7  プラトンについて・「善」と「快」は同一であるか

 

 このような対話をする内に二人は川端通りに出た。これは鴨川に沿って京都市を南北に走る大通りで、交通量もそれなりにある。その先はもう鴨川の河川敷である。

 二人は信号の変わるのを待って車道を渡り、そしてもはや煩わしい自動車の入り込めない(実は工事用の車両などが入ったりもするが)河川敷へと入ったのだった。

 しかし辺りに人影がないのを見てマイトレーヤが言った。

 「随分ともの寂しいな。ここはまるで公園のようによく整備されているというのに、全く人がいないとは」

 「いや、普段はそうでもないんだよ。近頃は寒いからそれほどではないとはいえ、平日でもそれなりに人手はあるし、今日は土曜日だから人は多いはずなんだ。それがこんなにも人がいないのは、例の事件のせいに違いないよ。なんと言っても冬の陽が落ちるのは早いし、何だかんだでもう三時半に近いからね。……ところですっかり忘れていたけど、僕達は大丈夫なのかな?歩いて行ったら、街の中心に着く頃には暗くなっていると思うけれど……」

 「安心するがいい、ナッシュ。いくら凶悪な殺人犯であろうと、相手が人間であるならこの私がおいそれと遅れをとることはない。戦いが得意というわけではないが、私には様々な幻力が使えるのだから」

 この言葉にナッシングがすっかり安心したので、マイトレーヤは話を戻して言った。

 「さあ、我々の議論に話を戻そう。早く進めなければ、議論が一段落する前に我々は目的に着いてしまうだろうから。

 さて我々は道徳についての一般的な見解を確認したので、今度こそ倫理に関する哲学者達の見解について見ていくことにしよう。そしてそれを解釈しながら、我々の立場を明らかにしよう。といっても時間もないことだから、取り上げるのはプラトンとカントに絞ることとしよう。

 さてプラトンであるのだが、君も知っての通り彼の対話編の中で倫理学において参照されるのは『ゴルギアス』と『国家』だ。ここでは『ゴルギアス』について語ろう」

 「どうして『国家』じゃないのか聞いてもいいかい?」

 「ナッシュよ。どうしても何も、私は『ゴルギアス』しか読んでいないのだ」

 「そうなのかい?たしかに『国家』は長いけれど、君ならすぐに読めるだろうに」

 「読めるだろうさ。しかし思い出して欲しいのだが、あの部屋には『国家』はおいていなかったではないか。君は忘れているようだが、私は昨日初めて地上に降りてきたばかりで、読んだ書物といえばあの研究室にあったものだけなのだ」

 「そういえばそうだったね」

 「とはいえ『国家』を読んだわけでもないのに彼の倫理思想について語るのは誠実な態度ではないと言われるかもしれない。しかしどうやら(昨夜の倫理学書などを読む限りでは)少なくとも個人のレベルにおいては『国家』に見られる倫理観――あの有名なギュゲスの指輪についての議論など――と『ゴルギアス』のそれとは大した違いはないように思われるのだ。少なくとも、我々の議論に関する部分はそうなのだ」

 「分かったよ、マイトレーヤ」

 「それでは始めよう。この『ゴルギアス』という対話篇においては、その名称となっているゴルギアスとソクラテス――の口を借りたプラトン――の対話は実は前哨戦に過ぎず、重要であるのは三番手にして最後の対話の相手であるカリクレスとの議論であるのだ。そういう訳だからゴルギアスもポロスも省いて、カリクレスとの対話だけに注目しよう。

 さてこのカリクレスとソクラテスの対話において、私が注目した論点は「快と善は同一であるか」というものだ。ソクラテスは「善」と「快」は別であるといい、カリクレスは我々と同じく「善」と「快」は同一であると主張する」

 「我々と同じく?」

 「そうだ。ナッシュよ、忘れたか?我々は利己主義ということを前提にしていたではないか。そして利己主義者にとって「快さ」や「利益」をもたらしてくれるものが端的に「善」であり、「不快」や「損害」をもたらすものが端的に「悪」なのだ。つまり利己主義者においては「快・不快」と「善・悪」は区別されないのだ。

 それは何故かといえば、利己主義者というのは常に自分だけの利益(満足)だけを志向するものであるから、道徳的な善悪などは意に介さないからだ。いや生粋の利己主義者にとっては、一般的に(道徳的な)善とされる行為は、自分自身には不利益をもたらす行為に他ならないのだから、彼らにとっては端的に「悪」であるのだ。

 しかし注意しておかなければならないのだが、ここでいう「善悪」というのは道徳的なそれではなく「損得」という意味で使われている。特にこの対話篇においては、肉体における快・不快と善・悪、そして精神における快・不快と善・悪の区別が重要であるから、そこに注意してほしい。

 では、まずはカリクレスの主張から見ていこう。端的に言って彼は徹底した利己主義者だ。だから彼にとっては肉体的においても精神的においても、とにかく自分にとって「快」をもたらすものこそが「善」であり、その意味で「快」と「善」は彼において等しい。たとえば美食や性的快楽は肉体にとっての「善いもの」であり、楽しい劇や他人からおべっかを言われることは精神にとっての快であり、即ち「善いもの」であるのだ。これが彼自身の主張である。

 しかしこれに対して世間一般に言われる「善」というのは、たとえば「他人に施しをすること」であるとか、美食や性的快楽に耽ることなく「節制」することなどを言う。カリクレスはこれを批判する。何故なら富を他人に分け与えたところで自分にとっては全く利益にはならない(むしろそれは損害となる)し、節制は快楽を小さくするのであるから、本人にとってはむしろ「悪」である。つまりカリクレスの主張に従えば、世間一般で信じられている「善」というのは、本人にとってはむしろ「悪(不快・損害)」なのだ。

 では、何故このような価値の倒錯が起こるのか?カリクレスはその理由を、優れた者に対する弱者の妬みであるとした。強者や富者は望むままに快楽を貪ることができるが、弱者や貧者はそうではない。だから節制や他者への施しを「善」と呼び、富を貪ることを「悪」だということにしてしまったのだ、とカリクレスはこのように言うのだ」

 「まるでニーチェだね」

 「そう、これはニーチェの思想そのものだ。というより、元々は古典文献学の教授であったニーチェがプラトンの影響を受け、それを深化したのだ。むろん君は、知っていて言っているのだろうが。

 それはさておき、こうした世間一般に流布する「道徳的なるもの」が、個人的な利害としては損をもたらすことは、キリスト教圏のみならず広く現在の資本主義社会の全てにおいて妥当であるのは言うまでもない。私が昨夜に読んだ倫理学の解説書には、こうした「利己的な個人」と「道徳法則」との相克の関係はこのプラトンに発し、しかしキリスト教の登場によってその問いは隠蔽され、ニーチェが問い直すまで忘れ去られていたのだ、と説明されていた。そしてこの問いは未だ、解決されていないのだ、とも」

 「たしかにその通りだと思う。資本主義世界というのは、そこに参加する個人や企業を合理的な主体と見なす。そしてその「合理的」とは要するに「自己の利益の最大化を目指す」という意味に他ならないし、その利益とはつまり金銭的な利益のことなんだ。だからそんな「合理的な」人間にしてみれば、他人に富を分け与える道徳家というのは「非合理的な」人間でしかない。その意味でカリクレスの批判は当たっている。

 だけど、じゃあプラトンは何て言っているんだい?そんなカリクレスの主張に対して、プラトンはソクラテスの口を借りて反論しているんだろう」

 「まあ、その通りだ。カリクレスのそうした徹底的な利己主義精神に対し、ソクラテスは感心しながらも、反論を試みる。まず彼はカリクレスの主張に対して、「善」と「快」はまったくの別物であると主張する。

 プラトンは肉体の健康を例に挙げ、「快楽」には肉体にとって「善い快楽」と「悪い快楽」があると言う。まず肉体にとっての快とは如何なるものであるかと言えば、これは単純に快楽であるということだ。例えば「入浴」や「美食」は快楽であるし、現代においては「飲酒」や「喫煙」もそうであるだろう。

 しかしこれらは肉体に快をもたらすという面では同じであるが、肉体に「善い」効果をもたらすか「悪い」効果をもたらすかという点では異なる、とプラトンは主張する。適切な食事や入浴は快楽であると同時に「善い」効果(つまり健康)をもたらすが、喫煙や飲酒や過食はむしろ肉体に害をもたらすので「悪」であるのだ。

 このように、ソクラテス(プラトン)は快楽にも「善い快楽」と「悪い快楽」があり、それ故に「快」と「善」は区別されると説く(つまりプラトンにおいては、「肉体にとっての善」は「健康」であり、「肉体にとっての悪」は「不健康(病気)」ということになる)。

 そしてちょうどこれに対応する図式が、精神においても言える。精神にとっての快も「善き快」と「悪しき快」に区別される。そして肉体における善悪が肉体にとって有益か有害かで区別されるように、精神の健康に資するか否かが精神的快の善悪を区別する。

 例えばおべっかや通俗的な娯楽作品は精神にとって心地よいので「快」であるが、その人間の精神をむしろ堕落させるので「悪」である。それに対して説教や哲学の教説は、人間の精神を向上させるので「善」であるとプラトンは言う。ただし哲学の教説や説教は大衆にとっては退屈であるし耳が痛いものなので、それは「不快」なのだが。

 さてこのようなプラトンの主張を信じるならば、どうして人間が「善」を目指さねばならないのかも明らかになるだろう。というのもどんな人間でも不健康、つまりは肉体にとっての悪を望むことはなく、誰でも健康という「善」の状態を目指すものだからだ。どのような肉体上の快楽であっても、その快楽を享受する肉体が病んでいては意味がないことは明らかであるから、この主張には説得力があると言わざるを得ない。

 そしてこれも明白なことに(とプラトンは言うのであるが)人間にとっては肉体よりも精神(魂)の方が重要であるのだ。だからこそ人間は肉体の健康を気遣う以上に、精神の健康を気遣うべきであり、そのような精神の健康こそが本人にとっても「幸福」なのだとプラトンは説く。

 ところでこの「精神にとっての善」というのは、つまり一般的な意味での「道徳的な善」だと見なしてよいだろう。故にプラトンはこのように説くことで善と快は別であること、また善人であることが本人にとっても幸福であると主張したのだ。

 さてナッシュよ、これをどう思う」

 「どうって――聞いている限りじゃ、問題ないと思うけれど」

 「ほう、問題ないと言うのか?しかしナッシュよ、だとしたら君は欺かれているのだ、あの饒舌なソクラテス、いやプラトンの詭弁に騙され、白を黒と思わされているのだ。

 たしかに君も言ったように、ソクラテスの言葉には矛盾がないように思える。しかしよくよく注意して聞いてみれば、その前提に既に誤魔化しが含まれている。

 ソクラテス、いやプラトンは「精神上の健康」を「善」とみなすことで、その状態が当人にとっても幸福であると言い、そう信じさせようとした。しかしナッシュよ、「精神の健康」と言うが、そもそもそれは如何なるものなのだ?それは本当に、肉体上の健康と同列に扱ってよいものなのだろうか?

 考えてもみるがいい。肉体が不健康であるということ、つまり病気になれば誰であってもその病を癒し、健康を回復することを望むであろう。しかしそれは、健康な肉体が本人にとって「快」であるからではないのか?いや少なくとも、病身が本人にとって「不快」であることは確かだ。病を得た身が不快であるからこそ、人間は健康を目指すのだ。

 それに対して、精神上の不健康はどうだろう?精神の不健康というのはつまり、道徳的に劣っているということだが、しかしそのような本人としては別に、その状態を不快に感じているわけではない。盗みや不正によって富を得ている者は(プラトンの用語法に従えば)精神的には不健康(悪)だが、しかし彼ら自身はその状態に満足しているのだ。

 つまり精神的に不健康ではあっても(少なくとも本人にしてみれば)幸福にはなれる。

 そしてナッシュよ。そもそも、「快」と「善」は異なるというプラトンの主張は、端的に言って間違っているのだ。肉体を例にとれば、同じく快楽であっても適切な食事や入浴は健康にとって有益であるから「善」であるが、飲酒や喫煙は肉体に有害であるから「悪」だとプラトンは言う。つまりプラトンにとって健康は善であり、不健康は悪であるのだが、しかしナッシュよ、健康は本当に「善」なのだろうか?

