化鳥繚乱

第一章 月小夜(つきさよ)

 

 

 

 東海道の小夜(さよ)中山(なかやま)に、奇怪な化鳥(けちょう)が現われた。そんな奇妙な噂が広まったのは、弘安三年のことである。人に倍する背丈を持つ巨大な化鳥が夜な夜な姿を現わして、近隣の民や街道を行く旅人を悩ませているという。

 小夜の中山は駿河(するが)との国境に程近い、遠江(とおとうみ)の国の東に位置する山である。東海道日坂(にっさか)宿(しゅく)と菊川の宿とを繋いでいる、街道筋の寂しい峠道で、箱根に次ぐ東路(あずまじ)の険阻として広く人々に知られていた。

この地はまた、東国へと下る旅人が必ず越えねばならぬ難所であるため、古くから歌枕の地としても有名だった。この地を訪れた歌人の中で特に名高いのは平安末期の西行法師で、彼は生涯に二度この地を訪れたと言われている。西行は二度目に訪れた時、老年になってから再びこの地を訪ねた感慨を込めて

    年たけてまた超ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山

という歌を詠んでいる。源平の争乱期を生きた西行の時代は、弘安の世から数えておよそ百年程の昔に当たる。

 その小夜の中山に不気味な化鳥が現れて、里を襲う。旅人を喰らう。そんな噂が、遠い都にまで伝わった。噂に拠れば、かの化鳥は一丈(約三メートル)もの巨体を有す化物で、その全身は烏羽玉の如き黒い羽で覆われ、嘴は鋼のように硬いという。もっとも特徴的なのはその巨大な翼で、研ぎ澄まされた刃のように切先鋭い鋭利な翼は、人間の身体など容易に切り刻むことができると酷く恐れられていた。

里の者は困り果てた。街道を行く旅人は化鳥を恐れて迂回を余儀なくされ、そのため小夜の中山の周辺にはいつしか往来が途絶えてしまった。

 

   1

 

 弘安三年、八月(はづき)の夜。

風の吹かない、生温い夜だった。地上は、闇に閉ざされている。宵の口から湧いて出た、鈍重な雲の塊が、分厚く天を覆い続けていた。

……その暗鬱な雲の峰が、ついに、崩れた。薄くなった雲の隙間が次第に金色に染まり、そこから白珠の如き、真円の月が零れ出る。途端に洩れ出た月光が、雲下の闇を掃き清め、忽ちの内に地上の(かたち)を顕わに浮かび上がらせた。

涼しげな風が吹き始める。木の葉はざわめき、薄の穂が涼しげに揺れる。道に落ちる草木の影は、いつになく濃い。月の最も明るい晩、中秋の名月の夜である。

地上からその名月を見上げている、一人の青年の姿があった。人里離れた、寂しい山の中腹辺り、峠から里へと下る山道の上に、その青年は一人佇んでいる。

冴え渡る月の輝きは、草深い山道に半ば埋もれていた青年の姿をも照らし出し、闇から洗い出していた。まだごく若い、鄙には稀な貴公子の姿。その身に纏う装束は、青年が身分の高い、貴族の生まれであることを示している。

鋭い眼光を月に向け、真直ぐに天を仰ぐ青年は、いま暗雲から生まれたばかりの、眩い月を凝視している。

 青年――一条(いちじょう)能柾(よしまさ)は、眉目秀麗な若者だった。歳は若く、今年で二十二。細面の瓜実顔に、涼やかな鼻筋がすっと通っている。切れ長の目は鋭いながら、どこかなよやかな色気をも含んでおり、彼を見る者に精悍な印象と、そして艶めいた印象をも同時に与えていた。……彼の容貌にはいかにも貴族めいた雅やかな気品と、それに半ば相反するような凛々しさの双方とが、混在して備わっていた。人間の外見が、それを有する人物の内面を常に反映するとは限らないが、この歳若い貴族の場合に限っていうなら、その外見は彼の人物を端的に表現しているといえた。

 彼の装いもまた、そんな印象を裏切っていない。身に纏う狩衣は地味な色合いの青褐(あおかち)で、先刻までは闇に同化してしまっていたが、今では折からの月明かりを浴びて、銀糸で縫い取られた蛮絵の獅子があえかな輝きを放ち始めていた。頭頂に戴く巻纓冠(けんえいのかんむり)は、彼が位の高い武官であることを示している。腰に佩いた太刀は、一見して黒塗りと紛うような濃い塵地(ちりじ)の鞘で、その全体に銀銅の細帯を蛭巻きにしてある。実用を考えた堅牢性と優美さとを併せ持つ、贅を凝らしながらも華美に過ぎない刀装だった。左手(ゆんで)に握りしめた重藤の弓も、狩衣の背に負った(えびら)も、そうした印象を外れていない。

 ……そう、能柾は武装していた。武具をその身に纏った姿で能柾は、一心に天を見上げている。

しかしその相貌からは、名月の興趣を楽しむ色など、微塵も窺うことはできなかった。切れ長の眼はきつく天を睨み上げ、固く結んだその口元には、緊張が色濃く滲み出ていた。……正確には、彼は月を眺めているわけではなかった。月明かりによって藍色に照らし出されている、夜空全体に神経を張り巡らせていたのである。突然現われた名月の明るさに驚き、雲の内に隠れていた奇怪な鳥が慌てて姿を現すことはないかと思い、じっと見張っていたのだった。

右手は背に負う矢羽を摑み、いつでも抜けるように備えている。構えには一切の隙がなく、裂帛の気合をその身内に蓄えながら、能柾は厳しい顔付きで天を睨み上げている。……そのまま、幾許かの時が過ぎた。

 能柾は構えを解き、小さく息を吐き出した。耳には叢の、虫のすだく声が戻ってくる。顔には疲労の色が濃い。

月明かりの照らす道の先へと、彼はその視線を戻した。そして、峠から里へと続く草深いその山道を、能柾はまた下り始めた。

 

 一条能柾(よしまさ)は、れっきとした名門貴族の子息として生まれた。妾腹の生まれではあったが、正妻の子で家督を継いだ兄よりもむしろ早く昇進し、正四位上の位を賜っている。武官として左近衛府に属し、今では近衛中将の地位にある。

能柾の生家である一条家は名門とはいえ、今の帝の御世となってからは、政権の中枢からは長らく外れている。しかしそんな状況下でも彼個人は宮中における指折りの、最も有望な若者の一人と見なされていた。それは偏に彼の実直な性格と、その類稀なる武勇の腕前が、主上の信頼を得たことに拠った。かつて武勇を誇った近衛府も有名無実化して久しく、名門貴族の子弟が名ばかりの近衛高官に任じられる現状において、幼い頃から学芸よりも武芸を好んできた能柾は殆ど唯一の、実の伴う近衛中将なのだった。

 しかしその彼の姿は今、都から遠く離れた鄙の地にあった。それも、最近では危険と見なされ、人影の全く絶えてしまった寂しい山中を、たった一人で歩いていた。都であれば、彼のような高官が供も連れずに出歩くことなど、到底考えられないことだった。

並の貴族であるなら、嘆くような状況かもしれない。だが能柾は、そのこと自体は歓迎していた。どこに赴くにも従者が付く環境を、彼はむしろ窮屈に感じていた。元々、地位や権力というものを、殊更好まない質である。突然訪れた気軽な環境を、喜ぶ気持さえあった。――もっともそれは、不謹慎な感慨と言えた。そうなってしまった、原因を思えば。

彼はそれを思い出し、自らを戒めた。

都から下るに当たって、彼は従者を一人、連れてきていたのだ。急に下された勅命を果たすにはうってつけの助けとなる筈だった、屈強の従者を。……だがはるばる東路を下り、この里まで付き従ってくれた従者は、到着早々に傷つき、倒れてしまった。十日程前のこと、あの恐ろしい、巨大な化鳥に襲われて……。

 

 一条能柾に化鳥討伐の勅命が下ったのは、七月(ふみつき)の下旬に入った頃だった。ちょうどその少し前から、東国からの奇妙な噂が都に届いていた。すなわち、東海道の小夜の中山に近頃奇怪な化鳥が現われるようになり、旅人の往来を妨げているという噂である。 

 東海道は古くから都と東国を繋ぐ、交通の要衝である。特に百年ほど前のこと、源平の争乱の果てに源頼朝が鎌倉に幕府を設立してからは、その重要性はさらに増していた。日本という国の支配が貴族政権と武家政権とに二分されたこの時代、京都と鎌倉を繋ぐ通路が滞ることは、政治的にも重大な問題といえた。

帝の号令によって、早速詮議が開かれた。そして弓箭に長けた殿上人を小夜の中山へと遣わし、かの地で暴虐の限りを尽くす悪しき化鳥を討ち取らせることが、速やかに決定せられた。そこで挙がった名前こそ若くして武勇の誉れ高い、左近衛中将一条能柾だったのである。

 『汝、直ちに小夜の中山に行きて、かの化鳥を討ち取るべし』

 ……こうして勅命を受けた能柾は急ぎ旅支度を整え、従者の中でも腕の立つ橘主計介(たちばなかずさのすけ)を伴い、はるばるこの遠江の地まで下ってきたのだった。

 小夜の中山の東に位置する、この菊川の里に彼等が到着し、探索を開始したのが八月(はづき)の初めのこと。そして今宵は満月、十五夜である。この地にやってきてから既に十日余りが過ぎているが、事態には何の進展もない。

 (今夜も、空振りか)

未だに何の成果も上げられていない現状に、彼は苛立ちを感じていた。……いや、成果を上げるどころか、今までにたった一度の化鳥との遭遇は、一方的な被害を受けるだけに終わっていた。能柾の胸には、焦りがあった。

 (……あの時、仕留めてさえいれば)

苦い記憶が甦り、彼は奥歯を噛み締めた。

 

数日前の晩のこと、能柾は化鳥を待ち伏せするべく、従者である橘主計介と共に小夜の中山に潜んでいた。しかし化鳥は一向に姿を見せることなく、悪いことに天気も怪しくなり始めていた。荒天になれば、里に戻ることが困難になる。主従は仕方なく、早めに山を下りることになった。

山道を下り始める頃には、気味の悪い風が吹き始めていた。強風に煽られ、雲の動きが不気味なほど早く、その姿は刻々と移り変わる。細い山道を辿り、彼等が里へと下りた時にはもう、暗雲が全天を覆いつくそうとしていた。

遠い山並みから流れてきた巨大な雲塊が天頂まで伸び、上弦の月を覆い隠した。能柾は何気なくそれを見上げ、曇天の中に異様なものを見つけて立ち止まった。彼は不吉な暗雲の中に一瞬だけ、黒い影が翻るのを見た気がしたのだ。

彼はよくよく目を凝らした。そして、それが自分たちに向かって飛来してくるのに気付いた。急速にその姿を増す影の正体を知った時、前を歩く従者に向かって叫びながら能柾は、とっさに身を横に投げ出した。油断していた主計介は、反応が一瞬遅れた。

 ……背筋の凍るような絶叫が彼の背後で起こり、四方に響き渡った。

振り返った彼が見たものは、異様なほどに巨大な鳥の姿、そしてその禍々しい鉤爪に肩を摑まれて悶える、自分の従者の半狂乱の姿だった。主計介の着物は無残に引き裂かれ、食い込んだ鉤爪を外そうと血塗れになりながら、必死になってもがいている。……その努力は、しかし傍から見ても無駄に思えた。化鳥は捕えた獲物の抵抗など意にも介さず、その巨大な翼を優雅に広げて、あまりに常識を超えた光景に呆然と見入っている能柾を、はるかな高みから見下ろした。

 時間にすれば、ごく短い出来事だったに違いない。だが能柾の眼は、眼前に出現した化鳥の威容に、強く引きつけられていた。人に倍する化鳥の巨体はその翼を広げることで、さらに雄々しく目に映る。全身は鴉のように黒光りする、漆黒の羽で覆われている。長く伸びた立派な尾は、彼に山鳥や雉の姿を思わせて、優美な細い首は夜空に向かって高く伸び、遥か頭上から彼を見下ろしていた。

その美しい瞳に、能柾は見入った。黒水晶のように深みのある、神秘的な大きな瞳。それは敵意を宿すわけでも、瞋恚の念に濁ってもいない。自分より遥かに小さな存在である人間を、弱者として蔑んでいるわけでもない。知性すら感じさせるその瞳に、能柾は魅了されていた。

……雨が降り始めていた。それにも、彼は気付かなかった。

化鳥が翼を羽ばたかせた時、彼は漸く我に帰った。主計介が連れ去られるのを、このまま黙ってみているわけにはいかない。

突風と共に、化鳥が高く飛び上がる。突如として巻き起こった烈風に耐えながら、能柾は必死の思いで弓に矢を番え、今やぐったりと意識のない主計介を連れて飛び去ろうとする、巨大な化鳥に向けて放った。焦りのせいで命中こそしなかったものの、矢は化鳥の嘴を掠め、化鳥はそれに驚いたのか主計介を取り落とし、山の向こうへと飛び去って行った。

従者を取り戻し、能柾は安堵した。だが同時に、相手に見逃してもらったような、そんな印象が強く残っていた。

 落ちた時に脚を折ったものの、主計介は一命を取りとめた。だが怪我が治っても、彼が再び化鳥に立ち向かうことができるとは、能柾には到底思えなかった。主計介は今も夜毎魘され、昼はずっと床の中で震えている……。

 (怯えているのだ)

 無理もない、と思う。能柾の瞼の裏にも、先日の化鳥の威容が、これ以上ないほど鮮明に焼き付いている。ともすれば震えそうになる自分を叱咤して、探索を続けているのだ。

悩みながら山道を下っていた彼は、いつしか里まで下りていた。

 能柾の前に広がる里の光景は、今にも草に埋もれてしまいそうな細道と、脇に広がる荒れた田畑の姿のみ。眩いばかりの月明かりに照らされる、しかし寂しい里の姿。

 宿(しゅく)と呼ばれてはいるものの、菊川の宿の実体は山里に近い。山の西側に位置する日坂の宿は文字通りの宿場町で、近隣から人が集まり大いに栄えているが、反対側の菊川の宿には人家も少なく、あるのは田畑ばかりだった。ゆえに、夜更けともなれば人の姿を見ない事も、特に不自然というわけではない。それでも、年に一度の名月の夜に、人の姿が全く見えない光景は奇異なものとして映った。化鳥の襲撃を恐れる余り、誰もが家に閉じ籠もっているのだ。

……自分が化鳥に遅れをとっているせいだ。そう思い、自責した。

 能柾が化鳥退治に手こずっているのは、しかし相手が手強いためばかりではない。化鳥は神出鬼没だった。いつ、何処に姿を見せるのか、まるで予測がつかないのだ。(ねぐら)の場所がわかればこちらから襲撃を掛けることもできるのだが、それも未だ明らかではない。夜に現れると言う化鳥を探し、夜毎この小夜の中山で待ち受けるのだが、実際に化鳥に遭遇したのは、手痛い被害を受けた先日の襲撃だけだった。

事態を甘く見ていたことを、能柾は悔いていた。里の者に化鳥の話を聞いた時、彼らが口を極めてその恐ろしさを物語っても、話半分に聞いていたのだ。噂には、必ず尾鰭がつくものと思っていた。……だが、そうやって甘く見た結果として貴重な戦力が早々に削がれ、彼は一人で事件に当たらねばならなくなった。

里人の協力は期待できない。土地の者が、殆ど信仰に近いほどあの化鳥を畏怖していることを彼は知っていた。農民だけでなく、この一帯の荘園を治める長者や役人達ですら、そうだった。彼らはあの化鳥を、荒ぶる山の神と信じ、畏れている。恐怖を抱きながらも、退治することに躊躇いを感じている。

帝の勅命を受けて動いている彼が要請すれば、彼らとて従わざるを得ないだろう。だが、そんなことをしても何の意味もないと能柾は思っていた。戦う術を知らない農民や下役人が幾らいようと役には立たないし、たとえ武芸の心得があったとしても、化鳥に立ち向かう意志がなければ徒に犠牲を増やすだけだ。現に先日の襲撃では、家来の中でもっとも腕の立つ従者が、為す術もなくやられたのだ。

 一人でやるしかない。そう決意を固めながらも、能柾は不安を拭いきれなかった。

 (本当に、一人でできるのか?)

 胸の内に、そんな重苦しい疑念がある。先日の一件で、彼は己の未熟を痛感していた。

確かに自分は武芸に秀で、特に弓の腕には相当の自信がある。かつて弓の腕で知られた源頼政のような英雄や、あの那須与一にも、それほど劣るものとは思わない。

(だが)

 冷静に、客観的な事実として、能柾は認めた。

 (自分には、所詮実戦の経験がない)

幼い頃から鍛錬を積み、弓術では並ぶ者がないと称えられても、彼には合戦に参加したことがあるわけではない。能柾の不安は、その一点に根ざしていた。事実、先日の襲撃では化鳥の異様な巨体に気を呑まれ、反撃が遅れてしまったのだ。実戦の経験があれば、そのような無様は避けられたはずだ。

元々能柾自身は、己の腕前を特に誇ったことはなかった。彼は節度を弁えていたし、無邪気に腕に驕るにしては、彼の神経は繊細に過ぎた。口ばかりの軟弱な貴族は嫌っていたが、傲慢な振る舞いをする武人もまた、彼は好まなかった。故に、自分の武勇を誇るという発想は能柾にはない。己を磨くことの方が、風流や色事よりも性に合っていた、それだけのことと思っている。腕を見込まれて出世したことも彼にとって全く意想外の、僥倖に過ぎなかった。

 (……それでも、勅命が下った以上は、それを果たさなければならない)

 ともすれば内省へと向かいがちな思考を、彼は意識的に切り替えた。

自分がこの任に相応しいか否か、そんなことは考えても詮無いことだ。自分には向かないと判断したところで、勅命を中途で投げ出すことなどできるはずがない。身命を賭して取り組むしかない。

 ……何か、策を考えなければ。そう思うが、すぐに考え付くことなどない。

 結局のところ今できることは、千載一遇の機会を狙い、地道に探索を続けることだけだった。

 

 

   2

 

山を下りた能柾は、引き続き里の見回りを行った。化鳥が主に現われるのは小夜の中山だが、里に姿を見せることもあるからである。だが結局、その晩に化鳥がその姿を見せることはなかった。

能柾はその日の探索を切り上げ、宿に戻ることにした。彼と、傷ついた彼の従者が逗留しているのは、この一帯の荘園を治めている長者の館である。鄙の地ではあるものの、長者の館は能柾でも少し感心するほどの、趣のある広い屋敷だった。

 長者の館をさして歩き出そうとして、しかし能柾は足を止めた。違和感があった。……周囲に溢れかえり、騒がしいほどだった虫の声が、いつのまにか止んでいる。

 (化鳥が現われる前触れか?)

 彼は気を引き締めた。矢羽へと手を伸ばしながら、周囲に視線を走らせる。感覚が研ぎ澄まされ、時の静止したような、緊迫した時間が流れた。

……と、息を止め、張り詰めていた能柾の聴覚が、彼方から響いてくるごく微かな、自然ではない物音を捉えた。彼はその音に神経を集中させた。……そして、思わず耳を疑った。それは草深い里にはまるで不似合いな、美しい琴の音だったのである。

戸惑い、また驚いた。

 (このような山里で、琴の音を聞こうとは……)

 しばらく聞き入った後、能柾は、音の聞こえる方角に向かって歩き出していた。

足を進めるにつれて、琴の音は次第にはっきりと耳に届くようになった。そして彼はそれが都でも聞いたことのないような、美しい音色であることに気が付いた。妙なる楽の旋律が、寂しい山里の空に木霊し、彼の元へと流れてくる。どこか物寂しい、哀愁を含んだ曲調に不思議と心惹かれるものを感じ、感嘆の息を漏らした。

(……琴で、こんな音が出せるものなのか?)

思わず、彼はそう思っていた。

能柾はもともと、琴という楽器をそれほど好いてはいなかった。麗らかな春の陽気がよく似合う、いかにも貴族めいた雅やかな音色。そんな上品な音色はしかし、彼の耳にはどこか間の抜けたものとして響くのが常だった。

皆が口々に哀しげだといい、涙を流す琴の楽曲も、彼一人にはどうもそうとは感じられない。どれほど哀感を込めた曲を弾こうとしても、琴の音色にはどこまでも、品のよさがつきまとう。それは貴族的な、いわゆるもののあわれは表現できたとしても、人間の心の奥底から生じてくる、深い悲しみを表現するには不足すると能柾は思っていた。だから彼は琴よりも笛を、或いは琵琶の音色を好んだ。……ちょうど、宮中を舞台にした恋愛物語を読むよりも、軍記を好んで読むように。

しかし今、能柾の耳に届く琴の旋律は、それまで彼が耳にしてきたものとはまるで異なっていた。間が抜けているどころか、琵琶の音にも勝るような、哀感の情籠もる音色だった。何かを求めて已まないような、そんな切ない旋律に彼の感性は同調し、どうしようもなく惹き付けられた。

……気付くと能柾は、山の麓に広がる、深い竹林の前に立っていた。耳を澄ませば、不思議な琴の旋律は、間違いなくその奥から漏れ出てきている。

 竹林の奥を眺めやると、白々とした月光が内まで深く射し込んでいて、竹の葉が散り敷く地面を明るく浮かび上がらせている。

 「……そういえば、今日は十五夜だったな」

 その時、初めて気付いたように、彼はふと呟いていた。認識はしていたものの、化鳥探索に気を取られて、全く注意を向けていなかった。内裏では今頃、観月の宴が開かれていることだろう、と他人事のように思った。例年参加している催しも、今は遠いものにしか思えなかった。

振り返り、高く空を仰ぐと、自分の背に光を投げかけている、眩い月の姿がある。

(……赫夜姫の、帰った夜だ)

思わずそう考えたのは、見事な名月の姿と、目の前に広がる竹林のせいだったろう。寂しげな琴の音色も、幾らかそれを手伝ったのかもしれない。……能柾は幼少の頃に聞かされた、竹取の物語を思い起こしていた。

竹から生まれ、名だたる貴公子の求愛を無碍にはねのけたという、不思議な姫君の物語。帝の求愛をすら拒んだという美しい姫の正体は、天上から降り立った天女だった。

八月(はづき)十五日(もち)の夜。一年で最も月が明るい晩は、赫夜姫が地上の生活に別れを告げ、月の都に帰った晩なのだ。

……益体もないことを。能柾は苦笑を漏らした。女子供ではあるまいし、一体何を考えている?身命を賭した大事な役目を、仰せつかっている最中だというのに……。

 彼は頭を振って、改めて竹林の奥へ視線をやった。耳を擽る琴の音は、この間も絶えず鳴り続けている。……能柾は、竹林の内へと踏み入った。

 竹林の中は、踏み入る前に予想していたより、ずっと深かった。行けども行けども、どこまでも尽きる気配がない。最奥へと行き着いたと思うと、その度にさらなる竹の一群が、彼の眼前に広がっている。そんなことが、何度も続く。……それを繰り返す内に能柾は、仕舞いに自分が、同じ所を延々と廻り続けているような、そんな錯覚さえ抱いた。

……鳴り響く琴の音が、耳から離れない。

進む程に調子を強める旋律が、今の能柾を導いていた。

無数に生える竹の群れを縫うように、精妙な音色が彼の許に届く。美しさの中に、隠しようのない悲哀を混じえた、複雑極まりない妙なる旋律。全身に深く沁み入り、魂までも蕩かすような音色に彼は溺れ、いつしか酔い痴れていた。

……月明かりが竹林の奥を、ぼんやりと浮かび上がらせている。月光を浴びる竹の幹、その無数の葉叢が、いずれも清冽な青に染まっている。

竹林の内は青白い、神秘的な空気に満ち満ちていた。

葉末から漏れ来る月光が、細い光の柱となって、竹林の内に射し込んでいる。幾筋もの金色の柱が、そよぐ風に葉叢が揺れる度に、ゆらゆらと揺らめく。まるで自分の身が鱗介(いろくず)の類に変じ、水底を自由に泳いでいるような、そんな錯覚を彼は抱いていた。美しい夢を見ているような、その中に迷い込んでいるような、そんな心地で彼は歩いた。

風はない。……耳に響くのは、美しい琴の旋律のみ。寂しげだった曲調は、今や悲壮なまでに高まって、迫りくる悲劇を嫌でも感じさせる。恐ろしく、それでいて美しくもある破滅の予感に、能柾の心は魅了された。琴の音はますます凄みを増し、時に弱々しく、時に激しく、凄絶な程に高まる。……四肢の感覚が失われる……乾いた心が満たされる……。

忘我の心地で、彼は歩いた。足は勝手に動いた。全身の肉が悉く融け失せ、心は波間に漂う木片のように、頼りなく虚空に浮かんでいた。……魂を妖しく揺さぶり、逃さない、魔性の旋律。彼はその虜となって、裸の心の侭、闇の中をひたすら泳ぎ続け……。

 ……その時、無意識に運んでいた彼の足が、堆く積もった竹葉を踏んで、滑った。転倒しそうになった彼は、慌ててその場に踏みとどまった。……そして、漸く我に帰った。

辺りを見回して、愕然とする。

四方は無数に群生する竹に囲まれていて、先が全く見通せない。どの方角から来たのかさえ、全く見当が付かない。彼は思わず自問した。

……なぜ、こんな所まで来てしまった?

自分でも理解できなかった。こんなに奥まで、入り込むつもりなどなかったのだ。……それでいて、確かに自らの意思で、ここまで来たのだという気もしている。

 先刻までの我が身を思い返して、能柾は怖気をふるった。……完全に正気を失っていた。あの音色に囚われて、まるで操られるように、勝手に足が動いていた……。

 (あの琴の音の主は、魔性の類かもしれない。美しい琴の音で通り掛かった者を酔わせ、自分の巣に誘い込み……)

 琴の音は今尚、この瞬間も続いている。破滅の予兆めいた、絶頂の時は今は過ぎ去り、元の静かな、寂しげな旋律に戻っている。……一流の楽人が集う宮中においても、かつて聴いたことのなかったような、情感の籠もった旋律。……彼の心を不思議に落ち着かなくさせる、美しい音色……。

 僅かな逡巡の後、能柾は再び奥へと向かって歩き出していた。

不安はあった。先程、自分の意識が操られていたことを思えば。……それでも、彼はこの曲に心を惹かれていた。なんとしても、この琴の音の正体を突き止めなければならない。そう感じていた。

 しばらく歩いていると、先に一軒の侘しい草庵が現われた。粗末な垣が巡らされ、その上から、草葺の屋根が覗いている。琴の音は、間違いなくその中から響いている。

 怪しんで、音を立てないように用心しながら、彼はその草庵に近づいた。古びた垣に身を寄せ、息を整える。極度の緊張を感じていた。

 (……鬼の住処か、蛇の巣か)

 覚悟を決めて、垣の隙間からそっと中を窺った。

 まず見えたのは、本当に小さな、方丈の侘しい庵だった。一人で住むにも手狭に見えたが、確かに人の住んでいる気配は感じられる。僅かばかりの前栽は綺麗に掃き清められ、草庵自体も古びてはいるものの、手入れが行き届いていることに気が付いた。

 その草庵の内に、一人の女の姿があった。

女は縁先に琴を持ち出して、爪弾いている。この女か、と、彼は注意深く女を眺めた。月明かりで、女の纏う衣服がごく上等なものであることが窺える。俯いて琴を奏でているので、顔は残念ながら影になって見えなかった。……それでも能柾は、女がごく若い、まだ娘と言ってもよい年齢であることに気がついた。

 (若い娘……こんな処に?)

