5 行為の外形と内面の区別について


 マ  さて、今このように私の考えるところの「利他的な利己主義」について説明をして、これのみが人間にとって可能な利他の精神であると主張した。もちろん私の主張はこれで終わりということはなく、これを元に持論を展開していくつもりではある。

 しかしその前に、ここで利己と利他の違いについて改めて解説することで、その違いについて整理しておくこととしよう。

 まず行為においては、外形と内面の別があることに注意したい。

 ナ  外形?

 マ  内心の動機に関わりない表面的な、誰にでも観察可能な行動ということだ。

 ある人物が金銭を所有していたとして、その金銭の消費が彼自身にのみ利益や快楽をもたらすとしたら、それは外形上は利己的な行為といえる。これに対して彼がその金銭を誰かに贈るであるとか、その金銭で購入した品物を他人に譲与することなどによって、彼以外の他人に何らかの利益や快楽をもたらす時、外形上は利他的な行為である、と言うことになる(一応いっておくが、これはあくまで外形上の区分であることに注意してほしい。この区分では内心の動機は問題としていないのだから)。

 さてこの外形上の区別を踏まえた上で、その内面の動機を探ってみるとしよう。

 まずは「外形上の利己的な行為」についてであるが、これについては複雑な事情はなく、何ら問題が生じない。というのは、これは行為者当人にしか利益をもたらさない行為なのであるから、その内面の動機についても疑いなく自分のみの利益のため、つまり利己的な動機から生じた行為であると言えるからだ。つまり外形上が利己的な行為というのは全て、動機においても「純粋な利己主義」に基づいていると言えるのだ(本当はそう単純ではない。外形上が利己的な行為であっても、内心においては利他的な動機に基づいている、という状況もまた考えうるからだ。例えば他人に心配をかけたくない気遣いから、無理に食事したり楽しむ様子を見せる、といった場合がそれだ。しかしそれを述べると煩瑣になるので、ここではひとまずこう片付けておく)。

 このように外形上が利己的な行為については問題がないが、外形上が利他的な行為についてはそうはいかない。なぜなら我々がこれまで論じてきたように、一見すると他者のために為しているように見える行動についても、内心を覗いてみれば利己的な動機に基づいているということが多々見られるからだ。外形が利己的な行為は動機においても利己主義に基づいていると言えるが、外形が利他的な行為の場合は利己的な動機と利他的な動機の二つに分けることができるのだ。

 さて、この場合の「外形上は利他的だが利己的な動機に基づく行為」とはどのようなものか?それは、ある人物Aが金銭を支払って商品を購入し、しかしその商品を自分では消費せず他人に贈るのだが、実はその裏に利己的な動機が潜んでいるという場合がそれである。例えばAを男性とするならば、交際中の女性や意中の女性に貴金属や装身具を贈ることでその見返り(好意や性的快楽)を期待する、ということである。この場合は貴金属や装身具を与えることでその女性に利益をもたらしているわけだが、その内心の動機を見ればあくまで純粋な利己主義に基づいた行為であるといえる。

 またこれほどに明け透けな例でなく、何ら見返りの期待できそうにない相手に金銭を施す場合であっても、実は利己的な動機に基づいているということがある。例えば慈善事業などで困窮者に施しを行うような場合であっても、その施しをすることによって優越感を味わったり、それをすることで達成感を得て自分の価値を高めようとしたり、或いは単に名声を得て周囲の評価を得るなどといった動機が潜んでいることがある。これも利己的な動機である。

 これらはどれも自分自身の満足のためと言えるのであり、つまりはどんなに立派に見える行為であっても、内心の動機としては「純粋な利己主義」より発した行為であると言えるのだ。

 さらに述べるなら、カントが述べている「義務感から生ずる行為」もまた動機としては利己的であると言える。カントは人間とは或る傾向性(欲望)に引き寄せられる動物であるといい、この傾向性に逆らい理性的な行為をすることによって、初めて人間は真に自由になれるのだ、と説いた。しかしこれでは、「自分」が「真の自由」(という価値)を手に入れるために他者を助けるということになってしまうのであり、その動機は結局は利己主義に則っているということになってしまうのだ。同様に、「善行を為せば死後に天国に行ける」とか「善人になれば神に愛される」などといった動機から為される善行(外形上の利他業)もまた、「自分が」天国に行くという利益を得るため、神よりの好意という見返りを得るためということになり、これらも利己主義であると言えるのだ。