 喫煙は確かに肉体にとっての快楽であるが、それは肉体に害をもたらす。それをプラトンは「悪しき快」だと言うが、実はそうではない。喫煙は短期的には快楽をもたらすが、長期的には不健康――つまり「不快」をもたらすのだ。つまり最初から「快」と「悪」の区別ではなく、(短期的な)快と(長期的な)不快との対立であったのだ。

 プラトンは肉体の健康を善とした。しかし、そもそも「健康」を善とする根拠は何だ?ナッシュよ、人間にとって健康が望ましいのは、それが本人にとって「快適な状態」だからであり、病身であることが「不快な状態」に他ならないからではないか。つまりプラトンは「快」から「善」を導いているので、これでは「快」と「善」を区別する意味がない。

 だからナッシュよ、私としてはやはり、カリクレスの側に軍配を上げる。「善」と「快」は区別されるべきではなく、両者は同一のものなのだ」

 「……うん、確かにそうだ。納得した。でも、ちょっと不安が残るな」

 「何故だね?」

 「だって僕は、さっきのソクラテスの主張にも、同じように納得してしまったんだから。僕は君の言葉に納得したけど、それも実は君に騙されているだけかもしれないじゃないか」

 「そんなことはない。さすがに私も、そこまで意地が悪くはないさ。しかしそのように疑心暗鬼になってくれるのは議論を慎重に進める為にも安心できる」

 「だけど、どうしてプラトンのような偉大な哲学者が、そんな誤りを犯したのかな」

 「誤り、と言ってしまってよいかは疑問だな。プラトンは自分の主張が強引であることを承知していながら、敢えて詭弁を弄しているという節がある。実際に読んでみればわかるが、作中のカリクレスにしてもソクラテスの主張に心から納得しているわけではない。彼はただ、あまりにソクラテスがしつこいので根負けしただけなのだ。つまりそれを書いたプラトン自身が、自分の言葉に説得力が欠けていると自覚しているとも読める。

 では、何故プラトンはそんな真似をあえてしたのかと言えば、彼には道徳上の善や正義について、予め確信していた前提があったからだ。それは「善のイデア」だ。この『ゴルギアス』という対話篇においては直接イデアには触れられていないが、それがまた彼の巧妙なところで、その根底にイデアの思想が隠されていたことは明らかだ。

 しかし、もちろん偉大な哲学者たるプラトンのことだから、精神的善=幸福という自らの主張にあまり説得力がないことは承知していた。だからこそ彼はこの作品の最後において、「君達は造り話だと思うだろうけれど私は真実だと信じている」という前置きをして語り始める。それはつまり死後の世界における裁判の話であり、善人は「幸福の島」へ、悪人は「タルタロス」という冥界に落とされるという神話なのだ。

 つまりプラトンも結局は、「倫理的に生きる方が本人の利益になる」と言うことで利己主義者に警告――いや、妥協しているのだ。

 だからナッシュよ、利己主義を奉ずる我々の探求は否定されないし、まだ終わってはいない。我々はまだ「人間が利他的になれるかどうか」の答えを得てはいない。

 しかし、この「善」と「快」を巡る議論は、我々が乗り越えるべき問題を明瞭にしてくれた。利己主義者たる我々にとって「善」と「快」とは別のものではない。端的に言って、自分にとって快いものこそが、彼にとっての「善いもの(価値あるもの)」であるのだ。

 だから我々は次のことを証明しなければならない。『道徳的な善もまた、我々にとって何らかの意味で、「快さ」をもたらすものである』ということを」

 マイトレーヤはこう言った。

 

8  カントについて・「義務感」とは 

 

 ナッシング・アッシュフィールドは思わず口を挿んだ。

 「道徳的な善もまた、その人にとっての「快」だって?それはちょっとおかしいんじゃないかな」

 「何故だね、ナッシュよ」

 「そんな見解は、僕達の日常的な見解とはあまりにかけ離れているからさ。君が以前に言った通り、僕達のような一般人にとっては道徳なんていうものは、正直に言えば面倒臭いものでしかない。他の誰かを助けるとか、不正を働かないなんていうのも進んでそうしているわけじゃなく、周囲から求められるからそうしているんだ。

 マイトレーヤ、君には呆れられるかもしれないけど、それが偽らざる僕達の本音だ。だけど人間が利己的であると言うのなら、その方がよほど理に適っているだろう?道徳的な善は僕等にとってはむしろ「不快」なんだよ」

 「成程。ナッシュよ、君の言うことは一理ある。そこで、我々の奉ずる利己主義というものを確認しておこう。

 利己主義者においては

その行為(それ)が快(利益)であるから実行する(欲する)。これは合理的である。

その行為(それ)が快(利益)であるが実行しない(欲しない)。これは非合理である。

その行為(それ)が不快(損害)であるが実行する(欲する)。これは非合理である。

その行為(それ)が不快(損害)であるから実行しない(欲しない)。これは合理的である。

 以上のこの四つの選択の内、①と④については説明を要しない。それは利己的な人間にとっては合理的な選択であるからだ。

 他方、②と③を選択するにおいては説明を要する。それは利己的な人間にとっては非合理的な行為であり、つまりはありえない選択であるからだ。

 さて問題は、そのようなあり得ないはずの非合理的な行動が、しかし君達の日常においてしばしば見られるということだ。というより、いわゆる道徳的行為――利他的な行為――というのは、殆どがこの③に当たる。これは合理的な人間にとっては一つの謎だ。

 この謎を解く道は二つある。(A)その人間はそもそも合理的な思考を有しない。(B)一見すると非合理に見えても、その例外を許す何らかの条件がある。

 この内、Aであるならば問題はない。非合理的な人間が非合理的な行為をすることは当然であるからだ。そして実際、道徳的な行為はしばしば非合理的と見なされる。利己的な経済人にとっては他人に富を分配することは非合理な行為以外の何物にも見えない。だから彼らは、道徳的な人間を指して「お人よし」などと揶揄する。

 ナッシュよ、このように道徳的な行為を非合理的だと言って片付けることは容易だ。しかしこのように簡単に問題を片付けてしまうことは我々の信条に反する。

 それに、あらゆる道徳的行為を非合理と言い切ることはできそうにない。我々は道徳的な人間が、他の場面においては実に理性的であり、むしろ他の人間よりも賢明で合理的であるような例をいくらでも挙げることができるであろうから。

 だから我々は、そのような合理的な人間が道徳性を試されるような場面においてのみ非合理的な行動を採る、その正当な理由を探らなければならない。つまりBの道、合理的で利己的である人間が、道徳的場面においては非合理的な行動をする特段の事情を、そのメカニズムを、明らかにしなければならないのだ。

 他者のため、あるいは道徳的な義憤のために、自分にとって不利益となることをあえてするのは何故か?それは外形的には利他であるが、果たして本当にそうなのか、それともそこには利己的な動機が隠されているのか、それが問題なのだ」

 「そうだよ、マイトレーヤ。まさにそのことが問題なんだ。だけどもしも君が言うように「道徳的な善」が「快」であるならば、それは僕等にとって欲求だということになる。だとしたら僕らは、いつも自ら進んで道徳的な善を望んで、しかもそこには喜びが伴うということになるじゃないか。

 だけどさっきも言ったように、現実はむしろその正反対なんだ。僕らは道徳的な行為を自ら進んでするどころか、「嫌々ながら仕方なく」それをするんだよ。そう、つまりそれは、そうした行為が「義務」だからなんだ」

 「ほう、義務か。してみると君は、カント倫理学を肯定するのかね」

 「え!カント?」

 びっくりしたようにナッシングは言った。

 「いや、義務とは言っても僕はカントが正しいと思っているわけじゃないよ。哲学科の学生としてカントの思想についても学んだけれど、全く魅力を感じなかった。まあ講義で教わっただけだけど……」

 「私も、彼の倫理思想については全く同意する者ではない。もちろん学ぶべきところもあるとは思うが。……しかし、倫理思想について語る時に、やはり彼の思想には触れざるを得ないであろう。とはいえどうやら私達は二人揃って彼の倫理学には感心していないようだし、基本的な知識は有しているようだから、簡潔に済ませよう。

 まず言っておくべきことは、道徳の根拠を感情に求めるか理性に求めるかということで言えば、カントははっきりと理性派だということだ。いやむしろ、理性派の急先鋒だと言ってもいい。そして彼の論敵、つまり道徳感情派に対し、彼は明らかに敵意を持っている。

 カントは人間を、理性と欲望に二分された存在者として見る(カントにおいては欲望を「傾向性」と言っているが、まあ同じようなものだ)。人間は「傾向性」、つまり欲望に囚われているという面で動物と同じであると彼は考える。これは一般的な人間観とも一致するし、我々の利己主義的見解とも矛盾しない。

 このように動物的な人間であるが、彼らは動物が有していない「理性」をも備えている。この理性が人間に、欲望という傾向性とは別の行動原理を与える。それが「義務」だ。

 では、その義務とは何に対しての義務なのか?というと、カントはそれを理性が命ずる、「普遍的な道徳法則」への義務であると唱える。この義務などという、人間の自然の性向からはかけ離れたもののために、人間はその本音から言えば「やりたくもないこと」を実行しなければならないのだ。

 しかし、それは何の為なのか?一体どんな得があって、義務を果たさなければならないのか、という疑問が生じる。しかしそのような疑問にカントは答えない。それは義務なのであるから、とにもかくにも「やらなければならない」のであり、それに疑問を覚えることは許されないのだ。道徳法則はそれ自体が崇高な、とってもとっても尊いものなのだから、四の五の言わずに従えばよい、とカントはこのように言う。道徳法則が善悪の根拠なのではなく、まず道徳法則というものがあり、それに従うことが即ち「善」なのだと。

 もっとも、見返りがないというわけではない。カントに言わせれば、そのような義務に従うことで人間は「自由」になれるという。人間は欲望という名の傾向性に支配されているから、その支配を脱して理性的に振舞うことが人間にとっての自由だというのだ。なんともまったく、魅力というものに欠ける見返りだが、まあこんなところだな」

 「……そんな言い方をすると、本当に滅茶苦茶な理屈に聞えるね」

 苦笑しつつナッシングは感想を洩らした。

 「ところで肝心の道徳法則については触れないのかい?」

 「ああ、そうだった。あまりに受け入れ難いので忘れていた。たしか「汝の格律(行動原理)が、普遍的な法則になるように行動せよ」とか、そんな話だったな。

 しかしこれは、そもそもおかしい。倫理学の解説書などでは具体的な事例を挙げて、「こうした格律でも普遍化できるが、この場合はどうなのだ」という形でカントへの反論を試みているようだが、私としてはそれ以前の問題であると思える。そもそも、どうして普遍化などしなくてはならないのだ?カントはあたかも、普遍化できることを以て道徳法則が正当である根拠としているかのようだが、それは正しいのだろうか?

 たしかに、普遍化できることは法則が法則たる条件であると言えるかもしれない。しかしだからといって、普遍化できることが「道徳の」法則の根拠であると、果たして言えるであろうか?

