第二部 2012年12月22日

 

  1  起床 

 

 その日――即ち西暦2012年12月22日――数奇なる運命の下に生まれた若者である我らがナッシング・アッシュフィールドが彼の所属する研究室で目を覚ましたのは、冬の太陽も既に高々と昇った正午の少し前のことであった。彼はいつになく穏やかな気分で目覚め、少し意識がはっきりしてくると、まずその事実にひどく驚いた。――というのも、久しい以前から彼は自身の存在を脅かすかのような悪夢ばかりを見ていたので。だからそのように熟睡すること自体が珍しいので、彼はこうまで寝過ごしてしまったのである。

 彼は目を覚ましながらも、その意識の半ばは幸福な夢の世界を引きずっていた。そしてその夢に思いを馳せていた。……が、残念なことに夢の思い出は捉えがたく、指からスルリと抜け落ちるように、次第に薄れていってしまった。

 この、いつにない穏やかな気持ちが、その夢からの贈り物であることは明らかなので、そのように記憶が薄れることは残念なことに違いはなかったが、それほど気落ちするわけでもなかった。その細かな内容は忘れてしまっても、その幸福な印象は確かに自分の心に残っているのだし、何よりもこれからいくらでも、この夢の続きを見ることはできると確信できたからである。

 そうして夢の世界への未練を振り切って起き上がり、彼は自分が昨夜、己の研究室に泊まったことを思い出した。そしてそのようなことになったそもそもの経緯を思い起こし、ある一つの、重要なことを思い出した。彼がそのように満ち足りた気分で目覚めることができたのはその美しい夢のお陰だけではなく、昨夜できたばかりの新しい――そして彼にとって唯一の――友のお陰だということを。

 その彼の恩人はというと、壁に向かって並んだ机の内の一つに肘を置き、椅子に腰を掛けて何やら熱心に本を読んでいた。彼はその姿を見て安堵した――というのも、この常人離れした友人のことだから、何の挨拶もなしにいなくなってしまうのではないかとか、そもそも全てが夢であったのではないか、との思いを捨て切れなかったからである。

 当のマイトレーヤはというと彼の目覚めたのに気付き、本から顔を上げると、振り向いて言った。

 「やあ、ナッシュ。よく眠れたようだな」

 「おかげさまでね。ところで、今は何時かな」

 「十二時を少し過ぎたところだ」

 「十二時!僕はそんなに寝ていたのか!」

 「そんなに驚くことではないさ。なにしろ私達は昨夜遅くまで話していたことだし、君はどうやらこれまでの人生において、絶対的に睡眠時間が不足していたようであるから。それを取り戻すことは、むしろ喜ぶべきことだ」

 マイトレーヤはそのように言って微笑したが、ナッシングとしてはやはり気恥ずかしいという思いがあり、また自分がそのように寝過ごしたことで彼を待たせてしまったことを申し訳なく感じた。するとそれを察したかマイトレーヤは口を開いた。

 「気にすることはない。私はこの部屋の本を読みたいと思っていたし、実際に読むことができたのだから」

 その時、ナッシングはふと違和感を覚えた。実を言うと彼はあまり研究室に顔を出さないので気付くのが遅れたが、部屋の印象が昨夜とはどことなく違っていた。

 よく見ると書棚の書籍が、昨夜までは普段どおりに乱雑に納められていたのに、それがいまや見違える程に整然と並べられている。ナッシングは驚き、マイトレーヤに訊ねて言った。

 「本棚をわざわざ片付けてくれたのかい、マイトレーヤ?」

 「いや、私は片付けなどしていないよ」

 「だけど……」

 「いやナッシュよ、私は本当に片付けなどしていない。ただ、書棚の本を一通り取り出して読んだので、それを戻したことで自然と整理されたという、それだけのことだ」

 こともなげな友人の言葉に、今度こそナッシングは息が止まるほどに驚いた。それはつまり、マイトレーヤがこの一晩の内に部屋中の書物を読んでしまったことを意味したからである。しかしナッシングはその言葉を受け入れた――並の人間ならともかく、この友人は昨夜も自分との会話を続けながら一冊の書物を忽ちの内に読んでしまったことを思い出したので(もとより彼は、この友人が意味もない嘘を吐くとは考えていなかった)。

 「だけどマイトレーヤ、君は一体何時に起きたんだい?」

 「いやナッシュよ、私は寝ていない。昨夜君が眠ってから、私はずっと本を読んでいたのだ」

 「何だって!君は徹夜したのか」

 「ああ。いや、そもそも私には睡眠の必要はないのだよ――少なくとも、今は。もちろん、眠ろうと思えば眠ることもできるがね」

 「じゃあ、食事は?そういえば君は、昨日から何も口にしていないように思うけれど」

 「もちろん、食事の必要もない。なにしろ、この身体は木でできているのだからね」

 冗談とも本気ともつかない口調でマイトレーヤは言った。ナッシングとしては友人の正体を勘繰るような真似はしたくなかったので、別のことを訊ねた。

 「今日、誰か来なかったかい?」

 「誰か、とは?」

 「他の学生だよ」

 「いや、誰も来ていない。それどころか辺りに人の気配がないようだが。今日は学生は来ないのだろうか?」

 「ああ……今日は土曜日か。大学は土曜と日曜は休みで、講義はやってないんだよ。もちろん、自主的に研究室に顔を出す学生はいるんだけどね」

 「そうか。それでは、今日のところは学生達と対話をすることはできないのだな」

 それを聞いてナッシングは、この友人が他の学生との対話を望んでいたことを思い出し、己の不手際に気付いた。

 「ごめん、昨日の内に言っておけばよかったね。……どうする?それでも、全く誰もいないということはないだろうけれど……」

 「いや、やめておく。というのも私は今のところ、不特定多数の人々との対話を望んでいるわけではないからだ。私はもう少し、君との対話を続けたい。もちろん君がよければ、だが」

 「そんなの当たり前だよ。僕からお願いしたいくらいだ」

 ナッシングは勢い込んでそう言った。実際彼は、この新しい友人ともっと語り合いたかったのである。マイトレーヤは微笑んで言った。

 「ありがとう。ところで君は目覚めたばかりだが、私はともかく君には食事の必要があるのではないか?」

 そう言われて初めてナッシングは空腹を自覚した(彼も昨夜からコーヒーしか口にしていなかったので)。

 「君の言うとおりだ。ちょうど昼時だし、一緒にどこかに食べに行かないか?」

 「申し出はありがたいが、遠慮させていただこう。先も言ったが私には食事の必要はないのだから。……それに君には悪いが、私は今、目が離せないのだ。なにしろ面白い本を読んでいるのでね」

 そう言うとマイトレーヤは手にした書物を示して見せたが、それは分厚い哲学書などではなく、文庫本だった。ナッシングは友人がそのように一冊の本に熱心に目を落とし、昨夜とは異なり一頁ずつ丁寧に読んでいるのを見ると、意外の感に打たれた。

 「一体何を読んでいるんだい?君にしては随分と時間を掛けて読んでいるね」

 「これかね?これは小説だよ。中島敦という日本の作家の小説だ」

 表紙を見せながらマイトレーヤが口にした名に、ナッシングも聞き覚えがあった。

 「アツシ・ナカジマの『わが西遊記』?これなら僕も知っているよ。さすがに日本語ではまだ読めないけれど、彼の作品は翻訳されて英語圏でも読まれているからね。特に『わが西遊記』は彼が生涯を掛けて書き上げた大作で、代表作だから」

 それを聞くとマイトレーヤは興味深いという顔つきをした。

 「ほう、この作品は英国でも評価されているのか」

 「うん。なにしろ日本の小説としては珍しい、形而上学小説の大作だからね。……だけど、意外だな」

 「何がだね?」

 「君がそんなにも時間を掛けていることさ。だって君は、難解な哲学書だってすらすらと、それこそ信じられない程の速さで読むことができるじゃないか」

 「もちろん、そのように速く読むことは可能だ。しかし私は、小説を読む時にはそのような読み方をしない。小説というのは学術書とは異なり、ただ言葉の意味や論理だけを理解しておけばよいというものではないからだ。素早く読めるからといって文学作品をそのように斜め読みしていては小説の真価を捉え損ねる危険性がある。そうしてその小説の価値を感得することができず、せっかくの魅力を見落とすことはあってはならないし、そのために間違った評価を下すことは更に、断じてあってはならないことだ。だから私は、文学作品を鑑賞する時だけはゆっくりと、集中して楽しむことにしているのだ。

 さてそういう訳だから、ナッシュよ。私は少なくともあと一時間は動くことができない。そこで提案だが、君が今日も私の話相手になってくれる気があるのなら、君は私をこのままにしてどこかに朝食なり昼食なりを摂りに行き、しかる後に戻ってきてはくれないだろうか。その頃には私は、この本を読み終えている筈だから。

 どうも勝手なことを言ってすまないが、そういうことでどうだろう?」

 この言葉にナッシングは呆れつつも頷いた。呆れながらというのは、その申し出が彼自身が言うように勝手だと感じたからではなく、落ち着き払ってそのように言うマイトレーヤの全身から、「とにかく早く続きが読みたい」という気迫めいた思いがひしひしと伝わってきたからだった。ナッシングはその事実を新鮮に感じつつ、相手にそのような人間味があることを知って親近感を覚えた。

 こうしてナッシングは研究室にマイトレーヤ一人を残し、朝食を摂りに出かけた。

 

2  雑談;現代の書籍について

 

 大学の周辺には学生御用達の速さ安さが取柄の店がいくらでもあったが、ナッシングは敢えて大学から少し離れた場所にある、まっとうな食事を提供する代わりに少しばかり時間が掛かる食堂まで出向き、そこで出された食事を、これもゆっくりと食した。というのは、マイトレーヤは集中して本が読みたいといったのだから、あまり早くに戻っても相手の読書の妨げになるだけだと思ったからである。