 我々はこのように議論を進め、利他主義ということをあまりに厳密に規定した為に、人間のあらゆる行為は利己主義という行為原則に則っているのであり、したがって人間には利他主義は不可能であると信じるに到った。そう、人間は純粋な利他主義者にはなれないのだ。

 しかし私には、人間の全てが愚かで自分本位の生き物であるようには見えなかった。そこで私が見い出したのが「利他的な利己主義」ということであった。

 私は人間の内心における価値観に着目し、その価値観において優先順位の高ければ高いほど、人間はその相手に対して共感することができることを知った。Bという人物を例にすると、このBが高い価値を与えている人物(親や兄弟姉妹、子供、恋人や配偶者など)が苦しんでいればB自身もまた精神的苦痛を感じ、反対に喜んでいればB自身もまた精神的な満足感を得ることができる。これは共感の働きによるのであって、その人物(B)にとって価値の高い(優先順位の高い)対象であるほど共感の度合いは強く、価値が低くなればなるほど共感の度合いは低くなる傾向がある、と。

 このように人間には自分が価値を認める相手に共感する能力があり、この共感の働きこそが利己的な利己主義(純粋な利己主義)と、そうではない「利他的な利己主義」とを分ける肝である。利他的な人間はそうではない人間と比較してより強く他人に共感する。利己的な人間は他者が苦しんでいても心が動くことはないが、利他的な人間は他者に共感することで自分もまた精神的苦痛を感じることになる。その時に利他的な人間の内心には、自分の心に生じたその苦痛を除去する為に、他者に手を差し伸べる動機が生じるのだ。これは他者の苦痛を除く場合だが、他者に益を与える場合もまたこれと似た心の働きがある。利他的な人間は他者に喜びを与えることで、自分もまた喜び(利益)を受け取ることができるのだ。

 以上のことから、Bのような利他的な人間が共感の働きによって他者の苦痛を除いたり、他者に利益を与える時には、(B自身の苦痛を除いたり満足感が得られるという意味で)B自身の利益にも繋がっている。つまり利他的な人間の行動もまた結局は自分のためと言い得るのであり、これもまた「利己主義」の原則に適っている。しかしそうではあっても、他人の苦境を見て同情を感じ、或いは他人の幸福を見て自身もまた喜びを感じることのできる者は、その心情において(価値観において)「利他的」であると言える。

 そこで私は、そのような利他的な心情を有する人間が、他者への共感から何らかの行動を起こすとき、その動機を「利他的な利己主義」によるものと呼び、「利己的な利己主義(純粋な利己主義)」とは区別するべきだと考えたのだ。

 以上を纏めるとこのようになる。すなわち、外形上が利己的な行為は、その動機もまた純粋なる利己主義(利己的な利己主義)に基づく。しかし外形上が利他的な行為については、その内面の動機においては利己的な利己主義(純粋な利己主義)と利他的な利己主義に分けることができる、と。

 阿  しかしマイトレーヤよ、そのような分類に何の意味があるというのだ?

 マ  どういう意味かね?

 阿  つまり、そんな分類が一体誰にとって、何の役に立つかということだ。道端に転がって空腹を抱えている人間にとって、パンを恵んでくれる相手がどんな人間だろうと実は知ったことではない。純粋な善意(お前の言い方では利他的な利己主義とやら)からの好意であろうと下種な下心からであろうと(連れの女に鷹揚な面を見せたいであるとか)、腹さえ膨れれば文句もないだろう。

 マ  君の言うとおりだ、アスラよ。こんなことに実際上の利点など何もない。なにしろ人間は外形上の行為なら観察することはできても、他人が内心に抱く価値観も、行為の真の動機も観察することはできないのだから。こんな分類を知ったところで誰も行いを改めようなどとはしないだろうし、このさもしい世界は微塵も変わりなどしない。