 予期せぬ光景に、彼は戸惑った。悪鬼や羅刹のようには、とても見えない。……かといって、こんな里から離れた竹林の中に、若い娘が一人で住んでいることも、只事とは思えない。世を捨てた僧尼の類なら納得もできるが、娘の衣服は尼のものではなかった。

 女は無心に琴を奏でている。得心がいかず、その様を見守り続けていた能柾は、若い娘をじっと眺めている我が身に気が付いた。

 (これでは、隙見をする連中と変わらないではないか)

 思わず恥じ入った。隙見は、男が思いを寄せる女の顔を垣の間から見ることで、女が顔を見せない貴族の社会では、男はこれによって相手の顔を知ろうとする。必ずしも非難されるような行為ではないが、能柾はそんな女を追いかけてばかりの連中を軽蔑していた。

……だからこそ、自分の行為が許せない。能柾は視線を外し、引き返そうとした。

 その時、琴の音が止んだ。ハッとしてまた中を窺う。すると、女が顔を上げてこちらの様子を窺っている。

袖を翳し、その顔を隠しながら、女が声をあげた。

 「どなた様でしょう?」

 涼やかな声が響き、能柾の耳に届いた。

 彼は少し困惑した。貴族の娘であれば、覗き見されていることに気付いても、相手に声を掛けたりはしない。見られていたことに恥じ入り、声も出さずに隠れてしまう。であるから女の反応は、彼にとっては意想外のものだった。

 「怪しいものではありません」

仕方なく、彼は返事をした。

 「琴の音に惹かれて、我ながら思いも寄らずこんな処まで入り込んでしまったのです。貴方を驚かせるつもりはありませんでした」

 本来なら、歌でも書いて贈るべき場面かもしれない。そうも考えたが、思い留まった。それでは、恋の誘いと取られかねない。

(それこそ、軟弱な貴族そのものだ)

思いがけず美しげな娘に出会ったところで、能柾は色恋などにうつつを抜かすつもりはない。謝罪を済ませたら、すぐに立ち去るつもりだった。

 そう思っていたところに、また女の声が届いた。

 「そうですか。このような処ですが、どうぞお入りになってください」

 思いがけない言葉に、また彼は戸惑った。若い男の声に対して、まるで警戒心というものが感じられない。能柾は内心抵抗を感じたものの、しかしこちらから押し掛けておきながら誘いを断るのは、さすがに失礼が過ぎる。自分さえ節度を守れば問題はない、観念した。

 垣の内に入った能柾は、まず女のいる縁先へと近づいた。

女は姿を隠そうともせず、縁に座したまま彼を待ち受けていた。額の前に翳されていた袖も下ろされ、今はその素顔を澄んだ月光に晒している。

……思わず息を呑んだ。

女の美しさに、能柾は一目で惹き付けられた。月明かりに仄白く浮かび上がる、儚げな美貌。艶やかな黒髪は腰に届くほど長く、女の背中を柔らかく覆っている。白く滑らかな肌は、冴え返る月の光を受けて透き通らんばかりで、優しげに細められた女の瞳は、神秘的な光を放っている。品のよい口元は、柔らかな微笑を湛えている。

たおやかな身を覆うのは、清らかな白の小袖に、夜目にも鮮やかな緋色の袴。その上に刈安染の、色のごく淡い上品な黄の(うすもの)を羽織っていて、それが女の優しげな風情によく似合っていた。そのどれもが上等の布で仕立てられていて、女の素性を窺わせた。

華やかさの殊更際立つような、派手な美貌ではない。その代わりに内から仄かに香るような、しとやかな美しさとでもいうものがその女には備わっていた。品のある、どこか儚げな風情に、惹かれるものを感じた。

 能柾は不躾に相手を眺めていた自分に気付き、恥じ入りながら名乗った。

「突然押し掛けてしまい、申し訳ありません。私は都から参った、一条能柾と申す者。……貴方の琴には感服致しました。あの様な美しい琴の音を、私は初めて耳にしました」

賛辞を受けて、女が控え目に笑みを浮かべる。

「過分なお褒めの言葉を頂き、顔から火が出るような思いが致します。年に一度の名月の宵に、却って障りになるかとも案じられたのですが、美しい月の姿についつい誘われるような心地がして、拙い技を晒しておりました」

優しげな唇が、可憐な声を紡いだ。その控え目な物言いも、品のある物腰も、彼には好ましく思えた。

「わたくしは、(つき)小夜(さよ)と申します」

――美しい名だ。能柾はそう思った。

この名月の宵に、いかにも相応しい名前。そして、どこか儚げな美しさを持つその女に、似合いすぎるまでの名前……。

「……どうなさいました?」

落ち着いたその声で、能柾は我に帰った。

「いえ。……月小夜姫、ですね」

そう言うと、月小夜が微笑む。

「姫などという貴い身分ではございませんので、どうか月小夜とお呼び捨て下さい。このような草深い、山里生まれの田舎娘にございます。手遊びで習った琴にしても、都からいらした方の耳にはお聞き苦しくはなかったかと、案られてばかりで……」

「謙遜されることはありません。……都にも、貴方ほどの弾き手はいない」

「ありがとうございます。貴方様のような、やんごとなき公達の御方にそのように仰って頂けると、なにやら自信がつくような気が致します」

彼は思わず尋ねた。

「私のことをご存知なのですか?」

「勿論でございます。あの恐ろしい化鳥を退治するために、都から高貴な御方がはるばる下ってきてくださったと、里では大変な噂になっておりますから。このような侘び住まいをしている、私の耳にも入る程で。……まあ、私ったら」

月小夜は突然何かに気付いたように、琴を脇へ寄せた。向かい合う形で立っていた能柾が、何事かと見守っていると、彼に向けて深々と頭を下げた。

「このような場所で、大変な失礼を致しました。どうか、中にお上がりになって下さい、能柾様」

そう言って、彼を草庵の内に上げようとする。

当然、能柾は躊躇いを覚えた。若い娘がどうやら一人で暮らしているらしい草庵に、のこのこ上がりこむわけにはいかない。首を振って、縁先に腰を掛ける。

「いや、それには及びません。私はここでいい」

「しかし、このような縁先では失礼に当たりましょう」

「とんでもない。客といっても、私が押しかけただけなのだから。……それに、折角の名月の夜。月を見るには、こちらの方が都合がいい」

そう言うと漸く納得してくれたので、彼は内心胸を撫で下ろした。

しかし、自分の隣に月小夜が腰を下ろすに至って、能柾の胸はまた騒ぎだした。

月小夜の身体が動く度に、なんとも言えない甘い香りが零れる。鼻を擽る。……能柾は、どうにも落ち着かない気分を味わった。

(なにか、おかしい)

普段の自分を見失っている。この娘と話していると、調子が狂う。

……ふと横を見ると、月小夜が彼に向けて微笑んでいる。その微笑に、どこか先程までとは異なるような、艶めいたものが含まれているように思われて、また彼の心は乱れる。

(これでは、他の貴族連中を笑えないではないか)

彼は強いて気を引き締めた。自分は恋路に耽るために、こんな処まで来たわけではない。

能柾は、月小夜の脇に置かれた琴に目をやった。夜目であっても一目で名品とわかる、十三弦の琴。間もなく彼の胸に、先程この琴の音色を耳にした時に抱いた、陶酔にも似た思いが甦ってきた。

(……この琴の音に弾かれて、俺はここまでやってきたのだ)

そう思い、彼は努めて真剣な表情を作って切り出した。

「……実は、お願いがあるのですが」

「なんでしょう?」

月小夜が柔らかい声で返事をする。

「貴方が先ほど弾いておられた曲を、もう一度聞かせてはもらえないでしょうか?」

「まあ」

月小夜はほんの少し、困ったような表情を浮かべた。……それは、子供の我儘に困らされた時の、親のような顔に思えた。

「それは、どうかご勘弁下さい。誰も耳を傾ける方などいないと思ったから、あのようにも弾くことができたのです。能柾様が聞いておられると思うと、指が震えてしまって、とても弾くことなどはできません」

そう言って、頭を下げる。そう聞いても諦められない彼が何度頼んでも、月小夜は首を振るばかりだった。無理強いすることもできず、能柾は諦めるしかなかった。 

「……では、せめてあの曲の名を教えてもらえませんか。あの様な素晴らしい曲を、私は全く知らなかった」 

しかし、月小夜はそれにも首を振った。 

「それも、ご勘弁下さい。実を申せば、あれは秘曲なのでございます。琴を教えていただいた方より、決して漏らしてはならぬときつく言いつけられておりまして……」

引き下がらざるを得なかった。月小夜が頑なに弾こうとしないのも、本当は同じ理由からなのだろうと見当が付いた。……同時に、納得もした。

今も彼の心を捕えて放さない、あの、美しい旋律。人の正気を奪い、忘我の心地にまでさせた不思議な曲。……さっきは魔性の者の仕業かとも疑ったが、秘曲とまで呼ばれるものであれば、そういうこともあるだろう。彼はそう考えた。

「申し訳ありません、能柾様」

「いや、いいのです。こちらこそ、無理を言って申し訳ない」

頭を下げる月小夜に、能柾は鷹揚に返した。

だが、、彼には諦めるつもりは毛頭なかった。この場は引き下がるものの、この地を去る前に、せめてもう一度だけでも聴きたい。或いは、曲の名前だけでも知っておきたい。そう思い詰める程に、能柾にはあの曲が忘れ難いものとなっていた。

「それにしても、貴方に琴を教えたというのは、一体どのような方だったのですか?どうも、並のお人ではないように思えるが……」

「詳しいことは、わたくしも存じ上げてはおりません。わたくしの生まれるずっと前から長者の家に仕えていて、わたくしが生まれてからは世話係を務めてくれました。元は都の方だったとということですが、どうしてこのような鄙に下ってきたのかついに話してはくれないまま、数年前に亡くなってしまいました」

相手の寂しげな様子が気に掛かりながらも、能柾は気になったことを尋ねた。

「では、貴方は長者の家の娘なのですか?」

その問いに、月小夜は小さく頷く。

それを聞いて、能柾は得心がいった。草庵自体は侘しいものだが、よく見ればその中は価値のある品々が揃っていた。琴は勿論、彼女の上等な衣服といい、庵の内に覗いて見える調度といい、どれをとっても並の物ではない。先日から長者の屋敷に逗留している能柾は、その家の裕福な暮らしぶりを見知っている。

だがそうなると、別の疑問が生まれる。

「……なぜ、長者の娘である貴方が、こんな処に一人で住んでいるのです?」

全くの侘暮らしというわけではないようだが、この草庵は他の人家から余りに離れている。暮らすには不便だろうし、若い娘の一人住まいなど、物騒極まりない。

そうした思いが出てしまったのか、声にはつい非難じみた調子が混じってしまっていた。相手の顔が曇るのを見て、彼は忽ち後悔の念に襲われた。

「……申し訳ありません。それは、話すことはできないのです」

「いえ、話したくなければいいのです。つい、立ち入ったことを聞いてしまった」

身内の問題に口を出すべきではない。長者の人柄が温厚なことは、直接会った能柾はよく知っている。娘に対するこの仕打ちには、それだけの理由があるはずだった。

「それと、能柾様にお願いしたいことがあるのですが……」

月小夜が遠慮がちに呟く。

「何です?」

「ここでわたくしに会ったことを、誰にも言わないでほしいのです」

「……わかりました」

その奇妙な願いも、能柾は何も言わずに承知した。話している内に、思い当たることがあったのだ。

(ひょっとしたら、これは私のせいなのかもしれない)

長者の屋敷には今、能柾主従が滞在している。あの長者は月小夜を、自分と会わせたくなかったのかもしれない。彼にはそう思えた。これほどの美しい娘だ。都から来た貴族の若者がちょっかいをかけたり、惚れ込んで連れ帰りたいなどと言い出したとしても不思議はない……。

世の中には、それを立身出世の機会と喜ぶような親もいるだろう。だが、少なくともあの長者はそうした野心を持つ人物には見えなかった。

(……或いは、すでに決まった相手がいるのか)

だとすれば、自分がこの場にいるのはまずいかもしれない。そうも案じもしたが、しかし立ち去り難いものを感じていた。正直に言えば、能柾にとって月小夜との出会いは、心弾むものだったのだ。決して、浮ついた気持ちからではない。化鳥退治に心身を磨り減らしていた彼にとって、この出会いはそれだけ心の洗われるような出来事だったのだ。

……少しだけ、話をする程度なら、構わないだろう。

彼はついに、そんな結論を出した。

自分には、この女に対する下心はない。大切な御役目の最中なのだ。いくら美しいとはいえ、突然出あった娘に迫るつもりなど、自分には毛頭ない。……であれば、長者の心配するようなことにはならないはずだ……。

(……それに)

内心で、付け加える。

(親しくさえなれば、またあの秘曲を、聴かせてもらえるかもしれない……)

 

「……では、たったお一人で、化鳥退治に当たっていらっしゃるのですか?」

驚きを含んだ月小夜の言葉に、能柾は頷きを返した。

「仕方がない。従者の負った傷は、そう簡単には治りそうもないのでな」

庵に留まって話を重ねる内に、いつしか打ち解けていた。彼は月小夜に乞われるままに都の話を聞かせ、今は此の度の化鳥退治へと話が移っている。

「ですが、そもそもどうして能柾様はたったお二人で来られたのですか?もっと、家来の方々を大勢連れて来られれば宜しかったのでは……」

「確かにその通りだが、何分急な話だったのでな。それに……」

能柾は苦笑を漏らした。

「先例に倣ったつもりだった。……その昔、都でも同じような騒ぎがあったのだ」

「まあ、都でも、この里と同じようなことが起こったのですか?」

「ああ。その昔、鵺と呼ばれる化け物が出て、時の帝を苦しめるという事件があった。それを退治したのは、源頼政という武将と、その従者である猪草太の二人だったという」

 平曲にも謳われる、頼政の鵺退治。彼はそれを語った。

およそ百年以上の昔、近衛天皇の御世。まだ幼い帝が、物の怪に脅かされると言う怪異が起きた。毎夜、丑の刻になると東三条の森の上空に不吉な黒雲が現われ、風もないのに御殿にまで流れてくる。歳若い帝は酷く怯え、夜毎発作を起こして苦しんだと言う。

 高僧による加持祈祷も効果を見せず、対策に苦慮した公卿達は、腕の立つ武士に物の怪を退治させることにした。そこで呼ばれたのが、当時弓の腕において並ぶ者なしと謳われた源頼政と、その家来である猪早太だったのである。

 頼政主従は正殿に詰め、夜を徹して警護に当たった。しばらくは何事も起こらなかったが、丑の刻になった途端、異変が生じた。御殿の上空に向けて、得体のしれない黒雲が近づいてきたのだ。それは噂どおり、東三条の方から流れてきたという。

 不吉にたなびく、怪しげな黒雲。その中に物の怪の姿を見た頼政は、迷わずそれを目掛けて矢を放った。天高く放たれたその矢は見事に、狙いたがわず標的を射抜いた。周囲に怪音が轟き、落ちてきた巨大な怪物にすかさず猪早太が走りより、止めをさした。

仕留めた物の怪の姿を検めると、それは頭が猿、胴は狸、手足は虎で、尾は蛇という奇怪な姿の、恐ろしい怪物だったという。

 物語を聞き終わると月小夜は、能柾の顔を見ると、どこか弾んだ声を漏らした。

 「では、この山に出る化鳥を退治なさった時には、能柾様の御名も後世に語り継がれるというわけなのですね」

「……そう簡単にはいかぬ」

能柾は自嘲気味に呟いた。

今回の勅命を受けた彼がまず思い浮かべたのが、この逸話だった。いや、おそらくは帝を含め、誰もがこの話を思い浮かべていたに違いなかった。かつての英雄、源頼政卿その人のように、能柾はこの怪事件を雄々しく解決することを求められている。

……だが、連れてきた従者は早くも戦線を離れ、彼は一人苦戦を強いられている。

「都から、人を呼ぶことはできないのですか?」

月小夜の言葉に、彼は首を振った。

「それも考えたが、都からではどうしても時間がかかってしまう。……それに、生半な者を呼び寄せたところで、助けにはならない。あの化鳥を見れば、大抵の者は恐ろしさで、満足に動くことすらできなくなる。できれば、もう犠牲者は増やしたくない」

「……貴方様は、ご立派でございますね」

その言葉に、能柾はふと違和感を覚えた。振り向くと視線の先で、月小夜は前と変わらぬ、品のよい微笑を浮かべている。

「それで、どのように化鳥退治をなさるおつもりなのですか?」

「ああ……」

生返事を返しながら観察していても、月小夜には変化は見られない。能柾は、気のせいだと思うことにした。

「どうするつもりと言っても、わかっていることは余りに少ない。できれば待ち伏せしたいところだが、あの化鳥は神出鬼没だ。塒さえ見つかればこちらから奇襲もできるのだが、それも一向に見つからない。どうもこの辺りに、奴の塒はないように思える」

能柾は重い息を吐いた。

「……となれば、あとは地道に歩き回ってあの化鳥を探し、隙をみて射抜くしかないだろうな。正面から斬りかかったところで、あの巨大な化鳥相手では敵うとは思えない」

「……それはどうでしょう」

「何?」

その意味深な呟きが、妙に気にかかった。

「どういう意味だ?」

「いえ、申し訳ありません。女の身でありながら、差し出がましいことを口にしました。お許しください」

「何でも構わない、思い当たることがあれば言ってくれ」

遠慮する月小夜を強いて、能柾は続きを話させた。化鳥退治の為なら、どんな些細なことでも試してみる気になっていた。

彼の熱意に押される形で、月小夜が慎み深く口を開く。

「……では、お話いたします。以前にこの土地の老人から聞いた話なのですが、かつて遠い昔にも、あの小夜の中山には化鳥が現われたそうなのです。その化鳥は、刃の雉と呼ばれていたそうです」

「……刃の雉?」

「はい。翼が刃のように硬く、人の身体を貫く程に鋭いことから、そのような名が付いたのでしょう。刃の雉を討伐する為に、その頃この辺りに住んでいたという豪族が兵を集めて矢を射掛けたそうなのですが、その強固な翼に遮られ、傷一つ付かなかったとか。……そればかりか、兵達に向かって化鳥が巨大な翼を打ち振りますと、その翼から刃のような羽が無数に飛んで、兵を一人残らず打ち倒してしまったというのです。この度現われたという化鳥がかつてのそれと同じであれば、遠くから矢を射掛けることは無意味なだけでなく、ただ危険なばかりでございましょう」

「なんと……!」

能柾は絶句した。知らずに化鳥と対峙していたら、自分も今の話の兵達と、同じ運命を辿っていたに違いなかった。

「……しかし、それでは打つ手がない。その昔の化鳥というのは、どうやって退治されたのだ?」

「さる一人の武人が、太刀で討ち取ったそうです」

「……太刀で?太刀で、どうやってあの化鳥を倒したというのだ」

「化鳥が地上に降りたところを狙って、近づいたという話です。鳥は、空でこそ自在に動き回れるものですが、地面の上では案外動きが鈍いもの。それに、巨大な身体であるからこそ、むしろ近くに寄った方が安全ということかもしれません。勿論、そこまで近づくまでには、危険があるでしょうが……」

彼は唸った。最初はとんでもないと思ったが、筋は通っている。離れていても安全ではないとわかった以上、やってみる価値はあるかもしれない……。

「女の身で、小賢しいことを申しました。どうかお忘れ下さい」

「……いや」

その時にはもう、心は決まっていた。

「思いがけない良いことを聞いた。貴方のお陰で、光明が見えた」

久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになって、彼は笑みを見せた。そんな能柾に、月小夜が笑みを返してくる。きっとうまくいく。月小夜の笑顔をみていると、そう思えてくる。

天を仰ぐと、月はもう傾いていた。能柾は、思いがけない長い時間を、この草庵で過ごしてしまったことを知った。

「すっかり長居をしてしまった。私は、これで失礼する」

そう告げると、月小夜が僅かに驚いた表情を浮かべた。

「まあ……。お帰りになられるのですか?」

いかにも意外そうな、その表情が彼の気に懸かった。これでは、まるで……。

(……誘っているようではないか……)

馬鹿なことをと、能柾はすぐに打ち消した。……こんな品のいい娘が、男を誘うような真似をする筈がない。それも、出会ったばかりなのだ。

そのように見えてしまうのは、自分が邪念を捨てきれないせいだ。そう考え、恥じいる能柾に月小夜の、朗らかな声が掛かる。

「ぜひ、またいらして下さい。このような場所での一人住まいは、侘しいものですから。能柾様がいらっしゃれば、月小夜は嬉しゅうございます」

「ああ……」

それを聞いても心は揺れたが、彼は強いて冷静を装った。

(この女は、ただ久しぶりに人と話せて喜んでいるだけなのだ。こんな寂しい場所に一人で暮らしていれば、人恋しくなるのは当然ではないか……)

……今、自分は重要な使命を授かっている。女にかまけている時ではない。何より、自分は色事にかまける軟弱な輩とは違うのだ……。

「……首尾よく大願を果たせたら、きっとまたここを訪ねる。見事化鳥を討ち取ることができたら、それは貴方の助言のお陰なのだから……」

「まあ」

月小夜が華やいだ笑みを浮かべた。

「お待ちしております。わたくしは此処で、能柾様の御武運を祈念しています」

その声を背に、能柾は庵を出た。その後も暫く、月小夜の声が耳から離れなかった。

 

   3

 

それから数日が過ぎた夜のこと、探索を終えた能柾は月小夜の草庵に赴くべく、再び竹林に足を踏み入れていた。最初に会った夜から、三日の時が過ぎている。

その日の能柾には、草庵を訪ねるつもりはなかった。しかし、探索帰りに近くを通りかかった時、耳に入ってきた琴の音に誘われるようにして、竹林に入ってしまったのだ。

その曲は先日耳にした秘曲ではなかったが、それでも充分に美しいもので、心を妖しく揺さぶるような、そんな魅惑的な旋律だった。

その曲に聞き惚れながら彼が歩いてると、先日の如く月小夜の草庵が現われた。僅かに逡巡した後、彼は垣の内に入っていった。

「まあ、能柾様」

能柾の来訪に気付いた月小夜が、琴を弾く手を休め、出迎えてくれた。

「また邪魔をしてしまった。どうもあなたの琴を聞くと、足が勝手に動いてしまうようだ。……化鳥退治も、まだ終えていないというのに」

自然、その声には自嘲が混じった。先日の別れ際に大きな口を叩いただけに能柾は決まりが悪かったのだが、月小夜の方には全く気にした様子がない。能柾の言葉を受けて、ゆるゆると首を振った。

「そのようなことを仰らず、いつでもいらして下さい。訪れる方がなければ絶え入ってしまうばかりの、頼りない身です。貴方様が来て下さるのを、わたくしはずっと待っておりましたのに」

優しげに言う月小夜の言葉に、彼の胸はまた疼いた。どうにも、落ち着かない気持ちになる。月小夜は先日のように庵の内に招こうとしたが、それは固辞して縁先に腰を掛けた。

小さな庭だが、月の光が射し込む情景には、何とも言えない風情がある。竹林を吹き抜ける涼風に身体の火照りを冷まされて、能柾は漸く一心地つく思いだった。

そんな能柾の顔を眺め、月小夜が言った。

「能柾様。どこか、お体の具合が悪いのでは?」

能柾は驚いた。月小夜の指摘通り、彼の体調は良くない。それでも、身振りには出さないように気をつけていたつもりだし、夜目なら顔色もわからない筈だと思っていた。

「……実は、例の化鳥に、手酷くやられてしまったのだ」

「まあ。どこか、お怪我を?」

「いや、怪我と言うわけではない……」

苦い記憶を思い起こしつつ、能柾は語り出した。

一昨日の夜、里の探索をしていた時のことだった。山での探索を切り上げた能柾は、里に下りて川縁の道を歩いていた。里の名の由来となっている、菊川という川である。

そこに、最初に襲撃された時とちょうど同じようにして、突如として化鳥が襲い掛かってきたのである。彼は化鳥の来襲に逸早く気付き、それを避ける事に成功した。飛来する化鳥の影が、月明かりを遮ったことに気付いたのだ。

間一髪で避けられたためか、化鳥はそのまま地面に降りていた。体勢が崩れたためか、すぐには飛び立つこともできないらしい。

能柾はそれを好機と見た。月小夜の助言を思い出し、能柾は腰に帯びた太刀を抜くと、化鳥に向けて雷光の如く駆け出した。相手は彼の背丈の、倍以上もある巨体である。決死の覚悟だった。

突撃してくる能柾に対し、化鳥はその巨大な翼を広げると、彼の頭上から、恐ろしい速さで打ち下ろしてきた。しかし、彼はそれをよくは覚えていない。と言うのも、能柾は自らの身を全く顧みることなく、ひたすら化鳥の身体だけを見て突進していたからである。ただ、一心に駆ける自分の冠を掠めて、恐ろしいほどの切れ味を持った何かが頭上を通り過ぎたことだけはわかった。……後になって思い返してみれば、ほんの僅かでも逡巡があって足の動きが鈍っていれば、確実に切り刻まれていたはずだった。

紙一重で危機を逃れ、辛くも懐に潜り込むことに成功した能柾は安堵する暇もなく、すぐさま攻撃に転じようとした。狙いは、化鳥の脚だった。地に脚を着けている状態では、例え鋭い鉤爪があったとしても、その動きは鈍くなる。これほどの巨体を支えているとなれば尚更のことだ。

月小夜の言った通りだと、能柾は内心驚嘆していた。一度近づいてしまえば、刃のような凶悪な翼も小回りが利かず、狙われる恐れがなくなる。懐にさえ入りこめば、化鳥の反撃は限られる。あと気を付けなければならないのは、鋼のようだという嘴だけ……。

頭上から迫るその獰猛な嘴を、能柾はまた油断なく避けた。それもしかし間一髪で、一歩間違えれば死んでいた。

……だがその結果として、彼の眼前には化鳥の、無防備な頭部が晒されていた。千載一遇の好機に、能柾の心は奮い立ち、勢いよく太刀を振り上げた。

その瞬間、だった。彼の鼻はほんの微かな、何かの匂いを嗅ぎ付けた。……全く唐突に、彼は身の危険を感知した。根拠もなく本能的に、それが直ちに生命に関わるような、重大な危機だと理解したのだ。大きく跳び退ったその瞬間、まさに開かれつつある化鳥の巨大な嘴から、何か致命的なものが漏れ出して、自分の元へと迫ってくるのを見た気がした。

「しかし、目に見える筈はなかったのだ。それは、化鳥の息だったのだから」

「息、ですか?」

「ああ……。ただし、猛毒の息だ。私はほんの僅かしか吸わなかったが、それでもその瞬間には身体が揺れ、危うく意識を失いかけた。……今日、私は化鳥の襲撃があった川縁の道に行ってみたのだが、辺りの光景は全く変わり果てていた。恐ろしいことに、化鳥の息が掛かった樹や草が見るも無残に黒ずんで、すっかり枯れ果てていたのだ。まともに喰らっていたら、私も今頃は、この世のものではなかっただろう」

その時感じた戦慄を思い出し、能柾の背筋には冷たいものが走った。

「……だが、恐ろしいのはそれだけではない。何より恐ろしかったのは、その猛毒の息が、得も言われぬ素晴らしい匂いだったということだ。どんな香の銘木でも敵わぬような、あまりに芳醇で、むせ返るほどに濃厚な、甘い香り。吸えば命はないものと承知しながら、それでもその中に飛び込みたいと思わせるほどの、人を狂わせる妖艶な匂い。死の匂いというものがあるとすれば、それはまさしく、あのような匂いなのだろう……」

それは、決して誇張ではなかった。その毒が背中にまで迫ったとき、能柾は本当に足を止めて、その甘美な毒の渦に飛び込んでしまおうかと本気で考えたのだ。その誘惑に何とか堪え、ふらつく身体を強引に躍らせて、川の中へと飛び込んだ。

冷たい川の水に浸かり、漸く正気を取り戻すことができた時、化鳥は既に空高くへと舞い上がっていた。冴え冴えとした藍色の、澄んだ秋の夜空に消えてゆく化鳥の姿を、能柾はずぶ濡れのまま見送るしかなかった……。

「それから何とか館に戻ったものの、昨日はずっと床に臥せていた。情けないことだ。ほんのわずか、あの毒を吸っただけで……」

苦笑を浮かべつつ傍らを見やって、能柾は驚いた。いつのまにか、月小夜がさめざめと涙を流している。狼狽して、尋ねた。

「どうしたのだ?」

「ああ……それは、わたくしのせいではございませんか。能柾様が危険な目に遭われたのは、わたくしが余計なことを申し上げた為でございます。お詫びのしようもございません。女だてらに賢しいことを言ったせいで、能柾様が危うく命を落とすような目に遭われるなんて……」

能柾は慌てて言った。

「いや、貴方のせいなどではない。私が自分で、貴方の言うことが正しいと考えたからやったことだ。言うなれば、私自身の判断の結果なのだ。なにも気にすることはない」

「それでも、わたくしが余計なことを言い出しさえしなければ、貴方様はそのような目には遭われなかった筈です」

彼は己の迂闊さを呪った。話せば、月小夜が己を責めることになるなど、少し考えればわかる筈だったのだ。……能柾には、月小夜を責めるつもりなど全くなかったのに。

「そんな顔をしないでくれ。昨日一日寝込んだだけで、毒などもうすっかり抜けてしまった。今日とて、もうこのように歩き回っている」

「そのような体で、歩き回るなんて……御身体に障ります。今すぐ、床の用意を致します。どうか、中でお休みになって下さいませ」

そう言って立ち上がろうとする月小夜を、能柾は慌てて止めようとした。

「いや、私なら大丈夫だから……」

「大丈夫ではございません」

いつになくきっぱりと、月小夜が言う。

「そんなにお顔の色が勝れないというのに、何を言われるのです。……これで、能柾様の身に万一のことでもあれば、わたくしは…………」

それを聞いて、彼は折れざるを得なかった。月小夜は、自分に非があると考えている。ここで彼が辞去すれば、その自責の念はいつまでも解消されない。

能柾は遂に、言われるがままに月小夜の庵に入った。 

月小夜が燈台に火を灯したので、庵の内は仄かに浮かび上がっている。方丈の、たった一室のみの、侘しい住まい。置かれている調度はどれも高価なものだが、場所がないために、その数は少ない。……香を焚いていたのか、僅かに甘い香りが漂っている。 

躊躇いながらも能柾は、太刀を外して壁に立てかけた。弓や箙を外し、枕元に置いて、月小夜が用意した衾に横になった。 

横になった途端、能柾は意識を失いかけた。彼は自分の身体が、思った以上に衰弱していることに気付かされた。毒の抜けきらない身で探索を行っていたことが、想像以上にこたえていたのだ。

思わず深い呼吸をすると、衾に染み込んでいた甘い香の匂いが、肺の奥深くまで沁み入った。……月小夜の身体から香るものと同じ、上品な甘い匂い。思わずそんなことを考えて、彼は己の軽率な思いを恥じた。

(……何をやっているのだ、俺は……)

旅先で出会った若い女の一人住まいに上がり込み、その衾で眠るとは?

(いや……仕方がないのだ。……これは、仕方がないことなのだ……)

今こうしていることは、決して自分の本意ではない。毒で身体が弱り、動かないのだから仕方がない。そう自分を慰めようとしても、それが自身を納得させる為の卑劣な欺瞞であるという可能性を、否定しきれなかった。

「お身体の具合は、如何ですか……?」

柔らかい声が、彼の上から降ってくる。いつのまにか、彼は瞼を閉じていた。眼を開くと、月小夜が枕元に座していて、自分の顔色を見ている。……月小夜を見上げる能柾の眼の端に、女の袴の、鮮やかな緋の色が映った。

「今夜はこのまま、お休みになってくださいませ」

「……しかし……」

「そのような御身体で館に戻るのは、無理というものでございます。……ご心配には及びません。都におられる奥方様だって、きっと赦してくださいますよ……」

月小夜の手が伸ばされて、能柾の頬に触れた。白い手が、柔らかく彼の頬を撫で上げる。馥郁たる、甘い香りに、彼はその身を包まれた。……脳は蕩け、されるがままに、彼はその身を任せていた。……今にも眠りに落ちるように、意識が次第に薄れてゆく。

「……妻は……。……妻は……いない……」

口が、勝手に言葉を紡いだ。

「まあ……。(まこと)でございますか?」

弱々しく、頷いた。妻はいない。もういない……。

「それは、何よりでございます」

何が、何よりなのだ。ぼんやりと彼は思った。なぜ、そんなに嬉しそうな声を出す?……なぜこの女は、こんなに華やいだ顔をする?

