第三部  幽界にて

1  注;戯曲形式にてお送りします

 

 立ち込める靄を掻き分け、ナッシングが姿を現す。

 ナッシング・アッシュフィールド(以下ナ)  (辺りを見回して)何だここは?真っ暗じゃないか。何だって僕はこんな所にいるんだ?(少し考え込む素振り。やがて顔を上げて)ああ、そうか。僕は死んだのだな。

 ナッシングがそう呟いた時、左手にマイトレーヤ登場。飄々とした様子。

 マイトレーヤ(以下マ)  やあ、ナッシュ。達者なようでなによりだ。

 ナ  マイトレーヤじゃないか!なんで君までここに?……あ、そうか。

 マ  何を納得したのだね?

 ナ  いや、大したことじゃないよ。僕はてっきり、ここがあの世に違いないと思ってしまったのさ。それも無理はないだろう?なんたって僕は、あの恐ろしいアスラに剣で刺されたんだから!……でもそれはどうやら僕の早合点だったらしいね。

 マ  おや、どうしてそう思うのだね?(からかうように)あの恐ろしいアスラに君は剣で刺されたのだから、死んでいると考えるのが道理だろうに。

 ナ  からかわないでくれよ。……だってもしもここがあの世なら、君が僕の前に現れる筈がないじゃないか。ホトケ、いや弥勒菩薩である君が死ぬはずなんてないんだから。きっと君は首尾よくアスラから逃れた後、何か不思議な力を発揮して僕を甦らせてくれたんだろう?

 マ  成程、そういう理屈か。しかしナッシュよ、それなら私はどうやってアスラから逃れることができたのだろう。

 ナ  どうって……。それこそ、何か不思議な力を使ったんだろう?

 マ  ふむ。しかしナッシュよ、あの状況で無事に逃れる程の能力が私に備わっていたとしたら、そもそも君に庇ってもらうような事態には陥ってなかったと思うがね。先にも言ったが、こと戦闘については私は彼に到底及ばないのだよ。

 マ  え?え?(狼狽した様子)……ちょっと待ってくれよ、どういうことさ?それってつまり……僕は、やっぱり死んだってこと?

 ナ  まあ、そういうことになるかな。

 ナ  いや、ちょっと待ってよ。つまりここはやっぱりあの世だってこと?じゃあマイトレーヤ、何で君までここにいるのさ?(愕然として)まさか……。

 マ  君が想像している通りさ。もっとも正確を期すのならここはあの世ではなく、幽界と言うべきなのだがね。つまりナッシュよ、私がここにいるということは、私も死んだということさ。

 ナ  死んだ?死んだって……(震える声)。つまり君もあの後、アスラに殺されたってこと?

 マ  そういうことになるな。

 しばし言葉を失うナッシング。マイトレーヤは立ち尽くす友人の顔を愉快そうに眺めている。しばらく間。

 やおら興奮した口調でナッシングが叫ぶ。

 ナ  どうしてそんなことになったのさ!逃げる時間はあった筈だろ?

 マ  たしかに、逃げるだけなら可能だったろうな。

 ナ  だったら何で逃げなかったのさ!

 マ  君だって覚えているだろう?君と問答していたからさ。

 ナッシング、再び絶句。頭を抱えて座り込む。先ほどより長い間。

 やがて力なく立ち上がり、マイトレーヤを見る。

 ナ  (糾弾しつつもどこか情けない口調)……だから、呑気に喋っている場合じゃないって言ったのに!

 マ  (平然と)君はそうは言わなかったぞ。早く逃げろとは言ったがな。

 ナ  同じことじゃないか!ああもう……それじゃ僕、まるっきり無駄死にじゃないか。なんてこった。せっかく、僕にしては上出来な最期だと思ったのに、これじゃ恰好つかないよ。…………あれ?でもそうなると、人類の未来はどうなるのさ?

 マ  案ずることはない。死んだとは言ったが、私は本当に死んだわけではないのだから。

 ナ  どういうことさ。

 マ  ナッシュよ、考えてもみろ。私は元々、物質としての肉体を持ってはいなかったのだぞ。この二日間使っていた身体は、そんな私が地上で活動する為に借用した一時的な器に過ぎない。アスラに斬られたことで私はあの木像からは追い出されてしまったわけだが、私自身が傷つけられたというわけではないのさ。

 ナ  なんだ。……じゃあ僕のしたことは、まるっきり無意味だったというわけだね(自虐的な笑い)。

 マ  (相手の笑いを受けて、意地悪げに微笑みつつ)後悔しているのかね?

 ナ  (強がって)そんなわけないさ!僕は別に、そこまであっちの世界に執着があったわけじゃあないからね!……それにあの時も言ったと思うけど、僕はただ自分がやりたいと思ったことをやったんだ。だから後悔はないよ。もしまたあの時と同じ状況になったとしたら、僕はまた同じことをするだろうね。

 マ  そうか。……それを聞いて私は、心から嬉しく思う。ありがとう、ナッシュ。

 マイトレーヤが頭を下げる。慌てるナッシュ。

 ナ  よしてくれよ!そんな改まって、お礼なんてさ……。(照れるのを誤魔化すように辺りを見回し)それにしても何もないところだね。天国だか地獄だか知らないけど、あの世っていうのはもっと物々しい場所だと思っていたよ。

 マ  ここはあの世ではないよ。

 ナ  え!

 マ  先にも言ったが、ここは幽界だ。西洋人である君にもわかりやすくいうなら、この世とあの世の中間の世界なのだ。だからナッシュ、君はまだ完全に死んだわけではない。

 ナ  じゃあ……。

 マ  そう。君はたしかに剣で刺されて心停止に陥り、その魂が――つまりここにいる君のことだが――肉体から離れてしまった。しかしそれは仮死状態というだけのことで、まだ本当に死んだわけではないのだ。ここにいる君、つまり今は魂だけとなっている君が肉体に還りさえすれば、元通り現世に甦ることができるだろう。

 ナ  そうか。……そうなんだ。(しばし沈黙)……なんか、複雑な気分だな。

 マ  (意地の悪い笑い)おや、生き返りたくはないと?それならこのまま一生を終えるかね?それでも構わないが。

 ナ  ……いや、やめておくよ。少し前までならうなづいていたかもしれないけど。ほんの少しだけ未練があるから。……それに気付けたから、もう少しだけ試してみてもいいさ。

 マ  そうか。

 ナ  そういうわけなんだけど、こんなに悠長にしてていいのかな?肉体から離れすぎていたせいで本当に死んじゃったとかいうことはないよね?

 マ  心配はいらない。君の肉体の傷は既に癒しておいたし、そもそも現世とこの幽界では時間の進み方が違うのだ。この陰気臭い場所で厭になるほど過ごした後でも君は、無事に肉体に還ることができるだろうさ。……だからナッシュよ、もう少しだけ私に付き合ってもらえないだろうか?地上を去る前に、君には話しておくべきことがある。

 ナ  え?地上を去るって……どうしてさ。君も死んだわけじゃないんだろう?

 マ  確かに新しい器さえ見つければ私はまた、地上に降りることができる。しかしナッシュよ、もうその必要はないのだ。

 ナ  必要がない?

 マ  そうだ。必要がない。なぜなら私は目的を果たした。地上へ降りるそもそもの目的であった疑問を、私は解くことができたのだから。

 ナ  何だって!それって、つまり……

 マ  そうだ、ナッシュよ。私が地上へと降り立ち、君や他の人間達と対話して捜し求めていた答え。それを私は見つけた。君との対話、君の行動、そしてあの時の君の言葉が、私を導いたのだ。君のお陰なのだ。

 ナ  僕の?

 マ  ああ。君は先ほど、己が身を犠牲にしてまで私を救ったことは無意味だったのかと自嘲していたな。だが、そんなことはない。そうだ、友よ。我が恩人よ。けっしてそんなことはなかったのだ。君のその行動が、言葉が、そして思いがそのまま、私の求める答えだったのだ。ナッシュよ。あの時の君自身が、私の探し求めた答えだったのだ。

 だから、私は君に、私の出した解答について伝えておきたい。……いや、君だけではない。この解答に導いたもう一人の人物である、「彼」にも聞いてもらいたいのだ。

 ナ  彼?

 マイトレーヤ答えず、沈黙を守る。静寂。

 やがて、奇妙な声がどこからともなく聞こえてくる。会話ではない、ぶつぶつと呟くような声。ナッシングが訝しげに辺りの靄を払い、叫び声を上げて飛び退く。

 アスラ登場。地面に座り込み虚ろな表情。二本の腕で膝を抱え、別の二本の腕で頭を抱え、残る一組の腕は力なく地面に垂らしている。呟く声は小さく聞き取れない。

 ナッシング、アスラの変貌に驚く。

 ナ  (囁き声)……アスラは一体どうしたんだろう?いやそもそもどうしてよりにもよって、彼がここにいるんだろう?僕らを殺した彼が……。

 マ  何を言っている、ナッシュ。決まっているだろう?ここにいる以上、彼も死んだということだ。もっとも私と同じで、仮の身体を失ったということに過ぎないがね。

 ナ  え!……彼が死んだ?だって、そんな……。まさか君が?

 マ  私の仕業のはずがないだろう。先にも言っただろう?私もまた彼に殺されたのだと。彼に殺された私が、どうやって彼を殺せるというのだね?