 だからアスラよ、これは単なる私の自己満足だ。私が抱えていた長年の疑問が晴れたので、少しスッキリしたというだけのことなのだ。

 それでも敢えて利点を探すとすれば、外面ばかりはいいが真実は傲慢で自分勝手という、まあ世間によくある偽善的な人間を見破る一助になるかもしれない、ということくらいか。富裕な人間が他者に施しをする場面を見ただけではその人間が真に利他的な人間であるかどうか即断できないが、普段の言動に注意していればその人間の本質を見極めることができるかもしれない。そう、例えば『罪と罰』で主人公の妹と結婚しようとする、あの吝嗇家ピョートル・ペトローヴィッチ・ルージン氏のように。あの小説では表面上は立派な紳士であるルージン氏の言葉の端々から彼の狭量と傲慢さが垣間見えたために、ついにその小悪党たる本性が露見したのであった。

 このように、(ちょうど君が例に挙げたように)恋人の上辺だけの善行を見て相手を立派な人間であると勘違いし、ついには結婚してしまうというような取り返しのつかない事態を予防する一助にはなるかもしれない。或いは誇り高い人間が窮境に陥り、施しを受ける場合だ。彼にとってそれは屈辱的なことだろう。その時に相手の真意を見極めることができれば、心から相手に感謝するべきか、それとも口先だけの感謝で済ませてよいかを判断することができる。相手に下心があるなら下手に出るのは屈辱だが、善意に無礼を返せばむしろこちらが礼儀知らずになってしまうからな。……まあしかし、所詮はその程度のことさ。

 阿  まあ、高慢な偽善者の面の皮を剥ぐことができるというなら、それは結構なことだがな。

 

6 偽善者を見分ける冴えたやり方


 マ  さてナッシュよ、君には何か疑問はないかね?

 ナ  (少し躊躇する様子)まあ、あるよ。

 マ  ほう。それはどういうことかね?

 ナ  君は、人間には純粋な利他主義は不可能だけど、「利他的な利己主義」は可能だと言ったね。利他的な人間は、自分にとって大切な人間が喜んでいる姿に共感して、自分もまた精神的な快(満足感)を得ることができる。だから利他的な人間にとって他者を喜ばせることは、結局は自分の利益に繋がる、と。

 マ  ナッシュよ、その通りだ。利他的な人間であるBが、利他的な動機から他者に善行を施す場合、彼のそのような行動は利己主義に則っている。だからこそ利他主義ではなく、あくまで「利他的な利己主義」であるのだ。

 ナ  その場合、その行為からBが得られるのは精神的な満足感だけなんだろう?けれど君はさっき利己主義者として、他者に対する優越感とか達成感を得たいがために他人に施しをすることは(純粋な)利己主義からの行為であるといった。優越感や達成感を得ることを目的とした行為は、外形上は利他行でもその動機は利己主義なんだと。

 マ  ナッシュよ、その通りだ。それは云わば隠れた利己主義者であり、そのような動機を隠して善人ぶる者こそが偽善者の正体であるのだ。

 ナ  それはわかるよ。でも……。つまり、他者に対する優越感だって、自分の価値を高めるという達成感にしたところで、それは言ってみれば精神的な満足感(快楽)ということができるだろう?

 阿  (いかにも嬉しげに)ほう!

 ナ  (アスラとは対照的に、心苦しそうに)君は利他的な人間が他者に利益を与えることで、自分もまた満足感が得られると言った。でもそれは要するに、精神的な満足感であり、快ということだろう?だとしたら、純粋な利己主義者が行為の目的とするところの達成感や満足感といった精神的な快と、利他的な利己主義者が行為の目的とする精神的な満足感の差は、一体どこにあるんだろうって……。

 阿  (見直したようにナッシュの顔を見る)俺はこの人間を見縊っていたようだ。ただ運悪くマイトレーヤの奴の議論なんぞに巻き込まれ、マヌケにもおっ死んだ上に性懲りもなくこんな場所で長話に付き合わされる馬鹿なお人よしだと思っていたが、以外にも見所があるようだ。奴の仇敵である俺でも気付かなかったような議論の粗を捜し出して、お前に突きつけたのだからな。

 マ  アスラよ、その通りだ。彼がこのような論敵となってくれると信じたからこそ、私は対話にふさわしい相手として彼を選んだのだからな。そういうことであるからナッシュよ、君もそんな申し訳なさそうな顔をしなくてもいい。

 それに私には、その疑問に答える用意ができている。それはつまり、カントはやはり優れた哲学者であった、ということだ。

 ナ  何だって?だって君は以前、そして今もカントを批判したばかりじゃないか。

 マ  ああ。しかしそれは、義務に関する部分だ。私が今言おうとしているのは別の部分の理論だよ。

 ナ  というと?