 もしも「普遍化できること」が道徳法則の根拠だと言うならば、道徳とは全く関係ない事柄から、道徳法則を導くことも可能となってしまう。例えば「空腹だったら食事を摂るべきだ」という命題であっても、それは普遍化できる故に道徳的行為ということになってしまうとは言えないだろうか?」

 「そうかもしれない。でも、カントの言うことにも一理はあると思うんだ。どんな悪人だって、他人に対しては危害を加えることはできても、自分に危害が及ぶことは欲しない。それは人間が利己的であるから、常に自分にとって望ましい行為をするからだ。

 だとすれば、自分の望む行為を普遍化するということはつまり、「誰にとっても」望ましい行為ということになり、それはつまり、利他的な行為だと言えるわけじゃないか。少なくとも、もしも世の中の人々がカントの道徳法則に従って行動するなら、世の中がもっと良くなることは間違いないよ」

 「成程、そのような世になったならばそれは住み易い世であると言えよう(もっとも、絶対に実現することはないだろうが)。皆がこの法則を意識しつつ行為するならば、それは他者に危害を加えないということだからだ。

 しかしナッシュよ、騙されてはいけない。「自己の行動原理を普遍化する」ということ、その手続き自体に既に道徳的観念が入り込んでいるからだ。だってそうだろう、利己的な行動原理を普遍化するということはつまり、「自分自身を配慮する」ように「他者を配慮する」ということであり、他者の利害に配慮することに他ならないのだ。これが「利他」でなくて何だというのだ?カントはもっともらしく言っているが、利己的な原理を利他にすりかえているに過ぎない。

 しかし本当の問題は、利己的である筈の人間がどうしてそのような利他的な、云わば非合理的な行動を志向できるのか、ということではなかったか?カントの思想においては、その説明が為されていないのだ。

 わかるか、ナッシュよ。利己的な人間であるならば、そもそも普遍化などという手続き自体を望まないのだ。常に「自分だけ、自分だけは」と、自己の得になることや利益ばかりを望むのが人間ではないか。そしてそれは、利己主義者にとってはあくまで、合理的な志向であるのだ」

 「そうかもしれない。だけど人間だって、そんな酷い人ばかりじゃないよ。それに自分にとっての善いことを普遍化すれば、それは「誰にとっても善いこと」ということになる訳だから、結局のところ利己主義者にとってもそんな世界の方が、自分にとって都合のいい世界になる、とは言えるんじゃないかな?」

 「ふむ、それはなかなか良い着眼点だ。功利主義はまさにそのような発想から自らの正当性の根拠としている。……しかし、私は敢えて反対させてもらおう。

 君の言うように、確かに人間というものはあからさまに利己的な振舞いはしない。しかしどのような善良な人間であってもやはり人間なのだから、どうしても好きな人間と、そして嫌いな人間もいるだろう。だとしたらそのような人間にとって最も良い、いや好都合な世界というのは「誰にとっても住みよい世界」などではなく、「私と私の愛する人間にとっては住みよいが、私の嫌いな人間にとっては厳しい世界」である筈だ。これこそが利己的な人間にとってもっとも合理的で望ましい、つまりは「善い」世界なのだ。

 だからナッシュよ、普遍化という手続きはやはり誰にとっても、利己的な観点からは志向し得ないのだ。普遍化を望むこと自体に、そもそも倫理的に高いハードルが設けられている。しかも、その根拠は薄弱であるのだ。

 では一体どうして、カントはこのように不自然な「普遍化」などという手続きを言い出したのだろうか?これについては色々な理由が考えられるだろうが、私の推測ではそのもっとも大きな理由は、彼がそのような「普遍的な道徳法則」を望んでいたから、ということだ。言い換えれば、彼は「道徳法則」は「普遍的でなければならない」、と強く望んでいたからだ」

 「望んでいた?」

 「そうだ。私は彼の著書としては『実践理性批判』しか直接には読んでいないが、彼はその中で論敵――つまり道徳感情論者――を批判して何度も「道徳の根拠を感情や欲求に求めていては、普遍的な法則にはなり得ない」という趣旨のことを言っている。つまり彼には、「道徳法則は普遍的なものである筈だ、そうでなければならない」という前提、いや先入見、思い込みがあったのだ。だからこそ彼は「普遍化」を道徳の根拠としたのだ。

 しかし勿論、そのような先入見や要請を捨てれば、このような理屈はおかしいとすぐにわかる。そもそも正体のわからないものについて「こうあって欲しい」という理想を押し付け、そのような理想像を前提にして、それに反する意見を非難するというのは。それは喩えるならば、物理学者が「こんな物理的法則があればいいのに」という前提の下に、自分にとって都合の悪い物理的現象を無視あるいは排除し、その法則を証明したと主張するようなものなのだ。しかし勿論、そのような誤った主張で世間を騙すことができても、現実世界の物理法則が捻じ曲げられるわけではない。

 もっとも、彼は論敵である道徳感情説を批判することで、自己の理論の正当化を一応は図ってはいる。だが言うまでもないが、対立する学説の誤りを指摘できても、自分自身の唱える説を正当化していることにはならないのだ」

 「……だけど、どうしてカントはそこまでして、善悪の根拠を理性に求めたのかな」

 「一つには、彼自身がそのような倫理観を有していたからだろう。つまり彼は、「あの人を助けてあげたい」とか「あの人が気の毒だから」などという欲求や感情に拠って道徳的な行いをするのではなく、本心では別に他人を助けたいなどとは思っていないのに、仕方なく「義務感から」そうしていた人間だったのかもしれない。あるいは彼は、自発的に行動するよりも、「あれをやれ」「これはするな」などと一方的に命令されることに快感を覚える性向の人間だったのかもしれない」

 「いやちょっと、それはいくらなんでも……」

 「そうだな。今のは少し邪推し過ぎたかもしれない。真面目に言うなら、彼はきっと厳格な人間だったのであろう。彼は厳しい倫理観を有しており、他人にもそのような厳しい基準を遵守してもらいたかった。が、もしも善悪が欲求や感情に由来するなら、それは各個人で違ってしまうから、強制することができなくなってしまう。そんなことは断固として認めたくないから、彼は普遍的な法則を欲したのだ」

 「さっきよりはましだけど、それもどうなんだろう?僕はカントを直接読んだことはないけれど、彼の倫理思想からはもっと寛容というか、高潔な人間だというイメージを抱いていたんだけど……」

 「私もそう思っていた。しかし彼の著書(といっても私が読んだのは日本語訳なのだが)を読んでみると、意外と独善的という印象を受ける。少なくとも自分を批判する者や、論敵である道徳感情説に対しては敵意を抱いているように見える。いや、それだけ必死であったというだけのことかもしれないが。

 彼の態度はとにかく頑なで、道徳が感情に由来するということを一切認めようとはしない。たとえばある者が誰かに同情して、「その人の幸福のために」何らかの慈善的行為をしたとしても、カントは「その行為が感情に由来するために」道徳的な態度とは認めず、これを賞賛しないのだ。これなどは我々にはむしろ不合理に思える。義務感から行為するよりも、他者への共感や同情の気持ちから行為する人間の方が、私にはよほど優しい人間に思えるのだが。

 しかし他方、彼は感情についての鋭い分析を行ってもいる。もっともそれは、道徳感情説への批判としてなのだが、それでも聞く耳を持たないという訳ではないのだ。

 彼に拠れば、道徳感情派は欲求を上級と下級に分けているが、これは間違っているという。下級の欲求というのはつまり感性的・肉体的な欲求で、食欲や性欲などがこれに当たる。他方、上級の欲求と言うのはそうした肉体的なものとは異なる知的・精神的な欲求で、道徳感情もこの上級の側に含まれる。要するに当時の道徳感情論者はこのように「道徳感情」を普通の意味での欲望(食欲・性欲など)とは区別することで、道徳感情の地位を擁護しようとしていたということだ。知的・精神的欲求を肉体的な欲求より上位に置くことで、人間性を守ろうとしていたのだ。

 しかしカントはこれを否定して言う。欲求というものをこのように上級と下級に区別することは誤っていると。彼はこのような例を挙げている。「同一人でも、あるいは狩猟を楽しむ機会を逃すまいとして、二度と手にすることのできない有益な書物を読まずに返却することもある。あるいは食事に遅参しないために、立派な演説の中途で席を立つこともある」と。もちろん、有益な本を読むことや立派な演説を聞くことが上級の(知的な)欲求で、狩猟や食事が下級の欲求ということだ。

 またこれと同様に、「平素は貧しい人に喜んで施しをするのに、あいにく喜劇を観るための入場料だけしか金の持ち合わせがないために喜捨を断ることもある」という例をも挙げている。これは道徳感情が他の感情に負けてしまったということだ。これらの例ではどれも、知的欲求や道徳的欲求という上級の欲求が、下級のそれに負けてしまっている。

 このような例からカントは、上級な欲求が下級のそれより勝っているわけでも、また強いわけでもないと主張する。そして知的欲求(道徳感情)と肉体的欲求の間で迷った時、その人がどちらを優先させるかは上級か下級かの区別によってではなく、その二つの内のどちらがより大きな満足をその人に提供するか、によると言うのだ。つまり欲求の質ではなく、量の問題ということだ。

 いやそもそも、だから人間の欲求には上下の別はなく、それらは「快」をもたらすという点で結局は同質なのだ、とカントは結論付けるのだ。(そしてだからこそ、そのような欲求や感情に道徳の根拠を求めるのは間違っているのだ、とも言う)。

 ところで私は、この議論についてはカントの方が正しいと考える。道徳的な欲求や感情であっても、肉体的な欲求と質的に同じであるというのは公正な態度であろう。

 しかし私がカントと意見を異にするのは、彼がこれを以って道徳感情派への反論としたのに対し、私はこれを善悪の根拠が感情にあることを否定するものではない、と見なすことだ。いやそれどころか、彼の意見は君の提出した疑問を解く鍵となるのだ」

 「僕が提出した疑問?」

 「この話を始める前に、君が言っていたではないか。道徳的な行為は大抵の人間にとっては損となるから、進んでするものはいない。誰もがそれを「嫌々ながら」しているのだと君は言った。そしてそれ故に、「道徳的感情は快ではない」と反論した。

 たしかに君の言うとおり、道徳的善を精神的な「快」とする私の意見では「嫌々ながらそれをする」という現象は説明し難い。しかしこれには抜け道があるのだ」

 「抜け道?」

 「利己主義者の行動原則を思い出してくれ。大抵の人間にとって道徳的行為は自ら進んでやるものではない。それは先の利己主義者の行動パターンで言えば③の「その行為(それ)が不快(損害)であるが実行する(欲する)」という行動に当たる。これは利己主義者にとっては非合理であるから、説明を要するということだった。

 しかしこれには抜け道がある。たとえそれ自体が不快な行為であったとしても、それをすることで別の不快(損害)を避けることができるとか、或いは快(利益)を得ることができるならば、その不快を堪えるという選択肢はあり得るのだ。要は全体の収支において本人にとっての利益の方が大きければ、それは合理的だと言えるのだ。

 場合分けして整理してみよう。先の行動パターンの③はそれ自体は非合理的だが、(Ⅰ)それによって「より大きな不快(損害)」を避けることができるという場合は、これは非合理的な行動ではない。

 これは例えば「犯罪者になる」という大きな損害を避けるために「納税」という小さな(かどうか知らないが)損害には目を瞑るであるとか、「解雇される」という大きな損害を避けるために「厭な上司の厭な嫌味」という不快を耐え忍ぶ、という場合だ。

 また、それ自体は不快な行為であったとしても(Ⅱ)それをすることによって「より大きな快(利益)」を得ることができる場合、も考えられる。この場合もまた、収支において利益の方が大きくなるならば、非合理的な行動とは言えない。

 これは例えば、スポーツにおいて「勝利」という大きな快(利益)を得るために日々の厳しい練習という不快に耐えるであるとか、或いは学生が「志望校に合格する」ために毎日勉強する、というのがこれに当たる。

 このように、一見すると非合理的な行動であるように見えても、実は本人にとってはそうではない、という場合はあり得る。それが他者にとってはありえない選択であるように見えても、実は本人にとっては十分に合理的な行為であるのだ。

 そして私の考えでは、君の言うような義務感からする道徳的行為、つまり嫌々ながら道徳的に振舞うということも、この③の場合に当たるのだ。道徳的行為は君の言うように、誰にとってもそれ自体は金銭的・労力的には損害であるのに違いない。しかしその者には理由があって(Ⅰの場合かⅡの場合かはわからないが)、敢えてそれをする。それは彼にとっては非合理的な選択ではないのだが、しかしその行為自体が不快(損害)であることには変わりはないから、「嫌々ながら」とか「気は進まないながら」それをする、ということがあり得る。これが義務感の正体なのだ。

 だからナッシュよ、道徳的場面においての一般的な見解である、理性と感情の葛藤というのは正しくない。それは感情と感情、つまり道徳的な感情とそれ以外の感情(肉体的・金銭的・或いはそれ以外の精神的な)との間の葛藤なのだ。そしてこの葛藤の決着はカントの指摘した通り、上級か下級かという「質」に拠って決まるのではなく、どちらがより大きいかという「量」に拠って決まるのだ。

 そもそもカントの言うように、我々自身の道徳観から独立した「普遍的な道徳法則」なるものがあったとして、それが我々の行為に煩く口を出してくるとしたら、どういうことになるであろうか?……それはつまり、我々が昨夜否定した筈の、あの「神」なる絶対者の指図に従うことと、何ら変わりがないのだ。もしも我々が盲目的に、普遍的な道徳法則とやらに従うとしたら、我々はその時むしろ自由を奪われ、生きる理由をも見失ってしまうことになりかねないのだ。

 だからナッシュよ、私達は道徳法則が実在するなどと認めるわけにはいかない。いや例えそのような不自然なものが実在したとしても、我々はそれにあくまで反抗し、利己的に生きるべきであるのだ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

 

9  ミクロ倫理とマクロ倫理の区別について 

 