 そうして午後の一時半、研究室を出てからきっかり一時間程でナッシングが戻ると、はたしてマイトレーヤは本を読み終えたところらしく、満足気に微笑んでいたのだった。

 「やあ、おかえり。ちょうど読み終えたところだよ」

 「そうみたいだね。どうだった?」

 「ああ。とても興味深く、また愉快に読ませてもらった。私はオリジナルの『西遊記』も読んだことがあるが、まさか国も時代も異なる作家が、このような翻案小説を書いているとは思いもしなかった。これはまず形而学小説として優れているし、冒険小説としては素直に面白いし、なによりこのラストときたら驚きの一語に尽きる。単に傑作というだけでなく、まさに奇書の名に相応しい」

 「僕もその本はとても好きだよ。ついつい感情移入してしまって……」

 「そうだろうな。君はさぞかし、懐疑主義者の沙悟浄を他人事とは思えなかっただろう」

 「参った、図星だよ。……君はさしずめ、三蔵法師かな」

 そう言われたマイトレーヤは、珍しいことに驚いた表情を見せた。 

 「私が三蔵法師?馬鹿な。私はこんなに人の良い人間ではないよ。そのように誤解してもらえるのは嬉しいがね。……それはそれとして、私がこの三蔵法師に共感を覚えるのも事実だ。それはきっと、彼も真理を求めて旅をしているからだろうな」

 「真理?三蔵法師が求めているのは、インドの寺院にある大乗仏教の経典だろう?」

 「ナッシュよ、それは同じことだ。彼は……いや彼らは、その経典に真理が記されているものと信じ、十年以上もの歳月をかけて唐から天竺まで旅をしたのだから。我々は真理を求めるために対話と思索に明け暮れているわけだが、真理を求めていることには変わりはない。だからこそこの小説の、あのような驚くべき結末が成立するのだ」

 「そうだね。……だけど三蔵は、そこまでして求めてきた経典が自分の求めていたものではないと知った時、絶望しなかったのかな」

 「するわけがない。彼にとってはもはや、そんなものはどうだってよかったのだ」

 マイトレーヤはそのように話しながら解説にまで目を通していたが、やがて『わが西遊記』を机に丁寧に戻して言った。

 「それにしても羨ましいことだ。彼等は幸福だ」

 「何がだい?」

 「この世界のどこかに、この世の真理について記された書物が実在すると、彼らが確信していたことが羨ましいのだ。求めてやまない答えが既にこの世のどこかに書物として存在し、それを探し出せばよいと信じることができたからだ。彼らの旅は苦難ばかりの困難なものではあったが、目的地は予め知らされていたわけだから、諦めることもなく旅を続けることができた。

 一方、我々はどうだろう?我々もまた「答え」を欲している。しかしそれはこの世界のどこにあるのかもわからず、いやそれどころか、そもそもそんなものが本当にあるかどうかすら判然としない。よって我々はがむしゃらに旅をするだけでは駄目だし、自らの頭で思索しなければならず、しかもその探求には終焉がないかもしれないのだ。

 ああ、答えを記されたたった一冊の書物がこの世のどこかにあればよいのにと、私は心から願う。それなら私は、徒に頭を悩ませることもなく、あの三蔵法師のように、世界中を駆けずり回ってでもそれを探し出してみせるものを」

 「さしずめ、君にとっての『真紅の六角形の本』、だね」

 ふとナッシングが呟いた言葉にマイトレーヤは振り向いた。

 「ナッシュよ、それは何のことだ?」

 「いや、大した意味はないよ。実在しない、架空の本の話さ」

 「架空の話でもいい。詳しく話してくれないか」

 いつにない熱心な頼みにナッシングは気圧され、素直に口を開いた。

 「『真紅の六角形の本』というのは、南米アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』という神秘的な短編小説の中に出てくる、実在するかどうかわからない本のことなんだ。その図書館というのが普通の建物ではなくて、まさにバベルの名にふさわしい無限の空間を持つ、この世ならざる、一つの宇宙そのもののような図書館で、そこには存在し得る全ての書物が収められているらしい。

 そしてその中にたった一冊だけ、特別な本がある。それは「他の全ての本の鍵であり、完全な要約」であり、かつてそれを読んだ或る司書は神にも似た存在となったと言われている。そしてその本こそが、『真紅の六角形の本』なんだ。もっともこれは、ボルヘスの創作でしかないんだけど。

 でも、こうした発想はボルヘスだけのものじゃない。詩人のステファヌ・マラルメもまた、他の全ての本を内に包含する、宇宙そのものがその内に封じ込められたたった一冊の書物のことを書いている。これももちろん彼の詩的な空想に過ぎないけれど、それでもこうした特別な書物への希求は誰でも――本を愛する人間なら誰でも――持っているんだと思う。……いや、そんな宇宙そのもののような特別な書物でなくとも、自分だけにとって特別な、たった一冊の本に巡り逢うことを願っているんだ。

 だけど今では、紙の書物の世界でもそんなロマン的幻想とはかけ離れた状況になってしまっている。昨日もだれかが言っていたけれど、この国では年間八万冊もの新刊が出ている。だからほとんど毎日のように色んな出版社が競うように新刊を出して、だけどその殆どが話題にもならずに消え去ってしまう。いやもちろん、本というものは話題になるとか沢山売れればいいってものではないのはわかっているけど、それでもちょっとどうかと思う。まあ人々に一時的な娯楽を提供するための消費財としての本というのも理解できるけれど、それが消費すらされずに消えていく現状は、ネコの額のような狭い牧草地に大量の羊を放つようなものだと思うよ(もっともその群れの中には時折、狼が混じっているという訳だけどね)。

 それに何と言っても、今では欲しい本を探すために、わざわざ書店にまで出かける必要すらない……なにしろインターネットで注文すれば、家まで届けてくれるんだからね。ずっと探しているのに見つからない、なんて本にしても今では、書名や作者の名前さえわかればネットでたちどころに見つけ出すことができるんだ。現代は万事がこんな散文的な調子だから、三蔵法師が経典を求めて十年も旅をするなんて時代とは、全く正反対の状況になっているんだよ」

 ナッシングはこのように嘆き、またマイトレーヤがその話に興味を抱いた様でもあるので、幸いにも研究室に備え付けられている共用のパソコンがあったので、実際にやってみせることにした。

 彼はパソコンを起動しネットワークに繋ぎ、手始めに中島敦の名で検索した。そしてその検索結果の中から、大手の通信販売会社のサイトを表示して見せた。さらにナッシングはその操作方法や画面の表示の意味をいちいち解説したので、賢明なるマイトレーヤはそれをすぐに覚えてしまった。そしてナッシングに席を譲ってもらうと、興味の赴くままに様々な書籍について調べた。そして感想を洩らした。

 「成程、おもしろい。それに便利でもある。特に、あらかじめ欲する本の書名や作者がわかっている場合には重宝することだろう。

 しかし不満が残るのは、これを見るだけでは書籍の内容がいまいち掴めないということだ。小説ならともかく、学術書などの場合はせめて目次だけでも紹介してくれればよいものを。これでは、同じテーマについて記した複数の書物の中から一冊を選ぶには、決め手に欠けるというものではないか。学術書などというものは総じて高価なものだし、それでどうして購入しようなどと思えるのだ?それならやはり、書店で直に手に取る方がよいのではないか」

 「たしかに君の言う通りだけど、サイト上にはその本を読んだ人の感想も載っているよ」

 「その通りだ。しかし、これはどの程度まで信頼できるのだ。たとえ他者が褒める本とて、自分にとって有用なものであるとは限らないし、その反対だってあり得る。そもそも本というのはそういうものではないか?

 まあ、内容からその書き手の人柄や知性の程度もある程度までは推測できるが、それとて絶対ではない。特に手放しで絶賛する者や、全く本を評価しようともせずに貶す者は信用ができない。……それにしても前者はともかく、後者の連中は何なのだ。どうしてそのように平気で著者を罵倒することができるのだ。お前達は一体何様だというのだ?」

 そのように言いながらマイトレーヤはその通販サイトから抜け出し、検索機能を駆使して様々な語句を入力し、現代の知識を摂取していた。ナッシングはふと危惧を覚えた。

 「君ならわかっていると思うけど、ネットの情報をあまり鵜呑みにしてはいけないよ。言いたくないけれど、ネットの情報というのは――」

 「わかっているさ、ナッシュ。ここに書かれていることの大半は、無責任な書き手が記した信頼性の低い情報だ。それは他者の目にも触れるわけだからある程度までは信用もできるが、その正確性には疑問が残るし、また恣意的な点も多々あるだろう。

 しかしナッシュよ、このコンピューターネットワークというあまりに散文的かつ即物的な世界は、たしかに君の言うアナログな紙の書籍の世界、殊に「世界の一切を内包した書物」などという神秘的かつ詩的な世界とは対照的だ。だが私は思うのだが、案外ここにも「真理」は眠っているのかもしれない。『真紅の六角形の本』は今ではその形態を変え、この物理的には実在しない仮想空間に眠っているのではないか……そんな風には思えないか、ナッシュよ」

 「まさか、君らしくもない。ネット上の文章なんて、大半は素人の雑記帳のようなものだよ。それはもちろん、プロの物書きだって自分のサイトに文章を載せたりするけれど、それだってたいして有用な情報というわけではなくて、単なる自著の宣伝とか近況報告なんかに過ぎない。言ってみればネット上に無料で提供されている文章なんていうものは、何かを書きたい、あるいは書き上げてしまった人が、けれどもそれを発表する場を見い出せないために、苦し紛れに載せたものに過ぎないんだよ。つまり、代金を払ってまで読んでもらうような文章ではないということさ」

 そのようなナッシングの言葉をマイトレーヤは微笑しながら聞き、肯定も否定もしなかった。二人はソファーに場所を移した。まずナッシングが訊ねた。

 「それで、何か欲しい本は見つかったかい?」

 マイトレーヤは首を振った。

 「いや、ない。というより、あれだけの情報では判断しかねるというところか。興味を覚えたものはいくつかあったが、どちらにせよ私が求めるような「たった一冊の書物」とはあのような形で出逢うことはできないだろう。それに、そもそも書物によって知識を得ることはできても、知恵を得ることはできないと私は考えている。昨夜、この部屋の全ての書籍を読んで、私は改めてそう感じた」