「それでは、何も憚ることはありますまい。どうぞ今宵は、この庵にお泊りくださいませ……」

……常とは異なる、月小夜の甘い囁き。その声に、嬉しげな響きが交じると思えるのは、俺自身の願望なのか?……能柾の意識は朦朧としていた。

(……この庵は、閨だ)

ふいに、そんな考えが浮かんだ。

(この草庵そのものが、この女の閨なのだ。この小さな庵は、月小夜の暮らす館であり、琴を奏でる楽堂であり、そして同時に閨でもあるのだ。……入り込み、こうして床に横たわるずっと前から、俺はこの女の閨の中に囚われていたのだ……)

枕許にはいつのまにか、香炉が置かれている。……むせ返るような甘い芳香。月小夜の手はずっと、愛しげに彼の頬を撫で擦っている……。

庵の中はまるで霧が出たかのように、白い煙が立ち籠めている。……その甘い煙の先に、笑みを浮かべた月小夜の、美しい顔がある。何かを待ちわびているような、そんな惑的な微笑を浮かべて……。

朦朧とした能柾の口が、我知らず肯定を返そうとした時、視界の片隅に鮮やかな、真紅の影が閃いた。彼は目を見開いた。緋袴よりも一層鮮烈な、炎のような紅が彼の脳髄を瞬時に焼き尽くし、忽ちの内にその意識を覚醒させた。

「あ……あれは……」

弱々しい声を上げる。月小夜が訝しげに、その眉を顰めた。能柾の視線を追って、赤い花を見つけると、こともなげに言った。

「……曼珠沙華でございますか?近くの野に咲いていたものを、戯れに生けておいたのですが……」

「曼珠……。曼珠……沙華…………」

月小夜の言葉も殆ど耳に入れず、能柾はうわ言のように繰り返した。俄かに身を起こし、夜着を撥ね退けて立ち上がった。短く告げる。

「……館に戻る」

驚く月小夜を尻目に、能柾は身支度を整えると、ふらつく体で外に出た。

「能柾様?一体、何が……」

その言葉は、もはや彼の耳には届いていなかった。能柾は幽鬼のような足取りで、その草庵を後にした。

 

   4

 

三度目に月小夜の草庵を訪れたのは、数日を空けてのことだった。

本音を言えば、月小夜とは顔を合わせ辛かった。草庵に招じ入れられた後のことを、彼は朧気にしか覚えていないが、月小夜の誘いを断ったという、漠然とした記憶があった。彼女が気分を害しているのではないかと、能柾は気に病んでいた。

だから、数日振りに訪れた草庵で月小夜が、以前と変わらない態度をみせた時、彼は思わず安堵を覚えた。

八月(はづき)も終わりに近づいている。未だ厳しい暑さの残っていた昼も、次第に過ごしやすくなりつつある。日暮れが早まり、夜の時間が長くなっていた。

「……では、また化鳥と戦われたのですか?」

月小夜の言葉に、能柾は頷きを返した。既に化鳥との、三度目の邂逅を済ませていた。

「数日前の夜更け、小夜の中山の探索に当たっていた時だ。思いがけず彼奴を見かけた。山道から外れた、森の中でのことだ」

羽を休めてでもいたのか、化鳥には動こうとする気配がなかった。

木立の中からその姿を見かけて、彼は思わず息を呑んだ。自分の方から化鳥の姿を見つけたのは、初めてのことだったのだ。

「まさに、千載一遇の好機だった。……だが、余程慌てていたのだろう。折角の矢は狙いを外れて、あの翼に当たってしまったのだ」

勿論、刃のように硬い翼に刺さる筈はなく、矢は空しく地面に落ちた。

「刃の雉とは、よく言ったものだ。矢が翼に当たった時、まるで太刀と太刀とを打ち合わせたような、高い音が響いた。……それで驚いたのだろうな。化鳥は慌てて、どこかへ飛んでいってしまった」

その時のことを思い返しながら、語り終えた彼は、傍らの月小夜が奇妙な顔を浮かべていることに気が付いた。どこか、理解に苦しむという表情だった。

「どうしたのだ?」

「いえ……。お話を窺って、少し、気に懸かったものですから……」

「何がだ?」

「能柾様は、何のために化鳥を討とうとしておられるのですか?」

「……何?」

「わたくしにはわからないのです。従者が傷つけられ、御自身も危うく死にそうな目にあったというのに、能柾様は化鳥を追い続けておられます。……それなのに、どうもお話を窺っていると、貴方様には化鳥を退治する気がないように思えてしまうのです」

「……どうしてそう思う?」

内心の動揺を隠しながら、能柾は尋ねる。

「千載一遇の好機を逃したと口では仰っているのに、全く悔しがっているようには見えないからです。……それどころか、その話をしている時の能柾様は、どこか愉しそうにさえ見えました。まるで、親しい友人の話を、なされているかのように……」

月小夜の観察眼に、能柾は思わず感嘆の息を漏らした。聡い女だとは思っていたが、ここまでとは。

「……初めてお会いした夜、能柾様は昔の鵺退治の話をしてくださいました。その時私は、能柾様も化鳥退治によって、武名を馳せたいとお考えなのだろうと思ったのです。恐れ多いことではございますが……」

「いや、そう考えるのはもっともなことだ。……しかしそれは、無理というものだ」

「無理?」

「その昔、頼政卿の鵺退治が有名になったのは、それが都で起きた怪異だったからだ。それも、時の帝を悩ませると言う、大事件だった。それに引き換え此度の化鳥騒ぎは、都から遠く離れた東国での出来事。首尾よく化鳥退治を果たしたところで、この辺りではどうか知れぬが、都では人の口に上ることもないだろう。記録に残ることもなく、いずれは忘れ去られることであろうよ」

「……そんなものでしょうか?」

「それに、今の世の関心は、なんといっても先年からの、元国の侵攻に向いている。南宋を滅ぼし、高麗を屈服させたという唐土(もろこし)の大帝国が、今この日本国を狙っているのだ。文永十一年の先の侵攻の際には神風が吹いたお蔭で辛くも難を逃れたが、近々また攻めて来るというまことしやかな噂もある。……それに比べるなら、いっては悪いがこの里のことは、小事に過ぎない」

……そして、その日本国全体の危機に立ち向かうのは自分達ではなく、武士なのだ。それを考えると、能柾の思いは複雑だった。

先年の元の侵攻に対抗したのは西国の武士達であり、それを指揮したのは鎌倉の武士達だった。他方、朝廷がしたことと言えば寺院に命じて、夷調伏の祈祷をさせただけ。国全体の危機に対して、かつて国政の中枢にあった貴族達は一滴の血も流すことなく、傍観しているだけだったのだ。

武芸を己の本分とし、誇りとしている能柾の思いは複雑だった。勿論、宮廷の衛士である自分の役目は民や国土を護ることではなく、宮廷や帝の護衛であることは百も承知だ。……それでも、国全体の危難に対して、なにもできない自分が歯痒かった。

彼の周囲に、そんな問題意識を抱いている者は一人としていなかった。鎌倉の武家政権に政治の実権の大半を奪われた朝廷は、最初こそ彼らに戦いを挑んだものの、今では宮中での権力争いの方に血道を上げている。そしてその果てに、今では武家に阿るような真似さえ平気でする。今では、天皇の後継争いにさえ、鎌倉が干渉してくる。

現在の宮中は、二つの派閥に分かれている。能柾が直接お仕えするのは帝だが、現実に実権を握っているのはその父であり、院政を行う上皇だった。……そして都には、もう一人の上皇が存在している。この二人の上皇がそれぞれ派閥を作り、熾烈な権力争いを繰り広げている。次の東宮がどちらの派閥から出るかによって、権勢は動く。……それには、鎌倉の意向が無視できない。

月小夜にはとても言えないが、今回彼が化鳥退治に派遣されたことにも、裏にはそうした事情が隠されていた。能柾は帝の側近の一人であり、その派閥に取り込まれている。能柾が動く裏には当然帝の、そしてその父君である上皇の狙いがあった。

東海道は、鎌倉と都とを繋いでいる。その往来が滞ることは死活問題とさえ言える。元寇の対処に手一杯の鎌倉に変わってその問題を解決すれば貸しを作ることになり、更に彼らの派閥の実力を示すことにもなる。そうした意味では、能柾が派遣された事の意味は決して、小さなものとは言えなかった。

ただ、彼はそんな事情を、月小夜に話すことはできなかった。そんな宮中の権力争いに利用されている自分に、葛藤を抱いていたからである。現在の朝廷の在り方そのものに、それに加わる自身に、能柾は疑問を感じていた。

勿論、武芸にしか取り得のない己を取り立てて下さった帝には感謝している。しかし、自分たちに反逆した鎌倉の武家政権に阿るような態度を取り、さらには国家の存亡の危機を尻目に内部抗争を繰り広げている自分達に、果たして存在意義があるのかと、そんな疑いを抱かざるを得なかった。

……なぜ、化鳥を追うのか?

月小夜の放ったその問いは、だから能柾にとって決して(ゆるが)せにはできない、重いものを含んでいた。それは彼自身にも、明確な答えを出せない問いだった。確かに能柾は、化鳥退治に命懸けの熱意を持って当たっている。先だっては決死の覚悟で化鳥に突撃をかけたし、実際に危うく命を落とすところでもあった。

その熱意は、今もって彼の中にあり、失われてはいない。自分を化鳥退治に駆り立てる何かを、彼ははっきりと感じることができた。……だが、その熱意が何に由来するかと考えると、忽ち判然としなくなってしまう。

そんな彼の横顔を、月小夜が見つめている。なぜ、と、その目が問うている。

だから能柾は、最もそれらしい言葉を使って、それに答えた。

「帝の、勅命だからだ」

「それは、嘘でございましょう」

すぐさま、月小夜がいう。にべもない言葉に、能柾は苦笑した。

「何故そう思う?」

「お顔を窺っていればわかります」

月小夜の、何もかもを見通すようなその澄んだ瞳を見て、彼は観念した。本当に、この女ならわかりかねないと思ったのだ。それ程に賢く、鋭い女だった。

「そうだな。本当は、そんなものはどうでもよかったのかもしれない。私は、誰かの役に立ちたかったのだ。化鳥のために苦しめられているこの地の者を、助けたかった」

……或いは、もっと抽象的に。自分は何かをしたかったのかもしれない。月小夜に語りながら、彼はそう思っていた。無意味な権力闘争のための、道具となっている自分。国家の危難に直面しながら、何事も為し得ない自分という存在。色恋に耽る軟弱な同輩達を嫌悪しながら、彼らと何ら変わらない自分。それを否定したかった。……何でもいい。何か、意義のあることを為したかった。

そうした複雑な思いまでも、彼は月小夜に話したわけではない。もとより、それは彼自身にも言葉では表せないい、漠然とした思いだった。……それでも月小夜には、この澄んだ瞳を持つ女には、それも見抜かれているような気が彼にはした。

月小夜は何も言わなかった。沈黙を守り、何事かを探るような顔付きで、じっと能柾の顔を見つめていた。その月小夜に、彼は言った。

「だが本音を言うと、私は迷っている。あの化鳥を討つことに、迷いが生じた」

「……なぜ、ですか」

相手の視線を受け止めながら、彼はゆっくりと答えた。

「あの化鳥が、美しいからだ」

月小夜が目を丸くする。相手の期待通りの反応に、能柾は思わず会心の笑みを漏らす。

「あの化鳥は美しい。私はここに来る前、化鳥とは古物語の伝える鵺のような、得体のしれない化物だと思っていた。しかし、この目で見た化鳥の姿は、大きさこそ尋常のものではないが、姿形は普通の鳥と変わらなかった。……いや、変わらないどころか、それとは比べ物にならないほど、美しかった」

熱っぽく語りながら、能柾は先日見かけた、化鳥の姿を思い浮かべていた。

「先日、森の中で思いがけず化鳥を見かけた時、私は初めてその姿を、落ち着いて眺めることができた。そのあまりにも堂々とした、それでいて優雅な姿。身を覆う羽は女の髪のように艶やかな黒で、澄んだ月光を濡れ濡れと映していた。……そうして、あの化鳥が、何をしていたと思う?化鳥は、月を眺めていたのだ。それに気付いた時、思わず自分の目を疑った。だが確かに、そうだったのだ。長い首を優雅に伸ばし、何事かを思い巡らすように、化鳥は昇りつつある下弦の月に見入っていた。あのように思慮深い瞳を、私は知らない。私はあの時、あの化鳥に魅入られたのだ……」

月小夜には慌てて矢を外したのだと言ったが、本当は慌ててなどいなかった。呼吸すら忘れて化鳥に見入っていた能柾は、弓を構えてはいたものの、どうしてもその首を狙うことができなかったのだ。かといって見逃すこともできず、迷った挙句、翼を狙った。

化鳥を、傷つけることを恐れて。

「そんな……」

戸惑ったような顔を浮かべて、小さく声を漏らす。言葉が、なかなか出ないものらしい。無理もない、と彼は思う。

月小夜はしばらく呆然としていた。ややあって、独り言のように、呟く。

「そのようなこと……。あの化鳥のことを、美しいなどと言われた方は、初めてです……」

消え入るような、小さな声。俯いて、袖を口元に当てているので、その表情はわからない。

「そうなのだろうな。そなた達から見れば、里を脅かす恐ろしい存在だ。……勿論、それは否定しない」

この地に着いて早々、襲われた。従者が、半死半生の目にあった。

「だが私には、あれが単なる獰猛な畜生には、どうしても見えない。思えば、初めてあの化鳥を目にした瞬間から、私は魅入られていたのかもしれない。……はるかな空の高みから舞い降りてくる、優雅な姿。その力強い翼で宙を舞い、人の身には決して届かぬ、はるかな天空へとその身を躍らせる。あの化鳥ならばきっと、月の都までも飛ぶことができるだろう」

「月の……都?」

「そうだ。なよ竹の姫が帰ったという、天人の住まう月の都だ。……あの化鳥を見たとき、私は思わず、あの背に乗ることはできないか、などと愚かなことを考えたのだよ。あの鳥ならばきっと、人間一人位乗せて飛ぶことができるだろう、あの天の月までも、飛んで行くことができるだろう、と……」

忍びやかな笑い声を聞いて、能柾は振り向いた。見ると、月小夜は口元に手を当てて、肩を震わせている。懸命に笑いを堪えようとして、それを抑えきれないでいる。

思わず頬を赤らめながら、能柾は憮然とした声を出した。

「……おかしいなら、遠慮なく笑えばよい」

その拗ねた口調がおかしかったのか、月小夜はとうとう小さく噴き出した。鈴が転がるような、可愛らしい笑い声が漏れる。

月小夜は一頻り笑い声を漏らした後、能柾を見て言った。

「能柾様は、おかしな方なのですね」

そう言って、またおかしそうに、くすくすと笑う。仏頂面をその顔に浮かべながら能柾は、しかしそんな月小夜の表情に、思わず目を奪われていた。笑っている月小夜の顔は、常よりも若やいで見えた。幼い子供のような屈託のない、無邪気な笑顔。

能柾はその時初めて、月小夜の本当の笑顔を見たような気がした。いつも口元に浮かべている、上品な微笑とは違う。時折見せる、魅惑的な笑みとも違う。月小夜の純粋な笑顔に、彼は見惚れた。

……これまで見てきた月小夜は、仮の姿でしかなかった。今自分が見ているものこそ、この女の本当の顔なのだと、そう思った。

「――どうも、とんでもない失礼を致しました。お詫びと申し上げるのもまた失礼かもしれませんが、一曲お弾き致しますので、どうぞ機嫌を直してくださいませ」

琴の前に座り直し、柔らかく微笑みながら、月小夜が言う。その声にも畏まった調子はなく、どこか親しげな響きが感じられて、また能柾の心は弾んだ。

間もなく、月小夜の手元から精妙な音色が零れ始め、辺りに満ちた。

それは、いつか能柾が耳にした、あの秘曲ではなかった。寂しげな調子は少しもなく、むしろ心を鎮めるような、優しく、穏やかな曲。……それでも、彼は不満には感じなかった。いま、この楽しい時に相応しい、静穏なる調べ。

気のせいか、その音の中にも以前とは違う、優しげな響きがある。そう感じられ、能柾はうれしくなる。

晴朗なる天には高々と下弦の月が昇り、草庵の前庭にあえかな光を降らしている。彼の目にはその月すらも、目の前の女が奏でる美しい楽の音に誘われて、この場に顔を出したように思われた。月の光も妙なる楽も、それを生み出す月小夜までも、何もかもがこの世のものとは思えないほど、美しい。

能柾は今の自分が、かつてあれほど聴きたいと願っていたあの秘曲を、もうそれほど求めてはいないことにふと気が付いた。あの張り詰めた、哀切極まる旋律を、この場で聴きたいとは思わなかった。今は、この柔らかな調べに身を任せていたい。そう思った。

――その時、月の光が正面から月小夜の身体に射した。能柾は目を瞠った。一瞬、目の前の月小夜の身体が、仄かな光を放ったように見えたのである。それは、月小夜がその身に纏う、淡い黄の袿が、月明かりを映したことによって生じた錯覚に過ぎなかった。……それでも彼の目にはその一瞬、まるで月小夜が、その身に月光を纏っているかのように見えたのだった。

(……月小夜は)

彼は思わずにはいられない。明月の夜に出会った、この不思議な女。

(月小夜は、やはり天から降りた天女ではないだろうか。そしてあの化鳥は、そんな月小夜を連れ戻しに来た、天よりの遣いなのだ。そうでなければ説明がつかない。あの、不思議な化鳥のことも。……この、この世の者とは思えない、この女も)

月小夜が聞いたら、また笑うだろう。それでも、そう考えずにはいられなかった。

不意に、彼は物哀しい感傷に襲われた。この世で関わりを持つことを頑なに拒み、ついには月に還った赫夜姫のように、この女もまた一夜の夢のように、いつかは消えてしまう運命にあるのかもしれない。そう考えて、堪らなく悲しくなったのである。我ながら馬鹿馬鹿しく、女々しいことだとは思ったものの、美しい琴の音のせいか、月小夜の儚げな美貌がそうさせるのか、彼にはそうとしか思えなくなってしまったのだ。

思わず、声が漏れた。

「……そなたはどうして、こんな所に一人で住まっている?」

月小夜の手が止まる。能柾は僅かに後悔を覚えたが、もう後には引けなかった。

「以前私は、話さなくてもいいとそなたに言った。……だが、今はどうしても聞きたいのだ。そなたのことを、聞かせて欲しい」

月小夜が顔を上げた。正面から、彼の目を見つめる。その瞳には月が宿り、神秘的な輝きを放っている。彼はその目を、正面から見返した。

……やがて、月小夜は顔を伏せると、思い切ったように口を開いた。

「それは……あの化鳥を育てたのが、私だからでございます」

 

突然の告白に、能柾は驚きを隠せなかった。

「そなたが……化鳥を育てた?」

「はい。あれは、昨年の春のことでございました」

呆然と呟く能柾に対し、月小夜は一度口を切ったことで心が固まったのか、迷うことなく話しを始めた。

「以前申し上げました通り、私はこの里の長者の家に生まれ、そのために不自由のない暮らしをしておりました。悩みらしい悩みもなく、穏やかな日々を過ごしておりました。……それが昨年の春、ようやく冬の終わった嬉しさに、近くの山に野遊びに出かけた時のことです。春の山の楽しさに浮かれた私は、供の者とはぐれてしまいました。その時、奇妙な物を見つけたことが、私の運命を変えてしまったのです」

「……奇妙な物?」

「はい。それは全く、それまでに見たこともない、変わった物でした。掌に納まる大きさで、丸い石のようにも見えるのですが、それにしてはやけに軽いのです。日に当てると玉のようにきらきらと光って、あまりの不思議さに私はそれを手に取って、何とはなしに眺めておりました」 

掌に納まる、不思議な丸い物体。能柾の脳裏に、閃くものがあった。

「……まさか、それが……!」

「そうです。卵だったのでございます。中でなにやら動く気配がして驚いておりますと、それが突然割れて、中からなんとも可愛らしい、小さな鳥の雛が出てきたのです。それも、わたくしを親と思ったものか、野に放そうとしても戻ってきて、どこまでも私に付いて来ます。その様がいじらしく、また可愛らしくも思えてきて、私は屋敷に連れ帰って育てることに致しました」

「家の者は何も言わなかったのか?」

「初めのうちは。なにせ普通の雛鳥と変わらぬ、小さな姿だったものですから、屋敷の皆から可愛がられて、餌を与えられていた程でした。ただ一つおかしなことは、その鳥が昼間の内は殆ど眠っていて、夜になると目を覚ますことでした。誰もそんな鳥のことは聞いたこともなく不思議がっておりましたが、その時はそれだけのことでした」

当時のことを思い出したのか、月小夜は淡い微笑を浮かべた。

「……それが、秋を過ぎた頃になると、様子が変わってまいりました。普通では考えられぬほどの速さで、ぐんぐん成長を始めたのです。雛であった頃には野良猫に狙われないように気を遣わねばならなかったのが、いつのまにか猫と同じほどになり、見る間に犬を通り越し、牛や馬より大きくなって……。ついには、今のような尋常ではない大きさにまでなってしまったのです。そうなるともう屋敷中が怪しみ、怖がって近づこうとする者はいません。また、それだけの大きさですと、屋敷の外にもいつまでも隠し通せるものではなく、家の者が始末しようと言い出したのを、わたくしが必死に止めて、せめて山に帰そうと連れ出しました」

人目に付かぬ夜分を選び、山に返そうとしたという。

「しかし、駄目でした。どれだけ言い聞かせて、一度は空に飛び立っても、どうしても屋敷に戻ってしまうのです。始末するにも、あれだけの大きさではどうにも恐ろしく、暴れ出したら手が付けられない。そこで、父は一計を案じました。わたくしを屋敷から離し、隠すことにしたのです。あの鳥が戻ってくるのは、わたくしを親だと思っているから。わたくしさえ屋敷から姿を消せば、いつか諦めて、山に帰るだろうと……」

「それでそなたは、ここに移ってきたというわけか……」

「はい。……父の考えたとおり、あの鳥は屋敷から離れました。しかし山に帰るまでには到らず、今もわたくしを探しているのです。……そしていつしか、巨大な化鳥が出るという噂が立ってしまったのです」

あまりに常識を外れた奇妙な話に、能柾は言葉を失っていた。小夜の中山に、何処からともなく現われたという、奇怪な化鳥。それが人の手によって育てられたというだけでも驚くべきことなのに、よりにもよって、この美しい女に育てられたとは。

……しかもその巨大な化鳥が、こんな小さな女を親と慕って、今でも探し求めているとは。

能柾が驚いている間も、月小夜は話を続ける。

「その内に、化鳥が人を襲ったという噂が立ち、わたくしはあの鳥を止めようと思いました。わたくしさえ出て行けば、もう人を襲うようなことはなくなるでしょう。……でも、家の者に止められました。人を襲った今となっては、あの鳥を育てたことが知られるのはまずい。そうなればわたくしだけでなく、家の者全てが罪に問われるかもしれないと、そう言うのです。わたくしは迷いました。わたくしが罪に問われることは仕方ないことですが、家の者まで巻き添えにすることはできない、と……」

月小夜は手を着き、彼に向かって深く頭を下げた。

「悪いのは、わたくし一人なのです。この身は、磔にされても仕方がないものと諦めております。ただ、どうか、家の者だけは……」

「……頭を上げよ、月小夜」

能柾は、月小夜の肩にそっと手を置いた。

「案ずるな。家の者は勿論、そなたとて罪に問われることはない。……このことは、私の胸にしまっておこう」

このような尋常ではない事件で、月小夜が咎に問われるかどうか、彼には判断がつかなかった。……だが、気付いた時にはそう口にしていた。能柾には目の前の女が、罰を受けねばならないような罪を犯したとは、どうしても思えなかったのだ。

「……しかし……」

「何も言うな。一体誰が、そなたの身に起きたようなことを予想できたと言うのだ。誰が悪いと言うことではない。これは、不幸な出来事だったのだ。おそらくは、あの化鳥すら含めて。あの化鳥は、そなたに飼われていた頃は人を襲いはしなかったのだろう?」

月小夜が小さく頷きを返す。

「私にはあの化鳥が、いくら親であるそなたを奪われたからといって、人を襲うようになるとは思えないのだ。あの鳥は、そんな愚かな、野蛮なものではない。人間を襲ったと言うのはきっと已むを得ない事情があったのだろう。事情を知らぬ里の者か、或いは旅人があの姿に怯えて、先に手を出したのだと思う。それで、化鳥は抵抗した。……そんなことが度重なって、人を襲うようになってしまったのだ。私は、そう信じる」

「はい……」

月小夜が、その顔をあげた。その瞳には涙が浮かんでいる。能柾は驚いた。

「何故、泣くのだ?」

「……嬉しいからです。月小夜は、嬉しいのでございます、能柾様」

白い頬に、涙が零れる。それを拭いながら、言う。

「先程、能柾様があの鳥を美しいと褒めて下さった時、わたくしはとても嬉しかったのです。それを口に出せないことが、どれほど悔しかったことか。……そして今、能柾様は、あの化鳥の心までも理解して下さった。わたくしには、それが何より、嬉しいのでございます……」

そう言って泣きながら、笑みを浮かべる。その様が酷く弱々しく見えて、能柾は思わず月小夜を抱き寄せていた。彼の胸の中で、月小夜が涙を流す。

震える小さな背中を、能柾はそっと撫でた。背中を覆う、柔らかな髪の感触が、彼の手の中に残った。

胸に凭れ、声を殺して泣いていた月小夜が、小さく呟いた。

「……化鳥退治を止めるわけには、いかないでしょうか……」

「何?」

さすがに驚いて、月小夜を見下ろす。彼の胸の中から、月小夜は涙に濡れた目を上げて、彼を見上げていた。

「無理な願いとは、重々承知しております。……ですがわたくしは、あの化鳥と能柾様が戦うのだと思うと、辛くてならないのです」

「……それは、できない」

「どうして、ですか……?能柾様も、あの化鳥を討つのに迷いを抱いていると、仰ってくださったではありませぬか……」

「私は、あの化鳥が進んで人を襲ったものとは思っていない。だが事情はどうあれ、今の化鳥が人を襲っているのは確かだ。……実際、私自身も襲われている。どうしても、見過ごすわけにはいかない」

「……見逃してほしいという訳ではないのです。あの鳥が退治されることについてはもう、仕方がないものと諦めております。ただ、それをするのが能柾様だと思うと、どうしても辛く思うのです。……わたくしにとってはあの化鳥も、能柾様も、大事なのです。戦って、どちらかが死んでしまうのだと思うと、胸が潰れる程に悲しいのです……」

……能柾は何も言えなかった。月小夜の言いたいことは、痛いほどにわかった。

人を襲う化鳥であっても、月小夜にとっては赤子の頃から育てた、子供にも等しい存在なのだ。その化鳥と、彼が戦うこと――殺し合うことは、どんな結果に終わったとしても、月小夜にとってはこの上なく辛い結末になるだろう。

「……他の方に討たれるものなら、仕方がなかったのだと諦めもつきます。後生ですから、どうか能柾様は、この御役目を下りて下さい……」

月小夜の瞳に、再び涙が浮かぶ。月を映し、美しく光る。その涙に打たれ、心惹かれそうになりながらも、彼は視線を外さざるを得なかった。

……月小夜は、自分をも大切だと言ってくれている。

それがわかったからこそ、彼には何も言えなかった。

 

    5

 

夜。いつものように探索を終えた能柾は、里へと続く山道を下っていた。

 (……とうとう、月が変わってしまった)

 この里にやってきたのは、八月(はづき)の初めの頃。そして、今日から九月(ながつき)に入った。

 (ここにきて、そろそろ一ヶ月になる)

 思わず、重い吐息が漏れた。化鳥退治は、捗っているとは言えない。知り得たことはあったものの、それはむしろ彼に、任務遂行への迷いを抱かせていた。

 (俺は迷っている。あの化鳥を、本当に討つことができるだろうか?前の機会でさえ、あの鳥の美しさに心が惹かれ、殺すことを躊躇してしまったというのに)

 最初に遭遇したその時から、能柾はその知性的な瞳に強烈な印象を受けていた。……そして先日、思いがけず見かけた、一心に月を見上げる化鳥の姿。一瞬で目を奪われた。その神秘的な佇まいに、心が動いた。

(……そして俺は、知ってしまった。あの月小夜こそが、化鳥を育てたというその事実を。あの女は今でも、あの鳥を愛しいと思っている。……そして俺に、この任務から降りることを望んでいる)

彼の胸に凭れ、声を殺して泣いていた、月小夜の姿が目に浮かぶ。抱き締めた時に感じた、細い身体の頼りなさ、そして温もりを思い出す。

(化鳥を討てば、月小夜はまた泣くのだろう。……そして、俺を憎むだろうか?どうしようもないことだと、わかってはいても)

 それを考えると、どうしても彼は躊躇を覚える。

 なぜ?能柾は自問した。なぜこれほどまでに、俺は迷っている?

 そもそも、先日の自分の振る舞いが既に、腑に落ちないものだったと思わざるを得ない。自分が化鳥を育てたと告白する月小夜に対し、彼はそれを不問に付した。それはこれまでの自分の性格からすれば、考えられない態度だった。――誰よりも誠実で、曲がったことを何よりも嫌悪する、実直な能柾からすれば。

月小夜が罰せられるべきか否かはともかく、しかるべき処に報告するべき。そう考えないわけではなかったし、少なくとも、それまでの彼ならそうしていたはずだった。

 なぜ、そうしなかったのか?……だがそれは、考えるまでもなかった。

月小夜に罪があると思わなかったから、ではない。罪に問われる可能性があると考えたからこそ、口を噤むべきだと思ったのだ。罰せられることがなかったとしても、現に人死にが出ている以上、化鳥を育てたという月小夜やその家の者に非難が集まるだろうことは、想像に難くない。長者の家とはいえ、土地の者全てを敵に回してやっていけるはずがない。……最悪、土地を追われることになりかねない。

 そう思ったから。月小夜を庇うために、能柾はそれを自分の胸に納めておくことにした。月小夜を護るために。主義を曲げてまで、秘密を護ることにした。

 ……なぜ?