 マ  ナッシュよ。それは、「他人を常に目的として扱い、決して手段として扱ってはならない」という命法だ。

 利己的な利己主義者の場合、彼は自分が利益を施す相手を優越感や達成感を得るための「手段」として扱っていると言える。それに対して利他的な利己主義から他者に施しをする時、彼はその行動によって精神的な満足を得るのではあるが、それでいて相手を行為の「目的」と見做していると言えるのだ。

 まず、利己的な利己主義者の場合を見てみよう。ある富豪がいるとする。この富豪が自宅で豪華な夕食を食べている時、つけっぱなしにしていたテレビのニュースで貧しい孤児院の映像が流れたとする。そしてちょっとした気まぐれから、たまには町の孤児院に寄付でもしてやろうかと思いつく。そして孤児院に寄付して感謝される自分を想像して悦に入り、我ながら良い考えだと自画自賛する。

 もちろん、彼は貧しい孤児院の様子を見て子供達のために胸を痛めたわけではなく、或いは厭なものを見たと不快にさえ感じたかもしれない(言うまでもないが、この不快感は他者への共感から生じるものではない)。それでも彼が寄付を行うのは、それによって自分が単なる守銭奴ではなく立派な人物なのだという達成感(立派な人物になれたという証明)であったり、或いは他者を見下す優越感を得るためであるのだ。といっても彼自身は自分の内心のこのような心の働きを意識しておらず、「こんな善行をするのであるから自分は善人である筈だ」と素朴に信じきっているかもしれない。しかしその内実は以上のようなものであり、彼は自分の欲する達成感や優越感を得るための手段として、孤児達を利用しているに過ぎないと言える。

 このような人間の心根が露呈するのは、その試みが失敗に終わった時だ。即ちそのような施しや贈り物をしたにもかかわらず、相手が自分の期待した通りに嬉しがったり喜ぶ様子を見せない場合だ。そのような場合、利己主義者はまず大抵が不機嫌になる。贈り物をしたのに喜ばないのは相手が我儘だからなどと考え、不愉快に感じたり相手を罵ることまでする。それこそ、彼が相手を「手段」だと考えている証明である。貧者を利用して満足感を得ようとする利己主義者がその施しを相手から拒否された場合、途端にその利己主義者にとって相手は「手段」から「障害」への早変わりしてしまうからだ。つまり、自分が気分よくなることを邪魔する憎き障害、と見做されてしまうのだ。

 利他的な利己主義者の場合はそうではない。なるほど確かに彼は、たとえば子供に贈り物をする場合を考えても、それによって子供の笑顔を見たい(それは彼にとっても喜びである)という動機から贈り物をするのだろう。しかしもしもその目論見が外れ、期待に反して子供が贈り物を喜ばなかったとしても、その父親は残念に思いこそすれ不愉快にはならないし、子供に罵詈雑言を浴びせたりはしない。それは彼が子供の笑顔を見たかった(目的としていた)ので、つまり子供の喜びを直接の目的としていたのであって、決して子供をその為の手段と見做していたのではないからなのだ。手段と見做していないからこそ、子供は彼の中で障害とはならないのだ。

 ナ  確かに思い当たることが多々あるよ。他人に物をあげて喜ばれないと、途端に不機嫌になる勝手な奴ってけっこう多いからね。仕方ないからそういう相手に対しては多少オーバーに喜んで見せたりしなくちゃいけなかったり。……そしてそういう奴って大体、恩着せがましい言い方をする奴なんだ。

 でもマイトレーヤ、そうなると利他的な利己主義に適った贈り物って言うのは、かなり少なくなっちゃうんじゃないかな。というのは普通の人だって、例えば友達や知人に旅行のお土産なんかをあげたりして喜んでもらえなかったら、少しは不機嫌になってしまうものだと思うんだけど。