 その言葉にナッシングは興味を覚えた。

 「そういえば、君はこの部屋の本を全て読んだんだったね。何か収穫は?」

 「いや、私にとって特に目新しいような情報はなかったよ。君は昨日、西洋の思想史について大まかに語ってくれたわけだが、それをもう少し詳しく知ることができたというだけに過ぎない。……いや、君が敢えて語ろうとしなかったのであろう周辺的な思想については興味深く拝読したがね」

 「ハイデガーについては?昨日はあんな言い方をしたけど、自分に受け付けないというだけで偏った説明をしてしまったんじゃないかと、ちょっと気になっていたんだ」

 「ハイデガーか。彼の『存在と時間』の出だしは実に魅力的と感じたよ。「存在への問い」というのは実に抽象的で、文学的というよりも詩的で、まさに哲学の王道たるテーマだ。それは何故かと言えば、その問いがまさに形而上学そのものだからだ」

 「形而上学そのもの?」

 「そうだ。『存在と時間』の冒頭で語られる「存在への問い」というのはつまり、「何か」が「存在する」という、その理由を問うているのに他ならない。つまり、どうして「何か」が存在していて、存在しないのではないのか、というその根本的な理由への問いであるのだ。

 しかし昨日も言った通り、「生まれてきた理由」を問うことは結局、それを生み出した「創造主」の実在を前提として、その創造主の意図を問うことに他ならないのだ。だからこそこの問いは純粋に形而上学的な問いであり、それ故に神秘的で魅力のある問いでもあるのだが、この問いの答えを出すには哲学を踏み出し、神学の領域に踏み込まなければならない。つまりこの問いは、答えのない問いなのだ。それは、ハイデガーが結局は『存在と時間』の完成を断念せざるを得なかったことからも明らかだ。

 しかし、人間という存在者への分析の仕方、つまり今日では実存主義と言われる彼の思想には見るべきところがある。というより、昨夜我々が語り合ったことは結局、実存主義の思想家達の言っていることと大して変わりがない。だからナッシュよ、私は思うのだが、君は実存主義を学んでいればよかったのではないかな」

 ナッシングは驚いた。

 「そうかな?実存主義については一通り学んだつもりだったんだけど。……それでも彼らの言うことは僕の心には届かなかったけど、君の言葉は胸に響いたんだよ」

 「ナッシュよ、それは君の錯覚に過ぎない。昨日の私の話は、実際には彼らとそれほど異なるところはないのだから。ただ、それを文章として読むか、友人の言葉として聞くか、の違いに過ぎないのだ。もしも君が、私の言葉で心が動いたというのなら、それはそういうことに過ぎないのだよ」

そうじゃない、とナッシングは抗弁したがマイトレーヤはまったく聞く耳を持たなかった。そこで仕方なくナッシングは言った。 

 「わかったよ、そういうことにしておこう。……ところで、他に感想は?僕は昨日、西洋思想について現象学までしか説明せず、現代思想については触れなかった。その辺りの思想についてはどう思った?」

 「どうといわれても、あまり言うべき言葉はないな。敢えて言うなら、枝葉末節というところか」

 「どういうことだい」

 「本筋を離れて、周辺的な問題ばかりを深く掘り下げているということだ。いや、それは或る意味では根源的なことなのだろうが、徒に問題を掘り下げてばかりいるように見える。アッシュフィールド博士は自然科学の現状を指して、専門化が進みすぎて外部からは何をやっているかわからなくなっていると嘆いていたが、それはどうやら哲学においても事情は同じらしい。私の場合は、過去の仏教史を思い浮かべたよ」

 「仏教史?なんで仏教が出てくるのさ?」

 「これも昨日話したが、私の師である釈尊の思想は元々は純粋に哲学的なものであって、その思想には難解なところはあっても、それでも必要以上に複雑なものではなかった。

 しかし師である釈尊の死後、その教えは純粋な形を保つことができず、弟子達によって次々と新たな要素を加えられていった(もっとも、それは釈尊が文字の形で教えを残そうとしなかったことに一因があるのだが)。特に、釈尊自身が直接否定した筈の形而上学的要素を混入されたことは、釈尊の教えを大きく変質させてしまった。……これは、インドという土地が宗教と密接に結びついていたからなのだが、とにかくこうして釈尊は神秘化されてしまったのだ。如来や菩薩、明王や天部などといった多様な登場人物、三千世界などといわれる広大なる仏教的世界観は、このようなインドの神秘思想や世界観を取り入れてこの時期に成立したのだ。

 それにまた、思想の面でも複雑化が進んだ。これもインドという土地、いや文明の特質で、彼等は高度に抽象的な哲学・神学議論が得意だったからこのようなことが起きたのだ。なにしろ釈尊の存命中にも六師外道などと言われる大いに勢力があった思想家達がいたほどで、それも唯物論者のアジタ・ケーサカンバリンから懐疑論者のサンジャヤ・ベーラッティプッタまで様々だ。ナッシュよ、このようにインドの哲学は多様で、同時代のギリシャ哲学にも劣るものではないのだ。

 元々がそのような土地柄であったから、シッダールタの教えを信奉する者も、ただ諾々と師の教えに従っているわけではなかった。彼等はシッダールタの教えを研究し、掘り下げ、解釈し、高度な理論化を行った。その過程ではもちろん信徒の間でも解釈の齟齬が生じ、互いに対立した。こうして仏教の外部だけでなく、内部においても様々な学派が生まれ、分裂し、互いに批判と反論を繰り返した。

 そうなれば必然の結果として、教えは複雑となり、高度……いや、ほとんど不必要とまで言っていい程に難解となった。そのために仏教の教えは民衆から離れ、その言葉は自分達の間だけにしか通じなくなり、さらにはその内部に生じた大乗仏教という新しい思想家達によって、元来の教えは「小乗」などと揶揄されることになった。

 この辺りの事情は昨日A博士との議論において話した通りだが、現代の思想の状況というのは私の見るところ、これと大して変わらないようだ。いや、さらに悪いとすら言える。というのは仏教においては釈尊の教えという絶対の真理が、即ち拠って立つ絶対の基点があったのだから。

 しかし現代においては、拠って立つべき地盤を何も持たないまま、いや率先してその地盤を掘り崩そうとして努力しているように見える。「正しさ」の根拠を疑い、それを明らかにしようと欲するのは意義のある試みと言えるやもしれぬが、ややもすれば机上の空論、または単なる知的なゲームに陥っているようにも見える。

 それにしてもこの時代の人々は、物質的には豊かではあっても(といってもそれは先進国の一部の人々のみであるが)、むしろそれ故に精神的には貧困となり、悲鳴すら上げているように見える。だから私としてはそのような状況下で、思想家達がそのような知的遊戯に耽っているのは、むしろ人々の不安を助長させるだけに思えるのだよ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

3  問題設定・「人間は利他的になり得るか?」

 

 「……それで、どうなんだい?」

 ナッシングは訊ねた。

 「君の意見は、少しは変化したのかな」

 「というと?」

 「だから、君の昨夜の結論についてさ。君は昨夜、この世界にも個々の人間にも意味なんてないと言い、いやたとえあったとしても、それは他者が勝手に僕等に押し付けた役割に過ぎないのだからそんなものは無視するべきだと言った。人生というものは本来的に苦しいものだから、それに負けずに生きていくためには自分にとってその苦しみに釣り合うこと、つまり楽しいことや嬉しいこと、そして何より幸福をもたらしてくれるものを追求するべきだと。そうでなければ人生は生きるに値しない。ここまではいいかな?」

 「異論はない。ただしそれは正確には私の意見ではなく、我々の対話によって得られた結論だ。だから私の意見ではなく、私たちの意見というべきだ」

 「そうだったね。とにかく、それが僕たちの出した結論だった。だけどこの結論に、僕は疑問……いや不安を覚えた。というのは、この結論は快楽主義を導きかねないからなんだ。もしもこの結論が正しいとしたら、人間はとにかく自分にとってその時楽しいことばかりを追求して、苦しいことには決して手を出さなくなるだろう。子供は遊ぶばかりで学校の勉強なんて絶対にしないだろうし、家の手伝いだってしないだろう。会社員は給料をもらっても計画的に使わずに浪費してしまうだろうし、快楽殺人者は遠慮なしに殺人を繰り返すだろう。そうじゃないか?」

 「それは快楽主義だが、その中でも刹那主義ということだな。人間といえどもそこまで単純ではないだろう。本格的にスポーツ競技に取り組む者であれば日々を怠惰に過ごすことなく、ハンバーガーや炭酸飲料といった快楽を自ら拒否してでも、彼らにとって苦しい練習に進んで取り組むだろう。また将来は学者になりたいと望む者、いやそうでなくとも良い企業や大学に入りたいと望む者は、怠惰や娯楽といった欲望に向かいがちな自身を制して、楽しくもない勉学に勤しむであろう。

 といっても勿論、彼らが快楽を追い求めないということではない。また、勉学や厳しい鍛錬が彼らにとって快楽であるということでもない。彼等はそのような短期的な努力(それはつまり肉体的・精神的には不快なのだが)に堪えることで、試合における勝利や企業や大学への合格、そして人生における勝利という長期に渡る快楽を得るためにそうするのだ。だからナッシュよ、我々の結論から快楽主義を導くことはできても、それは必ずしも刹那主義に陥ることを意味するわけではないのだ」

 「そうかもしれない。だけど少なくとも、快楽主義は利己主義につながるよ。だって「自分にとって良いこと」を追求するだけなら、困っている人を助けるとか、誰かに贈り物をするとか、そうしたいわゆる善行と言われる行為をする理由が説明できないじゃないか。いやそれどころか、「自分だけに都合のいいこと」を理由に不正なことに手を染めて富を蓄えたり、恋人や妻や夫を裏切って愛人を作ったり、さっきも言ったように快楽殺人者の殺人を後押しすることになってしまう。そうじゃないか?」