 答えはもうわかっている。

 (……この俺が、月小夜に惹かれているからだ)

 もう、認めざるをえなかった。

 最初は、美しい琴の音に惹かれただけだった。不思議な音色に誘われてあの女と出会い、秘曲だというそれをもう一度聞きたいと望んで、自分はあの草庵に通ったのだ。……それが、いつしかそんなことなど忘れていた。どうでもよくなっていた。ただ月小夜に会いたいがために、あの草庵に足を運ぶようになっていた。

 いつしか?いや、彼はそれも自覚していた。自分がここまで、月小夜に惹かれるようになった瞬間。……それは、彼の語った他愛ない空想を聞いて、月小夜が微笑んだ時からだ。あの女の、子供のように屈託のない、素直な笑顔を見た時だ。

あの瞬間、能柾は初めて月小夜の、本当の顔を見たように思った。初めて、その心に触れたような気がした。……そして、惹かれた。

それまでも、美しい娘だとは思っていた。だが、それだけだった。自分が恋に落ちるなど、ありえないと思っていた。……それが、あの笑顔を見た瞬間、変わったのだ。

あの夜以来、彼は毎晩のように草庵を訪れていた。月小夜に、会うために。

化鳥の話になると顔を曇らせるものの、月小夜はあの夜以来、打ち解けた態度で彼に接してくれている。思い悩む能柾のために、心の休まるような、美しい調べを奏でてくれる。

……昨夜、能柾は笛を持参して、月小夜の琴に合わせて吹いてみた。心を一つにしたような感覚に、彼はそれまでに経験したことのない、幸福を感じた……。

 (俺は月小夜に惹かれている。あの時の笑顔が、どうしても瞼の裏から消えない。……なぜだろう。横になって、甘い声で囁かれた時にも、俺の心は妖しく揺れ動いた。だがそれは、これほど強い想いではなかったはずだ)

その時のことを、彼は今では不思議に思っていた。化鳥の毒にやられた能柾を心配して、月小夜は庵の中に招き入れてくれた。……あの時の月小夜は、能柾に甘い言葉を囁いてきた。思い違いでないならば、明らかに彼を誘おうとしていた。

あれが一体何だったのか、能柾には今もわからない。あの夜以来、彼女がそんな態度を見せたことは、一度もなかったのだ。

不思議な女だ。能柾はそう思った。会う度に、その印象が変わる。

最初に見た時は、都の上臈にも勝る洗練された、上品な女だと思った。

次に会った時は、妖しげに男を誘惑する、妖婦のような表情を見せた。

……そして先日、月小夜は子供のように無邪気な、素直な笑顔を見せてくれた。

様々な一面を有し、会う度に異なる横顔を見せる、謎めいた女。心が通じたと感じている今でも、月小夜が本当は何を考えているのか、能柾には時々わからなくなる。

(あの笑顔を見た時、俺は初めて月小夜の素顔を見たものと思った。だが、本当は違うのかもしれない。あの女は、次に会う時にはまた、違う顔を見せてくれるかもしれない)

 そんなことを考えて、しかし彼は、頭を振った。

 (何をのぼせ上がっているのだ、俺は?主上から任された、大切な役目の最中だというのに。女になど関わるまいと思っていたのに、すっかりうつつを抜かしている。……俺は堕落した、軟弱な連中とは違うというのに。……俺には、妻もいるというのに)

 そう考えた途端、重苦しい罪悪の念が、彼の心を暗く塗り替えた。

(……いずれ自分は、この里を去る身なのだ。所詮、月小夜と結ばれることなどない。これ以上親しくなれば、別れが辛くなるばかりで、互いに害となるばかりだ。化鳥を討って、恨まれるくらいで、ちょうどいいのかもしれない……)

 彼は虚しく独りごちた。

その時の能柾は、完全に自分の思考に没頭していた。山を下り、いつのまにか里まで歩いて来ていたが、それにも気がつかないほどだった。

……だからこそ、新月の闇に乗じて飛来する影にも、全く気付くことがなかったのだ。

 突然、背後から両肩を掴まれた。その瞬間能柾は我に帰ったが、同時に全身から血の気が引いた。物凄い力で彼の肩を摑んでいたのは、どう見ても人の手ではない。ごつごつとした巨大な鉤爪が、強く自分の肩に食い込んでいる。

化鳥だ、と理解した時には、彼の足は地面を離れていた。そしてそのまま、目の眩むような速さで、空へと高く飛び上がった。

 たった今彼が下りて来た道を戻るように、化鳥は小夜の中山の、頂上辺りを目掛けて飛んだ。能柾にはそれを、どうすることもできなかった。宙吊りにされた状態で、はるか眼下を過ぎていく田畑や森の姿を、ぞっとする思いで見下ろした。……ここで落とされでもしたら、それだけで確実に命を落とすだろう。

 (このまま巣に連れ帰るつもりか?)

 化鳥に食い千切られる様を想像して、さすがに能柾も震え上がった。何か手はないか、と思考を巡らせる。

突然の事態に驚いたものの、弓を取り落とすような失態は犯さなかった。手には変わらず弓を握り締め、腰には太刀も佩いている。太刀が鞘走って落ちないようにと気を配りつつ、なんとか一矢報いることを考えたが、次第に考えを改めた。

この状況で何をしたところで、化鳥に傷をつけることはできても、仕留めるまでには到らない。他方、自分は地面に落とされて、確実に死ぬだろう。命を懸ける覚悟はあるが、さすがに犬死にするつもりはない。

ここは、おとなしくしていた方が賢明と、彼は結論を出した。うまくいけば、どうしても見つけられなかった、塒の場所が明らかになる。そこからなんとか逃げ出すことができれば、次にはこちらから襲撃できる。どうしても逃げ出せないというのなら、その時は潔く、戦って死のう。彼はそう覚悟を決めた。

 一度胆を据えてみると、辺りを見回す余裕ができた。

(考えてみれば、これは前に話した空想によく似ている)

月小夜に話した、化鳥の背に乗って、空を飛ぶという空想。自分でも馬鹿げたことだと思っていたものが、今、こうして現実に起きている。

(空を飛ぶとは、こんな気持ちいいものなのか……)

全身で、風を切る感覚。普段とは、まるで異なる視界。宙吊りになって、危機に曝されている状況も忘れ、能柾は純粋な感動を味わっていた。

化鳥はたった一飛びで、小夜の中山の頂上まで一気に飛び上がっていた。そして、その頂上までも越えたとき、再びその巨大な翼を羽ばたかせた。

その翼が力強く、大きく羽ばたいた瞬間、化鳥の巨体は天に向かって、物凄い勢いで上昇を始めた。真上に放たれた矢のように、ひたすら真っ直ぐ一直線に、どこまでも高く翔けてゆく。山を越え、雲を越え、はるかな天を目指して翔けてゆく。吹き付ける風のあまりの強さに、能柾は目を開けることも満足にできなかった。暴れ馬に乗っているように、身体が激しく揺すぶられる。体温が急激に奪われる。何よりも、宙吊りという頼りない状態での急加速に、能柾は死ぬほどの恐怖を味わった。

ふいに、風が止んだ。

目を開く。……そして、言葉を失った。

見たことのない、限りなく広大な世界が、能柾の眼下に広がっていた。

(……これが、鳥の見ている光景か!)

思わず、叫び出しそうになった。

化鳥は今や山の頂上など遥かに過ぎ去り、天の高みにまで到達していた。小夜の中山は、彼等の遥か真下に、ぽつんと小さく見えていた。化鳥はそんな高度に達してようやく上昇することをやめると、大きく翼を広げて、風に乗って旋回を始めた。人間一人抱えていると言うのに、化鳥には全く危うげな様子が感じられない。

能柾は、地上が豆粒のように見える高度で宙吊りにされ、自己の生命をこの異様な化鳥にそっくり託している状態で、しかし奇妙な安心感を抱いていた。……この鳥は、自分を落とすような真似はしない。どうしてか根拠もなく、彼はそう信じていた。

彼等の眼下には、小夜の中山の姿がある。少し視線を上げれば、遥か彼方にまで連なっている山並みが見渡せる。……そして南には、広大に広がる海がある。

世界が丸く見える光景に、能柾は驚いていた。

日頃見上げるばかりの雲が、今は自分より低い位置にある。彼の目線と同じ高さに、眼の醒めるような紺碧の夜空が広がっていて、どちらを向いても、満天の星が輝いている。

……今、自分は、空を飛んでいる。能柾はそう思った。

新月の夜であることだけが悔やまれた。月のある夜ならば、今頃はきっと、自分たちは月にまで届いていただろう。……彼にはそう思えたし、またそう信じた。

化鳥は彼を抱えたまま、ずっと飛び回っている。降りようとする気配もなく、塒に向かう様子も見えない。感動していた能柾も、さすがに訝しく思い始めた。

(一体、何がしたいのだ?からかっているのだろうか)

窮屈な体勢で、彼は無理をして化鳥を見上げた。首を上に向けると、筋肉の盛り上がった立派な胸と、それに比して優雅に見える細い首、そして紺色の夜空を背景にして、化鳥の立派な嘴が彼の目に入った。

そうして暫く眺めていると、化鳥はふいに旋回を止めて、唐突に高度を下げ始めた。ついに巣に向かうのかと能柾は気を引き締めたが、化鳥は彼を摑んだまま、山を下りていくだけだった。その急降下のあまりの速度に、能柾は昇りとはまた異なる恐怖を体感した。

化鳥は一気に里近くまで降りると、また辺りを飛び回り始める。どこかに向かう様子もなく、目的があるようにも思えない。

(……この高さなら、落ちても死にはしない)

眼下の地上を見下ろして、能柾はそう判断した。

いつまでも、宙吊りにされているわけにもいかない。……今の能柾は、化鳥にその生命を握られているのだ。何故か先ほどは無条件に信じることができたが、いつ気紛れを起こして、自分を投げ捨てないとも限らない。化鳥に巣に帰るつもりがないのなら、これ以上この状況に甘んじている理由はない。

この不安定な状態でも、太刀で足に斬りつけるか、胴を浅く突くこと位はできる。仕留めることは到底不可能だろうが、それで化鳥は自分を落とすだろう。

そう考え、太刀の柄に手をかけながら、しかし彼は躊躇っていた。今、自分を摑んでいる化鳥の意図が、全くわからなかったからだ。先程味わった大きな感動と、その時に感じていた化鳥への、奇妙な信頼感。それが、彼を躊躇わせていた。

(何を迷うことがある) 

己を叱咤した。 

(先ほどのことは、こいつの只の気紛れだ。この化鳥は多くの人間の命を奪い、俺の従者までも襲った害鳥だ。俺自身毒の息を吐きかけられ、危うく死ぬところだった。以前は人に飼われていたかもしれないが、今では人を襲う、立派な魔物なのだ。……だが……) 

……目に浮かぶのは、月小夜の顔。 

(それでも、この化鳥が死ねば、あの女は泣くだろう。恨みに思うのだろう)

それを思うと、どうしても彼の戦意は鈍った。

能柾は迷った。迷った末に、結局太刀を抜くことはできなかった。……代わりに、左手に摑んだままでいた弓を両手に持ち替えた。

そして、その先端を思い切り、化鳥の胴に向けて突きたてた。

キィエッ!

よほど驚いたのか、化鳥は一声短い悲鳴を上げると、彼を取り落とした。

放り出された能柾は、真下にあった畑に勢いよく落下した。全身を強く打ちつけ、肺の中の空気を全て吐き出した。あまりの衝撃に息ができず、身体を動かすことができない。

身動きできない彼に向かって、化鳥が勢いよく突っ込んできた。化鳥は怒りに我を忘れていて、先程は彼の肩を摑んでいた鉤爪で、今度は能柾の胸を大きく、何度も引き裂いた。衣服と共に肉が裂かれ、血が大量に噴き出し、彼の全身は赤く染まった。身体はまだ、動かない。

……だから能柾はその間ずっと、再び空へと舞い上がる化鳥の姿を、ただその目に焼き付けていた。怒りに我を忘れていても、この鳥はやはり美しい。……そう思い、ただ見惚れていた。天を自在に舞い踊るその姿は、この世のものとも思えぬ程に優雅で……。

……危機はまだ去ってはいない。化鳥は天の高みから、今も能柾を狙っている……。

彼は死を覚悟した。もう、抗う気も起こらなかった。この美しい化鳥に喰われるのなら、本望だとさえ思えた。彼はただ静かに瞼を閉じ、美しい鳥によってもたらされる、最期の時を待ち受けた。……が、いつまで待っても、その瞬間はやってはこない。

甲高い、どこか物哀しい啼き声が、辺り一帯に響き渡った。

能柾が目を開いた時、彼の美しい鳥の姿は、もうどこにもなかった。

 

  6

 

その夜、騒ぎを聞きつけて様子を見に来た村人に、能柾は発見された。

骨こそ折れはしなかったものの、その傷は全身に及んでいた。館に運ばれ、手厚い治療を受けたものの、さすがに数日間は動くことができなかった。

……漸く動けるようになった日、夜になって能柾は月小夜の草庵を訪れた。噂を聞きつけて、心配しているかもしれないと思ったのだ。

彼が満身創痍の姿を見せると、月小夜は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。

「……能柾様……!」

そう呟いて、懸命に涙を堪える。声も出せない様子の月小夜に、能柾は強がって微笑んでみせた。

「心配しなくていい。見た目は酷いが、深い傷など一つもない。館の者が大げさなのだ」

「……まさか……そんなお体で、探索を行っていたのですか?」

月小夜の顔が青褪めるのを見て、能柾は取り繕うように、努めて明るい声で言った。

「いや……、この数日は、ずっと寝ていたからな。動けるようになった以上、探索はしなければならない。なに、もう大丈夫だ」

「そんなわけがないでしょう!」

細い柳眉を逆立てて、月小夜が堪りかねたように叫んだ。初めて耳にする月小夜の怒声に、彼は思わず呆気にとられた。

「……今、床の用意を致します。すぐに横になってください」

「あ……ああ」

常ならば断るであろう申し出にも、能柾は思わず頷いていた。それだけ、今の月小夜の様子に気圧されていた。

庵の内に入り、月小夜が用意した床におとなしく横たわると、いつかと同じ甘い匂いが立ち昇り、彼の鼻をくすぐった。やはり彼は、落ち着かない気持を味わう。

月小夜が衾の横に腰を下ろし、能柾の手を取った。

「……こんな大怪我で出歩くなんて、貴方は一体何を考えているのですか。もっとご自分の身を、大事になさってください……」

「……すまない」

涙ながらに言う月小夜に、自然と謝っていた。

化鳥との出来事を語るべきか。……彼は悩んだ末に、話すことにした。化鳥と戦った話をすれば、月小夜を苦しめることになる。そうも思ったが、隠し事はしたくなかった。

月小夜は僅かに唇を噛み締め、彼の話を、ずっと黙って聞いていた。化鳥に捕まり、共に空を飛び回った話をすると、僅かにその口を開いた。

「空を飛ぶなんて……。それは、さぞかし、恐ろしい体験だったでしょう?」

能柾は首を振った。

「いや、空を飛ぶなど、滅多にできない体験だ。実に楽しい思いをした」

「そんな、楽しいなどと……。一つ間違えれば、死ぬところだったのですよ」

「それでも、私は楽しかった。空の上から山を見下ろすことなど、人の身では到底味わえぬ思いだ。……あの、素晴らしい景色。そなたにも見せたかった」

心配させまいという意図はあったものの、その言葉は決して彼の虚勢ではなかった。能柾は心底、あの時の体験を素晴らしいものだと思っていたのだ。

楽しげに語る能柾とは対照的に、月小夜の顔は憂いに曇った。

「……どうしても、お止めになることはできないのですか……?」

「月小夜?」

「もう、嫌なのです、私は。もう、能柾様が……。貴方が傷つく姿を見るのは、耐えられないのです。あの化鳥と、貴方が争っていることを考えただけで辛くて、……辛くて、堪らなくなるほどに、悲しいのです」

涙を零し、悲痛な声で訴える月小夜の心に、能柾は打たれた。その気持ちを痛い程に感じ、胸を締め付けられるような思いがしても、それでも彼は首を振った。

「……そなたには辛い思いをさせて、すまないと思っている。だが、私はやはり、やめるわけにはいかないのだ」

「……なぜ、ですか……?帝の為ですか。困っている人の為ですか?……わたくしのことは、この月小夜のことは、考えては下さらないのですか?」

「化鳥のためだ」

「……化鳥、の?」

「そうだ」

真摯な瞳で、能柾は相手を見返した。

「そなたは前に、あの化鳥が討たれるのは仕方ないが、私にだけはそれをしないでほしいと、そう言った。確かに、そなたの気持ちはわかる。……だが、私は思うのだ。事情を知らない、あの化鳥を単なる化物としか見ない輩に討たれて、果たして化鳥は浮かばれるだろうか?私なら、せめて憐れみをもって、あれを討ってやることができる。救うことは敵わぬまでも、あの美しい化鳥を、悼んでやることができる。……結果を変えることができぬのなら、せめて私の手で引導を渡し、そして手厚く弔ってやりたいのだ」

あらん限りの誠意を込めて、能柾は言った。月小夜を説得する為に言うのではなく、正直な思いをそのまま言葉にしたつもりだった。

化鳥を憎むのではなく、憐れんでいるからこそ、自分の手で討ってやりたい。自分のしようとする行為を弁護するわけでもなく、それが己の偽らざる気持ちなのだと、能柾は思っていた。

彼の言葉が尽きても、しかし月小夜は何も言おうとはしなかった。俯いて、能柾の手を握ったまま、黙って肩を震わせている。

「わかってくれ、月小夜」

その言葉にも、答えようとしない。

……やがて、月小夜は顔を上げた。表情には、思い詰めたような色がある。

一度目を閉じ、何かを決意したように再び目を開くと、思い切ったように、その口を開いた。

「……それは、貴方にとって、本当の理由ではありません」

「何?」

思いがけない言葉を浴びせられ、彼は戸惑った。以前にも、同じような場面で、似たようなことを言われたことを思い出した。この賢い女には、嘘は通じない。

しかし、今度ばかりは、彼には嘘など吐いたつもりはない。

「私は、嘘など言っていない」

それでも、月小夜は首を振る。

「そうではありません。今仰ったことは、確かに能柾様にとって、理由の一つではありましょう。……ですが、貴方様には化鳥退治を行う、いえ、それに駆り立てられる、もっと強い理由があるのです。御自身ですら気付かれていない、本当の理由が……」

「……何を言っているのだ?」

謎めいた月小夜の言葉に、能柾は困惑した。彼には、思い当たることなどない。自分の思いは、自分が一番よく理解している。……そう思っていた。

だが、月小夜もまた、自らの言葉に確信を持っているかのように見える。それが、彼を不安にさせた。

女の瞳には、いつしか涙が浮かんでいた。その悲しげな瞳を、真っ直ぐに相手に向けて、月小夜は言った。

「能柾様は、死ぬことを望んでおられるのです」

 

  7

 

――その言葉を聞いた瞬間、能柾の全身には、得体の知れない衝撃が走った。

「私が……死ぬことを望んでいる?」

我知らず、身体が震えた。それを、無理に押さえつけて、言った。

「一体……何を、言っているのだ」

「能柾様の心には、大きな虚無があります。……それは、大事な方を失ったためにできてしまった穴なのです。能柾様はそのために、御自分でも意識されないままに、死を望んでおられるのです」

「何を言っているのだ、月小夜!」

静かに語る月小夜の手を、能柾は乱暴に振り払った。全身に走る痛みを無視し、怒りに任せて強引に起き上がった。

「なぜそなたに、そのようなことがわかる!」

渾身の力を込めて叫ぶ。が、その声は震えてもいた。月小夜は、そんな能柾を痛ましげに見つめながら、感情を殺したように続けた。

「能柾様は以前、あの化鳥に乗れば月にまで飛んで行けると仰いました。その時は、不思議なことを仰るものと、わたくしも笑ってしまいました。……ですが、後になって思い到りました。月とは、古来よりこの世とは異なる、異界とされていることに。それが意味するところは、死者の眠る彼岸です。それに気付いて、私は恐ろしくなりました。……能柾様が本当に行きたい場所とは、あの世に他ならないとわかって……」

「……私は、そのようなことは知らなかった。そんなつもりは毛頭なかった」

「意識せずとも、漠然と察しておられたのでしょう。学んだ覚えのない事柄でも、いつのまにやら知っているということがあります。そうしたことは、よくあることです」

能柾の反駁にも、月小夜の声は揺るがなかった。その声は彼に、巫女の託宣を聞いているような、そんな錯覚を抱かせた。……そして、それは彼には不愉快だった。

その、何もかもを見通しているような態度に、強い反発を抱いた。月小夜の美しい声が、初めて不快なものとして耳に響いた。

「……それだけのことで、随分と何もかも、わかったような顔をするのだな」

彼の声には、若干の敵意すら混じっていた。……それでも、月小夜は怯む様子はなく、ただ哀れむような顔を浮かべるばかりだった。

「あの曲を、覚えていらっしゃいますか」

「……あの曲?」

「能柾様が最初に訪ねてこられた時に、わたくしが弾いていた曲です」

「ああ……覚えている。秘曲だからといって、そなたがどうしても弾くのを拒んだ曲だろう」

忘れる筈もなかった。あれほどに強く心が惹かれ、そして、この女と出会うきっかけとなった曲なのだ。自分はどうにかして、それをもう一度聞こうと欲した。……一時の熱情的な希求の思いは鎮まったが、今でもそれを求める気持ちは強くある。

「それが何だというのだ。今はそのようなもの、関係ないだろう」

琴の話などどうでもいい。少なくとも今、この場では。

彼はそう思った。だが、月小夜は首を振った。

「関係はあるのです。能柾様が、あの曲に強く惹かれた理由。それこそ、あれが秘曲といわれる所以でもあるのです。……あの曲の名を、今こそお教え致しましょう」

「……一体、なんだと云うのだ……」

怪訝に思い、不機嫌に呟きながらも、能柾は次第に引き込まれてゆく自分を感じていた。それほどに、目の前の月小夜の顔は真剣で、ただならぬ雰囲気を発していた。

「あの曲の名が、何だと云うのだ?」

「――あれの名は、箏曲(そうきょく)『化鳥』と申します」

「……何……?」

瞬間、彼の頭は空白になった。

「…………『化鳥』……?」

ただ、呆然と繰り返した。月小夜が、その呟きに頷きを返す。

「そうです。秘曲『化鳥』。それが、能柾様が知りたがっておられた、あの曲の名なのです」

かつて自分の心を奪い、支配までした魔的な曲と、あの化鳥との、思ってもみない関連。……能柾はその言葉を聞いた時、自分がそもそも最初から、ある大きな罠に掛かっていたような、そんな錯覚に襲われた。後戻りのできない……もはや絶対的に取り返しがつかない、そんな絶望的な罠の中に。

得体の知れない……大きな事象の連関に知らない内に絡め取られ、その中に組み込まれていた……。そんな気がして、思わず、呻いた。

「……何故だ。なぜ、そのような名が……」

「それは、あの曲の特性に由来しているのです。あの曲が秘曲とされ、妄りに他人に聴かせてはならない。教えてはならないと堅く秘されるその特性から、化鳥という名は付けられたのです」

「その、特性とは、何だ?」

「……あの曲は、胸に大きな空虚を抱えた人間の、心を捉えてしまうのです。その人間の、失った大事な者への想いに同調し、それを掻き立て、心を過去に向かわせる。そして、人によっては、現実に戻れなくさせてしまう。――もう、お分かりでしょう?わたくしが、どうして貴方の再三の求めにも応じず、あの曲を弾こうとはしなかったのか。……そして、貴方が過去に大事な人を失い、空虚を抱えているということを、知っていた理由が……」

「…………」

能柾は答えなかった。答えようとしても、何一つとして答える言葉を持たなかった。自分があの曲に惹かれていたことを……、どうしようもなく魅了されていたことを、今さら否定などできはしない。

あの、寂しげな音色。壮絶なまでに美しい、悲壮な曲。……彼の心を強く揺さぶり、虜にしてしまった、妖しげな魔曲。自分はまさに憑かれたように、あの曲の魔力に絡め取られていたのだ。……秘曲、『化鳥』に。

「……なぜ、化鳥なのだ?」

半ば呻くように、彼は月小夜に問うた。

「なぜ、化鳥という名でなければならないのだ……」

「……それは、化鳥の性というものが、まさにそのようなものに他ならないからです。能柾様。化鳥とは例外なく、常に失くした者を思って啼いている、そんな哀れな鳥なのです」

「それは、おかしいだろう。確かに私が知っているあの化鳥は、月小夜、姿を隠したそなたを、探している。しかし、全ての化鳥がそうとは限らない」

「いいえ……そうではないのです。化鳥には、ある、恐ろしい……。いえ、おぞましい習性があるのです。そしてその習性から、化鳥は決して逃れることができないのです。その逃れられぬ宿命のため、彼らは呪われた存在となっているのです。……そのために、化鳥はいつも失くした者を想い、泣いているのです」

……能柾は、思わず唾を飲み込んだ。

「何なのだ、その――逃れられぬ、宿命とは?」

それを受けて、月小夜は。

苦しげに重い息を吐き、僅かに逡巡を見せてから、答えた。

「……化鳥には、愛する者を喰らうという、呪われた習性があるのです」

「愛する者を、喰らう……?」

「はい。そうした習性があるために、化鳥はいつも啼いています。失った者を思い、哭いているのです。……そうしたところから、あの曲は化鳥という名を受けたのです」

……彼にはわからなかった。化鳥とは、愛する者を喰らう鳥だと月小夜はいう。そして、その相手を想い、殺してしまった悲しみのあまり、啼くのだと。

悲しむというのなら、その相手を愛していたというのは、本当なのだろう。……だが。

それなら……最初から、喰らわねばいいだけの話ではないか?

「なぜだ……。化鳥はなぜ、そんなことをするのだ?」

理解できなかった。自分で食らっておきながら、後になって嘆くなどと。

月小夜は、静かに首を振った。

「理由などありません。ただ、そうした習性が化鳥にはあって、その強烈な衝動に逆らうことができないという、それだけのこと。……それは化鳥にとっては予め定まっている、逃れられない性であり、決して覆せない宿命なのです。血肉を分けた肉親でも、例え自分を産み落とした親であっても、そして長年思い続け、漸く添い遂げた恋人であっても……化鳥が誰かを特別に愛した時、その強い想いはいつしか変じ、おぞましい食欲へと成り果ててしまうのです。……あれはそうした、業の深い鳥なのです……」

あまりのことに、彼は言葉を失った。あの、神秘的な美しさを持つ化鳥に、そんな恐ろしい習性があることを、俄かには信じることができなかった。

しかし……それでいて……。どこか、あの鳥に似つかわしい。そんな気も、確かにした。

月小夜は口を閉ざした。その瞳からはもう強さは失われ、代わってどこか弱々しい、縋るような色を湛えて彼を見ていた。……能柾には、月小夜がなぜそんな顔をするのかわからなかった。

それでも。今にも消えてしまいそうな月小夜を、放っておくことなど彼にはできなかった。相手に感じていた怒りなど、もう跡形もなく消え失せていた。

「化鳥とは、失くした者を思う鳥だと言ったな」

「はい……」

月小夜が、消え入るように呟く。

「それでは、化鳥は自ら望んで、愛する者を喰らっているわけではないのだな?」

「……そうです。化鳥とて、悦んでそんな行いをするのではないのです。ただ、呪わしい衝動があって、それにどうしても打ち勝てないだけ。衝動に負けて、愛する者を喰ってしまってから、化鳥は啼きます。自分のしたことの恐ろしさに、その罪深さに戦き、繰り返し繰り返し啼きます。あれはそうした、業の深い……。浅ましい、鳥なのです」

「……私は、そうは思わない」

「……能柾様……」

「愛する者を喰らうとは、たしかに恐ろしい習性だ。業の深い鳥だ。だが、それをした後に嘆くというのなら、決して真に忌まわしい存在とは言えない。……むしろ、哀れだ。呪わしい習性から逃れられず、おぞましい罪を犯し、その後にそれを自覚してしまうのだから。……いっそ、正気を失ったままの方が幸せであろうに……」

言いながら彼は、天空に舞う美しい化鳥の姿と、その名を冠した悲壮な曲の、二つを思い浮かべていた。その二つの、相似を思った。……あの悲壮な旋律が、暗示していた悲劇。それは紛れもなく、化鳥の悲しい宿命だったのだ。それは恐ろしく、同時にひどく哀れを誘う。……そして、どこか、美しい。化鳥自身は、決してそうは思わないだろう。それでも彼は、それを美しいと思った。どうしても、化鳥が邪悪な存在とは思えなかった。

月小夜が涙を零した。能柾にはそれが何を表す涙なのか、はっきりとはわからなかった。それでも、それは悲しいがための涙には見えなかった。

相手が落ち着くのを待って、能柾は話を始めた。

「……私は、化鳥と同じなのだ。あの夜、毒で弱った私が、ここに寝かされた時のことを覚えているか?」

涙を拭いながら、月小夜が頷く。

「あの時、私の意識は朦朧としていて、実を言えばよく覚えていない。……だが、赤い花を見たことだけは、どうしてかはっきりと覚えている。鮮やかな、燃え盛る炎のような、赤い花を私は見た。……そうだったな?」

「……はい。床に生けてあった曼珠沙華を見て、能柾様は急に、帰ってしまわれたのです」

「ゆるせ。私はあの時、女の部屋で横になっている自分の姿を、妻に見られているような気がしたのだ」

「……妻……」

「ああ。……万寿という名だった」

「万寿……万寿様……」

「……二年前に亡くした」

息を呑む月小夜から、能柾は視線をそらした。

政略結婚の多い貴族社会において、能柾は純粋な自由恋愛の末に、万寿と結ばれた。彼女と結婚することは、彼にとって長年の悲願だった。能柾は、まだ歳若い少年だった時分から、万寿のことを深く愛していたのだ。それは、稀有なことと言えた。

貴族の女は、男の前には顔を晒さない。隙見のような例外を除けば、男は相手の女の顔を知らぬまま、美しいという評判だけを信じて交際を申し込まねばならない。必然的に、女の顔を見ることができるのは、余程親しくなった後のこととなる。

しかし、能柾の場合は事情が異なっていた。彼は、子供の頃から万寿の顔を、そしてその人柄までも知り尽くしていた。……能柾と万寿は、同じ屋敷で育った、従兄妹同士だったのだ。

幼い頃には、歳の近い遊び相手でしかなかった。それが年を重ねるにつれて、恋愛感情へと変化していった。万寿にしても、同じことだった。……だが、たとえ親族であっても、年頃になれば男女は引き離される。思いを同じくしながら、顔を合わせない日々が続いた。

成人してから、能柾は当然のように万寿との結婚を望んだ。だが、従兄妹同士の結婚は禁じられてはいないにしても、歓迎されることではない。周囲の反対にあい、失意のまま数年の月日が流れた。万寿への想いを諦め切れず、それでも忠勤に励んでいた能柾の望みは、唐突に叶うことになった。彼の出世が周囲の反感を和らげ、二人の結婚を可能にしたのだった。

それからの数年間は満ち足りていた。子供ができないことだけが唯一の悩みだったが、万寿さえいれば能柾は幸福だった。万寿も、彼と一緒にいられることを、何よりも喜んでいた。

そんな妻は、しかしあっけなく死んでしまった。

元々、病弱な娘だった。だから添い遂げると決めた時から、万一の時のことは覚悟していたのだ。……それでも、魂をもぎ取られるような苦痛を、絶望を彼は味わった。一年が過ぎ、喪が明けても、彼は最愛の妻を想い続けた。心は空洞になり、生きるということに、いつしか何の価値も見出せなくなっていた。