 マ  そうだろうな。しかし不機嫌になったとしても、その矛先が自分自身に向かうのであれば話は別だ。それは相手の喜ぶ物を選んであげられなかった自分に腹が立つということで、こうした自責の念、或いは純粋に残念だと感じるのは利己主義からではない。

 次に、人間には様々な性格の人物がいるということを考慮しなくてはならない。普段から怒りっぽい人間と温厚な人間の場合は、このような事例における反応を同列に扱うことはできないであろう。

 そしてもっとも重要な点として、一つの行為において利己的な利己主義からなる動機と利他的な利己主義からなる動機の、双方が同時に含まれていることが大半だということだ。人間が純粋に単一の動機から行動を起こすということはむしろ珍しいのであり、大抵は異なる幾つもの動機に導かれて実際の行為へと移る。

 例えばここに売れない小説家がいたとして、彼が一文にもならない原稿をひたすら書くとしたら、それはなんのためだろう?彼にとって原稿を書くことは決して娯楽ではない。それは苦しいことなので、彼にとっては日々を怠惰に過ごすことの方がよほど楽に決まっている。それはどう考えても本になる見込みなどないもので、当然ながらどこからも報酬は入らないというのに、彼が苦心して原稿を書くとしたら、それは創作意欲のためだろうか?作業自体は苦しくとも、それは彼に喜びをもたらすということだろうか?

 そうかもしれない。それは嘘ではないであろう。しかしそのように立派なことを言ったところで、心のどこかには「少しでも誰かに認めてもらいたい」とか、「ひょっとしたら」などというさもしい名誉欲がないとは言い切れないであろう。このように人間の行為においては、一つの行為に幾つもの動機があることはむしろありふれたことである。

 例えば夫が自分の愛する妻にプレゼントを渡すような場合を考えたとして、それは純粋な好意が動機の大半であったとしても、どこかに相手の機嫌を取ろうとか家庭内の自分の地位を向上させようとなどという利己的な、といってもささやかな動機が混じっていることもあろう。ナッシュよ、それはむしろありふれたことなのだ。そしてそのような場合、その利己的な動機がどれほどの割合を占めるかによって、贈り物が拒絶された場合の感情の変化は異なるであろう。

 ナッシュよ、以上の説明で納得してもらえたか?他人を手段と見るか目的と見るか、それが内面の動機における純粋な利己主義と、利他的な利己主義を分ける分水嶺となるのだ。

 ナ  納得したよ、マイトレーヤ。

 マ  ありがとう。付け加えれば、こうも言い換えることができるだろう。他者を目的とするということは、相手に共感していなければ不可能である。これに対して他者を単なる手段と見做すことは、相手に共感していては不可能である。であるから、相手に共感しているか否か、これもまた両者を見分ける要点である。

 マイトレーヤはこう言った。


7 特殊な価値としての「愛」について


 阿  少しは見所があると思ったが、もう言いくるめられたか。まったく、よくよく舌の回ることだな、弥勒菩薩よ。それでは仕方ない、次は俺の番だな。

 マ  おやアスラよ、君も何か疑問があるのかね?

 阿  むろんだ。人間にばかり菩薩のお前に反論させていたら、阿修羅の王であるこの俺の名が廃るというものだ。

 マ  それでは君の反論を聞かせて頂こう、阿修羅の王たるヴァイローチャナよ。

 阿  よかろう。それはこういうことだ。弥勒菩薩よ、お前は先の説明で、人間の内心の価値観とやらを図表にしていたな。

 マ  アスラよ、その通りだ。

 阿  お前はこうも言った。全ての人間にはその人間に固有の価値観があり、その価値観に従って優先順位を定めていると。そして内心の価値観における価値が高い程にその対象は優先順位が高く、低いほど優先順位は低いのだと。そしてお前が挙げた例によれば、その人物にとって近しい人物、例えば親や兄弟姉妹といった家族、或いは配偶者や実の恋人といった連中は価値が高く、友人から単なる知人、そして赤の他人などと関係が遠ざかるにつれて優先順位は低くなってゆくのだと。間違いはないな?

