弧から出すのだ?中止した判断を、いつ再開するのだ。……もっと言えば、結局のところ現象学というのは、意識の外の客観的対象の実在を、最終的に確信することができるのか?」

 「そ、それは……しないと思う……けど」

 「では駄目だな。そんな学問に意味などない。お前はデカルトを批判したが、フッサールとやらも結局は同じではないか。……いや、デカルトはうさんくさい神などを持ち出したとはいえ、まがりなりにも世界は実在すると結論を出した。しかし、フッサールはそのような不十分な解答すら用意できなかったわけだから、それ以下だ」

 「いや、それは違うよ。フッサールはそもそも、客観的対象の実在を論証することは意図していなかったんだ。彼の関心はあくまで認識論の範疇に留まって――」

 「そんなことはわかっている。わかったうえで、そんなものは役に立たないと言っておるのだ。私に言わせればデカルトもフッサールも、頭を悩ます必要のない問題についてくどくど考えていただけの、現実を無視した空想家に過ぎん。コップが見えても、手に触れられても、実在するとは限らない?懐疑?厳密な学?下らない!目に見える、手で触れられる、それだけで十分ではないか!

 対象が実在することに論理的な確実性がないということは理解できる。しかし目に見えて触れられる対象の実在性を疑ってかかる方が、現実的にはよほど不合理だろうに。そのような当たり前のことに疑問を抱く位なら、事物の実在を措定した上でそれを「現象」だと指摘するマイトレーヤ君の方が、まだ説得力があると言っているのだ。

 私は確信した。哲学などというものは全く実生活の役には立たんというが、それはやはり正しかったのだ。哲学などというものは現実から遊離した、極めて非生産的な空理空論に過ぎない。学ぶ必要などまるでない、やめてしまえ」

 若者は何も言い返すことができず、唇を噛んで耐えていた。そこでマイトレーヤは言った。

 「博士よ、君の言うとおりだ。確かに哲学などと言うものは実生活には役に立たない、まるで非生産的なものだ」

 ナッシングはその言葉に打撃を受けたような表情を浮かべ、顔を伏せてしまった。マイトレーヤは構わず続けた。

 「しかし博士よ、あまり軽率なことを言うのはよすがいい。哲学と言うのはたしかに世の中の大半の人間にとっては用のないものだ。即ち君のような即物的な人間にとっては、哲学者はどうでもいい事柄に頭を悩ませている愚か者に見えるであろう。

 しかし博士よ。君にとってはどうでもいい問題でも、彼らにとっては人生を費やすに値するものであるのだ。というより、彼等はその問題に悩んでいるのであり、それを解決せずには一歩も進めないほどなのだ。更に言えば、その悩みというのは頭で悩んでいるのではなく、心で悩んでいるのだ。空理空論などではない、彼らにとってそれは苦悩であり、人生に立ちふさがる障害に他ならないのだ。

 例えばここに、一人の捨て子がいるとする。彼は孤児院に預けられ、そこで育てられた。彼は幸い頭がよく、人柄も真面目で、首尾よく自分の適性に合った職を見つけることができたとする。生まれは恵まれていたとはいえないが、今では彼に物質的な不足はない。将来に不安はなく、恋人もいる。彼にとって自分を捨てた両親など、生きるためにはもはや必要はない。

 博士よ。それでもなお、彼が自分の親を探したいと望むのは、不自然なことであろうか?自分のルーツを知りたいと願い、自分が捨てられた理由を知りたいと望むのは愚かなことであろうか?そうした悩みが高じ、彼の現実の生活を危うくしてまで調べるのは、理解できないことだろうか?

