メテムプシケル

     1 

 

 郷里からもたらされたその唐突な報せは私の精神に甚大なる衝撃を与え、絶望の淵に叩き込まずにはおかなかった。ムムミが――私の許嫁であるところのあの可憐なる夢々美、私が立派に学業を修めて郷里に帰るその日を、一日千秋の思いで待ってくれている筈の彼女が、突如として重篤なる精神上の病を発症し、やむなく精神病院に連れて行かれる羽目になったというのだから。 

 最初、当然のことながら私は、その手紙の内容を全く信ずることができなかった。一体誰がこんな恐ろしい、荒唐無稽な内容を信ずることができるというのだろう?あの聡明なムムミが、こともあろうに精神病に罹ったなどと……。 

 たしかに二年前に私が京都帝國大学に首尾よく入学を認められ、郷里を離れて下宿生活を始めてからというもの、ムムミとはこの二年半余り顔を合わせていない。それだけの時間があれば人間のことだから、多少人が変わるということはあるだろう。……しかし、どんな突拍子もない想像をしようと試ても、私の知るあの愛らしいムムミの姿と、その彼女が精神を病むに至るなどという椿事は、どうしても結び付こうとはしないのだった。 

 私は到底信ずるに値しないその手紙、私にとってはほとんど怪文書にも等しいそれをこれ以上読み進めるのを放棄し、何度破り捨ててやろうと思ったかしれない。しかしそれは決して差出人不明の怪文書などではなく、たしかに私の郷里の父親からのもので、紙面には見慣れた父の筆跡が連ねられている以上、疑う余地はないのだった。 

 ……私はその懐かしい筆跡を眺めながら、さりとて郷愁に浸ることなどできる筈もなく、下宿の四畳半でそれこそ白痴のように呆ける羽目に陥った。 

 それでも、最初の衝撃から何とか精神を立て直し、ともかくも手紙の文面に最後まで目を通すことにした。私にはことの一切の経緯とその詳細を知る義務があり、それは同時に私に認められる、当然の権利である筈なのだ。 

 何より、私はムムミの身に起きた一切の出来事を悉く知り尽くしたいという、自身の強烈な内的要求を感じていた。 

 ……ムムミが、あの聡明で、それでいて万事につけて控えめで男を立てる慎ましやかなムムミが、よりにもよって精神病者となり、精神病院に送り込まれたというのは果たして間違いない事実なのか。父の勘違いか、あるいは何かの誤解ではないのか。本当にムムミは精神病に罹ったのか、一体どのような奇特な症状があってあのムムミが、精神病だと見做されなければならなかったのか? 

 よしんば彼女が本当に精神病であったとして、はたして精神病院に送り込まれる必要が、はたして本当にあったのか?それほどまでに彼女の症状は重篤なのか。発症に至った経緯は?一体何か彼女の精神に衝撃を与えることとなった重大事があって、それは発症したものなのか。遺伝的なものか?それとも純粋に環境的な要因によって引き起こされたものなのか? 

 なにより。彼女に……ムムミに今後、回復の見込みがあるのかどうか? 

 私はそれを知らねばならない。 

  

 手紙の冒頭から末尾まで私は、見覚えのある父の几帳面な文字によって編まれたその文面、しかし記憶にあるそれとは異なり、どこか動揺を感じさせて已まないそれにかぶり付き、舐めるようにして読み進めた。父の狼狽を推し量るように一字一句丁寧に、何か読み落としていることはないか、よもや私が読み間違いをしているだけで、本当は何でもない内容の手紙なのに、とんでもない誤読をしているだけではないか。そう願いながら読んだ。 

 しかしどれだけ念じても願いは虚しかった。私の言語処理能力には何の欠陥もなく、ムムミがいまや精神病院の虜囚であることは確かな事実であり、何ら疑う余地のないことは明らかだった。 

 しかし奇妙なのは、その文面に幾度となく目を走らせても、試しに上下を逆さまに読んでもみても、ついには天井から吊るした裸電球の光に透かしてみたところで、この恐ろしい出来事の詳細については勿論、私が最も知りたかったこと――即ちムムミの詳しい病状について、何一つとして記されていないことだった。父の性格を鑑みれば、これはほとんど考えられないことだった。いくらありうべからざる事態が起きて狼狽していたとしても、あの几帳面な父がそんな重大事をうっかり書き忘れるなどという手落ちをする筈はない。手紙の文面には噂を聞きつけた父が直接先方の家に出向いて事情を聞いてきたとあるが、どうやら父にしても詳しい話までは聞かされていないのだと、そう結論づける他なかった。 

 奇妙なことは他にもあった。 

 父の手紙に拠れば、ムムミが連れて行かれた先は何故か、私自身が所属する大学、即ち京都帝國大学、その医学部付属病院の精神科の病棟だとなっている。しかしムムミの(同時に私の)郷里は、愛知県のT町なのだ。それだというのに、何故ムムミは地元の精神病院に連れて行かれることもなく、遠く離れた京都の地にまでわざわざ移送されねばならなかったのか……。 

 可能性として私はまず、彼女の恋人であり許婚であるところの私が京大の学生であることから、彼女の両親の希望もあって、こちらの大学病院に送られたのではないかと考えた。もちろん、単なる患者の家族の希望だけで移送される病院が選ばれるということはないだろう。しかし、これはあまり考えたくない仮定ではあるが、もしムムミの発病が私の不在に端を発していたとするならどうだろう(というのも、彼女が精神を病む原因など、私には他に思い当たる原因はなかったのだ)?患者の治療に必要だと判断されれば便宜も図ってくれるかもしれない。……しかし結論を言えば、手紙の内容からはそのような経緯は読み取ることはできなかった。 

 ただ、手紙を読む限りでは、彼女の収容先の決定に際してそのような事情が考慮されたということもないようだった。むしろ彼女の家族の意向としては、このようなことになってしまった以上は私とムムミの縁組の約束は、反故にせざるを得ないと考えているらしい。父にしても、私が望まぬのであればムムミの面会には行かなくてもよいとの趣旨の言葉を、限りなく婉曲に書いてきていた。 

 私は未だ衝撃から醒め切ってはおらず、冷静に事態を把握できているとも自分では思えなかったが、それでもムムミとの婚姻を諦めるつもりも、彼女を見捨てるつもりも毛頭なかった。元々は親同士が決めた婚約とはいえ、私にはそれに何ら不満はなかったのだし、彼女にしても同様であっただろう。いや不満どころか、私にとってムムミは伴侶として願ってもない相手であったのだ。

 郷里に帰り、晴れて一緒になる日を夢見て、彼女と離れたこの地で勉学に勤しんでいたというのに……。

 私はムムミを愛している。もし仮に彼女が本当に精神病に罹っていたとしても、その気持ちは変わらない。父が止めようと私は彼女に会いに行くだろうし、できることなら彼女を手厚く看病し、健常な精神を取り戻させてやりたい。それはムムミの恋人である私にしか出来ないことだ。

 少なくとも、彼女の病状を確認することもせずに彼女を見捨てることなど、できる筈がないではないか?

 

     2

 

 京都帝國大学の医学部の敷地は、大学全体のシンボルである時計台のある本部構内の敷地とは東大路通りを挟んだ、反対側に位置している。そして勿論のこと、医学部に付属する大学病院もまたそちらの敷地にある。

 栄えある京都大学の文学部に入学して既に二年と半年もの時間が過ぎているが、私は未だに大学病院の敷地には足を踏み入れたことはなかった。……まして精神科の病棟となれば尚のことだ。

 私はまず、見るからに近代的で最新式の感のある大学病院の受付に赴き、精神科の病棟の場所を尋ねなければならなかった。そうしてわかったことは、医学部の敷地というのは小路を挟んで東構内と西構内に区分されており、精神科の病棟は外科や内科といった一般的な病棟のあるこちらの東構内ではなく、西構内にあるとのことだった。

 更に言うなら精神病棟はその西構内においてももっとも西寄りの、川端通りに面したほとんど大学の敷地ぎりぎり位置にあるという。つまりは本部構内より西側に位置する医学部並びに大学病院の敷地の内の、その西半分にあたる西構内のさらにもっとも西側に、精神科の病棟は存在する。

 この単純な事実、純全なる単なる事実はしかし、只でさえかかる事態に沈みがちだった私の心情を一層塞ぎこませる効力があった。

 もちろんこのような単なる建物の配置に何ら底意などあるわけもなく、単に実際上の都合や必然性があって今のような配置に収まっただけの話に違いない。それでも、精神科の病棟が他の病棟とは離れているという事実、広大なる本学の敷地において中心からもっとも離れた場所にあるという現前なる一つの事実があるのであって、これからそこを訪れようとしている私にしてみれば些か打ちのめされたような心持にさせられたのもまた事実なのである。

 この大学病院の受付で、以上のような話を聞かされながら私は、大学の制服を着てきたことをきまり悪く感じ始めていた。周囲の視線が気になってできるだけ身を縮め、制帽の庇に手を掛けて、深く被り直した。

 気のせいか、私の対応をしてくれた受付の看護婦がじろじろと私の顔を見ているような気がする。私は堪らずボソボソと、ほんの形式だけの礼を言い、なるたけ自然に見えるように苦心しながらその近代的な建物から逃げ出さざるを得なかった。

 

 おいやられるように……というのは勝手な思い込みかもしれないが、京大の誇る明晰な頭脳の結晶である大学病院の建物を出た私は、看護婦に教えられた通りに西を目指して歩き出した。自分の身に纏った、一目で学生とわかる制帽と制服姿を未だに気に掛けながら……。

 私は今更ながらに、自分がこれから精神科の病棟に行くのだという事実の重みを意識し出していた。学友に、私がよりにもよって精神科の病棟に入る姿を目撃されたとしたら……私は一体、彼らに何といって弁明すればよいのだろう?

 いや、気に掛かるのはただ知人からの目ばかりではないのだ。いかにも学生然とした私が精神科の病棟に入る姿を見て、世間の人間は私を何者と思うだろうか。知人の面会に尋ねてきたのだという正しい認識を果たしてどれだけの人が持ってくれるのか。誤解されるにしても、例えば医学部の学生が病院に出入りしているのだと思われるなら一向構わないが、勉強のし過ぎでちょっとばかり精神の均衡を崩した学生が、精神科の治療を受けんがために自発的に現れたのだと思われないであろうか?

 私は通りをひたすら西に、鴨川へと向かって歩き続けながら、つらつらとそんなことを考えていた。するうちに、この私が恋人に会うために精神科の病棟を訪ねるという悲観的な事実より、精神病院という施設そのものに対する気後れ、いや恐怖のようなものを改めてまざまざと感じ始めた。

 この国きっての優れた学者である学者達が結集する大学という場所である……いわば理性の最高峰、知性の殿堂なのだ。他方、精神病院というのは言うまでもなく精神を病んだ患者、つまりは正常の理性の働かない人間の集う場所である……いわば理性の通じない非理性の領域だ。私は理性に護られたこの大学という聖地において、唯一つ不合理と非理性が闊歩している魔界へと単身乗り込まなければならない。さながら聖杯を求めるパルツィファルのように……。騎士でもない私が……。

 そんな風に意味もない憂鬱に憑かれながら歩いていた私だが、鴨川沿いを走る川端通りまで行き着いた時には、沈んだ気分も多少は持ち直してきていた。それは恐らく私の悩みも知らぬげな陽気な天気と、鴨川の常と変わらぬ開けた景観に影響されたものらしい。

 私は考えを改めた。……そうだ。

 むしろそのような恐ろしい場所であるからこそ、私はムムミの元に赴かなければならないのだ。それこそ、魔物に攫われた姫君を救いに行く騎士のように。

 それに考えてみれば、精神病院という場所は別に理性の通じない魔窟などでは決してないのだ。なぜなら精神病院を統治しているのは決して患者である精神病者ではないからだ。精神病院の支配者は理性の体現者である医学博士達に他ならない。

 だから私は安んじて彼らに私の大切なムムミを預け、必要とあらばムムミの恋人としてまた将来の伴侶として、誠実にその治療に手を貸せばよい。そして時がくれば(もちろんくるに決まっている)無事に正常な精神を取り戻したムムミを受け取り、家に連れて帰ればよいのだ。

 そう。本当に、ただそれだけのことなのだ……。

 

    3

 

 精神科の建物はすぐに見つかった。が、私はそこではムムミに会うことができなかった。

 木造二階建ての精神病棟に恐々と入った私が受付で出会ったのは、どこか無表情なところのある、硬直した顔面のどこかに常に不自然な緊張を維持しているという感じの看護婦だった。

 「貴方がお訊ねになったような方は、当病棟には入院してはおりませぬ」

 私は混乱した。場所を間違えて別の建物に入ってしまったのかとも思ったが、確認してみると確かに、京都帝國大学医学部付属病院の精神科の病棟に間違いはないというのだった。

 これはどうしたことなのだ?

 私は受付に座る看護婦に更に詳しく話を聞こうとして、しかし果たせないでいた。彼女は顔色が青白く、どこか病的な陰があり、瞳の焦点が合っていないのだ。私が話しかけた時には目尻の辺りにあった緊張が、話しているうちに徐々にその顔面全体に広がって、それが一種異様な迫力を彼女に与えている。私はその迫力に気圧され、その奇妙な緊張はいつしかこちらにも伝染し、私の声を奪った。

 何故、彼女は私をこんな目で見るのだろう?

 そう考えて、私は愕然とした。まさか私はこの女に、診察してもらいに訪れた精神病者だと思われているのだろうか?おかしな妄想に取り憑かれて、いもしない最愛の恋人の姿を求めて精神病院を訪ねてきた狂人……あたかもお仲間に誘われるように……そう思われたのではないか。だから私と目を合わせないように、こんなどこを見ているかわからぬような眼で、私を見るのだ。

 おかしなことに、自分が狂人だと思われているのではないか……そう考えただけで私は、不必要なまでに取り乱してしまった。所詮は単なる誤解に過ぎないのであり、私はれっきとした大学の文学部生で、狂人ではない正真正銘の健常者なのだから、相手にどう思われようが所詮は単なる誤解なのだから取り乱す必要はないのに。それにも拘わらず私は取り乱し、この看護婦の奇妙に緊張したような意識の混濁したような病的に青褪めた顔を見ていると、私はどうしても落ち着きがなくなり、私は正常な健常人であって真っ当な学生だという自明なる事実を見失い、まっとうな学生であるというのに、私が今いるこの場所が精神病院だというのもまた事実なのであり、だとしたら此処にいる私は自分では正常で真っ当な学生だと思っているけれども実はそうではないのかしら、自分でまともだと思い込んでいるだけの、夢中遊行の狂人なのかしらん……。そんな風に思われてくるのであった。

 ……しかし、私はたしかに健康な学生で、それはやっぱり確かなことで、ここには精神病になってしまったという恋人に面会するために来たのであるから、私は狂人であるはずはないのだった。私は震える手を強いて抑え付け、制服の隠しから手紙を……私をここに向かわせた元凶であったはずのあの手紙……取り出すと、私がここに来たのはこれが理由です、だから私は正常であって決してこの病院に入院すべき狂人ではないのです、という免罪符ででもあるかのように、黙って彼女に差し出した。彼女もやはり黙ってうけとった

 手紙を読む看護婦を見下ろしながら、私は、彼女に渡したあれは確かに父からの手紙だったのか、と俄に意味のない不安に駆られた。持ち歩いている手紙など父の手紙以外にはないのだから、あれは確かに父の手紙である筈でそれ以外の可能性はない筈で、だからそこには確かに私の恋人が京大病院の精神病棟……つまりは現在私が立ちつくしているところのこの建物に、連れて行かれた旨が書かれている筈だ。それさえ読んでもらえたならば、たとえ彼女でも私が狂人ではないことがわかってもらえる筈だ。たとえムムミがこの病棟に連れて来られたというのが何かの間違いであったにしろ(間違いだったらどれだけよいか!)、それは事実を誤認した手紙の筆者の責任であり、それを受け取って読んだ私がそれを信じてしまったとしても私が狂人であるということになる道理はどこにもないのだから、私は正常であるのだった。

 しかし必死に自分にそう言い聞かせてみたところで、やはり不安は募るのだった。本当にあの父からの手紙には、そんな文面が(したた)められていたのだったろうか(そもそもあれは本当に父からの手紙だったか)?ひょっとしたら私の頭がちょうどその時に理性を失っていて、狂人の頭脳に特有なおかしな論理構造に拠って、文章を全く違った意味に読み取って、おかしな文面を捏造してしまったのかもしれないではないか……。

 ……しかし、だとしたらどうして私の脳髄は、最愛の恋人であるムムミが哀れにも正気を失って、精神病院に連れて行かれるなどという妄想を、よりにもよってそんな最悪の妄想を捏造してしまったのだろう?いくら狂人とはいえ、全く根も葉もない妄想など、果たしてするものだろうか。我々が睡眠中に見る夢が、我々の無意識の欲望や願望を反映していると言われるように、狂人の妄想だって、私が普段は理性によって押し殺している本能的な欲求を反映しているのに違いないのだ。

 すると私には、恋人であるムムミが精神病者となってほしいというわけのわからぬ、それこそ病的な潜在的願望があったのだろうか?

 「わかりました」

 突然声を掛けられて私は驚き、びくりと震えた。見ると私は病院の受付のようなところの前に立っていて、目の前には見知らぬ、奇妙な顔つきの看護婦がいて、私を見上げているのだった。

 一瞬どうしたことだと思い、やっと私は自分が病院に来ているということを思い出すことができた。そうやって思い出すことができたという事実、そして今しがた聞いた看護婦の言葉を思い返し、やはり自分の理性は崩壊していないことを知ったのだった。

 私は看護婦の態度が変わることを期待した……何故なら先ほどまでの奇妙な態度は恐らく、この女が失礼にも健常な私を精神病者であると錯誤し、恐れていたからに違いなかったからだ。精神病院に勤めるこの看護婦はきっと普段から大勢の患者に対処しなければならない立場にあり、先ほどの態度はそれに対処するために築き上げた処世術、防衛反応なのだろう。しかし今はもう私が健常人であることは明らかであるから、看護婦にふさわしい朗らかな笑顔で好意的に遇してくれてもよい筈だ。

 しかし私の期待虚しく、彼女の態度は先と変わらなかった。相変わらず焦点の定まらない濁った瞳で私を見るともなしに見つめ、その顔面に蔓延る奇怪な緊張が消え去ることはなかった。……とするとこの女にとってはこれが平常の態度であるようだった。

 奇妙に罅割れた、どこか不安定な声で彼女は言った。

 「貴方がお探しの××夢々美様は、こちらにはいらっしゃいませぬよ」

 「何ですって」

 私は驚いた。彼女の手から手紙を取り戻すと、それを示して言った。

 「しかしこの手紙にはこちらに預けられたと書いてあるのですよ」

 心ならずも詰問する口調になってしまったが、それでも看護婦は表情を変えもせず、態度を改めもしなかった。

 「左様でございますか。しかし当方の病棟には××夢々美様がいらっしゃらないということ、これも確かなことなのです。わたくし思いますに、貴方様の恋人は別の病棟に入られたのではないでしょうか」

 「別の病棟?しかし、ムムミは精神病なのですよ。連れて行かれるとしたら、ここしかないでしょう?」

 「左様ではございません。夢々美様はおそらく、特殊病棟に運ばれたのでございましょう。何故ならこちらには一般的な精神病の患者様しかいらっしゃいませぬ。特殊な病気の方はいらっしゃいませぬ。だから特殊な夢々美様はこちらにはいらっしゃいませぬ。特殊な方はこちらにはおりまぜぬ」

 看護婦の言葉は、どこか不安定ながら丁寧なものだったが、私を俄に不安の極地に陥れた。特殊な病気という物々しい言葉が私の耳朶を打ったのだ。……一般的な病気とは異なる、特殊な精神病?

 ムムミは……私の愛するムムミは……「普通の」精神病院ですら持て余す、特殊な病気に罹ったというのか?

 どす黒い恐怖の念が、私の心を捉えた。

 「それで……?どこにあるのですか?その……特殊な患者のための、特殊な病棟というのは……?」

 看護婦は……それまで頑なに無表情を通していた看護婦は初めて笑みを……背筋に寒気を起こさせる薄ら笑いを浮かべ、答えた。

 「…………時計塔です」

 

     4

 

 京大工学部建築学科の初代教授である武田五一教授によって設計せられた時計台が完成したのは今から九年も前のこと、大正十四年のことであった。その時計はわざわざ独逸の電気機器会社であるシーメンス社に発注したという、機械式と電気式を併用しているという珍しいもので、誤差が年間で一秒にも満たないという最新式のものである。まさに現代の科学技術と知識との精髄とでもいうべきもので、我々大学生の誇りであり、また人類の宝である言っても過言ではあるまいと思われた。

 武田五一教授は当時の大学新聞に寄稿してこう仰っている――「中央の塔の高さは約百廿尺その上に備え付ける時計は中央標準時計と電気仕掛けで合せるようになっている。今は未だ出来ていないが、時計は針の中に光を入れる。文字の穴は直径一尺に余り之にも点灯しその上を円板で蔽ひ夜になれば針と文字が明るく見え遠く下京からでも時計を見ることが出来る」――云々。

 さらにこの時計は塔の北側に取り付けられた鋼鉄製の鐘と連動しており、半時間ごとにカーンと高らかに鐘を鳴らし、時を告げる。つまり我々は時間感覚において視覚的刺激によってのみならず聴覚的刺激においてもこの時計台によって支配されているわけで、学内の人間なら誰しもこの時計の告げる時刻を頼りにして学究生活を送っているのだ。

 だから時計台というのは今や我々にとっては単なる象徴というだけではなく、大学における生活の中心であり、人類の叡智としての技術力の現前した姿なのであり、この京都帝國大学の揺るぎない精神的な中軸となっているのである。

 その時計台に――こともあろうに精神科の病棟があると、この女は言ったのだ。

 もちろん私は、このような妄言を聞かされてああそうですかと忽ち信じたわけではなかった。そんな話は第一聞いたことがなかった……たとえ無責任な噂話としてでさえ。時計台は我々学生の精神的支柱、理性の象徴であるのだ。そのような場所に、精神科の病棟がある筈がない。いや……そのようなことが、赦される筈がない。

 「――地下ですよ」

 「え?」

 唐突で、何を言われたかわからず私は聞き返した。

 「時計塔の……地下三階に……あなたのお探しの方はいらっしゃいますよ…………」

 「地下……三階?」

 私は呆然と呟いた。相手の正気を疑った。

 時計台には確かに地下部分がある。だが、地下三階などは存在しないのだ。地上部分の一階と二階は法学部の講義や大ホール、或いは総長の居室として使われ、地下は文書などを納める倉庫代わりに使われていると聞く。しかし地下は一階までしかなく、地下三階などはもちろん、地下二階だって存在しない。

 ……本気で言っているのか?

 正直なところ、私は女の話を……いや、正気を疑った。話をしているうちに、私にはこの看護婦の理性に信用が置けなくなっていたのである。先ほどからの奇妙な態度……何よりその病的な表情も、そう考えれば納得がいく。狂気というものは周囲の人間に伝染すると聞くが、であれば精神病院に勤める看護婦が、四六時中身近に接している患者達の影響を受けて精神を病むことだって十二分にありえるであろう。そうしてたまたま訪れた正常な訪問者――つまりは私に他ならないが――に、昼日中からおかしな妄想をさも真実だという風に語り始めたところでおかしくはない。

 ……あるいは、最初からこの女は病院に雇われた看護婦でもなんでもなく、この病棟の患者なのではないか。私はそうも考えた。つまりは彼女は精神病者なのであって、それが何かの理由で自分は患者ではなく看護婦であって、それでこの病院に勤めているのだという妄想に支配されているだけではないのか。しかしそれだと、どうして患者である彼女が(いくら妄想に駆られての行為とはいえ)看護婦の制服を身に纏い、誰に咎められることなく受付に居座っているのか……そう考えると不可解ではあるが、私にはそれもさほどの反証とは思われない。なにしろ患者のことだから、どんな突拍子もない手段を使って常人には考えつかない事態を引き起こしても不思議はないのだし、どんな無理な憶測を繰り広げたところで、このおかしな女が正規の看護婦として受付に座っているということ以上の不合理はありえないからである。私は半ば真剣に、患者であるこの女が本当の看護婦を殺してその制服を剥ぎ取ったのであり、足元には今も頭部から血を流した死体が転がっているのではないか……と、そんな想像をしていた。

 「私は患者ではありませぬよ……」

 私は眼を剥いた。凝視する私を見返し、薄笑いを浮かべて女はまた言った。

 「精神を病んだのでもありませぬよ……」

 私は恐れをなして後じさった。心を読まれたと思い……。

 この女には、私の内心の声を察知する特殊な能力があるのだろうか?

 それとも、私の内心の声は全て、周囲の人間に包み隠さず洩れているとでもいうのだろうか?ただ私が、私だけが知らなかっただけで……。

 「私はあなたの心を読んだりはしませぬよ」

 ヒッ……という悲鳴を残し。

 私はそこから……精神科病棟から逃げ出した。

 

 まさに魔窟のごとき、恐ろしい精神病棟から逃走し、私は大学の本部構内――そこには時計台もある――にとりあえず戻ることにした。あの看護婦の妄言を信じたわけでは決してないが……。

 時計台の地下に精神科の病棟があるという怪しげな話を、まさか信じられるわけもないが、しかし他にどうすることもできなかったのだ。

 少なくとも今のところは、引き返してあの看護婦と再び対面するなどということは私には到底不可能事に思われた。思い返してみれば私自身、彼女と話している時の精神状態は普通ではなかったような気がする。そう考えると恐ろしい。……狂人の相手をするのはもちろん、彼女に引きずられて自らも狂人になってしまうのでは……そう思えて……。

 ……私は臆病者なのだろうか?自分の恋人が、許嫁が頼りなくも唯一人でそんな場所に囚われているかも知れぬというのに、たかだか一人のおかしな女が障害になったというだけで、そこから尻尾を巻いて逃げ出すとは。ムムミはそのような恐ろしい場所で心細い思いをしながら、私が来るのを今か今かと待ちわびているかもしれないというのに……。

 私は敗残者なのか。……いや、そうではない。私はただ、確認をするために一時的にあの場を立ち去ったに過ぎない。到底信じがたい話とはいえ、ムムミは別の場所にいるといわれたのだから、まずはそちらを確かめるべきではないか。

 そもそも今になって思い返してみれば、あの看護婦にはたしかに奇妙な点も多々あるが、しかしこれといっておかしな言動は見られなかったという気もする。少なくとも以上とまでは言えないだろう。ただ、私にはそう思えたというだけで……。

 そうなのだ。きっと私は、初めて精神科の病棟に足を踏み入れるという事実に必要以上に萎縮してしまい、過敏に神経質になっていたに違いない。それで疑心暗鬼になってしまい、夜道に見える影が全て幽霊や妖怪のように見えてしまうように、あの看護婦を狂人だと思い込んでしまったに違いないのだ。

 そうだとすれば、時計台の地下に精神科の病棟があるという奇妙な話も、一概に申そうと断ずることはできなくなってくる。……いや、よしんば結局のところあの女の妄想なり冗談だったとしたところで、それを確認したうえでまた取って返し、あの女にそう告げてやればよいだけの話だ。そうして何人にも否定できない確固とした事実を示してやれば、いかにあの女が脳髄の造りだした幻想妄想に支配された狂人であったところで、自分の考え違いに気付き、理性の光明の前に伏すに違いないのだ。

 私はおかしな女から伝染された蒙昧の意識からこうして回復し、脳髄に明朗なる理性の輝きを取り戻した。そして殆どそれと同時に、世に隠れなき知性の殿堂にして理性の象徴たる、京都大学の正門に辿り着いたのだった。

 

 正門から本部構内に入れば正面には堂々たる楠の大樹が聳え立ち、更にその先には赤煉瓦造りの壮麗なる、堅固な知性の宮殿の如き巨大な時計塔が鎮座している。

 この威容を一目でも拝んだものであれば誰でも、幽霊やら妖怪などといった馬鹿げた、非理性的・非合理的な妄想などを信ずることの愚かしさ無益さを悟り、そのようなものを信じていたこれまでの己自身の愚昧に呆れ果てるに違いないのだった。

 本当にここに、ムムミがいるのだろうか?

 私にとっては既に慣れ親しんだ、けれど改めてその威容に畏怖の念を抱かずには折れない全高百二十尺もの時計塔を見上げると、改めて先程の看護婦の言葉がいかに現実離れしたものであるか、今更ながらに思い知らされる。時計台の内部には法学部の講義室があり、今も多数の学生が厳粛なる講義に出席している筈だった。

 文学部の学生である私は当然のことながら法学部の講義に出席したことはなく、従ってその内部構造にはあまり明るくはない。しかしそれでも何度か足を踏み入れたことはあったし、毎日のように大学を訪れているわけだから、やはり毎日のようにその傍らを歩き、また見上げてきたのだ。

 だとすれば私は、自分の恋人がすぐ間近にいたのにも全く気付かず、その傍らを通り過ぎていたというのか?こんなにも近くにいながら、その苦しみも知らず、同じ敷地の中で学業に励んでいたというのか……。

 そんなことがあり得るだろうか?

 ……折しも、講義が終了したところらしく、時計台の正面入口からは制服制帽姿の多くの学生達が続々と輩出されてきている。と思う間もなく、時計は午後の四時丁度を指し示し、その機構に連動した装置が、塔の頂上の鐘を、厳かに打ち始めた。

 

 カ――――――――ン…………

 

 カ――――――――ン…………

 

 カ――――――――ン…………

 

 カ――――――――ン…………

 

     5

 

 時計台から吐き出される法学部生の流れに逆らって私がその内部に入ったかというと、そうではない。私は時計台の建物の地下に精神科の病棟があるなどというひょっとすると馬鹿げた、というよりそれこそ明らかに気違いめいた話をわざわざ確認するなどという所業を、できる限り誰の目にも秘密にしておきたかったのだ。

 もちろんこんな気違い沙汰が私自身の脳髄から生み出された妄想ではないことは確かであるし、そもそも信じているわけではなくむしろ九分九厘は出鱈目だと疑っているのだが、それでもそのような世迷言をほんの少しでも真に受けて、確認に出向かずにいられなかったのだということが学友に知れ渡ってしまえば、私は理性の擁護者である大学生としてはあるまじき行為と誹られ、軽蔑されるに違いない。さすれば私はその資格を剥奪されるとまではいかずとも、四面楚歌に陥ることは避けられないであろう。

 ようやく人波が途切れ、更にその後もポツポツと散発的に現れる単身の学生の姿も見られなくなったのを見計らって、私は時計台の中に入るべく物陰を出た。見上げると既に長針は真下を向きつつある。入り口を潜るとき、丁度鐘が鳴った。

 

 カ――――――――ン…………

 

 ……窓から外光を取り入れているとはいえ、はや日も暮れかけていたから内部は酷く薄暗く感じた。私は多少心許ない思いを抱いた。が、その代わり人の姿は何処にもなかった。

 入り口から、正面の突き当たりを左に折れて、少し行くと階段がある。総長室や大ホールがある上階へと続く階段、そして倉庫代わりに使われている地階へと続く階段である。

 薄日の射し込む上階はまだそれなりに明るいが、地階へと続く眼下の階段……私が進むべき階段……は暗く、見るからに陰鬱な雰囲気を漂わせており、私の足を躊躇させるには十分だった。

 この下に、本当に精神病院があるのだろうか……。

 もちろん、そんな戯言は信じていない。けれど、もし……万が一……。

 そうする内に日の光はみるみる弱くなり、建物の内部は闇の色を濃くしていった。地下への階段は私の眼にはもう地獄か、あるいは魔界の入口ででもあるかのように変貌して見えていた。

 しかし……私は考えた……仮にこの下に、あの看護婦が口にしたような精神科の特殊な病棟があったとして、そこにムムミがいたとしても、今日のところはもう面会することは叶わぬであろう。病院の面会時間というものを私は知らなかったが、なにしろ病院のことだから、そうそう日の落ちてまで外部の人間の面会を許可してくれる筈もない。であれば、万が一という確立ではあるが、もしも本当にそのような奇怪な病棟がこの下に実在しているにしても(もちろん信じている訳ではないが)、今日のところは追い返されるに決まっている。……それなら、どうせ追い返されるとわかっているならば、とりあえず確認だけしておけばよいではないか。

 ……なに、たいした手間ではない。このままちょっと降りていって、ざっと周りを見て回って、地下二階など存在しないということを確認してくればよいだけなのだ。その上で明日、先程の精神病棟を再度訪ね、時計台の地下に精神科の病棟があるなどという妄想を打ち壊し、改めてムムミの居所を白状させればいい……。

 私はこうした心的な手続きを踏むことで自らの臆病な心根を手懐けることに成功し、やっと地階へと続く階段に足を踏み出すことができたのだった。

 

 そんな心の準備をしてまで降り立った時計台の地下において私が見い出したものといえば、やはり地下二階など存在せず、従って精神科の特殊病棟など実在しないという些か期待はずれな(ある意味では期待通りの)事実だった。先程私をあれほど怯えさせた階段は、地下一階までで終わっていたのだ。

 その現実を確かめたとき、私は肩透かしを喰ったような気分になり、思わずナァンダ……と呟いた。やはり、時計台には地下二階も三階もないのだ……精神科の特殊病棟など最初からどこにもなくて、全てはあのおかしな看護婦の独りよがりな妄想に過ぎなかったのだ……ムムミはここにいないのだ……そう思った。

 そうなのだ。私が愛してやまないこの大学に、そのような奇妙で怪しげな地下の施設が、存在する筈がないのだ。

 このあまりにも自明なる事実、どのようにこじれた脳髄から生み出された奇怪な妄想も太刀打ちできない現実を目の当たりにして、私の精神は俄然勇気を取り戻し、先程までの愚かな自分――おかしな妄想に振り回されて疑心暗鬼に陥っていた自分――を笑い飛ばしたい気持ちになっていた。同時にどこか物足りないような、裏切られたような感じもあって、してみると私は我ながら不可解なことに、心のどこかでそれが本当に存在することを、期待していたのかもしれなかった。

 私は一人で首を振った。否。否……と重ねて否定した。そのような不合理極まる、非現実的なことを夢想するなど馬鹿げていると。私が残念に思うのは、もしかしたらすぐにもムムミに会えるのではないかと期待したからに他ならない、その期待が裏切られたというだけの話だ。

 気を取り直して私は辺りを見渡した。当たり前の話だが、地下は地上よりも暗かった。通路が左右に延びていて、壁面には等間隔に据えつけられた電灯が、弱弱しく辺りを照らし出していた。

 通路の右側はすぐに行き止まりで、左側――方向としては時計台の中心に向かう――はその分長く伸びている。

 初めて地下に降りた私は、物珍しい思いで通路の先を見た。かねて聞いていた通り地下は物置代わりに使用されているようで、薄暗い通路の奥に目を凝らすと、何やら資材のような物がそこかしこに積み上げられているようである。

 私は好奇心を抱いた。……幸い、辺りに人影はない。

 せっかく来たのだから、少しばかり見て回ってもよいだろう。そんな軽い気持ちで、私はそちらに向かって歩いていった。

 

 ……数分後、私は冷たい戦慄を覚えながら、地下へと続く階段を見下ろしていた

 階段は途中の踊り場で方向を逆向きに変えているので、その下に何があるのか見ることはできない。踊り場の壁面には電灯が点っていて、決して暗くはないのだが、しかしそんな乏しい光明では追い払うことの出来ない、何かどす黒い気配のようなものが、私の元にまで立ち昇ってくるのだった。

 しかし、ただ地下へと続いている階段を見つけたというだけのことなら、いくら疑心暗鬼に陥っているといえどもこうまで驚きはしなかったであろう。その階段が、積み重ねられた箱の陰に、まるで隠されているようにあったことも、或いは偶然だと思い込むことだってできたかもしれない。

 だが、その積み重ねられた箱が、その中に納められた資材の正体が、私を混乱の渦に落とし、動揺せしめたのだ。そこには米や野菜といった食料の詰まった箱があり、皿や椀といった真新しい食器の詰まった箱があり。使用された形跡のない、真っさらな衣服があった。それに何より……浣腸……や……注射器……の詰まった箱がある。そしてこの、両袖が繋がった奇妙な形状の服……これは…………。

 拘束用の服ではないのか?

 ……私は愕然とした。

 これは、病院の備品ではないのか?……しかし、大学の……それも時計台の地下に、なぜそのような資材が山と積まれていなければならないのだ。

 私は不審の念に囚われ、愚かな妄想をしているのかもしれない。こんなものは、医学部附属病院で使われる資材を、ここに貯蔵してあるだけかもしれないからだ。……しかし、どうして附属病院の資材を、わざわざ距離が離れた時計台の……それも地下に、置いておかなければならないというのか……。

 そう考えた時……。

 「君、君……」

 わぁっ……と、そう叫び出さなかったのが我ながら不思議に思われるほど、魂が消し飛ぶばかりに私は、心底驚いた。……又、恐怖した。この空間には誰もいない。自分以外の人間は一人もいないと、勝手に思い込んでいたので……。

 私は恐る恐る振り返った。

 そこには、一体いつからいたのか、白衣を身に着けた医師らしき男が、いつの間にやら立っていた。大柄だが圧迫される感じは微塵もなく、細い銀縁の眼鏡を掛けていて、どこか顔色が悪いためか病的な印象を与える男だった。

 場所が場所だけに、私はすわ幽霊かと後に思い返せば非理性的な恥ずべき思いに囚われてしまい、ろくに身動きが取れず、声を出すこともできなかった。呆然として、ただ相手の顔を見返すしかなかった。

 そんな私に男は言った。

 「ここは、一般の学生は立ち入り禁止だよ……。用がないなら、悪いことは言わない、速く帰りなさい……」

 「ぼ、僕は……」

 私は未だ動揺を引きずっていたが、何とか口を開くことができた。

 「僕は、用もなくここに来たのではありません……。ここに、附属病院の精神科の、その……特殊な患者を収容するための病棟があるって聞いて、それで……」

 「何だって……」

 男の顔色が変わった。

 「どこでそれを聞いたのだね?」

 「精神病舎の……受付です……」

 怯えきった私が、しどろもどろに答えると相手は「ほう」と呟き、興味を覚えたかのように私の顔をじろじろと見た。

 「なんだ……。じゃあ君は、患者だったのかね」

 「ち、ちがいます!」

 私は叫んだ。診察でもするかの如く私をしげしげと観察しだした医師が恐ろしくて……。

 「手紙が来たのです……郷里の父から。私の許嫁が精神病に罹ってしまったと……。そして、この大学の精神病院に連れて行かれたと……。ぼ、僕はそれを聞いて、面会に行ったのです。ですが……」

 「彼女はいなかった。それで受付の看護婦に、この場所を聞いたという訳だね?」

 「そ、そうです……」

 私は必死に頷いた。同時に、話が通じたことに強烈なまでの安堵を覚えた。……してみると、あの看護婦の話は単なる彼女個人の妄想ではなく、事実だったのだ。こうして話が通じる第三者が出てきたからには……。

 たったそれだけのことなのに、私には奇跡のように思えた、

 そんな私とは正反対に、医師らしき男は不機嫌そうに吐き捨てた。

 「また木崎君の仕業か……。全くあの娘は……」

 その口調があまりに不快そうなものだったので、私は恐れをなした。……私はここに来てはいけなかったのだろうか。しかし……あの話が真実であるなら、私はここで引き下がるわけにはいかないのだ。

 意を決して私は口を開いた。

 「ここには、その……本当に、病棟があるのですか。その……精神病の……」

 「……ああ。まあ、もう隠しても仕方がないな。その通りだよ。但し、決して誰にも言ってはいけないよ。言ったら……」

 「い、言ったら……?」

 「さて、どうなるのかな……。処理の実態までは、私も知らないからね……」

 医師が何気なく口にした『処理』という言葉が、私を一層震え上がらせた。聞きたいことが山ほどあったのに、声を出すこともできなくなった。

 「なんてね……。そう怖がらなくてもいい、今のは冗談さ。ただ、本当に口外はしないでおくれよ」

 怯える私に、冗談めかして彼は言った。私はなァんだ……と安堵し、ホッと息を吐いた。そうだ……この自由な京都大学で、そんな恐ろしいことが起きるわけがない。

 私は気を取り直して聞いた。

 「でも、どうして口外してはいけないのですか?」

 「うん?それはね……。この病棟には学術的に特に興味深い症状を示す、貴重な患者が集められているんだ。どれくらい貴重かというと、そうだね……その謎を解き明かすことができれば、我々京都大学精神科が日本、いや世界に冠たる優秀な研究グループだと証明されるほどだよ。だから歴代総長も我々に期待して、この大学の中心たる時計塔の地下に、わざわざ研究棟を用意してくださったくらいでね……」

 「へぇ……それは名誉なことですね」

 「勿論さ。だからこそ、他には絶対に洩れないようにする必要があるというわけだ。まあ、今の時局ではどんなに学術的に素晴らしい発見をしても、世界に発信するのは難しいかもしれないが。なにしろ我等が大日本帝國は、国際連盟を脱退してしまったからね……。それで、君の恋人というのは、何と言う名前なのだね?」

 「あ、はい。ムムミです。××夢々美……」

 「××ムムミ……?」

 医師は心当たりがなかったのか、記憶を探っているようように視線を彷徨わせた。私は内心慌てた。ムムミがやはりここにいないのではないかという恐れ……ではなく、自分が嘘を言っている、或いはやはり頭がおかしいのではないかと、そう思われるのではないかと恐れたのだ。

 私は固唾を飲んで見守っていた。するとそんな私に気付いたのか、医師はばつの悪いというような顔をしてみせた。

 「そのムムミさんというのは、最近ここに連れられて来た患者なのかね?許嫁ということは、君と同じ位の年齢で、郷里も同じかな……」

 「はい……」

 「ふむ。君の郷里は?」

 「愛知県のT町です……」

 医師は合点がいったというように頷いた。

 「ああ。それならあの患者で間違いないだろう。……いや、すまないね。彼女……ムムミさんだったかな。彼女は来たばかりだし、本名の方はまだ覚えていなかったんだ。なにしろここでは、患者の本名というのはあまり意味を持たないものなのでね」

 「えっ…………」

 私は愕然とした。本名に意味がない?