 ナ  それはそうだけど。……じゃあ、一体誰がアスラを殺したって言うんだい。

 マ  今の現世に彼を殺せる者などいない。であれば答えは決まっているようなものではないか?ナッシュよ、彼は自殺したのだ。

 ナ  自殺!……自殺だって!君はあのアスラが、自ら命を絶ったっていうのか?一体なぜ!

 マ  まずは落ち着け。そして思い出せ。私はあの時言っただろう?彼の心に慈悲を植えつけることができれば、或いは助かるかもしれないと。ただその時点では慈悲の心というものが、私自身にもその正体がよく掴めていなかったがためにそれは不可能だった。しかし先にも言ったろう、私は答えを見つけた……つまり慈悲の心の本質を知った、と。

 ナ  (息を呑んで)じゃあ、君は……。

 マ  そうだ。私は理解して間もないその慈悲の心を、私の心力をもってしてアスラの心に植えつけることに成功したのだ。まあもっとも、少しばかり法悦を感じすぎたがために手を打つのが遅れてしまい、間一髪の差で彼に殺されてしまったのだがね(快活なる笑い)。それはとにかく、そうして慈悲の心に目覚めた彼は自分の罪に耐え切れず、自決したという次第なのさ。

 ナ  罪……。君を殺した罪?

 マ  その答えはイエスでもありノーでもある。アスラがはじめて知った罪とは、これまでに彼が殺した全ての生物に対する罪なのだ。だから私であり、君であり、この数日に彼が殺して回った下界の人々であり、またそれ以前に殺してしまったあらゆる生物がそこには含まれるのだ。彼がそれまで知らなかった罪の念、そのあまりの重みに耐え切れず、彼は衝動的に命を絶ったのだ。

 絶句するナッシング。その時アスラが初めて顔を上げマイトレーヤを見ると、瞳にわずかに鋭さが戻る。

 アスラ(以下阿)・何をした。

 マイトレーヤは黙して答えない。アスラ、フラフラと立ち上がると、力ない声で尚も詰問する。

 阿  ミロク。弥勒菩薩よ。何をした?オレの身体に一体何をしたのだ?

 マ  私達の話を聞いていなかったのか、アスラよ?私はお前の身体には何もしてはいない。私はただお前の心に、慈悲の感情を植えつけただけだ。

 阿  慈悲!……慈悲だと!

 アスラ、顔を青ざめ、落雷を受けたように硬直する。苦悩して呻く。

 阿  だからか。オレの中に今までなかった、未だ嘗て決してありはしなかった何かを感じるのは!慈悲!……おお、なんということをしてくれたのだ、ミロクよ。慈悲!慈悲だと!これが慈悲だというのか?痛い。苦しい。酷く重い!これが慈悲?こんなものが!

 慈悲とはこんなに重く苦しいものなのか。オレはいっそこの胸を抉って、今すぐそれを俺の体から抜きとってやりたい。教えろミロク、慈悲の心はどこにある?忌まわしい慈悲などを、オレの身体のどこに埋めたのだ!

 マ  おお、アスラよ。それを聞いてどうするというのだ?勇名誇らかなる武神よ。お前は慈悲の場所を聞いて、言葉どおりそれを抉り出そうとでも言うのか。

 阿  そうだ。早く言え!

 マ  であればアスラよ、お前は人間より弱いのだ。軍神だと?笑わせるな。お前は弱虫だ。教えてやるがアスラよ、人間は慈悲を持ちながら、それでもあのように生きているのだぞ。

 阿  人間が?あの塵芥のような人間が慈悲を持っているだと?奴等はこの苦しみを、こんな苦しみに耐えて生きているというのか。

 マ  そうだ。……と言いたいところだが、そうともいえない。アスラよ。慈悲の心というのはそれ自体では重くも苦しくもないのだ。お前の感じる痛み、それは慈悲の心によって生じた、罪悪感なのだ。お前がこれまでに犯してきた数々の殺戮、慈悲の心がない故にこれまでは何とも感じなかったその悪事に対して、慈悲を具えたが故に罪の念が生じたのだ。だからお前ほどの罪の念に苦しむ者はそうはいまい。

 しかしアスラよ。大部分の人間が多かれ少なかれ慈悲の心を持っていることはたしかだ。そして人間達が、時にはそれ故に苦しみを感じながらも生きているのもまた事実なのだ。それでお前はどうするね?それでも尻尾を巻いて負けを認めるのか、神々の一員であるお前、かつてはあの帝釈天と覇を競ったアスラの王が!

 阿  ゥゥゥゥゥ

 マ  どうなのだ、アスラよ!

 阿  (耳に入っていないように)……罪。これが罪か?オレはこれまで何千、何万という人間を殺してきた。人間だけではない。神々も悪魔も、時には同族同士で殺しあうことになってもオレは容赦などしなかった。それでも苦にしたことなどない、まして罪を感じるなぞ!オレはむしろ悦びをさえ感じたのだ。闘いこそがオレの美酒であり快楽だった。

 それがどうだ。この体たらくはなんだ?…………慈悲だと。そんなものを勝手におしつけられてこのザマだ。このアスラが!オレは数え切れぬ闘いに身を置き幾多の傷を負ったが、どんな痛みにも顔を歪めたことはなく、どれほど深い傷にも顧みたこととてなかった。だがこの痛みはどうだ?苦悶に身を捩らせずにはいられない。このオレが、アスラの王が、ちっぽけな人間の子供のように泣き喚きそうになるのを必死に堪えている!

 オレの中で何かが荒れ狂っている。それは剣だ。幾千もの鋭い剣。その切っ先が内からオレの臓腑を切り裂く。いや違う、剣ではない。それは焔だ。闇のようにドス黒い焔。焼ける!焦げる!苦しい!ああ!…………(声にならない叫び)

 アスラ地面にくず折れる。マイトレーヤは冷然と、ナッシングは同情の目で見下ろす。

 ナ  マイトレーヤ、なんだか気の毒だよ。なんとかしてあげられないかな。

 マ  ほう。ではナッシュよ、君はアスラがかつて犯してきた罪の重みに、彼が無感覚なままであった方が良いというのかね。彼に殺された多くの被害者達の怨嗟の声を無視して?

 ナ  そういう訳じゃないけど……。

 マ  放っておくがいい。今の彼に同情するのは優しさではない、ただの甘さだ。

 厳しい声。アスラは憎々しげにマイトレーヤ、そしてナッシングを睨む。

 阿  そうだ、オレに同情などするな。何様のつもりだ、たかが人間の分際で?……もう忘れたというのか、俺が貴様を殺したということを?お前達がむしけらを潰すように、何の痛痒も感じずに息の根を止めたということを?

 ナ  …………

 マ  そうだな、彼の言うとおりだ。ナッシュよ、このアスラは君を殺した張本人だ。君は彼に恨みを抱いて然るべきだし、その苦しむ姿を眺めて存分に愉悦を覚えても責められる道理はない。それでも君は彼に同情するのかね?

 ナ  ……正直、僕にはよくわからない。彼が何千何万もの命を奪ったと聞かされても、あまりに現実とかけ離れていて実感が湧かないんだ。それより、こうして苦しんでいる姿を見ていると、どうにかしてあげたいと思ってしまう。罪の意識を感じているというなら尚更に。それは、間違ったことなのかな?

 阿  …………。

 マ  ふむ。しかし彼は、君を殺したのだぞ?

 ナ  完全に死んだ訳じゃないよ。

 マ  しかし君は断末魔の苦しみを味わった筈だ。それでも水に流せるというのか?

 ナ  別にいいよ。元々僕は、自分のことはわりとどうでもいい人間だからね。

 阿  …………。

 マ  聞いたか、アスラよ?お前が殺したこのナッシングは、お前を恨んでいないという。お前を赦し、お前の苦しむ姿を見て、なんとかしてやりたいと思っている。これが慈悲なのだ。

 阿  …………。

 マ  救われたのではないか、ほんの僅かでも。痛みに悶えるその苦しみが、僅かでも軽くなったとは思わないか?ありがたいとは思わないか。

 しばし間。沈黙の合間に、アスラの荒い呼吸の音のみが時折聞こえる。それが次第に落ち着きを取り戻すと、アスラが口を開く。

 阿  なんなのだ。

 マ  何?

 阿  慈悲とは何なのだ、弥勒菩薩よ。お前がオレに勝手に植えつけた慈悲とは、一体何なのだ。オレにこのような痛苦を与えるかと思えば、逆にこんなオレに同情を寄せさせる慈悲とは一体何だ。お前はオレに何をしたのだ?

 ナ  それは僕も聞きたいな、マイトレーヤ。慈悲というのはつまり、君が見つけたといっていた答えと関係があるんだろう?利己主義と利他主義を巡る議論は決着がついていなかった。、人は利他的になれるのかという問い、その答えを聞かせて欲しい。どうして人を助けるのか、どうして善いことをしないといけないのか。どうして悪を為してはいけないのか。どうして人を殺してはいけないのか?

 阿  そしてなぜ、他者を殺すとこんなにも胸が痛むのか。

 ナ  話して欲しい、マイトレーヤ。

 阿  お前にはその義務がある。弥勒菩薩よ。

 マ  もちろん、話すとも。いや、話させてほしい。なぜならナッシュよ、アスラよ、君たちが導いてくれたお陰で私は、この答えを得る事ができたのだから。君たちの内のどちらが欠けていても、私はこの答えには辿り着けなかったのだから。

 

2  前置き

 

 マ  では私の考えについて話すが、その前にまずは我々が共有する前提について確認しておきたい。というのは、アスラはまだそれに同意していないからだ。アスラよ、そこで聞くが、その前提とは「人間は全て利己主義者である」ということなのだ。君はこれを前提として我々と共有してくれるだろうか?