そんな彼に、親族は新たな縁談の口を持ち込んできた。中には、「今度は、子供を産む女を」などと、平気な顔で言う連中もいた。……いつまでも一人の女を想い続ける彼に、同僚達も再婚を勧めた。大抵は善意からだが、その中には、女が死んだくらいで情けない、女なんて世の中には幾らでもいるだろうにと陰で言っている口の軽い者も混じっていた。

家の都合しか考えていない親類にも、陰口を叩く同僚にも、苛立ちを覚えた。一人の女を想い続けることが、そんなに悪いことなのか。そう叫んでやりたかった。家を守ることがそんなに大事か。大勢の女と床を共にすることが、そんなに楽しいのか?妻がいながら、常にいい女がいないかと目を配り、どうやって床を共にするかと、常に頭を悩ませて……。

能柾は、貴族というものが心底嫌になっていた。縁談を頑なに断り、以前よりまして武芸に、信心に時間を費やした。頭を空っぽにして身体を動かす時、そして妻の冥福を祈る時にだけ、彼の心には平穏が訪れた。

ずっと厭世的な気分で日々を過ごしていたところに、今回の勅命が下った。巨大な化鳥の討伐という、命を落としかねない、危険な任務。それでも、彼の心は躍った。ようやく、意味のある仕事ができると思ったから。周りの堕落した貴族連中とは、違う人間になれるのだと、そう考えたためだった。

……だが、それは偽りだったのかもしれない。彼はそう思った。月小夜の言う通り、俺本当は死にたかったのだ。……死んで、万寿のいる処に行きたかった。この危険な任務で倒れ、生命を落とすことをこそ、自分は本当は望んでいた……。

化鳥に空から落とされて、その鉤爪で胸を引き裂かれた時、能柾は死を覚悟した。迫り来る死が、避けえないものだと知って、ただ、その到来を待った。

あの時自分の心を過ぎったのが、本当に諦めだったのか。……それとも、歓喜の思いだったのか?……それは、彼自身にもわからなかった。

能柾はふと、顔を上げた――視線を感じて。傍らに座る月小夜の顔を見たが、しかし彼女は、すぐに顔を逸らしてしまった――彼の視線を、避けるように。

月小夜の表情は見えない。しかし、彼は見た。……その細い肩が、震えているのを。

(俺は……馬鹿だ)

月小夜が顔を逸らすその一瞬を、能柾は見逃さなかった。寂しげに自分を見つめる女の顔が、瞼に強く焼き付いていた。 

能柾は月小夜に近寄った。震える肩を摑み、振り向かせる。濡れそぼった白い頬が、彼の眼に映る。その涙に、胸が痛む。 

「月小夜。私は確かに、あの秘曲に惹かれていた。そなたの言う通り、心のどこかで、私は死にたいと願っていたのかもしれない。……だが、今は違う。もう、死など望んではいない。それはきっと、月小夜、そなたがいるからだ」 

月小夜が、涙に濡れた顔を上げる。 

「わたくしが……?」 

「そうだ。……私は、そなたを愛しく思う。そなたと、共に生きたいと願っている」

己の気持ちに、彼は初めて正面から向き合った。向き合い、それを受け入れた。出会ったばかりであることも、大事な勅命を受けていることも、今の彼にはもう、どうでもよかった。蓋をしてきた想いが溢れ出し、奔流となって、彼を衝き動かしていた。

だがそんな能柾の言葉にも、想いを込めた眼差しにも、月小夜は涙を零すばかりで、答えようとはしなかった。その顔には依然として悲しみの色が濃く、その憂いは晴れない。

「なぜ、そんな目で私を見るのだ。月小夜、なにか言ってくれ」

「……では、能柾様。貴方は私を、抱くことができますか?」

――表情が凍りつく。手が、月小夜の肩から離れる。

その言葉を聞いた時、胸に生じたのは歓喜ではなく、重苦しい罪悪感だった。拭い難い後ろめたさが彼の中に生じ、その全身を支配していた。

そんな内心を悟っているように、月小夜は静かな瞳で、言葉を失う能柾を見つめていた。

「……私を、万寿様よりも愛しいと、言って下さいますか?」

呆然として、なにも思いつかないまま、能柾はそれでも口を開こうとした。何でもいい、何か言わねばならない、自分を哀しげに見つめる女に、何か言ってやらなければならない。そう思った。……が、どうしても、言葉が出ない。

月小夜が、諦めたような笑みを浮かべる。

「意地の悪いことを申しました。どうか、お忘れください」

「月小夜……。私は」

「いいのです」

月小夜が立ち上がり、彼に背中を向けた。能柾も立ち上がった。彼女に近づき、引き寄せたいと、強く願った。……が、それでも、言葉が出ない。

月小夜は振り返り、焦る彼を見て、淡く微笑んでみせた。

「もう、気になさらないでください。……それに、実を申せばわたくしも、能柾様と似たようなものなのです」

「……私と?」

「能柾様の心の内に、今も万寿様がいらっしゃるように、わたくしの心の内にも、忘れられない方がいるのです」

「……何?」

その唐突な告白に、彼の心は大きく波打った。

それには気付かぬまま、月小夜は語り続ける。

「その方は、私にとって最も近しい、親しい殿方でした。私はその方を愛していましたし、その方も私を想ってくれていました。私はずっと、あの方と一緒になるものだと信じておりました。……ずっと、一緒に生きてゆく筈だったのです」

――能柾の胸に、突如として、迸るような猛火が生じた。彼はそれが、抑え難い程に強烈な、嫉妬の炎なのだと気がついた。そして、その時になって漸く彼は、この女に対する自分の想いを、その抑え難いほどの激しさを知った。

(俺は月小夜を愛している)

呆然と独りごちた。

(昔の男の話を聞くだけで、胸が張り裂けそうになる程に。……嫉妬でこの身が焼き尽くされてしまう程に、俺はもう、月小夜を愛しているのだ)

「……それなのに突然、その方は遠国に旅立つことになってしまったのです。私は連れて行って欲しいと願いましたが、許してもらえませんでした。数年で帰ると行って、私を置いて、旅立ってしまったのです。ですが――」

「月小夜!」

懐かしそうに語る言葉を遮り、能柾は強引に、月小夜を自分の許に引き寄せた。そして、己を駆り立てる激情に身を委ねたまま、その唇を奪っていた。

唇を重ねた瞬間、月小夜は瞼を見開き、その身を固く強ばらせた。だが、強く自分を抱きすくめる能柾に、いつしかその身を任せていた。――ただずっと、息だけは固く止めていた。

「――能柾様は、酷い御方です」

長い口付けの後、月小夜は小さく呟いた。

「万寿様のことを、お忘れになることもできないのに……」

「……もう言うな、月小夜」

能柾は、月小夜の手を取った。白く、細いその手を、強く握った。

「万寿のことを忘れるなどと、俺は言うことはできない。そなたと万寿の、どちらをより愛しているなどと、そんなことは言えない。……だが、これだけはたしかに言える。俺は月小夜を愛している。そなたの前ではもう二度と、万寿のことは考えぬと誓う。……だからそなたも私の前で、もう昔の男の話などしないでくれ」

「…………」

月小夜はしばらく無言で、能柾の手に包まれる、自分の手を見つめていた。……が、やがてその手をそっと外し、彼の元から離れていった。

落胆する能柾の耳に、柔らかな声が響いた。

「……貴方は、ずるいお人ですね」

言葉と共に、庵の内がふっと、暗くなる。月小夜が燈台の火を吹き消したのだと、能柾は知った。

「――でもそれは、お相子ということに致しましょう」

どこか悪戯っぽいその声に、能柾は顔を上げた。

灯の消えた庵の内に、月の光が静かに射し込んでいる。

その月明かりを背にして、月小夜は佇んでいた。

薄闇の中、浮かび上がる女に能柾は近づき、そっと抱き寄せた。

その手が、能柾の背に回される。頬に濡れた感触を覚えて、彼は月小夜が泣いていることを知った。その涙を、指で拭った。

月小夜の身体は、布地越しでもはっきりわかるほどに、華奢だった。その腰は、彼が僅かでも力を籠めれば、忽ち折れてしまいそうなほどに細く、また頼りない。それでも能柾は、月小夜の存在を確かめるように、相手を強く抱き締めた。

淡い黄の(うすもの)、清らかな小袖、その下から月小夜の、透き通るような白い肌が零れ落ちる。それら全てが頼りなく、儚い印象をもって彼に迫った。その身体に触れていても、その感覚さえ幻のようで、月明かりを映すその肌は、淡い光そのものに思えてならない。能柾は、月小夜の身体が内から発光しているような、不可思議な感覚に囚われた。

互いの身は限りなく近づき、確かに相手を感じているのに、むしろ遠ざかっていくようなもどかしさがあった。華奢な身体を抱き締める度に、水面に映る月を摑もうとしているような頼りない感覚が、どこまでも付き纏う。その儚さを否定するように、能柾は荒々しく月小夜を抱いた。……その度に、月小夜の肩から落ちた黄色の(うすもの)が、水面に浮かぶ月光のように、ゆらゆらと揺れていた。

 

相手を抱き寄せ、その唇に触れようとする能柾を、月小夜が止めた。

「……いけません」

「何故だ?」

わずかに躊躇った後、月小夜は言った。

「……私はまだ、能柾様から歌を頂いておりません」

「歌?」

思わず戸惑った。月小夜が、僅かに頬を赤らめる。

「都では、殿方はまず歌を詠んで、女に贈るものと聞いております。私は、ずっとそれに憧れていたのです。……ですから、私が満足するような歌を頂くまでは、……それまでは」

「駄目だと言うのか?」

「……はい」

「月小夜。私は、歌を詠むのが苦手なのだ」

勿論、全く作れないというわけではない。そうでなければ、宮中での暮らしなどできない。……だが、かつて歌を詠んで、特に賞賛された記憶もなかった。

特に、即興で歌を作ることが、彼にはとりわけ苦手だった。突然言われて、この素晴らしい女に贈るのに恥ずかしくない歌を詠めるとは、到底思えなかった。

その弱りきった顔が面白かったのか、月小夜が小さく笑みを漏らした。

「焦らなくても、よいではありませんか。……化鳥を退治した、その後にでも」

「……わかった」

彼は頷いた。歌のことより、月小夜が化鳥退治を口にしたことに、注意を奪われた。

「能柾様。やはり、化鳥を討つというお気持ちには、変わりありませんか?」

口調を改めて、月小夜が尋ねる。彼も表情を改めて、頷いた。

「ああ。そなたには辛いだろうが、やらねばならない」

その真情を確認するように、月小夜が顔を覗き込んだ。

「……もう、死を望んではいないのですね?」

「勿論だ」

躊躇うことなく、彼は答えた。今の能柾は、これからの人生を月小夜と共に生きることを、固く心に決めていた。そのためにも、化鳥に殺されるわけにはいかない。

そして。月小夜をこの草庵から、そしてこの地から解き放つためにも、化鳥は退治しなければならない。化鳥を退治しなければ、月小夜は外の世界には出られないのだ。

強い決意を視線に込めて、能柾は月小夜の瞳を真直ぐに見た。それに感応するかのように、月小夜の瞳の中に、何かが生じるのを彼は見た。月小夜の儚げな瞳が熱を帯びて、そして妖しく揺らめく様を、能柾は確かに見た気がした。

「そのお言葉を信じます。ただ、能柾様はお優しい御方。いざという時に、躊躇うことがないとも限りません。……ですから、これから私がする話を、よく胸に留めておいて欲しいのです」

「……わかった」

「私は以前、あの化鳥が屋敷から離れるために、父が私をここに隠したのだとお話しました。それは嘘ではありません。ですが、実を申せば、理由はそれだけではないのです。……私は先程、化鳥には愛する者を喰らう習性があるという話を致しました。……化鳥は、血を分けた肉親でも、自分を産んだ親であっても、喰らうのだと」

「……まさか……」

その意味するところに気付き、能柾は愕然とした。……あの化鳥は、月小夜を親だと信じている。親だと思い、慕っている。

……つまり、化鳥は。

「はい。……私はあの化鳥を生んだわけではありませんが、親であることに変わりはありません。化鳥に見つかったその時には、私は喰われてしまうでしょう。無理やり離されたことで、その想いは強まっている筈ですから……」

その話を聞いて、能柾の内に僅かに残っていた迷いは、もはや跡形もなく消し飛んでいた。化鳥には、同情を感じる。だが、どれほど同情すべき点があったとしても、この女の命には替えられない。

今の能柾にとって、月小夜はもう、何者にも替え難い存在となっていたのだ。

「……全てわかった。私に任せてくれ。こうなれば一刻も早く、あの化鳥を……」

討つ、と言おうとした能柾を、月小夜が遮った。

「……次の十五夜まで、待ってください」

「十五夜まで?なぜだ」

「あの鳥は、月を好みます。満月の夜に、化鳥は小夜の中山の頂上から、月に向かって高く高く飛び立ちます。その後はずっと下を見ずに、ただ月だけを見上げて飛ぶのです。……その時を狙って矢を射れば、化鳥は避けることができないでしょう」

そう言って、面を伏せた。

「……私は、己の身が可愛くて、こんなことを言うのではないのです。ただ、もうこれ以上貴方に、傷ついてもらいたくなくて……」

「わかっている。もう、何も言うな」

彼は月小夜を抱き締めた。

「あの化鳥は、たしかに哀れだ。だが、それでも私は、討とうと思う。そなたの為だけではない。あの化鳥の為にも、私は討とう。愛しい者を失うことは、この上なく辛いことだ。それは、私もよく知っている。……その愛しい者の命を、化鳥は自分の手で奪わなくてはならぬという。それはきっと、想像を絶する苦しみだ。死にも勝る苦しみだ。……だから私は、それをさせない為にも、あの化鳥を討つ。手前勝手に聞こえるかもしれないが、それが私の偽らざる気持ちだ」

「……はい……」

涙に濡れながら、月小夜は言った。

「一つだけ、約束して下さい。……これから先、たとえ何があっても、死のうなどとは思わないでください」

「ああ、勿論だ。私は、そなたと共に生きると決めたのだ。もう金輪際、自分から死を望むような、そんな愚かな真似はしない」

「…………」

「私は、そなたを絶対に連れて帰るぞ。そなたの親が何と言おうと、私の家の者が何と言おうと、構うものか。そなたと生涯連れ添うことが、今の私のただ一つの望みだ」

「そうですね。……そうなれば、どんなに良いでしょう」

眩しげに目を細めて、月小夜は儚げな微笑みを浮かべた。

 

  8

 

九月(ながつき)の十五日、満月の晩。

能柾は日が落ちる前に山道を昇り、小夜の中山の山頂に着いていた。適当な藪陰に隠れ、化鳥の現れるその時を待った。

(待っていろ、月小夜)

心の内で、月小夜に呼びかける。

月小夜は今もあの草庵で、彼の帰りを待っている。

西方の空には既に日が没し、山の端に僅かに残る茜色も、今やその色を失いつつある。東の空にはすでに丸い月の姿があり、今はその輝きを増しているところだった。

月小夜の話では、化鳥は満月が中天に懸かる頃に、その姿を見せるという。万一のことがあってはと日没前に来たのだが、やはり早過ぎたか、と能柾は思った。

ただ一人、山上で過ごす時間は長い。じりじりと焼け付くような焦燥を持て余し、気を落ち着けるために考え事を始めた。思い浮かぶのは、月小夜のことばかりだった。

月小夜と結ばれたあの夜から、この満月の日まで、化鳥が姿を現すことはなかった。そのため能柾は、この十日余りの短い時間を、月小夜と過ごすことができていた。

十五日を決戦の日に決めた能柾は探索に出向くことをせず、夜になる度に月小夜の草庵を訪れた。里の他の人間には秘密のまま、人気のない場所が幸いして噂が立つこともなく、彼は月小夜との束の間の、幸福な逢瀬を重ねた。

能柾は一昨日の晩に交わした、月小夜との会話を思い返した。今日の決戦に備え、昨夜は草庵に出向いていないので、それは月小夜と最後に交わした会話だった。

 

九月(ながつき)の十三日。二人は縁に腰掛け、十三夜の月を眺めていた。

「どうかしたのか?顔色が悪いようだが……」

能柾は心配げに、腕の中の月小夜に声を掛けた。その日は、どこか様子がおかしかった。

「なんでもございません。……それより、能柾様。明日の夜も、いらっしゃいますか?」

「いや、決戦の前日だからな。明日は身を清め、神仏に戦勝を祈願しようと思う」

「それがようございます。……実は、それに当たって能柾様にお願いしたいことが、二つあるのです」

「なんだ?」

「化鳥を討つ時、必ず首を狙って頂きたいのです。あの鳥の翼は刃のように硬い羽に覆われ、胴は厚い肉に守られています。ですが、首を狙えば、化鳥を苦しませることなく、その命を奪うことができるでしょう。ですから、絶対に化鳥の胴は狙わず、その首を射抜いて下さい」

「わかった」

仮にも親である月小夜にとって、化鳥が苦しむことはやはり辛いのだろう。それは当然の要求だと、能柾は思った。

「二つ目は?」

「……あの鳥が死んだら、手厚く弔ってやって欲しいのです。死骸を傷つけるようなことはせず、焼きもせず、そのままの姿で、土に埋めて下さい」

言われるまでもなく、能柾は化鳥を手厚く葬るつもりだった。化鳥は彼にとってすでに敵味方の域を越えている。それでなくとも、退治した妖怪の魂を祀る祠を建てるのは、よく行われている。人間への怨みの念を鎮め、祟りを防ぐためだ。

「約束しよう。必ず、そなたの言った通りにする。……そうだ、私からも頼みがある。これを、預かっておいてほしい」

能柾は懐から、布の包みを取り出し、月小夜に渡した。

「これは?」

「家に伝わる、観音菩薩だ。持仏として、日頃から欠かさず信心してきた。……これを、そなたに持っていてほしい」

月小夜は躊躇いを見せた。

「しかし。わたくしなどが持っているよりも、戦いに赴く能柾様こそ、持っておられた方が……」

「いや。戦いの場では、祈っている暇もない。それよりも、そなたが祈ってくれた方が、観音様も応えてくださるだろう。私の無事を、祈っていてくれ」

「……はい……」

受け取った持仏を大事そうに月小夜が抱えるのを見ながら、能柾は言った。

「用意をしておいてくれ。この里を出て、都へ向かう用意だ。化鳥を討てば、私は都に帰ることになる。その時には、そなたと共に行きたい」

「……楽しみに、しています」

そう言うと、月小夜は儚げな微笑を浮かべた。

 

あの儚い、見ようによっては憂わしげな微笑が、能柾は多少気になっていた。

彼が希望に満ちた未来の話をしているというのに、月小夜は心からの笑顔を見せてはくれない。化鳥のことや、彼の身を心配してくれていることはわかるのだが、それにしても、一向にその憂いが晴れないのだ。

能柾は、月小夜の笑顔が見たかった。

(……だからこそ、もう終わらせねばならない)

決意を新たにした時、どこからか鳥の羽音が聞こえてきた。耳を欹てると、それは彼のいる方へと近づいてくる。

周囲を窺った能柾は、峠の下、里のある方角から巨大な鳥が飛んできて、山頂に舞い降りるのを目にした。

(ついに、来た)

弓を握る手に、思わず力が入る。逸る心を、能柾は懸命に押し殺した。まだ早い。化鳥が飛び立つまで、待たねばならない。

警戒しているのか、化鳥は周囲を見回している。

能柾は身を硬くした。ここで見つかり、もし逃げられでもすれば、また次の満月まで待たねばならない。それは、なんとしてでも避けたいところだった。

幸い、化鳥は彼の存在に気付く様子もなく、すぐにその視線を宙へと向けた。

その先には、今や浩々と光を放っている、真円の月の姿がある。

この時、改めて化鳥の姿を打ち眺めて能柾は、やはり美しいという感慨を禁じえなかった。鴉のような、濡れ濡れとした黒い羽で覆われたその姿は、しかし月明かりの下ではその光を映して、神秘的に輝いている。尾の長い、雉に喩えられるその優美なその姿は、色こそ違えど鳳凰のような、伝説の神獣の姿さえも彼に連想させた。

……明るい藍色の夜空を背に、細い首を伸ばして、月の姿に見入る化鳥。その姿は瞑想的で、思慮深さすら感じさせる。大きな瞳は見開かれ、月に焦がれるように見えて、彼の哀れを誘った。

(……俺が月小夜に月を重ねているように、あの化鳥も満月の中に月小夜の面影を見ているのかもしれない)

頭を打ち振り、能柾は感傷を振り払った。迷いは捨てると、月小夜に誓ったのだ。

ついに、化鳥が飛び立つ気配を見せる。能柾は身構えた。彼の視線の先で、化鳥が一心に夜空を見上げながら、その巨大な翼を大きく広げた。

力強く、化鳥が羽ばたく。

途端に、強烈な突風が巻き起こる。

飛ばされないように体勢を低くしながら、能柾は化鳥の姿を見逃すまいと、風の中で必死に瞼を見開いていた。その眼は、猛烈な勢いで天高くへと飛び出していく、化鳥の姿をしっかりと捉えていた。

藪から飛び出し、飛び立った化鳥を探して、能柾は空を仰いだ。

視界を埋め尽くす、紺碧の夜空。天心には満月が冴え冴えと輝き、その光が夜空を隈なく、明るく照らし上げている。その澄んだ夜空を、小さな黒い影がポツンと一つ、月に向かってどこまでもどこまでも昇ってゆく。

あれほど巨大だった姿は見る蔭もなく小さくなり、それでいてなお力強く、天を貫くようにして、どこまでも化鳥は翔けてゆく。

能柾は或る種の感動をもって、その姿を見上げていた。

白々とした月の輪の中、豆粒ほどだった化鳥の姿は、今や黒い点にしか見えない。

(……今、化鳥が舞う空は、私が飛んだ時より高いのだろうか?)

能柾は化鳥に連れられて空を翔けた、あの夜のことを思い返さずにはいられなかった。

あの時、能柾は今日が月の出ている夜ならば、きっともう月に届いているはずだと、そう思った。それほど、化鳥は彼を掴んだまま、高く高く飛んだのだ。……だが、今地上から化鳥を見上げる彼の目には、天を翔ける化鳥がそれでも、輝く月に届いているようには見えない。

(あの神々しい月の輪の中を、泳いでいる小さな影があの鳥だ。あの芥子粒のような小さな影が、あの巨大な化鳥なのだ。……それでもまだ、届かないのか。あれ程大きな、化鳥でも無理なのか。月は所詮、掴めないのか?)

芥子粒のような黒い影は、月の輪の中を泳ぐように、旋回を繰り返している。その姿は、親を恋うる子供のようだと、彼は思った。

月を求めて、化鳥は飛んでいる。月小夜の、言った通りに。

彼はふと疑問に思った。満月を求めて化鳥は飛ぶのだと、月小夜は彼に言った。それは今見ている通りで、間違いはない。……ではあの夜、月のない新月の夜に、なぜ化鳥は飛んだのだろう?何を求めて飛んだのだろう?それも、自分という、人間を抱えて。人間など、天の高みを目指す化鳥にとっては、重荷でしかないのに。その上、自分は何度も化鳥と戦った、敵同士だというのに。

あの夜の化鳥の行動は、幾度思い返しても不可解だった。

……もう考えるな。彼は頭を振った。考えるだけ無駄だ。そんなことをしても答えが出るどころか、これからする行為の、やるべきことの、支障になるばかりだ。……あの夜のことを思い出すと、彼の決心は鈍りそうになる。化鳥に、共感しそうになる。 

もう、考えてはいけない。 

化鳥はまだ、月の輪の中を旋回している。月には決して届くことなく、それでも諦めきれないように、ぐるぐると回り続けている。 

その姿は、彼に哀れを催させた。 

(……なぜそこまで、月を求める。それほどまでに、月が恋しいか)

化鳥に語り掛けつつ、箙から矢を取り出した。

(所詮俺達の手は、あの月には届かない。あれほど巨大な翼を持つ、あの化鳥とてそうなのだ。……だが俺は、月を掴んでみせる。月小夜という光を、俺はこの手で掴んでみせる)

弓を、遥か真上に向けて構え、軽く矢を番えた。……まだ、遠すぎる。

天を泳ぐ化鳥の影は小さく、狙える距離ではない。能柾はできるだけ疲れないように、それでいて緊張を解かずに、化鳥が降りてくる瞬間をただ待ち続けた。

……その内、空を見上げる視界の中で、化鳥の影がまた少しずつ、大きくなり始めた。月の中に浮かぶ、芥子粒よりも小さな黒い点が、少しずつその丈を増しつつある。

化鳥が、ついに降下を始めたのだ。

(……来い)

化鳥はゆっくりと、ゆっくりと舞い降りてくる。右に左に揺れながら、それでも月の輪の中からは、決して外れることはなく。

風は吹かず、虫の鳴く声も消えている。……山頂は静寂に包まれていた。

空には一片の雲もなく、ただますます冴え渡る月と、翼を一杯に広げた、化鳥の姿があるだけだった。

月に浮かぶ化鳥の影は次第にその形を変え、とうとう鳥の姿が判別できるまでになっていた。羽ばたくことなく、揺らぐことなく、翼を広げ、ただ静かに舞い下りてくる。

(重なった時に討つ)

己に言い聞かせるように、呟く。

番えていた矢を、力の限り引き、弦の限界まで絞る。

(あの影が、月の輪と重なる瞬間。その瞬間に、討つ)

人気の絶えた小夜の中山の山上で、彼は待った。地面にしっかと膝をつけ、天に向かって弓を構え、揺らぐことなくその時を待ち続けた。

――化鳥の影が、月の輪に重なる。彼の頭は空っぽになった。

月の輪に完全に重なった化鳥の影は、その瞬間の彼の目に、まるで月の模様そのものに見えた。

――俺は、月を射抜こうとしている。

そんな、強烈な錯覚に襲われた。

鍛錬を積んだ彼の身体はしかし、空白となった意識を他所に、勝手に動き始めていた。化鳥の首に狙いを定め、矢を放つ。引き絞った矢が、彼の手元から消える。

彼は思わず手を伸ばした――放った矢を、掴み取ろうとして。だがそれは虚しく、極限まで引き絞られた矢は、瞬時に彼の視界から消えていた。

彼は空を仰いだ。天心の月を、その月を向かって飛んでゆく、自身の放った矢を見ていた。弓弦に蓄えていた力を糧に、彼の矢はどこまでも真っ直ぐに飛んでゆく。白い月輪を、その輪の中に一杯に翼を広げた、真黒な鳥の影を、ただひたすらに追い求め。

そして。……その首を、己の矢が正確に射抜くのを、彼は見た。

その瞬間、彼は理由のない戦慄に襲われた。自分が取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、思わず立ち竦んだ。

射抜かれた化鳥の影は、しかし変わらずに月の中にあった。落ちてくる様子もなく、翼を僅かでも動かすことなく、ただ不気味に空に留まっている。

訝しく思い始めた時、その影は漸くぐらりと傾いで、ふらふらと揺れ始めた。……確かに矢は当たっていた。彼は漸く、肩の力を抜いた。先の戦慄は、もう収まっていた。

(これで、終わりだ。この里ともお別れだ)

感慨深いものを感じ、彼は己の立つ、小夜の中山を見渡した。山の下には、月小夜の草庵のある竹林があり、里がある。

およそ一ヶ月の時を過ごした場所を去ることに、彼は一抹の寂寥を抱いた。

(だがそれは、新しい生活の始まりでもある。これからは、月小夜と都で暮らせるのだ。……いや、場所は問題ではない。月小夜と共に生きてゆけることが、俺には堪らなく嬉しいのだ)

空を仰ぐと、そこにはふらつく化鳥の姿が、まだあった。化鳥は、ゆっくりと落ちつつある。その体は明らかに均衡を失い、次第に落下する速度が増してゆく。

(……すまぬ、化鳥よ。堪忍してくれ)

彼が心の中で詫びた次の瞬間、ついに化鳥は山へと落ちた。それは彼のいる山頂とは、ちょうど反対側で、日坂の宿へと抜ける、峠道の辺りだった。

化鳥の巨体が落下した衝撃で、山全体が大きく揺れる。

――その時、奇妙な高い音が、辺り一帯に響き渡った。

(琴の……音?)

咄嗟に、彼はそう思った。能柾の耳には何故かその音が、極限にまで張り詰めた琴の弦が限界を迎えて、音を立てて切れたように聞こえたのだ。

不吉な予感に打たれ、愕然としながら能柾は、化鳥の墜落した場所へと駆け出した。

(まさか。……そんな、まさか)

駆けつけた能柾が目にしたものは薙ぎ倒された森の木々と、砕けた大きな岩。そしてその傍らに横たわる、変わり果てた化鳥の姿だった。身体を丸めるようにして、まるで眠っているようにも見える。……が、もう息がないのは明らかだった。

根拠のない不安を抱いたまま、能柾はその顔の辺りへと駆け寄った。しかし大きな目は固く閉ざされ、もう開くことはなかった。

不吉な予感が胸を離れず、それを必死に否定しながら、能柾はさらに近寄った。固く閉じられたままの、化鳥の大きな嘴を見た。……嘴の先に、何かを咥えている。

愕然としてよろめいた。それは紛れもなく、彼の持ち物だった。間違いなく、彼が一昨夜に月小夜に渡した、観音菩薩を納めた包みだった。

それを手に取った時、彼は甘い匂いを嗅いだ。化鳥の口に僅かに残る、いつか嗅いだ、濃密で甘い毒の息。……その、ほんの微かな、残り香。

(どうして気付かなかったんだ!)

彼は頭を掻き毟った。

(これは月小夜の匂いだ!月小夜の身体から、その息から僅かに洩れる、あれと同じ匂いだ。俺をいつも陶然とさせた、あの甘い匂いだ!)