 それは、つまり……ここでは患者はその名前ではなく、なにか別の名称で呼ばれるということか?例えば、そう……監獄の囚人のように……番号とか……。

 「まあ、こんなところで立ち話をしていても仕方がない。とりあえず中に入ろうじゃないか」

 「え?中に……入るのですか?僕も……」

 医師の提案に私は戸惑った。てっきり、門前払いを喰うと思っていたのだ。

 「おや、おかしなことを言うね。君は面会に来たのだろう?」

 「で、でも、ここは秘密の施設なのではないのですか?」

 「ハハハ、なに……普通ならそうなのだが、君はここの学生だろう?だったら構わないよ。それに、恋人である君と会わせれば、彼女に治療に役立つだろうからね……」

 本来は渡りに船の申し出である筈だったが、私は返事を躊躇った。実のところ、すっかり腰が引けていたのだ。精神科の病棟だというだけでも尻込みするというのに、こんな地下の……それも、秘密の病棟だというのだから。ムムミのことは心配ではあるが、まあ彼女は患者であるわけだし、病院にいるならそうそう危険はない筈だ。……それより、私の身に何かあったら、それこそ元も子もないではないか?

 「しかし、面会するには少しばかり、時間が遅いのではないですか……?」

 私は何とか申し出を断れないかと試みたが、しかし医師はこともなげに言った。

 「なに、問題ないよ。なにしろここはご覧の通りの地下なのだからね。地上界の昼も夜も、ここでは一切関係ないのさ。それでここでは、地上の昼夜とはあえて逆転した生活を送っているのだ。研究の結果、どうやらそれが治療に効果があるようなのでね……。だから、むしろこの地下世界ではこれから一日が始まろうとしているところなのだよ」

 聞いたこともない話に私は驚き、また呆れた。……時間という絶対普遍の法則までもが、ここでは奇怪に歪められている。そんな気がして……。

 他に格好の理由もなく、結局私は申し出を受け入れるしかなかった。

 こうして私は、時計台の地下で出会った奇妙な医師と共に、精神科の特殊病棟――正確には京都帝國大学医学部附属病院精神科分室、時計塔地下病舎――に入ることになったのだった……。

 

     6

 

 地下二階へと通じている階段は、しかしそこで終わっていた。ムムミは地下三階にいるのでは……と私は疑問を覚えたが、医師の話に拠ればこの病棟は地下五階まであるのだが(私はそれを聞いて一驚した)、更なる深部へと続く階段はまた別にあるとのことであった。

 地下二階に降り立つと、その正面は壁で厳然と塞がれており、部外者はそれ以上決して進めぬようになっていた。中に入るには壁に設けられた扉を開けるしかない訳だが、そのためにはその厳重なる扉の鍵をどうにかして手に入れるか、その脇の受付で許可を得なければならないという次第だった。

 受付は上半分が硝子になっていて、よって本来は中が見えるようになっているのだが、しかし「受付」と毛筆で大書された半紙を始め、様々な注意書きがべたべたと其処彼処に貼り付けられているために、殆ど中の様子を窺い知ることはできないのだった。

 私は試しに受付に近づき、来意を告げて面会の許可を求めてみた。すると相手――といっても貼り紙のせいでまったく顔は見えなかったのだが――の声が返ってきた。

 「面会は受け付けておりませぬ」

 どうやらこの病棟が部外者には開かれていないということは疑いない事実のようだった。だから本来なら私は、ここまで行き着いたところで門前払いを喰らう羽目になる筈で、きっとその時は途方に暮れ、今日という一日の徒労に終わったことを嘆く以外にはなかった筈なのだ。

 しかし今の私は悲嘆に暮れる必要は全くなかった。なにしろ他ならぬこの病院の医師が私を、ムムミに合わせてくれると請け負ってくれたのだから。……必ずしも私が望んだわけではないのだが。すると案の定というべきか、例の医師が私の後ろから進み出てきて、受付の女と交渉を始めてくれたのだった。

 二人の話は、とりわけ声を潜めているというわけではないにしても、なにしろ地下であるから声の反響するのを嫌ったとみえて自然に抑えられていたから、私の耳には少し聞き取り辛かった。それでも洩れ聞えてくる言葉の端々から察するに、私のような部外者を入れようとするのは極めて異例なことであるようだった。一度患者となって収容された以上、完治するまでは二度と病院外の人間と会うことができない――余程の事情がなければ――そういうことのようだった。

 そう考えると私は今更ながらにことの重大さを思い知った気がして、目眩を覚えた。精神病に罹ったといっても病院に面会にさえ行けば何の支障もなく、すぐにでもムムミに会えるものだと思い込んでいたのだ。……しかし実際は、私は二度とムムミに会えなかったかもしれず、何の自覚もないまま、そうした瀬戸際に立たされていたのだった。

 幸い、偶然にも私は、何とも都合よくこの病院の医師と――それもとても話の通じる医師と――出会えたおかげで、最悪の事態だけは回避できたわけだが。

 そして驚くべきことは他にもあった。先程出会ったばかりで、そして私をムムミに会わせてくれるという、私の恩人にも値する医師は実は、この病院の院長であるようだった。

 それにしても、どうしてこんなに厳重なのだろう?内部への侵入を阻止する堅固な壁を見て、私はそんな疑問を持った。この病棟が世間に公表されていない理由というのは先程聞いた。その時は納得もしたが……。こうして改めてその警戒の厳重さを目の当たりにすると、改めて奇妙に感じられてしまう。そもそも地上部分は法学部・経済学部の講義室として利用されているというのに、地下は医学部が利用しているというのもおかしな話だ。

 この時計塔が建設されたのは九年前。……その頃から、地下を精神病院とする意図はあったのだろうか?

 私がそんな考えを巡らしている内に、二人の話は済んだようで、私は無事に面会を許可された。但しその際に、誓約書を書くことを要求された。

 誓約書は以下のようなものである。

 

 『私こと夢野Q作は、此処で見た一切の事実を外部の何者にも口外しないことを誓います

 

    昭和九年六月十六日 午後五時

        京都帝國大学文学部三回生  夢野Q作』

 

 私が誓約書を書き終えたとき、はるか上方から、時を告げる鐘の音が聞えてきた。多少くぐもってはいたものの、鐘は確かに五つ鳴り、やがて沈黙した。

 

 

 第二章 京都帝國大学医学部附属病院精神科分室・時計塔地下病舎 

 

     1 

 

 病院自体は――地下だから薄暗いという点を除けば――入ってしまえば何処にでもある普通の病院と特に異なるような怪しげな点もなく、むしろ清潔で近代的な印象を受けた。

 長い廊下の左右にそれぞれ部屋が並んでいる。医師の説明に拠ればこの地下二階には患者の病室はなく、診察室や処置室、医師の個室、看護婦の詰所などといった病院の管理に要する施設が集中しているとのことだった。ただし保護室――つまりは暴れる患者を拘束し幽閉しておくための部屋――各階層に一室ずつあるというが……。

 私はすぐにもムムミの病室――あの看護婦の言ったとおり、地下三階にあるという――に案内されるものかと思っていたが、案に相違してまず通された先は、院長室であった。私を連れてきた医師、即ち院長はそれについて「彼女に会う前にまず説明しておかなければならないことがある」と説明したが、考えてみれば当然の話で、いくら恋人とはいえ精神病と診断されて入院を余儀なくされた患者に、何の注意もすることなく会わせる医者が存在する筈がないのだった。

 院長室はその名称に相応しい広さがあり、思わず居住まいを正さないではおれないような、威厳の感じられる部屋だった。入って左側に洋式の、恐らくはマホガニー製であろう巨大な机が据えられていて、その背に当たる壁面にはこれも黒塗りの豪奢な本棚に、背に金文字を打たれた革装の学術書が並んでいる。その辺りはいかにも医学博士の居室という格調高い調度が揃えられ、地下特有のどこか薄暗い雰囲気も加味されて、ある意味では過剰なまでの重厚感、圧迫感を私に与えた。

 他方、その印象に多少以上にそぐわない、物によっては完全に裏切ってさえいるとまで言えるのは、扉から正面に当たる壁面に据えられた金属製の事務的なガラス戸棚だった。大学の事務局にでも置いてあれば違和感も覚えないような無機質な、言ってみれば安っぽい戸棚であるが、問題なのはむしろそこに収められた奇妙な品々なのだった。……そこにあるのは一見しただけでは何とも判別のつかない、材質さえ見当のつかない、徹頭徹尾訳のわからない物体ばかりだったのである。

 「それは患者が制作した物だよ」

 私が目を奪われているのを見ていたのだろう、医師は言った。彼は既に自分の持ち物であるところの椅子に腰を下ろしたところだった。

 私は奇妙な品々を眺めながら言った。

 「患者の制作したもの……ですか」

 「ああ。精神病患者の病状を探るため、それと回復を促すためというのもあるんだが、何でもいいから作らせて見るんだ。なにしろ精神病というのは、普通の肉体が罹る病気とは違って目には見えないものだから、症状がわかりにくいだろう?この患者は一見まともそうだが、実際はどの程度まで症状が進んでいるのかだとか、どんな症状なのか、そもそも病根は何なのか……等等。それを知るために我々精神科医は患者と対話してみるわけだが、さてさてこの患者はどんな奇妙な病に罹っておるのかと聞き出そうとする。しかし相手もさる者で、素直な連中ならいいのだが、中には治療に反抗的な輩もいる。中には猪口才な奴もいて、口からでまかせを並べ立てて我々を煙に巻くことだってする。……なにしろ連中は精神を病んで入院して拘束されているとはいえ、自分では正常でいるつもりだし、中には普通人などより余程頭の回る奴もいて、医者だからとえばりくさりおって、お前等など我輩より余程知能が劣るくせに、我輩を狂人扱いとは片腹痛い、いっちょからかってやれ……とばかりに、やたらめったら思い付きを口にする。しかもなまじ頭が回るものだから、ちょっと聞くだけではまったく嘘とはわからない、ことによると真実よりよっぽど真実めいたことを口にするし、時には学問上非常に価値のありそうな、研究欲を書き立てられるような絶妙な嘘をでっちあげることもある。むろん熟練の精神科医ならそんな時にも冷静を保ち、これは危ないな、いかにももっともらしく聞えるがこれは作り事だな、とわかるものなんだが、中には若い未熟な医者とか、名誉欲に駆られた野心的な研究者なんかがまんまとこの手に引っかかってそんな嘘八百にのめりこんで何年もかけて大論文をまとめ上げた挙句、その論文発表の前日になって「先生……あれは全部嘘ですよ……」などと囁かれて忽ち顔面蒼白、それこそ発狂して自殺してしまったなどという話だってあるのだよ」

 あまりの話に私は眼を丸くした。

 「そんな、いくら何でもそれは嘘でしょう、先生。精神のプロフェッショナルである筈の精神科医が、素人風情……それも精神を病んだ連中に、反対にやっつけられるなんて……」

 「まあ、そう聞えるだろうね。しかし私に言わせれば、それこそ精神病というものに明るくない普通人の認識というものなのさ。

 まあ話を戻すと、とにかくそんな一筋縄ではいかない連中がいるものだから、彼らの言葉を頭から信ずるわけにはいかない。そこでどうするかというと、彼らに自由に絵を描かせたり、適当な材料を与えて何でもいいから作らせてみるのさ。するとどうなるかというと、もちろんそんな連中は性根がねじくれているから警戒するのだけど、なにしろ全然娯楽のない生活を送っているわけだから、すぐに乗ってくる。といっても最初の内は誰でも簡単な物しか作れないわけだが、教える人間なんていなくともそれなりに上達する。そうなればしめたもので、次第に熱中して凝り始めてくるんだ。おまけになにしろ時間ばかりはあるものだから、精神病舎特有の病的な集中力と神経質とをもって、常人には思いつかないとんでもない制作をする。

 こうしてできた制作物はもはや単なる工作を越えて、もはや患者の精神そのものの具現化といってよい代物になっている。特に患者が夢中になればなるほどにその傾向は顕著で、要するにその時の患者はもはや自分の真実の姿を細工しようとか隠そうとかいう余計な意識を働かせておらず、彼らの無意識の部分を自然と出してしまうんだ……それも、病根に限りなく近い部分をね。更に言うなら、こうした作業が彼らが無意識と直接対話する契機となっているので、それ自体が治療行為となっているのだよ」

 私は感心し、改めて棚に並べられた品々に見入った。そう言われてみれば不思議なもので、確かに他ではちょっと見ることの出来ないような珍奇な、けれど不可思議な美しさを湛える制作品も中には混じっている。例えば……

 ・美術の知識などまるでないという文盲の農民が作った、太古日本の大地を造り給うたという『真なる神』の姿を象ったという神像。およそ現実の生物にはありえない形状をしているが、独特の奇妙な崇高さを湛えている。

 ・突然発狂して、意中の女性の口に不死の丸薬と称して無数のサイコロを捻じ込もうとした大学生が描いた油彩画。ある日彼の目の前に現れて契約を迫ったという悪魔の姿を描いたもので、執拗なまでに細かいタッチで犬か老人に似た奇妙な生物を描いている。

 ・八歳の誕生日に突然「自分はかつて大西洋に沈んだ古代大陸の神官の生まれ変わりである」と言い出した少女が記した文字列。これは現世へ転生してくる前にあの世で見たという『神の名前』を記したもので、現在判明している世界のどのような文字とも異なっている(ただ残念なことに、彼女自身にもその読み方は覚えていないという)。

 このような秀逸な作品がある一方で、どのような観点からも到底美しいとは言えそうにない、単なる珍奇な代物である以外何物でもない作品も多かった。

 ・堅い木の塊をひたすら彫って作り上げた海胆の模型。その針を一本一本精密に彫刻刀で彫り上げているために何度も手に刺さったものとみえて、全体がうっすらと赤黒く染まっている。

 ・前世の恋人を甦らせようという意図の下に描かれた描きかけの肖像画。まず画布上に女の背中側の皮膚を描き、次にその上に被せるようにして脂肪や血管の一本一本を描き、順に筋肉、骨格、内臓まで描き、再びそれに肉や皮を描きこもうとしていたという。残念ながら作者である患者が内臓を描く途中で死亡してしまったため、画布上に油絵の具が五センチも盛り上がった状態のまま放置されている。

 ……そうした奇怪な品々を恐々と眺めていた私は、ふと棚の隅に置かれた何の変哲もない、文書の束に目を留めた。何となく気になって手に取り、おかしな和歌が書かれた表紙を捲ってみると、そこにタイトルらしきものが記されている。

 「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」

 医師はいつになく気楽そうに、椅子の上からうなずいた。

 「うん。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現した珍奇な、面白い製作品の一つだよ。……といってもそれは原本ではなくて、十年以上前に九州帝國大学医学部の精神科の病棟に当時収容されていたという若い大学生の患者が一気呵成に書き上げて、担当の精神科に提出したという文書、その写しだよ」

 「へえ…………」

 生返事をしつつ頁を捲ってみると、それはどうやら小説らしかった。といってもざっと見ただけでも唄の文句らしきものが長々と入っていたり、新聞記事のような文章がそのまま差込まれていたり、およそ世間に流布する一般的な小説の観念とはかけ離れていることはわかった。

 「でも……どうして、九州大学の患者が制作したものの、しかも写しが此処にあるのですか」

 「それは勿論、その小説……というか論文といった方がいいのか不明だが……が、滅多にお目にかかれないような、学術的にも非常に研究価値のある貴重な資料だからだよ。なにしろ九州大学の精神科といえば少し前にとんでもない研究結果を発表して、日本の精神学界の大注目を集めたんだが、その理論の根幹に深く関わっているのがこの文書なんだ。だからそれにあやかるという訳じゃあないが、九州大学の後に続けとばかりに、今ではこの文書の写しが全国の帝國大学の精神化には必ず置いてあるというわけなのさ……

 ……しかし、それはそれとして、そろそろ本題に入ろうではないかね。君とて、早く愛しの許嫁に会いたいだろう?」

 そうだ。……そういえば。

 呆れたことにその時ようやく、私はこんな場所にまで足を運んだそもそもの理由を思い出した。私はムムミに会いに来たのではなかったか。

 私は恥じ入り、勧められた椅子におとなしく腰を掛けた。

 「そういえば」

 それを見届けた後、医師は口を開いた……。

 「自己紹介がまだだったね。私は阿部功漢(あべこうかん)。本学の精神科の教授で、一応ここの病棟の責任者をやらせてもらっている」

 「僕は文学部の三回生で、夢野Q作と言います。……阿部先生、先程は口添えをして頂いてありがとうございました。収容された患者に面会できないなんてしらなかったものですから……」

 「なに、礼を言う必要なんてないさ。私としては、君に会うことでムムミ君の治療が少しでも進展するのではないかと期待しただけのことなのだからね。なにせ私は、彼女の主治医なのだからね……」

 「え?先生が……ムムミを診て下さっているのですか?」

 私は驚きの声を発した。そんなこととは全く知らずに、偶然にムムミの主治医に会っていたということの意外な成り行きに。こんな偶然があるだろうか?

 それにしても不思議なのは、先も気に掛かったことだが、彼がムムミの姓名を覚えていなかったということだった。はたして主治医ともあろう者が、どんな事情があるにせよ、患者の姓名を覚えていないなどということがあるだろうか?

 すると阿部博士は、薄い笑みを浮かべて言った。

 「意外だったかね?まあ無理もない。私は担当患者の本名もろくに覚えていなかったのだからね」

 「いえ、そんなことは……」

 私は慌てて否定しようとした。まるでこちらの内心を読まれたような気がしたのだ。だが、博士なら……優れた精神科医である博士なら、或いは私などの心を読むことなぞ造作もないのではないかと思え、つい言葉を濁してしまった。

 こちらの思いを知ってか知らずか、博士は人のよさげな微笑を浮かべた。

 「君がおかしく感じたのも無理はない。……いや、彼女の名前のことだがね。しかしそれは私が患者に興味がないということを意味しないし、私一人ではなくこの病棟の他の医師や看護婦・看護人も含め、皆がそうなのだよ。先程の釈明を繰り返させてもらうことになるが、ここでは患者の本名には重きを置いていないんだ。君には奇異に思えるかもしれないがね……」

 「はあ。……というのはやはり、患者を別の呼び方で呼んでいるということでしょうか。……その……番号とか……」

 監獄のように。……とは、さすがに言えなかったが、そう考えると私は精神病院というものの実態を見たように思え、堪らずに目を伏せた。

 噂には聞いていたが、患者を一人前の人間として扱わない精神病院の姿勢……それは勿論、この一事に尽きないであろう……空恐ろしく、忌まわしい暗部……。

 と、突然、アハハ……という笑い声が聞え、私は思わず眼を上げた。見ると阿部博士が椅子に座りながら、愉快そうに口を開いて大笑している。

 呆気に取られて見ていると、博士は顔の前で手をひらひら振って言った。

 「いきなり笑い出したりしてすまないね。……アハハ、いや、私の言い方が悪かったせいで、とんでもない誤解を与えてしまったようだ。しかし夢野君、いくらなんでも監獄じゃあるまいし、患者をまるで囚人のように番号で呼ぶなんて非人道的な真似はしないよ。……まあ、少なくともここではね」

 博士はまだ笑いが収まらぬようであった。私は恥じ入って赤面しながら、同時に救われたような気分にもなった。

 一つには、どうやらムムミが当たり前の人間として扱ってもらえているらしいことがわかったため。そしてもう一つは……自分が愛して已まない母校たるこの京都大学で、そのような旧時代的な、非人道的な振る舞いが為されていないらしいことがわかったため……。

 ……とはいえ疑惑が完全に晴れたわけではなかった。阿部博士はああ言ったが、現に患者の名前を覚えていないというのは、彼らの人間としての尊厳を踏みにじる振る舞いと言えるのではないのか。その別の呼び名というのが、どんなものであろうと……。

 私は正直にそのことについて、しかしあくまで婉曲的に指摘した。それでも私は相手が気分を害すのではないかと案じたが、博士は「たしかに君の言うとおりだ」と鷹揚に笑って言った。

 「しかし夢野君、こう言えば正義感の強い君も、恐らく納得してくれると思うのだが……。別の名前で呼ばれるというのは、実は患者自身が望んだものなのだよ」

 「え?……どういうことでしょうか」

 「うん。実はそれは、この病棟の患者全てに共通した、ある特殊な症状に深く関与しているのだが……。実はこの地下病棟は全て同じ精神上の病を発症した患者ばかりを集めたものなのだが、その彼らの典型的な症状の一つというのが自分の本名で呼ばれるのを酷く嫌がるというものなんだ。いや、嫌がるというより完全に拒絶しているといってもいい。我々が彼らの本来の名前――これはつまり戸籍上の姓名ということだが――で呼び掛けると彼らは必ず厭な顔をするし、中には全く反応を示そうとしない患者だっている」

 「どうしてそんな……」

 「うん。彼らの言い分はこうだ。『先生の仰るところのその私の名前というのは、たしかにこれまでの私がそう呼ばれてきたところのものであるが、しかし所詮はこの世における仮の名前に過ぎないのであって、決して私の本来の名前ではないのです。よって今後はそんな名前を以って呼びかけられても私は全然自分のことを指しているとは思わないし、だから返事をするつもりはありませぬ。貴方方はこの点をよくよく理解し、以降はそのことを徹底してくださるよう、お願い申し上げる次第です』……とまあこんな具合なんだ。

 もちろん患者がこんなことを言い出したからといって、彼らを治療する側である我々がはいそうですかと聞き入れて、黙って従う道理はない。とはいえ精神科医の仕事というのはまずは患者に腹を割って話をさせることが何より肝要なのであり、そのためには相手の土俵に立って接することが求められるという事情がある。……何より、呼びかけても反応すらしてもらえないというのはいくらなんでも日々の実務に支障をきたしてしまう。

 とまあ以上のような事情があって、ここでは治療に悪影響がでない限りは患者の要望を優先し、彼らの『本来の名前』――これは患者が主張する名前だが――で呼びかけることにしているのだよ」

 なんとも奇妙な話ではあったが、それでも博士の主張するところは首肯することができた――確かに患者本人が望むことであれば、別の呼称で呼んだとて非難する余地はない。そしてそうした事情であれば、本名に重きを置かないこととて無理のないことであろう。

 それより、気になるのは……。

 「お話はよくわかりました。しかし先生、お聞きしたいのですが、……つまりはムムミも、ここの他の患者と同じく、別の名前で呼ばれているのでしょうか。ムムミというのは私の名前じゃない、私にはちゃんと別の名前があるのだから、そちらで呼んでくれ……などと、狂人めいたことを口走ったということでしょうか」

 「もちろん、そうだよ……君には認めたくないことかもしれないが。なにしろこの病棟の患者は、皆が皆同じ症状を呈しているのだからね」

 「なんというのですか……。その、ムムミが主張しているという名前は?親から頂戴したムムミという名前を捨ててまで、そう呼ばれることを願った名前というのは……」

 「本当に聞きたいかね?もっとも、知ってもらわねば彼女に会わせることはできないが。……つまりは、まだ引き返せるということだ。君にはまだ、彼女に会わずにこのまま変えるという選択肢もあるのだよ」

 「構いません。教えてください」

 「聞いたら、もう後戻りはできないよ。覚悟はあると考えていいのだね?」

 「後生です、先生。教えてください……。ここまで来て、会わずに帰るなどという真似ができるでしょうか?そんな話を聞いて怖気づくくらいなら、私はそもそも彼女に面会になど来なかったことでしょう。ムムミが精神病に罹ったことで、私たちの両親はもう婚約を解消する気でいるのですから、私は会いに来なくてもよかったのです。それを推して愛に来たのは私には世間体など問題ではなく、偏に私が彼女を愛しているということ、精神病に罹ったといってその愛に些かの翳りも生じないという証明なのです」

 私は必死に訴えた……この機会を逃せばきっと、もう二度とムムミに会うことはできないに違いないのだ。ムムミは私の全てなのだ。彼女のいない人生など、私には想像するべくもないというのに!

 「よく言ってくれた。それだけの覚悟があるのなら、私としても何も案じることなく君を彼女に会わせることができるというものだ。それでは教えよう。彼女は今……『ハル』……と呼ばれている。他ならぬ彼女自身が、そう主張したのだ」

 「……『ハル』……?」

 聞かされた名前を私は、オウム返しに呟いてみた。その耳慣れぬ名前を……。

 ハル……。

 ムムミが……私の愛する許嫁が……ハル?

 私はしばし瞼を閉じ、心の中のムムミの像に向けて、試みに『ハル』と呼びかけてみた。その名……彼女が真の名前だと言ったという名……が果たして、彼女に相応しいものなのか確かめようと思って……。

 ……しかし何度試してみても、『ハル』などという名前が『ムムミ』以上に彼女に相応しい名前だとは思えなかった。あの可愛らしい、聡明で心優しいムムミに、ハルという名……ハルなどと言う単純な名前が似合うなどと、どうして思うことができるだろう?

 何故だ、ムムミ。どうしてしまったというのだ?

 ハルなどと言う名前、君には似合わないじゃないか……。ハルだって?そんな名前、逆立ちしたところで君のムムミという名前には敵わないに決まっているじゃないか。君はムムミでムムミであって、ハルなんて名前じゃないはずじゃないか。僕は今まで一度だって君をそんな名前で呼んだことはないというのに、どうして君はあの愛らしいムムミという名前よりハルなどと言う訳のわからぬ名前を選ぶのだ…………?

 「君……」

 全くムムミはしょうがない奴だな……。いつも僕を困らせて……。ムムミはしょうがない奴だ……しょうがない……。

 「君、君!大丈夫かね?顔色が優れないようだが……」

 私はハッとして顔を上げた。見ると、阿部博士が様子を窺うように私の顔色を見ている。

 やめてくださいよ先生……そんな、患者を診るような顔で……。

 「いえ、僕は大丈夫です」

 「無理をすることはない。自分の身近な人間が、突然おかしなことを言い出したと知ったら面食らうのは当たり前だからね」

 そうだ。全くその通りなのだ。あのムムミが、自分はムムミという名前ではないと言ったなどと、人づてに聞くだけで私の精神に打撃を与えた。阿部博士の口から聞いたのでなければ、到底信ずることすらできなかったであろう。それほど、私には思いがけぬことだったのだ。

 それでも、私の受けた衝撃はまだ軽いものだったのだろう。この目で彼女がそんなおかしな発言をするのを見たわけではないし、前もって心の準備をすることができたのだから。しかしその豹変を目の当たりにした人々……四六時中彼女と一緒に生活していた筈の彼女の家族が受けた衝撃は、計り知れないものであったに違いない。

 ……どうやら、私はムムミが精神病に罹ったという事実の深刻さを、充分に受け止めていなかったのではないだろうか。いやそれどころか、あの美しいムムミが精神病になったということ事態を、心のどこかで信じきれていなかったのだ。そんなのは単なる誤診か、或いは事実であったにせよ、ごく軽いものに過ぎず、すぐにでも完治してしまうだろうとどこかで楽観視していたのだ。そう、思い込もうとしていたのだ。

 しかし現実はどうだろう?事態は私の思惑など省みず、その深刻な様相を曝け出そうとしている。……まさかあのムムミが、自分はムムミではないなどと錯乱したことを口にしているなんて……一体、これが精神病というものだというのか。

 「阿部先生、お聞きしたいことが……」

 「なんだい……」

 「ムムミは、その……いわゆる、精神分裂症というやつなのでしょうか?」

 「ほう……おやおや」

 博士は、どこか面白がっているように私を見た。

 「君はたしか文学部の学生だと言っていたが、心理学まで齧っているのかね?」

 「いえ、そういう訳では……。ただ、ムムミが精神病に罹ったと聞いて、一応自分なりにどのようなものか調べてみただけで……」

 「感心感心……勉強熱心な学生は好きだよ。よいことだ。……まあ君の場合、知的欲求というよりかは性的欲求に突き動かされているのだろうがね」

 「せ、性的欲求……!」

 相手のあまりにあけすけな発言に私は頬が紅潮するのがわかった。もっともその要因としては、恥かしさよりも怒りの方が大きかったが……。

 「そ、そんな言い方は、あんまりです!」

 「アハハハ……ハ、ゴホッ……ゴホ……いや、すまない、すまない。悪気はなかったんだ。なにしろ我々の心理学にとっては性欲というのは、実に重要な概念なのでね、何事も性欲の問題で片付けようとする性向があるといった次第でね。

 それはそれとして、君の指摘はなかなか鋭い所を突いているといいうことができる。要するに君は、患者が自分の本来の名前を拒否し、別の名前で呼ばれたがっているということから推理して、精神分裂症ではないかと推理したわけだね。たしかに、精神分裂においては別人格は主人格とは別の名前で呼ばれたがることがあるから、これは妥当な推論だと言えるだろう。

 だが夢野君、残念ながら今回の場合――つまりは君のムムミ君も含めてこの病棟の患者にとっては、君の推理は当てはまらない。といっても別に落胆するには及ばないよ。何しろこの病は一般には知られていない奇病なわけだし、我々の精神科学界においては、論理的に組み立てられた推論が現実のケースにはうまく当てはまらないなんてことはしょっちゅう起こるものだからね……。それは別に我々の力不足でもなんでもなく、我々精神科学界の分析対象である人間の精神というやつがそもそも論理ではすっきり割り切ることができないような非理性的なものなのだから、仕方がないことなんだ。ある恐怖症の患者を治療するのに有効な手段が見つかったからといって、同じような症例の患者にそれを施しても全く役に立たないことがある。そういうものなのさ。

 だから我々が取り組んでいることというのは要するに、「心」などという非理性的・非合理的な実体のない代物を、近代の唯物主義的・合理主義的な方法論で解明しようなどと言うわけで、そもそも無理があるとも言える。だから他の学問と同じように教科書的な頭でっかちの方法論じゃあ全く役に立たないのさ。特に精神病患者が相手となると、彼らには我々の当たり前の思考方法や論理構造が一切通用しないわけだから、もっともらしい推論などよりもむしろ直感的な、一見すると突拍子なく思えるくらいの分析の方が却って正鵠を射ていることが多いんだ。彼らの病気を真に理解する為には、我々精神科医もいっそのことその脳髄に、患者と同じ位の狂気を飼い慣らしていないといけないのかもしれないな。

 はて、何の話をしていたのだったかな。

 ……ああそうだ。ムムミ君が精神分裂症かどうかという話だったね。いやすまない。話を脱線させるのは私の悪い癖でね。

 結論を言うと、君の恋人は精神分裂症ではない。先程言っただろう?この病棟にはある特殊な、とても珍しい症例の患者しかいないのだと。精神分裂症はまあ珍しいものではあるがどこの精神病院にもいるし、なにより広く知られている。こんな地下に閉じ込めて陽の目を浴びせないようにするような病気じゃない。

 この病棟の患者の特異な点は、精神分裂症の比ではない。もっと珍しい、世間に未だ知られてはいない奇病なのだよ」

 私は悪戯に威かされているような心地がして、生唾を飲んだ。知らず知らず握り締めていたらしく、掌は汗でびっしょりと濡れそぼっている。私は逃げ出したい衝動を堪え……どうせもう逃げられないのだ……僕にはもうムムミに会うしか道は残されていないのだ……と思い、覚悟を決めて尋ねた。

 「何なのですか……その、奇病というのは」

 博士はにやりと笑い、これからとっておきの秘密を語るのだ……とでもいうように、声を潜めて言った。

 「…………輪廻(りんね)(しょう)さ…………」

 

     2

 

 「……リンネショウ…………?」

 聞いたこともない病名に私は戸惑いを覚えた。その病に罹ったというムムミの……私の最愛の恋人のために、悲しんだらよいものか、それともなぁーんだ……と安堵したらよいものか、それすら判断がつかなかった。

 「リンネ症……。リンネというのはアレですか、先生。外国の学者で、植物の分類をした……」

 そう言うと、博士は愉快そうに笑い始めた。

 「アハハ……ハ……ゴホッ……ゴホ…………。失礼。いやしかし、なにも十八世紀の外国の博物学者の名前まで持ち出す手間はいらないよ。リンネというのは日本語さ……仏教用語で言うところの、輪廻転生から来ているのさ。つまり、生まれ変わりのことだよ」

 「ああ、そっちのリンネですか……」

 輪廻……。輪廻転生……。勿論その言葉は知っている。

 生まれ変わり…………。

 …………エ…………?

 「あの、どういうことですか?輪廻……転生……そんな、生まれ変わりなんて、そんな馬鹿げた……非科学的な現象がこの世にある筈がないじゃないですか」

 私はからかわれているのだと思った。前近代的な封建時代ならいざ知らず、唯物主義が席巻した今の、昭和のこの日本国において……それも、こともあろうにこの帝國大学の敷地内において、生まれ変わりなぞというナンセンスな言葉を聞かされるとは……。

 しかし博士は思わせぶりに「さて、どうかな……」と言い、私の驚愕する様をニヤニヤと笑って眺めるばかり。

 私はゾッと寒気を覚えた……。といってもむろん、輪廻なぞという非科学的な迷信を真に受けたわけではない。阿部博士が正常か……もしや狂気に囚われているのではないか……と、その頭脳を危ぶんだのである。

 しかし……。

 「なぁんてね……。冗談だよ。もちろん生まれ変わりなど、あるわけがないさ」

 「ですよね」

 その冗談めかした口調に私は安堵を覚えた。……我ながらどうかしている。この頭脳鋭敏たる阿部博士の正気を、一介の学生に過ぎぬ私が疑うなんて……。

 どうも私は、地下という重苦しい閉鎖的空間に閉じ込められているせいで、疑心暗鬼になっているのかもしれない。

 気を取り直して私は聞いた。

 「しかし先生。だとすると、輪廻症というのは何なのでしょうか」

 「うん。それは勿論これからちゃんと説明するつもりだが、その前に改めて約束してほしい。というのは、輪廻症という精神上の病のあることを、決して他所で口外しないということだ。先にも言ったがこの精神病は非常に稀にしか見られない珍しい病で、人間の精神上の謎に深く関わる、学術的に極めて貴重なデータを提供してくれるものなんだ。だからこそ大学上層部も我々の研究に期待し、大学の新しいシムボルであるこの時計塔の地下に、わざわざ専用の研究施設を用意してくれたという次第だ。

 この研究が成功した暁には我々京大医学部精神科のこの上ない名誉となることは間違いないし、現在の精神医学会における九州大学の地位を脅かすこともできるだろう。……いや、大学の名誉など問題ではない。何より重要なのはその研究成果が人間存在そのものの本質に迫る、心理上の重大なる法則を解き明かすであろうということに他ならない。だからこの研究は私にとって比喩でもなんでもなく、生命よりも大事なものなんだ」

 このように話す阿部博士の表情はいきいきと輝いており、私の眼には崇高なる威厳を湛えているようにすら映った。その口調を熱に浮かされたようであり、その熱とは即ち、知識に対する抑えがたい欲求であり、真理への渇望に他ならないのであった。

 私は感銘を受けた。世俗人の持つ単なる私欲とは全く次元を異にした、なんと清新にして純粋なる欲求であろう。学問の発達に……そして人類の進歩にその身を捧げて惜しまない、なんと高潔な精神であろう。阿部博士こそまさに研究者の鑑であり、この大学の誇る尊敬すべき科学者であった。

 私はもちろん、輪廻症について口外しないことを固く博士に誓った。それどころか博士の研究に、自分にできることなら何であっても、骨身を惜しまず協力すると申し出た。私もまた学問の世界に、その末席ながら籍を置く者であるのだから。

 それに、私はこの大学を心から愛している。この大学の名誉となることなら、どうして私が邪魔することができるだろう?

 私の誓言を聞いて、阿部博士は満足げに頷いた。

 「ありがとう。そう言ってもらえると助かる……ムムミ君の治療には、君の力が必要になるだろう。君を信用して、何もかも話そう。

 そこでまず聞いておきたいのだが、……君は生まれ変わりを信じるかね?」

 「信じません」

 私はほとんど考えもせずに即答した。明治の昔ならいざ知らず、この昭和の時代に生まれ変わりなど信じられる筈もない。 

 「阿部先生とて、まさかそんな非科学的なものが存在すると仰るわけではないでしょう」

 「まあそうだね。私とて生まれ変わりだの死後の世界だの、生霊だの死霊だのといったものをそのまま信じているわけではないよ。ただ君と少し違うのは、そうした非科学のものを全くのナンセンス、無知蒙昧な群集の迷信とうっちゃってしまうのではないということだ。それはあくまで現在の科学の研究対象とはなり得ないというだけで、そうした事象の全てを切り捨ててしまうのはどうかと思うのだ。

 例えば、最近ではそれこそ少なくなってしまったとはいえ、一昔前――明治や大正の御世の頃――の新聞はずいぶん賑やかなものだったのだよ。今の新聞記事なんかは大抵が我々人間社会の出来事ばかり、その中でも政治やら軍部関連のきな臭い記事がほとんどだが……おっとくわばらくわばら……昔はそうではなかった。それこそやれ河童が出ただの、雷獣が降ってきただの、鬼、予言獣、死霊に生霊、と人間存在以外の連中が起こした事件で大賑わいだったのだ。

 もちろん新聞記事を書いている記者などというのは、大半がきちんと大学教育を学んだ秀才連中なわけだから、こんな類の事件は非科学的だとか、見間違いに違いないなぞと但し書きしながら世間に紹介しているわけだが、それでも大新聞の片隅に載っていることだから、信じた読者は随分と多かっただろう。というより、元々信じていたのが補強されたというのが正確だろうけどね……。

 さて、そんな幽霊・妖怪が大活躍していた明治時代の新聞に、こんな記事が出ている。ちょっと読んでみてくれないか……」

 そう言うと博士は例のマホガニー製の机の抽斗から、黒い合成革の表紙の古びたファイルを取り出し、ある頁を開いて机に広げた。私が机に近寄ってみると、それはどうやら古い新聞の切抜きを貼り付けたものであるようだった。

 

 「どうだね。読んでみての感想は……」

 私が読み終えたのを見計らって阿部博士が声を掛けてきたが、私は「どうといわれましても……」と言葉を濁すしかなかった。

 それは明らかに取るに足らない、どころか私からすれば噴飯ものの、真実性の欠片もない出鱈目な記事であった。田舎の村娘が突如として「自分には前世の記憶がある」と言い出し、自分はその生まれ変わりなのだと称して人々を驚かしたという、それだけのことである。こんなものが新聞記事となって良識ある民衆の目を汚す、だけならともかく、無知な人々の無知蒙昧を助長したのだと考えると、私にはもはや害悪だとしか思えない。

 しかしそれを正直に言ってよいものだろうか、と考えると判断のつきかねるところだった。博士がこの記事をわざわざ見せたことを鑑みれば……。

 「そうですね。まあ……なんというか……おかしな話ですね」

 結局、当たり障りのないことを口にして、私はお茶を濁した。

 しかし……そのような煮え切らない返事に、阿部博士は満足しなかった。

 「ほう。おかしいというのは、どういうことだね?この唯物主義全盛の時代、昭和の現代日本に転生などという神秘現象が現実に起こったようだから、おもしろいというわけかね?」

 「いえ……」

 それでは、転生が実際に起こったと認めることになってしまう。私の良心がそんなまやかしを認めるわけにはいかない。

 「おや。それでは何がおかしいのかね」

 私は観念して、正直な感想を述べた。

 「おかしいというのは、前世の記憶があるなどというこの記事の少女の発言です。つまり、この世で人間が生まれ変わるなどという馬鹿げた、いえ非科学的な現象が起こる筈がないというのに、この少女はさもそれが真実であるというように、明らかな妄言を口にしている。それだけでもおかしいというのに、周囲がそれを真に受けて評判になり、ついには新聞記事にもなっている……。こうした事件の全体が、おかしな話だという意味です」

 「なるほど。つまり、君はこの記事の少女が嘘を吐いているというのだね」

 「勿論、そうです」

 「ふむ。一体、なぜ彼女はそのようなすぐに嘘とわかる、訳のわからない嘘を吐いたのだろう。だって、そんなことをしても彼女には何の得にもならないというのに。君はどう思う?」

 正直な気持ちを言えば、知ったことではなかった。会ったこともない、とんでもない法螺吹きの子供が何を考えていたか、なぞ……。しかし博士はムムミの主治医であり、また博士の研究に協力するなどと先程口走ってしまった手前、そうも言えなかった。

 仕方なく、私は思い付きを口にした。

 「そうですね。僕などには、なかなか想像もつきませんが……。つまりこの少女は、注目を集めたかったのではないでしょうか。奇矯なことを口にすることで、世間の耳目を集めたかったのです。……実際、こうして新聞に取り上げられるまでに評判になったわけですし……」

 「なるほど。妥当な推測だ。一見すると何の意味もない、不合理にしか見えない言動をしているように見せて、その根底には実に近代人らしい合理的な打算が働いているというわけだね。たしかにそれが普通の……少なくとも学術的な訓練を積んだ人間にとってはふさわしい見解だろう。……しかし夢野君、実は私の見解は少しばかり異なっていてね……。私はこう思うのだよ。つまり、彼女は別に、嘘を吐いてはいないのだよ」

 「……えっ…………」

 私は絶句した。博士は何を言っているのだろう?