 「その通りだ。徹底した利己主義者、それが人間だ。いや、あらゆる生物の本質だ。ただし人間は他の生物とは違って思考能力を発達させたので、その本質を誤魔化し隠蔽することができる、それだけのことなのだ」

 「そんな……」

 「なに、そんなに悲観することはない。そのように利己的なものとして人間を捉えたところで、それなりに円満な社会を築くことは可能なのだ。

 いや、現に君達はそうしている。先に君は利己主義者は困っている人を助けないとか、他者を助けないとか言ったが、必ずしもそうとは言えない。他者を助けることは本人にとって利益となるからだ。それに好色な男なら女に贈り物をする。それは勿論、そうすることにより女の好意を得ることができるためだし、或いはそうして財力を誇示することで自分が「有能なオス」であると教えるためだ。まあどちらにせよ、男はそうやって首尾よく女と寝ることができるわけで、それにより性的な快楽を得ることができる。

 しかし君はもちろん、そのような対価を得るためではなく、例えば子供に玩具や菓子を買い与えるような、純粋なる好意から贈り物をすることもあると反論するだろう。しかしナッシュよ、私に言わせればこうした場合でも、親は子供からの「尊敬」や「父親としての威厳」という対価を得るためにそうしたのだと言えるのだ。

 また君は、利己的ならば人間は悪事に走るだろうと言った。しかし、それは必ずしもそうとは言えない。例えば「嘘を吐く」とか「約束を破る」という(一般的に)悪事とされる行為は周囲からの信用を失わせ、結局は本人にとって不利益となるからだ。また犯罪行為に限って言えば、君たちが発達させた法律や裁判といった制度によって犯人に「刑罰」という不利益を与えることで、そのような犯罪行為が当人にとっては必ずしも利益とはならないようにした。このような社会制度は実際、よくできていると言える。

 人間が何らかの行為をする場合にはこのように、自分にとって利益となるか不利益となるか、という観点から比較考量し、利益の方が多い場合にのみ行動に移す。だから一見すると他人の為に行動しているように見えても、その行動原理は常に利己的であるのだ。

 だからナッシュよ、「人間はその本性として利己的である」といったところで、秩序ある社会を築けないということにはならない。というより、そのような人間の本質を前提にして君達は社会制度を築き、その本質を隠蔽しながら、それなりにうまくやっているではないか。……しかしどうやら、君は納得できないようだな」

 「……うん。だって人間には、別に自分の特にならない場合でも、倫理的に振舞うことがあると思うから。それはやっぱり、利己主義で説明しきれるものではないと思う」

 「ほう。例えば?」

 「そうだね……。たとえば、テレビのニュースなんかで、嫌な事件についての報道を聞いた時かな。親が子供を虐待するとか、育児放棄の結果死なせてしまうとか、そんな報道を聞く度に僕たちは嫌な気分になるし、そんな身勝手な親に対して怒りを覚える。それは、倫理的な怒りだ。こうしたことは、人間が利己的であることからは説明ができないよ」

 「ナッシュよ。私は遠慮することなく言うが、それは君がそのような事件の被害者である子供と、自分自身とを同一視しているだけだ。つまり君は、「自分のために」怒っているのだ」

 ナッシングはこれを聞くと思わず言葉を詰まらせた。しかし相手の言い分は正しいと悟って冷静さを保って言った。

 「……そうかもしれない。たしかに僕の場合、報道や何かで知る身勝手な親達に怒りを感じる場合、自分自身を子供と混同させているだけかもしれない。……とにかく、この例については僕は冷静に語ることができないようだから、別の例を挙げよう。

 じゃあ、無差別の大量殺人事件なんかの場合はどうだろう?あるいは、女性を狙った暴行犯の場合は?こうしたニュースを見たり聞いたりする時も、僕は(自分自身が被害に遭った訳でもないのに)犯人に対して怒りを覚えることがある。それは僕だけじゃなく、大抵の人がそうだろう。これはやっぱり悪に対する倫理的な怒りであって、つまりは人間には一般的に言って、利己主義とは相反する道徳観が備わっている証拠なんじゃないかな?」

 「ナッシュよ、たしかにそうしたこともあるかもしれない。しかしそれも突き詰めて考えれば、利己主義からくる感情として説明することができるのだ」

 「どんな風に?」

 「つまりそれは、そのような悪事を為した犯人に対する、羨望や嫉妬に由来する怒りなのだ。というのは、君達は普段はどんなに嫌な目にあっても、相手を殴ったり蹴ったり殺したりすることを躊躇する(もちろん、我慢しきれずに手を上げることもあるのだが)。またどれほど魅力的な異性を見かけて、たとえ相手に欲情を覚えたとしても、後先を考えずにその相手を押し倒したりするような真似はしない。また、どんなに金が欲しくともそのために窃盗を犯す者は少数派だ。だから君達のような「良識のある」一般人は仕方なく、どうにかしてストレスを発散したり、女に贈り物をして歓心を買ったり、真面目に働いて金を稼いだりしている。

 しかし世間にはそのような地道な努力には我慢できずに犯罪行為に手を染める者も少なからずいる。その時君達は、そのような犯罪者に対して「ずるい」と感じる。つまり、「自分達はやりたくても我慢しているのに、どうしてあいつだけが?」と、このように怒りを覚えるわけだ。つまり、君の言うような正義感に由来する怒りというのは、実際のところは利己的な動機から発生しているに過ぎないのだ」

 マイトレーヤはこのように滔々と弁じてみせた。それは見事な話し振りで、また真実の一端を突いているようにも思えたので、ナッシングにしても「ひょっとしたらそうかもしれない」と信じてしまうところだった。……が、彼はそのように思いながらも、心から納得することができなかった。

 マイトレーヤの言葉はたしかに、真実の一端を突いているのかもしれない。そのような動機から怒りを覚える者もいるだろう。しかし悪事に対する倫理的な怒りは、はたして本当に単なる利己的な感情に還元されてしまうものに過ぎないのか、それともそうではなく、そのような身勝手な怒りとは別の、もっと崇高な動機に由来する感情があるのではないのか、と彼にはそう思えたのである。

 しかしナッシングはそのような漠然とした違和感を、はっきりと言葉にして反論する術を持たなかった。そこで仕方なく言った。

 「それなら、その問題はとりあえずそういうことにしておこう。急がなくても、また後で議論することはできるからね。だから今は、別の疑問について指摘しておこう。

 君はさっき、他人に何らかの善行を施す場合でも、結局は自分の利益になるんだ、と言った。だけど、人間が善行を為すのは本当にそれだけの理由だろうか?そんな風に、「他人のため」と言いながら裏では自分の利益を望むのは、それは「偽善」に過ぎないんじゃないだろうか?」

 「ナッシュよ、君の言うとおりだ。そのような行為を指して「偽善」と呼ぶなら、人間の善行はすべて偽善なのだ。それこそが我々の前提から導かれる結論だ」

 「……そうかな?偽善ではない善行というのも、確かにあると思うよ」

 「君の言うところの善行というのは、利己的な動機を一切含まない、純粋に他者のための行為のことを言っているのだな?」

 「その通りだよ。利己的だというのも確かに人間の本質だとは思うけれど、純粋に他者を思いやることもまた、人間の本質であると僕は思う」

 「しかしナッシュよ、それは「利他」ということだ。そして人間が利他的に生きるということはつまり、「人間は利己的に生きるべきだ」という昨夜の我々の対話における結論を否定するのではないのか。君は、我々の到った結論は間違っていると否定するのかな」

 「それは……」

 「これは、君が考えているより重大なことなのだ。人間が利己的にではなく利他的に生きるということは、人間が宿命的に背負った数々の苦難を耐え忍びながら、しかもそうしてやっと手に入れた対価――すなわち富や幸福――を、他者に分け与えねばならないということだ。その時、人間の生はもはや耐えるに値しない苦難ばかりのものとなろう。……そう考えるならば、少なくとも利他的な人間よりは利己的の方が余程、幸福だと言えるのではないだろうか?」

 このように言われるとナッシングは反論することができなかった。彼にしても直感的に反対しているだけで、昨夜の結論に反対していたわけではなかったので。

 合理的に考えるならば、利己的に生きる方が確実に幸福であるということは彼にしても全面的に同意できた。しかしそれを認めても尚、人間は利己的なだけの生き物である、というマイトレーヤの主張には、どうしても首肯しきれないものがあると思われた。そこで彼は喩えを以って反論することにした。

 「我ながら情けないけれど、どうやら僕には論理的に反論することができそうにない。というのも僕は単なる感情として、君の意見に納得できないでいるだけだからだ。だから僕としては、せめて実例を挙げることで君への反論にしようと思う。

 少し以前のことで、まだ僕がこの国にやってくる前の話になるんだけど、僕と同じような留学生が、自分の身を犠牲にして日本人を救ったことがあったそうなんだ。なんでも、駅のホームから線路に落ちてしまった人を救助しようとして、その人を助けることはできたんだけど、自分は電車に轢かれて死んでしまったらしい。

 こうした自己犠牲の精神については利己的な動機では説明がつかないと思うんだけど、どうだろう?なんといってもその行為によって利益を得るべき自分自身が死んでしまっているわけだから、そこに利己的な動機を見い出すことはできない筈だ」

 「成程。しかしそのような場合でも、利己的な動機によって説明することは不可能ではないのではないかな。本当はそのような行為によって名声を得ようと考えていたのに、思惑を外れて死んでしまったのだとしたら?つまり結果的に自己犠牲の形になってしまっただけで、彼には死ぬつもりなどなかったのだ」

 「いや、それはおかしいよ!根拠なんてないけど、僕はこの留学生にはそんな利己的な動機はなかったと思う。もちろん、自分が死んでも構わない、なんて思っていたわけでもないとは思うけど、少なくとも利己的とは言えない筈だ。彼は純粋に他人を助けるため……いや、多分その瞬間には利己的とか利他的とかそんな次元を超えて、自分の信じる正しいことを反射的に実行したのだと思う。これは極端な事例だけど、人が他人を助ける時って、こんなものだと思う。