 「それじゃあ君は、あくまで道徳的な善は「快」に他ならないと言うんだね」

 改めて確認するようにナッシングは言った。

 「善悪の根拠は理性ではなく、感情だと言うんだね」

 「そうだ。いや正確に言えば、先程までははっきりとそう考えていたわけではなかったのだが、議論している内にそう考えるようになったのだ。

 というのも我々には「人間は利己的であるべきだ」という前提がある。そして利己的な人間を出発点とする以上、道徳的な善悪もまた本人の損得勘定に適ったものでなければならない筈なのだ。するとどうなるかと言うと、理性に拠る「普遍的な道徳法則」なるものがあったとしたところで、そのような利己的な個人にはそれに従う動機がない。であればそもそも道徳法則なるものを想定することに意味はない。それは個人の行動原理にそぐわないからだ」

 「だけどマイトレーヤ、そんなことを言ったらそもそも倫理学は不可能になってしまうよ!道徳的な善悪が個人の感情や価値観に由来するとしたらそれはごく個人的なもので、、普遍化なんてできないんだから。いやそもそも、社会が社会として成り立たない!「人を殺してはいけない」という当たり前のことすら言えないのだとしたら……」

 「その通りだ、ナッシュよ。「人を殺してはいけない」というのもまた一つの価値観であり信念であるから、それを他者に強制することはできないのだ。たとえばあのヒュームなどはこう言っている――「私の指に引っかき傷を作る位なら、全世界が破滅する方がましだ、と考えるのは理性に反してはいない」と。そしてこれは確かに正しいのだ。徹底した利己的な人間にとって、それは合理的であるのだ」

 「そんな馬鹿な!」

 「おや、馬鹿なことというのかね?ではこんな例を挙げよう。Aという人間がいて、彼はある事業を実現させたいと考えている。しかし、それにはBという人間が邪魔となる。そして実のところAは、人間を一人殺しても絶対に露見しない方法を知っているとする。……この場合、Aが合理的であるなら、Bを殺すのが合理的な選択だ」

 「それはちょっとおかしいよ。事業なんかのために人を殺すだなんて……」

 「ナッシュよ、君がそのように感じるのは、君が「人を殺してはいけない」という信念を有しているからだ。だから君の場合は、その信念に反して人を殺すのは非合理的に思える。しかし忘れてはいけないが、この話のAには君のような信念はないのだ。するとどうなるかというと、「事業を成功させるためにBを殺さない」方が彼にとっては非合理的な選択なのだ。

 このように見るならば、人間の行為を合理的か非合理的かに分ける根拠が個人の信念に依拠していることがわかるであろう。そしてこの信念というのはつまり、その人間の価値観であり、つまりは感情に他ならないのだ。ヒュームはこれを知っていたから「道徳の根拠は感情である」といい、ムーアは「自然主義的誤謬」を唱えたのだ。現在の理性派はこれに対して「~である」から「~すべき」を導き出すべく努力しているが、その試みはおそらくは虚しいであろう。つまり善悪の根拠は、今やどうしても感情に求めるしかない。

 しかし君も指摘するように、それでは万人に共通する法則は導けないし、社会秩序そのものが存続できない。

 そこで必要になるのが、「マクロ倫理」であるのだ」

 「マクロ倫理?耳慣れない言葉だけど」

 「それはそうだろう。昨日の読書の結果から、私が勝手にそう呼んでみただけなのだから。君は、ミクロ経済学とマクロ経済学という経済学の分野のことを知っているかね?というのも、私もこの別分野の学問からこの区分を思いついたからなのだが」

 「うん、知っているよ。もちろん専門外だから詳しいわけではないけどね」

 「そうか。文学部の君がどうしてミクロ経済学やマクロ経済学のことを知っているかは知らないが、それについては聞かないでおこう。とにかく、それなら説明の必要もないわけだが、ごく簡単に言っておこう。ミクロ経済学とは個人や企業といった合理的な経済主体を対象として、様々な状況における彼らの経済行動について分析する。他方マクロ経済学とは、一国の経済全体を分析対象として、そこにおいて生ずる様々な現象やその原因について分析する学問領域なのだ。

 さて私の言うところのミクロ倫理学とマクロ倫理学の区別もまた、全く同じというわけではないが、大まかに言えばこれと同じようなものだ。つまりミクロ倫理学は個人における善悪の問題について考察するのであり、マクロ倫理学においては集団(国家・社会)における善悪、つまりは社会正義や規範を考察の対象とするのだ」

 「ああ……君のいうマクロ倫理学というのはひょっとして、社会契約論とか功利主義なんかのことかい?」

 「まあ、そういうことだ。トマス・ホッブズを始めとした社会契約論、そしてベンサムやJ・S・ミルの功利主義は今では政治哲学でも扱われるが、やはり倫理学の領域でもある。どうやら現代のメタ倫理学、即ち善悪の根拠を巡る議論においてはあまり問題とされていないようだが、それはどうやら個人の内面における善悪の問題については関わりが薄いからであろう。

 しかし私の考えでは、こうしたマクロ倫理学もまた、現代の倫理上の問題を解決するためには必要なのだ。……いや、この言い方は正確ではないな。ミクロ倫理とマクロ倫理を区別せず、その全てを一つの理論で説明し尽くそうとするから無理が生ずるのだ。

 私はミクロ倫理とマクロ倫理は区別されねばならないと考える。というのも、ミクロ倫理における原理と、マクロ倫理における原理とは異なるからなのだ」

 「……どういうことだい?」

 「私の考えるところでは、ミクロ倫理学においてはどうやら「感情」こそが善悪の根拠になる。しかしこれは今まで言ってきたように個人の価値観によって違うので、普遍的な法則を導くことはできない。それに対してマクロ倫理の領域においては、絶対的でも普遍的でもないが、とにかく一定の「道徳法則」を理性によって導くことができる」

 「どうしてそうなるんだ?だって君はカントを批判して、理性による法則は導けないと言ったじゃないか」

 「ああ、言った。しかし私がカントを批判したのは、カントがそれを個人の善悪の根拠として押し付けようとしたからだ。しかし私の言うマクロ倫理の法則は、集団(国家・社会)が定める一定のルール(法、規範)をその成員に課すものではあるが、しかし個人の価値観にまで干渉するものではない。

 それは個人の行動を規制する。しかし、強制はしない。そしてその代わりとして罰を与える権能を有する。マクロ倫理の法則はある程度の正当の権威を以て(しかし絶対的な権威ではないが)、そのような罰や罰を与えることが許されるのだ」

 「訳がわからないよ、マイトレーヤ!僕達はこれまで「人間は利己的に生きるべき」ということを前提に議論してきた筈じゃないか。それなのに、そんな利己的な人間がどうして、マクロ倫理だかなんだか知らないけど外部からの規制に従わなくちゃいけないんだ?利己的な人間であるなら、そんな干渉に従う筈がないじゃないか」

 「その通りだ。利己的な人間は、そんな一方的な規制に従う道理はない。ただしその場合、罰を受けるというリスクを負う。それだけのことだ」

 「……どうもよくわからないな。利己的な人間ならそもそもそんな、個人に罰(不利益)を与えるような規則や制度自体を容認しないんじゃないかな?」

 「君の指摘は鋭い。私はそれを嬉しく思うよ。それだから私は君を説得するために、意を尽くして説明させてもらう。

 ところでナッシュよ。君は今までの人生において、何かスポーツをしていたことがあるかね?」

 これを聞くとナッシングは顔を顰めた。

 「僕だってスポーツくらいはしたことがあるよ。別にやりたくてやったわけじゃないけどね」

 「いや私の言いたいのは、スポーツをするために何かのクラブやチームに所属していたか、ということなのだが」

 「ないよ。そもそもスポーツ自体が好きじゃないし、人付き合いが面倒だからね。……イギリスにいた頃にはほんの一時期だけど、ボランティアサークルにいたことはあるけど、それだけだよ」

 「ふむ、別にそれでもいいが。どうも君はあまりそれに触れて欲しくはないようだからやめておこう。では仮に、君はサッカーが好きだということにしよう。構わないかね?」

 「……まあ、構わないよ」

 「よし。君はサッカーが大好きだ(そう嫌な顔をするな)。しかし当然のことながら、サッカーは君一人ではできない。まあボールを蹴るだけなら一人でもできるわけだが、難儀なことに君はチームでやるサッカーが好きなのだ。そこで、どうしても君はどこかのチームに所属しなくてはならない。ここまではいいかね?」

 「いいよ」

 「さて。こうした希望の下に君は、地元のとあるサッカークラブに入団することができたとする。これで君は思う存分、大好きなサッカーを楽しむことができる(そう嫌な顔をするな)。

 さてこうして君の希望は叶ったわけだが、クラブに入るに当って条件が出された。それは例えば、年会費を納めるであるとか、クラブのルールを守らねばならないというようなものだ」

 「クラブのルールって?」

 「たとえばチームメイト同士で喧嘩をしてはいけないとか、練習や対外試合には無断で遅刻や欠席をしないであるとか、ミーティングに参加するとか、順番でコートや道具類の整備をしなければならないとか、おおよそそのようなものだ」

 「考えるだけでうんざりするけれど、僕はサッカーが好きだという仮定があるんだから、もちろんルールは守るよ。別に理不尽なルールという訳でもないし、それがメンバーの義務だというなら従うよ」

 「何故だ、ナッシュ。君はそんなルールに従う必要はないではないか。なんと言っても君はサッカーがしたいだけであって、別に年会費を納めたいわけではないし、ミーティングに参加したいわけでも、コートや道具の整備をしたいわけでもない筈だ。いやむしろそうした余計な義務は君にとっては「不快」でしかないし、年会費はもちろん金銭的な「損害」だ。だから君は自己の利益を最大化するためにはサッカーだけを楽しめばよいのであって、そうした義務の全てを無視してしまえばよい。それこそが利己的で合理的な選択というものではないか」

 「いやマイトレーヤ、そんな理屈は通らないよ。たしかにそんな身勝手な振舞いが可能であるならそれが一番望ましいのかもしれない。でもその場合、僕は間違いなくチームから追い出されてしまうよ。そしたら僕は「サッカーをする」という僕にとっての利益を失ってしまいかねない。なんと言ってもサッカーは一人ではできないんだから、それは僕には致命的な痛手になってしまう」

 「では君はあくまで、クラブのルールに従うというのか。しかしそんなものはクラブの創立者が決めたものに過ぎないのであって、法律でも何でもないではないか。法律とは違い、それに人を支配する正当な権威などない筈だ」

 「たしかに、クラブのルールは法律とは違う。それが理不尽なものなら従う必要はないだろうさ。だけどさっきの君が言ったようなルールは、どれも必要なものだろう?クラブがやっていくためには色々な経費が必要だろうし、メンバーが勝手に休んだら試合ができなくなるかもしれない。コートや道具の整備だって、誰かがやらなくちゃならないことだ。つまりクラブを維持するために必要なルールなんだ。そして僕は、チームに所属することで「サッカーを楽しむ」という利益を得ているんだ。

 だから、僕がその負担をある程度まで引き受けることは合理的だと言える。……もちろん、利益よりも不利益の方が大きくなったのなら、いつでも辞めてやるけどね」

 「まったく君の言う通りだ。君は私の言いたいことを、全て代弁してくれた」

 「……どういうこと?」

 「利己的な筈の人間が、自ら進んで外部からの不利益を受け入れ、それでいて合理性には反しない理由だ。つまりある集団に属する人間は、その集団から利益を受けているからなのだ。彼の中で利益と不利益の収支があっているからこそ人は、進んで(或いは仕方なく)義務をも受け入れるのだ。

 そしてそのような関係は、大抵の集団において基本的には適用される。私はサッカークラブを例に挙げたが、最も基本的な集団――即ち国家と個人の関係においてもそうだと言えるのだ。

 例えば、国民はその政府に税を支払う義務を負わされている。また、殺人や放火や暴力行為といった一定の行為を禁止されている。これらは全て、自由な行為を阻害されるという意味で、広い意味での不利益と言える。

 一方で個人は国家(社会)によって恩恵をも受ける。まずは身の安全が(ある程度は)保証されている。整備された施設を利用することができる。教育を受けることもできるし、裁判によって自らの財産を守ることもできる。(これは国家に拠るのではないが)他者の労働によって、そして財の交換によって、自分では決して製造することのできない道具や品物を手に入れることもできる。

 もちろん誰にとっても、この利益と不利益が釣り合うわけではないだろう。しかも厄介なことに、この個人と国家の関係はサッカークラブの場合とは違い、自由に抜けることはできない。いやそもそも個人の意志に関わりなく、強制的に加入させられてしまう。この点を以て不公正と言うこともできる。