 「嘘ではない、ですって……。じゃあ、彼女の言っていることは事実だとでも仰るのですか?それはつまり……彼女に前世の記憶があるということ、そして今の彼女がその生まれ変わりであるということが?」

 そんなことがある筈がない。そんな馬鹿なことが……。

 私は自分でもよくわからない不安感に囚われ、博士を見た。博士は何を言いたいのだろう?まさか阿部博士がこんな世迷言を信じている筈がない。研究者の中の研究者、知性の権化である博士が……。

 博士は先程、幽霊や妖怪のような非科学的なものでも、それは現在の科学の対象ではないというだけで、その全てを否定できるものではないと言って、この記事を私に見せた。……ということは、この記事の内容に、真実が含まれているということだろうか?一見たんなるオカルトとしか見えない事象にも、一片の真実があると……。

 しかし……輪廻とか、生まれ変わりなんぞというものに、どんな真実がありうるというのだ……。

 私の理性の、なんと貧弱なことか……。私は容易く不安に陥り、阿部博士を仰ぎ見た。偉大な科学者である博士に私の蒙昧を吹き飛ばしてもらいたいと思い……。しかし博士は意味深長な視線で私を見るばかりで、一層不安を掻きたてた。

 ……と……突然博士は身体を大きく折り曲げ、愉快そうに笑い出した。そしてポカンと見守る私に言った。

 「いや、悪い悪い……ちょっと君の理性がどれだけ強固なものか、試験してみようと思ってね……。どうやら君の理性は、磐石とは言えないまでも、充分に堅固なもののようだ」

 「試験……?」

 私はしばし唖然とし、次いで当然ながら猛然と腹を立てた。

 たしかに私はまだ未熟な学生の身であり、あちらは地位ある医学博士だが、しかしだからと言ってこのような意地の悪い試験をされて憤慨しないでおられようか。理性の試験をするなど、まるでここの患者扱いではないか。

 憮然とする私を宥めるように博士は言った。

 「そんなに怒らないでくれたまえ。弁解させてもらいたいのだが、これは必要なことだったのだよ。何故なら、君も知っていると思うが狂気と言うものは伝染するものだからね。君が実際にこの精神病院に足を踏み入れ、そして実際に患者を見たり触れ合ったり対話を交わす為には、君の理性が彼らの狂気に耐えうるほど堅固なものかどうか確かめるのは非常に重要なことなのだ。患者の面会に来てもらったはいいが、その度に患者の絶対数がネズミ算式に増えていくというのは、正直ゾッとしないからね」

 「それはわかりますが……」

 「付け加えるなら、これは患者のためでもある。君も知っている通り、患者の精神というのはとても繊細だ。君からすれば彼らは皆が皆おかしな思い込みを抱いていて、我々にとっては無益な妄想を後生大事に抱いていると思うだろう。しかしたとえそんな馬鹿馬鹿しい妄想であっても患者にとってはとても大事な、時によっては生命よりも大切なものであることを決して忘れてはならない。だから彼らはそれを否定されたり取り上げられたりするのを何より嫌うし、その時には逆上して半狂乱になって暴れるだろう。……そうなれば君の生命とて危険に曝されるわけだし、患者の治療にとっても大きく後退してしまい、場合によっては二度と元には戻らない。或いは悶死してしまうことだって十二分に考えられる。この病棟は原則として面会禁止だといったが、それにはこうした事情もあるのだよ。

 わかってもらえたかね?その原則をあえて破って君を招き入れ、彼女に会わせてあげるのだから、私としては万に一つも問題を起こしたくはないのだよ」

 その真摯な言葉を聞いているうちに、私の怒りは治まっていった。博士の口にしたことは理に適っているし、何よりもそれは彼の担当する患者であり、そして私の最愛の恋人であるムムミの症状が、万に一つも悪化してはならないという優しさから来ているのであるから。医者は患者にとって親も同然だというが、阿部博士の温情はまさに親心の如きありがたいものであった。

 そう思えば、私は反対に申し訳ないとすら感じられてきた。先生が言うとおり、私がムムミに会えるのは彼のおかげに他ならないのだから。阿部博士の口添えがなければ私は、あの地下二階にあるこの病棟の受付で門前払いを喰っていたに相違ないのだ。私は彼に感謝こそすれ、怒りをぶつける筋合いなどまるでないのだ。

 「申し訳ありません。先生がそこまで考えていらしたというのに、僕は……」

 「わかってくれればいいさ。たしかに私のやり方はいささか不躾だったからね」

 阿部博士が鷹揚に赦してくださったのを見て、私は改めてこの医師に対する敬愛の念を深めた。卓越した頭脳と高潔なる精神、これほどに素晴らしい学者が他にいるだろうか?

 「さて、それでは改めて、輪廻症の説明を続けようか。先程は君を試すためにもったいぶった言い方をして混乱させてしまったが、もちろん彼女に本当に前世の記憶が残っているなど学究の徒である我々が鵜呑みにするわけにはいかないし、誰かの生まれ変わりなどという話を認めるわけにもいかない。しかしだからといって君が推理したように、彼女がある打算の下に、世間の注目を集めようとして嘘を吐いたということでもないのだよ」

 「どういうことでしょうか?」

 「彼女には嘘を吐いたつもりなどなかったんだ……少なくとも、意識的にはね」

 「というと……」

 「つまりこの記事の彼女にとっては、それは嘘などではなく真実だったのだよ。彼女は本当に自分には前世の記憶があるのだと信じていたし、自分がその生まれ変わりなのだと思い込んでいたんだ」

 私は一驚した。私の常識から考えれば、およそ考えられないような、信じがたい話だった。どうしてそんな人間がありえよう?江戸の昔ならいざしらず、文明開化から幾十年も過ぎた大正の御世に、子供とはいえそのような非科学的なことを、本気で信じることができる人間がいるなんて……。

 呆気に取られる私に、博士は説明を続ける。

 「君にはこの事件がとりわけおかしなものに思えるだろうが、実はこうした事例はそれほど珍しいものではないのだよ。記録にこそあまり残されていないが、この少女と似たような事例は古来から報告されて来ている。

 例えば摂津の国の旧家に伝わる古文献である『無円抄』という書物には、先年死んだ筈の父親が自分の息子として生まれてきたという天平時代の奇談が報告されている。奈良時代の僧侶である景戒(きょうかい)が書いた『日本霊異記』には、ある女に金を貸したまま死んでしまった男が、その女の子供として生まれてきて、前世での負債を取り立てるために十年以上も好き勝手に飲み食いしていたという因縁話が紹介されている。

 しかし私が思うに、こうした事例で記録に残されているものは氷山の一角のようなものに過ぎないのであって、実際はもっと多かったに違いないのだ。ただこうした事件の性質上、例えば周囲の人間に信用されなかったり、あるいは気味悪がられたりして、表には出てこなかったのだろう。なんたって生まれ変わりといえば怪談として知られる『累ヶ淵』とか、近くは夏目漱石の『夢日記』の第三夜でも扱われている通り、怪奇小説……いや恐怖小説のネタとして格好の素材だからね……」

 「しかし先生……『累ヶ淵』も『夢日記』も、所詮は創作に過ぎないではありませんか」

 「そんなことは問題ではないよ。私が言いたいのは、生まれ変わりという現象は古来よりこの国に繰り返し発生しているのであって、我々を含めた大日本帝國の臣民にとっては身近な、いや少なくとも無縁のものではないという事実なのだよ。――まあ頭から信じきっている者は少数派だろうが、少なくとも幽霊や妖怪なんぞと同じ程度には市民権を認められている……だから生まれ変わりなどという珍奇な事件が新聞沙汰にもなるし、それを読んでも「不思議な話だ」くらいにしか思わないという次第さ。もちろんその中には君が指摘した通り、その中には世間の耳目を集めんがためとか、その他どんな思惑があるかしらないが、ともかくそんな意図の下に騙りを働こうという連中だって混じっていたのに違いない。しかしその大半は、そうした欲得ずくの嘘八百などではなくて、自分が何者かの生まれ変わりである、その証拠には前世の記憶を持っているのだと信じている、善良な人々であった筈なのだよ」

 「はあ……しかし先生、それが一体何だというのです?いくら本人が信じていようと、それだって結局は単なる妄想に過ぎないではありませんか」

 聞いたこともない文献から抜き出した怪しげな奇談やら、文豪による有名な創作まで持ち出してきて、それで博士が何を言いたいのか、私にはさっぱり話が見えなかった。たとえ本人が騙りの意図など持たず、真実自分は生まれ変わりなのだと信じていたとしても、この世に前世だの生まれ変わりなどというオカルトが現実に起こりうる筈はないのだから、そんなのは単なる頭の弱い連中の妄想に過ぎない。そんなものを真面目に取り沙汰したところで、何の意味もないというのに……。

 「妄想さ。だけど夢野君、それは単なる妄想ではないのだよ」

 「え?」

 「わからないかね?つまりはそれが、輪廻症の症状なのだよ。私が今話した事例は全て――まあ創作は除くが――輪廻症患者の症例に他ならないんだ。この病に罹ると、患者は存在しない筈の『前世の記憶』なるものを脳内に捏造し、自分自身はその生まれ変わりなのだと思い込み、その妄想にどっぷり囚われてしまうのさ」

 「なんですって!」

 そのあまりに奇怪な話に私は飛び上がって驚き、思わず大声を出した。

 自分を生まれ変わりだと思い込む病?前世の記憶を捏造する?そんな病の話など、聞いた事もない!

 本当にそんな奇妙な病があるものなのか?

 「何をそんなにおどろくのかね?私は別に、生まれ変わりという超常現象を肯定しているわけではないというのに。むしろその反対に、そんなものは患者の病める精神から生じた病的な妄想だと言っているんだ。つまり私は、生まれ変わりなどという非科学的な現象を、精神科学の視点から解明しようとしているのだよ」

 言われてみればたしかにその通りだった。博士は何も狂ったわけではないし、何らおかしなことを口走っているわけではない。だがそれにしたって、あまりに奇怪な話ではないか……。

 「しかし……一体、そんな奇妙な病がありうるのでしょうか?いえ、それはそもそも、病気であるのでしょうか?どうもそうは思われませんが……」

 「そう思うのが普通だろうね。実際、我々は今までずっとそう思い込んでいたことによって、結果的に彼らの病を見落としていたのだよ。ああ、あいつはまたおかしなことを口走っているな……嘘ばかり言っておるな……おいおいそんなことを決して他所様に言うのではないよ……あまり気味悪いことを言うな、今度口にしたら目にもの見せてやるぞ……といった次第でね」

 「そうかもしれませんが……」

 「彼らは病気でそんな妄想を真実だと思い込んでいるだけであって、彼らには全く罪などないというのに、嘘吐き呼ばわりされて迫害されてきたのだよ」

 「たしかに僕にも、生まれ変わりなどという妄想は病的なものだと思われます。しかし、だとすればそれはむしろ、虚言症なのではありませんか?」

 「君の疑問はもっともだ。しかし私は長年かけてこれらの事例を収集し、少しでも疑わしい事例については厳しくこれを取り除き、たしかに輪廻症という名称を与えるに足る特有の症状があり、それが虚言症患者とは明らかに特徴を異にすることを発見したのだ。彼らには自分が生まれ変わりだという思い込みの他は全く健常人と変わりなく、その思い込みが彼らの潜在的欲求から来ているということもない。彼らには虚言を吐いているという自覚はなく、他のあらゆる精神病の症状とも異なり、そして精神分裂病ともいえない。たとえ彼らが、自分の名前は全く別のものだなどと言ってもね……」

 「あ…………」

 その言葉を聞いて、私の脳味噌の中で博士の過去の言葉――「ここでは本名が意味を持たない」という――と、輪廻症の症状が私の中で、ようやく繋がったのだった。つまりは、彼らは彼らの本来の戸籍上の名前――彼らにとっての『現世』の名前――で呼ばれることを拒み、彼らにとっての真なる名前――前世における彼らの名前――で呼ばれることを欲するということなのだ。

 では、本当なのか?輪廻症などという馬鹿げた……いや、奇妙な精神病があるというのは、真実のことなのか?

 「先生……輪廻症が分裂病と違うというのは、どんな点でしょうか」

 「それは、二つの意識の間に連続が見られるかどうかということだ。精神分裂病の患者においては、そもそもの主人格と別人格の間に連続は見られないことが多い。二つの人格は互いに相手を知らなかったり、或いは別人格は主人格のことを知っていたとしても、その反対は見られない。これは勿論、記憶を共有していないということでもある。

 これに対して、輪廻症患者においては前世と現世の二つの人格――正確には二つではなく一つなのだが――の間に意識の断絶は見られない。現世の意識と前世の意識はどちらも患者にとっては同じ自分なのだ。現世の人格にとって前世の人格は決して如何なる意味でも別人格ではなく、単純に過去の自分に過ぎないのであり、例えるならば普通人にとっての幼少期の記憶と同じことなのだ。

 患者にとって前世と現世、どちらが重要かと言えば、それはまあ患者によって個人差はあるのだが、どちらかと言えば前世の自分に愛着を持ち、そちらを優先させる患者が多い。現世の自分の人生を全然重視しようとせず、前世の記憶ばかりに執着するようになる。彼らにしてみれば前世の記憶を取り戻した以上――これは彼ら自身の表現なのだが――それを忘れたままに生きてきた現世の生活というものが、まあ偽物とまでは言わないにしても、仮初のものだったとしか思えないというのだ。これは驚くには値しない。記憶喪失の患者が無事に記憶を取り戻した時、その記憶を失っていた間の自分を、他人のように感じるというのと同じだ。ある輪廻症患者はこの心理を私に、このように表現してくれたよ――前世のことを忘れていたこれまでの私の人生は、まるで夢を見ていたようなものなのです、とね……」

 「そんな……そんなことって……!」

 偽物?……仮初の人生?そんな馬鹿な!

 ではムムミにとっても、彼女のこれまでの人生は……私が知っている彼女の人生が、彼女にとっては夢のようなものでしかなかったというのか。曖昧なものでしかなかったというのか?

 「夢……?夢だなんて……。前世なんて、何の根拠もない、ただの妄想に過ぎないじゃないか。非科学的な……。そうでしょう、先生?前世なんて妄想の方が、よっぽど悪夢みたいなものじゃないですか!」

 「落ち着きたまえ。勿論、君の言うとおりさ……。我々にとってはね。前世の記憶などと言ってもそれは、輪廻症に罹った彼らの脳髄が捏造した、事実無根の妄想に過ぎないのだ。しかし夢野君、忘れてはならないことは、そんな彼らの妄想を無下に否定してはならないということだ。たとえそれが輪廻症の症状に過ぎず、畢竟彼らの妄想に過ぎないとは言って、他ならぬ彼らにとってはそれは紛れもなく真実であり、大切なものなのだからね。ここのところを履き違えて、その妄想を否定してしまったら彼らは二度と心を開いてはくれないし、それだけならまだしも余計に症状を拗らせてしまうということだってあり得るのだよ……。さて、そろそろ行こうじゃないか」

 「……え?どこへ行くのですか……」

 すると博士はまじまじと私の顔を見て、やがて苦笑を洩らした。

 「何を言っているんだね。ムムミ君のところだよ……」

 

     3 

 

 病室に赴く前に阿部博士は内線で佐藤という看護人を呼び寄せた。聞けば、患者が暴れ始めたときのために、屈強な看護人が同行するのが不可欠なのだという。 

 佐藤は成程立派な体格を有する大男であった。確かにこの男なら、どんな患者が正気を失って暴れ出したとて取り押さえることができるであろうし、大層心強いであろう。しかし私は不満を覚えた。ムムミに会うのに、このような護衛が入用になる筈がない。 

 ムムミが我を忘れて暴れ出すなどということがありえようか?……いや、それについては私は言うまい。私は精神を病んだムムミはまだ見たことがないのだから。しかしもし仮に、万一ムムミが正気を失うことがあるにしても、あのような非力な手弱女が暴れ始めたところで、私でも博士でも簡単に取り押さえることができるに違いないのだ。このような無骨な大男は不要だ。 

 しかし私がそのように主張すると、博士は言ったのだった。 

 「君は精神病患者の常識外れの力を過小評価しているようだ。こちらが男で、あちらがか弱い乙女だからといって、簡単に取り押さえることができるなどというのは間違いだよ。それは常人同士の間のことさ。火事場の馬鹿力などと俗に言うが、君はあれを迷信だとか、単に大袈裟に言っているだけだと思っているのではないかな。しかしそうではない。人間が生命の危機に瀕したときに平常では及びもつかない大力を出すことのできるのは真実本当のことで、自分の子供が危機の時にその母親が自動車を持ち上げたという話があるくらいだ。まあこれは常人の話だが、精神病者というのは常にそんな火事場の馬鹿力式の大力を発揮できるものと覚えておいて間違いはないよ」 

 私は「へえ……」と感心したような、気の抜けたような声を出し、それ以上は食い下がることはなかった。心の底ではやはり、必要ないとは思っていたが……。 

 

 ムムミの病室は地下三階の六号室だということで、私たち三人は階段を降った。

 地下三階へと続く階段は、長い廊下の端――この地下二階に降りてきた階段とは反対側の端――にあり、そしてまたしても地下三階までしか続いてはいなかった。階段を降りた正面に扉があり、その扉を開くと右側に長く廊下が伸びていて、上階と同じように左右に扉が並んでいた。

 私はこの病院――というより時計塔の地下部分――の構造を理解した。つまりこの時計塔の地下は東西に長い構造になっていて、そのどちらかの端に階段が取り付けられてある――それもジグザグに。だから上なり下なりに進むにはいちいち各階の長い廊下を全て通っていかなくてはならず、例えば地下五階の最深部に行くには……あるいは地下五階から地上へと出るには――最も長い距離を歩かねばならない。この明らかに非効率的な造りは何の理由があってのことか、と考えるとすぐに答えは出たのだが、その答えは私を憂鬱にさせた。それはどう考えてみても、患者を容易に逃がさないために違いないのだ。

 病院の廊下は人造石でできていて、歩くとカツ――ン……カツ――ンとよく響く音を立てる。左右に並んだ扉はどれも同じ、鋼鉄製の見るからに頑丈そうな黒い扉で、そのほとんど床と接するほど下方には切戸が設けられていた。恐らくはここから食事が朝晩の差し入れられるのであろう。

 ああ…………。

 これを見た私は、改めて思った。ここは精神病院なのだ……と。たしかに、間違いなく、徹頭徹尾の精神病院なのだと。

 私はまたも緊張を感じた。しかし同時に、そんな処まで来たのだという誇らしい気持ちにもなることができた。

 ここは確かに精神病院だ。それも外界とは隔絶された、特殊なる精神病棟なのだ。ついに私は、こんな所までやってきたのだ。……そう、愛する女に、ムムミに会うというそのために、私はこんなところまで来てやったのだ。なんと見上げた男だろう。

 そして私は、これからムムミと会うのだ。精神病と診断され、いまや変わり果てた姿になっているかもしれぬ恋人と。

 それでも私は恐れないであろう。嫌悪を感じることもないであろう。なんといっても私はこれほどまでに、ムムミを愛しているのだから。

 ムムミには私がわかるだろうか?……もちろん、わかるに違いない。これほどまでに己に愛を捧げてくれる男の顔を、女が忘れる筈がないではないか?

 私が来たからにはもう、ムムミとて前世の記憶などという胡散臭い妄想などきれいさっぱり捨て去って、人生の真実に目覚め、私と手を取り合って光射す地上に……まっとうな現実世界に帰還する運びとなるに違いないのだ。

 

 阿部博士と、看護人である佐藤が足を止めたので、必然私も足を止めた。見ると、博士が目の前に扉があり、その脇に白いペンキ塗りの表札が打ち付けられてあった。そこには

 ……『六号室 日下部(くさかべ)ハル』……

と記されている……。

 それを見て、思わず苦い顔を浮かべた私に博士は小声で言った。

 「我慢してくれたまえ、夢野君。ここでは、患者の申告する名前が優先して通用して言うのでね」

 不承不承ではあるが私は頷いた。

 「はあ……。ところで先生、私はム……いえ……彼女のことを、何と呼べばよいのでしょうか?先生のお話では、患者の元の名前を呼ぶのは危険な場合があるとのことでしたが……」

 「そうだね……。まあそれは、極端な症例の患者の場合だが……。輪廻症患者の中でも、彼女はまだ発症したばかりで症状は軽いし、性格も穏やかだから、そこまで心配する必要はないだろう。君はとりあえず、彼女の元の名前で呼びかけてくれて構わないよ。それで少し様子を見てみよう。ひょっとしたら君の呼びかけで、思い込みから回復することだってあるかもしれないからね」

 それを聞いて私には希望が湧いた。やはりムムミの症状は軽いのだ。回復の見込みがあるのだ。そう思い……。

 しかし表情を明るくした私に水を差すように博士は付け加えるのを忘れなかった。

 「ただし、患者の態度が豹変したら、すぐに相手の話に合わせることを約束して欲しい。一見普通に見えるからといって、彼女が精神病患者であることを、決して忘れないでいてくれよ…………。

 そして、もう一つ気をつけてもらいたい、大切なことがある……」

 「大切なこと?」

 「いいかね夢野君、彼女は自分を正常だと思っている。自分が生まれ変わりだと信じているが、しかしそれは何らおかしなことではないと、そう思っているのだ。だから絶対に、彼女を精神病者として扱ってはいけないよ。……そもそも彼女は、ここが精神病院だとは思っていないのだ」

 「精神病院ではない?では、ムムミはここが何の施設だと思っているのですか?」

 「彼女には、ここが研究所だと説明してある……『輪廻転生という現象に付いて研究している』研究所さ。私は生まれ変わりについて真面目に研究している科学者で、研究のためにムムミ君を招いて協力してもらっている……そんな具合に説明してあるのだよ」

 なんという奇妙な話だ。輪廻症などという病気だけでも充分に奇妙なのに、よりにもよって『輪廻について研究している研究所』なんて……。質の悪い冗談のようだ。

 こんなおかしな説明をムムミは真に受けているというのか……。

 「とにかく、気をつけてくれたまえよ……。ここに入ったら私はもう精神科医ではないし、ここは精神病院などではないのだからね」

 そう念を押し、ノックをすると、博士は六号室の扉を開いたのだった。

 ムムミの部屋に繋がる扉を……。

 

     4

 

 六号室は四方を堅固なコンクリートの壁で囲まれた陰気な部屋だった。どの壁にも窓がなく――それは地下であるから仕方のないことなのだが――そのために、内部の人間に強い圧迫感を感じさせずにおかない。もっともそれはこの部屋に限ったことではなく、どの病室でも事情は変わらないのだろうが……。私はこんな部屋に住むことが、果たして治療の必要な患者の精神に害とならないかと心配になった。

 その、あたかも監獄のような部屋の向かいの壁際に、これも頑丈そうな鉄製のベッドが置かれてあって、そこに女が一人腰掛けている。

 「ああ……」

 ムムミ……。夢にまで見たムムミが、今、目の前にいる……。

 それは間違いなくムムミだった。私の記憶の中のムムミの姿と全く同じ……いや、少し大人びていて、より女らしくなっている。二年前には少女めいた雰囲気が残っていて、未だ開花には至らない蕾のような風情であったのが、今では咲き誇る花のような香気の匂い立つ、言ってみれば色香を漂わせているのだった。その身に着けているのはこの病棟の支給らしい何の飾りもない白い木綿の患者服であるが、よくよく見ればそんな禁欲的な衣服は部分部分がいかにも女の身体らしく柔らかく盛り上がっているのであって、却って私の胸をときめかした。

 ムムミ……。他の誰でもない、私だけのムムミ……。

 私は漸くのことで会えた、そしてもしかすると永遠に再会することのできなかったかもしれぬ最愛の恋人の、その名前をどれほど口に上らせたかったことか。……けれど私の隣には彼女の主治医たる阿部博士がいて、彼から前もってさんざん脅しを掛けられた私としては、いくら許可を得ているからといっても、うかつにその名前を口にすることは憚られた。

 私は彼女の腰掛ける寝台にゆっくりと近づき……安心させるべく微笑を浮かべ、優しく呼び掛けた。

 「やあ、久しぶり……。元気そうでよかった」

 彼女……ムムミは私の顔を見ると一瞬驚いたような顔をして、そしてその可愛らしい口唇を開いた……。

 「まあ、Q作さんではありませんか……。どうして此処に?」

 ああ……!二年ぶりに聞く、彼女の声の愛らしさ、美しさと言ったら!教授達の下で厳しい訓練を受け、難解な学術書に取り組み、学友と切磋琢磨する骨の折れる日々を送りながら、どれほどこの声を聞きたかったことか!その姿を、どれほど目にしたかったことか……!

 内心の歓喜、溢れる興奮を抑え、私は彼女の質問に答えた。

 「君がこちらに来ていると聞いて、会いに来たんだ」

 「まあ……」

 恐らくは恋人である私の誠意に心を打たれたのであろう。ムムミは咄嗟に声も出ない様子だった。

 そこに阿部博士が進み出て、詳しい説明を始めた。

 「夢野君は郷里のお父上から手紙を受け取り、君が此処にやってきた事情を知ったのですよ……。それで君がこの研究所でたった一人、心細い思いをしているのではないかと心配して、こうして来てくれたというわけです」

 博士はムムミに対しては敬語を使った。それが患者に対する博士の態度なのであろう。

 「そうだったのですか……」

 ムムミはそれを聞くと、改めて私に向き直り、座ったまま深々と頭を下げた。

 「ありがとうございます、Q作さん」

 「なに、感謝されるほどのことではない……。婚約者として当然のことさ」

 「……はい……」

 ムムミは目を伏せた。きっと感動のあまり涙が出たのに違いない。

 それにしても……その様を眺めながら私は思った。ムムミの様子は思っていたものと違い、全く以前と変わりのないように見える。こうして話をしていても、その仕草ひとつをとっても、私の記憶の中にいるムムミとなんら相違するところはないし、精神病者に見られる不安定な感じも全くない。いつもの如く愛らしい、私の心を穏やかにさせずにおかない、私の恋人であるムムミそのものである。

  私は、肩透かしを喰ったような気分になった。

 院長室からこの病室に至るまで……いやそもそもの始め、ムムミが精神病院に連れて行かれたと知らされた時からずっと、私は彼女が精神を病んでしまったという事実に心を痛めていたし、どう振舞うべきかと頭を悩ませていたのだ。彼女を決して見捨てはしないと心に誓いながらも、彼女がまるで別人のように変貌していたらと考えると耐え難い気分になり、もしや私のことを忘れ果てているのではないか、顔を見ても私だと識別することができないのではないか……そう思うと、悲憤のあまり身を投げてしまうかもしれなかった。それ位ならいっそのこと、親が言うように彼女のことは忘れ、会わないでおいた方が互いにとって倖せなのかもしれない……そんな風に考えるほど、私は散々に苦悩してきたのだ。

 それが、実際はどうだろう?彼女の、この穏やかな物腰を見よ。可憐な、澄んだ声を聞け。もちろん、私のことを覚えていないなどという馬鹿なことはない。

 私は心からの安堵を覚えたが……それと同時に、腹を立てた。ムムミは以前とまるで変わらない。恋人である私の目をもってすらそうなのだ。それなのに、どうして彼女が精神病などと言われなければならないのか。病院に隔離までする必要が、はたして本当にあったのか。……こんなにも心が美しい彼女が精神病患者なのだとしたら、世の中の大半の人間が精神病患者ということになるだろう。

 ムムミは本当に精神病なのか?

 私の疑惑は膨れ上がらんばかりだった。今すぐにでも阿部博士を問い質してやりたかった。……しかし仮にも患者であるムムミの前で、そんなことを博士に尋ねるわけにはいかない。この病室の前で、阿部博士に釘を刺されたのだから。

 私は煩悶するしかなかった。

 「Q作さん?」

 私の物思いを優しく破ったのは、ムムミの鈴を転がすような可愛い声であった。見ると彼女は心配そうに私の顔を見上げている。

 「どうしたのですか?怖いお顔をして……」

 どうやら知らぬ間に渋面を浮かべていたらしい。私は慌てて笑みを浮かべた。真実はどうあれ、ムムミを不安にさせるわけにはいかない。

 「怖い顔なんてしてないさ」

 「ウソ。だって、ほら……」

 ムムミは私の眉間の辺りを指差した。

 「……皺ができておりますもの」

 そう言って、からかうように笑う。そうやって、私が自分の不作法を気に掛けないように……。

 ああ……。何と素晴らしい恋人であろう。この細やかな心遣い。ムムミはやはりムムミのままだ。心優しい、私のムムミ……。

 彼女の心遣いに感謝し、私は変に気を遣うのを止めることにした。私の眼にはどうしても彼女が精神病であるようには見えなかったし、たとえもしそうであったとしても、ごく軽い症状であるのに違いなかったからだ。それなら、むしろ気を遣わずに普段通りに振舞った方が互いにとって良いに決まっている。

 私はムムミと二人、病気などという特殊な世界とは縁がないとでもいうように、全く普段どおりの会話をするように努めた。あたかも、私が久方ぶりに郷里に帰り、そこで顔を合わせたとでもいうように……。

 私は郷里を離れてから二年と半年間の、京都での下宿生活についてを、主に大学での出来事に焦点を当てて話して聞かせ、ムムミの方はと言えばその間に郷里で起きた出来事、共通の知人の近況について私に語った。それは殊の外楽しい時間で、ともすればここまで来た本来の目的も、ここが地上の現実的世界とは隔絶された、精神科の地下病棟なのだという悪夢的状況だということすら忘れ去りそうになった。

 本当に彼女は精神病なのか……。

 いや……考えてみれば、ムムミが罹っているのが例の、輪廻症というおかしな病気なのだとしたら、表面上はおかしく見えなかったとしても不思議はないのか?阿部博士が話してくれた輪廻症の症状が正しいのなら、その患者は自分が生まれ変わりなのだという特異な妄想を頑なに信じているということ以外は、普通人となんら変わったところはないというのだから。それなら、ムムミが表面上は普通に振舞っていてもおかしくはない……。

 ……しかし、こんなにも普段と変わらない姿を見てしまうと、正直な気持ちとしてはそれすらも疑わしく思える。本当に彼女は、輪廻症なのか?

 前世の記憶などという胡散臭いものを思い出し……いや、捏造し……自分をその生まれ変りなどと心底信じる、現代人とも思えぬ迷信的、非合理的、非理性的な人間であるのか?

 ……こうして話をしていても、彼女は前世の話など全く口にしない。当たり前の通常人と同じ、当たり前の話しかしない。加えて言えば、彼女はそこらの凡人などよりもよほど聡明で、気配りに満ちた話し方をする。

 これは自分が生まれ変わりだと思い込んでいても、彼女の人格には影響がないということなのか?それとも、やはり病気だというのがそもそも間違いであるのか。

 ムムミが輪廻症だとして、一体どのような妄想を抱いているのだろう。彼女の前世の話……たしかハルとかいう名前だったが……はどのようなものなのだ?

 「どうされたのですか、Q作さん」

 気付くとムムミが私の顔を見上げていた。

 「わたくしの申し上げたこと、聞いておられました?」

 「いや……」

 考えに気を取られていて、また上の空になっていたらしい。私が誤ると、ムムミは「もう……」と可愛らしく拗ねてみせた。

 「Q作さんも、時々はご実家に帰ってこられたら、と申し上げていたのです」

 「ああ……。いや、しかしなかなか実家まで帰るようなまとまった時間はないのだよ」

 「大学には休暇もおありでしょうに」

 「もちろんあることはあるが、先々のことを考えると、悠長に構えているわけにはいかないのさ。色々とやっておかなければならないことがある」

 少し後ろめたくも思いながら、私はそう弁解するしかなかった。休暇中に勉強していない訳ではないが、時間を作って帰郷しようと思えば、できないわけでもないからである。

 しかしせっかくの休暇中に、何もない田舎町に帰るよりは、気のおけない学友達と京都の繁華街をうろつく方が楽しいに決まっているのだ。……もちろん、ムムミに会えないのは少し物足りなくはあるが……。

 「学業がお忙しいのは皆様も承知しておられるでしょうけれど、年始くらいは顔を見せにお帰りになればよろしいのに。Q作さんのお母様も寂しがってらっしゃいますよ」

 「わかっているさ……でも、あとほんの少しの辛抱だよ」

 私はムムミのことを可愛らしく思わずにはいられなかった。ムムミは私の家族のことなどを持ち出して私を責めているが、本当は彼女自身が寂しいのに違いないのだ。

 いじらしいムムミを愛しく思い、私は機嫌をとってやることにした。

 「大学だって、あとほんの一年とちょっとさ。もちろん私のことだから、留年なんてしない。きっかり四年で学位をとって郷里に凱旋するよ。そうしたら、私は学士だよ。そして君は、その妻になるのさ。

 ね、今は寂しい思いをさせているが、そんなのは今だけのことさ。今を乗り切りさえすれば、私達は晴れて夫婦になって、ずっと一緒にいられるのだよ」

 まるでこの病室に私たち二人しかいないというような懇ろな口調で私は言った――実際には阿部博士が私達二人を観察するかのように背後で見守っていて、そのさらに後ろではまるで見張りのように厳つい顔で立ち尽くす佐藤看護人がいるのであるが。

 赤の他人である彼らの前でそのように振舞うというのはむろんのこと私には恥かしく、日本男児にあるまじき軟弱にも思えたものの、この場はムムミの精神の安定を図ることが第一であろう。ムムミの最愛の恋人にして彼女の未来の夫である私がこのように言えば、彼女は喜ぶに違いないのだから。

 ムムミにとっては私との未来、いや言ってみれば私という存在それ自体が彼女の人生における希望そのものであり、縋るべき唯一のものなのだから……。

 私はムムミの顔を覗くように見て、その歓喜に震える表情――或いは恥じらい紅潮している表情――を確かめようとした。今は口約束に過ぎないが、およそ女に生まれた身に望むべく最上の幸福を私は、たった今彼女に約束したのだから。

 しかしどうしたことか、全く予想していなかったことに、ムムミはまるで困惑しているとでもいうようにも見えかねない、そんな曖昧な表情を浮かべていた。そんなことはまったくありえない、考えられないようなおかしな事態に違いないので、私としても戸惑わざるを得なかった。

 「どうしたんだい?」

 「いえ……」

 私が優しく問い質してやっているというのに、ムムミは一向に思うところを話そうとしない。一体どのようなつまらないことを気に掛けているのか知らないが、彼女の身に余るような、こんなにも光栄な提案を受けて嬉しそうな顔の一つも見せないのは全く理解できない話ではあった。

 全くもって仕方のない話ではあるが、私は些か気分を害した。ついつい責めるような口調になり、多少の配慮を欠いたとしても誰が私を責められるであろう?

 私はあくまで穏やかな声で言った。

 「言ってくれないとわからないよ、ムムミ」

と…………。

 そう口にした時、ムムミの体が一瞬ピクン……と震えるのがわかり、私は自分の失策を悟った。ムムミの精神を刺激しないようにと、ずっとその名を呼ばないように気を配っていたというのに、ついうっかりと「ムムミ」と呼びかけてしまったのだ。

 ……しかし、一体誰が私を責められると言うのだろう?ムムミ本人が何と言おうとムムミはムムミなのだし、未来の伴侶である私がその名を呼んだところで非難される筋合いなどない。いや、むしろそれが自然の、当たり前のことなのだ。むしろ間違っているのはムムミであり、非難されるべきは明らかにムムミであるというのに、寛大な私はそんな彼女の埒もない妄想にまで配慮してそれに付き合ってやっていたのだから、むしろ感謝されてしかるべきではないか。

 それに考えてみれば、そもそも私は彼女を「ムムミ」と呼ぶことを誰かに禁じられていたわけでもない。阿部博士は私には、ムムミと呼びかけても構わないという許可を与えてくれたのだから。それでも私は彼女の精神状態を慮って、極力その名を出さないようにしていたというに過ぎないのだ。

 現に、ムムミは何も非難するようなことは言わなかったし、もちろん突然暴れ始めるということもなかった。何か考えているという風ではあるが、それも私の目には思慮深く映るというだけで、精神病の発作を起こすような兆候は微塵も見られなかった。

 なぁんだ……と私は安堵した。ほら見ろ……やっぱりムムミは精神病なんかじゃないんじゃないか。輪廻症なんて訳のわからない病気じゃないんだ。阿部博士は私を散々に脅かしたが、きっと何か彼女について考え違いをしているんだ……。

 そう思ったとき……。

 「Q作さん」

 ムムミが私の名前を呼んだ。

 「Q作さんはわたくしの身に起こったことについて、どこまでお聞きになったのですか」

 何と答えるべきか。私は判断に迷い、思わず博士をかえり見た。

 もちろん、彼女が輪廻症などというおかしな精神上の病に罹り、この精神病院に収容されたたどという事実をそのまま口にするわけにはいかない。博士の話では彼女は生まれ変わりなどという言語道断のおかしな妄想を抱いているにも拘わらず自分を正常だと思い込んでいるのであり、それが精神病の症状であるなどとは露ほども考えてはいないのだ。

 ムムミの頭の中ではこの施設は精神病院などではなく、生まれ変わりについて研究している研究所だということになっている。そして彼女は自分が生まれ変わりだということを自覚する稀有な人間であり、だからこそ博士の研究に協力するために連れて来られた……そういうことになっているのだった。

 だから私はそのように答えるべきではあった。それはわかっていたのだが、躊躇していた。というのも、彼女と実際に会話し、以前と全く変わるところのないその姿を見た私にはもう、ムムミが精神病などとは到底思えなくなっていたからである。そんなムムミに、生まれ変わりの研究などという荒唐無稽な話――それこそ私の方が頭がおかしくなったと思われるであろう――をするなぞ、私の自尊心が赦さなかったのだ。

 そこに、私が困っているのを察したのであろう、阿部博士が進み出て助け舟を出してくれた。

 「夢野君には、貴女がこの研究所におこしになった経緯について、私の口から説明させてもらいましたよ」

 「わたくしの過去についても……?」

 「いいえ。貴女が前世の生活を思い出されたということ、そしてその頃のお名前だけはお話いたしましたが、貴女が以前私にお話してくださった前世の記憶については、一切お話していません。それは貴女がご自分で夢野君にお話しするべきことであると思いましたので……。もっとも、彼にお話するのを望むのならば、の話ですが……」

 「そうですか……。お心遣い、感謝いたします」

 「とんでもない……」

 ……あまりにも当たり前に『前世』などという途方もない言葉が会話に現れ、それを二人がさも当然のことであるように受け止めているらしいのを見て、私は呆気にとられていた。次いで寒気を覚えた。

 何だこれは?……どうなっているのだ?

 これは正気の会話なのか。私をからかっているのではないか?

 そうも思ったが、しかし嘆かわしいことに、ムムミにしても安部博士にしても冗談を口にしているなどという気配はまるで見られない。博士だけなら私をからかうかもしれないが――先程試験などといって私を散々に翻弄したように――、あのムムミがこのような手の込んだやり方で私をからかう筈がないのだ。

 では、本気なのか?……真実、そうなのか。

 ムムミは、やはり……輪廻症に陥っているのか?