わけがわからなかった。その馬鹿げた考えを、彼は必死に否定しようとした。……だが、考えれば考えるほど、そうとしか思われなかった。

震える手で、彼は化鳥の頬を撫でた。眠っているように閉じられた、もう開かない瞼を見た。似ても似つかない姿……全く、異なる感触。……だが、同じ匂い。否定しようとするほどに、確信は深まるばかりで、能柾は次第に追い詰められていった。

唐突に、気付いた。

「俺が月小夜を殺したのか?」

化鳥を見下ろして、呟く。

「……俺が月小夜を殺した……」

何も言わない化鳥に向けて、彼は叫んだ。

「何故だ!どうして、何も言ってくれなかった?お前が化鳥だからといって、俺がお前を見放すと思ったのか。そんなに、俺が信じられなかったのか!」

どれだけ大声で叫んでも、もう応えは返らない。化鳥は、もう動かない。その頭を抱いて、能柾は慟哭した。化鳥の身体にはまだ温もりが残り、その顔は安らかに見えた。

……その温もりが薄れる頃。彼は静かに立ち上がった。

「……俺も行くぞ、月小夜。お前一人では行かせない」

太刀を抜き、刃を首筋に当てる。涙に濡れる瞳を閉じ、一息に引こうとした時、その耳に月小夜の声が甦った。

『約束して下さい。……これから先、たとえ何があっても、死のうなどとは思わないでください』

手が戦慄き、太刀を取り落とした。全身に激しい震えが走った。

「ふざけるな!お前を失って、俺が生きてゆけると思うのか!この手でお前を殺しておきながら、それでも生きろと言うのか!」

悲痛な絶叫が山上に木霊し、空しくかき消えた。天上の月は変わらず浩々と光りを放ち、超然として地上を照らしている。

その月の下、能柾は力なく崩折れた。

 

「月小夜?私にはそのような娘はおりませんよ。……いえ、この里のどこにも、そのような名の娘はいないはずですが……」

化鳥の遺体を検分しに来た長者が、怪訝そうな表情を浮かべて言った。善良なその顔には、不都合を誤魔化す様子などなく、ただ困惑の色しかない。

「……いや、それならいい」

力なく、能柾は呟いた。

頭ではもう、わかっていた。月小夜などという娘は、この里にはいない。……最初から、いなかったのだということを。

あの竹林にも、彼は月小夜を探しに行った。そこで見たものは、見る影もなく朽ち果てた、倒壊寸前の廃屋の姿だった。……もう、何十年も放置されたままのような。

懐から、持仏の観音像を取り出し、長者に渡しながら、能柾は言った。

「頼みがある。この場所に、祠を作ってくれ。そして山頂に、この観音を本尊とした、寺を建ててほしいのだ。費用は全て私が出す」

「わかりました。それはわかりましたが……なにも能柾様が、土など掘らなくても」

能柾の手には鍬が握られ、着物は土に塗れていた。彼は朝から、一人で化鳥を土葬するための穴を掘っていた。

長者の家の下人達が、不審気な顔でそんな彼を遠巻きにしていた。……その内の一人は、不機嫌に頬を擦っていた。主の言いつけで手伝おうとした彼は、能柾に殴られたのだ。

……化鳥を葬るための穴を掘るには、二日かかった。埋めた後には大きな石を運び、それを置いて塚とした。それらを全て、能柾は一人で行った。

弔いを一通り済ませると、能柾は後事を託し、虚しく都に帰った。

 

  9

 

それからの数年間を、能柾は虚ろな心で過ごした。

都への帰途、彼は出家を願い出るつもりでいた。……しかし、都に帰りついた能柾を待っていたのは彼の手柄を殊のほか喜ぶ帝と、彼の帰還を歓迎する都の姿だった。彼の化鳥退治の噂は、すでに知れ渡っていた。

思いがけないことに、彼は英雄とされていた。その裏に、彼の活躍を宣伝して権威の回復を図る、朝廷の工作があったことは間違いなかったが、しかし一度噂が広まると、それは自然と人々の口に上った。それは、むしろ当然だった。まるで物語のような、勇壮な化鳥の討伐劇。しかもそれを為したのは、高貴な身分の、見目麗しい若者なのだ。民衆は熱狂し、口々に彼の噂をした。

帝もまた、上機嫌だった。能柾の活躍によって外には朝廷の権威の復権を印象付け、そして宮中においては帝の勢力が勢いを得たのだ。

……だから、能柾が願った出家の届出が、受理されないのは当然だった。彼の活躍を喧伝し、一層の勢力拡大を狙う為にも、彼の存在は不可欠だったから。能柾は官を返上するどころか、春になると従三位の位を授けられた。彼は公卿の一人に列せられ、三位中将と呼ばれることとなった。帝の側近の一人として、一層重要な立場となった。

そうした変化は、しかし彼にとってはどうでもよいことだった。世の中に生じているどんな出来事も、彼には意味のないものに思われた。宮中の勢力争いも、自己の出世も、翌年に現実のものとなった元国からの侵攻も。今となっては、どうでもよかったのだ。

騒ぎが一通り静まった頃、尋常ではない彼の様子に、人々は初めて気がついた。すると、化鳥に祟られているのだという噂が立ち、それが治らないものとわかると、いつしか遠ざけられるようになった。それにも彼は、何の感慨も沸かなかった。寧ろその方が、余計なことに煩されずに済む。

周囲の状況が目まぐるしく変化する中にも、能柾はひたすら、月小夜一人のことを考えていた。思い返す度に、理解に悩み、苦しんだ。月小夜のついていた、数々の嘘。一体、その中の何が嘘で、何が真実だったのか。なぜ、月小夜は嘘を吐いたのか?なぜ、月小夜が化鳥なのか。……そして、なぜ月小夜は、彼に殺されなければならなかったのか?

……そうして五年の月日が過ぎた頃、能柾は再び小夜の中山を訪れた。

しばらく都を離れることも、少し前までは不可能だったが、今では容易になっていた。化鳥に祟られているというまことしやかな噂に加え、宮中の情勢が変わっている。践祚の噂が、少し前から囁かれていた

五年振りに訪れた小夜の中山の変貌に、能柾は驚いていた。かつて閑散としていた街道には人々が盛んに行き来し、寂しかった峠の道にも、多くの旅人の姿があった。様変わりした土地の印象に彼は一抹の寂しさを抱いたが、こちらこそが本来の姿なのだと強いて己を納得させた。

能柾は小夜の中山に上り、その山頂に建つ久延寺(きゅうえんじ)に参篭した。その寺こそ化鳥の、月小夜の菩提を弔う為に、彼が建てさせた寺だった。

五年の歳月を経て、能柾は漸くその寺を訪れることができたのだった。

 

「化鳥の話を聞きたいと?」

「はい」

久延寺の住職を勤める上人が化鳥のことを知っていると聞き、能柾は上人の部屋を訪ねていた。

「しかし、わしは元々この地の生まれではない。知っていることと言えば、里の者から聞いた話程度じゃ。それは、お前様もよく知っておいでのことだろうに」

能柾の前には僧衣にその身を包んだ、小柄な老人が座っている。まるで体の重みなどないかに見えるその枯れ木のような老人は、しかしその高徳を以って広く世間に尊敬される高僧だった。

公卿である能柾に対しても、上人はぞんざいな口を利く。それは高位の僧としての驕りに拠るのではなく、身分の貴賎によって人を区別しないという人柄と、そして能柾が上人にとって、知己の間柄であることに拠っていた。

元々京の寺にいて親交のあったこの老僧を、久延寺に招いたのは能柾だった。日頃からその人柄を尊敬し、敬愛の念を捧げていた上人に、なんとしても月小夜の眠る地に来て欲しかったのだ。

その気になれば大寺院の座主にもなれるこの高僧は彼の頼みを聞いて、

「田舎に骨を埋めるのも、また一興」

と快諾し、あっさりとこの山寺に落ち着いた。感謝してもしきれない恩を、能柾はこの上人に感じている。

 その高僧に、能柾は深く頭を下げた。

「その、里の者から聞いたという話を伺いたいのです。私が尋ねても、何故か皆、口を濁すばかりで……」

この里に着いてから、能柾はあちこちで化鳥のことを聞きまわった。だが返ってきたのは、化鳥退治を行っていた五年前より、鈍い反応でしかなかった。

「さもあろう。なにせお前さんは、化鳥を討った本人なのじゃからな」

その言葉に、密かに胸を突かれる思いをしながらも、必死になって能柾は尋ねた。

「何かご存知ならば、ぜひ、お教え下さい!」

上人は顎を撫で、勢い込む能柾の姿を少し眺めた後、根負けしたように話し始めた。

「……里の者が口を閉ざしているのは、あの化鳥についての、悲しい謂れを知っているからじゃ。その話に拠ると、あの化鳥は、元々は人間だったという」

「……人間……」

能柾の脳裏には、懐かしい月小夜の姿が浮かび上がっていた。

化鳥の正体が月小夜なのだと知ったとき、化鳥が人間の姿を借りていたのかと彼は考えた。……だがそうではなく、化鳥は元々、人間だった……。

「そうじゃ」

混乱しながらも能柾は、上人の話に耳を傾けた。

「いつともわからぬ遠い昔のこと。都に住んでおった上臈の娘が一人、東国を目指して旅をしていたという。名前は、サヤとも、サヨとも伝わっていて、はっきりとはせんが」

……身体が、震えた。上人はそれをちらりと見て、話を続ける。

「なんでもその娘は、役目の為に東国に赴任した恋人を追いかけて、旅をしていたという。供も連れず、たった一人で東路を下っていたというのだから気丈な娘じゃ。それだけ男を思っておったということじゃろうが、いかんせんそれは無謀に過ぎた」

街道の旅には危険が付きものだ。商いが活発となり、人の往来が増した現在でも、女の一人旅は安全ではない。その女の行動が如何に危険極まりないことだったのかは、能柾にも容易に想像がついた。

「それでも娘は、はるばる都から下ってきて、なんとかこの辺りまでは無事に旅をしていた。しかし、昼には幾らか人の通るこの峠も、夜になれば寂しい。時には、怪しい輩も出るというので、男でも夜には近寄らん。だがその娘は男恋しさのあまりか、たった一人で夜の山を越えようとしたのじゃ。……そして賊に襲われ、無残にも切り殺された」

「……殺された……」

「うむ。だが、ここからがこの話の、不可思議なところじゃ。翌朝、山道の途中で、里の者が女の着物を見つけた。ばっさりと斬られ、あちこち血に塗れた着物じゃ。辺りを見ると、履物も落ちている。だが、どこにも死体がない。荷物は賊に取られたとして、斬られた体がどこに消えたのか。気の毒に思った里の者が、せめて弔いをしようと方々探しても、どうしても死体が見つからない」

「……」

「それからまもなく、おかしな鳥が山に現われるようになった。尋常の鳥とは到底思えぬ、人に倍する巨大な化鳥じゃ。人を害するわけでもなく、時々峠に現われては、東の空を見て寂しげに啼いていたという」

東の空。娘の恋人がいるという、東国の空。

かつて月小夜が口にしかけた、昔の恋人の話を、能柾は思い出していた。月小夜と恋仲となり、添い遂げる筈であったのに、突然東国に下って行ったという男の話……。

「里の者は、あれは殺された娘が男恋しさに死に切れず、化けて出たものと噂した。嘘か真か、あの化鳥が遠い東の空の彼方から、飛んでくる姿を見たと話す者もいた」

「……殺された娘が化鳥になって、その男に会いに行ったと?」

「里の者はそう信じた。中には、男を喰って戻ってきたのだと言う者もおったが、真偽などは確かめようもない。それからはずっとあの山に居座り、普段は姿を隠しているが、夜になると稀に飛び回る姿が見られたという。里には化鳥を恐れる者もいたが、人を害するわけでもなし、祟られては敵わんから、ひっそりと祀ってきた。滅多に姿を見せんから、噂になることもなかった。それがある時、小夜の中山に恐ろしい化鳥が出るということが噂になってしまった。……そう、それが五年前じゃ」 

五年前。……即ち、能柾が討伐に出向いた時。 

「しかもその噂では、化鳥が旅人を襲ったという。里の者はすぐに、あの化鳥だと気づいたが、旅人を襲うなどということは信じられなかった。しかしそうこうしているうちに、現に襲われたという旅人が次々出てきた。その内、ずっとおとなしかった筈の化鳥が、里を襲うようにまでなってしまった」 

「……何が、あったのでしょうか?」 

「わからん。だが恐らくは、事情を知らない旅人が偶然あの鳥を見かけて、不用意に手を出したのじゃろう。里の者は皆そう言っておる。だから化鳥に襲われるようになっても、里の者は化鳥を恐れても、なかなか憎むことができんかった」

化鳥退治に赴いた頃の里人の態度に、能柾は漸く得心がいった。化鳥に襲われ、不安で夜も眠れぬというのに、どこか諦めているような人々の表情……。

「……では、私のしたことは……」

里を襲い、旅人を喰らうと恐れられ、凶悪と噂されていた化鳥。だがそれは、人間の、勝手な見方でしかなかった。おとなしい化鳥に先に手を出したのは、人間の方だったのだ。理不尽に襲われた化鳥が、人間に敵意を抱くようになるのは、当然の話だった。

五年前の時点でも、能柾は化鳥を悪と断じて、討伐しようとしたわけではない。その正体は知らずとも、化鳥に対し共感し、憐れみを感じていた。

それでも改めて真実を知ると、自分の犯した罪の重さが、改めて胸に迫ってきた。

「しかし事情はどうあれ、化鳥が人間を襲うようになっていたのは事実。かつては共存していた里をも襲うようになり、無差別に旅人を襲うようになっていたという。それは、放ってはおけんことだった。お前様が気になさることではない」

本当にそうだろうかと、能柾は思った。理性のない鳥ならば、そうかもしれない。

……だがあの化鳥は、月小夜だったのだ。

月小夜が最初の内、自分に害意を持っていたことは、もう能柾は認めていた。化鳥を退治するために現われたという人間に敵意を持つことは、月小夜にしてみれば当然だからだ。だから、能柾を草庵に誘い込んだ。化鳥退治には近づいた方が良いと嘘を吐いて、近づいたところを毒の息で仕留めようとした。弱っていた彼を庵に招きいれ、誘惑するような態度を取ったのも、隙を見て殺そうとしていたに違いなかった。

それなのに、共に過ごすうちに月小夜は、本当に能柾を愛してしまった。そのことも、今では疑ってはいなかった。月小夜は彼を籠絡しようとして、つい気を許してしまった。情が移ってしまった。……だから能柾に化鳥退治から手を引かせようとして、自分が化鳥を育てたのだと嘘を吐いた……。

……しかしそれでもなお、能柾にはわからないことがあった。なぜ、月小夜が死ななければならなかったのか?月小夜が自分の正体を明かし、もう人を襲わないと誓えば、能柾は化鳥退治などしなかった。たとえそれが、帝の意に背くことであっても。

信用されていなかったと言えば、それまでのことだ。彼に正体を明かすことを嫌がったのだということなら、理屈は通っている。……だがどうしても彼は、そう信じることはできなかった。彼の感情が、それを受け入れることを拒んでいた。

なぜ月小夜は、能柾の手で討たれることを選んだのか?

「上人様。化鳥とは、何なのでしょう。なぜ、人が鳥になるのですか?」

気付くと彼は上人に、そんなことを尋ねていた。古今の事象に通じ、万巻の書物を紐解いたという上人なら、己の疑問を解いてくれるものと思った。

「人間が鳥になるなど、信じられんかな?」

「いえ。……ただ、人が鳥になる話など、聞いたことがなかったので……。蛇に変じたという話ならば、聞いたことはありますが」

取り繕うように、そう付け足した。月小夜が化鳥であったことは疑いようがないが、たとえ上人が相手でも、それを話すことは躊躇われた。

また顎を撫でながら、上人が言う。

「蛇に変じたと言うのは、道成寺の話じゃな。若い僧に懸想したやもめの女が、僧に謀られたことを恨みに思うあまり蛇身に変じ、ついにはその僧を殺してしまう。女の愛欲のなんとも恐ろしきことよ。……まあ、そこまで強く想われることも、わしのような者には羨ましい気もするが……」

高徳の僧とも思えぬことを、上人はさらりと言った。

「わしは若い頃諸国を巡ってな、道中で珍しい話をよく耳にすることができた。その経験から言っても、人間が変化する畜生といえば、やはり蛇が一番多い。道成寺のような、愛欲の果てに蛇に変化する話もあれば、無残に殺された男の念が凝り固まって、蛇と化したという話もある。善良な蛇の精の話もないわけではないが、人間が死んで蛇に変ずる場合には大抵、深い憎悪の念を抱えておる」

空恐ろしい気が、能柾にはした。死して後も恨みの念が消えず、相手に執念深く固執して、とり殺すという蛇の怪。それは化鳥と似ているようでいて、その実、まるで異なっている。

「蛇に比べて、たしかに人間が鳥に変ずるという話は多くない。それも、この山におったという化鳥のような例は珍しい。しかし、わしはかつて陸奥の国に出向いたおりに、人が鳥に変じたという話を幾つか聞いたことがある。そのいずれも、どこか哀れを催す話じゃ。少し、話してみようかな」

「お願いします」

「昔、ある里に、一人の娘がおった。娘はある男と恋仲になったが、二人で山に出かけた折に、その男の方の姿が消え失せてしまったのじゃ。女は夜になるまで探し回ったが、男は一向に見つからない。女は嘆き悲しみ、半ば気の違ったようになってまで探し回ったが、やはりどうしても見つからない。そして女はとうとう、鳥になってしまった。その鳥の鳴き声は、消えた男を探し求める声だという話じゃ。……まだある。とある村に、善良な馬飼いがいた。この男が馬を野山に放牧に行き、さて帰ろうとすると一匹足りない。男は馬を探して山中を探し回り、これも鳥に変じてしまった。……たかが馬ごときで、などと考えてはいかんぞ。何を大事に思うかは、人それぞれじゃからな」

「…………はい」

「うむ。……さて、もっとも哀れなのは、子供を失った母親の話じゃ。ある処に、母一人子一人の家があった。母親はたった一の家族である倅を大事に育てておったし、息子の方も母親思いの、随分な孝行息子だったという。だがこの倅がある日、山に出かけていくと、運の悪いことに賊に襲われて殺されてしまった。それを知った母親は気が狂い、川に身を投げて死んでしまったのじゃ。そして巨大な化鳥にその身を変じたが、そんな姿になってもまだ、息子を忘れられない。この化鳥は、息子と同じくらいの年頃の子供を見つけては、さらっていったという。……この話が、もっともこの里の化鳥の話と近いかな」

「…………」

「それらの話に共通しているのは、いずれも大事なものを失ったということじゃ。大事な者を失くし、半狂乱で探し求める内に、その姿はいつしか変じ、鳥の姿になってしまう。その念がとりわけ強いものが化鳥となり、失くした者を追い求めるあまりに、人を害するようになってしまう。……ゆえに、化鳥には愛する者を喰らうという、哀しい習性があると聞く」

「今……今、何といわれました、上人様。それは、真ですか!」

……それは確かに、以前月小夜が言っていたものと同じ言葉だった。化鳥の有する、哀しい習性。……化鳥を討つことに迷いを抱いていた彼に、その迷いを振り切らせた言葉。

勢い込む能柾に、上人が多少の戸惑いを見せる。

「ああ……。あまり知られてはおらんが、確かにそう言われている」

……あれは嘘ではなかったのだ。能柾は胸の裡で呟いていた。

己の迷いを打ち消した、化鳥の習性の話。それだけに能柾は、それが月小夜の吐いた嘘ではないかと疑っていた。彼に化鳥を、自身を討たせるために、吐いた嘘だと。

(嘘ではなかった……)

黙り込んだ能柾の様子をどう取ったのか、上人が口を開く。

「愛するものを喰らうという習性は、たしかにおぞましいものと思うかもしれん。だがそれは、失くした者に焦がれるという、化鳥の本性から来るのじゃろう。焦がれ、手に入れたいと思うあまり、喰らわずにはいられなくなる。浅ましく、業の深い畜生じゃ」

「…………」

「じゃがな、能柾殿。化鳥には、蛇と比べればまだ、人間味があるとも言える。蛇の精は冷血にして、淫なるものじゃ。道成寺の女蛇しかり、生贄を求める大蛇しかり。古事記の伝える八岐大蛇とて、何人もの女を喰ったというではないか。蛇の怪は淫蕩にして、恋好いた相手を遂には喰らってしまう。じゃが、蛇精の真の恐ろしさは相手を喰ってそれを悔いることなく、むしろ悦ぶところにある。かの道成寺の女蛇は、とり殺した若い僧までも蛇に変えてしまい、愛欲煩悩の畜生界に引きずり込んだという。なんとも恐ろしいではないか。ことほどさように、蛇の怪は淫蕩にして、冷血じゃ」

焦がれるほどに愛した相手を無残に殺して、その死体を抱いて悦ぶ。その姿は浅ましく、おぞましいばかりで、一片の哀感すら生じない。

「それに比べれば、化鳥には未だ人間の魂が残っておる。先に話した子供を失った化鳥は、子供を見る度に正気を失い、それを喰らったというが、その後正気を取り戻しては己が所業に慄然として、哀しげな声で哭いたという。それを思えば、魂まで畜生に堕した蛇精とは違い、化鳥の魂にはまだ救いが残されていると言えよう。……だが、化鳥の身になってみれば、それはいっそ哀れ。心までも失い、狂ってしまえばよいものを、なまじ人としての理性と情愛が残っているばかりに、己が所業に苦しまずにはいられない。それでいて、悪しき習性を律することも叶わず、生きている限り苦しむのじゃ」

……能柾の眼には、いつしか涙が浮かんでいた。真実を、月小夜の真意が、ようやくわかったような気がした。

(……月小夜は、俺を喰らいたくなかったのだ)

最初は能柾を騙そうとしていた月小夜は、しかし彼を愛してしまった。……それが、悲劇の始まりであると知りながら。

愛するものを喰らわずにいられないという、化鳥の哀しい習性。早晩、月小夜は能柾を喰らわずにはいられなくなる。どれほど理性で抵抗したところで、月小夜が生きている限り、その宿命からは逃れられない。……いや、ひょっとしたら、初めて愛を交わした夜からすでに、月小夜は己の中の衝動を、懸命に抑えていたのかもしれない。

月小夜の採るべき道は、二つしかなかった。化鳥の本性に負けて、能柾を殺すか。或いは、自分が化鳥であることを隠し通し、能柾に討たれるか。

そして月小夜は、後者を選んだ。化鳥であることを隠したまま、能柾に殺されることを望んだのだ。……化鳥であることを明かすという選択肢は、最初から彼女にはなかったのだ。なぜなら、化鳥の正体を能柾が知れば、決して化鳥を討とうとはしなかっただろうから。

月小夜は、それを知っていた。だから口を閉ざし、最後まで嘘を吐いたまま、新で言ったのだ……。

「私は……」

涙を懸命に堪える、口から自然に声が漏れた。

「……化鳥の本性とは、届かぬものに焦がれることと思います」

彼の脳裏には、満月に向かってどこまでも翔けてゆく、美しい化鳥の姿があった。化鳥が月に焦がれるのだと言った月小夜の言葉は、たとえ能柾に己を討たせるための芝居だったのだとしても、あの時の姿までが嘘とは思えなかった。決して届かない月を目指す、誇り高き化鳥の姿が……。

「たしかに、そう言えるかもしれん。だが、それは結局は同じこと。一度失われたものには、二度と手は届かぬのだから……」

ハッとして、能柾はその顔をあげた。その言葉に、何か大事な戒めが含まれているように思えたからである。……だが視線を上げた先には、空の円座が残されているばかりで、あの枯れ木のような姿はない。上人はいつのまにか縁側に立ち、寺の前栽を眺めていた。

彼に法衣の背中を向けて、独り言のように呟く声が、耳に届いた。

「鳥といえば、かの日本武尊も、最後は鳥になったとか。美しい白鳥に姿を変じ、大空高くその身を舞わせ、懐かしい都を目指して飛び去ったとか……」

 

夜が更けた頃、能柾は寺を出て、峠の道を歩いていた。

昼は旅人が行き交うようになった道も、夜は殆ど人気がなくなっている。そのさびしい山の姿に、かつての懐かしい光景が甦り、能柾はむしろ嬉しく感じた。

しばらく歩き続けると、やがて小さな祠が現われた。それも以前にはなかった、彼が建てさせた、月小夜のための祠だった。……化鳥が墜落し、息絶えていた場所……。

最も辛い出来事を生々しく思い出し、能柾の胸が強く痛む。

祠の後ろは僅かに土が盛り上がっていて、彼が埋葬した化鳥が、確かにそこに眠っている。その上には、塚代わりの大きな石。能柾はあえて立派な碑を作ろうとはせず、その石を持って塚の代わりとしたのだった。

その前に座り、彼は優しく石を撫でた。

「あれからもう、五年も経ってしまった。……寂しい思いをさせてすまなかった」

九月(ながつき)の、十五日。……彼が五年前に化鳥を射た満月の夜。月小夜の、命日。

「そなたを忘れたことなどなかった。……ただ、ここに来るのが怖かったのだ」

自分が月小夜を殺したという事実に、正面から向き合うことが怖かった。その理由を知りたいと切望しながら彼は、この地に来ることを何よりも恐れていた。

「……そなたは、私を殺したくなかったのだな。……だが、何故だ?」

愛する者を喰らわずにいられないという、化鳥の悲しい習性。それを避けたかったことは理解できる。月小夜を殺してしまった自分だからこそ、その痛みを誰よりも理解することができた。

「……だが、それならなぜ、私に生きろなどと言ったのだ。そなたを殺した俺を、どうして死なせてくれなかった?……俺も、共に死にたかった」

それだけは、幾ら考えてもわからなかった。能柾を殺すことができず、自らの死を選んだ月小夜が、その苦しみを彼に押し付けた理由が……。共に生きられないのが、二人の宿命だったと言うのなら、せめて共に死にたかった……。

……満月の光が鮮明に、彼の影を塚に焼き付けている。

振り向き、空を仰いだ能柾の目に、五年前と全く変わらない、真円の月の姿が映った。……あの日と同じ九月(ながつき)の、望月の夜。あの日と同じ、小夜の中山。……だが月小夜はもうこの世にはおらず、この地で供に過ごしたあの日々からは、もう長い月日が流れてしまっていた。

涙が浮かび、彼は石に手を伸ばした。能柾の手が、ざらついた石の表面に触れる。

口が、自然と動いた。

東路に月はさやかに今もあれど ゆきし長月小夜の中山

……歌を贈って欲しいと言った、月小夜の顔が思い浮かぶ。

「……五年もかかってしまった」

能柾は石に口付けた。月小夜とは似ても似つかない、冷たく、そして硬い感触。……それでも、その塚に額を押し付けて、能柾は涙を流した。止まることのない涙が、月小夜の墓を濡らした。

……どれくらいそうしていたのか。

ふと、人の気配を感じて、彼は振り返った。寂しい峠の細道に、月の光を浴びて佇んでいる、小さな人影を彼は見た。逆光で顔は見えないが、じっとこちらを見詰めている。

能柾が戸惑っていると、人影は静かに近づいてきた。

それは少女とも呼べないような、まだ幼い女の童だった。村の子供なのか、粗末な衣をその身に纏っている。

……こんな小さな子供が、夜更けの、こんな寂しい場所に?怪訝な顔を浮かべた能柾は、その子供が半ば睨み付けるような鋭い眼で、自分を見上げていることに気がついた。その瞳の放つ、強い光を受けて、不思議と胸がざわついた。

童が、彼の前で足を止める。その子供の背の高さは、座り込んだ彼の顔の位置と、ちょうど同じ程度である。

能柾の目の前に、その童の顔がある。その顔が、まるで人形のような無表情であることに気付き、能柾は驚いた。それでいて、眼光ばかりが鋭く、射抜くように彼を見ている。

その小さな口が、ゆっくりと開いた――

 

「ちちうえ」

 

――頭が真っ白になった。

能柾は呆然と、その、見知らぬ童の姿を眺めた。何度見ても、その子供の姿は、彼の記憶の中にはない。一度も会ったことはない。

童は一言呟いた後、そのまま黙り込んでいる。

……会ったことはない。だが、能柾は不意に気付いた。

(……似ている……)

その童にはどこか、月小夜の面影があった。

似ているとまではいえない。それを判断するには、童はまだ余りに幼すぎる。それでも、確かに面影がある。……そもそも、自分に子供がいるとすれば、それは月小夜の子供以外にはありえない。童の歳の頃は五歳ほどで、その点でも計算が合う。

だが……と、彼は思わずにいられない。能柾が月小夜と結ばれていたのは、僅か十日ほどの間しかない。最初に結ばれた夜に月小夜が身籠ったとのだとしても、その十日後には、月小夜は死んでしまった。実は月小夜が生きていたとでも考えない限り、ありえない話だった。

……普通なら。

普通なら、そうだ。だが。だが……月小夜は、化鳥なのだ……。

……月小夜、どうかしたのか?顔色が悪い……

……なんでもございません……

彼の脳裏に、様々な記憶が浮かび、駆け巡った。

……お願いしたいことが、二つございます……

……化鳥を討つ時、絶対に胴を狙わず、首を射て下さい……

……あの鳥が死んだら、手厚く弔ってやって欲しいのです。死骸を傷つけるようなことはせず、そのままの姿で、地中に埋めて下さい……

…………

…………

童はじっと声を発せず、黙り込む能柾の顔を、奇妙な光る眼で見つめている。……そこに、駆け寄ってくる姿があった。

「おおい、小石。おや、能柾殿も。こんな所に……」

現われたのは上人だった。

「上人様。……どうされたのです?」

「うむ。そこの子供、麓の飴屋の娘なのじゃが、その飴屋の爺さんが寺に駆け込んできてな、娘がいなくなったと言って騒いだのじゃ。わしもこの小石には、浅からぬ縁があるのでな、こうして探しておったという次第。ひょっとしたら此処に来ているのかと思ったわけじゃが、まさか能柾殿までおられるとは……」

「小石……というのが、この子の名前なのですか……?」

「いかにも、小石というのがこの子の名じゃ。名付け親は、何を隠そうこのわしでな、まあおかしな名前と思うかもしれんが、ちと理由があってな」

「なぜ……。なぜ、小石という名なのです?」

半ば答えを予期しながら、能柾は夢中で聞いた。こともなげに、上人が答える。

「まだ赤子だったこの子を、此処でわしが拾ったのじゃよ。ちょうどこの場所、この、大きな石の、傍らで…………」

――呆然とする能柾の顔を、小石がじっと見上げていた。

 

「話したところで信じてもらえるかどうか、何分おかしな話でな……」

そう前置きして、上人は話を始めた。

「この寺ができたばかりの頃、わしは所用があって、少しの間寺を空けておった。無事に用事を済ませ、数日振りに寺に戻ろうとして夜中にこの辺りを歩いていると、ふと奇妙な声が聞こえてくる。……それが、耳を澄ませてみると、どうも赤子の泣き声に思える。不思議に思ってその声に向かって歩いていくと、それがどうも、この辺りだとわかった」