 しかし大抵の者にとっては、国家の法はそれほど悪い条件ではない。というのも、普段はその利益を意識はしないが、文明の恩恵というのは大抵の人間にとって大きな魅力であるのだ。そうした国家からの束縛を嫌って一人で森に住まう人間のことを考えてみるがいい。住む場所を造るためにまずは木を伐らねばならないし、服を用意するにも、快適な衣服を織り上げるには長い時間が掛かるだろう。もちろん食事も自分で用意せねばならないが、そうして作った食事にしても随分と限られたものとなる。だからこそ、人はその所属する社会や国家に多少の不満はあっても、それが酷く自分に不利益でない限りは妥当しようとも逃亡しようとも思わないし、改革すらもしようとはしないのだ。

 さてこのように、利己的で合理的な個人がその義務を甘受するのは、そのような不利益を蒙ってもそれを補う程の利益を得ている(と思える)からだと言える。

 しかしもちろん、その収支のバランスが崩れてしまえば個人は国家に反発、或いは逃亡を企てることが合理的な選択となる。だから国家(集団)が安定的に存続するためには、そのルール(法律・規範)はその成員の利益に添って、ある程度の条件をクリアしていなければならない。しかしその条件は多岐に亘るし、それ自体が云わば一つの学問領域となるから、ここでは触れない。

 しかし最低限必要であるものについては言える。君も言ったように、それは「その集団を維持するために必要なルール」なのだ。インフラを整備するための徴税、個人の財産を保証する民法、社会秩序を守る為の刑法や裁判制度、実行機関である警察機構、外敵からの安全を保証する軍隊……などなど、挙げればきりがない。

 そして「人を殺してはいけない」とか「盗んではいけない」という倫理的な要請ももちろん、こちらに含まれる。これは一つの集団を安定的に維持するための、最低限の決まりであるからだ(先のサッカークラブのルールにそれらは入っていないが、それはもちろん国家の法や規範によって規制されているからだ)。

 しかし君も気付いているだろうが国家、いや法律の機能というのは、実はこれには留まらない。法律は例えば、学校に通って勉強することを国家に強制するし、商売上のルールにも口出しをして規制するし、歴史的な建造物や美術品を保護したりするし、福祉政策にも手を出すし、文化を保護したりするし或いは規制したりもする。これらは先のような、「社会を維持するための最低限のルール」とは言えない訳だが、まあ「成員の全てにとって利益となる」とか「社会全体をより良くするため」という名目で正当化され、そのような理由でとりあえず国民も納得することができる。とはいえ勿論、こちらのルールの方は最低限必要なもの、とは言えないので正当化の度合いは低い訳だが。

 とまあこのように、国家が命じる法律や規範は、合理的な個人にとっても受け入れられるのだ」

 「成程、納得した。大雑把に言って「最低限のルール」というのが社会契約論で、「派生的なルール」の方が功利主義に当たる訳だね。功利主義は「成員の幸福の総量を最大化させる」という意味で正当化されるわけだ。そしてそれは、利己的な個人にとっても是認できるものだ、と」

 「そういうことだ。しかし勘違いをしてはならないのは、そのような規則というのは国家(集団)が採用する行動原理としては是認できるとはいえ、個人の行動原理としては強制的に押し付けることはできないのだ。何故なら国家がその成員に義務を押し付けることが許されるのは(正当化されるのは)、国家がその成員にとって有益だからであり、だから国家はその本質上、「その成員にとって有益である」ことを条件としている。

 ナッシュよ。このように国家というものは(個人とは異なり)、その「存在理由」が定められている。つまり国家はそもそも、「成員の幸福に資するという価値観」を予め与えられているのだ。だからこそ、それを前提として理性的に「法則」を導き出すことができる。私はさっきカント倫理学をあのように批判したが、彼の唱える道徳法則もマクロ倫理の領域において、国家の定める法律や指針の正当化を保証する為には有効であるのだ。

 これに対して、個人においては別にこのような価値観を外部から与えられているわけではないし、その行動原理は利己的であるから、「人を殺してはいけない」とか「盗みをしてはならない」などという最低限のルールも、功利主義のルールを守る必然的な動機もないのだ。

 ナッシュよ。このように、国家と個人においてはその性質も、行動原理も予め異なっている。だからこそ、その倫理の基準も全く変わるのだ。

 「事実命題から価値命題は導けない」というヒュームの法則を思い出してくれ。国家はその価値基準を(その成員から)与えられており、対して個人はそのような価値観を与えられていない。だから国家においては理性によって規則を導けるが、個人においてはまずはその価値観を自分で用意せねばならない。だからこそ、個人においては「感情」が善悪の根拠になるのだ。

 だからこそ、そこのところを誤解してマクロ倫理的な善悪の原理(功利主義や道徳法則)を個人、つまりミクロ倫理学の領域に押し付けることは、端的に誤りであるのだ」

 「君の言うことは、大体理解したと思うよ。大部分は納得もできる」

 しばらく頭の中で検討した後、ナッシングは言った。

 「でもそれって、結局はカントとかと同じことになるんじゃないかな?「人を殺してはいけない」とかの倫理的な規則をそうやって正当化するなら、マクロやミクロの区別だって必要ない気がするけれど」

 「何を言っているのだ、ナッシュ。「人を殺してはならない」というのはマクロ倫理の場合に言えることであって、ミクロ倫理の規則とはなり得ないのだ。それは国家の定めた規則ではあるが、個人の行動原理とは異なる」

 「いや、だって、結局のところ同じことだろう?国家がその成員に殺人を罪として禁じるなら、国民はその規則に従わなくてはならない。それが義務だから」

 「やれやれ。ナッシュよ、君はまるでわかっていない。君は大体は理解したと言ったが、肝心なことは何一つとして理解していないのだ!

 いいかナッシュよ、マクロ倫理は国家の行動原理であるが、しかし個人の行動原理ではないのだ。国家は成員の利益のために法律という規則を定めるが、しかし成員たる個人はその行動原理に従わなくてもいいのだ」

 「え?え?いや、ちょっと待ってくれよ、マイトレーヤ!君は何を言っているんだ?従わなくてもいいのなら、何の為の義務なんだ?」

 「どうやら私の言い方が悪かったせいで混乱させてしまったようだな。それでは改めて、正確に説明しよう。

 いいかナッシュよ。殺人の例で言えば、「人を殺してはならない」というのは国家の行動原理なのだ。しかし当然のことながら、そもそも国家自体が人を殺すことはない(死刑や戦争を除いて)。だから「人を殺してはならない」というのは実は、その成員たる個人に「人を殺させてはならない」ということなのだ。そしてこのルールは法律という形で明文化され、「人を殺した者は――の刑に処す」という刑法として公布される。

 つまりこうなのだ、ナッシュよ。「人を殺してはならない」というのは国民の義務ではない。その成員に「人を殺させない」というのが国家の義務であるのだ。そしてその為に定める「人を殺したら罰を与える」という規則、それを受け入れることこそが国民の義務なのだ。それはつまり、「人を殺してもいいが、その代わり罰を与える。その罰を受け入れよ」ということであるのだ」

 「そんな馬鹿な!国家が、殺人を認めるなんて!」

 「いや、認めているわけではない。国家は勿論、国民が殺し合いをすることを全面的に禁じている。統治機構である国家にとって、殺人は絶対的に悪なのだ。これは間違いのないことだ。

 しかし他方、国家はそのような価値観を国民の一人一人に押し付けることはできないということだ。何故なら「人を殺してはならない」というのもまた、一つの価値観に違いないからだ。それがどんなものであれ、特定の価値観を押し付けること、それはつまり国家が個人の精神の自由に干渉することになる。君はそんなことを認めるのか?」

 「いや、そういう訳じゃないけど……でも……」

 「では、内心で「人を殺しても許される」と考えただけで、罪に値するだろうか?」

 「それは、……もちろん、考えただけで罪になるというわけじゃない。でもそんな言い方をしたら、まるで殺人を認めているみたいじゃないか」

 「君の言いたいことはわかる。だから誰もこんなことを正直には言わずに、とにかく殺人はいけないことだと主張し、それに疑問を覚えることを許さないという風潮を作る」

 「……それが間違っていると?」

 「間違ってはいない。それは社会の要請だし、少なくとも子供への教育としては間違ってはいない。しかしそれは真実ではないし、自らの価値観を確立した個人の信念を曲げることはできないのだ」

 「だけど自己の信念のためなら殺人は許容される、と考える人間が出たら、社会は秩序を失ってしまうよ」

 「その通りだ。だから法は殺人を許さず、その犯人を探し出して(抑止力として)罰を与えるのではないか。そしてその仕組みを、社会の秩序を保つものとして是認するのが国民の義務ということなのだ。

 ナッシュよ。私は勿論、殺人を擁護するわけでも助長するわけでもない。しかし「人間は利己的である」という前提の下に、一切の虚飾も誤魔化しも排して真実の相においてマクロ倫理とミクロ倫理の関係性について語れば、こういうことになるのだよ」

 マイトレーヤはこう言った。

 

 

10  突如として現れた阿修羅が二人を刺し殺し、デウス・エク  

    ス・マキナの如く、物語を終わらせる 

 

 十七時を過ぎていた。冬の太陽はとっくに沈み、辺りは薄暗くなっている。真冬の河川敷には歩く二人の他には人影もなく、ただ土手に植わった桜並木の向こうから、絶え間なく自動車の騒音が響いてくる。

 二人は橋の下の暗い道を通り抜けた。マイトレーヤは知らなかったが、その上は御池通りであった。そこでナッシングはもちろんそのことを知っていたので、マイトレーヤにもうじき市の中心部に着くだろうことを告げた。するとマイトレーヤは言った。

 「それはちょうどいい。語るべきこともそろそろ一段落といったところだから、ちょうどきりのいいところで話を終えることができるだろう。人の多い街中では、なかなか落ち着いて話もできないであろうから。

 さて今述べたように、マクロ倫理とミクロ倫理はこのように異なっている。この二つの内マクロ倫理の方は社会契約論や功利主義などの形で発達し、よく機能していると言える。それは恐らく、マクロ倫理においては人間を概して「利己的な主体」であると認識し(必ずしも全てではないが)、それを前提に理論を構築させてきたからだ。

 他方、ミクロ倫理においてはそうではないようだ。ミクロ倫理においては未だ、その基礎に当る部分で未だに合意が得られていない。それはきっと、人間が利己的であるか利他的であるか、善悪の根拠が理性にあるか感情にあるか、善と快が同一であるか、といった様々な根本的な概念において意見がまとまらないせいであるのだ。

 もっとも、それには仕方のない部分もある。先に私は、マクロ倫理とミクロ倫理においてはその支配する原理が違うと言ったが、現実にはそのように明確に別れているようには見えないからなのだ。現象面だけを追うと、ミクロ倫理(個人の信念)の領域にマクロ倫理の規範が、マクロ倫理(国家による義務)の領域にミクロ倫理の信念が、それぞれ機能しているようにも見える。このような逆転現象は、ミクロ倫理がマクロ倫理を、そしてマクロ倫理がミクロ倫理を、それぞれ密輸入するが故に起きてしまうのだ」

 「どういうことだい?」

 「先も言ったようにマクロ倫理というのは集団(国家・社会)に適用される原理だ。そのような集団というものはどんなものでも(例えば企業が全て経済的な利益を追求する主体であるように)、予めその目的が規定されているので、それ故に特定の行動原理が決定されているのだと私は言った。

 そしてマクロ倫理における道徳的な善、これをとりあえず「規範」と呼んでおくが、これはつまりその集団の存在理由(設立理由)に添う形式で、その集団を維持するための最低限のルールである。これは義務として国家がその成員に押し付けることができる。

 しかし国家の定める法というものは君も知っての通り、そのような必要最低限な範囲には留まらない。例えば「安楽死を認めるか否か」とか「同姓婚を認めるか否か」とか「性転換を認めるか否か」いった問題は(よほど少子高齢化の進んだ国でもない限りは)すぐにも国家の存亡に関わるというわけではないし、社会秩序を破壊するという程のものでもない。であるからこれらの問題は、本来はマクロ倫理というよりは個人の価値観の問題であり、即ちミクロ倫理の領域で個人がそれぞれ判断すべき事柄であるのだ(少なくとも私はそう考える。何故ならこれらの問題については、同じ国民の間でも意見が別れる類のものなのだから)。