 マ  (必ずしもその通りの順番とはならないが、しかし)アスラよ、その通りだ。

 阿  しかしマイトレーヤよ、お前の言うところの「価値」とは一体何のことだ?家族や恋人や子供などに、一体どれほどの特別な価値があるというのだ。人間の価値とは何で決まるのだ?

 例えば能力という観点がある。それは分析力や理解力や判断力などといった知的な能力であったり、腕力や脚力・跳躍力や運動神経といった身体的な能力もある。或いは勇気や忍耐や篤実さなどといった品性、つまりは精神的な美点を有する者もいる。あるいは能力なんぞは二の次で、経済力や所有物の多寡や社会的地位の優劣で他人の価値を測る浅はかな者もいる。

 さて俺は今このように様々な価値をあげつらったが(その気になれば他にも色々あることだろうさ)、しかし実際のところは人間なんぞどいつもこいつも似たようなものだ。人間界をざっと眺めてみれば、それはまあ一人一人を調べてみればその能力には多少の差異もあるだろうが、大抵の人間は似たり寄ったりではないか。というより、多少でも見所のある、目を瞠るほどに優れた美点を一つでも持ち合わせた人間なんぞ見つける方が難しい。それ以外の人間はまあどんぐりの背比べといったところで、大して利巧でもないくせに有名大学を出たという程度で賢しらぶって他人を見下す者もいれば、本格的に鍛えたこともないくせに体がでかいというだけで態度まででかいような馬鹿な連中もおり、そして自分の手柄でもないくせに、富裕な家庭に生まれたというだけで自分を優れた人間の一人であると信じ込んでいる愚かな俗物もいる。

 このように、一口に価値と言っても様々な観点があり、そしてどんな観点によっても、そこに大した有意義なほどの差異など見い出せないのだ。それなのにどうして内心の価値観における優先順位とやらにおいて、とりたてて優れたところもない自分の配偶者や子供、或いは家族などにもっとも高い価値があると言えるのだ?ある人間の子供は、その親にとってすればたしかに特別な人間ではあろうが、それ以外の大多数の人間にとってはどこにでもいる、ありふれた平凡な子供に過ぎないではないか。

 さらに言うなら、この世には数こそ少ないものの、本当に優れた能力を有する人間達は確かにいる。歴史上の偉人がそうだし、より身近にすれば一流のスポーツ選手や学者や芸術家などがそれに当るだろう。

 これらの人間は、凡人とはかけ離れた優れた能力を有する(そしてそれを万人に認められている)が故に偉人と呼ばれるのであり、賞賛され、尊敬の念を払われている。つまりは客観的に、大多数の凡人より優れているということが言えるわけだ。

 とすれば、どういうことになるか?このように万人も認める偉人というのは、明らかにその偉人とは無関係の或る人物(仮にCとでも呼んでおこう)にとって、Cの家族や友人知人よりも高い価値(様々な能力)を有していると言えるのだ。だとすれば弥勒菩薩よ、このCにとって、話したことはもちろん会ったこともない赤の他人でしかない無関係の偉人は、その内心の価値観において自分自身よりも、そして自分の家族や恋人や配偶者、そして実の息子や娘よりも優先順位が高いことになるのではないか?

 マ  アスラよ、もっともだ。阿修羅の王であるところのヴァイローチャナよ、君の疑問は実にもっともだ。私はそれについて話さなければならないが、まだ話してはいなかった。だから君がそのような反論をしたのはもっともなことだ。

 しかしそれには理由があって、私自身にもまだはっきりとした考えがなかったからであるのだ。だから君たちには一緒に考えてもらいたい。

 君の言うように、人間が備える価値には実に様々なものがある。アスラは能力という観点を挙げたが、他にも例えば尊敬か軽蔑かという人格的観点、自分にとって役に立つか否かという道具的な価値もあり、或いは好みの外見か否かといった美的価値もあれば、単純な好悪、そして親愛を感じるか憎悪の対象か、という観点もあり、挙げようとすればきりがないだろう(但しこの分類も思いついただけで、正しくない可能性がある)。