上人が祠と、その裏にある塚石を示す。

「祠の前に来ても、しかし赤ん坊の姿はない。……それなのに、声はすぐ近くで聞こえる。よくよく注意して聞いてみると、その声はなんと、この大岩から漏れていた。なんとも不思議なことがあるものと、この石に近づくと、途端にその声はピタリと止んだ。……ふと下を見ると、その傍らに、赤ん坊が眠っている。それがこの、小石じゃ」

その時のことを思い出したのか、上人が感慨深げに小石を見下ろす。

「わしは驚いたが、赤ん坊の姿を見つけると、やはり石が泣いていると思ったのは気の迷いで、泣いていたのはこの赤ん坊だったのかと疑ってみた。だが赤子はよぅく眠っておるし、どう見ても泣いていた気配などない。そうしてふと地面を見ると、赤子の周りには、何本も串が転がっている」

「……串?」

「うむ。どうも見覚えのある串だと思ったら、それは山の麓にある飴屋の、水飴の串だった。見ると、赤子の口にも飴が付いている。わしはとにかく、その赤子を寺に連れ帰ることにした。翌日、飴屋を訪ねて聞いてみると、思い当たることがあったのか、店主の爺さんが不思議な客のことを話し始めた。数日前から、見た事のない尼僧が夜になると現われて、飴を買い求めていったと言う。最初は旅の途中に立ち寄っただけかと思ったが、それが何日も続くということで、不審に思っていた。そう思うと、どこか顔も青白く見えてきて、どうも様子がおかしかったという。飴屋はしきりに不思議がっていたが、わしが赤子のことを話すと、合点がいった。これはきっとお寺の観音様が、捨てられた赤子を気の毒がって、夜な夜な尼の姿を借りて飴を買い、乳の代わりに与えていたのだ。さらには、この石に乗り移って泣き声をあげて、この赤子の元にわしを呼び寄せたのだと……」

能柾はその話を、小石の顔を見つめながら聞いていた。

「赤子の父親も母親も、結局見つからなかった。これも何かの縁と、わしが育てようかとも思ったが、寺に女の子では都合が悪い。そこで飴屋に頼んでみたところ、ずっと子供のおらんかった飴屋の爺さんと婆さんが、喜んで引き取ってくれた次第じゃ。なんといっても、観音様がお救いくださった赤子のだからと言うてな……」

「ちちうえ、いる」

唐突に、小石が口を開いたので、二人は驚いた。

……小石の指は真っ直ぐ、能柾を指差した。

「ちちうえ、よしまささま」

上人が驚き、能柾の顔を見た。しかし彼は、驚かなかった。

「この子の言うことは本当です。この子は、小石はきっと、私の子だ」

さすがの上人も言葉を失くし、二人を交互に眺めた。それにも構わず、能柾は小石に近寄り、ゆっくりとその頭を撫でた。

「今まですまなかった、小石。そなたの言うとおり、私はそなたの父だ。……寂しい思いをさせたが、これからはいつも一緒だ。私と一緒に、都で暮らそう」

小石はおとなしく撫でられていたが、その言葉を聞いた途端、頭に置かれた能柾の手を掴み、その指に強く噛み付いた。

「これっ!」

叱ろうとする上人を、能柾は止めた。その指から、たらりと血が零れでる。

「よいのです。知らなかったこととはいえ、ずっと放っておいたことを思えば、これ位は当然の仕打ちだ……」

そう言いながらも、能柾は彼の指に噛み付いた、小石の歯の鋭さに気を取られていた。まだ年端も行かない幼子なのに、その歯は信じられないほどに硬く、鋭い。

「……上人様、墨染めの衣はあるでしょうか……」

「何?」

「私は今日、出家することに決めました。久延寺に世話になりたいのです」

言葉を失くす上人を横に、能柾は娘に向き直った。

「すまなかった、小石。私が間違っていた。ここを離れるわけにはいかない。……お前の母を、一人で置いておくわけには、いかぬよな」

そう言うと、小石は初めて彼に向けて、ほんの僅かな笑顔を見せた。その笑みに、彼は、かつての月小夜の面影を見た気がして、胸が締め付けられるように痛んだ。

「能柾殿……。小石の、母親は……」

「……おそらくは、もう……」

上人の質問に、彼は言葉少なに答えた。……能柾は、月小夜がもういないことを知っている。だが、幾ら上人が相手とはいえ、真実を言うわけにはいかない。……幸い上人は、それ以上追及しようとはしなかった。

「ははうえ、いる」

その言葉に、能柾は息を呑んで小石を見た。彼の目の前で、小石は自分の小さな身体に手を当てて、たどたどしい口調で告げた。

「ははうえ、ここにいる」

それを後ろから見ていた上人が、感極まったような、涙声を漏らした。

「そうじゃな、小石。母上はそなたの中におる。今も、見守ってくれておるだろう……」

……小石が胸に手を当てているとでも思ったのか、老いた僧侶はそんなことを言った。

能柾はそれを聞いていなかった。正面から見ていた彼には、小石の一挙一動がはっきりと見えていたのである。幼い子供が手を当てたのは胸などではなく、その、少し下――。

――化鳥には、愛する者を喰らう習性があるのです。己を生んだ、親でさえも……

脳裏に、月小夜の言葉が浮かぶ。能柾は、目の前にいる小さな己の娘が、生まれた直後に何を喰っていたのか、それを理解した。

……それでも彼は、娘のしたことをおぞましいなどとは思わなかった。恐ろしいとは思わなかった。月小夜は、きっとそれすらも見越していたのだ。だったら、なぜ、自分がそれを否定できるだろう?

能柾は、小石を胸に抱き締めた。

「そうだな、小石。これからはこの父も、そなたとずっと一緒にいる。親子三人、仲良く一緒に暮らそうな」

この子の中に、月小夜は確かに生きている。娘をしっかりと抱き締めながら、能柾は本当にそう思った。               

第二章 小石姫

  序 

  

 人形のような、娘だった。

 少なくとも、彼はそう思った。

 人形のように、美しいという意味ではない。たしかに整った顔立ちの娘ではあったが、彼が人形のようだと感じたのは、そうした意味ではなかった。

まるで物言わぬ人形のように、感情の起伏の乏しい娘。そんな意味だった。

 それを彼は、誰にも言わなかった。口に出せば、相手に怪訝な顔をされることがわかりきっていたからだ。それどころか、非難されるかもしれない。事実、その娘を見てそうした印象を抱いていたのは、彼一人であったといっていい。彼の周りの者には利発で愛らしく、それでいてどことなく品のある、そんな娘に見えていた。

その笑顔を見れば誰もが表情を綻ばせ、気分が和らぎ、そしてその娘の幸福を願わずにはいられない。彼自身も、最初はそうした集団の内の一人だった。

 だが、彼は気付いた。集団の中で、彼一人が気付いた。たしかに娘は、豊かな表情を持っている。誰よりも美しい笑顔を浮かべる。だがその笑顔は、きれいすぎるのだ。あまりに、見事すぎるのだ。それは、例えるならば堂に安置された如来像が、群れなす衆生に向かって浮かべるが如き慈悲深き微笑なのだ。或いは華麗なる吉祥天の像が、美というものを知らない民衆に気前よく分け与える、有難い恩恵としての尊顔なのだ。……つまりは娘の美しい微笑とは、彫像の顔に刻み付けられた完璧な、慈悲深い、だが決して生きてはいない、固定された笑顔なのである。

注意深く観察すれば、その娘の浮かべるどんな表情も、……例えば拗ねた顔、怒りを浮かべた顔、そして泣き顔でさえ、その類の表情であることを彼は看破することができた。

異常に初めて気付いたとき、彼は慄然とした。その娘が、他人に対して、常に造りあげた笑顔で接していると知った時、愛らしいと思っていたその娘を、恐ろしいとさえ感じた。それは、周りの人間の動きに、心を一切動かしていないということではないか。心を開いていないということではないのか?

何に対しても、一切心を動かさない娘。誰に対しても固定された、予め用意しておいた、そんな笑顔を浮かべる娘。……それは死者と、どこが違う?

 

 

   1

 

 どこか遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、月廻(げっかい)はその顔をあげた。

 初夜の勤行には、まだ間がある。その時間を、月廻は写経に費やしていたのだった。

夏の初め。屋外では新緑の木々の派を、初夏の眩い陽光が射抜いている。そんな初夏の陽気もしかし、陽の差さない奥深い座敷に満ちる静謐な空気を緩めることはできなかった。墨染めの僧衣に身を包み、紫檀の経机の前に端座して写経に励んでいた彼の肌には、汗の一粒も浮かんでいない。

……静寂を割いて彼を呼ぶ声が、今度こそはっきりと耳に届いた。

「月廻様」

声と同時に、円心が顔を出した。すでに声変わりを済ませた、低い声。だがその声音は、どこかその変化に抵抗を感じているような、そんなぎごちなさを混じえている。あどけなさの残るその顔つきも、青年と呼ぶにはまだ躊躇いを感じさせた。

「小石姫様がいらしております」

月廻は苦笑を漏らした。

「円心。様をつけるのはやめてくれと、いつも申しているだろう。上人に聞かれたら、私まで叱られてしまう」

自分はもう、貴族ではないのだから。言外にそんな意味が含まれていることも、察しがよく、付き合いも長い円心にはすぐに伝わるはずだった。

仏道に帰依する決意を固め、俗界との縁を断った能柾が、剃髪して月廻(げっかい)という法名を授かってから、もう十年もの月日が流れていた。

僧衣を身に纏った月廻は希望通りに、月小夜の眠るこの小夜の中山の、その山上に構える久延寺に弟子入りを果たし、仏道修行に励んでいた。

寺にいる僧侶は月廻の他に、彼の師である上人と、この円心しかいない。

その円心に向かって、彼は付け加えて言った。

「小石のことを、姫と呼ぶのもよせ。小石は姫ではなく、飴屋の娘なのだぞ」

それも、彼がこの年若の沙弥に、日頃から注意していることだった。幼い頃から知っていて、娘とも歳が近い円心を月廻は息子のように思い、円心の方もまた、彼を父、或いは年の離れた兄のように慕っている。

基本的に根の素直な円心は、目上の者の言いつけは頑なに護るのだがが、この件に関しては妙に頑固なのだった。

月廻が久延寺に入った頃、円心はまだ出家しておらず、行儀見習いの稚児だった。元々は貴族であった月廻に様と付けて呼ぶのは、その頃からの習慣なのである。二年前に円心が頭を丸め、本格的に仏道修行を始めたのを機に改めさせようとしたのだが、癖になっているのかなかなか治らない。

今さら変えろというのも無理とは思うが、月廻はどうにも決まりが悪い思いがしていた。

「でも」

案の定、円心が不服の声を上げる。同年代の市井の少年より落ち着いて見える円心だが、そんな時には僅かに口を尖らせ、年相応に見える。

「里の皆だって小石様のことを、「姫」と呼んでいるではありませんか」

「……私は、それもやめてもらいたいと思っているのだ」

彼は溜息混じりに呟いた。悩みとしては、そちらの方が厄介だった。

円心の言ったことは事実である。彼の娘である小石は、市井の家で育てられているにも拘らず、いつのまにか里の者からは「姫」などと呼ばれ、そのように扱われるようになっていたのだ。それも、月廻にとって頭の痛い問題だった。

寺の外ではともかく、せめて俗世から離れた寺内では、自分達へのそのような扱いは控えて欲しい。月廻はそう願っている。現に、上人は月廻のことも小石のことも、血筋や元々の家柄のことで、特別扱いなどしない。

正式に出家した円心にもそうあって欲しいのだが、彼が幾ら言っても改めようとはしないのだった。小石が貴族の血を引いていると判明したのは、小石が五つの頃。まだ貴族であった能柾が、始めて娘の存在を知った時のことだ。それまでの小石はただのありふれた子供に過ぎなかった。その時円心は七歳で、すでに稚児として寺にいたのだから、そんな小石も知っている。それどころか、赤子の頃に一人で泣いていたところを上人に拾われたという経緯を持つ小石は、しばしば寺を訪れていたのだから、二人は云わば幼馴染と言ってもよい間柄なのだ。それなのに、そんな円心までも周りに感化されて、いつのまにか小石を姫扱いするようになってしまっていた。

この場でそんなことを言っても仕方がない。不満げな表情を浮かべる円心の顔を見ながら、月廻は一ヶ月ぶりに娘の顔を見るべく、その腰をあげた。

 

月廻の実の娘であり、月小夜の忘れ形見である小石は、久延寺では暮らしていない。実の父親である彼が現れる前と同じく、小石は飴屋の老夫婦に預けられていた。理屈上では、小石は飴屋の娘であり、そうして育てられてきた。

だが、都から遠く離れた鄙の里で生まれ、市井の飴屋に育てられた身でありながら、小石はそうした経緯にそぐわない美しい娘に育っていた。そしてそれは、外見のみに留まる話ではない。小石は都に生まれ、最高の教育を施された貴族の娘にも滅多にいないような物腰の柔らかさと、品の良さを生まれつき身に付けていた。

養家の者に大事に育てられた小石が人と接することは、それほど多くはない。それでも、その評判は次第に近隣に広まってしまった。そしていつしか、その身に貴族の血を引いていることまで人の口に上り、「姫」などと呼ばれるようになってしまったのである。

葛藤がありながらも彼が小石を飴屋に任せたのは、娘を本当にごく普通の飴屋の娘として、市井の人間として生きさせようとする意図もあったからだった。虚飾に満ちた貴族社会を知る彼としては、その方が娘にとって幸福だと考えたのだ。彼は小石に、ごく普通の里人になってほしいと考えていたのである。そんな月廻にとって、小石が姫などと呼ばれている現状は、やはり願わしいものではなかった。

 

「お久しゅうございます、月廻様」

来客用の部屋に顔を出した彼を出迎えた、小石の最初の一言はそれだった。畏まった態度で、深く頭を垂れる実の娘の姿に月廻は苦笑し、言った。

「他の者がいる時はともかく、今はそんな堅苦しくしなくともよい、小石」

「はい」

娘は顔を上げ、彼の顔を見上げた。

「お元気そうで何よりでございます、お父様」

「ああ。そなたも、達者そうで何よりだ」

彼の言葉を受け、小石が華やかな笑みを浮かべる。

それは、実の父としての贔屓目を差し引いても、魅力的な笑顔に思われた。持って生まれた気品に合わせ、所作にも一切欠けたところが見えない。上辺だけの丁寧さではなく、礼法がその身に深く染み付いていることが、一見してわかる。

彼には不思議だった。たしかに小石は自分の実の娘であり、ゆえに貴族の血を引いている。本来は姫と呼ばれて相応しい身分であるし、実際その気品はそうした扱いに恥じないどころか、そうされるべきものだと言えた。

……だが、小石は紛れもなくこの草深い里で生まれ、そして飴屋に育てられたのだ。飴屋の夫婦がわざわざ小石のために特別に乳母を用意したわけでもないし、父親である月廻が娘に教育を施したわけでもない。

そんな娘がなぜこのような、完璧ともいえる貴族の女の風格を身に付けたのか?不思議でならなかった。

「それにしても、久しぶりということもないだろう。この間、顔を合わせたばかりではないか」

小石の前に腰を下ろしながら、何の気なしに言った。それには答えはなかったものの、月廻は特に気にはしなかった。常に慎み深い表情を崩さない娘が、その時だけ細い眉を僅かに寄せたことにも気付かない。

彼の前に、小さな包みが置かれた。

「……家の者から、これを届けるように言われました。皆様でお召し上がり下さい」

包みを開くと、小さな甕が納まっている。蓋を開けずとも、その中身は知れた。

「水飴か。いつもすまぬな」

「いいえ、お寺の方々にはいつもお世話になっておりますから」

「何をいう、世話になっているのはこちらの方だ。自分のところで商っているものとはいえ、こうも度々寄進するのは楽ではあるまいに」

小石の養家である麓の飴屋は、街道を行く旅人に飴を売って生計を立てている。飴だけでなく、先年からは茶や団子も供するようになり、旅をする人間が増していることもあって結構な繁盛をしていた。

それには、月廻の関与もあった。娘を立派に育ててくれた老夫婦に対し、月廻は充分な謝礼をした。それを元手に彼等は店の構えを大きくし、人を雇い、商売を広げたのだ。今の飴屋の繁盛は彼らの努力の成果であるが、月廻のお蔭といえないこともなかった。

それもあってか、彼等は度々こうして、小石に瓶一杯の水飴を度々持たせてくる。若い円心は勿論、高僧でありながら甘味に目のない上人は大喜びだが、月廻としては申し訳ない気分だった。月廻としては、娘を引き取って育ててくれた彼等に多大な恩を感じていて、まだそれを充分に返せてはいないと思っているのである。

月廻の言葉を受けても慎み深い態度を崩さなかった小石が、弱り顔を浮かべる月廻の顔を見て、はじめて表情を崩した。不満そうな声を出す。

「それは、お父様のせいですよ」

「私のせい?」

「そうです」

唇を尖らせ、拗ねたような表情を浮かべる。そうすると途端にあどけない、子供めいた少女の顔になる。小石はまだ十四である。

父親の顔を恨めしげに見上げ、可憐な声に詰るような色を混ぜる。

「お爺さんとお婆さんが、わたくしがお父様にお会いできなくて寂しい思いをしているのを見かねて、お寺に行く用事を作ってくださっているのです。それというのもお父様が、なかなか小石に会いにきてくださらないためではありませんか」

娘からの思いもよらない糾弾に、彼は思わず言葉を呑み込んだ。言われてみると、たしかに思い当たることもある。前に小石の顔を見たのはおよそ一ヶ月前のことであり、それもちょうど今日の様に、小石が水飴を持ってやってきたのだ。思い返してみれば、月廻のほうから小石の養家を訪ねたのは三ヶ月も前のことだった。

月廻は、用事でもない限り小石の養家を訪れたりはしない。それは決して、彼が父親として薄情であるためではなかった。仏弟子となり、俗世の縁を断った身ということもある。それは建前としても、一度養家に預けた以上、みだりに娘に会うことはならないと考えていたのだ。実の親とはいえ、いやそうであるからこそ、自分が娘と顔をあわせていれば、徒に先方を煩わせることになると彼は考えていた。

だから普段は娘がすぐ近くにいるという事実に心を慰め、時々様子を見るだけで満足せねばならないと彼は心がけていた。だがそんな心遣いが、むしろ先方に余計な気苦労をかけていたと気付かされた。

「わかった。これからは、なるべくそなたの顔を見に行くとしよう」

「……まことですか?」

彼の言葉を聞いても小石は表情を和らげず、半信半疑といった顔付きで父親を見上げている。信用されていないな、と彼は苦笑を漏らさざるを得ない。 

「もちろんだ。……そうだ、詫び代わりに良いものをやろう。少し待っていなさい」 

小石はそれを聞いても小さく頷いただけで、拗ねた表情を崩そうとしない。彼はそれを見ながら立ち上がり、日頃自分が使っている部屋に引き返した。 

目当ての物を探しながら、娘が見せた顔を思い浮かべていた。 

(あれは、子供の拗ねた顔だ。あの表情も、声も、子供が拗ねた振りをして、親の注意を惹く時そのものだ) 

親に甘える、幼い子供の顔……。

 

目当ての物を抱えて月廻が客間に戻ると、小石がその目を輝かせた。

「これを、私に?」

上等の絹糸で織り上げられた、衣装一式。頷いて見せると、飛び上がって喜んだ。

布地のままではなく、都風に仕立てられていることが、小石を一層喜ばせた。小石が今身に着けているのは、月廻が養家に贈った絹地を、老婆が縫い上げたものだった。丁寧に仕立てられてはいるものの、重ねの色合いがどこか古めかしい。色も多少褪せていた。

華やかな衣装をその身に当てながら、小石が聞いた。

「お父様。小石は……お母様に似ておりますか?」

「ああ。そなたは、月小夜に生き写しだ。あと数年もすれば、母のようになる」

その答えに安堵したように、小石があどけない笑みを浮かべる。

それは、顔を合わせる度に決まってする質問だった。娘がその問いを口にする度に、彼は同じ答えを返す。すると小石は、いつも嬉しげな表情を浮かべる。

実際、娘は母親によく似ていた。顔の造りのそれぞれが、驚くほど月小夜に似通っている。……とはいえ、まだ母親の面影が窺える程度で、娘が本当に月小夜のような美しい女になるにはまだ、数年の時が必要だろうとも思っていた。頬の輪郭にまだ丸みが残っていて、それが母よりも幼げに見せるのだということもできるが、それだけではないようにも感じていた。月小夜と比べると、娘の顔には何かが、微妙に足りていない。そんな気がしていた。

里では既に小石の美しさが評判になっているが、彼にしてみればその美しさは花開く直前の繊細な蕾が、その時を待ちきれずに放ち始めた幽かな芳香のようなものだと思っていた。礼法を身につけているために大人びて見えるものの、娘は未だか弱い、頼りなげな少女の段階を抜けきっていない。小石は父親である彼の前では時折子供じみた態度も見せるので、余計にそう思えるのかもしれないが……。

あれこれと衣装を見定めていた小石が、弾んだ声をあげた。

「お父様、着てみてもいいでしょうか?」

言いながら、早速着ている服を脱ごうとする。やはり子供だと思いながら、月廻は慌てて娘を止めた。

「こんなところで着替えるでない。寺の内なのだぞ。家に戻って着ればよいだろう」

「でも、お父様……」

小石は不満そうな声を出した。

「こんな綺麗な衣装を着けても、あちらの家では見てもらう相手もおりません。かといって、これを着て出歩くわけにも行かないし……」

娘の言葉に、彼は胸を突かれる思いがした。小石の養家は飴屋である。貴族の館で着るような装束が合うわけもない。出歩くにしてもこれほどの衣装では、都の街路ならともかく、田舎では目立ちすぎる。

言葉を失う父親に、小石が笑顔を向けた。

「ですからこの衣装は、お父様が預かっておいて下さい」

「私が?」

「はい。この辺りで、一番立派な建物はこの久延寺でしょう?この着物は、このお寺で着るのが一番相応しいわ。ですから、これからはこの装束を着るために、時々こちらに寄らせていただきます。……ほら、これでわたくしにも、お寺を訪れる理由ができました」

さも名案のような顔付きで言う。月廻は思わず言った。

「しかし、それでよいのか?せっかくの着物を……」

「いいのです。私は、お父様にさえ見ていただければ……」

(……そんな筈はあるまい)

父親に気を遣う娘を、彼は不憫に思った。

「こんな素敵な贈物、初めてです。ありがとう、お父様!」

衣装を胸に抱き、弾んだ声で小石が言う。少し迷ったが、結局正直に次げた。

「礼を言うなら私ではなく、私の家の者に言ってくれ。わざわざ都から、お前にと送ってきてくれたのだから」

小石には黙っていたものの、少し前から、細々(こまごま)とした贈物が届いていた。無視していたところ、先日この衣装一式が届いたのだ。どう処置すべきかと迷っていたものを、今日思いついて渡した。

出家した月廻としては実家との縁を断ったつもりでいるが、向こうはそうは思っていないようだった。最初こそ何も言ってこなかったが、最近になって文を寄越すようになっていた。……彼の機嫌を伺いながらも、小石のことばかりに触れた文を。

「京の家のことなど、わたくしは存じません」

気にする素振りもなく、小石は言った。

「小石の家族は、お父様だけです。ですからこれは、お父様からわたくしへの、贈り物なのです」

愛おしそうに衣装を頬に当てながら、嬉しそうに笑う。彼は娘の言葉を嬉しく思ったが、その気掛かりは晴れなかった。

 

  2

 

月廻は頭の痛い問題を抱えていた。他ならぬ、娘の小石のことである。

唐突に官を辞し、遠方の地で出家してしまった彼に対し愛想を吐かしたのか、初めのうちは生家である一条家は何も言っては来なかった。それが、少し前から文が届くようになっていた。小石を迎えたいという思惑を、文面にちらつかせて。

一体どこから嗅ぎ付けたのか、彼等は小夜の中山で評判となっている美しい娘の噂を聞きつけ、それが他ならぬ月廻の娘であることまでも知っていた。そして、その評判の美しい娘を、利用しようと目論んでいる。

文では色々と理屈をつけて、娘を都に連れてくるように促してくる。だがその裏には美しい娘を手に入れて、実力者に取り入る道具にしたいという思惑が隠されている。月廻は彼の生家が、長らく政権の中枢から外れている事を知っていた。近々践祚(せんそ)の噂もある今の東宮、或いは次期の東宮の後宮に入ることが叶うなら、返り咲くことも不可能な話ではない。

小石へと送られてくる衣装や豪奢な道具も、彼らのそんな意図から来ていた。

月廻としては、そんな彼らの一方的な都合に従う義理はない。向こうがどう思っていようと、彼は既に家とは完全に縁を断ったと考えている。さらに言えば、立身出世などという俗なことや、家の栄誉などということには、宮中に身を置いていた頃から興味を持った覚えはない。今さら、そんなことのために最愛の娘を差し出す理由がない。

だが、家の者の理屈も、全く筋が通っていないと言うわけではなかった。それについては、彼も認めている。なぜなら、小石にはまぎれもなく月廻の血、すなわち一条の家に生まれ、三位中将にまでなった能柾の血が入っているのだ。仏門に入った月廻自身が俗世の縁から断絶されたことは確かだが、その血を引く娘の方はそうではない。小石自身は、まだ一条家と繋がっているといえるのだ。

彼らのもっとも強い言い分は、現在の小石の陥っている境遇が、彼女にとって不幸であるということだった。皇室の血も混じっている高貴な家柄の娘が市井の、しかも卑しい商家などに預けられていることは嘆かわしい、以ての外だというのである。娘を手元においておきたいのなら、せめて月廻のいる久延寺に庵でも建ててそこに住まわせ、しかるべき教育を施すべきであり、それなら貴族の裔としての格式も保たれるし、肉親の情としても自然であるはずだと主張する。

それについては、さすがに彼の耳も痛くなった。返す言葉がない。

実家だけではない。身近な処でも、そうした声は囁かれていた。実の娘である小石を、他の家に預けた月廻の振る舞いには、貴族の家の体面などには疎い里の者でも首を傾げたものだった。

しかし、そもそも月廻自身、そのような措置をするつもりはなかったのだ。

最初に小石の存在を知り、出家して久延寺に入る決意を固めた時、月廻は彼等の言うように娘を久延寺に引き取り、共に暮らすつもりでいた。預けていた飴屋から小石を引き取り、久延寺に住まわせる算段を整えていた。それを、師である上人に諌められたのだ。曰く、「血が繋がっておらず、僅か五年とはいえ、赤子であった小石を育て上げた養家の者と小石には、すでに親子の情が生まれている。それを引き離すのは、果たして仏の道に入ろうとする者として正しい所業であろうか。そもそも仏弟子たる者は俗世の縁を全て断ち切り、一心に仏の教えに励まねばならない。そのためには実の親兄弟といえども悟りに到るための障碍でしかない。仏門に入りながら実の娘と共に暮らしたいなどと、甘え以外の何物でもない」、と……。

老師の厳しい言葉は、月廻にとって意外なものだった。たしかに教義の上では正しいが、上人の戒めはあまりに厳格すぎる。世間には出家せずに仏道に励む入道と呼ばれる者もいるし、出家した僧の元に俗世にいる親族が会いにくることも実際にはよく行われている。

案外に俗っぽいところや、寛容なところのある上人の意外な言葉に月廻は戸惑い、辛くも思ったが、月小夜の菩提を弔うためにも、出家の志は変えがたい。それに出家すれば、どちらにせよ修行のために何年も会えず、却って寂しい思いをさせることになる。諸々の事情から、他ならぬ娘のためも思って、月廻は小石を引き取ることを断念した。飴屋の夫婦にはそれまで通り親として小石を育ててくれることを頼み、金子を与えた。

こうして、僅かな距離とはいえ月廻は娘と離れて暮らすこととなり、小石は身分の高い実の父親が見つかったにも拘らず、飴屋の娘であり続けたのだ。

最初は、上人の仕打ちを理不尽に思った。寂しさの募る時には、恨みさえも抱いた。……だが時が経ち、彼はふいにある可能性を思いついた。上人は、小石が化鳥の娘であるkとに、勘付いていたのではないのか?