 阿  否も応もあるまい。お前に言われるまでもなく、そんなことは自明の事実だ。オレが何千年と見てきた人間という奴は、矮小なくせに滑稽なほどに傲慢で、どこまでも自分勝手な生物なのだからな。

 マ  ありがとう。さて前提を確認したところで、我々の議論が目指すべき地点をも確認しておこう。君に襲われる前に我々が議論していたのは、「人間は利己主義者である」という前提を踏まえた上で、「それでも人間は利他的になれるのか」ということであり、或いは「どのような倫理学が可能であるか」ということだった。つまり人間が他者に対して危害を加えることなく、その反対に他者の利益のために働くことはできるのか、ということだ。しかもそれには厳しい条件があり、その行為によって死後に天国にいけるだとか、自己満足や優越感に結びついてはならないということだ。アスラよ、これについてはどうだろう。

 阿  どうだも何も、そんなことは不可能に決まっている。なぜなら、それは端的に言って矛盾であるからだ。純粋なる利己主義者である人間が、他者の利益のために行動できる筈はない。なぜと言ってそのような人間は既に、どうしようもなく「利己主義者」の概念に反してしまっているからだ。

 マ  そうだろうか?君がそのように言うのはもっともだが、我々がそんな矛盾に挑むのは何も理由のないことではないのだ。と言うのは、現実の世界においてそのような人間が確かにいると思われるからだ。他者を救う為に自己の富を差し出し、時には命をも擲つ人間がある。君はこれをどう思う?

 阿  そんなものは不思議でもなんでもない。それは只の偽善者だ。何しろ人間の世界というやつは欲に塗れているくせに、上辺を取り繕って聖人面している方が得になるという倒錯した世界だからな。生物というのは本来利己的なものだが、それを取り繕うのは人間だけだ。生物としての本音と人間としての建前を上手く使い分け、自分だけはご立派に見せる、その方が結局は利益になるのだ。それだけのことだ。

 マ  そうかもしれない。しかしアスラよ、そうではない場合も確かにあるのだ。他者に施す善行が決して上辺や名声のためではなく、彼らの真情から発するのだと見える場合が確かにある。人間の、いや生物の本質である利己主義を、乗り越えてしまったかに見える人々が確かにいる。君はこれをどう思う?

 阿  それは狂人だ。対立する概念を同居させることができるのは、理性を欠いているからに他ならない。矛盾に耐えられないのは理性があるからで、理性さえなければ矛盾は気にならない。いやそもそも、矛盾に気付きすらしないだろう。実際、他人のために自分の命を犠牲にするなどというのは、オレにとっては狂気の沙汰だからな。

 マ  そうかもしれない。私もまた、そのように考えたことがある。人間が利他的に振舞うのは上辺だけのことで、偽善でしかないのではないか。その裏には画された利己的な動機があり、結局は自分の利益になるのではないか、と。

 或いは(狂気とまでは言わないが)その場の感情に流されるせいで理性的な判断ができず、そのために一貫した行動ができないのではないか、と。

 そうだとすれば、人間はどこまでも我が身のみが大事で、他者のことを省みない身勝手なだけの生物ということになる。であればそんな連中を救う道理はない。或いは利他的に見えたとしても、それは理性に依らないその場だけの行為で、つまりは獣と変わらない。であれば何も人間だけを特別扱いしてやらねばならない理由はなくなる。どちらにせよ、私にとって人間を救う理由とはならない。

 だからアスラよ、私はずっと迷っていたのだ。どうして私は、いや私が、人間を救わねばならないのか、と。

 阿  迷っていた。お前が?

 マ  そうだ。おかしいかね。

 阿  (聞えない程度の声で)お前は、そんなことで迷わない奴だと思っていた。

 マ  何か言ったかね?

 阿  別に。

 ナ  でもマイトレーヤ、君はもう迷いを捨てたんだろう?

 マ  その通り、私は迷いを捨てた。君たちのお陰で私は、人間が利他的になれるということを知り、故に救うに値すると知ることができたのだ。ナッシュよ、アスラよ、何度でも私は言うが、それは君たちのおかげなのだ。

 阿  (苛ついた様子で)そう思うなら、とっとと演説を始めるがいい。前置きはもう沢山だ。

 マ  確かに、少しばかり前置きが長すぎたようだ。では始めるとしようか。

 

カラム1 カラム2
   

  3  利他的な利己主義について①「効用」の概念

 

 マ  まずはこの図を見て欲しい(地面に左の図1を描く)。

 ナ  これは?

 マ  これはミクロ経済学で使われるものだ。君はミクロ経済学を知っているか?

 ナ  まあ、齧る程度には。

 マ  君はどうだ、アスラよ?

 阿  知るわけがないだろう。

 マ  まあそうだろうな。ではかいつまんで説明しよう。ミクロ経済学においては、各消費者や家計、企業などを「理性的」かつ「利己的」な経済主体と見做す。このような主体は当然ながら、常に自分の利益を最大限にするために、合理的に行動すると考えられる。ミクロ経済学とはこうした前提を元に、様々な状況下での経済主体の行動や市場の動向を分析する学問なのだ。

 そして今ここに示した図は「効用曲線」という。「効用」とはミクロ経済学上の重要な概念なのだが、まあ日常語でわかりやすく言い換えれば「利益」とか「満足感」ということになる。この効用曲線は、ある消費者が特定の財を消費した時に得られる効用をグラフ化したものなのだ。

 抽象的に言ってもわかりにくいだろうから、具体例を以てグラフの説明をしよう。ここにAという消費者がいて、リンゴを買って食べる場合を思い浮かべてくれ。このリンゴの数は変数Xとして横軸で表し、Aがリンゴを食べた時に得られる満足感(効用)をYとして縦軸で表す。するとリンゴを一個食べた時よりも二個食べた時の方が効用が大きくなるわけだから、図のように右肩上がりの曲線が得られるわけなのだ。

 ナ  リンゴって一個でもけっこうお腹いっぱいになるけどね。

 マ  (苦笑して)茶々をいれるな。まあそういうなら、Aはよほど空腹だったということにでもしておいてくれ。Aはリンゴならかなりの量を食べることができるので、満腹になるまでは効用を得ることができる。

 ナ  了解。

 阿  直線ではなく曲線になっているのは何故だ?

 マ  それは、財の増加と効用の増加の関係が一定ではないためだ。この例なら、いくらAが空腹であったとしても最初の一個目のリンゴを食べた時と二個目に食べたリンゴとでは得られる満足感には自ずと差が生ずる。最初の一個目から得られる満足感を仮に10とするなら、二個目に食べたリンゴから得られる満足感は9となる。三個目に食べたリンゴからはさらに減って7となるであろうし、四個目は4となるだろう。そして5個目ともなればいかにリンゴ好きであっても飽きてしまうだろうから、得られる満足は1にも満たない、ということになる。このように、財が増加すれば得られる効用の総量は増えるものの、その増え幅は減り続けるのだ。

 ナ  少し思い出してきた。「限界効用逓減の法則」だね。

 マ  その通りだ。しかしナッシュよ、そうした専門用語は別にこれからの説明には必要がないので紹介しなくても構わないぞ。

 ナ  それはすまない。だけど、それならどうしてミクロ経済学の話なんて始めたんだい?

 マ  それは、我々が前提とした「人間は全て利己主義者である」という人間観とミクロ経済学の理念が共通しているということ、そしてその尺度として「効用(満足感)」という概念を採用しているからだ。特に「効用」が人間の行動原理の基礎と見做されていることが、私がこれから行う説明を理解する上で非常に有用であるのだ。

 ところでアスラよ、この効用曲線について他にわからない点はないかね?

 阿  ない。それにしても滑稽な話だ。自分達のさもしい一面をわざわざこのように暴き立て、さらにはご丁寧にも理論付けて全天に曝すなど。恥知らずにも程がある。

 ナ  (苦笑して)そうかもしれない。でもこれも確かに人間の本質ではあるし、これはこれで、生きていく上で役には立つんだ。

 マ  そうだな。それにアスラよ、君がケチをつけるのは勝手だが、それは齷齪と働いて食い扶持を稼がねばならない人間の身になってみなければ説得力がないというものだ。だがまあ、この話はここまでにしておこう。

 では今のミクロ経済学の概念を踏まえたうえで、私自身の話に移ろう。(地面に新たな図を書きながら)今度はこちらの図を見てもらいたい(図2)。

カラム1 カラム2
   

 ナ  (図2を見ながら)これはなんだい。どうやって見ればいいんだ?

 マ  ナッシュよ。注意してもらいたいのだが、この図表はある消費者の効用の値を示してはいるが、先ほどの効用曲線とはまったく違うということだ。先の図は消費者Aの効用関数を図に表したものだったから曲線の形で表されたが、これは関数ではないので、見ての通り棒グラフの形で示されている。また先においては財であるリンゴは変数のXとしてその数が増減したが、こちらの図2では財は定数となっている。つまりまたもリンゴで例えるなら、これはある消費者における、一個のリンゴから得られる効用の場合分けであるのだ。

 ナ  (グラフを眺めながら首を傾げて)どうもわからないな。リンゴの数が一定なのに、どうしてそこから得られる効用の値にバラつきが生じるんだい?