 もう一つ例を挙げよう。ある地に大災害が生じ、それに巻き込まれて大勢の人間が死んだとする。それまでは穏やかな人生を送り、家族にも恵まれ、幸福だった男が、その突然の災害により愛する家族を全て失い、自分一人が生き残ったとする。

 さて博士よ。家族が死んでしまったと言うのに、彼だけが生き残ったことに、何か意味があるだろうか?」

 「ないな。それは単なる偶然に過ぎない」

 「では博士よ、この生き残った彼が、「自分だけが生き残った」ことに疑問を感じ、頭を悩ませて現実生活を疎かにしていたとしたら、君はどう思う?」

 「残酷なことを言うようだが、それは無益な行いだ。彼はそんなことに頭を悩ませるより、自分の生活を立て直すことに全力を費やすべきだ。なぜならそんなことに意味を求めると言うのは、答えのない問いに頭を悩ませることでしかないからだ。……それとも、何者かの意思……つまり「神」がそうしたとでも言うのかね?」

 「いや。残念ながら、君の言う通りだ。それは確かに単なる偶然に過ぎず、別の言い方をするなら運が良かったというだけのことだ。そこに意味など存在せず、何者かの意図などというものもない。

 しかしだからといって、彼が自分の生き残った意味について考えることまでが、意味のないことだと言えるだろうか?誰がそれを止める権利があるというのだろうか?未曾有の大災害に巻き込まれ、悲しみに暮れ、その出来事に何らかの自分なりの意味を見い出すことは彼にとって必要な過程であり、その後の人生を送るために、なくてはならない作業なのだ。

 勿論、いくら考えたところで、合理的な答えなどは出ないであろう。彼がこれからも生きていくには、苦悩するのではなく外的な行動を起こさなくてはならない。だが博士よ、それはできないのだ。しないのではなくできないのだ。この苦悩に自分なりの決着をつけない限り、彼は前に進むことができない。博士よ。苦悩する哲学者もこれと同じなのだ。

 とはいえむろん、哲学者の全てがこのように深刻な懐疑を抱えているとまでは、私も言わない。単なる知的好奇心にのみ動かされている者も多いだろう。……しかしその中には、そうした問題について考えずにはいられない、解決せずには済ませない者もたしかにいる筈なのだ。

 そして私の見るところ、この若者――ナッシング・アッシュフィールドもまた、そのような悩める魂の一つである。どうも私には、そのように思われてならないのだ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

19  『生命』という現象について

 

 若者は顔を上げ、驚いた顔でマイトレーヤを見つめた。対して博士は嘲りの色をその目に浮かべた。

 「現実生活を差し置いても考えずにはいられない問いか。悪いが、私にはまったく理解し難いな。そのような問いに悩まされるなど」

 「しかし、君にもあるだろう。いや、ある筈だ。自身の生涯を賭してでも、探究している謎が」

 「私かね?確かに私にも、追い求めている研究テーマはあるよ。だから、自分自身の生存を疎かにしてまで謎を追求する心情はわからないでもない。

 ただ私がわからないのは、哲学で扱うようなあやふやで不確実な問題を研究テーマに選ぶということだ。存在論だの認識論だのと言ったところで、結局そんなものは彼らの頭の中に立てられた問いに過ぎない、その点が科学とは全く異なるのだ。科学のように、実在する対象の観察によってその性質を明らかにするでもなく、実験に拠って自己の仮説を立証できるわけでもない。哲学の問いは抽象的で、云わば頭の中だけに存在するから、その解決も抽象的な、つまりは理屈だけの代物だ。そして理屈だけということは、その解決の方法というのも結局は、それまでとちょっと変わった物の見方を発見するということに過ぎないのだ。実際デカルトのコギトも、フッサールの現象学というのも、要はそれまでの物の見方を捻っているだけではないか?