 マイトレーヤ、僕はこんな風に考えるけれど、でも昨夜の僕等の結論が間違っていると思うわけでもない。人間は利己的に生きるべきだということを前提に、それを否定することなく、人間の利他的な面を肯定することは不可能なんだろうか?」

 ナッシングはこのように懸命に言ったが、内心では恐れていた。このように反論することで恩人たるマイトレーヤが気分を害するのではないかと、この善良な若者は危惧していたのである。しかしその心配は杞憂に終わった。相手は気分を害するどころか、愉快げに笑い出したのである。

 呆気に取られるナッシングにマイトレーヤは言った。

 「いや、すまないナッシュ。君があまりに懸命なので、少しばかりからかいたくなってしまったのだ。いやそれより、君が私に遠慮しているように見えたので、つい意地悪してみたくなったのだ、許してくれ。

 まったく君の言うとおり、人間の行為を全て利己的な動機によって説明するのは無理がある。少なくともそのように思える。であれば当然のことながら、「人間は利己的である」という前提とて疑い、様々な事例について検討してみる必要がある。それこそが学問的な態度というものだ。

 そういう訳だからナッシュよ、我々は「人間は利己的に生きるべきだ」ということを一応の前提とし、しかし必要に応じてその前提を疑いつつ、はたして「人間は利他的になり得るか」を検討しなければならないのだ」

 マイトレーヤはそのように飄々と語ったが、からかわれていたと知ったナッシングは心中穏やかではいられなかった。そこで憮然とする友人にマイトレーヤは弁明した。

 「そう怒るな、ナッシュよ。私は嬉しいのだ、君が私に臆せず反論してくれたことが。私は、やはり君こそが対話の相手に相応しいと再認識することができた。私はそれが嬉しかったので、つい意地悪したくなったのだ」

 悪びれない態度のマイトレーヤにナッシングは苦笑を洩らさざるを得なかった。そこで気を取り直して言った。

 「それで、結局どうなのさ?君はそういうけれど、実はもう結論が出ているんじゃないのかい」

 「いや、これについては本当にまだ結論が見えてこないのだ。この問題はつまり、哲学の分野においては倫理学の領域だが、我々はまだこの問題については論じたことがないのだから。

 それでも私の昨夜の読書の成果としては、現代倫理学においては様々な立場があるのであり、それぞれが自説の正当性を主張しているために事態が錯綜していることがわかった。そのような事情だから、もし何の準備もせずにこの領域に踏み込めば、我々はこの混乱に巻き込まれ、自身の立ち位置すら容易に見失ってしまうであろう。

 そこでナッシュよ。我々は幾つかの前提を共有しておこう。

 まず昨日も言ったように、我々は形而上学の対象には踏み込まない。これはつまり、人間の行動を制約し、それを破る者に罰を与える神であるとか、あるいは天国や地獄が実在するということを、肯定も要請もしないということだ。

 そして先にも言ったが、「人間は利己的に生きるべき」だということ、これも前提としておく。しかしこれについては、反証があればそれを受け入れ、再度の検討をする。こういうことでいいだろうか?」

 「異論はないよ」

 「よし。それではこれから倫理学の領域に踏み込むこととする。しかし勘違いしてはならないのは、我々は必ずしも倫理学そのものについて論じたいわけではないということだ。我々はあくまで、自分達の疑問を解きたいだけなのだから。

 そこで我々の主題を改めて、簡潔に提示しておこう。我々の問いは、「人間は利他的になり得るか」ということである。そしてこの問いに答えることさえできれば、倫理学上の他の問題について踏み込む必要はない」

 「そしてその答え次第で、君の「人間を救うべきか否か」というそもそもの疑問にも解答が得られるというわけだね?」

 「そういうことだ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

4  善悪の根拠についての諸問題(メタ倫理学的問題) 

 

 「さてナッシュよ」

 そこで改めてマイトレーヤは言った。

 「我々はこれから倫理学についての議論に入るわけだが、その前に聞いておきたい。率直に言って、君はどの程度まで倫理学について詳しいのだろうか?というのも君の専門である現象学はどうやら倫理学とは疎遠だと見なされているらしいし、君が昨日まで関心を抱いていた問題というのも、倫理的問題とは直接の関係がなかったようだから」

 これにはナッシングは肩身の狭い思いで答えた。

 「お察しの通り、僕はあまり倫理学については詳しくない。現象学でもハイデガーやシェーラーならともかくとして、その創始者たるフッサールはあまり認識論の外には出て行かなかったとされているからだ。それに僕自身にしても、「善き生き方」なんて高尚なことには興味を持てなかった。……そんな余裕はなかったからね。

 でもまがりなりにもフッサールの研究者として言わせてもらうと、フッサール自身は倫理学について全く関心を持っていなかったわけじゃない。彼の主著(と言っていいだろう)である『イデーン』にも価値論や倫理学について、主題として論じられているわけではないとはいえ、言及はされているからね。どうも彼の当初の構想としては現象学を価値論や倫理学にまで拡張するつもりだったようなんだけど、その試みはついに頓挫してしまったようなんだ……僕にはそれが理論上の問題が生じた為なのか、単に時間がなかっただけなのかまではわからないけれど。

 とにかくそんな訳で、僕は倫理学についてはくわしくない。もちろん哲学科の端くれとしてカントなんかについての一通りの知識はあるけれど、突っ込んで学んだわけではないから漠然とした印象しかない。少なくとも自分の血肉になっているとはいえない。

 だから、君がこの部屋の本を全て読んだというのなら、今ではきっと僕なんかより倫理学についての深い知識と認識を持っているはずだ。そこでマイトレーヤ、この際だから僕のことは倫理学についてのまったくの初学者として扱ってくれないか?そして君が指導するという形式で議論を進めてほしいんだ。きっとその方がスムーズにことが運ぶに違いないから。もちろん僕としても君の講義を聞くだけでなく、議論の相手として精一杯務めるつもりでいるよ」

 「そうか。ではその通りにしよう。ただ予め言っておくが、私としてもこの部屋に(偶然に)置きっ放しにされていた書物を読んだに過ぎないから、その知識は断片的なものに過ぎないのであって、決して体系的な知識を有しているとは言えないということだ。またついでに言えば私は、私自身が抱くテーマに関連する事項にしか触れる気はないから、これからの話は倫理学についての包括的な解説にはならず、著しく一面的なものにしかならないであろう。それでも構わないだろうか?」

 「うん、それでいいよ」

 「ではこれから、私が昨夜から今朝にかけての読書によって得た西洋倫理思想について、私の恣意的な観点から独断的に、かなり単純化して語ることにする。そしてそのような訳であるから、私がある思想家の考えについて批判したとしても、それは私とその思想家の意見が異なっているというだけのことで、どちらが正しいというものではないと知っておいて欲しい。……ナッシュよ、私がこのようにくどくどと言うのは、倫理学という学問においてはその思想家によって意見がまるで違っている、いやそれどころか根本的な点で彼らの見解が一致していないせいであるのだ。過去の時代においてはともかく、現代倫理学においてはまるで統一的な見解というものがない。だからこそ、その迷宮に分け入っていくには、十分な注意が必要なのだ。

 しかしナッシュよ、私の見るところ、そのような混迷の状況を生み出しているのは、たった一つの根源的な論点であるのだ」

 「何だい、その論点というのは?」

 「うむ。それはつまり、「道徳的な善悪」を区別する根拠が人間の「理性」にあるのか、それとも「感情」にあるのか、という問題なのだ。倫理的な「善悪」という価値を巡って、この二つの立場はそれぞれ自分が正しいと主張し、真っ向から対立している。これこそが現代倫理学における根源的な論争点であり、そこから他の様々な論点が派生しているようなのだ。このような根本的な点で意見の一致が見られないからこそ、倫理学は混乱していると言えるのだ。

 君も知っての通り、西洋思想においては伝統的に、肉体的な価値(即ち快・不快)とは別に、「真・善・美」という精神的な価値が重要視されてきた。そしてこれらの価値にはそれぞれ正価値(望ましい価値)と負価値(望ましくない価値)がある。即ち「真」という正価値に対応する負の価値は「偽」であり、(道徳的な)「善」という正価値に対応する負の価値は「悪」であり、そして「美」に対応するのは「醜」ということだ。

 そしてさらに、これらの価値にはその固有の学問領域が対応している。即ち「真偽」は論理学の領域で問題にされるし、「(道徳的)善悪」は倫理学の領域であり、「美醜」は美学の領域の問題であるのだ。

 さてこの三つの学問領域のうち、論理学において「真偽」の判断を下すのが(感情ではなく)理性であることは疑いのないところだ。ある命題が「真」か「偽」か判定するのが感情ではなく論理的な思考能力、つまり理性であるのは明らかなのだから(もっとも現代思想においてはその「真理」の根拠が揺らいでいるわけだが)。

 さてナッシュよ、それでは美学において、美醜の判断を下すのは理性だろうか?それとも感情だろうか」 

 「それは勿論、感情の方だよ。「美しい」とか「醜い」というのは、僕等が芸術作品(とは限らないけれど)を目にした時に抱く感情なんだから。僕らは理性で美醜について判断しているわけではないよ」

 「ふむ、しかしそう簡単に言い切ってしまっていいのだろうか?