 そしてこれは、私が先に説明に用いたような、個人の価値観における優先順位には必ずしも一致しない(むしろ一致しない方が多いかもしれない)。俗に馬鹿な子ほど可愛いなどといったりするが、利巧な子供は疎ましく、多少は物分かりが悪い方が却って素直で愛らしく感じる、ということはあろう(その場合は素直さ、愛らしさという美点があるとも言えるが)。それは自分の子供でなくとも、例えば教師にとっての生徒にも当てはまる。或いは多数の異性の中から恋人や配偶者を選ぶ場合でも、その選択においてどの価値を重視するか(例えば財力、知力、外見、性格など)はそれこそ千差万別だし、どの価値観においても、必ずしもより価値の高い相手を選ぶ、というわけでもない。たとえどんなに能力の高い、言ってしまえば有用な人材だとしても、それだけで相手を家族や恋人以上に大切な人間だとは位置づけることはできないし、歴史上の偉人にどれだけ尊敬の念を抱いていたところで、会ったこともない人物を実の家族よりも大切にすることはできないであろう。

 これはどういうことか?

 思うに、私が以前に説明に用いた内心の価値観、内心の優先順位において尺度となるその価値というものは、他の価値とは一線を画した、特殊な性質を有する価値ではないのではないだろうか?

 つまりはこういうことだ。片や、自分にとって何らかの理由で好ましい性質を有する価値がある。これはつまり有用であったり、稀少であったり、華美であったり、何らかの身体的快楽をもたらしたり、とにかくそういった好ましい価値であり、それを備えた対象だ。それは価値倫理学を唱えたあのシェーラー流の用語法では「財」ということになる。「財」とは言っても日常の用語法とは違い金銭的価値を持つ物体には限らず、とにかくあらゆる意味で好ましい価値を備えた、有形無形を問わない「対象」だ。この財とはいわば所有する対象であり、所有することで何らかの満足感(快楽)が得られるものである。

 これに対して、私が先に話したところの内心の価値観における、恋人や配偶者、家族や友人知人、といった対象がある。これは「所有の対象」ではない(そのような場合もあるだろうが、ここではそのような観点では捉えていない)。

 というのは、例の図表を用いた説明でもそうであったように、この価値観における恋人や家族というのは、むしろ自身の財を分け与える対象であったからだ。自分の所有物(財)を他者に贈った時に自分が得られる満足感について私は説明した。そしてこの価値観においては、より優先順位の高い(価値の大きい)相手に財を与えた場合に、より多くの満足感を得られるのだった。これはその相手を財として「所有の対象」として見ているのではなく贈与の対象といおうか、「配慮の対象」として捉えているということだ。

 そしてこの「配慮の対象」としての人々は、必ずしも他の価値観、つまりは能力や有用性、美的価値などといった客観的な価値の多寡や優劣だけではその順序は決まらない。そのような客観的価値よりもむしろ心情であるとか親愛感とでも言おうか、とにかくそういった主観的に決定される価値に左右されるのだ。だからこそ、能力こそ高いが赤の他人でしかない歴史上の偉人よりも、とりたてて変哲もない実の家族の方が「配慮の対象」としての優先順位は高くなるということに何ら不思議はないということができる。

 しかし思うのだが、この内心の価値観にはもっと適切な呼び方があるという気がしてならない。この内心の価値観は、一体何と呼ぶべきなのだろうか?

 ナ  (怪訝そうに)「愛」じゃ駄目なの?

 マ  (大きく目を見開く)……何?

 ナ  え?

 マ  いや……すまないが、もう一度言ってくれないか。ナッシュよ、君は今、何と言ったのだ?

 ナ  (戸惑いつつ)いや、だから……普通に「愛」ってことじゃ駄目なの?どうも君の話を聞いていると、ずっとそのことについて話しているように思えたんだけど……。

 マ  (暫らく無言。じっと考えている。やがて不思議そうに)そうか……。そう、だな。ああ、たしかにそうだ。君の言うとおり、それは愛と呼ぶのが一番適切であるだろう。

 ナ  (不安そうな面持ち)どうしちゃったのさ、君。なんだか妙な顔してるよ。別に、無理に僕の意見を取り入れてくれなくてもいいんだよ。

 マ  いや、君に言われて得心がいった。他者に共感すること。他者の苦境を見て自らも苦しみ、他者の喜びを自身の喜びとすること。他者に高い価値を感じながら、しかし所有の対象ではなく、むしろ配慮の対象とする価値観。……それはまさしく愛という言葉を当てるのが適当だ。君の意見だから尊重するというわけでなく、心の底から納得した。