 私の研究はそうではない。私が研究対象に選んだのは、観察可能なものだ。そして勿論、存分に実験することのできる対象だ。それはこの地球と言う惑星に満ちている……実に多種多様な形で溢れている。その本質は同一でありながら、変幻自在な形に進化発展し、どこにでもありふれている。それでいてその実態は、正体は未だに神秘のヴェールに覆われている。そう……私の研究テーマは、『生命』なのだよ、マイトレーヤ君」

 「生命?個々の生物ではなく、生命そのものが研究対象だというのか?」

 「ああ、その通りだ。私は、生命の神秘を解明したいと望んでいるものだ。……もっとも実際にやっていることは、個々の生物の研究だが、それを通じて「生命」という現象の根源に迫りたいと望んでいるのだ。

 私の記憶が確かならば、マイトレーヤ君、君はこんなことを言っていたな。君は神についてはもちろん、死後の世界や霊魂の問題といった形而上の事柄については語らないと。それを聞いて私は、君とは話が合いそうだと思ったのだよ。そもそも実在するのかどうかすらわからないものについて議論するなんて全く、ナンセンスだからね。

 そうした前近代的で不確実な幻想を排除することで、ようやく世界は理性的で、平明な世界になる。それは無感情で冷たい理性の世界で、そのような世界でこそ私たちのような知性的な人間が穏やかに暮らすことができるのだ。そこでは普遍的な因果律が全てを支配し、何もかもが論理的に解決され、感情や情動、そして無知からくる偏見や先入見は注意深く排される。

 しかしそのように、あらゆる不確実なものを注意深く除き去った平明な世界においても尚、不可思議なものとして残り続けるものがある。それは『心』というもの、そして『生命』だ」

 「ほう」

 「神や霊魂と言ったあらゆる不確実なものを除いても、心と生命だけは除外できない。どんなに冷徹な合理主義の科学者でさえ、それを否定はできない。神も霊魂もUFOも否定することはできるというのに、その二つだけは否定できないのだ……何故なら、それらが存在することを誰もがその身を以って知っているからだ(もちろん私は、「存在」という言葉を日常的な意味で使っているのだが)。しかしながらその二つ――『心』と『生命』は、現代科学でも解明しきれぬ不可思議なものだ。だとすれば、それに魅せられるのは当然というものではないかね?

 しかし、『心』は私の研究すべき対象とはなり得ない。というのも心というのは研究の対象としてはあまりに統一性に欠けるし、その分析は純粋に論理的なものとは言えないし、場合に拠っては文学的でさえある。心は顕微鏡で覗くこともできないし、メスで切り刻むこともできない。このようにあやふやなものは、私の研究すべきものではない。

 これに対して『生命』は、私の研究すべき対象として申し分ない。生命そのものに触れることはできないが、生物の身体を介して、私のこの手で触れることができる。顕微鏡で覗くこともできるし、メスで切り刻むこともできる。仮説を立て、実験し、検証可能なデータを取ることができる。

 だから、マイトレーヤ君。私にとっては生命こそが、研究に値するテーマなのだ。それは不可思議で神秘的な謎でありながら、神や霊魂とは異なり、この世界に確かに存在する謎なのだ。生涯を費やして研究する価値のあるものだ。

 もっとも君ならば、生命もまた現象に過ぎないと言うだろうがね」

 「その通りだ、アッシュフィールド博士よ。私は「生命」を存在とは認めない。生命とは、永遠不変のものではないからだ」

 「しかし、マイトレーヤ君。個々の生命、単独の個体の有する生命は確かに短い。哺乳類の中では比較的長命な人間だって精々が百年とちょっとだし、地球上でもっとも長く生きられる植物にしたところで、数千年というところだろう(もっともそれは十分に長い時間だと思うのだが、君からしたらやはり短いと言うのだろう)。

 しかし個々の生物の有する生命はそのように短くとも、生命全体でみてはどうだろう?例えば、個体としての私の生命は五十年足らずだが、しかし生命そのものは実はそうではない。というのは今のこの私が有している生命は、実は四十億年以上も前から受け継がれてきたものだからだ。今現在、この地球上に多種多様な形であふれ返る生物は全て、四十億年前に誕生した一個の生物の直系の子孫であるからだ。