 「Q作さん」

 ムムミが私の名前を呼ぶ……。

 「貴方にお話しておかなければならないことがあります」

 居住まいを正し、毅然とした口調、表情でムムミは言った。私は戸惑った。それが彼女にはあまり似つかわしくない、見慣れない態度だったので……。

 「ムムミ……」

 私は意味もなくその名を呼んだ。或いはその名が、彼女を彼女として留めてくれると信じたのかもしれなかったが……。

 しかしムムミは首を振った。

 「……申し訳ありません、Q作さん。わたくしはもう、××夢々美ではないのです。わたくしの名はハル。日下部ハルと申します」

 言葉を失う私を見上げると、ムムミ……ハル?……は言った。彼女らしからぬ悲愴なる表情で……。

 「わたくしの前世を、お話いたします」

 

 ××夢々美(日下部ハル)の話

 

 わたくし、と申しますこのわたくしというのは貴方がご存知の××夢々美ではなく、前世の日下部ハルと申すわたくしのことでございますが、そのハルが生まれましたのは安政六年のことでございます。

 生家は武家でございました。父は御家人とは申せど一家五人が暮らすには充分な録は頂けぬ下級武士で、母や祖母が内職でも何でもやって、漸く口を糊することができたのです。

 けれどそんな生活でも随分ましであったと身に染みてわかったのは、あの御一新があった後のことでございました。武士が士族となり、武士の魂である刀を奪われ、髷を落とし、そして勿論のこと、録を失いました。それまでは少ないながら――などと申しましてはバチが当りましょうが――お上から扶持米を頂いて、それでカツカツやっていたのが、その録を奪われたわけですからいくら内職したところでやっていけるはずがございません。

 それでも明治の九年頃までは、士族ということで新政府から給与を頂いておりました。そうしてお給与を頂いているうちは何とかなっていたのです。当時は士族の商法などという言葉が流行りまして、その言葉通り身分を失った元の武士達が慣れない商売に手を出しては大抵失敗していたのですが、わたくしの家も大体そのようなものだったとお考え下さい。頂いた給与もそれですっかり使い果たす有り様で、そうこうするうちに新政府の温情であった給与も出なくなり、それですっかり困り果てたのです。その頃のわたくし達の生活がどのようなものであったかというのは、ご想像にお任せします。

 それで、どうしたか、ですか?……おわかりでしょう?

 わたくしは身売りすることになりました。いえ、させられました。どうにもならなくなって借財が嵩み、そのカタに吉原に売り飛ばされたのでございます。

 そう、わたくしは……日下部ハルは、遊女だったのです。

 その頃のことはお話しするには及びません。話しても、困らせるだけでございましょうから。苦界の暮らしの愚痴など、殿方にお話するようなものではありませんからね。

 ……救いがあるとすれば、身売りしたのはわたくしが数えで二十の時だったのでございますが、まだその頃には好いた殿方などいなかったということでしょうね。……心に決めた相手がいながら、別の男に身体を許さなければならない……女にとってこれほど辛いことはございませんから。……もちろんあそこには、そうした苦しみを舐める娘はたくさんおりましたが……。

 色恋に縁のない貧乏暮らしも、そうした意味では良かったのかもしれませんねぇ……。

 ……そんな暮らしが、三年ほども続きましたでしょうか。ある時、私に常連の客がつきました。佐吉という名の、若い見習いの職人で、ちょくちょく顔を出しては必ずわたくしを指名してくれるのです。わたくしは、実を申しますと最初の内は特に佐吉さんに思い入れがあったのではないのですが、それでも何度となく逢っていれば情も湧くもので、色々と言葉を交わしました。佐吉さんのお話を聞くのは勿論ですが、私も……。

 佐吉さんは田舎の出で、東京には修行のために来ているということでした。だからもちろん裕福なはずはないのですが、それでも何とかお金の工面をつけてはやってきて、必ずわたくしを指名してくださいました。わたくしにはそれが不思議でした。わたくしはお世辞にも愛想のよいほうではありませんでしたし、顔も十人並みで、器量のよくないことは自分でわかっていたので……。

 ある日、わたくしはとうとう佐吉さんに尋ねてみました。どうしていつもわたくしを指名するのかと。暮らしも楽ではないだろうに……と。

 佐吉さんは、……あの人はぶっきら棒にこう言いました。

 ――わけなんてあるか。心の底から惚れた女だ。逢いにきて何が悪いのだ……と。

 …………わたくしはこの言葉を忘れません。いえ、そう心に固く誓っていたのですが、情けないことに生まれ変わる時に忘れてしまいました。思い出したのはつい最近です。

 ですから、もう決して忘れません。生まれ変わっても、こうして思い出したのですから。

 ……ええ、わたくしはあの人に惚れました。生まれて始めて、本気で人を好きになったのです。

 それからの暮らしの、辛かったこと……。心から好いた男がいるのに、見ず知らずの客の相手をしなければならないのですから。それまではもう諦めきっていて、何も感じないようにしていたというのに。……

 けれどその頃とは違い、わたくしには生きる希望もありました。それまで感じたことのなかった生の喜び、それがわたくしを支えてくれたのでございます。わたくしにはあの人がいる。いつかきっと、あの人と一緒になれる日が来る。そう信じていたのでございます。

 けれど…………。

 ある日佐吉さんはいつになく辛そうな顔でわたくしの前に現れました。あの人が言うには、急に郷里に帰らなくてはならなくなったというのです。

 わたくしは動揺し、涙を流し、愚かにもあの人を引きとめようといたしました。

 ――必ず戻ってくる。あの人はわたくしの肩を抱いて約束してくれました。必ず一人前になって、お前を身請けする金を持って戻ってくる。待っていてくれ、と。

 わたくしは涙を呑んで、それを信じて待つことにしました。いえ、その時は、そうするしかないと思ったのですが……。

 最初の内は、わたくしはあの人を待つつもりでいました。すぐ傍にいようと遠くにいようと、あの人が来てくれるのを待つことには変わりはないのだから、待っていられると思っていたのです。……けれど、無理でした。わたくしはもう、あの人のいない暮らしなど耐えられないほど、あの人を愛していたのです。

 このまま、もう二度と会えないのではないか……。そう考えると、気も狂うように思われました。

 あの人がいなくなって、ほんの十日ほどで……思い余ってわたくしは、足抜けいたしました。もちろん、捕まったらただでは済みません。

 わたくしは必死に逃げました。……いえ、逃げるつもりでもなかったのでしょう。ただ、あの人に会いたい。その思いだけで、わたくしは道を急いだのです。

 行く先はもとより決まっていました。以前に聞いていた、あの人の郷里です。いえ、あの人が旅立ったのはほんの十日前なのですから、どこかで手間取っていたとしたら、街道の途中で追いつくことも充分ありえる話です。当時は鉄道だって、それほど整備されてはいませんでしたから……。

 わたくしは追っ手を気にしながらも東海道をひたすら西へと急ぎました。けれどあの人は見つかりません。追っ手に見つからなかったのは幸いでしたが……。

 とうとう箱根を越え、駿府を越え、嶋田宿までやってきました。箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川……。あの『朝顔日記』という浄瑠璃の、盲目の遊女朝顔が恋人を追って辿り着いたという、あの嶋田宿です。

 ちょうど先日からの雨で川は増水し、先年架けたばかりの木橋も流されてしまったばかりということで、足止めを食った旅客で宿場町全体がごった返しておりました。わたくしは先に進めないことに絶望したのですが、同時にあの人もこの雨で足止めを食っているのではないか……この町のどこかにあの人がいるのではないか、そうも考えました。

 わたくしは旅篭を一軒一軒当り、会う人会う人に佐吉という人を知らないかと訊ねて回りました。

 けれど、あの人はどこにもいなかったのです。

 わたくしは絶望し、大井川の岸辺に佇み、無情の雨に打たれながら、増水して暴れ狂う様を為す術もなく眺めておりました。人の身には越せられぬ、まして女ではどうにもならぬ、暴れ川を――。

 ……その時、辺りが俄に騒がしくなり、私は虚ろな気持ちで後ろを振り返りました。見ると、人相の悪い男たちが口々に怒号を上げながら、私をめがけてまっしぐらに駆けてきます。わたくしはとうとう追っ手に追いつかれてしまったのです。

 わたくしはそれを見ましても、もう別段恐ろしいと思わなかったのですが、目の前の川の流れに向き直りますと、ほんの形ばかりに手を合わせ、ひょいと流れに身を投げたのでございます。どうか、どうか命ばかりは。

 命ばかりは、けっして助からぬように。そう固く念じつつ……。

 

 こうしてわたくしは――日下部ハルは、死んだのでございます。

 

     5

 

 その長い話が終わると、しばらくは誰も声を発しようとはしなかった。話し終えたばかりのムムミはもちろん、阿部博士も、もちろん看護人に過ぎぬ佐藤も、……そして、私も。

 声を出すなどはもちろん……私はろくに頭を働かせることもできなかった。あまりに奇怪な話を聞かされて……。

 何だこれは…………。

 本気で言っているのか……。

 …………正気なのか…………。

 こんな疑問が頭の中で、グルグルグルグルと堂々巡りをやらかしているだけで……。

 「今お話されたことは、以前に聞かされたものよりも少し詳細になっていましたね」

 ムムミの前に進み出たのは阿部博士であった。

 「段々と記憶が鮮明になってきたのではありませんか、日下部さん?」

 「おかげ様で……」

 ハルは、……いや、ムムミが笑顔を浮かべる……。

 「仰る通り、少しずつ記憶が甦ってきているように思います。ここの環境がよいからなのでしょうね。わたくしがいくら思い出そうと努力しても、周りの方々に騒がしくされると、なかなか思い出せないのです。まさに霧を掴もうとするようなもので、掴めそうだ、今度こそ捕まえられる、そう思っても、今まではするりと逃げてしまっていたのです」

 「皆さんそう仰います。どうも皆さんの話を伺っていると、前世の記憶というものはとても儚い、実に捕らえ難いもののようですね。生憎私などはこんな研究をしているくせに、未だに自分の前世を思い出せないものでまったくお恥ずかしい次第なのですが、皆様のお話を伺う限りでは、それは何か睡眠中に見た夢を思い出すのに似ているという印象を受けます」

 「ああ、はい。それはとても感じが似ているという気がいたします。思い出せるようで思い出せない、たった今まで見ていて、たしかに嬉しかったり悲しかったりした筈なのに、ふと他のものに気を取られるともうすっかり忘れてしまう……そんな感じでございます。わたくしもそれで、何度も何度も口惜しい思いをいたしました。せっかく、思い出せそうになったというのに……と」

 「焦ることはありません。夢の記憶という者はえてして、目覚めたときに思い出せなければそれきり忘れてしまい、後になって思い出すのは非常に困難なものではありますが、前世の記憶というものはそうではないようです。なにしろ一度はお亡くなりになったというのに――失礼――また生まれ変わった後に思い出せるほどのものですからね。私が思いますに、それはつまり、魂に刻まれているということの証明です。ですから日下部さん、今は逃したとしても、いずれはきっと全て思い出せますよ」

 「ありがとうございます。とはいえ、わたくしの場合、思い出すのが楽しい記憶ばかり、というわけでもないですが……」

 「ごもっともです。お辛いことは、無理に思い出そうとされなくとも構いませんよ」

 「いいえ……。そんなことを言ったら、わたくしの前世の思い出などはほとんどなくなってしまいますわ。ですから大丈夫――辛かったことも含めて、それがわたくしの人生だったのでございますから」

 「いや、ごもっとも……」

 ムムミ(……ハル?)が嫣然と微笑み、阿部博士もまたそんな彼女に対し、穏やかに微笑んで見せている。まるで、娘に対する父親であるかのように……。

 …………。

 ……なんだ、これは?

 まるで私を置いてけぼりにして、まるで私がそこにいないとでもいうようにして、会話が進んでいる。

 私は彼女の許嫁だというのに……。

 …………いや。そんなことより……この会話は、何なのだ?前世の記憶とか、生まれ変わりとか、そんな非日常のとてつもない言葉が、当たり前のように交わされる会話は何なのだ。……しかも、そんな愚にもつかない言葉を口にしているのは、ムムミ、そして阿部博士。……共に、私がその知性を認めている、聡明な二人であるというのに。

 …………いや、阿部博士のそれはあくまで演技なのに違いない。この病室に来る前に言っていたではないか……。阿部博士は、ムムミの話に、妄想に話を合わせているだけなのだ。ムムミの病んだ精神をいたずらに刺激しないために……。

 ……しかし、だとすると……私もまた、そうしなければならないのか?博士のように、ムムミの話に調子を合わせなければならないというのか?あんな……あんな訳のわからない法螺話に?私が?

 ムムミの前世が、明治初期に生きていた女で……しかも遊女だった?男……しかもたかだか職人の見習い風情に惚れて、命懸けで足抜けした挙句、追い詰められて川にみなげしたって?

 なんだそれは。一体どこから、そんな妄想が生じたのだ。どのような潜在的な願望なり、幼少期の心的体験があって、そのようなうさんくさい、嘆かわしい、なによりムムミに似つかわしくない……そんな妄想が生じてくるのだ?

 こんな妄想を本当に、ムムミは信じているというのか……。しかも、自分の前世だと言い張るのか。……しかしこれについては残念ながら、首肯せざるを得ないのだ。

 私は断腸の思いでそれを認めた。過去の(前世の!)話をしているときのムムミの様子、話し振りを見ても、そして今、阿部博士と対話するその口調、表情を見ても……。

 なんということだ。

 ムムミは確かに精神病者なのだ。間違いなく、これ以上疑う余地もなく、輪廻症患者に違いないのだ。そうでなければあんな妄想を思いつく筈がない。……それを本当に、前世の絶対の事実として信ずる筈がない。

 あんなにも何食わぬ、あどけない当たり前の顔で、京大教授という権威ある学者を相手に、前世の話などという言語道断なことを口にできる筈がない。

 私は途方に暮れた。

 ……私はどうすればよいのだ?よりにもよって最愛の恋人が、輪廻症などという聞いた事もない奇病に冒されてしまった私は……。

 私は本当にこれからも、ムムミを恋人として扱うのか?許嫁として遇しなければならないのか?一体彼女は、将来の学士たる私の妻となるにふさわしい女であるのか?

 いや……。

 今さら何を考えているのだ。ムムミが精神病であろうと構わないと、そう考えたからこそ私はこんな所にまで来たのではなかったか。……大体、許嫁が精神病に罹ったから棄てたなど、もし世間に知られたら、何を言われるか知れたものではない。

 幸いなことに、阿部博士が最前言っていた通り、輪廻症の症状は前世の記憶などという馬鹿げた妄想を抱くという一点を除けば、たしかに健常な普通人と変わらないようだ。それなら、そんな恥かしい妄想だけを人前では口にさせないように徹底すればよいだけのことだ。家庭の中で話すだけなら、そんな奇矯な話ではあっても問題にはなるまい……私が我慢すればよいだけなのだから。このような愚かしい話を聞かされるのは苦痛以外のなにものでもないが、それを堪えるのが夫の義務であり、彼女に対する私の愛情の証明というものであろう……。

 それにまだ、治る見込みがないでもない……。

 そう考えた時だった。

 「Q作さん」

 いつのまにか、憂わしげな顔のムムミが私を見上げている。私は内心の動揺を押し殺した。「な、なんだい……」

 「驚かれたでしょう。……こんな話を聞かされて」

 「僕が驚いただって?まさか……」

 もちろん、驚いたなどというものではない。話の内容などはどうでもよいが――所詮は妄想であり、ムムミが頭の中で創り上げた物語に過ぎないのだから――ムムミが紛れもなく精神を病んでいるということを、まざまざと見せ付けられたのだから。

 しかしそんなことを言う訳にはいかないのだ。愛する私からそんなことを言われればきっとムムミは絶望し、それこそ身投げしかねない。……いやそうでなくとも現実に愛想を尽かし、ますます妄想の世界にどっぷり浸かってしまうに違いないのだ。

 「僕はむしろ嬉しいのだよ……。そんな辛い話を、包み隠さず僕に話してくれたことがね。これは望ましいことだよ……。夫婦の間にはちょっとも秘密があってはならないのだからね」

 私は博士を見習って、さもムムミの話を信じきっているとでもいうように振舞った。これから先もずっとこのような演技をしなければならないと思うと頭痛がするような、うんざりする気分だが。

 しかし私がそのように苦心して話を合わせてやっているというのに、ムムミの表情は晴れなかった。何を気にしているか知らないが……。

 「どうしたんだい?」

 「あの、Q作さん。……わたくしの話本当に信じていただけたのでしょうか?」

 「何を言っているんだ」

 信じていないに決まっている。口には出せないが……。

 「僕が君の言うことを信じないわけがないだろう?」

 「ええ……そうですね……」

 一体何が気に入らないというのか。私がここまで言ってやっているというのに、ムムミは煮え切らないことばかり言う。私はさすがに苛立ちを覚えた。

 「一体どうしたんだ。何を気にしているんだ?僕は君の過去なんて、一切気にしないと言っているじゃないか」

 「……左様ですか。では、お聞きします」

 ムムミはきっと私の顔を見上げて、言った。

 「わたくしが遊女であったということ。それをどうお考えなのですか?全く気にならないとおっしゃるのですか」

 私はちょっとまごついた。全く意想外のことを言われ……そして、ムムミが私を見上げるその眼が、常の彼女には見慣れぬものだったので。

 この場をなんとか取り繕わねば……。

 「たしかに驚いたけど、そんなこと僕はちっとも気にしないよ。だって今の君には全く関係ない話じゃないか」

 「どうして関係ないなどと仰るのですか。それはわたくしの過去の話なのですから、わたくし自身のことなのですよ」

 「……ああ、そうだった。まあ、だけど、どのみち僕は気にしないよ。君の過去なんて」

 「元遊女であったわたくしを、妻として迎えることになっても構わないと、そう仰るのですか?」

 「もちろんさ。僕はたとえ相手が商売女だからって、軽蔑するような了見の狭い男じゃないよ」

 ムムミの瞼の下辺りがピクリと動いた。感動したのであろうか?

 まあ口では調子のいいことを言ってみたが、現実問題としては私が遊女などを妻に迎えるなどということは勿論あってはならない。なにしろ私は帝國大学を出て学士になる予定なのだ。そのような私にふさわしい妻には、やはりそれなりの格が求められてしかるべきであろう。

 しかしムムミの場合は気にかける必要はない……なんと言っても遊女なぞというのは妄想に過ぎないのだから……。

 それでもまだ気に病むというのか、ムムミは言う。

 「本当に宜しいのでございますか?わたくしは、他の男に抱かれた、穢れた身の女なのですよ」

 「だから構わないと言っているじゃないか。むしろ望むところというものさ。そんなに経験があるというのなら、さぞかし床上手なのだろうからね……」

 もちろん実際にムムミが他の男と関係を持っていたのだとしたら、絶対に許さないが。まあ、商売女が相手ならば験豊豊富な方がよいというのは嘘ではない。

 「……左様にございますか」

 はたして納得しているのかいないのか。似合いもしない古風な言葉遣いで呟き、ムムミは力なく項垂れている。

 私はその表情を見てギョッとした。――一瞬、その顔が別人のもののように見えたのだ。それは眼の錯覚に過ぎず、すぐにムムミの顔に戻ったが……。

 或いはそれは錯覚ではなく、ムムミが見慣れない表情を浮かべていたために、そう見えただけなのかもしれない……。

 いずれにせよ気分のよいものではない。ひょっとするとハルなぞという妄想上の人格に感情移入し過ぎたために、ムムミはそんな表情を浮かべたのかもしれない。もしそうならば、こんな薄気味の悪いことがまた起こるかもしれない。

 とにかく早くムムミを元気付けて、こんな陰気な顔を止めさせなければ。

 「大丈夫だよムムミ。何があっても僕は、君を見捨てたりなんてしないから……」

 そう囁いて私は、彼女の肩に手を――

 「イヤ!」

 え…………。

 何が起きたのかわからなかった。聞く筈のない否定の叫びを耳にして、気付くと私の手は何にも触れてはいなかった。ムムミの肩を抱こうとして、振り払われたのだと気付くのに数秒の時間を要した。

 私は呆然と恋人の――ムムミの顔を見た。彼女は私の手を無残にも振り払った姿勢のまま、その頬を薔薇色に紅潮させて私を見ている。…………?

 いや……これは…………まさか、睨んでいる?

 まさか。そんな馬鹿なことが……。あの、ムムミが……。

 「わたくしに触らないで!」

 未だかつて世に出た事のない非情な言葉が吐かれ、私の耳朶を、いや全身を打った。私は思わずよろめいた。

 愕然とした私の表情を見てムムミは、ハッと我に帰ったようだった。寝台から飛び降り、私の足元の床に座ると、三つ指をついてその場に土下座した。

 「申し訳ございません、Q作様

 深々と頭を下げてムムミは言った。

 「けれどどうか、どうかお許しください。わたくしはもう、貴方様と結婚するわけにはいかなくなったのでございます」

 ……………………。

 何…………何だって…………?

 一体何を言っているのだ、ムムミは……。

 「わたくしはもうムムミではないのです」

 「え…………」

 「どうか今日、この時を最後に、××ムムミという女のことは金輪際お忘れください。前世の自分を思い出した今となっては、わたくしはもうムムミではないのです。わたくしはハルなのです。ムムミという女は、貴方の許嫁であった女は、もうどこにもいないのです」

 「な……に……」

 声が掠れて思うように出ない。それでも私は必死に搾り出すように言った。

 「何を……言っているんだい、ムムミ……。君はムムミじゃないか。君だって、僕との結婚……を望んでいただろう……?」

 「たしかに、ムムミであった頃のわたくしは、それを認めておりました。親同士が決めた話とはいえ、そんなのはごくありふれた話ですし、貴方とはまあ見知った間柄ではありましたし、他に気になる殿方がいたわけでもありませんでしたから。それは事実でございますし、ですから本当に申し訳なく思っているのです。

 けれど、今……今の私は過去を、前世の記憶を取り戻し、そしてかけがえのない人のことを思い出したのです。生涯この人だけ、と迷いなく思える男のことを思い出したのです。後にも先にも、前世でも現世であっても、わたくしが心から惚れた相手は佐吉さんただ一人だけ。ですからこうして思い出せた上は、他の殿方と結ばれるなどということは、わたくしにはもはや絶対に考えられないことなのでございます。

 今になってこんなことを言い出して、貴方様には本当に申し訳なく思っております。けれど最前に恥かしくも告白いたしました通り、わたくしは所詮は遊女上がりの女です。貴方様の仰るところの、商売女だったのです。

 ですからどうぞ、わたくしのことなぞは見下げ果てた、つまらぬ女とお忘れになってください。そして学士様にふさわしい、立派な御才女をお迎えになってくださいまし」

 バカな……。

 バカなバカなバカな。

 そんな莫迦げた話があるものか……。

 ムムミを見下ろし私は口を開いた……。

 「あの人だって……?佐吉だって……?そんな奴がいるわけないじゃないか……」

 「たしかに、あの人がまだ生きているとは限りません」

 やはり頭を下げたままムムミが答える。

 「けれど前世のこととは申しましても、百年も前の話ではございません。もちろん何十年も前のことには変わりなく、たとえ生きていたとしても年を取り、妻や子供はおろか孫までもいるやもしれぬ身に違いありません。それでもわたくしはよいのです。一向に構わないのです。こうして生まれ変われたのですもの、ただもう一度あの人の姿をこの目に見たい。あの懐かしい声が聞きたい。

 きっと今の姿を見ても、これがあの遊女であったハルなどとはわかってもらえないでしょう。それでもよいのです。いいえ、その方がよい。気付かれなくていい、できればわたくしはそうして、ただあの人を見守りながら生きたいのです。そして、もし……もしあの人が死んでいたとしたら……。その時は、せめてあの人の最期が知りたい。あの後、わたくしと別れたあの人がどんな人生を送り、どんな最期を迎えたか、わたくしはそれをなんとしても知りたいのでございます」

 「それについては私共が請け合ったのだよ」

 言ったのは阿部博士だった。

 「日下部ハルさんの前世の恋人について調査することを条件に、彼女にはこの研究所にお越し願ったのさ」

 「先生方には本当に感謝しております」

 やはり頭を下げたままムムミ……は……言った。

 「このように今の私にとって必要な、前世を思い出すために格好の暮らしをさせて頂いている上に、あの人のことまで探して頂けるなんて……。

 あの人を探すと申しましても、もう何十年も昔のこと、正直なところわたくしの手には余ることですから……。本当に何から何まで、お世話になってしまって……」

 「礼など結構ですよ。最初にお話しました通り、貴女に前世のことを思い出して頂くことも、貴女や佐吉さんの消息を調査することも、それら全てが私の研究にとっては有益なことなのです。ですから私は私の都合で研究しているだけで、それを貴女が気に病むことは全然ないのですよ」

 「……先生……」

 ムムミが涙に濡れた顔を上げる。それを見て――。

 「誰が頭を上げていいと言った、この売女(ばいた)が!」

 私は叫び、ムムミの頭を力一杯踏みつけ、冷たいコンクリートの床に押し潰した。それでも怒りは治まらず、グリグリと足に力を込めた。

 「前世だと?佐吉だと?訳のわからんことをぐだぐだぐだぐだ話しやがって頭沸いてんのかこのズべ公が!沸いてんのか?沸いてんだな?そうじゃなきゃあこの俺様を袖にするわけないよなあ!未来の学士様の手を振り払うなんて、いかれてなきゃあできないんだ!」

 「おいおい……。落ち着きたまえよ、夢野君」

 止めに入る博士を私は睨んだ。

 「貴方も貴方ですよ、阿部先生!こんな莫迦女の妄想話に付き合って、莫迦らしい話をしたりして!何が研究のためですか、くだらないにも程がある!

 貴方は、あ、貴方はそれでも誇り高き研究者ですか!帝國大学の教授ですか!」

 「先生のことを悪く言うのはお止めになってください!」

 頭を踏みつけられたままムムミが叫んだ。

 「悪いのはわたくしです。わたくし一人が悪いのです。どうか、責めるならわたくしだけを責めてください。それで貴方様のお気が済みますものならば――」

 「当たり前だ!悪いのはお前だ、お前一人が悪いのだ!」

 「夢野君……」

 「止めないでください、先生、暴言は取り消します。貴方は職務に忠実なだけなんだ。素晴らしい学者だ、それはわかっているのです。謝罪は後でいくらでもします。ですからと、止めないでください、どうか今は止めないでください。

 こ、この女はよりにもよって、僕を棄てようというのですよ。大日本帝國の男子であり、夢野家の長男であり、将来の学士であるこの僕を、女の分際で、コ、コケにしたのですよ。男の顔に泥を塗り、侮辱しくさったのですよ。これが怒らずにいられますか。成敗せずにいられますか。

 ど、どうだムムミ。自分の罪を思い知ったか?今ならまだ許してやらないこともない。僕と一緒になれば、薔薇色の未来がお前のものになる。泣いて謝れば、今なら許してやってもいいと言うのだよ」

 「嫌でございます」

 頭を踏みつけられたまま、息の苦しそうな声音で、しかしムムミははっきりと言い放った。

 「……なに?も、もう一度言ってみろ」

 「嫌だと申し上げたのでございます。わたくしはもう、貴方様とは……いえ、あの人意外の殿方とは一緒になるつもりはございません」

 「ふ、ふざけるな!また訳のわからないことを!大体、大体おかしいじゃないか、佐吉とかいうどうせもう死んでいるのだろう?どうやって死人と一緒になるというのだ」

 「そういう問題ではないのです。佐吉さんと一緒になれるか、という問題では。身の上話をする時に申し上げたでしょう。心底好いた相手がいるというのに、他の男に身体を許すことほど、女にとって辛いことはないと。ですからわたくしは、佐吉さんがたとえ死んでいたとしても、生涯他のどなたとも一緒になることはないのです」

 「ふざけたことを抜かすな!」

 怒りに任せてさらに足に力を込めるとムムミが呻きを上げる。

 「佐吉、佐吉、佐吉だと?なにが佐吉だ、所詮ただの職人風情じゃないか。そんな貧乏人と、この僕と、比べること自体がそもそも間違っているのだ!」

 「やめてください」

 思いがけぬ固い声音に私は怯んだ。

 「何だって?」

 「佐吉さんを悪く言うのはやめてください、と申し上げたのです」

 私は激昂した。

 「お前が僕を非難できる立場か!」

 「もちろん、責められるべきはわたくしです。過去のことを忘れていたとはいえ、まがりなりにも婚約を取り交わしておきながら、一方的にそれを破棄したわたくしです。わたくしはたとえQ作さんに殺されても文句の言えぬ身でございます。だからこそ、何を言われましても足蹴にされても、あえてそれを引き受ける覚悟です。

 けれど、どうか佐吉さんを悪く言うことだけはお止めください。あの人は何も悪くないのです。悪いのは全てわたくし一人、たった一人のわたくしです。罪は全てわたくし一人のものなのです。

 ですから、どうぞわたくしを罵ってください。いくらでも蹴って踏み付けなさって下さい。その代わり、どうかあの人を悪く言うことだけは……」

 「知ったことか!ふん、僕は事実を言っているだけだ。僕は学士で、知識階級で、佐吉はたかが労働者だ!」

 「そうでございますか。……貴方がお止め下さらないならば、わたくしも申し上げることに致します。そもそもわたくしは、佐吉さんのことを思い出す前から、貴方様との結婚には乗り気ではなかったのですよ」

 「な……なんだと……」

 私はその言葉に衝撃を受けた。身体がよろめいて、踏み付けにしていたムムミからうっかりと後退ってしまった。するとここぞとばかり、ムムミが顔を上げる。

 その眼光に怯みながらも私は言った。

 「ぼ、僕との結婚に、乗り気じゃなかっただと!そ、そんなバカな!お前、だって、全然そんなことは言わなかったじゃないか!」

 「それは、その頃のわたくしが「ムムミ」だったからです。何の苦労も知らずに育ち、食べるものに困ったこともなく、立派な教育を受け、人の悪意というなどというものをほとんど知らずに育った娘だったからです。……それに、貴方はたしかに優秀な方でしたし、上辺だけは優しく見えましたから」

 「上辺だけ?上辺だけと言ったのか?」

 「その通りです。その頃からわたくしは、貴方の優しさというものにはどこか違和感のようなものを覚えていたのです。この方と結婚して本当に心から幸福になれるのか、不安にも思いました。けれどその頃のわたくしは、人の悪意には疎かったものですから、そんな自分を恥じてもいたのです。そんな風に人の心根を疑うのはいけないことだ、信じなくてはいけないんだ、とそのように自分に言い聞かせ、懸念を押し殺していたのです。

 けれど今になって、前世の経験を――ハルとして生きてきた人生を――思い出して見ますと、漸くにしてわかったのです。わたくしが感じていたことは間違ってはいなかったのだと。佐吉さんのことを抜きにしても、わたくしはQ作さんを愛することはできない。Q作さんと結婚してしまえば必ず不幸になる。

 だってQ作さん、貴方はわたくしを見下しているのでしょう?」

 「な、なんだって……」

 私は自分の耳を疑った。

 「いいえ、わたくしだけではありません。貴方という人はわたくしだけではなく、女というもの全てを見下しているのでしょう?」

 「バ、バ、莫迦なことを言うな。僕は君のことを見上げた女性だと思っていたのに、よりにもよってそんなことを言うのか。僕は別に君の外観だけを愛でているのではなく、君のことを聡明だと思うからこそ、大事にしてきたんじゃないか」

 「そうですか?ご自分に尽くしてくれると思ったからこそ、わたくしを妻にしたいと思ったのではないのですか?」

 「それの何が悪いのだ!」

 「それはつまり、自分の役に立つからという、それだけのことではありませんか。それはわたくしという女、いえ、一人の人間としてのわたくしを認めているということにはならないのですよ。結局、貴方はご自分一人が大切なのです」

 「う、五月蝿い!女の分際で!」

 「ほら御覧なさい、申し上げた通りではございませんか。貴方は女というものをそっくり見下しているのですよ」

 「五月蝿いと言っているじゃないか!ぼ、僕に意見するな、商売女の分際で!この売女!」

 「商売女、でございますか。そのことについては否定いたしません。貴方が仰る通り、わたくしは商売女だったのでございますから。

 ――ですがQ作さん、貴方だってそんな商売女に、さんざんお世話になったのではありませんか?この京都の街で」

 私はギクリとした。

 「な、何を言っているんだ……?まさか、僕が、そんな……」

 「とぼけたって無駄ですよ。ちゃあんとお顔に書いてあるのですから。ほら……」

 ムムミは床に倒れた体勢のまま、下から私の顔を指差した。私は泡を喰ってその手を振り払った。

 「図星でございましょう?」

 そう言って、笑みを浮かべるムムミの顔を見下ろして、私は心底ゾッとした。その顔は決してムムミのものではなかった。たとえ顔の造作は同じでも、そこにいたのは断じてムムミではない。こんな表情は、私の知っているムムミではない……と思われて……。

 動揺する私に、勝ち誇ったようにムムミ?……は言う……。

 「先もお話いたしました通り、そして貴方様が蔑みました通り、わたくしは遊女でございました。商売女でございました。……ですから、わかるのですよ。よく存じ上げているのですよ。(くるわ)にいらしたことのある殿方と、全く郭に縁のない殿方が。特に郭に通い詰める殿方、それも目当ての女がいるというわけでもなく、ただ誰でもいいから女を抱きたいという浅ましい心根の殿方は、一目でそれとわかるのでございます。

 別にそのことを咎め立てするつもりはございませんよ。何といっても、わたくしがそれを非難するのも筋違いではございましょうから。……けれど、ねえQ作さん、貴方は先程仰っていましたよね、暇がないから実家には帰れないのだと。学士になるためには、家になど帰っていられないのだと。

 あら、ですけど郭で女を、貴方があれほど馬鹿にした商売女を買う時間はございますのね。けれどその分では、本当に学士様になれるかどうかも、怪しくなってまいりましたねぇ?」

 「だ、だ、だ、だ、だ、だ、黙れ!」

 激高のあまり私は上ずった声を上げた。

 「わ、わかったようなことを抜かしやがって!お前に何がわかると言うんだ!お前なんぞに!お、お前なんぞに!学問のことで、学士の私に、お前なんぞが何を抜かすか!」

 「あら。まだ学士ではないのではありませんか?」

 「黙れ!」

 怒りに任せて、私はこの無礼な女を蹴り飛ばした。倒れた所を再び踏み付けようとした。

 しかしそこに邪魔が入った。阿部博士であった。

 「そろそろやめておきなさい、夢野君」

 「と、止めないでください、先生!僕は――」

 「君は先程もそう言って、まあ気持ちもわかるからあえて止めずにおいたのだが、そろそろ潮時というものだろう。罵るなら気の済むまで罵ればいいが、これ以上の暴力沙汰を黙ってみているのも、人としてどうかと思ってね」

 「し、し、しかし先生!これは、これは暴力なぞではありませんよ。ありませんよ!」

 「暴力ではない?だったら何だというのだね?」

 「これは、これは……罰です。そう、懲罰です。この女は罪を犯したのです。ですから、僕が正当な権利の元に、罰を与えているのです!」

 「罪。ほう。彼女がどんな罪を犯したというのだね?君を侮辱した罪かな……」

 「ち、違います!決まっているじゃないですか、先生!姦通ですよ。姦通ですよ、先生!重罪だ、重罪だ!ねえ先生、姦通だったらこの程度では済みませんよ。何しろ姦通ですから、姦通ですからね!それをこの程度で済ませてやろうというのです、むしろ穏便じゃありませんか!」

 「落ち着きたまえ、夢野君。前世の恋人相手に、姦通罪は適用されないよ」

 信じられない思いで私は叫んだ。

 「貴方まで!先生、貴方までもがそんなことを仰るのですか!そんなわけのわからない戯言を、真理の探究者である貴方が!見損ないました、先生。貴方は科学者の風上にもおけない!」

 「先生を侮辱するのはお止めください、Q作さん。さあ、わたくしをもっと蹴りなさい!」

 「黙れ!この姦通女め。不倫女め。お前なんぞ蹴ったら僕の足が汚れる。この異常者め、頭がおかしいくせに!」

 「わたくしの頭がおかしいですって?異常者?貴方は何を仰っているのですか」

 「何を言っているのか、だって?ふん、そうか。自分ではわからないのだったな。まったく、おめでたいものだ……。ん?あ……。あ、あ!そうか!わかったぞ……!」

 まったく唐突に私は閃いた。この訳のわからない状況、おかしな事件の全貌が、秘密の真相が、私には見えたのだ。

 そうだ。最初から何かがおかしいと思っていたのだ。いや、なにもかもが間違っていたのだ。

 床に転がったままのムムミを見下ろすと、ムムミは訝しげに私を見ていた。

 「何がわかったというのですか?」

 私は勝ち誇って言った。

 「何もかもだ!そうやってとぼけていても無駄だぞ。僕にはことの真相が全てはっきりとわかっているのだ。貴様、よくも僕を騙そうとしたな!」

 「騙す?何のことでしょう?」

 「とぼけるなと言ったはずだ。もう演技はやめろ!前世の話を思い出しただなんて、全部嘘だったのだろう!」

 「何を言い出すのかと思えば……」

 ムムミは不遜にも呆れ果てたという目で私を見た。しかし私には、それも取り繕っているようにしか見えない。

 「わたくしは嘘など吐いておりません」

 「ふざけるな。そんな非科学的なことがあってたまるか。僕には全てお見通しなんだ。今からお前の企みを全部暴いてやる。大方こんなところだろう……。

 お前は僕がいない間に、あの町で男を作ったのだ。それで愚かにもそいつと一緒になりたいと思ったものだから、適当な嘘をぶちまけて、僕との結婚の約束を破談させようと企てたのだ!」

 「なんとまあ……。よくもそんな根も葉もないことを考えつけるものですね」

 「お前がそれを言うのか。シラを切るな!」

 「今さら貴方に何と思われようと構いませんが、名誉のために申し上げておきます。わたくしは嘘など一切吐いておりません。わたくしの愛する人は佐吉さんだけ、前世の恋人であったあの人だけなのです。信じて頂かなくとも一向に構いません。ですが、阿部先生が調べてくださると仰っているのですから、いずれはわかることなのですよ」

 「まだ嘘を吐くというのか。頭のおかしなふりを続けるのか」

 「貴方こそ、先程から何を仰っているのですか。わたくしの頭がおかしい?」

 「そうだ!僕が何も聞いていないと思っているのか!ここは……」

 「佐藤君」

 突然割り込んできた声は阿部博士のものだった。私は虚を突かれた。佐藤という名前が咄嗟に思い出せず、戸惑ったのだ。

 次の瞬間、私は、音もなく忍び寄ってきた佐藤看護人によって背後から押さえ込まれ、口を塞がれた。そして無理矢理に六号室から――ムムミのこの病室から――連れ出されたのだった。

 

 

第三章  輪廻症(リンカーネーション・シンドローム) 

 

     1

 

 私は屈強なる佐藤看護人に羽交い絞めにされたまま為す術もなく、むりやり六号室の外へと運び出されると、床に転がされた。襟を掴まれ、そのまま荷物のように上階へと運ばれると、院長室へと連行された。そこで漸く開放された。

 と思いきや、佐藤看護人がすぐに椅子を持って――先程私が座っていた椅子を――、そこに座らされた。私の向かいには院長の机……。

 阿部博士はその、彼のための席に着くと、「やれやれ」とこれみよがしに吐き出した。

 「困ったことをしてくれたね、夢野君」

 博士は私を咎めるような言葉を口にした。が、言うほどに気分を害しているようには見えなかった。そもそも怒ってなどおらず、ただ医師として――そして院長として――の対面上から、とりあえずそう言ってみた、というだけの感じではあった。

 しかし当の本人である私には、そんなことはどうでもよかった。私が腰掛ける椅子のすぐ背後には佐藤看護人が仁王像のように立っていて、今も私を警戒して見張っているのであったが、それだってどうでもよく思えた。私は未だムムミが、あの愛らしかったムムミがその態度を豹変させたこと、言いがかりをつけて私を罵倒したことに衝撃を受けていたのであり、そして何より、私たちの婚約にどうやら取り返しのつかない致命の傷が生じ、もはや修復は出来そうにないということを受け入れられないでいたのだ。……それはほとんど私にとって、前途洋洋たるに見えた私の人生が崩壊したのと同義だったのである。

 そんな私の心情に、しかし全く配慮してくれぬ阿部博士は言った。

 「それにしても、君たち二人のやりとりはなかなか面白い見物だったよ。特に、ムムミ君があんな風に他人を非難するとは予測していなかっただけに興味深い。……それに、勿論君のこともね。つまりはあれが普段はひた隠しにしている、君の本音というわけだ」

 「……どうしてですか……」

 博士の言葉など全く無視して私は言った。酷くかすれた、我ながら情けなるような弱弱しい声音で、とうてい聞こえなかったであろうと思われたのだが、通じたらしかった。博士は言った。

 「どうして、だって?何のことだい」

 「どうして……邪魔したのですか……」

 正確には私の邪魔をしたのは佐藤看護人であるが、この無口な男……そう言えば私はまだこの男の肉声を聞いたことがない……が博士の命令にどこまでも忠実に従っているだけであるのは明らかだった。

 どうして……どうして邪魔などしたのだ。これはどうしても私とムムミの二人だけの問題で、他者が関わってくるべき筋合いのものではないというのに。この問題に関してだけは、幾ら高名な学者であろうと口を出す権利などなく、どれほどに有能な司法組織であろうと判決を下す権限など有さず、ただ私が、私だけがこの問題においての主権を有する、最高権威者である筈なのに……。

 それなのに、どうして……。どうして……。

 「どうして邪魔したのか、だって?よく言うよ……そりゃ、君には同情しないでもないがね。しかしいくらなんでも、自分が責任者を務める施設の中で人死にを出すわけにはいかないじゃないかね。当然の話だろう?その上、その犯人を引き入れたのが私自身であって、しかも殺人劇が行われている現場に居合わせて、黙って犯人の凶行を観察していた……なんてことがバレたら、私はクビどころの騒ぎでは収まるまいよ」

 私は愛想笑いを浮かべた。

 「人死に……。そんな、大げさな……。たしかに僕があの時、ひどく取り乱していたことは認めますが、人死になんて、アハハ……。いくらなんでも、僕がムムミを殺すわけないじゃないですか……」

 「ああ……。皆そう言うんだよ」

 「皆……?皆って誰です?」

 「誰って、殺人犯だよ。いわゆる痴情のもつれというやつで人を殺す連中の、典型的な言い草さ。いかにも同情を買うような哀れっぽい声で、『先生、殺すつもりはなかったんです』……とね……」

 「…………」

 私は口を噤まざるを得なかった。屈辱の念に身を震わせつつ……。

 理念も持たず、何の計画性もなく、激情に駆られて後先考えず人を殺すなど、動物と同じではないか。殺人を犯す理由の中でも下の下に値するものではないか。

 よりにもよってこの私が、そんな……。

  さらに博士は追い討ちをかける……。

 「全く、やはり佐藤君を連れて行って正解だったよ」

 「え…………」

 私は阿呆のような顔をしていたに違いない。

 「先生……。先生はたしか、ムムミを抑えるために佐藤さんを連れて行くと……」

 「ああ。そうだったかな?嘘だよ」

 「嘘?嘘って……つまり、先生のつもりではムムミではなく、最初ッから私を取り押さえるために、この人を連れて来たということですか?私が暴れるって、わかっていたって言うのですか」

 「そうだよ」

 愕然とする私に博士は、こともなげに言った。なんたる……。なんたること……。

 私の受けた衝撃をなんと表現すればよいのだろう。度重なる衝撃に私の精神はすっかり参ってしまっていて、感情は磨耗しきっていたが……それでも、自分が博士から信用されていなかったということ、どうやら精神病者より危なっかしいと思われていたらしいということ、それを思うと情けなくて、涙が出そうになった。

 「先生!では最初から、私とムムミが会えばこうなるであろうと、予めわかっていたって言うのですか」

 「そうだよ。……と言えれば格好よいのだろうが、別に君が必ず暴れるだろうななどと考えていたわけじゃないよ。むしろ君があそこまで大暴れしてくれるとまでは思っていなくて、驚いたくらいでね」

 私はぐ、と言葉を呑んだが、しかし引き下がる気にはなれなかった。

 「先生はムムミのあの、……前世の話とやらを知っていたのですね」

 「そうだよ」

 「それで、あいつ……ムムミが僕との婚約を破棄するつもりだということまで聞いていたというわけですね。だから、僕が暴れると思っていたのでしょう?」

 「いや、それは違うな。私だってまさか、そんなことまでは聞いていないよ。私が気になるのは前世の話……つまりは彼女の妄想であって、現実の彼女のことではないのだからね。現実の恋人である君との問題をどうするかなぞ、悪いが興味はなかったのだよ。

 だけどまあ、彼女の前世の記憶というのを聞けば、彼女がそういう結論を引き出すであろうことは自ずと察しが付くというものじゃないか。だったら、手を打っておくにこしたことはないだろう?実際は修羅場になるか、それとも愁嘆場になるかといったところだったのだが、それは君の出方次第だったというわけだ」

 飄々と言ってのける阿部博士の言葉を聞いている内に私は、彼の真意がどこにあるかわからなくなってしまった。博士が口にする言葉の一体どこまでが真実で、どこからが嘘なのか、本当にこの人のことを信用してよいのか……そう思われて。

 私にはこの時、阿部博士がまるで、単なる優秀な学者ではなく、ほとんど怪魔人の如く見えた。実直で有能な精神科医の皮を被って、自分の究極の目的のためには周囲の人間を意のままに操って省みない怪魔人……。

 ……しかしたとえそれが事実であったとしても、私はこのまま引き下がるわけにはいかないのだ。ムムミをこのまま放っておくことなどできる筈がない……ここに来た当初とは全く正反対の意味で。ムムミを取り戻すことなど、今はもう望まない。

 こんなことになった以上、私にはもうあの不埒な女を妻として迎えてやるつもりなど、微塵もない。あの女は私という婚約者がありながら姦通を犯しただけではなく、あろうことかこの私を愚弄したのだから。私はあの女の見てくれと演技に騙されていたが、その化けの皮を剥がしてみれば、所詮は知性も品性もない低俗で下劣な女に過ぎなかったのだ。

 だからあの女が今さら泣いて悔い改めようと、私にはムムミを迎え入れるつもりはない。勝手にどんなくだらない男とでも一緒になればいい。

 しかしそれはそれとして、この私を侮辱したという罪は断じて許すわけにはいかない。あの女の罪を白日の下に曝して、私が受けた屈辱を倍にして返さないと気が治まらないのだ。私の誇りも尊厳も、そうでもしなければ取り戻せはしないのだ。

 そのために、まずはあの女の嘘を暴かなければならない。

 しかしそのために、どうすればよいのか。

 私がそう思った、その時……。

 「大体……」

 阿部博士がポツリと呟いた――。

 「あのままでは、全部バラされてしまいそうだったからね……」

 それはあるいは独り言であったかもしれない。それほどに小さな声であった。しかし私はそれを聞き逃さなかった。

 つい口に出してしまったというその言葉は、無意識であるだけに博士の本音であるように思えた。……いや、これこそ彼の本音に違いない。

 あの時、博士が佐藤看護人に私を止めさせた理由は、思い返して見れば決してムムミの身の安全のためだとか、そのような人道上の理由ではなかったのだ。怪魔人であるところの阿部博士が、ムムミの生命であるとか、この施設の監督責任者であるとかいった人間的な当たり前の理屈など、そもそも気に掛ける筈がなかったのだ。

 なぜあの時、博士は私を止めさせたのであるか?