 マ  ナッシュよ。それは、リンゴの処分の仕方が違うからだ。

 阿  処分の仕方だと?(嘲笑して)ああ成程、生で齧るか火で焙るか、それとも菓子にでもすれば味が変わるものな?

 マ  (挑発を意に介さず)アスラよ、処分の仕方と言ったのはもちろんそんな意味ではないさ。もう一度この図表を見てくれ。横軸には「自分」「配偶者」「子供」「親兄弟」「友人」「他人」と記してあるだろう。

 ナ  うん。これは一体何を表しているんだい。

 マ  ナッシュよ、それがこの図の一番のポイントだ。この横軸に記されているのが、Bのリンゴの処分の仕方、というより処分先というべきかな。

 ナ  (困惑して)君が何を言いたいのかよくわからないよ。処分する方法が人間ってどういう意味さ。

 マ  ふむ、言い方が悪かったかな。私が言いたいのは、「消費者B」が「自分の所有物たるリンゴ」の処分先に「誰」を選ぶか、という意味であり、その時に得られる効用の値を示したのが縦軸なのだ。もっと簡単に言えば、Bが「自分のリンゴ」を「誰に与えるか」、そしてそれぞれにリンゴを与えた時に「Bが得られる満足感」を示したものがこの図であるのだ。

 ナ  ……え?

 マ  一番左の項目に「自分」とあるだろう。だからこれは、Bが自分の所有するリンゴを自分で食べた場合に得られる満足度を示している。この時の効用を10と設定したのは、他の場合と比較しやすくするためで、つまりこの値が基準値となる。だから効用の値が8であれば、それはBが自分で食べた場合の効用と比べて、その八割しかないということだ。

 ナ  ……え?え?どういうことさ。じゃあこの「配偶者」っていうのはつまり、Bが自分の奥さんにリンゴをあげた場合ってこと?

 マ  そういうことだ。Bを男性とするならな。

 ナ  ちょっと待ってくれよ、君が言っていることはおかしいよ。この表はリンゴ(財)を所有しているBが、そのリンゴから得られる効用を示したグラフなんだろう?それなのにどうして同じグラフの中にB以外の人間の効用が入り込んでいるのさ?

 マ  ナッシュよ、それは違う。君はまだ、このグラフの見方を間違えているのだ。このグラフの縦軸はあくまでBが得る効用、Bが感じている満足感を数値化してしているのであって、断じてリンゴを食べる人間の効用の値ではないのだ。「配偶者」の項目の12という値は、Bが己の妻にリンゴを与えた場合の効用の値ではあるが、それは妻が感じる効用ではなく、あくまでその時に「Bが感じる」効用の値なのだ。

 ナ  …………何だって?

 マ  だから、このグラフが示していることはこうなる。消費者Bがリンゴを手に入れる。そのリンゴを自分で食べた時、Bは10の効用を得る。この値を基準値とする。

 次に、Bがこのリンゴを自分の妻に与えた場合を考える(これは切り分けるということではなく、リンゴをまるごと一個妻に与えるということだ)。この場合、もちろんBは自分ではそのリンゴを食べる(消費する)ことができないわけだが、愛する妻がリンゴを食べて喜んでいる姿を見て、ある種の(リンゴの味わいとは別種の)満足感を得る。この満足感の値が、表に示した12ということなのだ。

 もちろんこの場合、Bはリンゴを味わうことはできないわけだから、リンゴから直接にその効用(10)を得ることはできない。しかし妻がリンゴを食べる姿を見てある種の満足感が得られるのだから、この満足感はあくまでリンゴという財から得られた満足感ということができる。つまりリンゴの処分(消費)によって得られた効用であると言えるのだ。この場合、Bはそれを妻に与えることによって、リンゴから間接的に効用を得たということだ。

 このように設定した時、Bがそのリンゴの処分の仕方を変えた場合、つまり「誰に」リンゴを与えるかを変えることによって、得られる効用の値も変化する。その相手が自分にとって大事な人間であればあるほどその効用は増すであろうし、それがどうでもいい相手であればそれだけ得られる効用も目減りしてしまうであろう。

 付け加えておくと、この場合は「リンゴを与えられた相手は皆リンゴが好物である」ということが暗黙の前提になっている。Bが効用を得るのはあくまで、「リンゴを与えた相手が喜ぶこと」が条件となっているからだ。そうでない場合、たとえばBの子供がリンゴを好きではない場合はまた別のグラフになるわけだが、煩雑になるし必要もないのでここでは示さないことにしよう。では次に――

 ナ  (慌てて)ちょっと待ってくれ、マイトレーヤ!

 マ  何かね?

 ナ  リンゴを……自分の財を、自分では消費せずに、他人に与えた場合に得られる効用だって?そんな設定聞いたことがない。いや、経済学の原則に違反しているじゃないか!

 阿  人間などの意見に加担するのは癪だが、まったく同意見だ。焼きが回ったか、弥勒菩薩よ?お前自身の説明によれば、ミクロ経済学とやらでは人間を「自分の利益の最大化を図る利己的なもの」として設定していたはずではないか。しかしお前の言うBとやらはその設定を無視している。

 マ  そうかな?Bを「リンゴを他者に与えた場合に満足感を得られる」という性格の人物として設定すれば、経済学の原理から逸脱しないと思うのだが。

 ナ  それは…………。

 マ  (笑って手を振る仕草)いや、冗談だ。君たちの非難は正しい。君達は私の説明を正しく理解し、そして正しく反論している。私の挙げた事例は経済学の(少なくともミクロ経済学の)原則から外れている。

 しかしナッシュよ、そしてアスラよ、それはある意味当然の話であるのだ。何故なら私は別に経済学の領域で議論をしているわけではないのだから。この図2において、私は倫理学の話をしているのだよ。

 ナ  倫理学だって!これが?

 マ  ああ。いや正確には、価値論ということになるのかな。その辺りは私にとってもまだ曖昧なのだが、とにかく利己主義と利他主義の対立を乗り越えるため、その理解のために必要な分析なのだ。利他的な行動が、実は利己主義と矛盾しないのだと理解する為に。

 ここで改めて確認しておこう。我々は人間を「利己主義者」と見做し、またそうあるべきだとした。しかしその上で、利己主義と矛盾せずに「利他的な行い」を為せるということを証明しようと欲しているのだ。だから私は敢えて経済学の概念を借用することにした。それは経済学という学問もまた人間を「純粋に利己的な者」と見做すからだ。だから経済学の概念を借用しつつ、それと矛盾しない形で、人間が利他的になれることを証明する。それこそが我々の証明の条件なのだ。

 ナ  それは、まあ、そうかもしれないけど……。

 マ  ひとまず納得してもらえたところで、図の説明に戻ろう。さてアスラよ、先の私の解説で気になったことはあるかね?

 阿  もちろん、ある。

 マ  何が気になったのだね。

 阿  というより、おれはまだ先ほどの説明に説得していない。経済学じゃなく倫理学だから、なぞといって正当化できると思うなよ。

 いいか、Bが自分のリンゴを自分で食べて効用を得るのは当然だ。或いは、そのリンゴを与えられた人間が、それを食べて効用を得るというなら話はわかる。しかしだ。なぜリンゴを他者に与えておきながら、しかも「Bが」効用を得るなどという話になってしまうのだ?

 リンゴから得られる効用とはつまり、食材としての栄養価や嗜好品としてのリンゴの味や食感に他ならないはずだ。そしてもちろん、他者に与えてしまえばB自身はそれを得ることはできないのだ。間接的だとかお前は誤魔化すが、Bがリンゴから得られる効用はどう言い繕っても「ゼロ」なのだ。むしろ、自分のリンゴを他人(自分の女だろうが子供だろうが、或いは親兄弟であったにせよ)に食われてしまうのだから、怒りを感じてもおかしくないのだ。

 ナ  君には悪いけど、僕もそう思うよ。

 マ  おや、君達は納得できないというのか。しかしナッシュよ、特に君に問いたいのだが。私の設定した人物像は確かに経済学の想定する人物像とはかけ離れているが、しかし現実生活においてはあり得るのではないか?まあアスラにとっては馴染みが薄いだろうが、こうした事例は日常生活においてはむしろありふれている筈だ。ナッシュよ、君は先の経済学の設定に知らず知らずの内に引きずられてしまっている。

 ナ  そうなのかな。

 マ  納得できないか?ではこうしよう。先も少し触れたように、経済学の理論では前提として、消費者が財を消費することと効用はイコールとして結びついている。しかし我々の議論はあくまで経済学の領域ではないのだから、その前提を外してしまうのだ。

 ナッシュよ。君は既に就職し、結婚して子供もいるとする。君は妻も子供も愛している。

 ナ  (困惑を顕わにし)ちょっと……。

 マ  実感しやすくするためだ。まあ聞け。

 さて幸福な家庭を持つ君はある時、仕事上の付き合いであるパーティーに出席する。そこで君は存分に飲み食いして、手土産まで貰って帰る。それは君の好きな菓子だが、君は既に満腹であるので、それを食べてもごく僅かな効用しか得ることができない(むしろ吐気を催す)。しかもその菓子は保存が効かず、明日にはもう駄目になってしまうとする。

 では、この手土産を君はどう処分するだろうか。

 ナ  それはもちろん、家族にあげるよ。

 マ  それは何故だ?