 しかし現実問題として、この国においては(そしてどうやら他の国々においても)これらの問題は国家の定める法律として、つまりはマクロ倫理によって定められ、規制されている。それは何故かと言えば、ミクロ倫理の領域からこの問題が侵入してきたからなのだ。個人の価値観が、その国の大多数の人間に共有されているがためにマクロ倫理の領域に持ち込まれることとなり、明文化されて法となったのだ。その証拠としては、これらの問題については国家によっても扱いが異なっている。それはつまりその国の歴史、人種、宗教、つまりは文化というものがあり、そのようにして形成された個人の価値観が多数派の意見として形成され、それが法に反映されたということなのだ。だからこそ、マクロ倫理の領域にミクロ倫理の価値観が侵入したと言えるのだ。

 しかし、これが本来はマクロ倫理の領域の問題でないことには変わりはない。だからこのような法律は時と共に、即ち人々の価値観の変容に伴って改定される運命にある。それはこうした価値観がその時代の産物であって、決して普遍的なものではないからなのだ。

 そしてこれと同様に、マクロ倫理の規範がミクロ倫理の領域に侵入することもある」

 「どんな風に?」

 「それはわからない」

 マイトレーヤは言った。ナッシングは思わず戸惑い、相手の顔を見た。友人がまた自分をからかっているのではないか、と思ったからである。

 「わからないって、どういう意味さ?」

 「言葉通りの意味だ。私はミクロ倫理については未だ、はっきりとした考えを持っているわけではないのだ」

 「そんな風には見えないけれど。それに君はさっき、道徳的な善は何らかの意味で「快」なんだと言っていたじゃないか。マクロ倫理では理性が、ミクロ倫理では感情が、それぞれ善悪の根拠となるのだとも言っていた。それは、考えがあってのことだろう?」

 「現時点では、おそらくそうなのだと私は考えている。ミクロ領域、つまりは個人の価値観において善悪の根拠となるのは感情なのだと私は半ばまで確信している。そしてそのような道徳的な感情は、何らかの意味での精神的な「快・不快」なのだと。……しかし、私がわかるのはここまでだ。その、道徳的なる快・不快なるものが一体どのような感情なのか、どのような働きをしているのか、私にはわからないのだ。

 例えば、肉体的な快・不快であるならば、これは容易に理解することができる。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして触覚において、それぞれに快・不快がある。このような快・不快をもたらす対象がそれぞれ「善い物」「悪い物」(これは道徳的な善悪ではないが)なのだと言えるのだ。

 そして精神的な快についても、それが道徳的なものでないならば理解できる。例えば試験に合格したであるとか、努力の報われた達成感、他者に認められる満足感、あるいは優越感などがそれだ。これらは端的に、本人にとって好ましいから精神的な快だと言える。

 しかし「道徳的な」快・不快とは何だ?それはその本人にとって、どのような感情だと言うのだ?それは利他的なものなのか、それともあくまで利己的なのか?

 例えば、ここにAという人間がいるとする。このAが飢えたBを見て、食物を与えてその命を救ったとしよう。これは利他的な行為で、いわゆる道徳的な行いである。

 しかしそれではこの時のAを、そのような行為に導く要因は何だというのだ?彼がそのように、飢えたBを見棄てずに食物を施し、その生命を救ったのは何故なのだ。何が彼をそうさせた?その行為はAにとって、何らかの価値のある(価値をもたらす・価値を実現する)行為であったのか?

 利己的な行動原則から言えば、この行為は自らの富を他者に分け与えるわけだから、Aにとっては損害でしかない。それでも彼はそれをした。ということはつまり、その損害を補って余りある「何らかの利益」を、彼は手に入れていなくてはならないのだ。それは一体、何だというのだ?

 それはおそらく、Aにとって何らかの意味で、精神的な快であったのだろう。しかし、それではその謎めいた「快」とは、どのような快であるというのだ。

 ナッシュよ。例えばこのAが、その行為によって「これで自分は天国に行ける」と期待していたとしたらどうであろう。これは道徳的な快の感情であろうか?」

 「いや、それは違うよ。それは結局は自分の為だから、利己的じゃないか。そんな利己的な人間は、僕達が探求している道徳的な人間とは違うよ」

 「では、Aがその行為によって、「これで自分の評判は上がる」と考えていたとしたら」

 「論外だね。さっきよりもずっと利己的だと思うよ」

 「では、Aがその行為によって「ああ、今日も善いことをした」という満足感を抱いていたとしたら?これは利己的だろうか」

 「それは……どうなのかな?少なくとも、さっきの二つの場合よりは道徳的だと思うけど。でも道徳的にも思えるし、……そうでないという気もする」

 「ふむ。どうして道徳的に思えるのだろう?」

 「多分、このAという人がその行為によって、何も得をしていない(ように見える)からじゃないかな?それに因って天国に行けるとか思っているわけじゃないし、自分の評判を気にしているわけでもない。裏の動機がないから、利己的には見えない」

 「ふむ。ではどうして、道徳的ではないようにも思えるのだ?」

 「どうして?……それがわからないんだ。だけど何となく、何かが違っているように思えるんだ。疑わしく思う理由なんてないのに、「なんだか違う」と思えてしまう。だけどその理由がわからない。……君はどう思う?」

 「私か。実を言えば、君と同じだ。違和感がある。しかし、その正体がわからない」

 そう言うとマイトレーヤは口元に右手を添えて、悩み始めた。ナッシングは彼のそのような姿を見たことはなかったので、心を打たれた。そして何とかこの友人の役に立ちたいと願った。そこで彼は、自身の体験を語ることにした。

 「……マイトレーヤ、さっきの話を覚えているかい?僕が一時期、ボランティアのサークルに入っていたと言う話さ」

 「ああ、覚えている。実を言うと少し気になっていたのだ。人付き合いの嫌いな君には、何しろ不似合いに思えたからな」

 「全くだね」

 ナッシングは苦笑してみせた。

 「今思うと馬鹿みたいだけど、僕は一時期、世の中の役に立つ人間になりたいと本気で願っていたことがあるんだ。要はそうすることで、世の中に自分という人間の存在を認めてもらいたいと思っていたんだろうね。クローンとしての自分の存在意義ではなくて、世の中の役に立つことで、「自分はそのために生まれてきたんだ」と思い込みたかったんだよ、きっと。……

 そんな下心があったから、人付き合いはやっぱり苦手だったけど、僕は大学のボランティアサークルに入った。そしてそれなりに頑張った。周りに合わせるのは骨が折れたけど、少しは慣れることができたし、何より他の人と同じ苦労をするわけだから、少しは打ち解けることができたんだ。……結局、辞めてしまったんだけどね」

 「何故だ?周りに合わせるのに疲れたからか」

 「それもあるかもしれない。でも、それだけじゃない。何となくだけど、違和感があったんだ。僕達がしていることは、果たして本当に「いいこと」なのかなって」

 ナッシングは自嘲して笑った。マイトレーヤは笑わなかった。そこでナッシングはまた口を開いた。

 「もちろんボランティアなんだから、僕達のしている活動は世間的には文句のつけようもない「いいこと」なんだろう。メンバーにしても、そんな面白みもない地味なサークルに入る連中だからやっぱり真面目な人が多くて、社会正義に燃えているという感じだった。僕なんかよりずっと立派な人たちばかりで、社会がどうしたとか政治がどうだとか、そんなことを大真面目に議論していたんだ。

 それに比べると僕なんて、例の下心があるものだから、そんな彼らにずっと引け目を感じていた。……だけど、変だよね。そんな僕が、よりにもよってそんな立派な彼らに、「偽善」を感じてしまうなんて」

 ナッシングはそこで口を閉じた。話すことに躊躇を感じているようだった。そこでマイトレーヤは視線で彼を励まし、話の続きを促した。それに勇気を得てナッシングは再び話し始めた。

 「おかしな話だろう?僕が、「世の中の人たちに認めてもらおう」なんて下心を持っている不純な僕なんかが、そんな立派な彼らに偽善を感じてしまうなんて!僕はそれを気のせいだと思おうとした。だけど一旦それと気付いてしまうと、もう駄目だったんだ。どうしてもその疑念が頭を離れないんだ。……そしてそうなると、活動にも熱心に取り組めなくなったし、皆ともぎくしゃくするようになった。それで、僕は辞めてしまったんだ」

 「偽善、か。君には悪いが、それは私には実に興味深い話だ。どうしてそのような偽善を感じたか、君には今でもわからないのか?」

 「それが、未だにわからないんだ。折に触れて思い返すんだけど、どうしてもわからないんだ」

 「ふむ。……その偽善というのは、君の仲間の全てから感じたのか?偽善を感じない相手はいなかったのか」

 こう聞かれると若者は奇妙な反応を見せた。目を逸らし、やや口ごもりながら言った。

 「……いたよ、一人だけ。僕はその人からだけは、偽善のいやらしい感じは全く受けたことはなかった。むしろいつも、清々しいというか、傍にいると心が安らぐような、そんな感覚を味わっていた」

 「ほう。何故だろう?なぜその人物だけが、他の者と違っていたのだろう?」

 「わからないよ。その人だけが、他の人と違うことをしていたという訳じゃないんだ。その人も他の人と同じことをしていたし、他の人と同じような態度で人々に接していたし、同じようなことを口にしていた。いやむしろ、その人は他の人よりも控えめで、他の連中のように声高に自分の意見を言ったりする人じゃなかった。……だけど不思議と、他の連中の言葉なんかより素直に、僕の胸には響いたんだ」

 「成程、なんとも不思議な話だ。……しかしナッシュよ、それは単に君が、その女性に惹かれていたからではないかね?」

 これを聞くとナッシングは慌てふためき、取り乱して言った。

 「マ、マイトレーヤ!君は何を言っているんだ?僕は一言も、彼女が女性なんて言った覚えは……!」

 「確かに君は言っていなかった。しかし友よ、そんなことは君の口ぶりですぐにわかってしまうよ。……それで実際、どうなのかね?」

 このように言われると観念せざるを得なかった。それで彼は渋々答えた。

 「……そうじゃないよ。たしかに僕は個人的にも、彼女に好感を抱いていた(とは言っても君の邪推するように恋愛感情ではなくて、あくまで友人としてだけどね)。だけど、それとこれとは別問題だ」

 「ふむ……。他の者なら疑うところだが、他ならぬ君のことでもあるから、信じよう。しかしそうなるとやはり奇妙なことだ。同じサークルに所属し、同じ行動、同じ態度、同じ発言をする者達の中で、たった一人だけが偽善を感じさせないというのは。……ひょっとしたらそこに、我々の疑問を解決する手がかりがあるのかもしれない。

 そこでどうだろう、ナッシュよ。私を彼女に会わせてくれないだろうか?」

 「そんなの無理だよ!彼女はイギリスにいるんだ。それにずっと会っていないし、そもそもそんなに親しかったというわけでもないし……」

 「おや、そうなのか。私はてっきり、交際していたものと思っていたが?」

 「そんな訳ないじゃないか!僕なんかにとっては、彼女は別世界の人間だよ!」

 これを聞くと、マイトレーヤは少し厳しい声を出した。

 「ナッシュよ、友よ、そのような言い方はよすがいい。自分を卑下するような発言は口にしてはいけない。君は私が友として認めるにふさわしい、実にこころよい若者だ。君と言う人間を、君は誰に対しても恥じる必要はない」

 「……でも、僕は……」

 「君はまだ、君自身には何ら落ち度のない、そもそも引け目を感じる必要もない君の生まれについて悩んでいるのか?いや、そうではないな。君はそのように言い訳を用意することで、臆病な自分を誤魔化しているに過ぎないのだ。

 しかし友よ。そのように失敗や傷つくことを恐れていては、君が君自身の人生を歩むにしても、結局何一つとして掴むことはできないのだ。君はまず、その手を伸ばせ。そうしなければ何も掴むことはできない――君の望むものも、或いは傷心の苦味でさえも。

 ナッシュよ。君はこの世界の実在を信じられないと嘆いていたな。だから生きている実感がないと。それは確かに君の奇妙な境遇がその発端ではあるのだが、しかし君自身にも原因がないとは言えない。君のその臆病さ、それ故に君が人生に一歩を踏み出せないこともまた、その原因となっているのだ。 

 成程、欲するものに向かって手を伸ばし、しかしその手が届かないであるとか、或いは伸ばしたその手を拒まれることは、確かに辛いことには違いない。しかしナッシュよ、そのような辛い体験でさえも、君にとっては君の人生を彩る、生の実感たり得るのだ。それは君に鮮やかな、いやむしろ生々しいまでの、生の実感を与えてくれる筈だ。