 それはつまり、私があの時、この施設の実態を口走りそうになったからに違いなかった。博士は患者であるムムミに対してはここが精神病院であることを隠していたし、あの埒もないムムミの妄想をあたかも信じているかのように振舞っていたし、私にもそれを要求していた。そうすることが、輪廻症の治療には必要だからだ。患者に疑いを抱かせれば、治療――ひいては博士の研究に支障が入ってしまうのだ。

 博士にとって重要なのは、つまりは研究のみであるのだ。

 それが証拠に、私は散々にムムミを蹴ったり踏んだりしたが、博士はその時は形ばかり止めに入る振りをするだけで、あとは静観していたではないか。止めようと思えばすぐにでも私を止められた筈なのに――佐藤看護人に命令して――実際はそうはしなかったではないか。

 つまり博士にとってムムミ本人は重要ではない。博士にとって重要なのは、己の研究それだけなのだ。己の研究を進め、輪廻症の実態を明らかにし、博士が言うところの精神科学界における京大の名誉を確立すること、それだけであるのだ。いや……ことによると、名誉ですらも欲していないのかもしれない。

 なんと恐ろしい……。あらゆる犠牲を歯牙にも掛けず人道上の要請を鮮やかに無視してまでも、他者の迷惑を省みず、ひたすらに研究の道に邁進するその姿勢……狂気にも似た情熱……。しかし、彼のような怪魔人の行動原理としては、それ以上にふさわしいものはないのかもしれないが……。

 私は漸く、阿部博士の本質を理解できた気がした。

 これを利用しない手はない。彼の本質を、その行動原理を理解することができた今なら、私の望み通りの結果を彼から引き出すことができるのではないか。

 そう思い、私はしばし作戦を考え、充分に練った。

 「先生」

 私は博士に呼びかけた。この上なく真剣な口調で……。

 「なんだね」

 「先生はムムミの話を、本当に信じていらっしゃるのですか?いえ、つまり……あの前世の記憶というやつが、本当に彼女の妄想であり、輪廻症の症例であると思っていらっしゃるのですか?」

 「勿論だよ」

 本当に、全く疑いの余地はないという口調で博士は断言してみせた。もっとも、その怪魔人としての本性を知った今では、この言葉もどれほど本気で言っているのか、怪しいものではあるが……。

 しかし私は、この怪魔人を相手取り、何としても自分の主張を認めさせねばならない。

 だから私は言った。「本当にそうでしょうか」と、思わせぶりに……。

 博士の鉄の顔がピクリと動くのを私は見逃さなかった。

 「……どういう意味かね」

 「どういう意味も何も、そのままの意味ですよ。僕があの時、連れ出される前にムムミに言おうとしたこと、先生だって覚えていらっしゃるでしょう?あの女は、先生、輪廻症などではありませんよ。頭がおかしくなった振りをしているだけなのです」

 「彼女が嘘を吐いているというのかね?」

 「そうに違いありませんよ。だって僕が知っているあいつは、あんなおかしなことは全く言いそうにない女でしたからね。あいつは婚約者である僕が何年も遠い京都の町に行っていて、忙しくってろくに帰れないのをいいことに、どこの馬の骨ともしれない男をくわえ込んでいたに違いないんだ。それで身の程知らずにも僕との婚約が嫌になったか、あるいは周囲にバレそうになったかでもして、わざと狂人めいたことを口にして頭がおかしくなった振りをしたに違いない。なんたってバレたら晒し者ですからね」

 「ふむ。一応筋は通っているようにも聞えるが、しかしどうだろうね?いくらなんでも、追い詰められたからといって頭のおかしくなった振りなどするかね?下手を打てば精神病院行きになることなどわかりそうなものだ。まあ、実際そうなったのだがね」

 「しかし先生、世間の晒し者になるか、姦通罪で監獄に行くよりかはいいでしょう。それにあいつの腹積りとしては、ここまでの大事になるとは思っていなかったのかもしれない。ちょっと気の触れた振りをしてほとぼりを醒まし、頃合を見計らって治ったという演技をするつもりだったに違いないんだ。精神を病んでいるなら多少は支離滅裂なことを口にしたって追求されないし、おかしなことをしてもむしろそれらしく思われるわけですからね。でも思いがけず精神病院に送られることになったのは計算違いということで、それがつまりは、所詮は女の浅知恵ということですよ」

 「なるほど。やはり彼女の言ったとおりだね」

 「……え?」

 「君にはやはり、女性蔑視の顕著な傾向があるようだ」

 厭な記憶が甦り、私は内心不愉快になったがなんとか堪えた。……ここで阿部博士を敵に回すわけにはいかないのだ。

 「まあ、君の言いたいことはわかったが……」

 しばらく考え込んでいる様子だったが、漸く博士は口を開いた。

 「しかし、だからといって私にどうしろというのだね?君の推理は一見すると筋が通っているように聞えるが、こういってよければ強引なこじつけに過ぎない。そんな穴だらけの推論を大声で喚き立てるぐらいだから、君はよっぽどムムミ君を陥れなければ気が済まないのだろう。そんな君のことだから、彼女は間違いなく輪廻症なのだと私がいくら説明したところで、到底納得してくれる筈もない。私が輪廻症の専門家として、彼女の所見から間違いなく輪廻症だと断言したところで、君はそれを信じないだろう?」

 「そんなことはありませんよ、先生。僕は先生を尊敬申し上げているのですから……。その輪廻症の所見というのさえ、私に詳しく説明していただければ……」

 「君はそう言うが、しかし身体上の病気ならともかく精神上の病気の所見となると、素人には判断するのは難しいのだよ。なにしろ身体の病気は症状が外見に現れたり紙の上の数値に出るなりして、どちらにせよ目に見えるのだが、精神病においてはその症状は患者の言動から判断するしかないのだからね。一人の患者についての所見が専門家の間でも分かれることだって珍しくない。だから素人が患者の所見を聞いたところで、ましてムムミ君との間に個人的な確執がある君では、正常な判断が下せる筈がないというものだ。だから君には、私の判断を全面的に信用してもらいたいものだがね……」

 「いえ先生、もちろん僕は阿部先生を全面的に信頼しておりますよ」

 「よく言うな……。心にもないお世辞を言わなくてもいいよ、夢野君。医師を全面的に信頼しているのなら、所見を聞く必要があるかね?」

 私は返答に詰まり、それにより博士の指摘が図星であることを明かしてしまった。幸い、気分を害した様子はないが……。

 それにしても、さすがは怪魔人であるところの阿部博士である。私は感心せざるを得なかった。一筋縄で言いくるめられる相手ではない。この博士を相手に回し、己の要求を通すのは至難の業と私は改めて思い知った。

 しかし私には奥の手があるのだ。さすがに、この手段だけは使いたくはないが――。

 私がそう思ったとき、阿部博士は呟いた。

 「しかし、かといって無下に断ってしまえば、自棄になった夢野君がこの病院の秘密を世間にばらしてしまうなんて恐れもあるし」

 私は内心ギョッとした。……まさにそれこそが、要求を通すためにと私が考えていた手段に他ならなかったのだ。

 「それではこうしようか、夢野君」

 意外にも屈託のない声で博士は言った――。

 「君にはもっと輪廻症のことを知ってもらおう」

 「え?」

 思いがけない提案に私はアンポンタンのようにポカンとなった。

 「私の見るところ、どうやら君はムムミ君を疑っているだけではなく、輪廻症という精神病があることそれ自体に疑いを抱いているようだ」

 「いえ、そんなことは……」

 「ないって言うのかね?本当に」

 私は素直に白旗を上げることにした。博士には嘘も誤魔化しも通用しないと思い知っていたからである。

 たしかに私は、輪廻症という病について心から信じてるわけではないのかもしれない。心のどこかで、そんな馬鹿げた病が本当にあるのかと疑っているのだ。だからこそムムミのことも疑っている。……あるいは、ムムミしか見ていないから、輪廻症を信じることができないのか。

 私はムムミが輪廻症ではなく、詐病に違いないと思っている。いいや、そう思い込もうとしている。……しかしそれは冷静な客観的判断からそう信じるのではなく、博士の言うとおり、その判断には私の個人的な願望が入り込んでいるに違いないのだ。

 しかし、だからと言って、私にどうしろというのか?

 「輪廻症を知るとは、どういうことですか?阿部先生が私に講義をしてくださるということですか」

 「いや、そんなことをしても大して成果は出ないだろう。今の君に必要なものは知識ではなく、輪廻症という病についての確かな実感なのだからね。いくら座学をして知識を得たところで、君の欲しがる確信は手に入らないよ。

 だからこうしよう。夢野君、今から私と一緒に輪廻症患者を診に行こうじゃないか」

 「…………え…………」

 今、博士は何と言ったのだ?輪廻症患者を……見に行く?

 この僕が?

 「ちょうど私も、そろそろ受け持ちの患者を回診しに行かなければならないところだ。……ここに入るときに言っておいただろう?この地下病棟においては、昼と夜が逆転しているのだと。だからここでは、これから一日が始まるという次第でね……」

 …………。

 そういえば……今は何時になったのだろう?

 地下に降りてからというもの、時間の感覚がおかしくなっている気がするが……。

 見回すと、博士のマホガニーの机の上に西洋風の小さな置時計が乗っている。

 針は八時……五分前を指している。

 ……そういえば、しばらく時計塔の鐘の音を聞いたという覚えがない。いくら地下とはいえ、何しろ同じ建物の中なのだから、聞えてもよさそうなものだが……。

 衝撃的なことばかり起きて、耳に入らなかったのか、それともこの病棟の中までは、大学の理性の鐘の音も届かないというのか……。

 いや、そんなことより、博士の提案ににどう答えるべきか……。

 こんなことを言われるとは予想外であった。ムムミであればともかく、見ず知らずの精神病患者を見に行かなければならないなど、正直言って気が進まないどころではない。何か適当な理由を作って……もう時間が遅いから……とかなんとか……この場を離れるべきだろうか?

 その迷いを見越したように博士が口を開いた。

 「そうそう……。言っておくけれど、夢野君。日を改めて、などといいうのは通じないよ。今日来ないなら、君は二度と此処には入れない」

 「そ、そんな……」

 「当然だろう。君は忘れているのかもしれないが、ここは本来なら部外者は一切立ち入り禁止の施設なのだよ。それなのにあえて君を迎え入れたのは、私の担当する患者であるムムミ君の治療によい影響を与えてくれるのではないかと期待したためだったんじゃないか。それがどうだね?よい影響どころか、君は彼女に拒絶され、激高して私の患者に暴力を振るい、あろうことか患者には言うなと口止めしておいた筈の秘密を口走ろうとしたのだよ。本当なら、私は君を見捨てるべきなんだ。

 だけど私は君を気に入っているし、君の傷心しているのも知っているから、もう一度だけ機会を与えようとしているわけだ。いわばこれが、君に提供できる最後の譲歩なのだよ。……これが呑めないというのなら、その時はもう、お引取り願うしかないだろう」

 たしかに博士の言うとおりであるかもしれない。……いやそれより、阿部博士の怪魔人たる本性を知った今となっては、この提案は私にとって破格のものかもしれなかった。なにしろ私を回診に同行させたところで、博士にとっては――つまりは彼の金科玉条たる研究にとっては――何ら益するところはない筈なのだから。

 それなのにこのような譲歩をしてくれるというのは、本当に言葉通り私を気に入ってくれているということなのだろうか?それとも、それほど私がこの病棟の秘密を言い触らすことを危険視しているのか……。

 しかしそれだけに、この譲歩を無下に断れば私は何をされるかわからないということだ。最初に会った時、博士が冗談混じりに口にした、「処理」という生々しい言葉――。

 ……仕方がない。どうやら覚悟を決めなければならないようだ。見知らぬ輪廻症患者に会わなければならないなど、ゾッとするが……。

 ……それでも、このまま黙って引き下がるなどということも、私には考えられないことなのだ。私をコケにし、袖に振ったムムミに復讐をしなければ、私の気が治まらないし、傷つけられた自尊心は回復しないのだ。私はムムミの嘘を暴き、その腹黒い企てを衆目の前に晒し、その罪を断罪させねばならぬ……。

 「決まったようだね」

 私の表情を見た阿部博士が、そう言って笑った。

 

     2

 

 私の意志を確認した阿部博士が佐藤看護人に指示を出し、何かを取りに行かせた。戻ってきた彼が私に差し出したのは、紛れもなく白衣だった。

 私は困惑しつつ受け取った。阿部博士が身につけているのと同じ型の……少し彼のものより小さめだが……ものである。

 思わず目で問いかけると、博士は「それを着なさい」とばかりに手で示した。私は当然ながら戸惑った。

 「医師でもないのに、こんな物をきる必要があるのですか?」

 「わかっていないな、夢野君。君はこれから、輪廻症の患者達のところに行くのだよ」

 「それは承知しましたが……」

 「何故かといえば、君に輪廻症の実態を直に観察してもらうためだ。当然そのためには患者の症状を知ってもらわなければならない。まあ平たく言えば、彼らの妄想――即ち前世の記憶について語ってもらわなければならないわけだ。

 でもね、君。何度も言うようだが、それは所詮は単なる妄想ではあるけれども、彼らにとっては事実に他ならないのだよ。だから彼らにとってそれを語るのは、身の上話をするような……いや、それ以上に彼らの内面に関わるものなのだ。

 しかし、初対面の赤の他人に、普通は身の上話なんてしないだろう。少なくとも抵抗はある。その抵抗を排除するために、君に白衣を着てもらうというわけさ。赤の他人でも、相手が医者――もっとも彼らは研究者だと思っているが――で、それが治療なり研究なりに必要だと思えばこそ、さほどの抵抗なく話をしてくれるという寸法だよ」

 なるほど、と私は納得しておとなしく白衣を身に纏った。それが必要な手続きであるなら、逆らうこともない。

 それに実を言えば、実際は白衣を着ることにさほどの抵抗があったわけではない。それどころか自分が理系の研究者や阿部博士のような医師になったと錯覚できて、悪くない気分だった。少し、気恥ずかしいのは事実だが。

 「結構……なかなか似合っているよ」

 白衣を着た私を上から下までじろじろと眺め、博士は満足そうに言った。

 「いいかい、改めて言っておくが、患者は皆ここが精神病院だとは思っていない。私達は精神科の医師ではなくて研究者として振舞わなくてはならない。先程のように、その辺りの秘密をバラすような真似は決してしてはいけないよ」

 「わかりました」

 「結構。それでは君は、今から私の教え子ということにしよう。……もちろん、私の下で輪廻転生を研究している教え子だ。今日は、そんな君に経験を積ませるために連れて来た……そういうことにしておこう」

 博士のその言葉に私は目眩を起こしそうだった。よりにもよってこの私が、輪廻転生などというオカルト現象を研究する学者の真似事などをしなければならないとは……。なんという茶番だろう。

 それでも私は、おとなしく従うしかない。

 そうして私たち三人――阿部博士と佐藤看護人、そして偽の研究者見習いである私の三人――は、輪廻病患者の病室へと向かった。

 

 阿部博士の指示で私達はまず地下三階に降りた。私の心は痛んだ。当然だ。ムムミから手酷い裏切りを受けたのは、つい先程のことなのだから。

 あの六号室で、ムムミは今頃どうしているのだろう?私がやむをえず加えた制裁による傷の治療を受け、もう眠っているのだろうか。それともまだ起きていて、私との間に起こった出来事を思い返し、邪悪な含み笑いを洩らしているのだろうか……。

 そう考えると私は今すぐにでも六号室に飛び込んで、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。

 「夢野君、我々が向かうのはムムミ君の病室ではないよ」

 「わかっています……先生」

 私は素直に返事をした。どうせ、病室に入るには鍵がなくてはならない。阿部博士の持っている鍵が……。

 そうだ。今はまだ、その時ではない。闇雲に怒鳴りつけてもさしたる打撃は与えられない。私は輪廻症の症状について学び、知識を蓄えなければならないのだ。そして専門家たる阿部博士をも論破できるほどの論拠を用意し、ムムミの嘘を暴いてやるのだ。

 しかしもちろん、そんなことは一朝一夕でできることではない。まずは阿部博士に取り入り、私の有能である所以を示し、気に入られるのだ。そして、今日に限らずいつでもこの病院に入る許可を得なければならない。

 そして……そのためには、輪廻症に興味のある振りをしなければならない。

 まずはその手始めとして、私は質問することにした。

 「先生、最初に訪ねるのは何という患者ですか」

 「うん……。君もどうやら、前向きな気持ちになってきたようだね。何よりだ。……ただ、彼らの前では『患者』という言葉は使わないように。

 最初に訪ねるのは、八号室の患者だよ。名前は、多上(たがみ)カヲルだ」

 タガミカヲル……その名を覚えようとして、ふと思いついた。

 「その名前は、どちらの名前ですか?」

 博士はにやりという笑みを見せた。

 「上出来だ、だいぶ呑みこめてきたようだね……。多上カヲルというのは、患者が主張する方の名前、つまりは前世の――そう思い込んでいる――名前だ。これからも、断りのない限りは前世の方の名前を教えられたのだと考えてくれ。なにしろこの病棟では断然前世の名前の方がハバを利かせているのだし、それに一応、君は部外者なのだから、患者の『本名』を教えるのは避けた方が無難だろう」

 「そうですね」

 部外者か。仕方のないことだが、まずはその認識を改めてもらわなければならない。

 それにしても、改めて思うことだが、まったく何というところなのだ。こんな正常とは思えない会話がごく普通に交わされるとは。もちろん、狂っているのは断じて私たちではなく、あくまでここの患者達なのだが……。

 そうした会話を、私達は廊下を歩きながら交わしていたのだが、その時ちょうど六号室の前に差し掛かった。私は緊張した。私の声が、病室の中のムムミに聞こえるのではないかと思い、なんとも腹立たしいことではあるが、危惧を覚えたのだ。

 私は小声で博士に訊ねた。すると、その心配はないとの答えが返ってきた。この病棟は防音が徹底されていて、病室の外の声は中には決して聞えず、病室の中の声は決して外には洩れないようになっているとのことであった。勿論、病室と病室の間も分厚い壁に遮られているので、患者同士が互いに会話することも不可能だという。

 私は納得し、同時にわかったことがあった。時計塔の鐘の音が聞えないのも、そのためであるに違いない。

 

     3

 

 八号室の扉は――当然のことではあるが――六号室のものと全く同じ造りだった。違うのは扉の脇の壁に吊り下げられた表札に記された文字だけで、そこには『八号室 多上カヲル』と書かれていた。

 私は阿部博士が鍵を取り出し、扉を開けようとする前に――即ち、こちらの声が中に聞こえるよりも前に――素早く訊ねた。

 「先生、多上カヲルというのはどんな方なのですか」

 「……ああ、そうだね。詳しい事情は後で本人に直接話してもらうが、最低限の説明だけはしておこうか」

 阿部博士はごく何でもないことのように言った。

 「多上カヲルは、実の父親を殺した殺人鬼だよ」

 「……エ……」

 私は聞き間違いかと思った。あるいは博士の冗談かと。彼ならば、そんな悪趣味な冗談でも口にしかねないので。……しかしどうも今回は冗談を言っているようには見えなかった。単に私が、博士の真意を見抜けないだけかもしれないが……。

 「で……でも、どうしてそんな……。実の父親を殺すなんて……。その父親が、よっぽど酷い奴だったのですか」

 「いいや、世間の評判を聞く限りでは、実直で品行方正、とても穏やかな好人物だったらしいよ。まあ外面だけよい男が、家庭内では暴君のように振舞うなんて話はごくありふれているが、残された家族の話を聞く限りではそれもなかったようだね。彼は家庭においてもよき夫であり、よき父親であったようだ。未亡人となった細君にしても、多上カヲルの兄弟達にしても、演技でなく本当に悲しんでいたからね。……まあそれには、身内が発狂して殺人者になってしまったという衝撃ももちろん含まれているだろうがね」

 「しかし……そんなに良い父親なら、どうして殺されなければならなかったのですか?よりにもよって、自分の娘に……」

 「そこがほら、輪廻症の症状ということさ。多上カヲルはその父親を娘として尊敬していたが、ある日突然、輪廻症の発作が起きたのさ。そしてその尊敬するべき実の父親が実は、前世の自分においては憎らしい敵であったことを思い出した……いや、そのような妄想をして夢中遊行状態に陥ったのさ。そして前後の見境を失い、発作的に殺してしまったんだ」

 なんとも救いのない話に私は絶句した。父親もさぞ仰天したことだろう。実の子供として可愛がっていた娘が、ある日突然訳のわからない妄想に囚われて、別人のようになり、そして殺されなければならなかったとは……。いや父親だけではない、そのような惨劇に見舞われた家族にとってもまさに晴天の霹靂であったであろう。

 もちろん、その多上カヲルにしても同情に値する。一体どうしてそのような妄想に陥ったのかは知らないが、敬愛する自分の父親を殺めてしまったと知ったとき、正気に返った彼女がどれほど絶望したことか……。もっとも、正気に戻ったとは限らないが。

 しかも実の父親を殺したということなら、尊属殺人の規定が適用されるはずではないか。ただの殺人だけでも重罪であるというのに、尊属殺人となると更に重い刑罰が……。

 ……え?

 「あの、先生……」

 「なんだい」

 「それでは、多上カヲルは殺人犯なのですか?」

 「そうだよ……。さっきからそう言っているじゃないか」

 「殺人犯が、どうしてこんな所にいるのですか!」

 殺人を犯した犯罪者ならば、それも父親を殺した尊属殺人の犯人ともなれば、どう考えても監獄に入れられるべきではないか。それなのに、どうして公的な施設でもない大学病院に、そんな輩が入れられているのか……。

 しかし阿部博士はカカと大笑した。

 「何を言っているんだい、夢野君……。どうして多上カヲルが殺人を犯したと思っているんだね?多上カヲルは精神病者なんだよ。精神病者が正常な判断力を喪失して犯行に及んだ場合、罪を問われないという刑法上の常識を、君だって知っている筈じゃないか」

 いわれて見れば、確かにその通りであった。精神病者が夢中遊行中に誤って人を殺したとしても、刑を受けないという話は聞いたことがある。確かそうした事例では、当該精神病者は監獄に送られるのではなく、精神病院に送られるのだと……。

 しかしいくら社会的には罪を問われない、故に犯罪者と呼ぶのは適切ではないのだとしても、しかしそんな相手に会うのは腰が引けるというのも事実である。なにしろその患者は、正気ではなかったとはいえ実際に人間を殺しているのだ。

 恐る恐る、半ば懇願するような口調で、私は聞いた。

 「先生……勿論、その患者は拘束してあるんですよね?自由に動けないように……」

 「拘束?部屋の中でかい?そんなことしていないよ」

 「ど、どうして!」

 私は思わず博士に食って掛かった。当然だろう。そんな危険人物を野放しにするとは!まかり間違って、私たちが殺されたらどうするのだ!

 「おいおい、精神病者だからって、むやみやたらと拘束なんてしていい筈がないだろう。自傷癖があるとか、他人を傷つける恐れがあるほど攻撃性が強いということならともかく、そうでないなら拘束はしない。治療の妨げになるからね」

 「でも、殺人者を野放しなんて……」

 「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれよ。病室には必ず施錠してあるし、君も見たとおりこの病棟の入り口は常に閉鎖してあるから、野放しというわけじゃないよ。

 そんなに警戒する必要はないさ。言っただろう?輪廻症患者は前世の生まれ変わりだという妄想を抱いているという点を除けば、健常な一般人と全く変わらないんだ。話している内にいきなり彼女が興奮し出して、君に襲い掛かったりするなんて万に一つもありえないよ。大体、凶器になるようなものもないしね。それにいざとなったら佐藤君もいる……」

 傍らに立つ佐藤看護人を見上げると、彼は無言のまま頷いて見せた。……たしかに、彼の腕っ節は先程、身を以って体験したばかりではある。私を酷い目に合わせたことは気に入らないが、たしかに頼りになる存在ではあろう。

 ……仕方がない。これ以上ごねていても始まらない。博士の心証を悪くするのは得策ではないのだ。

 「わかりました」

 私は頷いた。覚悟を決めて……。

 「よし。では入ろう」

 博士が鍵を開け、中に入る。私は佐藤看護人の後ろに回り、最後にその部屋に入った。

 

 私は、入った途端に襲撃されるのではないか、という不安が拭いきれず、おっかなびっくり中に入ると、部屋を見回した。 

 八号室の室内もやはり、六号室と同様の造りで、窓のないコンクリートの壁に囲まれた、強烈なまでの圧迫感を覚える部屋であった。ただ私が、地下の雰囲気の馴れていないせいかもしれないが……。 

 しかしこの部屋に限っては、その圧迫感は入る前に聞かされた猟奇話のせいであったに違いなかった。天井から吊るされた裸電球が室内を照らしてはいるが、光量が不足している印象は拭えない。六号室の時は気にならなかったというのに。

 部屋は全体に薄暗い。周辺に近づくほど薄暗く、特に四隅はほとんど闇に沈んでいるいっても良いほどであった。私は危機感を覚えた――その四隅のどれか一つに、患者であり殺人者である多上カヲルが潜んでいるのではないか、と思えたのである。闇に隠れた殺人者が、私たちの首を掻き切ろうと狙っている……そんな想像をして、戦々恐々としていた。

 というのも、室内のどこにも多上カヲルの姿がなかったからである。

 まさか、逃げたのでは……。私は泡を喰って博士を見た。もしもそうであったら、大問題である。仮にも殺人犯を、取り逃がしてしまったとあれば、世間の非難を浴びるのは避けられないであろう。

 しかし博士は事態を飲み込んでいるのかいないのか、全く慌てた様子もない。彼は全く無頓着に、鉄の寝台に向けて声を発した。

 「やあ、多上さん……。まだ寝ているのですか」

 私には最初、どうして博士が寝台になど声を掛けているのかわからなかったので、困惑した。寝台には誰もいないように見えたのだ。たとえ寝ているにしても、人間が一人横になっていれば、いくらなんでも見落とすことはないだろう。

 だから私は、阿部博士には幻覚が見えているのでは……と疑い、ギクリとした。精神科医で、患者を治療するどころかその反対に、自分が精神病を発症してしまったという人の話を聞いたことがあったのだ。

 しかし勿論、怪魔人にして、頭脳優秀たる阿部博士にそのような並の神経しか持ち合わせていないという筈もなく、幻覚だって見てはいないのであり、そこには確かに患者がいたのであった。患者……そして尊属殺害の犯人である、多上カヲルである。

 誰もいないかに見えた布団が突然、一人でに持ち上がり――私の目にはそう見えたのだ――私がギョッとして目を離せずにいると、そこにたしかに多上カヲルはいたのである。それはどうやら、布団の中に潜りこんでいたために見えなかったというだけの仕組みのようだが……。

 私は唖然とした。……そこにいたのは、年端もゆかない少女だったのである。まだ十歳かそこらの……布団に潜れば誰もいないように見えてしまうほどに、背の小さく、身体の薄っぺらの……。

 ……これが多上カヲルだというのか。

 ……この無邪気な子供が殺人犯だというのか。

 ……布団の中に潜って眠るなどという子供じみた、そして寝ぼけ眼で部屋を見回しているこの少女が、実の父親を殺したというのか。

 ……そして精神病者であり、輪廻症患者だというのか。

 私の精神は混乱を極めた。父親を殺したなどというから、てっきり私はもう立派に成長をした若い女性であろうと考えていたのだ。あるいは、中年女が老境の父親を殺したということだってあるかと……。

 それがどうだ?現れたのは、どうみてもありふれた、特に利発そうにも見えない、人生の何たるかを知る筈もなく、路地裏に座り込んでままごとでもしているような、女学生ともいえない小娘ではないか。

 こんな娘が人を……それも自分の実の父親を殺害するなどという、孝心厚き大日本帝國の臣民にあるまじき悪魔の所業を為したというのか?

 私はまた担がれているのではないか……と、まず阿部博士を疑った。この博士なら、こんな悪趣味極まる冗談だってやりかねない。そう思ったのである。

 このような年端もいかない子供が実の父親を殺すなど、本当であるなら確かに前代未聞の悪魔的事件であるが、諸外国ならいざ知らず、この大日本帝國でそんな嘆かわしいことが起きる筈がないではないか。

 大体、一人前の女でも大の男を殺すこと至難の業に違いないのだ。それだというのに、このような小娘にどうやったら殺せるというのだ。あの蚊トンボのような細っこい身体を見よ。アメンボの足のような細い腕を見よ。あれでどうして、大の大人を殺せよう?

 と、辺りを見回していた少女の目が、私に留まった。見慣れない人間の姿に驚いたのか、目を大きく見開いた。

 「……ダァレ?」

 私が名乗るより前に阿部博士が言う。

 「私の教え子の夢野君ですよ。彼はこの研究所に来たのは今日が初めてで、まだここで行われている研究については詳しくないのです。それで、色々と経験を積ませようと思って、連れ回しているところなのです」

 「フゥン……。じゃあ、これからずっといるの?」

 「さあ……。そこのところは、まだ未定でして……」

 「ミテイってなぁに?」

 「まだ決まっていないということですよ」

 「そうなんだ」

 そう言って頷くと、患者……多上カヲルはじろじろと私を見た。それはいかにも少女らしい純粋な好奇心からきているらしい眼差しで、きっと普段の私であるならそんな風に無遠慮に見られることに不快を感じたに違いないが、今は不思議と腹は立たなかった。恐らくは置かれた状況が非日常の極まるものであっただけに、私の平常の感覚はとっくに麻痺してしまっていたということ、そこに現れた見るからに平凡な、隠しようのないほどの凡庸さを放つ子供の姿が私に日常の感覚を喚起させ、その緊張を和らげてくれたということがあったに違いない。

 そんな私を見て、何がおかしいのか阿部博士は笑って言った。

 「どうです。どこからどう見ても、可愛らしい少女でしょう?」

 「そうですね」

 何の気なしに私は答えた。博士の浮かべた笑みが不可解だったのだ。

 正直に言ってしまえば、多上カヲルの容姿はとりたてて可愛らしいというほどでもなかった。どこがマズイというわけでもないが、顔の造作が全体になんとも地味で、パッとせず、たとえばムムミの幼い頃を知っている私としては、比べるにも酷に思われた。手足は痩せているのに顔は下膨れであるのも鈍臭そうな印象を与える。

 しかし顔立ちはともかくとして、初対面の大人である私を前にしても愛想が良いのはとりあえず好感を持てる。それに異常な状況下に置かれ憔悴していた私にとって、いかにも無邪気そうな子供らしい振る舞いは救いに思えたし、見ていて微笑ましくさえ思えた。

 要するに多上カヲルは私の目には徹頭徹尾、どこにでもいるような当たり前の子供であり、なんら特異なところのあるようには見えなかったのだ。

 本当に、こんな子供が父親を殺したのか?

 不可解極まりなかった。何かの間違いではないのか?

 ……不可解といえば、阿部博士の態度もどこかおかしい。私の顔を見て……いや観察しているように見える。そしておかしそうに笑い、少女の様子を眺めては目を細めているのだ。たしかに微笑ましい光景かもしれないが、あの怪魔人たる阿部博士にそんな人情味めいた感情がはたしてあるだろうか?

 まさか、博士にはちょうどこれぐらいの年頃の娘でもいて、その娘と目の前の少女を重ねて見ているのであろうか……などと、そんな想像をしてしまうくらいだった。

 一方の多上カヲルといえば、初対面の私に興味を抱いているようだった。考えてみればこんな幼い年齢でこのような、大人でも精神が参ってしまうような窓のない、四六時中薄暗い部屋に閉じ込められていて、辛くないはずがない。当然同年代の友人などおらず、会いに来るのは五十近いであろう安部博士と三十程の佐藤看護人ぐらい、あとは看護婦ぐらいだろうが、これも今まで見かけた限りでは年の若いのはどうしてか見ない。そんな環境であってみれば、私のような若者が珍しいのも無理はないというものだ。

 私は自分でも挨拶しようと前に進み出た。

 「初めまして……夢野Q作です」

 子供は好かないが、それでも精一杯愛想よく振舞った。

 「宜しく……多上さん」

 「よろしくお願いします」

 と、彼女は何を思ったか寝台から降りて、私たち……いや、私の方に元気のよい小走りで駆け寄ってきた。私は瞬間、「多上カヲルは殺人者」という博士の言葉を思い起こしギョッとした。

 彼女は私の傍で立ち止まり、子供らしい好奇心を以って私を見上げる。私はビクリと震えそうになった……が、なんとか堪えた。こうして間近で見てもやはり、単なる邪気のない子供にしか見えず、そんな子供に怯えるのは不自然だし、何より私の自尊心が許さない。

 私は彼女をどう扱ってよいかわからず左右の二人を見たが、阿部博士も佐藤看護人も助け舟を出してくれる気配がない。私は仕方なく、腫れ物に触るような心持ちで声を掛けた。

 「ど、どうしたの……多上さん」

 「多上さんなんて呼ばないで。ねえ、Q作さんはおいくつ?」

 「僕は、二十歳だけど……」

 「まあ、お若いのね」

 私は少し苛立った。子供の癖にまるで一人前の大人のような小癪な言い草をするのが気に食わなかったのだ。もちろん、表には出さなかったが……。

 彼女は私を見上げ、目を輝かせて言った。

 「ねえ、一緒に遊んでくれない?」

 「え?……僕がかい?」

 「もちろんよ。他に誰がいるの?先生や佐藤さんは私と遊んでくれないんだもの」

 そうであろう。まさか怪魔人たる阿部博士が子供と戯れる姿など……例えばにらめっことかままごととか……想像もつかないし、頑ななまでに無口な佐藤看護人ともなれば尚更である。……もっとも彼の場合は、博士の命令さえあれば従うかもしれないが……。

 それはそれとして、私は少し不愉快だった。もともと五月蝿い子供など好きではないし、まるで命令でもするような彼女の言い草が鼻に付いたのだ。子供の分際で、この私に向かって……。

 「残念だけど、遊んではあげられないよ。僕は研究のために来たんだからね」

 「そんな……」

 少女は落胆したような顔で、今度は懇願するように言ってきた。

 「ねえ、お願いよ。ちょっとだけでいいから。毎日つまらないんだもの……ここには、何もないし……知っている人が誰もいないし……」

 これを聞くと、私の心は多少は揺れ動いた。たしかに少女の置かれた環境は子供の身にはあまりに苛酷なものであった。家族からも、仲の良い友達からも離れ、こんな精神病院の一室に……それも、陽の光も射さないこんな特殊な病棟に、閉じ込められているのだから(もっとも、多上カヲルはここが精神病院だとは知らないが……)。

 それにこの部屋にはあまりに何もない。娯楽になるような物どころか、気晴らしになるものすら何一つとしてないのだ。こんな場所で日がな一日、何もせずにボケッとしていたのでは、それこそ拷問のような責め苦であろう。

 少女は私が折れないと見るや、博士に頼った。

 「ねえ、阿部先生、いいでしょう?」

 「そうだね。夢野君、遊んであげなさい」

 あまりにあっさりと言う博士を私は恨んだが、まさか異を唱えるわけにもいかない。私は観念し、腰を落として少女と視線を合わせ、言った。

 「……よし、遊ぼうか」

 彼女は文字通り、飛び上がって喜んで見せた。やはり気は進まないが、それでもこうして喜んでいるのを見ると悪い気はしない。不憫でもある。

 「本当?Q作さん!」

 「ああ。……何して遊ぼうか?」

 「えっと……。お手玉とか」

 お手玉か。あまり経験はないが、それ位なら見様見真似でなんとかなるだろう。問題は、お手玉などというものがこのとんでもない病院にあるかということだが……。

 私は目の前の少女から、阿部博士へと振り返り、訊ねようとした。

 「阿部先生、お手玉は……」

 「――なんて言うとでも思ったか、この間抜け野郎が」

 え?