 ナ  だって、僕は満腹なんだろう?それに保存もできない。じゃあ食べてもしょうがないよ。

 マ  何故だナッシュ。君が食べられないと言うのなら、捨ててしまっても同じことではないか?敢えてそれを他人に与えるというのなら、そこには理由がなくてはならないのだ。何故なのだ?

 ナ  それは……(逡巡して)その方が、家族が喜ぶからだよ。

 マ  それはつまり、家族のためということだな。

 ナ  そうだね。

 マ  ふむ。しかしナッシュよ、家族のためというのはつまり、利他的な動機による、利他的な行為ということになる。我々はそれを認めないのではなかったかね?

 ナ  ……そうだった。いや、だけど僕らの議論は経済学のことではなかっただろう?今の事例について君は、経済学の前提を外すと予め宣言していたじゃないか。

 マ  確かにそう言った。しかしナッシュよ、私は「人間は利己主義者である」という我々の共通の前提までをも外してしまったわけではないよ。

 ナ  (戸惑って)だけど僕が本当に根っからの利己主義者であるなら、手土産のお菓子を家族にあげることができないじゃないか。

 マ  そうなるな。

 ナ  (考えつつ)だけど僕だったら、やっぱりその場合には家族にお菓子をあげるだろう。……じゃあ、その理由をどう説明すればいい?(暫らく考えて)お菓子が無駄になるのが勿体ないから、というのは駄目かな?

 マ  駄目だな。アスラよ、例えば君が純粋な利己主義者であるとして、この場合どうするだろう?

 阿  オレなら、その菓子を家族に売りつける。もっとも、売る相手は家族でなくともいいがな。

 マ  だそうだが。どうする、ナッシュ?

 ナ  僕にはそんなことできないよ!そうなると、やっぱり前提が間違っているということになるんじゃないかな……。つまり僕は、利己主義者ではない?

 マ  おやおや、大前提をあっさりと覆してしまうのかね?それはそれでも構わないが、しかし前提を崩さなくても君の心理は説明はできるのだよ。

 ナッシュよ、君はさっき、菓子を家族に与えるのは家族のためであると言った。しかしそれは、こう言い換えることが可能なのではないか?――即ち君は、愛する家族が美味しそうに菓子を頬張るのを見て、喜びを感じるのだ、と。そしてその喜びが――「満足感」でも「効用」でも良いが――菓子を捨ててしまう場合より、或いは満腹の状態の自分自身が食べる場合より大きいからこそ、君は菓子を捨てるのでも食べるのでもなく「家族に与える」という選択をしたのだ、と。ということは、菓子を家族に与えるという選択は実は君にとって、より効用の大きくなる選択肢であるということになる。

 つまり私が言いたいのは、「自分の財を他人に与える」という一見すると利己主義に反しているかに見える行為は、実は利己主義の原則に違反していないということなのだ。

 ナ  それは……だけど……。

 マ  まだ納得しかねるという顔だな。

 ナ  君の言いたいことはわかったよ。菓子を誰かにあげるときに満足感が得られる、ということは僕も否定しない。ただ僕がひっかかっているのは、菓子を自分で食べる場合の効用と、それを他の誰かにあげる場合の効用を同じものと考えてしまっていいのか、ということなんだ。さっきアスラも言っていたけど、リンゴを食べた場合に得られる効用はその果実の甘いと酸っぱいという味や、シャリシャリという食感や、その冷たさの筈だ。或いは喉が渇いていれば水分、空腹だったらとにかく飢えを満たすことができることが一番の効用になるだろう。そしてそれは、貨幣に還元することで数値化することができる。

 ところが君の言うような効用、リンゴや菓子を他人にあげる場合に得られる満足感は、これとはまったく違う。食事によって得られる前者の効用を肉体的・物質的なものとすれば、後者の効用はあくまで精神的なものだ。それは愛情と言えばいいのか、何と呼ぶべきかはともかくとして、リンゴのように数値化することはできない。だから、両者を比較することなんかできないんじゃないかな。

 マ  ふむ。しかしナッシュよ、そのように効用の質の相違に注目するのなら、リンゴを食べて得られる効用も細分化することができるのではないか?それこそ君が言ったように、リンゴの味を効用として重視するか、それとも水分や栄養の摂取を以て効用とするの

か、場合分けしたほうがいいのではないか?

 ナ  それは詭弁だよ。

 マ  そうかな?まあいいだろう。では、より本質的な疑問を提出しよう。リンゴの効用は本当に数値化することができるのだろうか?

 ナ  え?

 マ  仮にリンゴ一個を百円としよう。そしてBがこのリンゴから得られる効用を10とする。しかしだからといって、百円の価格のものが常にBにとって10の効用を与えることができるとは限らない。同じ百円で野菜を買ったとして、Bが野菜を嫌っていたとしたら10の効用を得る事はできないであろう。つまりBにとって、百円イコール10の効用、という等式は常には成り立たないのだ。さらに同一のリンゴにしたところで、Bの腹具合によってその効用の値は変化してしまうことは(限界効用逓減の法則によって)知っての通りだ。

 ナッシュよ。思い出してもらいたいのだが、ミクロ経済学における消費者行動の分析において我々は、リンゴから得られる消費者Aの効用関数を分析した。しかしこの「リンゴから得られる効用」というもの自体、限りなく主観的かつ流動的、さらに言えば相対的な概念に他ならないのだ。そしてなにより、我々の議論しているのは経済学の範疇ではないのだから、「満足感」を貨幣的な価値に還元してしまうべきではないのだよ。

 ナ  …………。

 マ  どうだね、ナッシュよ。ここまでは納得してもらえたか?

 ナ  (少し逡巡して)まあ、納得するよ。

 阿  よく口が回ることだ。ところで、オレからも少しケチをつけさせてもらうぞ。

 マ  もちろんだとも、アスラよ。

 阿  先ほどの菓子の話。なぜ手土産の菓子を家族に与えるかという事例だが、こういう考え方もできるはずだ。即ち、Bは家族に手土産を渡すことで嫁や子供に貸しを作ることができる、ということだ。貸しという言葉が気に入らないなら好意とか愛情とやらでもいいだろう。とにかくBは家族に菓子を与えることで、将来的に何らかの見返りを期待しているということができる。つまりこれは単なる投資に過ぎず、故に純粋に利己的な行為だったのだ。

 マ  成程。アスラよ、君の言う事は正しい。もちろんそうした理由も考えられる。私の示した思いやりのある父親像は、君の示した純粋に利己的な人間像を否定することはできない。しかしアスラよ、だからといって私は自分の見解を撤回することはしない。それは私が君の見解を退けられないのと同様に、君の見解もまた私の見解を退けられるわけではないからだ。君のいうような損得でしか考えられない人間もいれば、私のいうような家族思いの人物もいる。それだけのことだ。

 マイトレーヤはこう言った。

 

4  利他的な利己主義について②自己犠牲は利己主義に矛盾しない

 

 ナッシングが進み出る。

 ナ  まだ気になることがあるんだ。

 マ  言ってみてくれ。

 ナ  さっきの、僕を例にした話はまあ納得したよ。僕自身が満腹だったら家族のためにお菓子をあげるということはあり得る(むしろそれが普通だろう)。それを利他的と言うならそうも言える。

 だけどさっきの図2を見ていると、こちらについてはやっぱり納得ができない。図2ではBがリンゴを配偶者に与えた時の数値――その場合にBが得られる効用の値――が12になっているよね。それどころか、子供に与えた場合は14になっているじゃないか。これは一体どういうことなんだ?君の説明に従えば、Bが自分でリンゴを食べた場合の効用は10だったはずだ(図にはそう示してある)。ということはつまり、Bは自分でリンゴを食べるより、それを子供や奥さんにあげたほうが効用が大きいということになってしまう。

 マ  ああ、その通りだ。

 ナ  だけどこちらの設定では、B自身もリンゴが好物という話だったじゃないか。

 マ  そうだ。B自身もまたリンゴが好物で、しかも空腹であるためにリンゴを食べたいと欲している。しかしそれにも拘わらず、Bはそれを妻や子供に与えたほうが、彼にとっての効用が大きいのだ。

 ナ  そんなのおかしいよ。

 マ  そうだろうか?

 ナ  さっきの僕を例にした話のように、Bにとってリンゴが無価値であるなら納得してもいいんだ。Bが空腹でないとか、あるいはリンゴが嫌いだとかいうなら、それを誰かにあげちゃった方が効用が大きいというのはわかる。実感としてね。

 だけど今の君の話には納得できない。自分がリンゴを食べたいのに、それを我慢して他人にあげてしまうというのはおかしいよ。しかもそうして我慢したほうが、Bにとって効用が大きいだなんて……。

 マ  そうだろうか?私は案外これこそが利他的な行為の本質であり、引いてはその究極たる自己犠牲の精神を説明する、唯一の正しい解答ではないかと思っているのだが。

 ナ  そんなこと。

 マ  まあ聞け。改めて図の2を見てほしい。一見してわかるとおり、この図ではB本人を除けば効用の高い順に並んでいる。これは実は、Bの内心における価値観を示しているのだ。或いは優先順位といってもいい。

 ナ  優先順位?