 そうしなければ君の人生は、いつまで経っても君にとって空々しい、実感の持てない、ぼんやりとした曖昧なものでしかないだろう。

 しかしそうは言っても勿論、首尾よく望むものを手に入れた方がよいに決まっている。だからとにかく君はイギリスに帰り、なんとかして彼女と連絡をとり、土下座するなり強引に口説き落とすなりして、彼女をものにしてしまえ」

 これを聞くと、ナッシングは自分の顔が耐え難くなるほど熱くなるのがわかった。陽が落ちていることを思わず天に感謝するほどだった。そしてとにかく一言文句を言おうと思い、口を開きかけたがどういうわけか言葉は出ず、その代わりに喉元まで湧きあがって来た衝動に任せ、彼は噴き出して大笑いを始めた。

 すると大声で笑う彼を見て、マイトレーヤは首を傾げて訊ねた。

 「どうしたのだ、ナッシュよ。突然笑い始めたりして」

 「どうしても何も、おかしくて堪らないんだよ!まさか君と、こんな話をするとは思わなかった!こんな……まるで、普通の友達同士みたいなことを……」

 「おや、ひどいな。私はもうとっくに、君とは友人になったと思っていたのに」

 「僕だってそうさ!だけど……けど、それにしたってさ!」

 ナッシングは再び笑った。マイトレーヤももう何も言わなかった。やがて漸く笑いの衝動を治めると、ナッシングはその余韻に浸りながら、ふと思いついて呟いた。

 「ねえ、マイトレーヤ……。神様って、本当はどんな人なのかな」

 「ナッシュよ。それを私に聞きたいのか?」

 ナッシングは気付いて言いなおした。

 「ああごめん、そうじゃなくてさ。もしも本当に神様がいるとして(いいかい、いるとしたら、だよ)、その神様っていうのは本当は、どんな感じなのかな、とふと思ったんだ。別に深い意味はないんだよ」

 「ふむ。しかし、どうしてそんなことを?」

 「昨夜、神様について僕らは話したじゃないか。その時は、僕らは二人とも運命とか宿命なんていうものに反感を持っていて、だから必要以上に神様を意地の悪い奴として考えていた。……だけど、ひょっとしたらそうじゃないかもしれないだろう?神様だってもっと、何と言えばいいか…………もっと、いい神様かもしれない。そんな可能性だって、あってもいいじゃないか」

 「いい神様というのは、たとえば西洋の神のような、絶対的に正しい神ということか?」

 「違うよ、そうじゃない。うまく言えないんだけど、もっと僕達のことを信じてくれて、ただ見守っていてくれるような、そんな神様さ。そんな神様だったらいいのに。……君なら、どんな神様だったら受け入れることができる?」

 「そうだな。私なら……」

 天を見上げ、言葉を探しながら、マイトレーヤは言った。

 「私の欲する神は、世界に干渉しない。何一つとして禁止せず、何一つとして推奨もしない。世界の一切を造りながら、しかしそれらを自分の所有物とは考えない。さりとて無関心というわけでもなく、下界を覗いて心配したり心を痛めたりしながらも、あくまで人間を見守ってくれている。

 そして我々が死んだ時、たとえ世間的には何一つとして優れたことをしなかったとしても、名を成したわけではなかったとしても。その人間が自分の人生を精一杯生きて、その時間を目一杯楽しむことができたのなら、とりたてて褒め称えるでもなく、また軽蔑するわけでもなく、静かに一度だけ頷いてくれるような――そんな神なら、私は嬉しい」

 マイトレーヤはこのようなことを、一語一語ゆっくりと考えながら語った。ナッシングもそれに同意した。そのような神であったら、自分も嬉しい、と。

 やがて、川の対岸に明かりの数が増えてきた。さらに歩を進めると前方に、川を横切る大きな橋が現れた。ナッシングはそれを指差し、あれが三条大橋だと告げた。

 マイトレーヤは感嘆の声を洩らした。

 「ほう、あれが三条大橋か。なかなか見事なものだ。あの欄干は木ではないのか?」

 「そうなんだ。きっと、昔の橋を活かして作ったんだろうね。あそこから岸に上がって、橋を渡れば、もう河原町……この街の中心だよ」

 橋を遠目に見ながらナッシングは続けて言った。

 「僕は京都の街の中でも、特にこの橋が好きなんだ。名所でもなんでもないんだけど、まるで自分が映画か何かの登場人物にでもなったような気がして……」

 そこまで言うとナッシングは気恥ずかしくなって口を閉じてしまった。マイトレーヤはからかうことなく、ただ微笑した。

 橋はもう眼前にまで迫っていた。河川敷から見上げてもそれなりの交通量があるのがわかった。車ばかりでなく、歩く人の姿も少なくはない。それを見てマイトレーヤは思わず呟いた。

 「……ここには人がいるのだな」

 「地下鉄の駅があるからね。ちょうど仕事終わりの時間帯だし。それでも物騒だから、普段よりは少ないと思うよ」

 「ああ、例の事件か。そういえば聞いていなかったが、その事件の犯人は一体どのような輩なのだ?」

 「あれ、話さなかったっけ?どんなって言われても、あまり詳しいことはわかっていないんだ。最初は数日前の夜、奈良の方で騒ぎがあったんだ。三人もの人間が死体で発見された。それからここ数日に渡って、同じような事件が起きている。一昨日の夜なんか、駆けつけた警察官まで全員殺してしまったというんだから、ちょっと尋常な話じゃないよね。それでもう、日本中が大騒ぎさ。……しかも、その事件現場がだんだん北に、つまりこの京都の街に近づいているわけだから、この街の人は戦々恐々としているんだよ」

 「まったくもって信じがたい事件だな。それで犯人はわからないと?」

 「うん、事件が起きるのはいつも夜だし、目撃者は大体殺されてしまうわけだから、目撃証言がほとんどないんだ。……それであまりにも人間離れしているし、正体も不明だから、犯人は消えた阿修羅像なんじゃないか、て言い出す人もいるくらいさ」

 「何?」

 それを聞くとマイトレーヤの顔色が変わった。彼はいつになく緊張した声で問い質した。

 「どういうことだ、ナッシュ。阿修羅像がどうしたというのだ?」

 いつにない緊迫した様子に気圧されてナッシングは答えた。

 「いや、この事件が起きる前に、奈良の興福寺にある有名な阿修羅像が盗まれてしまった、ということで大騒ぎになったんだよ。何しろこの国で最も知られた仏像の一つだからね。それでその行方もわからない内に、また奈良でこんな騒ぎが持ち上がったものだから、その二つを結びつけて誰かがふざけて言っているんだよ。それだけのことさ」

 「……阿修羅像が姿を消した。それは確かなことなのだな?」

 「う、うん……」

 これを聞くとマイトレーヤは思わず額に手を当て苦悩し、叫んだ。

 「ああ、何ということだ!もっと早くに聞いていれば!」と。

 ナッシングは驚いた。そして聞こうとした。

 「一体どうしたのさ、マイト――」

 その時だった。突然、何かが爆発したような物凄い破壊音が周囲一体に響き渡った。ナッシングは驚愕し全身を硬直させ、マイトレーヤは僅かに目を細めて見上げた。橋の上からだった。

 と、その橋の上から巨大な何かが舞い上がり、まるで紙のように宙を踊ると、まっ逆さまに落下し、川の真ん中に突っ込んだ。ナッシングは自分の目が信じられなかった。見るも無残な姿となり、鴨川の水に曝されているそれは、一台の自動車だったからである。

 「事故?……なのか?」

 訳がわからずナッシングが呟くと、マイトレーヤは首を振った。

 「違うな。どのような事故であっても、自動車を一撃であそこまで完膚なきほどに破壊することはできまい」

 川に沈んだ車を眺めつつマイトレーヤは言った。ナッシングもそれを見て、漸く気付いて慌てて言った。

 「た、助けないと!」

 「誰を?車に乗っていた者か?残念だが、諦めろ。もう死んでいる」

 「そんな……」

 「友よ。残念ながら、死んだ者は戻っては来ない。それより今は、自分の身を心配しろ」

 ナッシングは驚いて振り向いた。するとマイトレーヤは既に橋の上に視線を戻していた。

 ――橋の上は阿鼻叫喚の騒ぎになっていた。また破壊音が響いた。ナッシングは思わず身構えたが、今度は車は降ってこなかった。その代わり、橋の上で火の手が上がった。

 甲高い叫びが上がり、クラクションが鳴り響く。人々は恐慌状態に陥って走り出しては、同じく恐慌をきたした車に撥ねられる。連鎖する惨劇。悲鳴。怒号。

 ナッシングは何が起きているのかまるでわからなかった。噂に聞いていた世界の終わりが、ついにやってきたのかとさえ思った。

 救いを求めるように傍らを見ると、マイトレーヤはいつにない険しい目付きで橋の上を睨みやっていた。

 マイトレーヤは一言、「見ろ」と言った。ナッシングは言われた通りに彼の視線を追った。そこでおかしなものを見た。

 先ほど上がった火炎に依って、橋の上は赤々と染め上げられている。と、その三条大橋の欄干の上に、一つの人影が立っている。逆光になって顔はわからない。

 しかしそれは明らかに奇妙な姿をしていた。

 胸の前で合掌するように、二本の腕を合わせている。天を仰ぐように、二本の腕を掲げている。そしてまた二本の腕に、細長い、あたかも剣のような物をぶら下げている。そうして橋の上から、「何か」を眺めている。彼は気付いてゾッとした。

 あれは、自分達を見ているのだ。

 「そうではない」

 安心させるようにマイトレーヤは言った。

 「ナッシュよ、彼は「私を」見ているのだ」

 マイトレーヤは片時もその人影から視線を外さなかった。ナッシングも再び見たが、その正体はわからなかった。ただ、友人の言葉が正しいことだけはわかった。

 身動きもできないナッシングの視線の先で、その奇妙な人影はひらりと飛び上がると、全く重力を感じさせない身軽な動きで、その多すぎる腕を優雅に揺らしながら、橋の欄干から飛び降りた――二人の立ち尽くす、鴨川の河川敷へと。

 それはあまりにも奇妙な、しかし不思議と美しい光景としてナッシングの眼に映った。

 彼は同じ地面に降り立った相手の姿を見た。そして改めて奇異の感に打たれた。見間違いでも何でもない、三対六本の腕。それは造り物ではない証拠に、それぞれが自在に動いている。

 そしてさらに奇怪なことに、相手の顔の左右にはまた別の人間の顔がそれぞれ付いている。ナッシングは恐れをなして叫んだ。

 「なんだ、あれ……。あれは一体、何なんだ!」

 「あれは、アスラだ。神々の敵、慈悲を知らぬ飽くことなき殺戮者、アスラだ」

 相手から目を逸らさずにマイトレーヤは言った。

 「アスラ?アスラって、阿修羅のこと?あの盗まれたっていう仏像の?」

 「そうだ。正確には、その奈良の興福寺に納められていたという阿修羅像に、本物のアスラの魂が乗り移ったのだ。それがあの姿なのだ。

 そして彼は己が衝動の赴くままに、この現代日本で殺戮を繰り返していたのだ」

 「じゃあ君は、最近の事件の犯人が、あいつだっていうのか!」

 あまりの驚愕にナッシングは叫んで言った。彼は信じきれずにアスラを見た。しかしいくら信じまいとしても、それは記憶にある仏像の姿に瓜二つにしか見えず、ついには認めざるを得なかった。

 一方アスラの方では、何を考えているのか、ただマイトレーヤを見つめたまま動こうとしない。……ナッシングはその腕に握られた二降りの剣に、何かがべったりと塗りつけられていることに気付き、それが赤黒い血液であると悟って卒倒しそうになった。

 「だ、大丈夫なんだよね、マイトレーヤ。いくら阿修羅でも、君に襲い掛かったりはしないんだろう?なんたって君は、菩薩なんだから!」

 「いや、そうはいかないだろう。むしろ彼にとって私は、恰好の獲物なのではないかな。知らないのか、ナッシュよ?仏敵というのは、仏の敵という意味なのだぞ」

 「だけど君なら、まさかあいつに負けやしないだろう?」

 「先ほどの車を見ていなかったのか?あのアスラは、あの細腕で自動車を叩き潰し、さらに橋の上から放り投げてみせたのだぞ。私は確かに並の人間ではなく菩薩の身ではあるが、しかし戦いは得意ではない。生まれながらの戦士であるアスラに敵う筈もないだろう。