 唐突に耳に進入してきた声に、私の思考は停止した。それが誰の声であるのか、咄嗟にはわからなかったので……。

 粗雑で、下品な言葉遣い……聞き違えようもない悪意の込められた声……。そしてそれらに不似合いな、かん高い調子外れの声……。

 こんな声を出す人間は、この部屋にはいない筈……。

 ……いや、本当はわかっていた。こんな下品な言葉を口にする人間、してもおかしくない人間がいるとすれば、それは……。

 私は目の前に向き直った。そして全身が凍りついた。あの子供らしかった顔はどこにもなく、少女らしくもない下卑た笑みを浮かべる、変貌した多上カヲルの顔を見て……。

 あまりに唐突で、そして異様な変貌を目の当たりにして私は総毛立ち、腰を浮かそうとした。しかし狼狽していたせいでよろめいてしまい、却って無様に腰を落としてしまった。

 多上カヲルはそんな私を見て、あろうことかゲラゲラと笑い出した……。

 「マジかよ!こいつ腰抜かしやがったぜ!情けねえなあおい。ギャハハハハハハ!」

 ……私は悪鬼のような表情を浮かべる多上カヲルを、呆気に取られて見ているしかなかった。あまりにも違いすぎる。先程とは……。そもそも、女の言動とも思えない。

 もしや……二重人格……。

 「それぐらいにしてあげなさい、多上さん」

 そう言って彼女(彼?)を諌めたのは博士であった。

 「そうやって人をからかうのは貴方の悪い癖ですよ」

 「そうはいいますがね、先生。こんなシケた処に四六時中押し込められてるんだ、こんなことでもしなきゃやってられませんよ。酒とはいわないが、煙草でもありゃ別ですがね」

 「監獄だってこんなものですよ」

 「そりゃまあそうだろうが……。しかし先生、アンタは俺を咎めなさるが、アンタだって人のこと言えないでしょうが。この坊ちゃんに俺のこと教えてなかったのはわざとでしょう?」

 私はハッとして博士を仰ぎ見た。そうだ。ここに入る前に教えてもらっていれば、私とてこんなにも驚くことはなく、無様な姿を晒さなくてもよかったというのに。

 博士は苦笑し、人のよさそうな笑みを顔面に張り付かせつつ言った。

 「それはほら――やはり、君の楽しみを奪うのも気の毒ですしね」

 「ちげぇねえ!さっすが先生、話がわかる!」

 私は開いた口が塞がらなかった。多上カヲルといい――阿部博士といい――。

 佐藤看護人が手を貸してくれて、私は漸く立ち上がる。相変わらず何も言わないが、私を除けば佐藤氏こそが唯一まともな人物に思えてきた。もしかしたら黙狂かもしれぬ佐藤看護人が……。

 立ち上がった私は、まだ大口を開けて笑い転げている多上カヲルを見下ろした。野蛮な言葉遣いといい、下種な振る舞いといい、とても見かけ通りの少女のようには思えない。いや……先程までの彼女と、同一人物とは思えない。

 やはり、二重人格なのでは……。

 「先生、この子はもしや……」

 「言っておくが、二重人格ではないよ。……言っただろう?ここに集められたのが、どんな人間か……」

 「……あ……」

 そうだ。此処にいるのは精神病ではあっても、一つの特殊な病の患者しかいないのだ。

 輪廻症…………。ここでは口には出せないが……。

 阿部博士が私に頷いて見せた。

 「そう。君が今見ているのは、前世の彼なのだよ」

 「……彼?」

 「そうだ。言ってなかったかな……。彼は前世では男性だったのだよ。今は見ての通り、女性の身体に転生してしまったのだがね。カヲルというのも前世の名前だが、まあ紛らわしい名前だから、君が女性だと勘違いしてしまっても無理はない」

 無理もないだって?よく言う……。博士はわざと黙っていたのに違いないのだ。勘違いした私の反応を見て、面白がるために……。

 私は冷静になろうと努めた。博士の悪ふざけは、今に始まったことではない。

 ……それにしても、年端もいかない少女がいかにも野卑な振る舞いをしている姿を見ていると頭痛を覚えた。男のような振る舞いをしたがる言語道断な女などというのはさして珍しいものではないが、彼女(彼?)の場合は違う。男のような、などというものではなく、まさしく男そのものなのだ。それどころか、男というものの醜悪な側面を抽出し、故意に誇張しているように見え、男を戯画化し、貶めているようでもあった。そのアンバランスさ、グロテスクさ……私は、ほとんど生理的な嫌悪のようなものを覚えた。いや、虫唾が走った。

 ようやく笑いを収めた彼女はもう私に対する興味を失くし、阿部博士に(あろうことか!)煙草をねだっている。まるで受刑者――それも全く己の醜悪なる罪を反省していないという類の――が倣岸にも看守に煙草をねだっているというそのものの振る舞いで、それでいて時折、外見通りの年相応な態度で菓子でもねだるような態度もとる。

 それを眺めて、漸く私にも事情が呑み込めてきた。少女としての多上カヲルの人格と男性としての多上カヲルの人格があたかも混在しているかのように見えるが、要するにそれは見せかけであって、片方は演技に過ぎない。そして真実なのは実は男性としてのそれなのであり、外見にふさわしい子供らしい振る舞いの方が演技なのだ。……それは、子供のような無邪気な口調で煙草をねだっているという忌まわしい光景からも明らかである。

 そうは思っても、しかし奇抜な光景に映るのはどうしようもなかった。これも輪廻症の特有の妄想から由来するのだとすれば、この少女にはきっと余程、女としての自分自身を忌避する心理的な傾向、あるいは男性存在への羨望の念があったのであろう。そのような心的な要因があってこのようなあどけない小娘の身体に男性としての人格が――それも「前世は男だったのだから」というもっともらしい自己暗示を伴って――発生したのに違いない。

 「……なに見てんだ、お前」

 私の視線に気付いたのか、多上カヲルが私を睨みつけてきた。……小娘の姿で睨みつけられてみると、私はこの小娘の精神が正常ではないと十二分に承知してはいたが、それでも不愉快な気分を抑えられなかった。

 「何だその眼は?俺はこう見えてお前よりも年上なんだぞ。敬えや、あ?」

 据わった眼で私を睨みつけてくるその顔には先程の子供らしい面影など微塵も残っていなかった。元々が大して整った顔立ちではないのが、その子供らしさで漸く可愛らしくも見えていたというのに、今のその顔は醜悪以外の何物でもない。不快どころか、吐き気を催すほどの下劣さ、許せざるおぞましさだった。

 私は迷った。患者を刺激しないためには、私はたとえ演技の上だけでも、謝っておいた方がいいのであろう。博士の手前もある。……しかし、やはりどう見ても半人前以下の小娘にしか見えない相手に頭を下げるのは、どうしてもこの私の自尊心が許さなかったのである。

 そこに阿部博士が助け舟を出してくれた。

 「まあまあ……。そうカリカリしないでください、多上さん。彼はあまりこうした経験がないから、度肝を抜かれているのですよ。……どうです?彼に早く慣れてもらうためにも、貴方の前世のお話をしてあげてくれませんか。もちろん、殺人に到った動機なども含めてね……」

 私はギョッとした。そう、多上カヲルは殺人者なのだ。それも、このような年齢で実の父親を殺すに到った、例を見ないほどの悪魔的殺人を犯した危険人物なのだ。あまりに奇怪な言動の数々に度肝を抜かれ、ついつい忘れていたのだが……。

 しかし案の定というべきか、彼女は嫌がった。

 「厭だよ、面倒くさい。いくら退屈だからって、何の得にもならないことはしたかぁないやね。それも、こんないけすかない奴の為にさ」

 「まあ、そう仰らずに。貴方だって彼を騙して、退屈しのぎにしたじゃありませんか。もしこのお願いを聞いてくれるのなら、煙草はもちろん無理ですが、そのうちに何か気の利いた物でも差し入れに持ってきますよ」

 「……本当かい、先生?」

 多上カヲルが身を乗り出した。どうも、それほどこの環境に飽き飽きしているらしい。殺人者の分際で……。

 「そういうことなら、話しまさぁ。俺の前世の話をね――」

 

   多上カヲルの話

 

 俺は前世では鳶をしていた。女みたいな名前だが、自慢じゃないが俺が住んでいた小田原辺りじゃ、俺の右に出る奴はいなかったよ。といっても、あんた達みたいなお偉い方々にゃわからない世界かもしれないがね。ま、そいつはお互い様か。

 住んでたっていっても、俺の生まれは小田原じゃあない。生まれは信州さ。それがどうして遠く離れた小田原なんかにいたかってぇと、まあ親父との折り合いが悪かったのさね。親父も鳶をやっていたんだが、俺とは全然違った堅物だったから、酒やらバクチやらなんでもござれの俺のことが腹に据えかねたわけさ。俺が十八の頃か、大喧嘩をやらかして、こんな家にいられるかってんで家をおん出てやった。まあ、よくある話だがね。

 家を出てからは色んなところを流れたよ。けどなにしろ食ってかなくちゃあならないから、できることなら何でもやった。それでちょっと金ができりゃあ酒を呑んで、バクチうって、また別のところに流れて呑んで、そこで知り合った奴に仕事を世話してもらって……てな具合でね。風の吹くまま気の向くまま、その日寝る場所も決まっちゃいない根無し草だが、俺みたいのにはそんな暮らしが合ってたんだろうさ。

 そんな暮らしを十年ほど続けたのかね。生きるためには何でもやったと言ったが、その頃にはもう俺には鳶が一番向いてるってわかってきた。俺みたいな身の軽いやつはそうそういないし、度胸だって折り紙つきさ。そんなわけで流れ着いた小田原の棟梁に気に入られて、ついにそこに腰を落ち着けることになった。まあ、頃合いってもんだったんだな。俺ももう三十に手が届く年になってたからね。

 そうして小田原に腰を落ち着けて、また何年か過ぎた頃だったかな。ある日、でっかい仕事が入った。小田原でも有数のさる商家の次男坊が嫁を迎えるってんで、そいつの親が新しいお屋敷を建ててやるとかって話でね。どんなお大尽か知らないが、次男坊風情のためにわざわざ屋敷を建ててやるなんて、虫の好かねぇ話だって思ったのを覚えているよ。

 けどまあ、どんな気の食わない話だろうと、仕事は仕事だ。お足をもらっている以上は手を抜かないのが職人ってもんだからね、まあ俺なんかは職人といっても半分はごろつきみたいなもんだが、さすがにそこまでは腐っちゃいない。

 そんなある日のことだった。施主、ていうのはさっきも話した例の次男坊のことだが、そいつが自分の未来の屋敷を見るためにやってきたんだ。……いいや、見せに来たってほうが当たっているな。なにしろその時、奴は女連れだったからね。祝言する筈の嫁ってやつを連れてきていたんだ。こっちは汗水流して働いてるってのにいい気なもんだって思ったよ。心に思う分にはいいだろう?

 棟梁と話しているそいつを俺は見た。そして心臓が止まるくらいたまげたよ。……といっても、別にその呑気な次男坊の顔を見たからじゃない。なにしろそいつは見るからに風采の上がらない、人のよさそうなだけが取柄といった風の青瓢箪だったからな。俺にとっちゃあどうでもいい奴さ。

 だから俺が一目見て、心の臓が止まるほどに驚いたのはその細君の方だった。いや、細君といってもその頃はまだ祝言を挙げちゃいなかったがね。

 そんなことはどうでもいい。……いや、俺にとっちゃあ一大事だったんだ。とにかく俺がたまげたのは、その嫁さんの方に見覚えがあったってことさ。そう、その女は、俺の郷里の女だったんだよ。わりといいところの家の子供で、近所では美人と評判の娘だったんだ。勿論俺だって心密かに目を付けてたクチさ。まあ、手の出しようがない高嶺の花って奴だったがね。

 そんなわけで餓鬼の頃は縁がなかったわけだが、信州から遠く離れた町で思いがけずに逢うなんてと、俺は不思議な縁を感じずにはいられなかった。

 そうなると、声を掛けたくなるのが人情ってぇもんだろう?

 俺はさも用事があるんだという風で棟梁の方に歩いていった。そうやって近づいて、そこで初めて気が付いた、という具合に声を掛けようと思っていたのさ。でも、そうはならなかった。なんと、向こうの方から俺のことに気が付いて、声を掛けてきてくれたのさ。顔見知り程度だったけど、向こうも俺を覚えていてくれたんだな。あの時はもう、嬉しいなんてもんじゃなかったよ。

 自分の細君となる筈の女が、突然職人なんかに親しげに声を掛けたものだから驚いたんだろう。例のあの次男坊はびっくり仰天という顔だった。俺は面白いもんだからちょっと思わせぶりなことでも言ってからかってやろうかと思ったぐらいだが、さすがに棟梁の手前そうもいかない。大体、彼女がさっさと俺のことを説明しちまったからね。次男坊はみるみる安心した顔になったよ。俺には気にいらなかったがね。

 まあそうした次第があって、別に疚しいことなんてないから、ちょっとの間そのまま話をしたんだ。まあ込み入った話なんてできる訳もないが、子供の頃の話から、今に到る経緯なんかね。

 俺は最初、どうして信州にいた筈の彼女が小田原なんかにいるのか不思議に思っていた。彼女の家に不幸でもあったのかなんて思ったんだが、別にそんな事情があるわけでもなかった。二つの家を取り持つお節介なやつがいたってだけの話だ。俺としては、そいつを縊り殺してやりたいと思ったけどね。……いや、そいつがいなければ俺は彼女と再会できなかったわけだから、むしろ感謝するべきなのかな。

 ところで俺が腑に落ちなかったのは、今頃になって彼女が結婚するってことだ。その頃俺が三十ちょっとで、彼女だってそれとあまり変わらない訳だから、嫁入りにはちょっと遅いだろう?そこでそれとなく聞いてみたら、案の定彼女の方は再婚だというんだ。一度別の男と結婚したのだが、その夫が死んじまったっていうんだね。

 俺はハハァ……とばかりに事情を飲み込んだね。要するに、彼女の親が出戻ってきた娘を持て余して、引き取り先を方々で探したんだろう。でもってその話を聞きつけた奴がいて、その頃ちょうど嫁探しをしていた小田原の商家に伝えて、めでたく話がまとまったってぇところだろう。

 そこまで考えて俺にはピンときた。この話、彼女の方はそれほど乗り気じゃないに違いない……てね。もちろん彼女はそんなことをおくびにも出さないが、誰が好き好んで故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、それまで会ったこともなかった赤の他人、それもこんな風采の上がらない野郎と結婚したいとおもうかね。

 その次男坊が話に割って入ってきたのはその時だった。ちょっと厭な目付きで俺を見たのを覚えている。

 もちろんそんな青瓢箪に睨まれたくらいで怯む俺じゃないから、すぐに睨み返してやった。すると案の定、ビビッてすぐに目を逸らしたのは向こうだった。俺は気分がスッとしたね。ま、それはあとになって棟梁にヤイヤイ言われたけどね。

 次にそいつは、彼女の方を咎め始めた。職人さん――俺のことさ――には仕事があるんだから、あまり引き止めたら駄目じゃないか、なんてね。俺が怖いからって女に当るなんて見下げ果てた野郎さ。しかもその言い方ってのがまた、居丈高ってわけじゃないが、なんとも厭味な調子でね。

 その時は棟梁の手前もあってすぐに仕事に戻ったが、しばらくは彼女のことが気に掛かって仕方がなかった。あんな野郎と結婚しなくちゃならんとは、いくらなんでも気の毒ってもんだ。だって一緒になる前からあんな調子じゃ、祝言を挙げたあとにどんな酷いことになるかなんてわかったもんじゃない。

 その後も彼女は、例の次男坊に連れられて幾度かやってきた。そしてその度に俺たちは話をした。どうも察するところ、男の方は彼女を連れてくるのを望んではいないようだった。俺たちが話している時、いつも苦々しい顔をしていたからね。

 俺は確信していた。彼女はこの話に乗り気じゃない。しかし、実家のこともあって断るわけにはいかない……。

 彼女は俺に助けを求めているに違いなかった。それは確かだ。同郷の俺の姿を思いがけず見つけて、喜んで声を掛けてきたのが何よりの証拠さ。でなきゃ、身の上話なんてしなかっただろうしね。

 正直言って悪い気はしなかった。俺だって昔から彼女のことは憎からず思っていたし、久しぶりに出会った彼女は昔と変わらぬ大した美人で、人妻だったってこともあって、なんともいえない色香があったからね。はっきり言って俺はのぼせ上がった。焼けぼっくいに火が付いたってやつさ。……何?違うって、何が。言葉の使い方?……ちょっ。細かいことはいいじゃねえか。

 しかしそうはいっても、俺は手をこまねいていた。なにしろいくら花嫁の方が乗り気じゃないといったって、別に表向きは何の問題も起きちゃあいないんだからな。それに俺が何かしたら、棟梁の顔にだって泥をぬることになる。棟梁には恩があると思っていたからな。その頃はまだな。

 ……ところがだ。俺はある日突然、棟梁から仕事に来なくていいって言われたんだ。俺はすぐにピンときた。あの次男坊が手を回したに違いないんだ。しかもあの野郎、あることないこと吹き込みやがったと見えて、棟梁は俺にやれ若旦那の奥様に色目を使うとは何事だ……だの、やれ奥様も怖がってらっしゃったじゃないか……だの、訳のわからないことを言やぁがる。でもって、俺の言うことになんぞちっとも聞く耳持ちやしない。そんなこんなで、俺はようやっと落ち着いた居場所からも追い出される羽目になっちまった。

 もちろん俺は奴を恨んだよ。ボンボン風情が舐めやがって、目に物見せてくれる。そう思った。

 俺は一旦家に戻り、あちこちふらついていた頃に懐に忍ばせていた匕首を持って引っ返した。見ると、ちょうどあの次男坊がこれみよがしに彼女を連れてきていて、棟梁となにやら笑いながら話している。大方、追い出した俺のことを笑い者にしているに違いない。

 俺はぶち切れた。匕首を抜いて突進した。ぶっ殺してやる。そう思った。どこかで叫び声が上がった。あの野郎が青い顔で腰を抜かすのが見えた。棟梁が邪魔に入った。俺はもう棟梁にも腹を立てていたから一緒にぶっ殺してやろうと思ったが、さすがに棟梁は一筋縄ではいかない。それどころか揉みあっているうちに、匕首がぶっすりと刺さったのはおれの腹の方だった。

 こうして俺は死んだのだ。

 

 ……おっと、話はまだ終わらない。こうして死んでしまった俺だが、今話したように俺にはやり残したことがあった。憎い仇を殺し損ね、それどころか他の奴の手で返り討ちにあってしまったんだ。こんなにやりきれないことがあるものかよ。

 そんな怨念のせいかな……。俺は奴の身近な人間として再び生まれてきた。いや身近どころか、奴の子供として生まれてきたのさ。俺は世界で一番憎い男を父親に、そして愛してやまない女の間に生まれた子供として生を受けたのだ。しかも、女の身体でな。それは何故だかわからんが……。

 とはいえ、もちろん赤子の時からそんなことを覚えていたわけじゃあない。俺はごく普通の子供として産まれ、育った。まあ、楽しかったよ。裕福な家の子供というのはいいもんだな。本当によ。

 両親のことは普通に好きだったよ。母親は勿論だが、父親としてのあの男はまあ悪くはなかった。身内には甘いんだろうな。ただ、尊敬できるような奴じゃあないがね。相変わらず風采が上がらない奴だったしな。

 前世を最初に思い出したのは十歳の頃だったかな。……今から二年前か。突然、生まれ変わる前のこと――多上カヲルだった頃のことを思い出したのさ。といっても、一気に全てを思い出したわけじゃない。妙に真に迫った夢を見たりするうちに、次第に……て感じさ。あれはなんて言えばいいかな、それまで自分は女だと思っていて、ままごとやらあやとりやら当たり前に楽しんでやっていたのが、次第に莫迦らしくなった。今ではもう、女だった頃のことは殆ど覚えていないな。何しろ小娘だったからな。

 ……自分の最期を思い出したときは、そりゃもうたまげたもんだよ。あんまりたまげたもんだから、全身びっしょり汗を掻いて、おまけに熱まで出して寝込んじまったくらいだ。で、その時はもうほとんど今の自分になっていたから、滅茶苦茶腹が立った。なにしろ俺はあんな死に方をしたってのに、あの野郎はのうのうと生きてやがるんだからな。しかもそいつが、今の俺の父親だってんだ。で、気付いたら殺してたよ。

 自分が何をしでかしたか知った時だって、俺は全然後悔しやしなかったし、ちっとも悲しくもなかった。だってその時にはもう、俺はまるっきり『多上カヲル』そのものになってたんだからな……。

 

     4

 

 外見上は少女にしか見えない(実際にそうなのだが)多上カヲルの話を聞き終えた私達は、長居は無用とばかりに八号室を出た。実際、長居は無用であったに違いないのだ。もしもそれ以上そんな話を聞かされていたら、私の気までおかしくなってしまいかねない。

 最後まで少女らしくない荒んだような、醒めた眼差しが印象的だった。

 「それで、どうだったね?夢野君」

 しっかりと扉に施錠しながら、阿部博士が言った。

 「少しは輪廻症が信じられるようになったかね」

 少し迷ったが、ここは肯定しておくに限る。博士に気に入られるためにも

 私の目的はあくまでムムミが輪廻症ではないことを明かすことであって、輪廻症自体を否定したいわけではない。言ってみれば、多上カヲルが輪廻症であろうとなかろうと、私にはどちらでも構わないのだ。

 「そうですね。なんともおかしな患者だと思います。あれはたしかに、輪廻症だと考えるしか説明がつかないでしょうね」

 しかし阿部博士は全てを見透かすような目で私を見ると、こう言った。

 「アハハ……無理にそんなことを言わなくてもいいよ。君はまだ疑っているのだろう?」

 私は博士の炯眼の前に感服するしかなかった。

 正直な気持ちとしては、私は未だ輪廻症を完全に信じる段階にまでは到っていなかった。あの、どう見ても以上としか表現しようのない、多上カヲルの振る舞いを見ても……。

 たしかに、外観は全くありふれた少女にしか見えない多上カヲルが、突如として豹変し、男性の……それも限りなく粗野で下劣な男のような振る舞いをする様を目の当たりにしたことは、私にとって大きな衝撃的体験であった。多上カヲルの姿を始めて目にした時は、まさかこんな小娘が実の親を殺すことの出来得る筈がない、阿部博士に欺かれているのでは……という可能性すら頭を過ぎったが、あの劇的な変貌を見た後では納得できた。このような言語道断な人格を以ってすれば、どのような非道を働くことだってできるに違いない。そう思えた。あの患者の精神はたしかに正常ではない。

 もし、あれが単なる演技に過ぎないとしたら、その狙いは父親を殺すという恐ろしい罪から逃れるためにおかしくなったふりをしているということになってしまう。……しかし、あのように何の変哲もない、利発どころか愚鈍にすら見える小娘に、そんな知恵が回る筈がないのだ。

 しかしもし仮に、多上カヲルが見た目の印象を裏切る物凄い天才少女だったとして、父親殺しの罪から逃れるために狂言の演技をしているのだと仮定したところで、だからといってあのような奇怪な設定を考え付くとも思えない。いや、天才なればこそ、そのようなおかしな設定をわざわざ拵える筈がないのだ。下手に凝った設定を用意しようとすればするほどボロが出る。整合性を失い、それを補おうとし支離滅裂になるのだ。それを取り繕うとする程、天才たる彼女はその頭脳をフルに回転させて言い逃れを謀り、そして結局はこの少女は嘘を吐いておるに過ぎぬ、なぜなら頭の回転が早いではないか、全ては言い逃れるための演技だ――と見抜かれる羽目になるのだ。

 そう考えるとやはり、多上カヲルは精神病者にしか思えない。

 しかしそれが輪廻症であるかといえば、それはどうだろう?博士は否定したが、あれはやはり分裂症であり、二重人格なのではないのか?と、私にはそう思われるのだ。

 それを博士に見抜かれた。

 「ふむ……。しかし、まるっきり信じていないというわけでもないようだ」

 本当に、博士には心が読めるのではないだろうか?馬鹿げた妄想だが、しかし博士なら……或いは……。

 「そうですね……。まだ疑っている気持ちはたしかにあります。ただ、信じ始めている自分も確かにいるのです」

 それは嘘ではない。多上カヲルが物語った話の詳細といい、およそ十かそこらの小娘が知っているとは思えない類の知識といい、分裂症では説明がつかないと思える部分も確かにあるのだ。

 「うん、今度は嘘ではないようだ。結構結構……」

 博士は満足気な顔で言った。

 「では次の患者の所に行こう。この患者に会えば、君だってもっと輪廻症を信じたくなる筈だよ……」

     5 

 

 その次に私達が向かったのは十三号室であった。博士の話では、十三号室は地下四階にあるという。よって当然ながら、私達は地下四階へと向かった。 

  

 地下四階も当然ながら上階と全く同じような造りで、だからもちろん似たような印象を私に与えた。ただ心なしか、地下二階か三階よりも薄暗いような、というよりも闇が濃いような、そんな不穏な気配を孕んでいる。……そう思えたのは、私の不安のせいかもしれないが。 

 「次に診るのはどんな患者なのですか?」

 私は博士に訊ねた。先程の多上カヲルの時のように驚かされるのはもう御免だったのだ。まあ、博士に説明を求めたところで、どこまでそれを信用してよいかわかったものではないが……。

 「十三号室の患者かね。彼はとてもおとなしい患者だよ」

 「……本当ですか?」

 「本当だとも。私は意味のない嘘は吐かないよ」

 私は思わずその言葉を疑った。たしかに博士の言う通りかもしれないが、それは意味のある嘘なら吐くということに他ならない。そして博士にとっての意味とは、例えば先程の多上カヲルの時のように、ただ私をからかって面白がるという程度のことを含むのだ。

 「随分警戒しているようだが、本当に心配はいらないよ。まあ多上さんの後では無理もないがね。少なくとも、十三号室のサンゼンマルさんは殺人犯ではないよ。……もちろん他の犯罪もね」

 私は幾分は安堵した。やはり殺人者かどうかは重要だ。

 「十三号室の患者さんはサンゼンマルさんと仰るのですか。変わった名前ですね。どんな字を書くのですか?」

 「それがわからないのだよ。どうにかそれが名前らしいことだけはわかったのだが。もっともそれだって、姓なのか名前なのかもわからないのだが……」

 「わからない?……どういうことですか」

 「彼は五年ほど前にここに連れて来られた、もう結構な年寄りなんだが、あまり自分のことを話すのを好まないんだ。前世の名前だって話すのを嫌がったほどで、万事にかけてそんな調子だから、裏をとるのにも苦労している。なにしろ既に七十に見える年齢だから、彼の前世と言ったら明治以前の話ということになるだろう?そんな昔の話となると、いくらここの優秀な職員が全国を飛び回っても、彼の前世を調べ上げるのは難しいのだよ」

 「なるほど、そうですか……」

 何気なくそう口にしてから、私はおや、と疑問を覚えた。

 「あの、先生……」

 「どうしたんだね」

 「裏を取るとか、前世を調べるとか、何のことですか?だって前世の記憶なんていっても、所詮は患者の妄想ではありませんか。妄想に事実の裏づけなんて、端からあるわけないでしょう?」

 「……ああ、そうだった。……いや、私が言ったのはそういう意味ではないよ。彼らのような輪廻症患者の妄想は、確かに妄想には違いないが、しかし単なる妄想ではないんだ。つまり、全くの無から創り上げられたものではないということだ。どこかで誰かから聞いた話であるとか、本で読んだ話、そんなものが彼らの妄想の核として元々あって、そこに輪廻症患者特有の転生的妄想が加えられ、さらに様々な枝葉を加えて膨らませることで、彼らの言う『前世の記憶』が出来上がるというわけさ。だから彼らの妄想の裏づけを取ることはまったくもって無駄ではないのさ。いや無駄どころか、彼らの妄想のうちどこまでが事実に基づいていて、どこからが彼らが捏造した設定なのかを明らかにすることは患者の症状を検証するために必要な手続きなのだし、反対にそうした事実が全く見つからないということは、彼らの詐病を疑う契機になる。なぜなら全てが患者の頭の中で組み上げられたということは、一から十まで嘘だということで、それは輪廻症ではない可能性が高いということになるわけだ」

 私は思わず身を乗り出した。輪廻症の詐病!

 これだ。これこそが、私の求めていた情報だ。ムムミの言う前世の記憶が嘘だと暴く方法が漸くわかったのだ。

 そう言われてみれば、たしかに阿部博士はムムミに向けて、前世のことを調べると言っていた。それを聞いた時は、妄想の調査などをしてどうなるのだと思ったものだが、それは恐らく輪廻症患者であるムムミの精神を宥めるための方便だとばかり考えていたのだ。しかしそうではなかった。博士は本当に、ムムミのあのくだらない妄想話が事実かどうか調べさせていたのだ。

 だとしたら、私が何もしなくとも、ムムミの虚言は早晩明らかにされるのかもしれない。ムムミの馬鹿者め。底の浅い嘘など吐いても、所詮は女などが我ら学究の徒を欺き遂せる筈がないのだ。

 ただ勿論、楽観はできない。ムムミが妄想を拵える際に、どこぞで仕入れた話を元にした可能性は棄てきれないからだ。いyあ、事実ということならば、「ハル」という名の遊女が明治初期にいたという記録が見つかるだけで、博士はそれを事実と見做してしまうかもしれない。

 とはいえ博士が輪廻症患者を妄信せず、疑いの目を持っていると知ることができただけでも大きな進歩だと言える。いや、そもそも研究に心血を注ぐ怪魔人たる阿部博士が、そうそう患者如きに騙されるはずがないのだ。

 私は少しばかり気が楽になり、軽い調子で言った。

 「しかし先生、そうなるとそのサンゼンマルとかいう患者が本当に輪廻症かどうかもはっきりしないわけですね。なにしろ前世の裏が取れないわけですから……」

 「それが実はそうでもないのだよ。いや、普通の患者だったらそうなのだが、彼の場合はちょっとした、特殊なる事情があってね……」

 思わせぶりな言葉を口にする博士に、私はまたぞろ不安を覚えた。どうせまた、ろくでもないことを考えているに違いないのだ。あの、多上カヲルの時のように……。

 またも変に驚かされるなど堪ったものではない。私は博士にその特殊な事情とやらを説明してくれるよう迫ったのだが、のらりくらりとかわされるばかりで話にならない。そうこうするうちに、私達は十三号室の前に着いてしまったのだった。

 

     6

 

 十三号室の造りもやはり他の部屋と変わるものではなかったのだが、この部屋に限っては今まで見た部屋とは大きく異なる特徴があった。他の部屋がコンクリートの灰色や寝台や寝具の白黒程度の色味しか存在しなかったのに対し、この部屋は実に豊かな色彩で溢れていたのだ。

 といってもこの部屋の住人のみが特別に優遇されていて、私物を持ち込むことが許されていたというわけではないことは一瞥してわかった。その豊かな色彩を部屋にもたらしているのは豪華な調度などではなく、部屋の至るところに置かれ、貼られ、立て掛けられ、あるいは床に敷かれている、油絵の具を塗りたくられた画布だったからである。

 私は院長室に陳列されてあった様々な、患者の制作したという制作物と、治療の一巻としてそれをやらせたという阿部博士の説明を思い起こした。使い古された絵筆や絵の具を搾り尽くされた残骸なんかが散らばっていること、また未完成品が散見されることからも、それらの油彩画もここの患者が制作したものであることは明らかだろう。

 それにしても……その絵は、素人である私の眼から見ても尋常な出来ではないことは明らかだった。描かれているのは風景画から人物画、そして静物画まで幅広い。共通しているのは、それらの全てが西洋をモチーフとしていることだった。風景画には西洋の城や王宮が描きこまれていることからそれがわかるし、人物画にしても一見して日本人ではないとわかる優雅な貴婦人ばかりをモデルとしている。どれも絵とはわからないほど恐ろしく精緻に描きこまれていて、特に貴婦人が身に付けている宝石の描かれ方などは本物のそれをも凌ぐのではないかと思われるほど見事だった。私の目にはそれらの色とりどりの宝石が、自ずと光線を放射しているように見えたのだ。

 しかし、驚くべきことは他にもあった。私たちが入室した時、部屋には思いがけず二人の人物がいたのである。

 一人は患者服を着た老人で、こちらがこの病室の本来の主であろう。老人は私達にも、そしてもう一人の人物にも無関心な様子で床に座り込み、ひたすら目の前の画布に絵筆を走らせている。

 そしてもう一人――私たちの先客は口髭を生やした壮年の男で、老人の背後からその作業を眺めている。このような場所に不似合いな濃灰色の上等な背広を纏っていることからも、明らかに患者とは思われない。

 …………いや、患者などである筈がない。何しろ私は、その人物のことをよく知っていたのだから。

 「おや、芦屋先生。鍵が掛かっていないからもしやと思いましたが、やはり貴方でしたか。もう来ておられたのですね」

 「ああ、阿部先生か。御覧の通り、最近は暇があればここにやってきているという次第だよ。いや、実に興味深いな、このご老人は」

 「そう仰って頂けると助かります。なにしろ、我々の手には負えないものでしてね……」

 「なんのなんの。こんな素敵に面白い患者を紹介してもらって、我輩の方こそ感謝で言葉もないよ」

 阿部博士とその人物が打ち解けた様子で談笑を始めるのを私は混乱しつつ眺めていた。一体何がどうなっているのだ?

 私はその男を知っていた。いや、知らないはずがない。芦屋(あしや)法界(ほうかい)教授といえば私の所属する文学部の教授連では一目も二目も置かれている人物に相違ない。専門は西洋史だが、西欧の文化全般に明るい博覧強記の人物で、何カ国もの言語を縦横無尽に操ることができると言われている、京大でもきっての頭脳である。大胆にして豪放磊落、人を食った人柄で、若い頃には殆ど路銀も持たぬ身一つで欧州に渡ったという逸話でも知られている。

 そしてついでに言えば、私がもっとも出会いたくない人物の筆頭でもあった。

 「おや?」

 芦屋教授が片眉を吊り上げて私を視界に捉えた。私は逃げ出したかったが、そんな訳にもいかない。……そんなことをすれば次にはどんな目に遭わされるか知れない。

 「おや……。我輩の記憶が確かならば、君は我が文学部の学生だったと思うのだがね、夢野君。しかし素知らぬ顔で白衣を着こなしているところを見ると、案外そうでもないのかもしれないな。これは我輩の灰色の脳細胞が記憶違いを起こしたか、我輩の眼球がいかれて埒もない幻覚を見せておるのか、それともいわゆるドッペルゲンゲルというやつなのかな……。どうだろう、さしずめ最後の奴かな」

 そうであったらどれ程よいか……。ともわれ、黙っているわけにもいかない。

 「いえ教授……そうではないです」

 「ほう。それなら、一番目が正解か。それとも二番目かな?」

 「あの……どちらでもありません」

 「これは奇っ怪な。それ以外の可能性なんてあるのかね?そんなもの、いかな優秀な我輩の頭脳たりと言えども全く思いつかないぞ!」

 私は恥じ入り、いっそこの場から消え去りたかった。阿部博士がとりなしてくれなかったら、実際もう少しでこの病室から走り出ていただろう。

 「アハハハ……芦屋先生、彼をからかうのもそれ位にしてあげてくださいませんか。彼は紛れもなく本学の文学部三回生の夢野Q作君ですよ。先生の頭脳も眼球も正常です。ついでに言えば彼のドッペルゲンゲルでもありませんよ……」

 「成る程、しかしそうなるとますます奇っ怪だな。文学部の放蕩学生が、何故にこんなところをうろついていて、白衣なんぞを身につけて、さもお医者様でござい、なぁんて顔をしてやがるんだい?」

 「ちょっとした事情がありましてね……。彼の知り合いがここに入院しておりまして、その面会に来てくれたのですよ」

 「面会?しかしおかしいじゃないか。面会に来ただけなのに、それどうして白衣を着けてお医者でござい、なんだい」

 「まあ少々込み入った事情がございまして、彼に輪廻症について知ってもらおうということになりましてね」

 「ふーむ、そうかい。しかしあれだね、こうして白衣なんぞ身に纏っていると、まんざらでもなさそうじゃないか。まるで研修医そのものだよ。これなら、文学部では進級させてやらなくっても安泰というものだね」

 「せ、先生!」

 私は慌てて叫んだ。これだから嫌だったのだ。

 芦屋教授はまんざら冗談でもなさそうに笑いながら、「冗談だよ」と嘯いた。

 それにしても、先程からの我々の会話に、患者であるサンゼンマルとかいう老人は全く興味を示そうとしない。それに先程から気になっているのだが、芦屋教授に到っては彼の前で「患者」という云わば禁句までもを恐れ気もなく口にしているのだが、患者は勿論のこと、阿部博士も何も言おうとしないのは不思議であった。

 「この患者の前なら何と言っても大丈夫なのだよ」

 私が疑問に思っていると、さすがは元祖怪魔人たる阿部博士である芦屋教授にすっかりお株を奪われた感はあるが、先んじて答えてくれた。

 「何しろ、彼には日本語がわからないようだからね」

 「え?日本人じゃない、ということですか」

 「いや、間違いなく日本人だよ。少なくとも戸籍上ではそうだし、そして血統の上でもそうである筈だ。

 親族の証言に拠ると、二十台の前半までは身体的にも精神的にも正常な発達を示し、当たり前の日本語を話していたという。しかし突如として言葉を解さなくなり、自分で話すことも出来ず、口に出すのは周囲の人間には意味のわからない唸り声のようなものになってしまった。そこで家族は彼をやむなく狂人とみなし、以来ずっと人の目に触れないように座敷牢の中に閉じ込めてしまったんだ。

 しかし時が変わり、彼の親兄弟も一人また一人と他界して、身内で面倒を看ることも難しくなってきた。それで時代が変わったこともあって、十年程前に精神病院に移されたのさ。そしてどうやら輪廻症であるらしいことがわかって、こちらに移ってきたのだよ」

 「なるほど」

 私は納得した。少なくともこれに関しては嘘はないだろう。他でもない阿部博士が自身が患者の目の前でそんな話をするのだから……。

 「しかし、だとするとどうして輪廻症だとわかったのですか?」

 言葉が通じないのならば、輪廻症かどうかはわからないはずである。

 「たしかに、この患者が言葉を一切解さないのであれば、輪廻症かどうかは普通はわからない。極端な話、どんな妄想を抱いていようとそれを心中に留めているかぎりは輪廻症だと診断することは不可能だ。しかし夢野君、別に彼は決して言葉を解さないというわけではないよ」

 「そうそう、その通り」芦屋教授がそれに同意する。

 「それどころか彼はこの我輩ですら驚嘆するほどの卓越した言語センスを有しているのだよ。……どれ、論より証拠。やってみようか」

 芦屋教授がそう言うと、先程から我々のことを完全に無視しているサンゼンマル氏に、なにやら耳慣れぬ言葉で話しかけた。するとどうしたことか、それまで我々が何を言っても一心不乱に絵を描いていた老人の背中がピクリと動き、教授を振り返って見上げたかと思うと、なにやら言葉らしきものを口にした。

 「●●●●●●●●●●●●●●●●●

 それは何やら訳のわからない面妖な言葉で、私には全く聞き取ることができず、ただの奇妙な声としか思えなかった。聞き取れないという点では芦屋教授が老人に掛けた声にしてもそうであったが、しかしそれは聞き取れないながらも何処かの国の言語であろうことはわかった。そこには朧げながら、法則のようなものがあるのを感じ取ったからだ。

 老人の放った言葉の方はしかし、そこに法則や秩序のようなものが感じられなかった。只だからといって何の意味もない喚き声だと判断するには少しばかり長いという気もしたし、英語か独語らしい単語や発音が混じっていたとも思われた。……といってそのどちらかの言葉だと思い込んで聞こうとすると、その期待は裏切られて、明らかな異質の響きに出くわして混乱させられるのだった。