 マ  そうだ。Bにとって価値の高い人間ほど左に位置している。財を分け与える場合、その人間にとってより価値の高い者に分け与える方が、その人間が感じる満足度は高くなるのだ。

 これは例を挙げれば容易に納得してくれることだろう。Bが余分な食糧を持っていて、飢えた誰かにそれを分け与えるとする。一人は赤の他人で、一人は実の親だとする。このような場合、Bは余程の悪人でない限り食糧を分け与えるだろう。ではこの時、実の親に食糧を分け与えた場合と、赤の他人に分け与えた場合では、どちらが精神的な満足感が高いであろうか?もちろん、普通に考えれば実の親に分け与えた場合であろう(よほど屈折した価値観の持ち主であれば話は別だが)。それは何故かといえば、Bにとって赤の他人よりも実の家族の方が親密な関係にあるからであり、つまりは価値が高い(優先される)からであるのだ。

 もっとも、これはあくまでBという一般的な人間の価値観を例にして述べているのであって、例外はいくらでもあり得る。Bは肉親を重視する価値観を有しているが、肉親よりも友人を大事に思う人間も多いだろうからな。例えばナッシュよ、親との深刻な確執のある君なら、このような価値観にはならないだろう。

 ナ  僕が特殊だってことくらい自覚してるよ。

 マ  うむ。まあBの場合に話を戻すと、それと同様に親しい友人であっても実の家族と比較すればBにとっての価値は低いので、優先度は低い。よってBは実の家族の方に食糧を与える。その方が得られる満足感が大きいからだ。

 しかし、親しい友人と赤の他人とを比較すれば、今度は友人の方が価値は高いので、友人の方が優先度は高くなるはずだ。よってBは友人に食糧を与えた方が満足感が大きい。だからこの場合は友人の方に食糧を与える、ということになる。

 このように、Bの内心における価値の優先順位と、彼らに親切にすることでBが得られる効用の値は強い相関関係にある。よってBは自身の効用を最大化するためにも、自分にとってより価値の高い者(優先順位の高い者)に食糧を分ける傾向がある。このモデルは、我々が前提とする利己的な人間像に違反しないと思うがどうだろう?

 ナ  そこまでなら納得できるよ。だけど何度も言うようだけど、僕が頷けないのはあくまで子供と配偶者の場合についてなんだ。君のいうように図2がBの内心の価値観を表しているのだとしたら、Bにとっては自分よりも子供や奥さんの方が優先順位が高いということになってしまうじゃないか。そんなことがある筈ないよ。

 マ  そうだろうか?

 阿  何をとぼけたことを言っているのだ、弥勒菩薩よ。菩薩である貴様ならいざ知らず、人間というのは手前勝手な生き物だ。自分の身が何より大事なのだ。どいつもこいつも、無能で矮小で、とるに足りぬほど無価値であるくせに、法外なまでに自分の権利を主張する。悪辣で残酷な、どう贔屓目に見ても極刑に値する犯罪者であっても、「偉大なる指導者や高潔な聖人のために犠牲になれ」と言われれば憤然として抵抗するだろう。或いは路傍の草の如き、とりたてて何の取り得もないごく普通の一般人であっても、世界のためにその命を捧げろと言われれば泣いて拒絶することだろう。それは奴等が卑小な自分の価値を客観視できず、自分の命は(自分の命だけは)世界よりも重いなどと不当に高く見積もっているからだ。まったく人間というものはどいつもこいつも、口に出しては謙遜して見せながら、自分だけは特別な人間であるなどと笑止にも思い込んでいるのだ。

 マ  その口を閉じるがいい、アスラよ。たしかにお前の言うような人間は少なくない。特に、なまじ能力の高い者ほど慢心に陥り、自分は敬われるべき人間だとか、もっと良い待遇で扱われるべきであるなどといった傲慢な勘違いをしてしまう傾向がある(しかし本当はそのような人間とて多少恵まれているというだけのことで、その大半は凡人と大差ないのだが)。或いはそうではなくても、とりたてて世の中に何の貢献も果たさぬくせに、私はこんなに頑張っているのに全く報われないだとか、世の中は不公平であるとか、真面目で善良な自分がこんな不遇であるのは間違っているなどという。このような思いは自分だけが特別だという、我が身大事の心根から生じたものであることに間違いはない。

 しかしアスラよ、いかにこのようなさもしい心根の輩が多いにしても、人間というのは誰も彼もが自分を第一に考えるばかりというわけではない。時に人は、自分よりも高い位置に自分以外の他者を位置づけることがあるのだよ。

 ナ  例えば?

 マ  例えば、宗教教団における敬虔なる信者を考えてみるがいい。彼らにとって神、或いはカリスマ性のある教祖は、一信者である自分などとは比較にならぬほど高い価値を有すると感じている筈だ。だからこそ彼らは自分は貧困で苦しもうとも、進んでその全財産を寄進したりする。

 このような人間にとっては、彼自身の自己評価よりも教祖や神の方が圧倒的に価値が高い(優先度が高い)ことは言うまでもなく、断じてその反対ではない(君たちとてまさかそうではないとは言えないことだろう)。そうであるからこそ、彼らは自分で財を消費するよりもそれを教団に寄進し、彼らに使ってもらうことで、より大きな喜びを得る。そしてついには神や教祖のために進んでその身を犠牲に捧げ、しかもそれを限りない喜びとする。

 もちろん、これが極端な例であることは私も認める。しかし程度の差こそあれ、自分ではない別の者に自分以上の価値を認め、より高い優先順位を与えるということは通常人にもあり得るのだ。君たちにもっとも受け入れやすいのは恋人や配偶者であり、実の子供であるだろう(だからこそBの価値観をそのように設定したのだが)。或いは親思いの人物であったり、儒教文化の国においては親がそれに当るであろう。或いはかつての日本の武士道においては、家臣は主君のためにその命を捧げたというから、侍の忠義もこれに当ると考えることもできる。

 このように見てみれば、自分以外の他者を自分より優先順位を高く位置づけるということは、実は別に不思議なことでも何でもない。そしてこの考えを推し進めれば、より高い価値のある者のために、自分の身や財産を犠牲にするということが生じ得る。敬虔な信者が神や教祖のためにその生命を捧げるように、普通の人間とて親や子供、或いは妻や恋人のために自分の命を犠牲にする。それは彼らにとって、自分よりも自分の愛する者達の方が大事だからに他ならないのだ。

 ナ  君の言いたいことはわかったよ。実際、子供の命を救う為なら自分が犠牲になるという親は多いと思うし。いや少なくとも、そうした親がいると考えることは不可解なことなんかじゃない。

 だけどマイトレーヤ、僕が思うにそうした子供思いの親というのは、或いは君が言うところの「自分以外の他者に自分以上の優先順位を与える人物」というのは、それこそ「人間は利己主義者である」という僕らの前提に違反するんじゃないのかい?

 マ  いや、矛盾しない。

 ナ  なぜ?自分よりも他者を大事にするっていうなら、それは立派な利他主義じゃないか。

 マ  いいや、そうではない。このような人物が、自分よりも優先順位の高い人物のために何らかの犠牲的な行為をした時、それは確かに利他的な行為と言えるかもしれない。しかしそれはあくまで利他主義ではなく、利己主義に基づいた行為なのだ。

 ナ  わけがわからないよ。一体君は何を言いたいんだ?

 マ  先の話を忘れてしまったのかね?Bの例で言えば、Bにとっては赤の他人にリンゴを分け与えるよりも、親しい友人や実の家族に分け与えた方が満足感が大きくなる。それはBにとっては赤の他人よりも親しい友人の方が、そして親しい友人よりも実の家族の方が価値が高いからなのだ。このようにBの内心の価値観と、彼らにリンゴを分け与えた場合に得られる効用は強い相関関係にある。

 そしてその相関関係は、この優先順位にB自身を加えても例外とはならないのだ。するとどうなるかと言えば、Bの価値観においては彼自身よりも妻の方が、そして妻よりも子供の方が優先順位が高いのであるから、リンゴを自分で食べる(自分に与える)よりも妻や子供に与えた方が、Bにとっては効用が高いということになるのだ。図2に明らかなようにBがリンゴを食べても10の効用しか得られないが、妻に与えれば12、子供に与えれば14もの効用を得られるということなのだ。

 つまりナッシュよ。ことこのような事例において、他者(ここでは子供)にリンゴを与えるという利他的な行為が、却って行為者自身にとってはもっとも高い効用をもたらすという逆説的な事態が発生するのだ。自分の財を自分で消費せずに誰かに分け与えるという経済学的には不利益な、言ってみれば非合理的な行動が、しかし心理的には満足(利益)をもたらすが故に、却って利己主義に適った行為となるということがあり得るのだ。

 これに思い当たることによって、私はあらゆる利他的な行為が実は全く利己主義に矛盾しない、というより利己主義に基づいた行為であるという確信を得ることができた。人間の為す善行はどのような利他的な行為であっても、実はその行為者の内心において損得勘定が釣り合っているか、むしろ利益の方に傾いている。それがどのような自己犠牲の行為に見えても、いや実際に命をも捧げたとしても、それは彼にとって得であるのだ。

 ナ  そんな馬鹿な!

 マ  おや、馬鹿なことというのかね。よりにもよって君が?

 ナ  どういう意味さ?