 ……とはいえ、打つ手が全くないではない」

 「打つ手があるって?どんな!」

 「アスラがあのように暴れ狂うのは何故だと思う?それは、彼には他者に対する愛や慈悲の心が一切ないからなのだ。だから躊躇いもなく、己が衝動に逆らうことなく人々を殺して廻り、しかも悔いるところがない。……しかし、もしも彼に慈悲の心を与えることができたらどうだろう?その時アスラは、他者への憐れみの心に目覚め、もはや他者を傷つけることはなくなるであろう」

 「そんなことができるのかい?それなら、早く!」

 「君は私の言葉を聞いていなかったのか?私はそんなことができたなら、と言ったのだ。できるとは言っていない。というのも私には、「慈悲の心」というものが一体どんなものなのか、まだわかりかねているからだ。

 忘れたか、ナッシュよ?我々の議論はちょうどそこで中断してしまったではないか」

 ナッシングは悲鳴を上げたくなるのを堪え、恐る恐る訊ねた。

 「……じゃあ、僕らはどうなるのさ」

 「二人揃って、斬り殺されるしかないな」

 マイトレーヤがそのように気楽に言うのを、ナッシングは信じられない思いで聞いた。

 その間もアスラは、じっと二人の様子を窺っているだけだった。ナッシングはその顔を見て、心の底からの恐怖を感じた。それはまるで、カマキリのような昆虫が、獲物に襲い掛かろうとじっと狙っている様だった。慈悲どころか、あらゆる感情を持ち合わせていないかに見えた。

 ついにアスラがその足を動かし、自分達の方に近づいてくるのを見た時、ナッシングは死を覚悟した。――しかしそうはならなかった。アスラは彼らの十五歩ほど手前で、その足を止めていた。

 何が起きたかわからないナッシングにマイトレーヤは言った。

 「ナッシュよ、私が彼を抑えている。君は逃げろ」

 その言葉でナッシングは、マイトレーヤが何かしてアスラの動きを止めたのだと悟った。

 「逃げろだって?」

 「そうだ。戦えば勝ち目はないだろうが、私とて君を逃がすことくらいはできる。さあ早く、逃げるのだ、ナッシュよ。そう長くは抑えていられない」

 「だけど、君はどうするのさ!」

 「少なくとも、本屋には行けそうにないな」

 そのように軽口を叩くものの、マイトレーヤに余裕がないことは明らかだった。

 ナッシングは躊躇した。せっかくできた無二の親友を、死ぬとわかっていながら置き去りにしてよいのかと。迷いを見せる彼をマイトレーヤは叱りつけた。

 「何を躊躇う!君がここに残ったとて、あのアスラ相手に何ができるというのだ?一つで済む屍が二つになるだけだ。

 いいかナッシュよ、君が君の命を守ることは、卑怯なことでも何でもない。それは生物として当然の行動だ。何も後ろめたいことなどないのだ」

 「じゃあ君は?君はどうして、僕を助けてくれようとしてるのさ!」

 「勘違いをするな。別に私は、君のためを思ってこのように言うのではない。アスラは私に狙いを定めている。おそらく逃げられはしないだろう。それなら、このまま二人殺されるより、君だけでも生き延びた方が得だろう?そんな単純な計算に過ぎないのだ」

 マイトレーヤがそう告げた時だった。動けない筈のアスラが突然、その腕を高々と振り上げると、その手に握っていた剣を勢いよく、マイトレーヤに向かって投げつけた。

 それはマイトレーヤの隙を突いた一瞬のことで、彼には身をかわすことはできなかった。マイトレーヤは死を覚悟した。

 しかしその胸を剣が貫くことはなかった。咄嗟に彼を庇ったナッシング・アッシュフィールドが、代わりにその剣を受けたからである。

 ナッシングは胸に剣を刺したまま倒れた。

 「ナッシュ!」

 マイトレーヤは叫んだ。そして怒りに任せ、渾身の念動力を発してアスラを吹き飛ばした。アスラは数十メートルも吹き飛び、橋脚にぶつかって落下した。

 マイトレーヤは倒れたナッシングの前に屈み込み、その意識があるのを確かめると、抑えきれずに言った。

 「ナッシュ!ナッシュ!何故このようなことを!」と。

 ナッシングは薄目を開けた。

 「無事かい、マイトレーヤ……」

 「ああ、私は無事だ。君のお陰でな。……しかしなぜ、なぜ君は私を助けなどしたのだ。その身を犠牲にしてまで!」

 「なぜ?なぜって…………わからないよ。とっさに、体が動いちゃったんだ」

 「咄嗟に動いた?それでは、何も考えていなかったというのか。何も考えず、君にとって何よりも大事な君の命を、犠牲にしたというのか。不可解だ!ナッシュよ、君は全く合理的ではない!……いや或いはそれこそが、人間の本質なのか?」

 切迫した状況も忘れて考え込むマイトレーヤに、虫の息のナッシングは言った。

 「ちょっと君、一体こんな時に何をぶつぶつ言っているんだい?早く逃げなよ……」

 「聞け、ナッシュよ。これは大事なことなのだ。我々は散々、人間は利己的な生き物である、そう生きねばならぬと話し合ってきた。それは君も理解して、心から承認してくれていた筈ではないか。

 しかるに君は何だ、たった今君が取った行動は何だ?君は私が危機に曝されたのを見て、咄嗟にその身を差し出して私を救った。その身を犠牲にしてまでだ。それはどうしても利他的だと言わざるを得ない行為だ。

 ナッシュよ、これは背理なのだ。矛盾した行動だ。君は咄嗟にそれをしたという。それでは理屈を無視した、損得を抜きにした非合理こそが、利他の本質なのか。どうなのだ、ナッシュよ!」

 「そんなこと言われても……」

 「では、今はどうなのだ?君は何も考えずにその身を犠牲にしたという。それはそれでよしとしよう。その是非については問うまい。

 しかし君はそのような行動の結果、私を助けることはできたが、しかし君自身は死に瀕している。つまり君はどう考えても、酷い損害を受けたのだ。君はこれ以上は支払えないほどに大きなものを、対価などないというのに、支払ったのだ。

 これについて、何か思うところはないのか。損をしたとか、馬鹿なことをしてしまったと後悔するとか、そんな風には思わないか?どうか私に気を遣わず、正直に答えてくれ、ナッシュ!」

 そのように懸命に叫んで顔を覗きこむマイトレーヤを、ナッシングは薄れてきた目で呆れて見上げながら、諦めたように言った。

 「正直な気持ちね……。そうだね、不思議と……悪い気分じゃないよ」

 「それは本心か?私に気を遣っているのではないのか?」

 「そうじゃないよ。……あのさ、この期に及んで、君に気を遣ってなんかいられないよ。そんなんじゃなくて、本当に、そんな気分なんだ。別に死にたいって訳じゃない。君と本屋に行きたかったし……。ああ、それは本当に残念だ。

 ……だけどそれ以上に、満ち足りた気分なんだ。自分で自分を褒めてやりたいくらいだよ」

 「……何故だ、ナッシュよ。それは人間の、いや生物の本質に反しているのだ。君は他人のためにそのたった一つの命を投げ出し、それでも満足しているというのか?

 ナッシュよ、それは理屈に反するのだ。それはおかしなことなのだ!」

 「別に理屈に反している訳じゃないよ。だって――」

 ナッシングは死にゆく自分を意識しながら、しかし笑みを浮かべて言った。

 「僕にとっては、僕より君が死んでしまう方が、ずっと嫌なことだからね」

 その言葉に、マイトレーヤは衝撃を受けた。今まさに、自分の友の命が――しかも彼自身を庇ったために――失われようとしているというのに、そのことすらも意識から弾け飛ぶ程に驚愕した。菩薩として、いずれは衆生を救うと予言されている救世主たる彼が、単なる人間の若者の言葉から、幾千の雷にも倍する衝撃を受けた。

 彼は自失し、言葉を失った。そんな友にナッシングは言った。

 「もういいかい?……そろそろ勘弁してくれよ、マイトレーヤ。僕は今、死ぬのに忙しいんだ」

 この言葉を最後にナッシング・アッシュフィールドの身体は動かなくなった。

 しかしマイトレーヤはその意味にすら気付かない程、その思考力を失っていた。ただ、その手を強く握った。

 そして言った。

 「……なんということだ。なんということだ!これが人間か。人間の真実だというのか?ああ、なんということだ。人間は自分のために自分を犠牲にすることができるのか

 なんという矛盾!なんという不合理!ああ、しかし、それでいて矛盾ではないと言うのだ!何故だ?……そうだ、彼が言ったからだ。彼が矛盾ではないと言ったからだ!」

 友の死に顔を見ながら彼は言った。言い続けた。

 「ナッシュは矛盾ではないと言った!彼は正気を失っていたのだろうか?……いや、そうではない。彼は最後の一瞬まで、澄み切った理性を保っていた!そう、だから矛盾ではないのだ!人間は、利己的な筈の人間は、自分を犠牲にして死に瀕している時にも、笑うことができるのだ!……そう……そして、それは矛盾ではないのだ!

 ……これは何だ?何と呼ぶべきなのだ?これもやはり利己主義なのか。それとも、これこそが利他主義なのか?…………利己的な利他主義?…………

 ………………………。

 ……いや、違う。そうではない!これは利他的な利己主義なのだ!

 ああ、何ということだ!人間は利己主義を貫きながらしかも利他的にもなれるのだ!」

 何もかも忘れ、無我夢中になって、彼は叫んだ。

 「それが人間の真実であるなら、私は人間を愛することができる!それが真実なら、たとえどのような人間であっても、慈悲に目覚めることができるからだ!その行動原理は利己主義のまま、しかも他者を思いやることができるというなら、どのような強欲な人間であっても慈悲を抱くことができる筈だ!……人間は善の芽を持っている。それだけで、その可能性だけで、私は人間を愛することができる!人間は救うに値する!

 ……ああ、今こそ言おう。私は人間を救いたいのだ!」

 あまりにも強烈な法悦境に浸り、マイトレーヤ――即ち未来仏たる弥勒菩薩――は地上にいながら、至上の幸福の境地を味わった。あらゆる疑念は晴れ、溢れんばかりの随喜の念にその身を打たれ、頬は薔薇色に染まり、その眼には珠の如き、貴い涙を浮かべていた。

 彼の全身を、高貴なる愛の想いが満たしていた。そして彼は、輝かんばかりの美しい尊顔をまっすぐに天へと向けると、その口を開いて叫んだ。

 「師よ、御覧になっていますか?偉大なる覚者よ、釈尊よ、世尊よ!煩悩の河を渡った仏陀、真理を悟ったところのシッダールタよ!

 ああ、私は答えを見つけました!私の迷いは晴れました!ああ、私は愚かでした。人間でさえ利他を知っているというのに、菩薩たる私が迷いを覚えるとは!

 ああ、私の声が聞こえていますか?師よ、私の声は届いていますか?

 私は答えを見つけました。人間は救うに値します!」

 彼はこのように言うと、また天を見上げて言った。

 「ああ、君には聞えているか?美しい花、私の話し相手にして恩人たる青蓮華よ!

 君には聞えるか?私の声が届いているか?……喜んでくれ、私は答えを見つけたのだ!

 二度と私は迷うまい。人間を救う為に、私は再び君と共に修行するだろう。

 ああ青蓮華よ、私の声が聞こえるか?私は答えを見つけたのだ!」

 そして彼は、自分を庇って死んだ友の顔を見つめ、言った。

 「ナッシュよ、君には聞こえるか?友よ、恩人よ、君のお陰で私は、答えを見つけることができたのだ。君には聞こえないのか?私は答えを見つけたというのに。

 どうして君は目を閉じているのだ。ナッシュよ、私を見てくれ。私の声を聞いてくれ。 

 私は、答えを見つけたのだ!」

 そして彼は、その手を握り締めたまま、振り返りもせずに言った。

 「……そして、友よ。君には聞えているか?私の声が、届いているか?

 君もまた、私の恩人だ。私をこの解答に導いてくれた。私は感謝せねばならない。

 ……友よ。但し、悪しき友。数多の人間を殺戮せしめ、今また私の友をその鋭利な剣で刺し貫いた、憎むべきもう一人の友。

 君には、聞えているか?私の声が、届いているか?

 ――おお、アスラよ!」

 その時。音もなく彼の背後に立った異形の影が、その手にした剣でマイトレーヤ、即ち未来の救世主にして、慈悲の化身たる弥勒菩薩の胸を、深々と刺し貫いた。

 

  第二部  完