 老人は奇妙な言葉を吐くとすぐに口を閉ざし、またも絵に向き直ってしまった。

 「我輩の言った意味がわかったかね」

 やけにニヤニヤと笑いながら芦屋教授が言うが、私は首を振るしかなかった。

 「わかりません。……何です、今のは?」

 「おいおい、頼りないことを言うな。わからないならわからないなりに、少しは頭脳を労働させたまえよ。まあいいさ。こんな複雑怪奇な言語、我輩ぐらいにしかわからないだろうからね」

 「言語?今のが言語だとおっしゃるのですか」

 「左様左様。少しばかり変則的ではあるが、我々ニンゲン族の既成の言語であることには代わりないよ。もっとも、人類多しといえども、彼一人の他にこのような言語使用法をする者はいないだろうがね。……いいかね、彼の口にしたのは、複数の言語をごたまぜにしたものだ」

 「ごたまぜ?」

 「そうさ。我輩は先ほど仏語でもって彼に話しかけたのだが、というのも先日から色々と試しているうちにわかったのだが、どうも仏語で話しかけるのが彼にはもっとも馴染みやすいようで、これによって我輩も多少は彼に心を許してもらえたようなのだ。それまでは何を言っても殆どだんまりを決め込んでいたのだがね。

 どうも彼は我々日本人に対してかなり臍を曲げてしまっているようだよ。訳のわからないことばかり言って自分を閉じ込めるばかりだとね。ただ厄介なのは、我輩が仏語で話しかけたからといって、仏語で返してくれるわけではないということだ。我輩は先ほど仏語でもって「この若造をどう思うかね」と聞いてみたんだが――むろん君のことだよ、夢野君――彼はそれに対して「優柔不断で自意識過剰、無知のくせに自分が一番優れていると信じ込んでいる愚か者」という意味の言葉を、英語と仏語と西語とラテン語とをごちゃまぜにしながら口にしたんだ。しかしこれなんかはまだましな方で、時にはギリシャ語やアラビア語なんかを混じえてくることがあるから、我輩でも理解が追いつかないくらいなのだよ」

 私は自分がけなされている腹立たしさすらも忘れ、驚嘆するしかなかった。理解が追いつかないなどとらしくもなく謙遜しているが、こんな訳のわからないものをおおよそでも解読してしまうとは……。英語と独語の二つだけでも満足に習得できない身には信じ難い、さすがは京大の誇る変態的頭脳の持ち主である。

 一方、こちらも信じがたいのは、サンゼンマルなる患者である。てっきり単なる無意味な単語の羅列かと思いきや、常人には理解できぬアクロバット式の使い方ながらも、意味のある文章を話していたとは。私は驚きと呆れの気持ちで言葉もなかった。

 「さすがは芦屋先生ですな。いや、感服しました」

 そう言って褒め称えたのは阿部博士である。

 「お恥かしい話ですが、私どもには彼が何を言っているのかさっぱりわからない始末で、手をこまねているばかりだったのです。英語やら独語やらが混じるので意味のない繰言でないとは承知していたのですが、全体が何を言っているのかさっぱり意味が掴めないのです。他の言語に明るい研究者に来てもらったところで、はたして読解できるとは思えませんでしたし……。いや、本当に助かりました」

 「いやなに、我輩の方こそ阿部先生には感謝しておるよ。なにしろこんな面白いことの仲間に加えてもらったのだからね。いやまさか、我等が京都大学の地下にこのような秘密空間が存在し、このような面白い研究が為されていたとはね。灯台、いや時計台下暗しとはこのことだ。それにこのサンゼンマル氏の、話も実に興味深いしね……」

 「おお。それでは、解読できたのですか?」

 「むろんだよ……。もっとも、そのために何度も同じ質問をしなけりゃならなかったがね。この我輩が……」

 私と看護人の佐藤氏はすっかり蚊帳の外に置かれていたが、却って気楽だった。阿部博士にからかわれるだけならまだしも、芦屋教授にいたぶられるのはごめんである。悪気でやっているのではないとわかっているが……。

 それにしても、芦屋教授がこの病室にいた理由がこれでわかった。たしかにあのような変態的な言語は、変態的頭脳の持ち主である教授意外には解けよう筈もない。たとえ英語、仏語、独語、伊語、西語……と各言語の専門家を一斉に招いて共同で解読に当らせたところで、あのような言葉を解読するにはかなりの時間を要したに違いないであろうし、あるいは不可能かもしれない。各言語を一つの頭脳に記憶している芦屋教授であるからこそ、こんなにもあっさりと解読できたのであろう。

 「……おや、何か失礼なことを考えている顔だね……」

 見ると、芦屋教授がいつの間にやら私の顔を眺めている。

 「大方、我輩を変態だとでも思っているのだろうね」

 「め、滅相もない……。僕はただ、この老人がどこでそのような言語を学んだのかと考えていただけでして……」

 「学んだだって?では君はこの老人が、このような多種多様の言語をいちいち学んで習得したと思うのかね」

 「ええ、まあ……。それしかないでしょう?まともな文法ではないにしても……」

 「それは違うな。我輩が見るところ、彼は通常の文法を知らないわけではないよ。知っていながら、敢えて自己流の破格の文法で話しているのだよ。理由は知らないがね……」

 「そんな馬鹿な……。いや、しかし、それなら尚更、どこかで学んだ筈ではありませんか。まあ信じ難い話だとは思いますが……。渡航歴などないのでしょう?」

 「勿論だよ。彼には渡航歴はない、それどころかろくに郷里から出てすらないのだよ。ずっと座敷牢に幽閉されていたわけだしね。……更に言うなら、教育すら受けていない」

 「え?……ちょっと待ってください。教育を受けていないのに、どうして外国語をはなすことができるのですか?」

 それに答えたのは阿部博士だった。

 「そこがほら、輪廻症の症状ということだよ。先に言っておいただろう?彼には特殊な事情があって、そのために言葉がわからなくても輪廻症だとわかったのだと。これは海外で採集された輪廻症と思われる事例なのだが、ろくに教育を受けていない下層階級の子供が、ある日突然ラテン語を読み書きできるようになったというのだよ。その少年が言うには、彼は前世では学者だったと語ったそうだよ。

 このように輪廻症においては、本来は知らない筈の事柄をどうしてか知っているという症例もあるんだ。だから、この患者の場合も輪廻症に違いないとわかったのだよ」

 「そうなのですか……」

 私は感心し、また呆れもした。おかしな話には、もう慣れてしまってきているが……。

 ……と、そんな私の顔を、芦屋教授が例のいやらしいニヤニヤ笑いを浮かべて見ていることに気付いた。それはまあ、いつものことではあるが……。

 何だろう?いつにもまして、意地の悪そうに見えるというか……。妙に胸をざわめかせる笑いである。しかし教授は結局何も言ってはこず、阿部博士へと向き直ってしまった。

 「さあ、まあとりあえず一旦撤退しようじゃないか」

 「え?先生、この患者の話をしてくださるのではないのですか?」

 「それはここでなくともできるだろう。我々がここにいては彼の作業に邪魔になる。それでなくとも彼は気難しい質だから、ここで機嫌を損ねたら二度と話を聞かせてもらえなくなるかもしれないよ……。ほら、退散退散」

 仕方なく私達は退室することにした。なにしろ患者の奇怪な言葉を翻訳できるのは芦屋教授だけなので、我々としては従うしかない。

 その時だった。去り際、それまで沈黙を守っていたサンゼンマル老人が、何を思ったかポツリと言葉を洩らした。

 「METEMPSYCHOSIS……」

 「え?」

 今のも例のおかしな言語なのだろうか?首を捻っていると芦屋教授が言った。

 「metempsychosis……ラテン語、いや元々はギリシャ語だな。ふーん……」

 「何と言う意味なのですか」

 「リインカーネーション。魂の再生。転生。生まれ変わり。即ち、輪廻だ。しかしそれにしても、何で突然そんなことを言ったのかな……」

 教授は思わせぶりに呟くが、彼にわからないものを私がわかる筈もない。老人もまた自分が口にしたことなど忘れたように、再び自分の絵に没頭している。

 その背中を見つつ、私達は十三号室を後にした。

 

     7

 

 私達は一旦院長室に戻ることになった。勿論、芦屋教授の報告を傾聴するためである。その道々、私は自分がここにいる事情を洗いざらい話さなければならない羽目になかったが……。

 今、院長室に集まっているのは四人。今回は阿部博士もソファーに座り、その右側の席に芦屋教授、対面には私が腰掛けることになってしまった。

 佐藤看護人は座ってはいない。ソファーは四つあるので彼の分の席もあるのだが、彼ハ頑なに腰を下ろそうとはしなかったのだ。もっとも、本音を言えば私もこの二人と同じ卓を囲むよりかは、立っていたかったのだが……。

 「さて、芦屋先生。十三号室のサンゼンマルさんについてわかったことをお聞かせねがえますかな」

 佐藤氏が手配したお茶を飲み干すと阿部博士が口火を切った。

 「勿論だよ。我輩だってただで茶菓子なんぞをかっ喰らうほど図太くはないつもりだよ。もったいぶるのも性に合わないしね。とはいえ、まだ大まかなことしかわかっていないことは先に言っておくよ。文書の形にまとめるのはもっと先だと思ってくれたまえ。

 さて、まず最初に言っておくが、彼の前世の名前はなんと言う感じを当てるかわからないサンゼンマルなどという名前ではない」

 「おや……これは申し訳ないことをしてしまいましたかね。てっきり名前だと思っていたのですが……。いや、お恥かしい」

 「いや、それが名前だということは確かに間違いのないことだよ。ただ、単純な聞き間違いがあったようではあるがね。……いいかい。なんと驚くなかれ、彼の前世は、かの有名なサン・ゼルマン伯爵だよ」

 芦屋教授は身を乗り出し、どうだ……と言わんばかりの顔をした。しかし私は戸惑いを覚えるばかりだった。どうだも何も、私はその人物のことを知らなかったのだ。

 「おや、夢野君。あまり驚いていないようだね。まさか君、あのサン・ゼルマン伯爵を知らないというのではないだろうね」

 「いえ、その……す、すみません」

 「なんと嘆かわしい!西欧近代史上に燦然たる不滅の輝きを残す怪人物たるサン・ゼルマン伯爵を知らないというのかね!」

 私は赤面した。穴があったら入りたいとさえ思った時、阿部博士が笑い声を上げた。

 「アハハハ……ハ……ゴホ……。失礼。いや芦屋先生、あまり夢野君をからかわないであげてやってください。サン・ゼルマンという伯爵のことなんて、私も知りませんよ」

 「おや、こいつは失敬……。まあ、歴史の表舞台に出てくるような人物ではないから、無理もないのかな。

 サン・ゼルマン伯爵というのは十八世紀の西欧各地で活躍した怪人物でね。博覧強記で才気煥発、弁舌が巧みで人の心に入り込むのが上手く、各言語を自由自在に操ることができたと言われている。そうした有り余る才能を以ってして王侯貴族に取り入り、宮廷に入り込んだのだよ」

 「政治家だったということですかな」

 「そうだ、と言いたいところだが、これがそうではない。彼のことを一口で言うのは難しいな。国際的な山師、詐欺師、スパイ……まあそんな胡散臭い役回りの全てをこなしておったと考えていい。なにしろ一説に拠ると、錬金術の秘薬を用いて不老不死の体になっていたとも言われているぐらいさ。二千年生きたとか四千年生きたとか言われており、芝の女王に会っただの、生前のキリストを見ただの、そうした噂に事欠かない人物なのだ」

 「ほう……興味深いですな……」

 阿部博士までがそんなことを呟くのを聞いて、私は堪らず口を挟んだ。十八世紀の話とはいえ、そんな馬鹿なことがある筈がない。

 「そんな、そんなことがある筈ないじゃありませんか!」

 「しかしね君、伯爵については実際に奇妙な証言が多数残されているのだよ。例えば、千七百十年に彼を見かけた時は四、五十歳台の男盛りに見えたのに、その四十年後にあった時も全く同じ姿であった……とかね。他には当時はまだ発明されてもいなかった自動車や飛行機についてまるで見てきたように詳しく語ったと言うし。それで言われているのは、彼は時間旅行者だったのではないか、ということだ」

 「時間……旅行?それは、黒岩涙香の『八十万年後の社会』のようなものですか』

 「そうそう、そんな感じだ。まああれは本当はイギリスの小説家H・G・ウェルズ氏の小説『ザ・タイムマッシーン』を黒岩氏が翻訳したものだがね。それなら年をとらない姿で現れたことも説明できるというものだろう?キリストを見たとかシヴァの女王に会ったとか言う話だって、嘘ではないということになる」

 「そんな訳がないでしょう」と私は呆れながら言った。もちろん教授がこんな愚かしい非科学的なことを本気で言っているわけがないことは百も承知だが、しかし意地の悪い芦屋教授のことであるから、ここではっきりと否定しておかなければ「私がそのようなオカルトを信じた」などという根も葉もないことを言い触らさないとも限らない。

 しかし芦屋教授は納得してはくれない。

 「そんな訳がない、だって?じゃあ君はサン・ゼルマン伯爵が年をとっていないということ、超古代の人物に会ったという話をどう説明するのだね」

 どうやら博士は徹底して私をおちょくって遊ぶことにしたらしい。私はやむなく徹底抗戦する覚悟を決めた。

 「そんなことは説明するまでもないことですよ。そもそも年をとっていないという話も、キリストなんかに会ったとかいう話も、全ては単なる噂に過ぎないではありませんか。それでも説明しろと仰るのなら、まずはそれらが噂ではなく事実なのだということを証明して頂けませんか」

 私は臆すことなく堂々と言ってのけた。たとえ相手があの芦屋教授で、こちらは学生の身に過ぎなくとも、そして私よりも相手の方が段違いに知識が豊富でさらに優れた頭脳を持っていたとしても、学問の場では立場は対等なはずなのだ。そして対等である以上、より正しい主張をする方が勝者となる。私をからかうためとはいえ、芦屋教授は厳正なる真実の科学の立場を放棄し、胡散臭い非科学的なオカルトの立場に与したのだから、少なくともこの場では私は勝者として堂々と振舞えばよい。

 「ふーむ。たしかに君の言うとおり、それらの噂を真実だと証明することは我輩にも難しい」

 しかし芦屋教授は執念深く私に絡み付いてきた。

 「だがね。それらの噂が単なる噂ではなくて、可能性としてありうるということを、我輩は知っているのだよ。正確には、それらの噂を不可能ではなくする一つの可能性を、我輩は先ほど自らのこの眼球ではっきりと見たのだ。いや、君も見たんじゃないか」

 「見た?一体、何のことを仰っているのですか」

 「決まっているだろう。サン・ゼルマン氏のことだよ」

 「……え?……」

 「サン・ゼルマン氏の生まれ変わりが、今、我々がいるこの京都帝國大学の時計塔地下に確かに存在しているということ。これこそ、まさにサン・ゼルマン伯爵の伝説を彩る数々の逸話が真実であったことを示す、確かな証拠ではないか!

 たしかに君の言うとおり、不老不死も時間旅行もたしかにオカルトであり、眉唾ものの非科学に過ぎない。大体、不老不死どころか彼が一七八四年に他界したというのは歴史的な事実で、ドイツには彼の墓がちゃぁんと残っていることだしね。

 しかし君、伯爵の超人的な伝説は、転生という現象を認めるだけでたちどころに解決するのだよ。古代人と会ったという話だってそれが十八世紀に生きた彼ではなく、彼の前世――正確には前々々々々々々々…………世の過去生だろうが――のことだと考えれば全く無理がない。死んだはずの彼がナポレオンの前に現れたなんて話にしても、それは生まれ変わった彼だったとすれば問題はない。

 もちろん、並の人間であるならば生まれ変わる際に前世の記憶など失ってしまい、位置からやり直す他ないが、彼の場合は違う。前世の記憶を保持したまま生まれ変わり、その度に新たな知識を得て、そうやって数多の言語と膨大な知識を習得したというわけだ。彼はこうやって、彼は悠久の時を生きてきたのさ……」

 私は唖然とせざるを得なかった。教授が明らかな詭弁を弄して私達学生をからかい、おかしな理屈で以っていたぶるのはいつものことではあるが、それにしたって今日は執拗に過ぎる。そもそもこれは大学の講義でもなんでもなく、阿部博士に依頼された仕事の報告ではないか。

 しかし何を考えているのか、阿部博士は静観を決め込んでいる。この場は私が教授の相手をする外ない。

 「前世とか転生とか、それこそ非科学的ではありませんか、証拠もないし……」

 「証拠だって?君は一体何を言っているんだい。証拠も何も、君はさっき本人に会ったんじゃないか。サン・ゼルマン伯爵の生まれ変わりたる老人に」

 教授は……何を言っているのだ?まさか――

 「まさかあの十三号室の老人が、サン・ゼルマン伯爵本人だと、その生まれ変わりだと、そう仰りたいのですか?」

 そんな馬鹿な。いくら悪ふざけでも、精神病の患者の妄言を真に受けて本人などと、さすがに度が過ぎている。……私はそう思ったが、しかし教授はそうではなかった。

 「いかにも、その通りだよ。あれはサン・ゼルマン伯爵本人に違いない。十八世紀に亡くなって、その後も幾度か転生を繰り返しつつ、およそ六十年程前についに我等が日本国に転生を果たしたのだ。このあたりの事情は、ちょうど君たちがあの部屋に来る少し前に聞きだしたのだがね。

 しかし彼の話では、今回の転生に際して失敗してしまったと言うのだ。彼に拠ると転生には、ある神秘的ないくつもの条件があるということで、即ちそれが彼が自由自在に転生できる秘密に他ならないのだが、彼には珍しくその条件を果たすことができなかったというのだね。常ならば転生してすぐに完全な形で記憶を取り戻すことができる彼なのに、今回はなんと二十年近くも前世の記憶を取り戻すことができず、普通の人間として生きてきたのだ。しかもその記憶の取り戻しかたというのも実に不完全で、そのため彼は一時的な恐慌状態に陥ってしまい、周囲の人間に狂人であると見做されてしまったのだ。そして彼が無事に全ての過去生の記憶を取り戻した時には既に、彼は座敷牢の中だったという次第さ」

 「しかしそれなら、記憶が戻った時に誤解を解けばよかったのではないですかな?強靭ではないということを示せば、出してもらえた筈です。我々は彼が日本語を解さないと誤解しておりましたが、そうではなかったということでしょう?」

 阿部博士が反論してくれたので私はホッとした。教授の相手はやはり私には荷が重い。博士が相手をしてくれるなら、教授とて悪ふざけなどしていられまい……。

 しかし教授はそれにも首を振ったのだ。

 「それがだね。彼が座敷牢に放り込まれたのは単に彼が狂人と見做されたためだけではなかったのさ。というのも、彼が生まれ変わった家というのはその地の素封家で、つまりは家督相続問題が関わっていたという寸法さ。彼はその家の長子だったから、発狂したと思われたのを幸い、その資格を奪われてしまったというわけだ。だから周囲の人間にとって、彼は閉じ込められている方が都合がよかったのさ。

 神出鬼没で欧州各国を渡り歩いた彼も、座敷牢に閉じ込められては手も足もでない。何十年も閉じ込められた挙句、さしもの彼も精神の均衡を崩してしまったようだ。それが今の彼の現状なのだよ。まあここに来て、それなりに回復を果たしているようだがね。……どうだい、納得してもらえたかな?」

 「いいかげんにしてください!」

 ついに堪りかねて私は叫んだ。この気の滅入るばかりの地下世界に来て、こんな胡散臭い話をどれだけ聞かされてきたことか。……いいかげん忍耐も限界だったのだ。

 相手が精神病者であればこそ仕方がないと諦めることもできるが、こんな執拗なからかわれ方をされては我慢できない。

 一体教授はどうしてしまったのだ?

 「おお怖い……。一体どうしたというのだね、急に大声を出したりして?」

 「それはこちらの台詞です。一体どうしてしまわれたのですか?お願いですから、いい加減に冗談は止めて下さい」

 「冗談?我輩がいつ、冗談を言ったというのだね」

 「またそんな……。先生だってまさかあの患者が、本当にその何とか言う伯爵の生まれ変わりだと信じている訳ではないでしょう」

 「彼は本当に伯爵本人だよ。なにしろ本人がそう言っているのだからね。他に、どんな可能性があるというのだい?」

 「輪廻症です。まさか先生、そんな妄言を真に受けておられるのですか。生まれ変わりなどというのは全て、輪廻症に拠る妄想に過ぎないのですよ」

 この悪ふざけを終わらせるためにも私ははっきりと言ってやった。いくら芦屋教授であっても、ぐうの音も出ない真実を突き付けてやれば降参してくれるに違いないのだ。

 ところが案に相違して、教授は全く余裕の顔を保っていた。それどころか彼はこみあげてくる笑いを押し殺しているような顔をして、全身を震わせ、ついには堪えきれぬとばかりに大口を開けてワーハッハッハッハッハ……と笑い声を爆発させた。

 私が呆気に取られて見ていると教授は笑いの余韻を引きずりながら言った。

 「輪廻症?輪廻症といったのかね」

 「そうですよ。まさか、ご存じないわけではないでしょう?」

 「もちろん、それについては聞いておるよ。輪廻症とやらのことはね。世間には秘密の、特殊な精神病とやらのことはね……。

 ふーむ……。でも、どうだい?」

 「何がですか……」

 「その輪廻症とやらで、先程の老人のことをどう説明するというのだ。あの、サン・ゼルマン伯爵の生まれ変わりが、言語学の専門家もびっくりの言語能力を有しているという事実を?これは我輩の名誉に誓って言うが、彼の口にした言葉は絶対に口からでまかせなどではないよ。肉体的には生粋の日本民族である彼が、教育を受けたわけでも渡航歴もない彼が、どこでそんな言葉を習得できたというのだね」

 「それは別に不思議でもなんでもありませんよ。むしろ、それだからこそ彼が輪廻症だと判断できるのです。なぜならそれは輪廻症患者に特有の症例なのですからね。知らない筈のことを知っていることが、輪廻症患者の症例の一つだということを、阿部博士が仰っていたではありませんか」

 普段は教授にやりこめられてばかりの私だが、今日は自信を持って反論した。明らかに間違っているのは教授なのだから。

 「ふぅぅん……輪廻症患者の症例、ね……」

 芦屋教授はちらりと阿部博士を見た。

 「まあ、よく考えてごらんよ、君……。自分で言っていて、おかしいとは思わないのかい……」

 「……何がですか」

 「輪廻症というのが精神病の一種なら、彼らの言う前世の記憶というのはつまり、彼らの単なる妄想ということになる。ここまではいいかね?」

 「はい」

 「妄想ということはつまり、彼らが自分の脳髄の中で創りあげた虚構ということだ。そりゃ、多少は事実を元にしている部分があったにしても、それだって彼らの知らないことまでは妄想に組み込めないよ。だから彼らが前世の妄想を拵えるのに使える素材としては、患者が「既に知っていること」と「全くのウソ」の二つしかない。これもいいかね?」

 「……はい」

 「じゃ、おかしいじゃないか。本人が知らない筈のことを知っているのが輪廻症の症状だ、なんてどうして言えるんだい。理屈に合わないじゃないか。そんな便利な病気があるなら、我輩だって罹ってみたいよ。まさか患者の脳味噌が適当にでっちあげた嘘が、たまたま現実に合致してたなんていうわけじゃあるまい」

 「だって……そんな……」

 私は混乱して阿部博士を見た。彼の援護を求めて……。

 しかし博士はそんな私に、肩を竦めてみせるだけで……。

 「だって阿部博士は、たしかに……」

 「おいおい、君の脳には柔軟性が著しく欠けているようだな。ついでに自主性もね。先入見や思い込みなんて、我々学問を志す者にとって一番あってはならない態度だろうに。自分にとってどんなに認めたくないことだって、認めざるを得ない確固たる証拠を突きつけられたら素直に態度を改めるべきだろう」

 ……詭弁だ。これは、教授のいつもの悪ふざけに過ぎない。

 だって、そんなこと、ある筈がない……。

 救いを求めるように私は阿部博士を見た。すると博士は席をたち、自身の机から書類のような物を持ち出すと、それを我々の囲む卓に置いた。

 「阿部先生、これは……」

 私は期待した。それが芦屋教授の妄言を粉砕しうる、資料であると……。

 しかし……。

 「夢野君、これはね、多上カヲルさんとムムミ君の前世の話について行った調査の報告書だよ」

 「……え?」

 唐突にムムミの名を出されて私の思考は停止した。

 「多上さんの資料から見てくれないか。彼の場合は当時の地方新聞に事件の記事が残っていたから、わりと調べるのが容易だったそうだよ。資産家の妻に横恋慕の悪漢、凶行に走り逆に刺殺さる――とね。そこから芋蔓式に多上カヲルの生家まで辿れたわけさ」

 「で、でも、そんなもの……」

 「それからこちらはムムミ君の資料だ」

 私の目は博士が広げた紙束に釘付けにならざるを得なかった。

 「まだ不十分なのでムムミ君には話さなかったのだが、明治初期に吉原にハルと言う名の遊女がいたことは事実のようだ。士族の家の出であったこと、そして明治十四年に足抜けして騒ぎになったことも裏が取れている。先年の震災で記録は殆ど灰塵に帰してしまったが、当時の関係者から複数の証言を得ることができたからほぼ間違いはないだろう。ついでに言えば、愛知県のT町――君達の郷里だね――に佐吉という職人がいたこともわかったよ。これが彼の戸籍の写しだ」

 博士の示したそれは確かに、佐吉の名前が記されている。

 「だから夢野君、君には悪いが、ムムミ君が嘘を言っているとは考えられない。彼女の話は全てが全て、紛れもない事実だよ。残念だが、彼女のことは諦めなさい」

 目眩が……した。視界がぐにゃりと歪んで……。

 しかしそれは、決してムムミのことを聞かされたためなどではなく――。

 「そ……そんなもの……どうせ、どこかで聞いた話で……」

 「それは不可能というものだよ。目を通してくれればわかるが、ムムミ君や多上さんが語ってくれた話は絶対に彼らには知り得ない筈の、つまりは他人には知り得ない事実が多数含まれているんだ。それは私が保証するよ。

 たとえば夢野君、大正五年に生まれたムムミ君が、明治十四年に死亡した遊女が大事にしていた櫛の装飾を、どうして知っていたというのだね?」

 …………博士は何を言っているのだ?

 …………芦屋教授の詭弁を論破してくれるのではないのか?

 …………博士は輪廻症の研究者ではなかったのか。

 …………これでは……これでは、まるで…………。

 まるで、生まれ変わりが本当にあると……言っているようではないか。

 私は……呆然と言った。

 「輪廻症というのは…………嘘だったのですか」

 「そうだよ」

 あっさりと、実にあっけなく阿部博士は言った。

 「ようやく気付いたのかね?」

 

 

 

 第四章 METEMPSYCHOSIS 

 

     1 

 

 喉がカラカラに渇いていた。 

 室内はシン…………と静まりかえり、誰一人として声を発しなかった。阿部博士が書類を広げた際に舞い上がった埃がランプの光の中でゆっくりと落ちている。その音すらも聞えてくるような静寂――。 

 できることなら私はこの静寂がいつまでも続いてほしかった。ありえない、馬鹿げた話をこれ以上聞かされるよりかは、誰かの身じろぎすらも許されない絶対の沈黙の方がましだったのだ。

 ……しかし結局、その沈黙を破いたのは、他ならぬ私であった。

 「そ……そんな……そんな……」

 乾ききった喉で、ろくに声も出せないというのに、私は呟いていた。

 「ここは精神病院ではなかったのですか……。輪廻症という精神病を治療し、研究する場ではなかったというのですか……」

 「だからそう言っているだろう……。ここは精神病院などではないよ。日本各地から前世の記憶を持つ人々――即ち輪廻転生を実際にその身に体験し、それを記憶しているごく限られた人々を集め、研究している施設だよ」 

 「し、しかししかし、先生は精神病院と言ったではありませんか。精神医学界における京大医学部精神科の名誉を確立するのだと、そう息巻いておられたではないですか。それだって嘘だったのですか!」

 「そういうことになるかな。だって、輪廻についてまともに研究している施設があるなんて、おおっぴらに言えることではないだろう?大抵の人間は君みたいな化学万能主義の俗物ばかりだから、我々の研究の崇高なる使命をまるっきり理解しようともせず、頭から否定する。まあ大衆の理解なんて私達はまったく必要としていないわけだが、邪魔されるのは鬱陶しいからね。それに、被験体を集めなくてはならないしね……」

 「被験体……?」

 「君も会ったじゃないか。君の大切なムムミ君も含めた、世にも貴重な輪廻経験者のことさ。もっとも君には、輪廻症患者として紹介したのだがね。

 彼らは前の人生で一度死んで、転生をその身に体験し、なおかつ生まれ変わった今でも前世の記憶を維持しているという稀有なる人々だ。しかし残念ながら彼らは世間の人々には全くその価値を理解されることなく、その言葉は単なる虚言として無視されるか、病的な妄想として処理されてしまう。こうして彼らの存在は埋もれてしまうのさ。ただでさえ研究の対象となる人間は希少な存在であるというのに、このように彼らが表には出てこないものだから、ますます見つけ出すことが困難となる。これでは一向に研究が進まない。

 そこで我々は「輪廻症」という精神病の存在をでっち上げたのさ。なにしろ転生体験者は周囲の人間には妄想狂とか、端的に精神病者だと見做されることが多く、精神病院に連れて来られる者も少なくない。そこに目を付けたわけだ。京大医学部精神科の名前で輪廻症なる病を扱っていると明言し、派閥病院に「輪廻症」と思われる患者を集めるよう呼び掛ければ、労せずして披見体を集めることができるからね。実際、各地の精神病院でも彼らを持て余しているわけだから、渡りに船というわけさ。……おかげで、この九年でよい被験体が続々と集まったよ。京大の名前が役に立ったというわけさ」

 「役に立ったって……」

 私は信じられなかった。よりによってこの大学の教授が、京大の名前をペテンのために使ったなんて……。

 「ああ……言っておくが、夢野君。そもそも彼は……阿部先生は、京大の学者というわけではないよ」

 ショックを受ける私に芦屋教授は言う……。

 「彼は――といっても彼一人ではないが――元々は別の場所に研究所を持っていたんだ。そこで昔から生まれ変わりの研究をしておったんだな。それが一体どんな手を使ったのかしらないが、今からおよそ十年程前に京大の上の連中を言い包めて、大学組織の内に入り込んでしまったのさ。それでついには当時はまだ計画段階だった時計塔の地下に、彼ら専用の研究所を用意することまで認めさせたんだ。このことは君たちのような一介の学生には勿論のこと、我輩たちのような古参の教授連だって知らされておらん。ごく一部しか知らない話なのだよ。

 幸い、我輩は例のサン・ゼルマン伯爵の生まれ変わり氏のお陰で協力を要請されたので、今ではこうやって彼らのお仲間になることができたがね。まったく、けしからん話だよ。実にけしからん……。他でもないこの大学の敷地内で、こんな面白そうな研究が日夜行われておったというのに、この我輩を除け者にしておるなんて……」

 「面白そう?面白そうですって……?」

 私は信じられない思いで呟いた。

 「芦屋教授。あなたは阿部先生とは違って、純粋にこの大学の一員ではないですか。この大学の誇るべき優秀な頭脳の一人ではないですか。それなのに、貴方がそんなことを仰るのですか。このようないかがわしい研究が、私たちの大学で行われているのですよ、先生!それなのに、面白そうだなんて!」

 「五月蝿いなあ……。落ち着きたまえよ。全く君は、たいして学問に熱心でも誠実でもないくせに、大学のこととなるとやけにこだわる。要するに君はあれだ、大学の名前に縋っているのに過ぎん。大体自分の実力に自信のないものほど、学歴やら肩書きやらなんてつまらないものにこだわるものだからね。我輩に言わせれば、神聖な学び舎である大学の名前を汚すのは君のような連中だよ。

 結局のところ、帝國大学だなんて嘯いたところで、本当の意味で学問を愛する進歩的な連中はごく僅かさ。大半は人の受け売りばかり、自分の脳味噌で考えることもせず、既存の学説を鵜呑みにして、無闇やたらと有難がっている保守的な連中に過ぎん。そしてそういう連中に限って出世に熱心で、純粋な学者の革新的な挑戦を鼻で笑って退けるのだ。

 まったくつまらない。研究者たるもの、自分で道を切り開かなくて何とする?固定観念を棄て、自由な発想を膨らませてこその学問ではないか?生まれ変わりなんて非科学的だ、オカルトだなんて頭から否定することの、どこが生産的だというのかね?

 だって君、輪廻だぞ。転生だぞ、生まれ変わりだぞ。人間存在に秘められた、こんなに神秘的な謎を解こうと言うのだぞ?真理を探究する学者として、こんなに心躍ることが他にあろうか!」

 興奮して立ち上がり、うっとりと陶酔した顔で芦屋教授は高らかに言い放った。私はその、あたかも恋する乙女のようなむくつけき髯面を見上げ、圧倒された。

 これはいつもの悪ふざけなどではない。教授は本当に、生まれ変わりを、輪廻転生を信じている!

 あの頭脳明晰なる芦屋教授が。京都大学にその人ありと謳われた切れ者であり、理性の信奉者である教授が、輪廻転生を信じている。

 ……そうなのか?

 本当なのか。輪廻転生は、本当にあるのか。

 芦屋教授が、私とは段違いの頭脳を持つ教授が疑う余地なしと断じている。それなのに、どうして私は信じることができないのだ。

 私は教授の言うとおり、俗物でしかないのか?

 頭の固い保守主義者であり、新しい理論を認めようとしない、守旧派に過ぎないのか。

 そんな筈はない。私は誰より学問の進歩を望み、科学の可能性を信ずる、真理の探究者である筈だ。古臭い理論に凝り固まった、権威主義の老人共とは違うのだ。

 それに確かに、教授の言うことはおかしくはないのだ。あのサン・ゼルマン伯爵の生まれ変わりだと言われる老人。あれについては、たしかに生まれ変わりとでも考えなければ他に説明のしようがないのだ。

 ……では、そうなのか。

 輪廻転生は、本当に……あるのか?

 ……だとしたら、それは確かに物凄いことだ。驚くべき事実だ。未だ嘗て、人類の誰一人として解き明かしたことのない領域に、踏み込むということなのだから。

 「死」は人間にとって避けようのない、絶対の悲劇だ。人類として生まれ、それを避けることのできた者は未だ嘗て一人とていない。どんな偉業を成し遂げた英雄も、どれほど才能に溢れた芸術家も、神憑りの宗教家も、天才的な哲学者も、「死」を乗り越えることはできなかった。「死」は人間にとって越えがたい深淵であり、絶対の未知の領域……未だ嘗てそれを解き明かした者はいない謎……。

 輪廻の法則。転生の秘密。人間が死に、幽冥界に入り、そして再びこの世に産まれてくる……その法則。因縁。そんな眼に見えない事象を司る法則を、掴むことのできない靄に覆われた神秘を、この二人は解き明かそうというのか。人間の手には届かない未知の領域を解き明かし、その神秘なる因縁の法則を定式とし、因果の糸をその手に納めようというのか。

 それは人間の手を離れた領域……神の領域ではないか。この二人は、神の領域に踏み入れようとしている……。

 なんと恐ろしい……。恐ろしい、が、しかし……。

 この二人なら或いは。怪魔人たる阿部博士。変態的頭脳の持ち主である芦屋教授。

 やり方は褒められたものではない。しかし、そんな手段を選ばない彼らであるからこそ、禁忌の領域に手を伸ばすことができる。この二人なら、或いは……。

 私がそう思った時……。

 「どうやら納得してくれたようだね……」

 まるで悪魔のように、阿部博士が囁く……。

 「君なら、私達の研究を理解してくれると思っていたよ、夢野君。懇切丁寧に説明した甲斐があったというものだ……」

 ああ……思えば最初から、阿部博士は私を仲間に引き入れるつもりだったのに違いない。京都大学の学生であり、ムムミの未来の伴侶であり、純粋なる向学精神と優秀なる頭脳を持つ私を……。

 たしかに今、彼らの研究を認めつつある自分がいる……。

 「夢野君、何を隠そう私は……いや、私の家は先祖代々この京の都で、輪廻転生の研究をしていたのだよ。朝廷に仕える学者としてね……」

 「え……」

 「そんなに驚くことかね?秦の始皇帝しかり、古来から不老不死を求めるのは権力者だと相場は決まっている。まあ私の研究は、不老不死とは違うがね。

 知っての通り、この京都は平安遷都以来、千年もの長きに渡りこの国の都だった。この国の政治と文化の中心であり、最高権力者が座す地だったのだ。そして我が阿部家はまず朝廷に仕え、それからはその時々の権力者の下で、輪廻転生の謎を解くべく研究を続けてきた。そしてその長年にわたる研究の成果として、幾つかの法則を解き明かすことに成功したのだ。例えばその一つに、身体的特徴の発現というのがある……」

 「……身体的特徴?」

 「これはわりと早くから私の先祖が目を付けていた現象でね。『日本霊異記』のことを覚えているかね?前に名前を挙げたのだが、実はこれを著した景戒こそが、我が阿部家の祖ではないかという説もあってね……。そこにこのような説話がある。

 桓武天皇の御世の延暦十七年の頃、善珠法師という高僧が死の床に着いていた。そこで当時の慣例に従って占いをさせると、この僧侶の魂が占者に乗り移り、こう言った。

 『わたしは死後は必ず日本の国王の婦人の胎に宿って、皇子として生まれ変わろう。わたしはこのほくろを付けたまま生まれ変わるから、それでわたしの約束の真偽をたしかめるがよい』とね。このほくろというのは僧の顎の右側にあった。

 そして翌年の延暦十八年に、天皇の夫人が一人の王子を産んだ。驚くべきことにこの皇子の顎の右側にはたしかにほくろがあり、これは善珠法師のそれとそっくりだったという。このため、その皇子は大徳の親王と呼ばれ尊ばれた……ということだ。

 勿論、こんなものは記録の上だけのことで、客観的な証拠にはならないし、君だって信じやしないだろう。でもね君、私の祖先はそれを信じ、さらに実地に検証したんだ。これを見てくれ……」

 そう言って博士が持ち出してきたのは、和綴じの古い書物であった。広げられたそこには、まるで昔の人相書きのようなものが右と左の頁に描かれている。もっとも、二枚は別の人物を描いたもののようである。

 「これは私の先祖が集めた資料でね、生まれ変わりと思われる被験者と、その前世に共通する身体的な特徴を絵で表したものなのだよ。これは顔のほくろが一致しているという例だが、他にも特徴的な痣であるとか、中には前世で殺された時の刃物の痕が、転生後の肉体に痣となって現れた……などという例も載っている」

 パラパラと捲っていると、成る程人相書きのようなものばかりではなく、腕や足、胸や腹といった身体上の様々な部位の絵が描かれている。そこにはその人物の名前や年齢、出生地や身体的特徴などの詳細な情報が記され、また証言者の名前までもが抜かりなく記されている。

 しかし率直に言って、このような文書を見せられたところで、それが客観的な証拠であると認めることは難しい。絵であれ文章であれ、結局はでっちあげることが可能だからだ。もちろん、目の前の冊子の年季の入った様子を見れば、それが最近に作られた偽物だとは思えないのだが……。

 そんな私の心中の声を察したのであろう。次に阿部博士が、佐藤看護人に言って用意させたのは、なんと映写機であった。私は一体どこからそんなものを、と呆れたが、どうやら布を被せておいただけで、最初から部屋の中にあったのだった。

 私は一体何が始まるのか、見せられるかと、内心期待と……そしてそれ以上の不安を感じていた。芦屋教授もまたそれを見たことはないらしく、見るからに期待した様子で佐藤氏の作業を見守っている。

 阿部博士は忍び笑いを浮かべ――。

 その時、突然電気が消えた。辺りが闇に覆われ、私は危うくみっともなく恐怖の叫びを上げるところだった。……がそれは単に映写の準備が整っただけであった。

 スクリーン代わりのコンクリート壁に、フィルムの映像が映り…………。

 

     2

 

 最初に映し出されたのはどこぞの室内だった。一見してこの地下病院――いや、研究所か――ではないとわかる。というのも、その部屋には窓があって、そこから外の様子が窺えるからである。

 部屋には白衣を身につけた阿部博士――今より大分若く見える――と、その正面に老人が一人いて、どちらも椅子に腰掛けている。

 「これは今から三十年ほど前になりますか、まだ我々がこちらに映ってくる以前、前の研究所で撮影したものです。ご覧の通り研究所なぞとは申しましても、一般的な家屋と大して変わらないような有り様でしたが、まあこの頃はまだ被験体も今ほど多くはなかったので、それでも充分だったのです」

 このように説明してくれたのは阿部博士である。敬語なのは、私だけではなく芦屋教授にも聞かせているためだろう。もっとも博士のことだから、活弁士のように小気味よくとはいかないが……。芦屋教授なら或いは向いているかもしれないが、教授もこのフィルムを見るのは初めてのようだから仕方あるまい。

 映像は阿部博士の正面に座る患者――いや、被験体である老人に焦点を合わした。頭を綺麗に剃っているということは、僧侶なのであろうか?栄養状態が悪いのか顔が青黒く、頬が痩せこけていて、年齢を考慮しても不健康に見える。どことなく表情が沈鬱なのも気に掛かる。

 「こちらのご老人は(む)(がく)和尚と仰いまして、見ての通りの僧侶です。さる浄土真宗の古刹で住持を務めておられました。彼は現代の仏弟子としては珍しいほどに禁欲的な高僧で、真宗では妻帯を禁じていないにも拘わらずこの年になるまで独身を貫き、女犯戒を犯そうとせず、ただ衆生済度を願うという高潔な方だったのです。それが何故このフィルムのように私共の研究所におられますかと申しますと、日頃の修行の賜物か高徳の故か、ある時突然に無覚和尚はご自分の過去生を思い出したと言うのですな。

 普通ならそんなことを言い出したところで、周囲の人間は信じようとはしないでしょう。しかしそこは何しろ世間の尊敬を集める高徳の老僧の言うことですから、比較的素直に受け止められたわけですな。さすがは高僧ということでそれなりの評判になり、その噂を私共が聞きつけて、調査に協力して頂いたという次第だったのです。

 ところがそこで、思わぬ事態がおこりましてね……」

 「思わぬ事態?」

 私は画面を見ながら聞き返した。映像の中では若い阿部博士が、痩せさらばえた老僧の体を診察している。顔も痩せていると思ったが、肋骨などが浮き出ていて、こういってはなんだがまるで屍のようにも見える。

 と、私は老僧の右手の甲に、黒い模様のようなものを見つけた。まるで蛇のような、ミミズのような、細長い……。痣?