 これは実際、疑いのない事実だ。というのも生命というのは川の流れのようなもので、一度途切れてしまえば二度と甦ることはできず、そこで断絶してしまうものだからだ。よって今、この時代に私が生きているという事実、これは即ちこの地球に誕生した最初の生物に宿った生命が、絶えることなく私にまで受け継がれてきたということに他ならない。だから私という人間は五十年足らずの歴史しか持っていないが、私の有する生命は四十億年という途方もない時間を経験してきているのだ。そしてその経験は遺伝子という形で蓄積され、『今、ここにいる私』として発現し、このように顕現している。

 どうかね、マイトレーヤ君?君は地質学的時間、そして天文学的時間と比較して人間などとるに足らない一瞬の現象だと言ったが、四十億年といえばそれらと比べても遜色はない筈だ。我々はいわば生命、そして遺伝子の運び手として悠久の時の流れの中にその位置を占めている。それでも人間は、とるに足らないものだろうか?」

 「君の主張の一部を認めよう、博士よ。生命といっても永遠ではないからやはり存在とは認められないが、この惑星の時間の大きな部分を占める生命は、塵のように儚いとは言えない(もっとも、地球そのものもやはり現象に過ぎないのだが)。……但しそれは生命全体のことであって、個々の生物については認めることはできない。君がなんと言おうと、個々の生物が取るに足らない一瞬の現象であることは動かない」

 「いや。……いや、そうとは限らないよ、マイトレーヤ君……。人間は確かに、ほんのちょっとの間しか生きられない生物だ。どれほどの才能を授かって産まれてきたとしても、それを活かしきることもなく、どれほど栄華を極めたとしても、それを味わい尽くすこともなく、なす術もなく塵に還るのが人間だ。……しかし、しかしだよ。もしもそんな人間が、永遠に生きられる方法を見つけ出したとしたら?……どうだい、それでも人間は、とるに足らない儚い現象だろうか?」

 「博士よ、そのようなことはありえない。人が人である限りは」

 「それはどうだろう?君は人間を過小評価しているよ。君は人間について知りたいと言っていたから、私が人間の真実について一つだけ教えてあげよう。人間というものは、ないものねだりをする生き物なのだよ(もっとも、君はもう知っているだろうがね)。

 君は昼間、こう言っていた。人間は空を飛ぶことができない。人間は水中で呼吸をすることができない。人間は百年とちょっとしか生きられない……と。それは確かに正しい。人間は不完全で、不十分な生き物だ。

 但し人間は、他の生き物とは違って、高度な思考をすることができる。思考を働かせることによって、自分の欠点を補うことができるのだ。人間は様々な手段を生み出し道具を造り出すことで、自らの弱点を克服してきた。今では人間は空を飛べる。深い海の底に潜ることもできる。その気になれば大地を焼き尽くすこともできる……。

 君は人間を脆弱だと言う。いいや、そうではない。私に言わせれば、人というのは最高の生物だよ!古代文明においてさえ、人間は自然を支配していた。人間は森を消費し、数多の生物を絶滅させた。それは人間という種が、生物として強靭だからだ!

 我々は今や生命の神秘のカラクリ――即ち遺伝の秘密までも解き明かすところまできている。生物のDNAを解析し、その遺伝子を弄ることで、自然の造形を思いのままに変える段階まで来ているのだよ!」

 「博士よ。それでも人間である限り、永遠に生きることはできない」

 「はたしてそうかな?……決してそんなことはないさ。人間だってやりようによっては、今ある技術を有効に使えば、永遠を手に入れることができる。この私が、「私」のままで、永遠を手にすることができる」

 「博士よ、それは不可能だ」

 「不可能……?いいや……いや……できるさ。私は君に、その証を見せることもできる。今、この場で、それを証明することができるよ。なにしろ……」

 博士は言葉を切り、その左手を揚げて、彼の息子である筈のナッシング・アッシュフィールドを示した。そしてその言葉を吐き出した。

 「こいつは、私のクローンなのだからね……」

 ハイド・O・アッシュフィールド博士はそう言った。