 マ  なぜならナッシュよ、私がこれを思いついたのは、君がその身を犠牲にして私を庇ってくれたからに他ならないからだ。瀕死の君にその理由を聞いた時、君が何と答えたか、君自身は覚えているかね?

 ナ  え?  

 マ  覚えていないか?あの時君はこう言ったではないか。自分が死ぬことよりも、私が死んでしまうことの方がもっと嫌なのだ、とね。

 ナ  (赤面して)それは……。

 マ  君の言葉を、私は以下のように理解した。間違っているなら訂正してくれ。

 君の言葉を字義通りに受け取れば、こういうことになる。君にとって君自身が死ぬのはもちろん不快だが(損であるが)、しかし私が死んでしまう方が君にとっては不快(より大きな損害)だったのだ、と。つまりあの極限状態において君は小さな損害と大きな損害のどちらを選ぶべきか選択を迫られ、より小さな損害(自分が死ぬこと)の方を選んだのだ。君が自分の生命を犠牲にするという究極の自己犠牲は、しかし損得の観点からはより小さな損害で済んだという意味では得な(ましな)選択であったと言える。

 ところで、君の選んだこの行動は利己主義者の行動としても理に適っている。君は、あの鴨川の河原で話した利己主義者の行動原理を覚えているだろうか?いや、どのみちアスラは知らないのだから改めてここに示そう。利己主義者の行動においては、

①その行為(それ)が快(利益)であるから実行する(欲する)。これは合理的である。

②その行為(それ)が快(利益)であるが実行しない(欲しない)。これは非合理である。

③その行為(それ)が不快(損害)であるが実行する(欲する)。これは非合理である。

④その行為(それ)が不快(損害)であるから実行しない(欲しない)。これは合理的である。

 我々は利己主義者の行動をこのように規定し、この内①と④については合理的であるが故に説明を要しないとした。それに対して②と③については非合理的であるが故に説明を要するのであり、特に③は利他的な行為がこの③に当てはまるが故にどうにかして説明をしないといけない、とその理屈を我々は探していたのだった。そしてこの③の場合、つまり敢えて不快なことをする(損害を蒙る)ことをする合理的な理由について、二つの可能性を提示した。すなわち

③A より大きな快(利益)を得るために小さな不快(損害)を我慢する

③B より大きな不快(損害)を回避するためにより小さな不快(損害)を我慢する

という二つだ。このような条件が成り立てば、利己主義者が逢えて自分にとって不快な行動をする(損害を蒙る)ことは非合理ではなくなるのだった。

 ところで、利他的な行為についての私のこれまでの解答はこれらに違反しないのだ。先の図2のBの行為について言えば、Bが妻や子供にリンゴを与える行為は結果的にB自身に最大の効用を与えるから①に該当する。よってこれは問題なく合理的だ。そしてナッシュがしてくれたような利他的な行動、即ち他人のために生命を捧げるという自己犠牲的な行為がここでは③のBに当ることは、今の話から明らかであろう。つまり我々がこれまでに見てきた利他的な行為は利己主義者の行動原理に違反しないということになり、故にそれは利他的であると同時に利己的な側面もあるという結論が導き出せるのだ。

 ところで、いわゆる利他的な行為というのはこのようなものばかりではない。利他的な行為は大きく二つに分けることができる。それは他者に快(利益)を与える行為と、他者の不快(損害)を取り除く行為の二つだ。前者は先のBの例のように、子供にお菓子や玩具を与えて喜ばせてやるような行為を言う。これに対して後者は、例えば空腹で倒れている人を見て食を恵んでやったり、怪我をして倒れている人を救助するような行為を言う。この前者について私は既に話したわけだが、今度は後者の利他的な行為について解説しよう(ナッシュのような自己犠牲も厳密にはこちらに当るが、これはまあ些か以上に特殊な事例なので省いておく)。

 具体的な事例を挙げて説明する。Cという人間がいたとしよう。そしてこのCを知性豊かで、しかも人としての思いやりに溢れた人物として設定する。いいかナッシュよ、彼は決して君の言うところの偽善者ではない、人格者であると想像するのだ。

 このCがある時、商用である国に滞在するが、その国は貧富の差が烈しい。ある日、Cが食糧を買い込んで帰宅していた途中で、貧しい浮浪者Dを見かける。Dは痩せ細り、一見して栄養状態が悪く、今にも倒れそうに見える。

 このような場合、Cはどのような行動を取るだろう?

 ナ  それはもちろん、Dに食糧を分けてあげるんじゃないかな。

 マ  そうだろうな。

 阿  待て、それはおかしい。CにとってDは赤の他人だろうが。つまりは無価値な人間であるのだ。前の事例でBが妻子にリンゴを与えた時とは違う筈だ。

 ナ  でも図2ではたしかに赤の他人については優先順位が低く設定されていたけれど、それでも無価値にはなっていなかったじゃないか。

 阿  それでも自分自身とは比較にならぬほど小さかったはずだ。

 ナ  (少し考えて)でもこのCは思いやりの深い人格者という設定だったはずだ。だったらCの内心の価値観においてもBよりは高い価値が与えられていると考えていいんじゃないかな。

 阿  では10に近いというのか。Cにとっては赤の他人、しかも異邦人に過ぎないというのに?

 ナ  それは……。

 マ  まあ、高く見積もっても5がいいところだろうな。

 阿  それでも高すぎるくらいだが、まあいいとしてやろう。いずれにせよお前の理屈に従えばここで、CがDに食糧を恵んでやる可能性はなくなったわけだな。

 ナ  でも……それはおかしいよ。だってあくまで設定に従えば、Cは人格者なんだから。そうした場合に困っている人を見捨てる人は、そもそも人格者でも何でもない。

 マ  ナッシュの言うとおりだ。CはDを助けるだろう。

 阿  何故?おかしな話だ。ではお前は、Cが非合理的な行動を取るというのか?

 マ  いや。Cは人格者であると同時に、知性豊かな人物であるとも言ったはずだ。Cは利己主義者の行為原則に違反せずに、しかも自身の金銭を支払って買った食糧を、赤の他人であるDに差し出すことができるのだ。

 阿  訳がわからん!とうとう頭がいかれたか、弥勒菩薩よ。お前の理屈は完全に破綻しているぞ!

 マ  落ち着くがいいアスラよ、その理屈についてこれから説明してやろう。その上で私が間違えているというなら批判でもなんでもするがいい。

 さてこのCの陥った状況について、彼が我々の想定したような人物であればどのような心理状況に陥るであろうか?彼を心からの善人として設定した上で、その心理分析を行ってみよう。

 それはおそらく、次のようになる筈だ。Cがその日の商用を終えて、食糧を買い込んで帰宅する時点では、その心理は快でも不快でもないであろう(もちろんどちらかとして設定することもできるが)。と、彼はその帰途において彼にとっては縁も所縁もない浮浪者Dを目撃する。DはCにとって面識のない赤の他人ではあるが、一見して空腹に苦しんでいることがわかる。

 さてこのような時のCの心理状態はどうなっているであろうか?

 阿  もちろん、見たくもないものを見てしまって不愉快になるのさ。

 マ  そのような人間もいるだろう。しかしアスラよ、この事例においてはそうではない。ちゃんと設定は守ってもらおう。善良な人間として設定された我々のC氏は、そのような感情は起こさない(そのように設定されたのであるから)。

 ではどのような心理状態になるのか?それは憐れみ、同情、共感、悲しみ、或いは苦しみなど、様々に言い表すことができるだろう(ただし断じてDに対する嫌悪や不愉快の感情ではない)。しかしその正確な表現はさておくとして、ともかくCにとって心地よい心理状態でないことは確かな筈だ。同情であれ悲哀であれ憐れみであれ、総称してみれば胸の痛みとでも言える気持ちを感じているのだ。

 さてこの時、Cの胸に生じている胸の痛みとも言えるものは、はたしてCにとって快であろうか?それとも不快、いや苦痛であろうか?

 ナ  それはまあ、苦痛の方だろうね。

 マ  (頷いて)その通りだ、ナッシュよ。Cが我々の想定する如く思いやりのある人格者であるなら、彼がその時に感じるものは精神的な苦痛でなくてはならない。それは決してアスラの言うような、金持ちが恵まれないものを見て顔を顰める時のような不愉快な感情などではないのだ。善良なCは飢えに苦しむ赤の他人Dを目撃し、Dのために胸を痛める。つまりそのような状況はCにとっては苦痛であり、いわばその意味では不快な状況であると言えるのだ。

 さてこのような状況において、Cの取り得る可能性の高い選択肢は二つに搾られる。一つはその苦痛を堪え、その苦痛の原因たるDを見棄てること。そしてもう一つはもちろん、自分の持っている食糧をDに分け与えることだ。前者を選べば精神的な苦痛は解消しないが(その苦痛は後ろめたさとして残るだろうから)、金銭的な損害は生じない。後者を選べば金銭的にはCにとって損害となるが、しかし精神的な苦痛を軽減することができる。さらにはDが喜ぶ姿をみることで満足感を抱くとすれば、Cはある程度の精神的な効用を得ることにもなる。

 このように分析してみることによって、我々が設定した人格者たるCが赤の他人に対して食糧を分け与えることの、合理的な説明ができるであろう。いかにCが人格者であったとしても彼にとって赤の他人は、優先順位で言えば決して高いわけではない。しかしそうではあっても彼は哀れなDを見て、精神的な苦痛を感じずにはおれないのだ。その苦痛を解消するためにこそ、Cはある程度の金銭的な損害を是認せざるを得ない。

 言うなれば、これは先の利己主義者の行動原理の分類では、③Bの事例に当たる。よってCの行為は利己主義者としては完全に合理的であり、その行為は利己主義に反するものではないのだ。

 わかっただろうか?以上のように利他的な二種類の行為、即ち他者に快・利益を与える行為にしても、また他者の不快(苦痛)・損害を除くという行為にしても、どちらも利己主義者の行動原則に違反しない、合理的な行為であるということができるのだ。

 二人とも、何か反論はあるだろうか?」

 ナ  (暗い顔で)ないよ。

 阿  (快活に見える顔で)ないな。

 マ  それは何よりだ。しかしナッシュよ、そのわりに元気がないようだが。私の設定したCという人物の心理分析は、君の考える偽善的な人物に当たるのかね?