 君がある絵画を見て、最初はまったく美しいとは感じられなかったとしても、その絵の解説を聞いたり、その絵の正しい鑑賞方法を知ることによって改めて「美しい」と思えるようになる、ということはないだろうか?その場合は理性によって絵画の情報を処理した結果、そのように評価を改めるというわけだから、つまりは理性が美の判定に影響している、とは言えないだろうか?」

 そのように反論されるとナッシングは俄に自信を失ってしまった。そこでマイトレーヤは、考え込んだナッシングに言った。

 「すまない、君を困らせるつもりはなかったのだが。ただ私としては、君があまりにも簡単に結論を下そうとしたので、少し考えてもらいたかったのだ。

 そのような冗談はさておき、過去の時代にはともかく現代においては、美はそれを鑑賞する人間の感情に由来するという考えが一般的のようだ。私もそれが正しいと考える。

 私達は芸術作品を見て、それを美しいと感じる。その時、その鑑賞者にとってその絵は「美的な価値」を有するものとして現れる。或いは言い方を変えて、鑑賞者がその芸術作品に「美的価値」を付与する、と言うこともできる。

 そしてそれは、その絵を鑑賞しても美しいとは感じられない人間にとっては、その絵は美的な価値を有していない、ということでもある。つまり芸術作品というものは、たとえどれほどの巨匠の手掛けた作品であろうとも、それ自体が美的な価値を具えているというわけではない(金銭的価値についてはともかくとして)。芸術作品は鑑賞者によって評価されることで初めて(その鑑賞者にとっては)価値が生まれるのだ。

 しかし断っておくが、これとは別の見解もある。過去においては、優れた芸術作品というものはそれ自体が美的価値を有しており、鑑賞者の流動的な評価などに左右されないと考えられていた」

 「でも、だとしたらある芸術作品に対して、美しいと感じる人とそうではない人がいるのはどう説明するんだい」

 「芸術作品を見ても美を感得できない者は、その美的価値の認識に失敗したものと見なされたのだ。例えば論理学や数学の問題においては、充分な思考能力があれば誰もが同一の解答に達することができる筈なのに、現実的にはそうはならない。それはつまり、その者の論理的思考能力が不十分であるために、誤った推論をしてしまうからだ。

 美学を「価値の認識」として捉える立場も、ちょうどこれと同じような考え方をする。「美しい作品」を見ても美を感得できない者は、鑑賞眼を持たないということなのだ。つまりその鑑賞者は、美的資質が劣っていたために美の感得に失敗したのだ」

 「ひどい話だね。数学はともかく、美的感性なんて人それぞれだと思うけどな」

 「まったく君の言うとおりだ。例えばゴッホやクリムトやピカソの絵を比較して、誰の絵が最も優れているかと論じたところで全く意味がない。それは個人的な趣味の問題だ。だから現在では、美的価値を含めたあらゆる価値は予め優劣が決まっていないという価値相対主義が広く受け入れられているのだ。

 しかしどうやら、我々は少し寄り道をしてしまったようだ。そこで改めて議論を本筋、つまり倫理学の問題に戻すことにしよう。

 さてナッシュよ、論理学においては「理性」が、美学においては「感情」がそれぞれその判断の根拠になっているということだった。そこで聞くが、倫理学において道徳的な「善悪」を判断する根拠は理性にあるのだろうか、それとも感情だろうか?」

 そのような質問を浴びたナッシングは困り果てた。元々あまり倫理学に関心がなかったこともあり、どちらもあり得るように思えたからである。それでも彼は必死に知恵を搾り、ついに「感情」だと答えた。そこでマイトレーヤは言った。

 「ほう。君は感情が倫理的善悪の根拠だというのか。その理由は?」

 「正直、自信があるわけじゃないけど。でもさっき事件の報道について話した時のように、倫理的な問題には感情が伴う。卑劣な事件について知ったとき僕たちは義憤を抱く。或いはそんな卑劣な犯人が逮捕されたと知ったとき、僕たちは「正義が果たされた」と感じて満足を覚える。災害や紛争における被害の報道に触れると「傷ましい」と感じるし、そのために「復興の手助けをしたい」とか「せめて物資や義捐金を送りたい」と考えたりする。こうした感情は倫理的、あるいは道徳的な感情なんじゃないかな。だから僕は、倫理学における善悪の根拠は感情だと思う」

 「成程、確かに君の言うことには一理ある。しかしナッシュよ、それでは解決できない問題があるのだ」

 「問題って?」

 「つまり、感情が善悪の根拠であるとすると、人々の間で善悪についての共通の見解が得られなくなってしまうのだ。ちょうど、ある芸術作品の評価が鑑賞者によって全く異なってしまうように、価値相対主義の下では倫理的問題について、人々の意見の一致が不可能になってしまうということだ。

 しかしナッシュよ、芸術作品とは違って倫理的問題において共通の見解が得られなければ、困ったことになりはしないか?「人を殺してはいけない」だとか、「他人の物を盗んではいけない」というのは、普遍的な道徳なのではないのか?

 ナッシュよ、善悪の根拠を感情に求めるということは、こうしたことを言えなくなってしまうのだ。「人を殺してはいけない」という意見が大多数の人々の意見であったとしても、価値相対主義においてはしかし、「いや、私は人を殺すことがいけないとは思わない」という少数意見を否定することができなくなってしまう。

 しかし「人を殺してはいけない」というのは、本当にそんな相対的なものでしかないのだろうか?それでは人間社会が成り立たない。道徳が普遍的な法則であるためには、それは感情のような曖昧なものではなく、理性が導くものでなければならないのだ」

 「……成程。じゃあ、理性が善悪の根拠なんだね」

 「おや、もう意見を翻すのかね?しかしナッシュよ、善悪の根拠が理性にあるとすると、今度は君が先に指摘したように、倫理的問題に感情が伴う理由がわからなくなる。いやそれだけではなく、それは道徳的行為への「動機付け」の問題と関わるのだ。

 善悪の根拠が理性にあるとすれば、理性から「道徳法則」を導き出すことができる。それは数学上の定理や数式と同じように、全ての人間が首肯しうる普遍的・絶対的な法則であるだろう。

 しかし理性というのは即ち論理的な思考能力なのだから、そこに感情は伴わない。いくら理性が善行を推奨しても、感情が伴わなければ人間はそれを実行しないのだ。また、いくら理性が禁止しようと、人間は感情の命ずるままに悪行を為すだろう。

 実際、「人を殺してはいけない」だとか「盗みをしてはいけない」という規則は、宗教によっても社会によっても定められてきたというのに、歴史上のあらゆる時代・文明においてそれらの悪が絶えたことは決してないではないか。その理由は、それらの掟が個人の内面から生じたものではなく、その人間の外部からの制約に過ぎないからなのだ。自分自身の感情を伴わないがために、それらの規則は行為の動機付けとしては弱いのであり、そのために意志に拠る叛逆が可能であるのだ。

 これに対して、善悪を個人的な感情に求めるならば、この問題は乗り越えることができる。何故なら、感情と言うのはその人間の内面から生じる、内発的なものだからだ。たとえば「人間を殺してはいけない」という社会的規範は他者から押し付けられたものだから悪人はそれに縛られない。しかしそのような悪人であっても、その対象が自らの家族や恋人であったとしたら、「相手を殺してはいけない」という禁止はその悪人の内心から生じたものであるから、感情を伴う。だからこそ、他人を殺すことを何とも思わない悪人であったとしても、自らの家族や恋人を殺すことは(それに競合する理由や欲求がなければ)しないという訳なのだ」

 このように言われるとナッシングは何が何やらわからなくなってしまった。そんな友人にマイトレーヤは言った。

 「ナッシュよ、案ずることはない。先にも言ったように、この問題については倫理学の専門家達の間でも意見が対立し、未だに決定的な結論が出ていないからだ(もちろん彼ら自身は、自らの意見が唯一正しいものだと考えているのだろうが)。それなのに倫理学の専門家でもなく、しかもとりたててこの問題に関心のない君がたちどころに解決してしまったとしたら、むしろ彼らの立場がないだろう。

 とにかく、これが倫理学上の最も大きな論点ということだ。もちろん細かい論点は他にもあり、いやそれこそ問題はいくらでもあるのだが、それについては省くことにしよう。私達の目的は、あくまで倫理学そのものではないのだから」

 「そうだね。ついつい忘れがちだけど、僕たちの目的は「人間は利他的になれるのか」を明らかにすることだから。……それにしても善悪の根拠なんていう、倫理学においてもっとも基本的な部分で、こんなにも正反対の意見が対立しているなんて面白いね。善悪の根拠を理性に求めるか、それとも感情に求めるかというによって、その倫理学者の性格が出るような気がするよ」

 「それについては、まったく君の言うとおりだろうな。倫理学に限らず哲学というものは、いくら他者の観察や他者との議論を経るとはいえ、やはり基本的には己の頭の中で抽象的に組み立てるものなのだから、その理論には本人の思考の傾向が否応なく反映されてしまう。それも認識論であるなら(あのフッサールのように)価値中立的に、純粋に論理的に推論することができるが、倫理学となるとそうはいかない。なにしろ倫理学というものは、「善悪という価値」に直接的に関わる学問なのだから。しかも倫理学者などという輩は概して良心的な人間が多いから、自身の信奉する倫理観に妨害されてしまい、冷静に議論することが難しいのだ。

 これは私の全く勝手な印象に過ぎないが、善悪の根拠を感情に求めようとする者は、概して人間の「良心」を信じているように思える。彼等は人間に絶望しておらず、どんな悪人であっても良心の全くない人間などいないと考えているかのようだ。それは恐らく彼ら自身の倫理観が、そのような人間的な感情に裏打ちされているからであろう。そんな彼らにしてみれば、倫理観とは自身の内側から生ずるものであって、外部からの制約などはむしろ窮屈で不必要に感じられるのであろう。

 しかしそれでは困ると考えるのが、善悪の根拠を理性に求める者たちだ。というのも、個人の感情に依る道徳的な信念は、他者に強制することができないからだ。

 彼等は概して堅物であり、教条主義的だ。彼等は厳しい倫理観を有しており、それはそれで良いのだが、しかし他人にもそれを求める傾向がある。だからこそ彼等は善悪の根拠を理性に求めるのだ。何故なら理性によって導かれる道徳法則は普遍的であるから、それを他者に強制することが可能となる。つまり、彼等は悪を赦すことができず、悪を罰する正当な理由を欲しているのだ。或いは、そのような法則に拠ってのみ世界に秩序がもたらされると考えているのだ」