 (首を捻りつつ)しかし我ながらおかしいのは、言われてみればこんなにも当たり前のことが、どうして私にはさっぱり思いつかなかったかということだ。まったく不思議なことだ。

 阿  (意地の悪い笑い)教えてやろうか、マイトレーヤよ。何、そう不思議がることもない。天界でずっと修行ばかりしてきたお前はまだ、本当に他人を愛したことなどないということさ。

 マ  アスラよ、笑っているな。しかし言っておくが、君としては単なる冗談を言ったつもりとしても、それは少しばかり洒落にもならない冗談なのだぞ。

 険悪な雰囲気。ナッシングが二人の間に割って入る。

 ナ  (慌てた口調で)ところでマイトレーヤ、その「愛」に家族や友人知人なんかが含まれるということは、この愛というのはいわゆる恋愛感情ではないということでいいんだね?

 マ  ああ。というより「愛」をこのようなものとして捉えるなら、日本語でいうところの「恋愛」という言葉には問題が生じるな。(日本語としての語源はともかくとして)私の意見では、恋情と愛情とは異なる感情であるからだ。

 ナ  というと?

 マ  私の考えでは、恋情とは「相手を欲しがる」感情を指す。これはつまり、欲望の一種であるに他ならない。

 これに対し愛情とは先に述べたとおり、相手への共感に基づき、相手へ配慮する感情だ。言い換えれば、愛情とはつまり、「相手の幸福を願う」感情である。恋情が欲望の一種であるのに対し愛情は相手を所有したいと欲するわけではなく、つまるところ欲望ではないのだ。

 だから日本語で言うところの「愛欲」という言葉もまた適当ではない。愛欲とは異性に対する肉欲なのだから、性欲あるいは色欲と呼ぶべきなのだ。

 ナ  恋心を欲望だと決め付けてしまうのは少し乱暴じゃないかな?君の言うような性欲とは無縁な、いわゆるまあプラトニックラブなんて言葉もあるんだからさ。子供の頃の恋愛感情には、性欲が伴わないことの方が多いわけだし。

 マ  わかっている。しかし注意してもらいたいのは、性欲(肉欲)が伴わないといっても、それが恋情であるからには相手を自分のものにしたいという感情とは無縁でいられないだろう、ということだ。逆に相手を独占したいという気持ちが少しも伴わないとすれば、それは恋情とは呼べないであろう。

 つまり恋情には二つあって、肉体的な性欲の段階と精神的な段階に分けられる。これに対して愛情には肉体的な段階がない。というより、そもそも愛情は欲望ではない。

 そして恋情と愛情の関係性は煩雑で様々な事例があり得るので、愛情に疎い私などにはとてもその全てを言い尽くすことはできない。俗に恋心が時間の経過によって愛情に変化するといい、もちろんそうした場合もあるだろうが、そうでない経緯をたどる場合も多い。愛情は恋情の上位互換ではないし、互いに背反するものでもない。

 例えば、恋情を寄せる相手に同時に愛情を感じていることも珍しいことではない(そうした場合に限れば「恋愛」という言葉は妥当といえるだろう)。片思いの相手が結婚するのを知って泣く泣く身を引く場合がそれだ。恋焦がれる相手が他人のものとなり、悲しみを感じながらもそれを祝福する気持ちをも抱くとしたら、その者は「相手を恋人としたい」という恋情(欲求)と「相手の幸せを願う」という愛情を共に抱いていると言えるのだ。

 (わざとらしくアスラの顔を見て)おや、どうしたねアスラよ?

 阿  (苦渋の表情。搾り出すような声で)それは仕返しのつもりか、マイトレーヤよ?

 マ  (わざとらしく飄々とした表情を造り)さて。ともあれ「愛」という特殊な価値については、ひとまずここまでにしておくとしようか。

 マイトレーヤはこう言った。