 「ふーむ。それにしてもこの和尚、ずいぶん痩せておるね」

 言ったのは芦屋教授である。

 「ちょっと尋常じゃないよ。これは死相というものではないかな」

 「さすがは芦屋先生、御慧眼でいらっしゃる……。実はこのご老人、死に向かって邁進している最中なのです」

 私はギョッとして目を瞠った。……どういうことなのだ?

 「まあ、落ち着いて聞いてください。これは何も、私たちが無理やりそうさせているわけではないのですが、この映像の当時、彼は絶食していたのです。それで、自ら死のうとしていたわけです。私たちも止めたのですけどね……」

 「絶食?でも、何でそんな……」

 「はい。そこのところがつまり、先ほど申し上げようとした思わぬ事態のせいでしてね。というのも彼の身に、ある大変に衝撃的なことが起きましたのです。

 先ほども申しましたが、私たちはこの高徳の老僧を研究所に招き入れ、色々と詳細を伺ったのですな。それで、色々と伺いたい話もございますし、遠路遥々お越しくださったわけですから、和尚には十日間の逗留をお願いしたわけです。和尚はそれを快諾してくださいました。

 ところが……。そこで思いがけない椿事が起きたのです。当研究所ではその頃、被験体の身の回りの世話をさせるための世話人を何人か雇い入れていたのですが、その内の一人が――これが少々身持ちの悪い女だったのですが――なんと高潔な僧のストイックな姿にある種の性的魅力を覚えたらしく、なんと誘惑してしまったのですな。もちろん道心堅固な僧侶のこと、最初は撥ね退けたらしいのですが、さしもの肉の誘惑の前に、ついにコロリと――などと申し上げると失礼ですが――参ってしまったのです。とりわけ、その女というのが魅惑的な、西洋的な肉感的肢体の持ち主でして……。

 そうした過ちが滞在中に幾度かあって、しかしもちろん本来は高潔な僧のことでしたからすぐに我に帰り、自らの不徳をいたく責められたのです。逗留の終わりの日には包み隠さず、実に潔い態度で私に打ち明けられ、如何なる謝罪もする、責任を取る、かくなる上はその娘を引き取って……などと仰ったのですが、何しろ事情が事情で、こちらの監督不行き届きでもあるわけですし、当の娘にしても一時的なエクスタシー状態を脱してしまって、坊さんの女房なんぞになりたくないと言い出す始末。そんなこんなで和尚はそのまま寺にお戻りになり、この話はこれでお終いの筈だったのです。

 ……ところが、全くもって思いがけぬことに、この娘が妊娠してしまったのです。本人の申し立てでは、そして時期的にも、その時の子に違いないというのです。そうなるとこちらとしても知らせない訳にはいきませんから、私は密かに和尚に知らせました。勿論、和尚はすっとんで来られましたよ。……青い顔で。

 和尚はその時、既に肉体的に相当弱っておられました。おそらく、有耶無耶になったとはいえ、ずっと気が咎めていたのでしょう。それがこの事態ですから、深刻にならざるを得ない。腹の膨れた彼女を見たときの愕然とした顔を、私は今でも昨日のことのように覚えておりますよ……」

 映像の中では、これが件の女であろう、大きく腹の膨らんだあまり賢そうでもない女と、それと全く対照的に屍のように痩せ細った袈裟姿の老人が並んで立っている。その老僧の、女の腹を見つめる表情の陰気さ、やるせなさ、そして――――。

 「結局、和尚はこのフィルムを撮影した一ヵ月後に一旦ご自分の寺に戻られたのですが、そのまま亡くなってしまわれました。己の罪に慙愧して、死を以って汚名を雪ごうとなされたのか、それは私共にはわかりません。汚名といっても、和尚は真宗の僧侶であるし、そもそも私共の研究所の者意外は誰一人として知らなかったのですが……。

 そして程なくして、女は一人の赤子を生み落としました」

 場面が変わり、一人の赤ん坊が画面いっぱいに映し出された。顔をくしゃくしゃに歪めて泣く、一人の男児……。

 右手の甲には、見覚えのある、蛇かミミズのような細長い痣……。

 「御覧の通り、この赤ん坊は父親である和尚と共通する、痣を持って生まれてきました。そこでもしやと思い、またこうした事情があったわけですから、この赤子は当研究所で預かって育てることになったのです。そしてなんと、この赤子が長じるにつれ、ある不可解な記憶を持っていると言い出したのですな。……そう、その子はたしかに、和尚の生まれ変わりだったというわけです。驚くべきことに……ね…………」

 ワハハハハ…………と、室内に突然、笑い声が響いた。見るとそこには、芦屋教授が手を叩いて、大きく体を揺すって笑っているのだった。

 「すごいぞすごいぞ……。なんと面白い話だ。なんと面妖な話だ。阿部先生も人が悪いな、こんな面白い傑作のフィルムを温存してあっただなんてさ。実際、この映像は珍奇だよ、空前絶後の貴重この上ないフィルムだよ。なにしろ生まれ変わりの神秘を、その因縁を、余すことなく記録に残してあるんだから……。

 しかもその生きた証拠がこうして我々の目の前にいるんだからなあ佐藤君!」

 ああ……。

 これはなんと言う冗談なのだ。淡々と、博士の言いつけ通りに映写機を回す佐藤氏の右手……。

 その手の甲に、あの赤子と同じ痣がある!

 ……では、これは全て真実なのか……。佐藤氏はあのフィルムの赤子の成長した姿であり、そして映像の中のあの和尚の生まれ変わりだというのか。……そして前世の忌まわしき記憶を、その肉体的特徴と共に受け継いだというのか……。

 「しかし、それにしても……」

 一通り笑い終えた芦屋教授が言った……。

 「こんなにも身近に輪廻転生の実例があるのだから、もう研究なんて必要ないのではないかね?何しろ佐藤君は実際に転生をその身で以って体験した強者で、その前世の記憶を持っているということだし、全てを思い出した今となってもこうして阿部先生の所で働いているのを見れば、研究に協力的なのだろう?ここは一つ彼に実体験を語ってもらって、一体どうやれば生まれ変わりが可能なのか、首尾よく狙った体に潜り込めるものか、その秘訣をぜひ教えてもらおうじゃないか」

 教授はそう言いながら佐藤氏をあちこち観察したが、彼は全くの無表情を貫くのみで、特に気にした素振りもなかった。代わりに口を開いたのは阿部博士である。

 「それが駄目なのですよ」

 「駄目?どういうことだい」

 「私も先生と同じことを考えて、佐藤君には何度も訊ねたのですよ。死ぬ直前の状況から、息を引き取る瞬間に脳裏を過ぎったこと、そして実際に死亡してから、生まれ変わるまでに見たもの、体験したこと……そして勿論、生まれ変わる瞬間のことを。何しろそれがわかれば、我々の研究にとって前進どころではない、大いなる革新的事態となるに違いないのですからね」

 「全くだ。それらは皆、我々ニンゲン種族にとって共通の、大いなる秘密に違いないのだからね……」

 「ところが、です。佐藤君が言うことには、前世のことは殆ど思い出しはしたが、死ぬ前後のことはどうしても思い出せないというのです。前世において生まれた土地、両親のこと、出家して後の生活、そして高徳の僧と讃えられるに到ったまでの人生の大部分は勿論、その自負を粉々に打ち砕いた例の事件に到るまで全て明瞭に、まったく厭になるほどくっきりと思い出したというのに、肝心要の死の前後の記憶だけはちっとも思い出せないというのです」

 「ふーむ。それは心理的な防衛反応じゃないのかい。何しろ死ぬ瞬間のことだから、思い出したくなくとも無理はない……。催眠術は試してみたのかね?」

 「勿論です。しかしどんなに深い催眠状態に陥っても、どうしてもうまくいかないのですよ」

 「ちぇッ……なぁんだい……肝心なところが抜け落ちているだなんて、全く、今ひとつ役に立たないんだな」

 私は思わず佐藤氏を見やった。なんという無神経な、思いやりのない言い草であろう……。こんな具合に己の恥ずべき過去を……前世をあからさまな形で曝け出されて、恐らくは苦しんでいるであろう佐藤氏に対して……。

 しかし佐藤氏はそれでもやはり何も言わず、表情も変えずに佇んでいる。まるでそうやって堪えることが、贖罪の代わりとなるとでもいうように……。

 「でもまあ……」

 こちらの思いも知らずにまた教授が口を開いた。

「これほどはっきりとした生まれ変わりの証拠があるというのに、どうして最初からこれを見せてはくれなかったのかね?これがあれば頭脳の柔軟な我輩は勿論、偏見に凝り固まった夢野君だってたちどころに説得されたに違いないし、疑い深い世間の連中だって納得させられただろうに」

 それは確かにその通りではあった。私だとて、最初からこのフィルムを見せてもらえれば……そしてそれが佐藤氏の前世だと知らされれば、信じるしかなかったであろう。

 しかし阿部博士は首を振った。

 「それが、駄目なのです。これは確かに過去には評価された成果で、結果として研究への協力者や出資者を増やし、我々の立場を改善する契機とはなったのですが……。

 と申しますのも、実はこのフィルムを撮影する以前には、私達の研究は風前の灯火も同然の状態だったのです。それと申しますのも例の明治維新の影響で、西洋の科学文明が次々と入ってきたのが原因でした。科学礼賛の文明開化の世の中に、生まれ変わりだの輪廻だのという非科学的なものが、本当にある訳がないと、まあそういう訳です。天皇陛下が東京に御移りになられ、この日本国の都が名実共に関東に遷ってしまったのも、私共の協力者が減る原因となりました」

 「ははあ、それで……」

 「はい。そんな状況下で私が父の跡を継いで研究所の方も引き継いだ頃、例のフィルムに納めたような事件が起きたわけです。幸いだったのはその一部始終をしっかりと映像として残したことで、その映像が私たちにとって逆転の契機となったわけです。なにしろ文書とは違い改変しようのないフィルムに残っているものですから、外部者への説得力が断然違うわけです。当時は世間の契機もわりとよかったので研究資金も順調に集まり、研究所は息を吹き返したわけですね。

 ところが、です。今から十年前に、そんな私共にとっての好況を打ち負かすような発見が為されたのです。他でもない、あの九州帝國大学医学部の、精神病科によって……」

 博士はここで言葉を切った。まるで当時の無念の思いを回想し、噛み締めているとでもいうように。……いや、その渋面を見るに当時の無念ではなく、それは現在も続いているのかもしれないが……。

 私は何が起きたのか気になって、博士に訊ねた。薄氷を踏むような気持ちで……。しかし博士は別に憤慨するでもなく、しかし決して嬉しそうでもなく、感情を殺して言った。

 「……心理遺伝だよ……」

 

     3

 

 私は眉を顰めた。心理遺伝などという言葉に、全く覚えがなかったのだ。しかし芦屋教授はそうではないようで、膝を打って「ああ、そうか!成る程……」などと感心している。

 私は恥を忍んで聞くしかなかった。心理遺伝とは何ですか、と。罵倒されるのを覚悟して……。すると案の定、博士は憤慨した。

 「心理遺伝を知らぬとは!」と……。

 しかしそれでも博士は、私をコケにしながら教えてくれた。

 「心理遺伝とは、読んで字の如く、人間の性格やら経験したこと、記憶なんかが親から子供へと遺伝するという、精神医学上の学説だ。つまり、背が高いとか低いとか、痩せておるとか太っておるとか、目の醒めるような美男子であるとか美女であるとかいった肉体的な形質が遺伝するのと同様に、ニンゲンの精神もまた子孫に受け継がれると主張しているわけだ」

 「そんなことがあり得るのですか!」

 思わず私は叫んだ。あまりにも常識に反していたので……。

 しかし芦屋教授はまったく冗談とは取れない顔で言う。

 「それがありえるのだよ。少なくとも、九大の精神病科が論文と一緒に提出した資料に拠れば、それは全くの真実であると実例付きで立証している。当時はそれはもう大いに騒がれたものさ。何しろニンゲンという生物種の様態を書き換える空前の発見と言うべきものだ。人間のアイデンティティの根幹を揺るがすと言う意味では、『ニンゲンは猿から進化した』というダーウィンの進化論にも匹敵する学説だとまで言う者もいた位さ。我輩なんかも専門外の身とはいえ、当時は大いに興奮を覚えたものだよ。……君は知らなかったようだがね」

 私は肩身の狭い思いをした。反論のし様もない。そんな私を見かねて、教授を宥めてくれるのは阿部博士である。

 「まあまあ……。我々にとっては一大センセーションに思えたことでも、世間の人々にとってはそうでもなかったのでしょう。実際、この心理遺伝については疑問を覚える学者も多く、今でも反対意見は根強いのですから。

 とはいえ、たしかに心理遺伝説は概ね受け入れられているのが現状です。論文を連名で提出した九大の若林博士と正木博士は勿論のこと、九州大学の精神病科自体が精神医学界において特別な存在となったわけですな。まあそれは私には関わりのないことですが……。しかし彼らの理論は図らずも、私共の研究の強力な反証となってしまったのです」

 「何故ですか?だってそれは精神医学界のことではないですか。博士の研究には関係ないのでは……」

 私は首を捻った。たしかにこの施設は、表向きには京大医学部の精神科の、特殊病棟ということになっている。しかし先刻明らかになった通り、実態はそうではない筈だ。特に影響があるとも思えないが……。

 「君は、もっと頭を働かせたまえよ」

 芦屋教授が馬鹿にしたように言った。

 「いいかい、心理遺伝という理論が真実で、親の性格どころか記憶までが子供に受け継がれるのだとしたら、佐藤君が例の和尚の生まれ変わりだという確かな証拠がなくなってしまうじゃないかね」

 「え?……なぜです」

 「だから……」

 血の巡りの悪い私に教授は癇癪を起こす。

 「佐藤君が例の和尚の生まれ変わりだという証明は、右手の甲の痣と、そして前世の記憶を持っているということに他ならない。しかしこう言ってはなんだが、右手の痣はそれほど確かな証拠にはならん。それだって、遺伝したものかもしれないからさ。

 だがもう一方の前世の記憶――つまり無覚和尚としての記憶だが、もし心理遺伝が正しいとしたらどうだい?この記憶だって、遺伝したものに過ぎないということになる。つまり佐藤君は和尚の生まれ変わりでも何でもなく、純粋に彼の子供というに過ぎないのであって、結局は別の人間に過ぎないのではないか。そういう疑いが生じるわけだよ」

 「……アッ……」

 そうか……。言われてみればその通りだ。私は漸く理解した。確かにそれなら、先ほど阿部博士が証明したかに思えたことは、全て無に帰してしまう。

 見ると、博士は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべている。

 「全く以って、芦屋先生の仰るとおりです。この時は私も参りました。何しろ、一時期の苦境を乗り越えてようやく賛同する方も増え、新たに京大の地下に最新式の研究所を建設するに到った矢先ですからな。勿論、それだけで私達の研究成果の全てが否定されるというわけではないのですが、懐疑的な意見が出ているのも確かでして……」

 「ふーむ……。何か、あちらへの有効な反証材料があればよいのだがね」

 「それが、全くないというわけではないのですよ。もっとも、それも証明がなければ説得力には欠けるのですがね……」

 阿部博士は言いながら、佐藤氏へと視線を向けた。つられて、私たちも……。

 「佐藤君がどうしたのかね?だって彼の記憶は、反証にはならんだろう」

 「ええ、今のままではね……。しかし、彼が忘れてしまっていること、即ち死の直前の記憶さえ甦れば、彼が生まれ変わりであることは証明できるのです」

 「なんだって?一体どういう理屈で?……おっと待ってくれ。考えてみるから。…………ん?……そうか!」

 謎めいた阿部博士の言葉に首を捻っていた芦屋教授だが、突然アッと叫んだ。

 「死ぬ直前の記憶は遺伝しないのか!」

 「ご名答!」

 博士が嬉しげに声を上げる。一人取り残されて、私は戸惑った。

 「どういうことです?」

 「つまりこういうことさ」

 答えを出して機嫌をよくした教授が説明してくれた。

 「九州大学の連中が主張するように精神が遺伝するのだとすれば、その伝達が行われるのは受精の瞬間以外にはない。まあ受精卵は母親の胎内に宿るわけだから、可能性としてはそれ以降も母親の側の記憶は胎児に伝わるかもしれないが、少なくとも父親の記憶はそうではない。だって父親の記憶が遺伝するとしたら、それは父親の精子に含まれていたものとしか考えられないのだからね。

 ということはどうだい?心理遺伝説が正しいとしても、その受精卵が誕生した以降の――平たく言えば性交渉の後の――父親の身に起きた出来事に関する記憶は、絶対にその子供には遺伝しない筈なのだ!」

 「仰る通りです、芦屋先生!そして逆に言えば、その遺伝するはずのない記憶を子供が持っているとすれば、それは決して遺伝が原因ではないということです。即ち――生まれ変わりが原因ということになるのです」

 私は圧倒されていた。心理遺伝などというおかしなことを考えてそれを証明してしまったという九大の教授達も変だが、私の目の前の二人の博士とて充分におかしな頭脳の持ち主である、と思い、半ば感心し……。なんと立派な、変態の向こうを張る変態……。

 「しかしそうなると、佐藤君の記憶の欠落がますます惜しまれるな。いや、これは痛恨事だ。なんとかならないものかな?」

 教授が再び佐藤氏を見据える。

 「それが如何ともしがたいのです。私としても有効な反論にはそれしかないと思い到り、この十年ばかり散々手を尽くしてみたのですが、どうしても駄目なのです」

 阿部博士も佐藤氏を見た。その眼は、芦屋教授ほどあからさまに冷淡なものではなかった。が……。

 「ちぇッ!まったく使えないな……」

 余りにもあんまりな発言を教授が洩らした。私は義憤に駆られた。人を人とも思わぬ、その態度に……。

 佐藤氏は何も言わないが、このような言動を一体どう思っているのだろう?これも含めて全て前世の、自分の過ちの報いだと諦めきっているのであろうか?

 ……いや、もしも心理遺伝説が正しく、彼が無覚和尚の生まれ変わりではないのだとしたら、そもそも佐藤氏には何の罪もないということではないか。記憶があるといったところで、それは結局は彼の父親のものに過ぎないのだ。彼は父親とは全然別個の、独立した人格ということになるのだから……。

 一体、佐藤氏はこのことを何と思っているのだ?

 そう思った時……。

 「しかし、このままではおさまらないな」

 芦屋教授がポツリと言った。

 「まったくもって度し難い。このままでは心理遺伝が正しく、生まれ変わりなどないということになってしまう。そうしたら、京大の敗北ということになってしまうではないかね。この研究所だってもう、この京大の一部なのだから」

 「そう言って頂けると光栄です。……実は私も色々と考えておりまして、かくなる上はもう一度、同じ実験をするしかないと思うのです。勿論、今度は厳密に条件を整えて……」

 ……………………。

 …………え?

 私は自分の耳を疑った。それは、つまり…………。

 「それはいい!」

 景色満面の芦屋教授の声が、耳に木霊する……。

 「前回の失敗は、要するに心理遺伝という反論が来るのを想定していなかったせいです。……もっとも、無理もないのですが。しかし次の機会にはそれを踏まえて、女性の側の妊娠が判明した段階で男性の側の被験体を隔離し、その上で強烈な刺激を与えるのです。強烈な記憶として刻まれ、生まれ変わって後も決して忘れないような、心的外傷をね。そして、これはこれまでの我々の研究で判明しているのですが、死者の魂が母体内の胎児に入り込むために最も適している時期に、男性を殺害するのです。そうすればその被験体の魂はほぼ確実に胎児へと移りますからね…………」

 「ほう、それは面白そうだ……。どうせなら、その殺す方法というのも物凄く印象的なものがいいな。ほら、殺害された時の傷が、生まれ変わった肉体に痣となって現れることがあると言っていたじゃないか。それが首尾よく出れば、さらに強力な動かぬ証拠となるじゃないか」

 「それは素晴らしいご意見です。死ぬ直前の記憶があり、さらに死因となる傷を聖痕として持って生まれたとなれば、私達の理論の完全なる証拠となりますからね……」

 「聖痕か、まさしく違いない!なんたってそれは、輪廻という神秘の法則を証明する、聖なる傷なのだから!」

 大いに盛り上がる二人の学者を見て……。

 私は茫然自失に陥っていた。

 ……この二人は何を言っているのだ……?そう思って…………。

 殺す?殺す……そう言ったのか?被験体を?

 ……人間を?

 たしかに、この二人の考えを立証するためには、その方法しかないのかもしれない。……しかしそれは同時に、酷く難しいことでもある。何故ならそのためには、父親である被験体に死んでもらわなければならないからだ。……それも、ごく限られた時期に。

 普通ならそんなことは不可能だ。そんな都合よく、人間というものは死なないものだ。そう、自然には……。

 しかし……故意にであれば?

 故意に、手を下すのであれば?

 それなら、たしかに可能となる。任意の時期を見計らって、被験体を殺害すればいいのだから。

 ……そうだ。そうなのだ。

 なんということだ。つまり……彼らは本気なのだ。

 実験のために、己の理論を証明するためだけに、彼らは一人の無辜の人間を死に至らしめようとしているのだ。

 それは……それは……。

 それは、殺人ではないか!

 「……おや、どうしたね、夢野君……怖い顔をして……」

 その声は激高している私には、どちらの博士が発したものとも区別がつかなかった。実際、そんな必要はないのだ。二人は同じ穴の狢なのだから……。

 「……本気で言っているのですか」

 「本気?何のことだい」

 「先ほど言っていたことですよ」

 「先ほど?何を言ったのだったかな?」

 「殺す、と言ったことですよ!」

 とうとう私は叫んだ。

 「一体、本気で言っているのですか。殺す……殺すだなんて、そんなこと。いくら自分の理論を証明するためなんぞと言ったって、そんなことは法治国家では許されません。許されませんよ……。た、たかだか研究のためだけに、人を殺すなんて!」

 「たかだか研究だって……?」

 不敵な笑みを浮かべて言ったのは、阿部博士であった。

 「酷いことを言うね。私が……いや、私の一族が、どれだけの長い時をかけて研究を重ねてきたと思っているのだね。たかだかなんて、よくも言えたものだ……」

 その言葉に不穏なものを感じて、私は怯んだ。体格のよい阿部博士だけに、その迫力は並外れであった。

 それでも私は言った。

 「あ、あなた方がどれだけ苦労しようと、そんなことは犠牲となる人間には一切、一切関わりのないことです。一体そんな理屈で、無辜の人間を殺すなんてことが許されると思っているのですか!」

 「許されるか、だって……?」

 阿部博士が歪んだ笑みを浮かべる。

 「今さら何を言っているのだね。研究のために、実験のために被験体を殺すなんてこと、今まで散々やってきたというのに」

 …………え?

 私は咄嗟に理解することができなかった。今、何を言われたのか……。

 「生まれ変わりの研究に、人間の死は付き物だよ。それもただ死ぬのを待っているだけじゃ効率が悪すぎるし、仮説の検証には役立たないから、どうしたって殺す必要がある。例えば私の先祖の功績の一つに、母体の中の胎児に魂がいつ入り込むかを明らかにしたというのがあるが、これを発見するためにどれだけの犠牲が必要だったか、考えてみればわかるだろう?

 そうだ……そういえば、君には地下五階はまだ見せてなかったね」

 地下五階……?そうだ。そういえばここは、地下五階まであるのだった。私は地下四階までしか行っていないが……。

 「……そこに、何があるというのですか」

 「そこには、私が先祖から受け継いだ被験体がいるのだよ」

 「先祖から……?」

 「そうさ。君にも見せた地下三階や四階の被験体は、最近新しく入ったばかりの連中さ。言ってみれば、外来のようなものだ。一方で地下五階の彼らは、明治になるよりずっと前から私たちで世話をしている。一番の古参は、二百年ほどかな……」

 「そんな馬鹿な……。そんなことあり得るわけが……」

 「可能だよ。生まれ変わらせることができればね」

 生まれ変わらせる……?それは、まさか……。

 「そう。被験体が死ぬ時、こちらで用意した新しい肉体……ちょうど具合よく成長した胎児に宿らせるのさ。そうすれば、かなりの高確率で転生が成功することがわかっているからね。その赤子が成長して、見事に前世を思い出すことができれば、実験は成功というわけさ。もちろんそこで終りではなくて、そうして成功した個体がまた死ぬ時に……殺す時に……再び他の胎児に宿らせる。一度成功した被験体の場合、二度目三度目でも成功する確率が高いからね……。地下五階にはそうやって、数世代にわたって転生を繰り返している被験体がいるのだよ。私達の手の内でね……」

 ああ…………。

 私の目にはその時、阿部博士が魔物に見えた。

 なんて恐ろしい……。生まれ変わってはまた殺されて、それでもまだ開放されず、囚われていなければならないなんて。そしてまた、殺されて……。

 それは牢獄ではないか。決して逃げ出せない、数百年にも及ぶ、魂の牢獄……。

 ……何故だ。どうして、そこまでして生まれ変わりなんて研究しなければならないのだ?そんな非道な行いをしてまで、どうして研究しなければならないのだ。

 私は上ずった声で叫んだ。

 「そもそも、何のために生まれ変わりの研究なんてしているのです!そんなものの研究が、どうして必要なのですか!」

 「もちろん、生まれ変わりという現象の実態を解明し、その知られざる法則を定式化して、役立てるためだよ」

 阿部博士は平然とそう言い放った。

 「役立てる?……役立てるだって……?」

 「そうさ。輪廻の神秘の法則を解き明かし、それを以って思い通りの形に転生することが可能になれば、人生というものは……いや、人間存在そのものの様相が変わる。なにしろ、どんなに栄華を極めた人間でもその一生で人生は終わりを迎えるしかなかったというのに、これからはそうではなくなるのだからね。死は終焉ではなく、その後も我々は人生を続けることができる。それも、自分にとって都合の良い形でだ……。

 ムムミ君を見たまえ。彼女は愛してやまない男に再び出会うために生まれ変わった。言っておくが彼女の生まれたのは――君の生まれた町でもあるが――その男の、生まれ故郷だったのだよ。まあ、このことは彼女本人もまだ思い出してはいないがね。

 多上カヲルを見たまえ。彼は前世における恨みを晴らさんがために、憎き仇の実の子供として生まれてきた。そして、見事に復讐を果たしたのだ。死んでしまったために果たせなかった望みを、生まれ変わることで果たすことができたのだ。人間にとってこれほど素晴らしいこともないだろう。

 どうだ……わかったかね?輪廻の法則を解き明かすことは、人間存在にとって不可避の「死」という絶対の障害を克服する、救済に他ならないのだよ。これこそまさに、不老不死にも匹敵する、人類の長年の夢なのだ」

 人類の夢――不老不死に変わる?

 私は呆然と、阿部博士に言われたことを考えていた。その言葉を脳内で繰り返しているうちに……ふと、笑い出したい衝動に駆られた。

 なんだ……結局なんのかんの言ったところで、自分のためなんじゃないか。金持ちの家に生まれればよかったとか、もっといい両親の子供として産まれてきたかったとか、そんなの只の欲じゃないか。死にたくないなんて、子供のいうことじゃないか。全ては頑是無い子供のわがままじゃないか。

 要するに、死ぬのが怖いんじゃないか。

 「……何がおかしいのかね、夢野君」

 急に笑いの発作に見舞われた私を怪しんだのか、阿部博士が警戒したような顔を浮かべている。私はなんだか益々おかしくなった。

 「何がおかしいか、ですって?こんなにおかしなことが他にありますか。阿部先生、貴方は先ほど何と仰ったのです?輪廻転生の神秘の法則を解き明かすとか、人間存在の様相が変わるとか、ご大層なことを仰っていたじゃありませんか。芦屋先生、貴方はどうです。人間存在にとっての最大の謎を解明するだとかいって、それを理解しない僕を俗物だのなんだの散々に扱き下ろしていたじゃありませんか。それで自分ばっかり進歩的だとか崇高だとか言っていたじゃありませんか。

 何が崇高ですか。真理ですか。ちゃんちゃらおかしいや。

 なんのかんのお題目を唱えたところで、貴方方は結局死ぬのが怖いだけなんじゃありませんか。それで生まれ変わって、できたら自分達に都合のいい環境に生まれてきたいだけなんじゃないですか。そんなの欲ですよ。子供のないものねだりというものですよ。阿部先生、芦屋先生、俗物はあなた方の方だ!」

 私は怒り心頭に発した。こんな連中を一時でも偉大な学者だと敬愛し、尊敬を捧げていた自分自身に腹が立った。

 この二人こそ学者の振りをしながら実は真理を冒涜し、私利私欲のために学問の精緻たる京都帝國大学の学び舎を穢し、食い物にする寄生虫に他ならない。先年の滝川事件では権力を笠にきた内閣そして軍部が滝川教授を始めとした法学部の教授連を不当にも弾圧したが、この二人の所業こそそれに劣らない。いや、巧妙に内部に巣食うという点では、それよりも余程質の悪い、学問への冒涜なのだ!

 「好き放題言ってくれるね……」

 興奮を隠さぬ私に、阿部博士が低い声で言う……。

 「それで、ではどうすると言うのだね?この事実を知った君は……」

 「勿論、真実を告発するのです。精神病院という名目の下、この薄暗い地下で行われているいかがわしい研究の実態を総長に訴え、即刻排除してもらうのです」

 阿部博士と芦屋教授、悪の二人はこれを聞くときょとんという顔をした。そして互いに顔を見合わせると、何がおかしいのか二人揃って、アハハハハ…………ワハハハハ……イヒヒヒヒ…………ウヒヒヒヒ…………とばかりに笑い出した。

 私は二人が狂ったのかと思い狼狽した。

 「な、何がおかしいのです!」

 すると阿部博士が笑いを収め、おかしくて堪らないという口調で言った。

 「君は本当におめでたいな……。総長が何も知らないとでも思っているのかい」

 「えっ…………!」

 絶句する私に、今度は芦屋教授が言う……。

 「歴代総長だってむろん知っていただろうさ。なんたって、総長室は時計塔の二階にあるのだからね。知っていて、黙認していたのだよ、君……」

 「そ、そんな……」

 目の前が真っ暗になった。まさか、まさかこの京都大学で、輪廻転生の研究なんてものが非公式にでも認められているなんて……。そんな馬鹿な。馬鹿な。

 私は勇を鼓して言った。

 「そ、それなら……警察に行きます。研究のためだろうと何だろうと、ここでは罪もない人々を集めて不当に拘束しているんだ。治療と称しながらいかがわしい実験をしているんだ。それを訴えれば……」

 「無駄だよ。君ね、どうして私たちが極秘裏にとはいえ、よりによって京大の地下にこんな大層な施設を作らせることができたと思っているのだね?全国に無数の優秀な研究員を派遣して被験体を集めたり、調査を行ったりすることができると思うのだね?協力者がいるからさ」

 「……協力者……?」

 「そうさ。我々の成果に期待して潤沢な資金を提供し、京大の首脳陣を脅して我々の研究に無理やり協力させるほどに絶大な権力を持つ、多方面にわたる便宜を図ってくれる協力者さ。政府、警察、財閥、そして勿論、軍内部にも我々の協力者はいる。それだけ期待されているのだよ、我々の研究は」

 「そんな……」

 「権力者なんて皆そんなものさ。誰だって死ぬのは怖い。特に、現世において成功を手にし、繁栄を極め、享楽の限りを尽くした人間ほど、自分が死ぬことを理不尽に思う。この生が永遠に続けばよいと願う。まあ、ありふれた望みだがね。

 不老不死とは形が違うが、我々の研究はそれを叶えるものだ。いや、生まれ変わることができる以上、不老不死より利点があるといってもいい。どんなに金や権力があっても叶えられないこと……例えば容姿、才能、血統、性別、若さ……自由に転生できるようになれば、こんな望みを叶えることだって不可能ではない。たしかに子供の我侭さ。ただし、それだってもはやないものねだりではないのだよ。だって、私の研究が完成すれば、それは可能になるのだからね」

 駄目だ……。絶望と共に私は悟った。

 私はこの人達には敵わない。私は結局のところ、只のありふれた凡人に過ぎないのだ。肉体的にはもちろん、頭脳も、そして精神も……。

 そして、この二人は怪物だ。悪魔に躊躇なくその魂を売り渡し、人間であることを止めたのだ。彼らは研究のためという一語で、何を犠牲にすることもできる。いや……そもそも、犠牲とすら考えてはいないのかもしれない。

 逃げるしかない。逃げるしか……。

 私は身を翻した。そして扉に向かって――――

 「佐藤君」

 ……阿部博士の声が響くのと、私が左手首を掴まれたのは殆ど同時だった。私は反射的に腕を振って、相手の手から逃れようとした。手首に激痛が走った。私は悲鳴を上げた。

 二人の博士が、ゆっくりと近づいてくる……。

 「困るのだよ。君に逃げられては……。何のために、懇切丁寧に君に説明してやったと思っているのだね」

 「え…………?」

 聞き返すと、芦屋教授が呆れたように言う。……いつものように。

 「おいおい、わからないのかね?君には大切な役割があるんじゃないか」

 「役割……?」

 「そうさ。さっき我輩達が言っていた新しい実験。君には、その実験に協力してもらうのさ。決まっているだろう?」

 新しい実験?それは……それは……。

 まさか…………。

 背筋にゾクリと悪寒が走った……。

 「まさか……生まれ変わりの実験……」

 「そうさ」

 「僕を……殺すのですか……」

 「そうだよ」

 全身の血の気が引いた……。必死にもがいて、なんとか佐藤氏の腕を振り解こうとしても、それは喰いついたように離れない。

 「そんなに嫌がることはないじゃないか。君の愛してやまない、ムムミ君と結ばれることができるのだよ」

 囁くように阿部博士は言った。

 「ムムミ……と……?」

 「そうだよ。君の相手となると、ここにはムムミ君しかいないじゃないか」

 「無理ですよ……不可能ですよ……ムムミには……僕は……見捨てられて…………」

 「大丈夫。何も心配はいらないよ……。ムムミ君が君を拒んだのは、前世の恋人である佐吉という男のために操を守っているからだ。なら簡単だ……君が佐吉になればいい」

 「僕が……佐吉に……?」

 「そうさ。彼女が日下部ハルの生まれ変わりであるように、君も佐吉の生まれ変わりだということにすればいい。何、簡単さ……。彼について調べたことを、君に教えてあげるよ。それを、さも自分のことのように彼女に吹き込めばいい……。私たちも協力を惜しまないよ。私は彼女に信頼されているしね……」

 「い……厭です……。いくらなんでも、そんな……やり方……」

 「厭でも何でも、やってもらうしかないんだよ。……それにもしかしたら、案外君は本当に佐吉の生まれ変わりかもしれないのだよ。さっきも言ったが、君達の郷里は佐吉の郷里でもあったのだからね。惹かれ合う魂が縁となって、近しい間柄として生まれ変わるという事例はたくさんある。だから君達は、この時代に許嫁となったのじゃないかな……」

 僕が……僕が佐吉……?ムムミの、前世の恋人……?

 もしそうなら……。

 …………。

 いや……。

 「そ、そんなことは、関係ありません」

 「……何だって?」

 「ぜ、前世なんて、僕には関係ないと言ったのです。何が前世だ、くだらない。前世なんてものが本当にあったとして、それが今の僕に何の関係があるっていうんだ?前世は前世だ。今は今だ。せっかく生まれ変わったっていうのに、前世なんぞに縛られてたまるか!」

 そう叫んだ時、私の手首を掴んでいた佐藤氏の腕の力が緩んだのがわかった。……しかし、まだ逃れるには至らない。

 「佐藤さん!」

 頑なに自身の感情を殺す彼に向けて、私は必死に叫んだ。――――考えてみれば、私が彼に話しかけたのはこれが初めてだった。

 「貴方はどうして彼らに従うのですか!貴方は、これで本当によいのですか!」 

 反応はない。それでも私は叫び続けた。

 「貴方が本当に無覚和尚の生まれ変わりだろうと、そうでなかろうと、貴方には彼らに従う理由なんてない筈だ!これ以上悪事に加担するのはおやめなさい!」

 その時、今までどんな言葉をぶつけられてもビクともしなかった表情が、ピクリと動いたのを私は確かに見た。私は希望を見い出した。

 私にとってこの場で物理的な脅威となるのは、佐藤氏ただ一人だ。彼さえ味方につければ、ここから無事に逃げ遂せることは難しくない――それどころか、形勢は一挙に逆転し、我々は二人で悪の両博士を打ち負かすことができる。

 佐藤氏の様子を見た阿部博士と芦屋教授の顔に焦りが浮かぶのを私は見た。いける。……もう少しだ。

 私はさらに声を張り上げた。

 「さあ佐藤さん、今こそ目を覚ますのです。一緒にこの悪徳を打ち砕きましょう。この二人を完膚なきまでに懲らしめ、地下の囚われた人々を救い出すのです。それこそ、貴方にとっての贖罪となるのではありませんか!」

 

     4

 

 私は眼を醒ました。頑丈な鉄の寝台の上で……。

 四方をコンクリートで囲まれた陰鬱な部屋。窓はなく、外の景色を見ることもできない、気の滅入るばかりの部屋……。

 結局私は、この病院――いや、研究所から逃げることはできなかった。あの時、佐藤氏は最後の最後に心を閉ざしてしまったのだ。

 以来、私はあの二人を懲らしめることも、悪事を暴くこともできず、以来こうして囚われている。この、地下三階の、七号室に……。

 あれからどれだけの時が過ぎたのか、もうわからなくなっていた。一ヶ月か、二ヶ月か。あるいは、何年もの月日が流れたのか……。

 阿部博士と芦屋教授が企んでいた通り、私は無理やりムムミに引き合わされた。その時にはムムミは既に私が佐吉の生まれ変わりであると信じ込まされていて、泣いて詫び、私に許しを乞うた。騙されているとも知らず……。

 私はムムミを許したが、その求愛にはしかし頑として応じなかった。一時期の怒りは解け、私は再びムムミを愛し始めていたのだが、だからこそ応えてやれなかったのだ。彼女が愛しているのは私ではないと、私は知っていたから……。

 「わたくしを思い出してください」とムムミは何度も訴えた。私は佐吉ではないというのに……。

 ムムミが哀れではあったが、私にはどうすることもできない。

 その内、私がムムミの六号室に連れて行かれることも、ムムミが私の七号室に連れて来られることもなくなった。私の強情な態度に、さしもの彼らも考えを改めざるをえなかったのだろう。

 もっとも、油断はできない。彼らが諦める筈はないからだ。必ずや新しい手段を考え付いて、またやってくるに違いない……。

 そう考えた時……。

 どこからともなく、聞き覚えのある鐘の音が聞えた気がして、私は顔を上げた。

 どこか懐かしく思える……そう、これは…………。

 時計塔の、鐘の音?

 そんな筈はなかった。この地下病棟には、地上の音は届かないのだから。それどころか、廊下の音すらも……。

 そう思って扉を見て、私はおかしなことに気が付いた。廊下側の壁に設けられた鋼鉄製の扉の、その下部の切戸が少し開いていて、外の明かりが入ってきている。外から何か、板のような物が差込まれていて、それで開いたままになっているのだ。

 それで外の音が洩れてきたのだろうか?

 差込まれている、その板のような物が気になって、私は扉に近づいた。拾い上げてみるとそれは、部屋の裸電球の光線を反射させ、私の眼を灼いた。それはただの鏡であった。

 私は落胆した。何か特別な物かと思ったので……。

 そして、何気なく鏡を覗き込み……。

 「私」は甲高い悲鳴を上げた。