 「僕としては感情派の人の方に共感を覚えるな。なんだか理性派の人ってとっつき辛いというか、どんなクラスにも必ず一人はいる、すぐに「先生に言いつけてやる」とか言い出す奴みたいな印象がある」

 「ああ、そのような輩もいるだろうな。但し一応釘を刺しておくが、理性派の中にも真に人格的な人物もいるということだ。

 それはさておき、このように両者の立場は根本的に異なるものであり、それぞれに一長一短がある。そして現代の倫理学(メタ倫理学)は各論者がそれぞれの立場から、自分達の弱点を克服し、自分達こそが唯一の正しい立場であると証明しようとしている。

 歴史的に大まかに言えば、倫理学においては理性派が優勢であった。しかしデイヴィット・ヒュームが理性派を批判し、「~である」という命題から「~すべき」という命題は導き出せないと言い出し、道徳の根拠は感情であると主張した」

 「ああ、それは聞いたことがある。『ヒュームのギロチン』だね?」

 「ギロチンという表現は初めて聞いたが、そういうことだ。つまり何らかの事実から、価値判断を導き出すことはできないということだ。何故なら価値判断には感情が伴わなければならないからだ。

 この法則は元はと言えばイギリス経験論のヒュームが『人間本性論』において少しだけ触れただけだったのを、二十世紀初めにG・E・ムーアが『倫理学原理』において改めて詳細に論じ、これを「自然主義的誤謬」と呼んだ。これが注目され、改めて善悪の根拠を巡る議論が起こり、理性派と感情派に別れることとなった。このような善悪を巡る議論をメタ倫理学と呼ぶ」

 「なるほど。自然主義的誤謬について、もう少し詳しく説明してくれないかな」

 「いいだろう。つまりはこういうことなのだ。例えば絵画に関して言えば、「この絵は偉大な画家の描いた絵である」というのはその絵に関する事実命題であるが、「だから美しい」というのは価値命題だ。

 しかし事実に即して考えるならば、この二つの命題は論理的な必然性があって結びついているわけではない。どんな偉大な画家であっても、例えば若い頃の作品には未熟なものもあるであろうし、生活に困って粗製濫造した作品であるかもしれないからだ。そのような作品であれば「美しい」とは言えない場合もあるだろう。

 また「この絵は現実のモデルを克明に描写している」とか「この絵は遠近法に忠実である」ということもその絵に関する事実であるが、しかしこのような事実からも「だからこの絵は美しい」という価値命題は帰結しない。描写が克明であるとか遠近法に忠実であることが美の条件であるというのなら、写真はどのようなものであっても美しいということになってしまう。しかし君も知っての通り、全ての写真が美しいということはないし、反対に遠近法の狂った絵画や粗いタッチの絵画の方にこそ美を見い出すことがある。

 ナッシュよ。このように、絵に関する事実から「美しい」という価値を論理的に導き出すことはできないのだ。先も言ったように「美」という価値は鑑賞者の感情だ。だから「この絵は××の作品だ」という命題から「この絵は美しい」という命題を結論として導くことは、事実から価値を導き出すことになるので誤っているのだ。

 これは美学における話だが、同じ事情は倫理学上の価値――つまり善悪――についても言うことができる。例えば「人間の文明は常に進歩してきた」という事実命題から「だから進歩は望ましいことだ」とか「だからこれからも進歩すべきだ」という命題は(当人の価値観を含むので)導けない。また「どんな人間も必死に生きている」という事実から「だから君は死んではならない」だとか「だからどんな人間でも殺すべきではない」という当為命題は導くことができないのだ」

 「それはちょっと酷い気がするな。誰にとっても死ぬのは悪いことの筈だし、だから「人を殺してはいけない」と言うことはできると思うけど……」

 「そうだろうか?生きることが大半の人間にとって好ましいことであるとはいえ、「だから全ての人間にとってもそうである筈だ」と決め付ける方が短絡的ではないか?そんな決め付けは、苦悩や悲痛を味わったことのない人間が口にする綺麗事であるとか、以前は困難に苦しめられていたが根気強くそれを脱した人間が自慢げに語るような、押し付けがましい人生訓に過ぎないのだ。

 人間の集団の中には常に一定数の死に惹かれる人間がいるし、普通の人間であっても極限状況に曝されれば、むしろ大多数の者が死を望む。そんなことは君自身が、よくわかっているだろうに」

 「それは否定しないけど……」

 「では、少し命題を変更しよう。「どんな人間も生きている」ではなく、「どんな悪人だって生きている」という命題から、「だからどんな悪人であっても殺すべきではない」という当為命題が導けるだろうか?これはつまり、死刑制度を容認できるか否か、ということなのだが」

 「僕は死刑制度には反対だけど……」

 「ほう。それが例えば、ヒトラーのような輩であっても?」

 「…………」

 「ナッシュよ。君自身がどのような信念を抱いたとしても、それは君の自由だ。しかし君の個人的な倫理観は、我々の議論を冷静に進めるためには障害になりかねないと覚えておいてくれ。我々は、あのフッサールがあらゆる偏見や先入見を排して考察を進めたように、我々もまた論理的に純粋に、あらゆる価値から中立の態度を保たなければならない。そうでなければ恣意的に議論を歪めることになり、その結論は万人に受け入れられるものではなくなってしまうだろう。

 だからナッシュよ、私はそのような陥穽を避けるために、これからの議論で敢えて利己的な、いや露悪的な発言をするかもしれない。しかしそのような発言も勿論私の本心ではなく、思考実験あるいは単なる仮定に過ぎない。だから君も、頭の固い優等生的な反応は抑えてほしい。なんと言っても我々の目的は、「利己的な人間」が「利他的になり得るか」を明らかにすることなのだから」

 「わかった、努力するよ。……それで、君自身の結論はどうなんだい?善悪の根拠は理性なのか、それとも感情なのか?」

 「私か?私としてもまだ、結論を出せたというわけではない。その事情については君と同じだ。だからこそ我々は議論を重ね、人間性の真実について追求していかなければならないのだ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

5  外出 

 

 時刻は十五時に近づいていた。ナッシングが時計を見てそれを確認し、ほんの少し目を泳がせたのを見てマイトレーヤは訊ねた。

 「どうしたのだ、ナッシュ。何か用事でもあるというのかね」

 「いや、何でもないよ」

 ナッシングは慌てて首を振った。その様が不自然だったので、マイトレーヤは重ねて問うた。「ナッシュよ。私に嘘が通じると思うのかね?」と。するとナッシングは観念したように言った。

 「わかった、認めるよ。でも別に大したことじゃなくて、ただ今日はちょっと街にまで出かけるつもりだったのを思い出したというだけのことなんだよ。とはいっても誰かと待ち合わせとかしているわけじゃないし、とりたてて用事というほどのことでもない。ただ、欲しい本を買いに行こうかと思っていただけなんだ。

 もちろん、わざわざ街の中心部にまで行かなくてもこの辺りに本屋はあるんだけど、その本は少しばかり変わった本だから、街中の大きな書店にまでいかないとないんだ。まあ、別に必要な本と言うわけじゃないし、売り切れるようなものでもないと思うから、また日を改めて行くことにするよ」

 この言葉を聞くとマイトレーヤは突如として立ち上がって、叫んだ。

 「馬鹿な!何を悠長なことを言っているのだ、君ともあろうものが!」

 その突然の剣幕に驚いてナッシングはうろたえて言った。

 「何をそんなに怒っているんだい、マイトレーヤ!」

 「怒ってなどいない、ただ呆れているだけだ!よいかナッシュよ、私の友よ。本というものとの出会いは、人間の場合と同じく一期一会であるのだ。ありがちなのは一度は出会っておきながら、様々な理由から買い控えたせいで、本を逃してしまうことだ。そして一度逃してしまった本とは、二度と出会えないということが本の世界にはよくあることではないか。

 しかしそれも、出会えるだけましと言えるかもしれない。というのは、どうしても欲しい、読んでみたいと心の底から切望する本であっても、生涯すれ違ってしまうこともあるからだ。その場合、最初からそのような書物の存在を知らないならまだしも心穏やかでいられるが、知っていながら出会えないというのは全く考えたくもない悲劇ではないか?

 その場合、その幻の書物への期待はその人間の心中で際限なく膨らむことになりかねない。ナッシュよ、君はそんな思いを味わいたいのか?」

 「そんな大げさな。古本ならともかく、僕が欲しい本と言うのは先週に出たばかりの新刊なんだよ。まあ大手じゃなくて、あまり聞き覚えのない出版社から出ているのが少しばかり不安だけどね」

 「いけない!ナッシュよ、それは実に危険だ!今を逃すときっと、未来永劫君の手には入らないぞ。しかし一体、何という本なのだ?」

 少々躊躇した後ナッシングは言った。

 「それは、ウロとかいう人が書いた『ソムニア』という本だよ。これは「夢」という意味らしいんだけど、でもよくある夢占いの本とか、夢に関する雑学本なんかとは違うんだ。ちょっと、いやかなり変わった本なんだよ」

 「ほう。どこが変わっているというのだ」

 「こんな言い方はなんだけど、この作者はちょっと頭がおかしいらしくて「夢の世界」の実在することを本当に信じているらしいんだ。僕等が睡眠中に見る夢は、彼に言わせれば脳が見せる幻とか単なる映像なんかではなく、この世界とは別の、もう一つの世界だと主張する。それで彼は長年の研鑽の成果として明晰夢――はっきりとした意識を持って見る夢――を自在に見られるようになり、その夢の世界で目にした不思議な街や風景、そこで出会った様々な人々の話なんかを夢日記に記したらしい。そしてその成果をまとめて一冊の書物にしたのが、その『ソムニア』という本なんだ。だからその本は、実在する(とこの作者が信じている)もう一つの世界について、そこに行く方法や地理、あるいは人々の風習や独特の価値観・世界観なんかを網羅した、夢の国のガイドブックであり、旅行記ということなんだよ――著者の証言を信じるなら、だけどね。

 まあそうは言っても、大抵の人はそんな与太話を信じていないし(それは僕も同様だよ)、オカルト本みたいに扱われているらしい。たしかに怪しげな話だし、その著者の単なる妄想に過ぎないんだろうけれど、怖いもの見たさにちょっとだけ読んでみたいんだ」

 「それなら、話は決まった。では行こうか」

 「いや待ってくれ、マイトレーヤ。だからさっきも言ったけど、別に今すぐ手に入れなくてもいいんだって!別に本気で信じているわけじゃなくて、ほんのちょっと興味を抱いただけなんだから」

 「いや、それだけで動き出す理由としては充分だ。そのような奇怪な書物を買い逃し、しかも永遠に出会えないとしたら、君はきっと一生後悔することになるだろう。君のその本への期待感は日増しに高まり、何の根拠もなくむやみに神秘化し、ついには妄想の域にまで膨らむことだろう。そして「あの時あの本を買っていれば、僕の人生はもっとうまくいっていただろうに」とか、「あの本さえ読んでいれば世界は救われたのに」などと言い出すことにもなりかねない。君はそんな虚しい人生を送りたいというのかね?