 ナ  いや。君の設定したCという人物については、僕は偽善を感じない。それどころかCは、僕が考える本当に優しい人物、真に利他的な人物像に近いか、そのものだと言えると思うよ。

 マ  それでは、なぜそんなにも沈んだ顔をしているのだね。

 ナ  なぜって?いいや、君の言うことが正しいと思うからこそ、僕は憂鬱になっているんだよ、マイトレーヤ。覚えているだろう?僕はかつて色んな人に対して偽善を感じ、そのために人間関係がうまくいかずに人間不信に陥っていた。どんなに熱心に他人の為に働き、周りから「いい人」「真面目な人」と認められている相手に対しても違和感を覚えてしまった。それで仲間から離れたんだ。

 だけど、(これも話したと思うけど)その中で一人だけ、全く偽善を感じなかった人がいた。やっていることは他の人と変わらないのに、その人だけは他人に対して思いやりがあって、こんなに疑い深い僕なんかの目にも、本当の意味で心の優しい人だと思えたんだ。僕にはそれがずっと疑問だった。どうして同じような活動をしているのに、偽善的な人とそうではない人がいるのか。

 白状すると、僕は君がその答えを示してくれると思っていた。偽善者と本当の善人を分けるものが何かを教えてくれると、心の底では期待していたんだ。

 だけど君は、どんな利他的な行為であっても結局のところ、それは同時に利己的な行為でもあると言う。他人を喜ばせることも、他人の苦しみを取り除いてあげることも、結局は自分にとってその方が得だから優しくするんだという。残酷だよ。それじゃあ、人間はいつまで経っても、本当の意味で利他的にはなれないということじゃないか!

 せめて、君の説明を否定できたらどんなにいいだろう。だけど僕にはそれができない。それは君に遠慮するわけじゃなくて、僕にその能力がないせいだ。僕は、君の理屈に納得してしまっている。だって君が解説した人格者の心理分析は、僕が漠然と考えていた本当の意味で優しい人たちの人物像と、まったく矛盾しないんだから!

 ねえマイトレーヤ、僕たち人間は結局のところ、自分勝手な利己主義者に過ぎないんだろうか?人間にとって真の利他主義は、本当に不可能なんだろうか?

 マ  (首を振って)不可能だ。残念ながらな。

 がくりと頭を垂れるナッシング。と、唐突にアスラの高笑い。

 マ  どうしたね、アスラよ?君の方は随分と威勢が良いな。

 阿  (異様な熱気を帯びた口調で)それはそうだろう、弥勒菩薩よ!オレはこの上なく気分がいい。なぜってお前が、他ならぬお前が、人間の慈悲心を否定したのだからな!オレはてっきり、お前が利他主義などという愚にもつかない代物を、常人には考えもつかないとんでもない屁理屈を捏ねて正当化するのではないかと思っていたのだ。そうしてそんな嘘八百の、人間共にとっては不自然極まりない代物を、ご大層に飾り立てて披露するものだとばかり思っていたのだ。

 しかしどうしたことだ?なんとお前は、人間などには利他主義という高尚なものは未来永劫に渡って不可能なのだと、この上なく正直で真っ当な、おめでたすぎる真理をぶちあげてくれたではないか。お前だ、お前がそう言ったのだ弥勒菩薩、いや、マイトレーヤよ、慈悲の名を持つお前がだ!

 ああ、気分がいい。(異様に青褪めた顔色を振り)本当に、オレは気分がいい。くそ、気分が良すぎて胸焼けするくらいだ!いや全く、お前の言うとおりだよ、畜生。ええくそ、人間は利他的にはなれんのだ!

 マ  (首を振って)いやアスラよ、そうではない。

 ナ  (顔を上げて)え?

 阿  なに?今、なんと言った?

 マ  そうではないと言ったのだ、アスラよ。そうではない。決して、そうではないのだ。人間は利他的になれる。いいかアスラよ、そしてナッシュよ。人間はやさしくなれるのだ。

 阿  お前はたった今自分が言ったことを否定するのか?それともやはり気でも違ったのか、マイトレーヤよ!

 ナ そうだよ。君はたった今、どんなに利他的に見える行為であっても実は利己主義の原則に従っていると言ったじゃないか。たとえ困っている人を救う為であっても、それは実は自分のためだと。

 マ  その通りだ。CがDに親切にしたのは自分自身の精神的苦痛を取り除くためであるから、そのような行為は利己主義の原則に適っている。

 ナ  だったら……。

 マ  しかしナッシュよ。それでは聞くが、そもそもどうしてCは精神的苦痛を感じたのだろうか? 

 ナ  え?

 マ  考えてもみてほしい。CにとってDは未知の人物だ。しかもみすぼらしい、異邦人の、赤の他人であるのだ。言葉も違う。民族も違う。文化も違う。およそ共通点などは見つかりそうもない。

 それなのにどうしてCは、赤の他人であるDの苦境を見て心を痛めてしまったのだろう。彼自身は飢えているわけでも、苦境に立っているわけでもないというのに?罪もなく、何の落ち度もない彼には全く、胸を痛めるべき理由などないのだ。

 いやそもそも、それが赤の他人ではなくとも、Cが苦しまねばならぬ必然的な理由などどこにもない。相手が例え顔見知りであっても、血を分けた家族や親族であったとしても、或いは妻や恋人や実の子供であったとしてもそうなのだ。なぜならそれらの人々はCにとって、あくまで「自分ではない人間」であって、言うなれば「他者」であるのだから。誰もが知っている通り、人間は「痛み」や「飢え」や「寒さ」といった、他者の体験している感覚を共有する事は決してできない。それは、相手がどれほど自分に近い、大事に思っている家族や恋人であってもそうなのだ。どんなに誰かを愛しても、人間は決してその相手の苦痛を直接感じることはできはしない。

 ではどうして、Cは赤の他人の苦境を目にして精神的苦痛を覚えたのだろう?どうして彼は、なんら必然的な理由などないというのに、他者に過ぎないDを見て哀れんだり、胸を痛めたりできたのだろうか?

 ナッシュよ、そしてアスラよ。それは彼が、利他的な心を持っているからに他ならないのだ。彼が本当の意味で、やさしい心根の人間であるからなのだ。

 今も言ったように、Cには赤の他人の苦しむさまを見ても胸を痛める必要はなどい。実際、多くの人間はこうした光景に出会ったとしても、胸を痛めることなどないだろう。そうした人間は目を逸らすか、まるで何事もなかったかのように歩き去ってしまう。それが正常な反応である。

 しかしCにはそれができない。それは何故かと言えば、彼の心がそのようにできてしまっているから、というのが最も適切なのだ。彼の価値観が、彼の心に哀れみや同情心を生じさせ、その苦痛の故に無視することができないのだ。彼の価値観が、通常人よりも多分に利他的に出来上がっているために、赤の他人をも見棄てておけないほどに、心根がやさしくできてしまっているために。

 ナッシュよ。このような人間だからこそ、彼を利他的な人間であると言えるのだ。他者の苦しみを見て自分自身もまた苦しみ、他者の喜びをまるで自身のことのように喜ぶ。いや、喜ぶことができる。このような心情を有する人間、このような価値観を有する人間こそが利他的な人間であり、このような心根から発する行為こそが、利他的な行為と言えるのだ。

 そのような心根から起こす行動は、それが例え利己主義の原理に違反しないとしても、同時に利他的であると言える。その心根自体が利他的であるがために、その行為もまた利他的であるのだ。

 ナ  ああ。ああ、そうだ……その通りだ!

 マ  このような利他的な人間であっても、他者の苦しみをそのまま感じているわけではない。しかしそれでも利他的な人間にとって、他者の苦しみは自分に苦しみを呼び起す原因となり得るのだ。故にそのような人間にとって他者の苦しみを取り除くことは自分の苦しみを取り除くことに直結し、同様に他者の喜びがまた自分の喜びともなる。だからこのような人間にとって利他的な行動は自身の利益に直結し、それ故にその行動は常に利己主義の原則に適っている。

 ナッシュよ。先も言ったように、人間は決して利他主義者にはなれないと私は考えている。人間は他のあらゆる生物と同じく、利己主義の原理からは逃れられはしない。

 しかしそれでも、利他的になることはできる。人間は利己主義に支配されながらも、それでも自分の意志で利他的になろうと意図することのできる、唯一の生物であると私は思う。

 利己的な利己主義者になるか、それとも利他的な利己主義者になるか、それは君たち次第なのだ」

 マイトレーヤはこう言った。