 それに、実を言えば私としても、君の言う「町中の大きな書店」というものに興味がある。私は是非ともそこに行きたいのだ。ひょっとしたら私もそこで、運命的な一冊の書物と廻り逢えるやもしれぬ。そう――あのボルヘスの、『真紅の六角形の本』に」

 「何言ってるんだい?あれは架空の書物だと言ったじゃないか。それにもし、仮にそんなような本が実在していたとしても、少なくとも新刊書店にはないと思うよ……」

 「そんなことはわからないだろう?とにかく行ってみなければ。ナッシュよ、そこには歩いてどれ程の時間がかかるだろうか」

 「歩いて?ここから?さすがに、ここから歩いて行ったことはないな……。まあ、歩いて行けない距離でもないけど。一時間か二時間といったところかな」

 「それならちょうどいい、歩いて行こうではないか、友よ。これから為される我々の議論は、それ位の時間で一段落といったところだろう。議論を終えて、しかる後に書店に入り、心ゆくまで本の森を渉猟しようではないか」

 マイトレーヤがすっかりその気になってしまったのでナッシングは呆れてしまった。しかし考えてみれば、彼にとってもこの新しい友人と共に本屋をうろつくというのは魅力的な提案ではあった。それで彼も出かける気になり、いそいそと帰り支度を始めた。

 

  6  道徳についての一般的見解について

 

 大学を後にした二人は、まずは東一条通りを西に向かい、鴨川まで出ることに決めた。二人で議論をしながら歩く為には、街中の喧騒が煩わしく感じられたためである。

 さて、改めて議論を再開すべくマイトレーヤは口を開いて言った。

 「ではナッシュよ、鴨川へと向かいながら議論の続きをしようではないか。我々の目指す本屋に到着するまでに議論に区切りを着けなければ、中途半端なところで議論を中断せざるを得ず、そうなってはせっかくの書店巡りも心から楽しむことができなくなるであろうから」

 狭い歩道を歩きながらの言葉にナッシングは思わず笑ってしまったが、マイトレーヤはといえば構わずに続けた。

 「先程までの対話においては、我々は現代のメタ倫理学における意見の対立について話した。そこでは善悪の根拠を巡り、それを理性に求めるか感情に求めるかで意見の一致が見られないのであった。しかし私達は一旦そこから離れ、過去の哲学者の思想を紹介しながら、それを賞賛したり批判したりしつつ、我々の意見を固めていこうと思う。

 しかしその前に、そうした哲学上の見解とは異なる、常識的な人々が抱く一般的な道徳についての見解を検証しなければならない。というのは、哲学者の見解というものは往々にして、そのような常識的な見解とはかけ離れた結論を出してしまうからだ。そうは思わないか?」 

 「異論はないよ」

 「ありがとう。ではそうすることにしよう。

 さて哲学者と違って、常識的な普通の人々が有している道徳観というのは、私が見るところ以下のようなものである。まず、彼等は基本的に人間を欲望の塊と見る。欲望というものは人間の自然的な性向から生じたもので、誰もがそれを持っている。それはいわば本能であり、他の動物がそれを有しているように人間もそれを有するのだ。

 もっとも人間の場合は、食欲や性欲といった生存に直結するものとは違う、人間だけに固有の欲望――例えば所有欲や自己顕示欲など――も具えている。そして人間はこのような様々な欲望を抱き、半ばはそれに支配されている。このような人間観は、我々の「人間は利己的である」という前提と一致している。

 このような欲望にのみ支配されているならば、人間はそれこそ他の動物とまるで変わらない、いやそれ以上に残忍で身勝手な生物であったに違いない。しかし人間にはそのような欲望とは別に「理性」をも有している。そしてこの理性こそが欲望を抑えつけ、身勝手な振舞いをさせないように躾け、人間を「人間らしく」させている、と彼等は考える。他者との協調、節度ある振舞い、勤勉なる生活といった人間らしい態度は理性こそがそうさせているのであり、だから野蛮で粗暴な振舞いをする者を「動物的」と言って蔑む。そのような者は獣欲のみに支配され、理性を持たないと見なされるからだ。

 そしていわゆる人間的な、つまり良識的な人々による社会においては、「利他的」な行動こそが賞賛されるという傾向がある。利他的な行動というのは飢えている者に金銭や食物を施すだとか、行き倒れの者を介抱するだとか、困っている者に無償で力を貸すというような行為だ。このような行為は「善行」とか「道徳的な行為」とされ、そうした行為をする者は「善人」と呼ばれ賞賛される。そのような善人はたとえ社会的な地位がなくとも、社会の発展に貢献したわけでも優れた資質があるわけではなくても、ただ道徳的だというだけで世間から賞賛される。

 ナッシュよ、どうだろう?これが洋の東西、また古今を問わず、広く受け入れられている見解だと思うのだが」

 「うん、その通りだと思うよ」

 「もっともこのような道徳観に対して、異議を申し立てた哲学者もいた」

 「ああ、君が言うのはニーチェのことだね?僕はあまり詳しくはないけど」

 「そうだ。この異端の哲学者は、このような「弱者の為の道徳」は不自然なものであると主張した。古代における英雄的な強者に対して、優れた点を何一つとして持たない弱者のルサンチマンが「価値の転倒」を起こし、このような不自然な道徳観を生んだのだと。そしてそれを用意したのがキリスト教の僧侶であり、他人への憐れみ、同情や施しといった行為をキリスト教徒の道徳として称揚した、と。……もっとも、私はニーチェの思想に踏み入るつもりはない。彼の思想は独特で魅惑的でもあるのだが。

 しかし重要なことは、このような人間観・道徳観がキリスト教のみならず、世界各地の宗教……特に世界宗教とも言いうるものの教義に、共通しているということだ。まあ仏教の場合は少し複雑だが、それでも大衆に勧める正しい生き方ということであれば、それは実際には大差はないと言ってもよい。

 さてこのように、広く流布する宗教と言うものは人々に「道徳的に生きること」を命じ、そしてその「道徳的」というのは「欲望を抑えること」であり、そしてまた「利他的であれ」ということなのだ。そしてこれは言うまでもないことだが、これらは我々の前提とした「人間は利己的である」という人間観とは全く相反している。このような違いが何に由来するのか、君にはもうわかっているであろう」

 「ああ、わかるよ。それらの宗教はつまり、神や仏といった超越者の実在を前提にしているからだ。そしてそのような絶対的な超越者が人間に「道徳的に生きよ」と命じるから、人々はその教えを疑うことなく理性的に、また利他的に生きることを義務付けられて、それに疑いを抱くことは許されない。……でも僕たちはそうじゃない。僕らはそんな超越者の存在を信じないから、利己的に生きることを選択したんだ」

 「その通りだ。そして付け加えるならば、そのような宗教が用意する「死後の世界」もまた、人々に道徳的に生きるように促す。宗教者は人間の本質が利己的でかつ即物的であると知っているから、目に見えない「神」が命令しただけでは人々が道徳的にはならないことを知っている。だからこそ彼等は死後の世界なるものを用意したのだ。

 善人は死後に天国あるいは極楽浄土なる楽園に行けるが、悪人は地獄に落ちて苦しめられる。このような死後の世界はつまり、賞罰を与えるための「装置」に他ならない。このような装置があったからこそ利己的な人間でも道徳的に生きるための動機が生じるのであり、これが抑止力となって近代に到るまで人間の社会はそれなりに(あくまでそれなりに、だが)、治まってきたと言えるのだ。

 だからナッシュよ、この装置はなかなかよくできたシステムであった。しかしこれには、面白い逆転現象が見られるのだ」

 「というと?」

 「つまり、「善いことをすれば天国に行ける」というならば、善行とは結局のところ利他的ではなく、本人の利益になるという意味で利己的であると言えるのだ。飢えている者に食を与えるのは行為の外形だけ見れば利他的だが、もしもその行為の動機が「私はこんな善いことをすれば天国に行けるだろう」というものだとしたら、その人間の行動原理はやはり利己主義に支配されていると言えるのだから。

 もちろんこんなことはわかりきったことで、私などがいまさら指摘するまでもない。それにこのような賞罰の制度が単なる欺瞞であったとしても、その嘘によって世の中がそれなりに上手く治まってきたことは事実なのだから、非難すべきものでもない。このような死後の世界の設定は、証明できないとはいえ反証もできないのだから、現代においても人々にそれなりに信じられ、未だに有効であるのだから。

 しかしどちらにせよ、善悪の根拠を宗教に求めることは我々の採るべき態度ではない。また理性こそが人間の「良心」であり、感情(欲望)こそが人間の悪性の源であるという一般的な見解もまた、あまりに単純であるゆえに是認することはできない。

 だからナッシュよ。我々はこのような常識的な見解を頭の片隅に留めつつも、そのような先入見に囚われることなく、誠実に議論を進めなければならない」

 マイトレーヤはこう言った。