勿論、月廻は上人にも、月小夜のことについて話したことはない。だが、上人は彼が化鳥について並々ならぬ関心を抱いていたことを知っているのだ。……それに、赤子の頃の小石を、化鳥の塚のすぐ近くで拾ったのも、上人なのである。千里眼のような高僧のこと、何もかも見抜いていたとしても不思議はない。

『化鳥には、愛する者を喰らう習性がある』という月小夜の言葉が、本当であることを証明したのも、他ならぬ上人である。あの年老いた高僧は、仏門に入ったばかりの自分の弟子が、娘によって食い殺されることを危惧したのだ。これまで離れていたのを幸いとして、小石に実の父に対する肉親の情が湧かないうちに、引き離した。そして、小石が善悪を学び、人間としての理性を身に付ける時を待ったのだ。

上人は正しかった。月廻は、そう思わざるをえない。そうしなければ、疑いなく、最悪の結果となっていたはずだった。……なぜなら、当時の彼は、そうなったとしても決して抵抗しようとしなかっただろうから。

最初の妻である万寿を失い、さらに愛する月小夜を自らの手で殺してしまった、かつての能柾。あの頃の自分は、耐え難い寂寥と罪悪感に常に苛まれ、死を求め続けていた。それでも死を選ぼうとしなかったのは、「何があっても死んではならない」という月小夜との誓いだけだった。

初めて小石の存在を知った時にも、死へと向かう思いが消えることはなかった。娘が、自分を喰らいたいと望んだならば、喜んでその身を捧げていたことだろう。……それに彼は、小石が母の身体を喰らったことを確信していた。だからこそ、それを望んだ。娘に喰われれば、自分は月小夜とまた一つになれる、と……。

おそらく上人はそんな能柾の、月廻の心根を見抜いていたのだ。

だからこそ上人は小石を彼から引き離した。数年の間、ひたすら修行に励む日々が続いた。

上人は正しかった。そう思い知ったのは、数年経って娘と再会した時である。娘は立派に成長していた。最初にあった時は舌足らずで、表情もどこか乏しく見えたのが、再会した時には笑顔の零れる、当たり前の少女になっていた。そして、自分の愚かさを思い知らされた。……自分が喰われるのは構わない。だがその時、この娘はどうなる?赤子の頃とは違うのだ。自分が実の父を喰らったと知ったら、どうなるのか。それは月小夜が苦悩し、死を選んで避けようとした道ではないか……。

そう気付いてから、月廻は変わった。彼は娘の成長を喜ぶ、一人の当たり前の父親となった。相変らず機会は少なかったものの、会う度に背丈が大きくなる娘に、月小夜の面影を見た。どんどん母親に似てゆく小石の姿が、彼の寂しさを埋めてくれた。

ひたすらに死を望んだかつての彼は、もうどこにもいない。最愛の娘の存在が、月廻の魂を死から生の方向へと転換させた。娘の幸せこそが彼の生きる理由であり、そして月小夜が彼に、死ぬのを禁じた理由であると悟った。仏の道を目指す僧としては失格でも、娘のために生きることが、月小夜への罪滅ぼしであると信じた。

そんな月廻にとって、都からの申し出など無視すべきものだった。華やかな都での暮らしも、風流を尊ぶ優美な宮廷での生活も、所詮は虚飾であると身にしみてわかっている。優雅に見えるのは外面だけで、内には醜い、熾烈を極める権力闘争があることを知っている。都から下る旅人の話では、宮中に渦巻く退廃の空気は愈々増し、筆舌に尽くしがたい程だと言う。娘をそんな魔窟に送り込むなど、冗談ではないと彼は思っている。

だが、拒絶の意志を明確にすることにも、躊躇いを覚えていた。申し出を拒絶された彼等が、どう動くか。それがわからない。まさか無理やり小石を連れ去るような真似はしないだろうが、彼等が月廻を通さず直接に小石に話を持っていくことは考えられる。

月廻は、何よりもそれを恐れていた。彼が幾ら申し出を断ろうと、小石本人がその気になってしまえば、止めることは困難になる。……娘には、宮中の暮らしに憧れるような浮ついた心はないと信じているが、内心では不安を感じてもいた。大人びてはいても、小石はまだ子供なのだ。言い包められる可能性は充分にあった。

それだけは、絶対に止めねばならない。彼は、固く決意していた。

どんな形であれ、小石に婿を取るわけにはいかないのだ。月廻が、それを忘れるはずもない。……愛するものを喰らわずにいられないという化鳥の習性

 今のところ、娘にはその徴候は見られない。まだ子供であり、色恋などには興味がないということもあるから油断はできないが、父親である彼を喰らおうとする様子はない。ひょっとしたら、人間の血が混じっている小石にはその習性は受け継がれていないのではないか。そんな希望を抱くこともある。

 ただ、決して楽観はしていない。月廻は、もしも娘に化鳥となる徴候が少しでも見られれば、その時にはすぐに尼寺に入れるつもりでいた。

 

 

ある日、月廻は上人からの用事を言い付かって、日坂の宿に下りた。かつて健脚を誇っていた上人も、七十を過ぎてからは山の上り下りが辛いと零すようになっている。年若の円心には任せない用事も多く、自然と月廻が出かけることが増えていた。

日坂の宿は、小夜の中山の西側に位置する宿場町である。都から東海道を下ってきた旅人達が、難所である小夜の中山越えの前に休息していく。旅商人が持ち込む荷、旅人を目当てに周辺から持ち込まれる産物が集まり、定期的に市が開かれる。東側の菊川の宿が里めいているのとは反対に、日坂は人で賑わっている。

用事を済ませた帰りに、月廻は娘の養家である飴屋に立ち寄ることにした。先日、小石に責められたことを思い出したのだ。

飴屋があるのは、日坂の宿から小夜の中山へと向かう、街道沿いである。東海道を行く旅人が必ずその前を通るので、峠超えに挑む旅人や、反対側から峠を越して息の切れた旅人がいつも溢れている。

一休みする旅人達で賑わう店先に近づくと、すぐに店の者の眼に留まり、月廻は奥へと通された。

座敷で待っていると、すぐに店の主人であり、小石の養親である老主人が現れた。

「これは、月廻様。ご無沙汰しております」

恐縮する老人に、月廻は日頃の礼を述べた。

「いや、こちらこそ娘が世話になっているというのに、無沙汰している」

彼が娘の養家を訪ねるのは久しぶりだった。今日のように用事を言いつかって日坂に下りた時も、大抵は店に立ち寄ることはしない。場合によっては、あえて別の道を通って寺まで帰ることもあった。それは彼なりの配慮のつもりだったが、それが間違っていると娘に指摘されたばかりである。

老人と話した月廻は、娘が不在であることを知った。

「今日は月廻様にお会いすると、久延寺にお出かけになられました」

思わぬ入れ違いの結果に、彼の口から息が漏れた。珍しく顔を出してみれば、と思わずにはいられない。

「小石様に、何か御用があったので?」

「いや」

月廻は苦笑を漏らした。

「先日、薄情だと責められてな。近くに用事があったのを幸い、あやつの顔を見に来たのだ」

「それは、何よりでございます」

老人が好々爺の笑みを浮かべる。

「小石様はいつも、月廻様がいらしてくださらないと寂しがっておられますから。月廻様が立ち寄られたと知れば、お喜びになりましょう」

引き取った娘を主人のように扱う老人に月廻は違和感を覚え、思わず言った。

「あやつを特別に扱うことはない。お前達は、小石の親なのだ。私に気を遣わず、家のことなり店の手伝いなりさせてよいのだぞ」

「そんな、滅相もない」

畏まった様子で、老人が首を振る。

「月廻様の姫君を、わしらのような卑しい夫婦の子などと。子供のいない私共夫婦にとって、小石様をお世話申し上げることは、この上ない喜びなのでございます」

 

(あれでは、まるで乳母の家だ)

寺へと帰る山道を昇りつつ、月廻は一人ごちた。

小石に対するあの老夫婦の態度は、主家の姫君にかしづく従者の態度に、寸分違わないものだった。親しげではあっても、決して肉親同士のものとは違う関係。赤子の頃に小石を引き取り、慣れ親しんでいた筈だというのに、今では身分差という乗り越え難い懸隔が、彼等の間には厳然と存在している。……或いは、先程は実の父親である月廻に対するが故に過分に畏まった態度となっていたのかもしれないが、それでも普段とたいした違いがあるとは思われなかった。

小石があの老夫婦の手伝いをしている様子がないことには、随分前から気付いていた。普通の里の子供なら、幼い頃から柴刈りや水汲みといった手伝いをやらされる。この近辺には小石の養家と同じような茶屋も数件あるが、そうした家の子供は店の手伝いをするのが当然だった。それが、あの家には見られない。家の者がさせようとしないのか、小石自身が嫌がった結果なのか。おそらくは両方だろうと、月廻は思っていた。 

いつからそのような関係になっていたのか。彼にはわからない。しかし、小石は赤子の時に上人に発見され、あの飴屋に預けられた。少なくとも、それから実の父親である彼が現れる五年ほどの間は、普通の親子の間柄であったはずなのだ。 

娘と共に暮らすことを望んだ月廻に、上人は彼等の間には既に親子の情愛が芽生えていると言って、彼を諭した。だからこそ、月廻は小石を引き取ることを断念したのだ。……だが、少なくとも今の彼らの間に、ごく自然な形の親子の情が存在していないことは確かだった。 

実の親が明らかになり、しかもそれが身分の高い人物だと知れたのだから、無理もないことだ。自分の出現が彼等の関係を変質させたのかと思うと、思いは複雑だった。

陽が暮れるには、まだ早い時刻。月廻の身体に、初夏の陽光が直接降り注ぐ。笠を被っていても、坂を昇る月廻の額には、いつしか玉の汗が浮かんでいる。

(……だが、却って良かったのかもしれない)

僧衣の裾で汗を拭いながら、彼は思い直した。彼ら老夫婦と小石の間に、肉親の情が育つことは、危険なことなのだ。小石が化鳥の本性を受け継いでいるとすれば、たとえ血が繋がっていないとしても、芽生えた愛情は彼らにとって命取りとなる。

(上人は、そこまで見越していたのか)

道が山の陰に入る。途端に、彼の周りの空気が冷える。全身に汗を掻いていた月廻は、思わず一息ついた。心地よい風が吹いて、登りで熱した彼の身体を冷ます。

ふいに、彼は嗅ぎ慣れない匂いを嗅いで、ぎくりとした。

風に生臭い異臭が混じっている。

辺りを見回した月廻は、山道の脇に広がる林の内に、その異臭の源を発見した。地面に積もる落葉に隠れるようにして、黒っぽいものが転がっている。

彼は思わず顔をしかめた。それは、死んだ鶏だった。胴体はなく、頭だけが生首のように転がっている。疑いなく、獣によって喰われた痕跡である。最近、この辺りには山犬が増えていた。

まだ死んで間もないように見えたが、鶏の首にはすでに蝿が集まりだしている。彼は無残な死を遂げた鶏のために簡単な墓を拵え、念仏を上げてやることにした。鶏の首は小さく、たいした手間はかからなかった。

それでも、その墓が出来上がる頃には、汗に濡れた身体はすっかり冷えていた。

 

「おお、月廻。戻ったか」

寺に帰りついた月廻に声を掛けてきたのは上人だった。

「ただいま戻りました」

「ご苦労。それにしても、随分と遅かったな。」

事情を話すと、上人は愉快げな笑い声をあげた。

「それはよいことをした。畜生とはいえ、亡骸を曝しておくのは忍びない。小石が随分と待ち草臥れておったが、そういう事情なら姫君とて文句は言うまい」

月廻は苦笑を漏らした。上人は人々と違って小石を特別扱いしないし、面と向かって姫などという呼称を用いたりはしないが、彼をからかう為に使うことがあった。

「それにしても、せっかく珍しく小石に会いに行ったというのに、当の本人がこっちに来ているとは。主ら親子は、すれ違う運命にあるかもしれんな」

「勘弁して下さい。小石はまだいるのでしょう?すれ違ってなどおりませんよ」

「だったらよいがな。なんにせよ、早く行ってやれ。円心一人では、姫君の相手に難儀しているようじゃったからな」

からかう上人の前から早々に退散し、月廻は足早に小石の元へと向かった。脳裏には、先に見た鶏の首の不吉な姿が浮かんでいる。山犬がうろついている以上、小石には日が暮れる前に山を下りさせる必要があった。

「入るぞ」

客間に入った月廻は、その場の光景に思わず息を呑んだ。

部屋の中には豪奢な衣装を身に纏った、美しい娘の姿があった。燃え立つような鮮やかな紅の小袿に、紅梅の匂いの五つ衣。着る者によっては下品になりかねない派手な色合いも、その娘の少女めいた若さにはよく映えた。衣に焚き染められた香の上品な匂いが、月廻の鼻を擽る。

少女が振り返り、華やかな顔に満面の笑みを浮かべる。

「お父様!」

それで漸く彼は、その少女が、他ならぬ自分の娘であることに気付いた。見慣れない都風の装束を着ているために、一瞬わからなかったのだ。

「どうなさったの、お父様?」

父親の驚いた顔を見て、小石が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「どうしたのだ、その衣装は?」

思わず聞くと、小石は「まあ」といって袖を口元に当てた。衣装はもちろん、その仕草も実に優美で堂に入っていて、とても見慣れた自分の娘とは思えない。

「これは、お父様がわたくしに下さった衣装ではありませんか。お忘れですか?」

そう聞いて、月廻はようやくその衣装が都から送られてきた、娘のための衣装であることを思い出した。衣装自体はすでに見ていたものの、それを小石が身に付けると、全く印象が違って見えた。月廻は、この衣装がこれほど娘の身に映えるとは思わなかったのである。

その時、月廻が来るまで小石の相手をしていたらしい円心が立ち上がり、彼と入れ替わるようにして外に出た。

「それでは、私はこれで……」

「あら、もう行ってしまわれるの?」

退室する円心に、小石が声を掛けた。

「そんな、逃げるように行ってしまわなくてもいいでしょうに」

「い、いえ。私は、務めがありますので」

口ごもるように言って、去っていく。

「……どうしたのだ、円心は?」

立ち去る円心を見送りながら、月廻は思わず呟いた。娘の言うとおり、まるで逃げるような態度が気になった。

「さあ、きっと気を遣ってくださったのでしょう。そんなことより、お父様。……この衣装、似合っていますか?」

僅かに、緊張したような声。月廻は改めて娘の姿を見やった。

彼が口に出すまでもなく、その衣装は娘にこの上なく似合っていた。……不思議なことに。家の者が小石の顔を知っている筈もないのに、まるで彼女のために特別に誂えたかと思えるほどだった。

「よく似合っている。……もう少ししたら、一人前の女人だな」

偽りのない気持ちだった。娘がこれほど華やかな衣装で着飾っている姿を見るのは初めてだったが、彼の目には今の姿こそ娘の本来の姿であるかのように映っていた。大げさに言えば、普段の姿は偽りで、今こそあるべき姿に戻ったような、そんな印象を受けていた。

だが彼の賛辞に、なぜか小石は不機嫌そうな顔を見せた。

「お父様は、いつもそれです」

いつかのように、唇を尖らせている。月廻には、娘が機嫌を損ねた理由がわからなかった。

彼はふと違和感を覚えた。そっぽを向く娘の顔を見て、その違和感の正体はすぐに解けた。

「……(べに)を差しているのか?」

言うと、その頬がわずかに染まった。

「はい。……似合いますか?」

「ああ……」

反射的に肯定していた。たしかに、紅は娘の顔に似合っている。小石の顔から未だ抜けきらない少女の印象が、紅を差すだけで一変して見えた。普段と違うのは紅だけで、肌を塗っているわけではなかったが、透き通るような小石の肌は、何もしていなくとも普段から白く見える。艶やかな紅はそんな白い肌に映え、娘を別人のように見せていた。

……似合っている。だから、頷いた。だがその時の彼の心証を正確に表現するなら、違和感の方が強かった。

客観的に評価を下すなら、よく似合っているというべきだった。それは彼も認めていた。だがそれでも月廻は、自分の中に巣食う違和感を拭いきることができなかった。月廻にとって、小石は未だ年端のゆかぬ子供に過ぎない。娘の唇に塗られた紅の色は、父親の眼に入ったその一瞬、毒々しくさえ見えたのである。

「……その紅は、どうしたのだ?誰かにもらったのか?」

それに答える時、小石は彼を窺うように見た。

「……円心様に、頂いたのです」

「円心に?」

予想外の名前に、思わず驚きの声を上げた。それほど、円心と紅という取り合わせが意外だった。

仏門にある僧と、女人の化粧道具。その取り合わせだけでも異質だが、その僧が円心ともなると、奇異の感すら抱かせた。月廻にとって、この寺に入った自分から時を同じくする若者は、もう一人の子供とでも言うべき存在である。あの真面目な若者が、一体どこで紅など手に入れたのか、全く想像が付かなかった。

考えこんでいた彼が、ふと視線を向けると、娘が挑むような眼で彼を見つめていた。それも、彼には不可解に思えた。

「……ちゃんと礼は言ったのか?」

気付くと、口から漏れていたのはそんな他愛のない言葉だった。途端に小石が、またむくれたような表情になる。

「わたくしはもう、そんな子供ではありません」

機嫌を損ねた娘を宥めるのに、彼は骨を折らねばならなかった。

そうこうしているうちに日暮れが近くなった。小石と共の女の二人だけでは危険に思えたので、月廻は円心に頼んで家まで遅らせることにした。その時も、小石は一言も彼に口を聞かなかった。そのせいで、彼はまた上人にからかわれる羽目となった。

 

  4

 

それからしばらく、彼は小石の顔を見なかった。小石が寺を訪れることもなく、月廻も山を降りる用事がなかったので、顔を合わせない日が続いた。珍しいことでもないので、特に気にすることもなく、月廻は日々の勤めを坦々と行っていた。

四月(うづき)の中頃のこと、葬儀を任されて、月廻は山を下りた。場所は、菊川の里である。

無事に葬儀を終えた帰り、彼は思い立って、里から少し離れた竹林に立ち寄った。かつて、月小夜の草庵があった、あの竹林である。

それは、彼にとって今でも思い出深い場所だった。

……月小夜と出会い、わずかな逢瀬を交わした地。かつて彼が能柾と呼ばれていた頃、足繁く通った処。その度に、彼は月小夜という素晴らしい女との、夢のような一時を過ごすことができたのだ。最も月の美しい夜に出会い、次の望月の宵に儚く散った、美しい女。……月の化身のような、女。

それは時間にして、僅か一月足らずの出来事だった。一瞬の、一夜の美しい夢のような、そんな、儚い邂逅だった。

それでも、それは彼にとって、生涯でもっとも激しく燃え上がった一瞬だった。その鮮烈な瞬間は、能柾の全身を焦がし、血の一滴までも燃やし尽くした。……その残り火は、今でも月廻の身内に燻り続けている。

彼がこの地に戻ってから、しかし草庵を訪れるのはこれが二度目だった。機会がなかったわけではなく、月小夜を忘れたためでもない。現に、月小夜の眠る塚には、彼は足繁く通っていた。それでも、草庵を訪れる気にはどうしてもなれなかった。

見れば、厭でも思い知ってしまうから。以前と変わらない竹林の中に佇む、変わり果てた草庵の姿は、厭でも彼に過去の幸福と、月小夜のいない現実を思い知らせた。

最初にこの地を再訪したとき、彼が目にしたのは荒れ果てた草庵の姿だった。彼は、我が目を疑った。その荒れ様は、尋常とは思えなかった。目新しかった垣は半ば朽ち果て、草庵は全体が傾いていたのだ。

戸を押し開け、殆ど何もない無人の庵に入った彼は、耐え難い寂寥感に襲われ、泣いた。

それ以来、彼は竹林に踏み入ろうともしなかった。

(……草庵が見る影もなく荒れ果てたのは、月小夜がいなくなったからだ)

里の者の話では、たしかにかつてこの場所に草庵を建てて住んだ僧があったという。だがそれは何十年も昔の話で、彼が庵を訪れた遥か昔に、とっくに打ち捨てられていたという。……してみれば、かつて彼が見た、侘しいながらも小奇麗な草庵の方が、偽りの姿であったのだ。それが、何か不可思議な力が働いて、彼の眼に新しく見えていたに過ぎない。……そしてそれは、月小夜がしていたに違いなかった。

今また、当時と同じ竹林に踏み入りながら、月廻は往時を回想していた。思い出すたびに、胸の中で儚げに震える、頼りない記憶。本当に存在したのか疑わし苦なるほどに幻想的な、美しい思い出……。

太陽は僅かに傾き始めているものの、未だ中天近くに輝いている。竹林の内は涼しい微風が吹いているが、葉末から時折漏れ来る陽光は間近に迫った夏を感じさせる強烈なもので、彼は一瞬立眩みを起こした。

……視界の先に、ついに懐かしい庵がその姿を現した。以前見たときと変わらない、朽ち果てた姿。それを見て、彼は軽い失望を抱いた。それで彼は、自分が未だに、月小夜を諦めきれていないことを知った。

だが、やはり荒れている庵の内に入ったとき、彼は自分の心持が以前とは変化していることに気が付いた。思い出の場所の変わり果てた姿を見ても、どこかで受け入れている自分がいる。

想いが薄れたわけではない。だが、月小夜がいないことを寂しく思いながらも、それを認める気持ちになっていた。

これも、上人の狙いだったのかもしれない。ふと、そんな気が彼にはした。娘から引き離したのは、自分に月小夜の不在を認めさせるためだったのではないか。そう思ったのである。

あの頃の彼は、娘の中にその母の面影を見出そうとしていた。……或いは、娘を、月小夜の身代わりと見なしていた。それでは、どれ程の時が過ぎようと、月小夜の死から逃れることはできなかっただろう。その死を、受け入れることはできなかったろう。過去への思いに囚われ続け、ひたすら死を望み、……そして、娘を不幸にしていたはずだ。今なら、それがわかる。

これでよかったのだ。懐かしい草庵の中で、彼はそう思った。

この場所はもう、過去のものになりつつある……。

 5 

 

「月廻様、どうして小石様に会いに行かれないのです?」 

突然、円心が堪えかねたように言った。その責めるような調子に月廻は驚いた。 

「何だ、突然?」 

「だって、もうずっと小石様に会われていないではありませんか」

「……そういえばそうだな」

言われて、初めてそのことを意識した。だが、それでも彼には、円心が何にそんなに腹を立てているのかわからない。

相手の反応の鈍さに焦れたように、円心が言う。

「会いに行こうとは思われないのですか?」

「出かける用事があればともかく、わざわざ行くこともないだろう。それに、もう全くの子供というわけではない。会いたくなれば、向こうからやってくるだろう」

月廻には、円心がそこまで気にする理由か理解できない。たしかにここ一ヶ月程、娘の顔を見ていないが、元々彼が小石の養家を訪れることは年に何回もなかった。必然的に小石の方から会いに来ることが多くなるが、それとて頻繁にというわけではない。一ヶ月程度顔を合わせないことなど、特に珍しいことでもなかった。

「小石様はこちらには来られませんよ」

怒ったように口にする円心の言葉に、月廻は初めて不安を抱いた。

「何故だ。病気でもしたのか?」

そんなことは聞いていない。さすがに、娘のことが心配になった。……いや、それとも。不吉な可能性を思いついて、月廻の体は凍りつく。まさか、都から家の者が、小石を迎えに来たのか?

慌てて立ち上がると、円心が首を振った。

「いいえ、そうではないのです。小石様は、月廻様に腹を立てていらっしゃるのですよ」

「私に腹を立てている?」

「この間寺から送って差し上げた時、小石様はひどく不機嫌でいらっしゃいました。……月廻様が、いつも自分を子供扱いするのだと」

そう言われて、月廻は小石が来た時のことを思い出した。たしかに、口も利かずに帰っていった小石の姿は記憶になる。だが、それが彼には取り立てて重要なこととは思えなかった。気にする程のことではない。

拍子抜けして、彼はまた腰を下ろした。

「なんだ、そんなことを心配していたのか?それしきのこと、あやつはもう忘れているに決まっている」

埒もないことを真剣に心配する円心に、思わず苦笑を漏らす。だが、円心はあくまで真剣だった。

「月廻様はわかっておられません」

円心は溜息混じりに言った。

「小石様は、月廻様が思う以上に、そのことを気にしておられるのです。小石様はいつも、月廻様が会いに来てくれないことと、いつまでも子供扱いすることを零しておられます。……あれでは、小石様があまりにお気の毒です」

いつになく手厳しい円心に、月廻は困惑を覚えた。

「しかし、現にあやつはまだ子供ではないか」

「そんなことはありません」

円心はムキになって言った。それも、月廻には珍しく見えた。

「小石様はもう、立派な女性であらせられます。この間の衣装を身につけた御立派なお姿を見ても明らかでしょう。実際、小石様はもう、裳着を終えていてもおかしくはない年頃ではありませんか」

裳着の式は、女性が成人した証として行われる。裳着を行う時期は厳密には定めら得ていないが、たしかに小石はそれ位の年齢に差し掛かっていた。円心の言うことはもっともだった。

ふいに月廻は、先日娘が(べに)を差していたことを思い出した。

「……そういえば、あの紅はそなたがくれたものだそうだな」

何の気なしに呟いたつもりだったが、円心はものの見事に狼狽した。

「も、申し訳ありません。その……」

赤面して、俯いてしまう。明らかに動揺している円心に、月廻は言った。

「いや、別に責めているわけではないのだが……。ただ、あのようなもの、どこで手に入れたのだ?」

「その……、山を降りた際に、行商の者に……」

言いづらそうに答える。旅の商人から買ったのは、己の僧形を気にかけてのことだろう。

「あまり、褒められたことではないな」

仏門にある僧侶が、女物の品を買えば、噂になるに決まっている。円心の行動は軽率と言えた。恥じ入る円心が気の毒になり、月廻は聞いた。

「しかし、そもそも何故小石に紅をやろうなどと思ったのだ?」

「それは、その……小石様が、お気の毒だと思ったからです」

「小石が気の毒?」

「だって、そうではありませんか。高貴な血筋を引いて、ご本人もあれほどにお美しくていらっしゃるのに、あのような粗末な家にその身を置いて。姫君と敬われておかしくない身の上なのに、ろくに着飾ることもなく……。だから、お気の毒と申し上げているのです。月廻様は、小石様をあまりに子供扱いし過ぎです」

月廻は苦笑した。いつのまにか、また立場が逆転してしまっている。この件に関しては、どうしても彼の分が悪いようだった。

「わかった、そうムキになるな。とにかく、小石が腹を立てているというのなら、そなたの言うとおり会いに行くとしよう」

彼が折れると、途端に円心は萎縮した。それを見て、彼はまた笑みを漏らす。

「それにしても、簡単に機嫌を直してくれるかな」

月廻には、娘がどの程度機嫌を損ねているのかわからない。不安に思っていると、円心が包みを差し出した。

「これは?」

「櫛です。これを、月廻様からということにして渡せば、少しは機嫌も治まるかと」

「しかし、よいのか?」

包みを開くと、繊細な蒔絵の櫛が現われた。円心がどうやって購ったかはわからないが、出家の身では楽なことではなかっただろう。

円心は黙して答えない。先程言われたことを気にしているのだと察して、彼は包みを懐に納めた。

「わかった。気を遣ってくれてすまぬな」

円心が黙礼して去る。それを見送り、月廻は山を下りる支度を始めた。

 

飴屋を訪れた月廻は、まずは家の者に娘の様子を聞いた。小石の養親である老夫婦の顔は、いずれもどこか生気を欠いているように見えた。

「閉じ籠もったきり、お出でにならないのですよ」

「食事はどうしているのだ?」

「それがどうも、手をつけられた様子がなく……」

彼の眼には、むしろ彼らの方が憔悴しているように見えた。声にも顔付きにも、心労の色が濃い。たとえ肉親としての情とは異なっても、ずっと玉のように大事に育て上げてきた娘の身が心配でたまらないのだと、月廻はその気持ちを察することができた。

奥というのは、飴屋の構えとは別に建てられた、小石の為の庵を示している。飴屋の構えは街道に面している、商いと住まいの両用を兼ねた建物だが、その住居部分を使用しているのは老夫婦と使用人のみであり、小石はそこには寄り付かない。さらに庵には、街道を往来する旅人の目を気にしてか、垣まで廻らされている。

どちらから言い出したことなのかは知らないが、その扱いが端的にこの人のよい老夫婦と、彼の娘との関係を示している。

「先日、お寺からお帰りになられた時から、ひどくお加減が悪く……」

老主人の言葉を聞いて、月廻は円心の推測が正しかったことを確認できた。その話を聞くまで、まだ円心の考えすぎだという可能性を捨てきっていなかったのだ。

しかし、その時月廻の胸に生じていたのは娘を案ずる気持ちでも、自身の態度への反省でもなく、娘に対する怒りだった。先日の自分の言動が娘の機嫌をいたく損ねたという非は認めてもよい。詫びる気持ちはある。だがそれはそれとして、周囲に過剰な心配を懸ける娘の態度は、どうにも腹に据えかねた。人のよい老夫婦の顔に揃って浮かんでいる、困惑の色を見ると、その怒りに拍車が掛かった。

娘の我侭は、自分が父親として到らなかったせいではないか。彼は己を顧みた。この老夫婦を見ても、小石を叱ることができないのは明らかだった。娘を躾けるのは自分の役目だというのに、滅多に会えない娘を大事に思うあまり、つい甘やかしてしまったのだ。そう思うと、自分が責められた。

姫などと持てはやされ、娘はいつのまにか我儘に育ってしまったのだ。大人びた振る舞いをしているが、子供扱いされたと拗ねるなど、それこそ子供そのものではないか?

垣のうちに足を踏み入れ、小石が籠っているという庵に入るまで、彼は娘を叱り付ける心積もりでいた。

「私だ。入るぞ」

声を掛け、庵に足を踏み入れた月廻は、娘の姿を見て思わず言葉を呑み込んだ。

さほど広くもない、薄暗い庵室の中で、娘は文机に突っ伏していた。小石はその姿勢のまま、唐突に訪れた父親を、彼の顔を見上げている。その目尻には、涙が浮かんでいた。赤く染まった目からも、濡れそぼった袖を見ても、小石が今の今まで泣いていたことが知れた。

思わぬ光景を見て、月廻はうろたえた。彼としては、娘はどうせふてくされている程度だろうと、高を括っていたのだ。叱り付けるつもりだったことも忘れ、月廻は円心に言われた通り、娘に詫びた。

「……わたくしはなにも、子供扱いされたことだけが、悲しいのではありません」

涙を浮かべながら、小石は恨み言を漏らした。

「こちらから出向かなければ、お父様が会いに来てくださらないことが悲しいのです。先日、私に会いに来てくださると仰ったばかりなのに。お父様は、わたくしなどどうでもいいのですね」

「そんなわけがない。色々と、寺の用事があったのだ」

月廻は、色々と言葉を尽くして慰めた。そうしながら、我儘などではなかったのだ、と考えていた。

(考えてみれば、小石は母親を知らぬのだ。もっと私が、気を遣ってやるべきだった)

娘が、その胸の内にこれほどの寂しさを抱えていたと思うと、それまでの自分の無神経な振る舞いが悔やまれてならなかった。

仕舞いに円心から託された櫛を渡すと、小石の機嫌はいくらか直った。

「これは、お父様が?」

「……いや、円心が用意してくれたものだ」

迷った末、月廻は正直に告げていた。

小石が頷く。

「そうだろうと思いました。……でも、赦して差し上げます」

その言葉に、月廻は漸く安堵した。同時に、物をもらって機嫌を直す娘が、やはり微笑ましくも感じられた。それを敏感に察したのか、不服そうに小石が言う。

「なにも、櫛を頂いたからお父様を赦そうと思ったのではありません。こうしてお父様が、小石を想って訪ねてきてくれたことが嬉しかったのです」

そう話す表情も、強がりを言う子供のようでおかしかった。

与えられた玩具に喜ぶ子供のように、小石は受け取った櫛を髪に当てている。鏡を見やりながら髪を梳り始めた娘の姿に、月廻は目を細めた。子供ながら、やはり女なのだと。

「どれ、私がやってやろう」

何故そんなことを言ったのか、彼自身にもわからない。気付けば、そう口にしていた。

「お父様に、そんなことをして頂くわけには……」

小石が戸惑いを見せる。それも、当然だった。女の髪を梳くなど、男のすることではない。父親が娘の髪を梳くことも、聞いたことがない。

月廻にもそれはわかっていたが、不思議とおかしいとは思わなかった。先日の詫びと、日頃親らしいことをしてやれないことを思い合わせて、そうしたいと思ったのだ。

「遠慮するな。そなたは母を知らぬ。今日ばかりは、私を母と思えばよい」

それも、自然に口から出た言葉だった。先日、久しぶりに月小夜の草庵を見たからかもしれない。娘の姿を見ずに死んだ、月小夜の代わりをしてやりたい。そう思ったのだ。

小石から櫛を受け取り、月廻は本当に母親になったつもりで、丁寧に小石の髪を梳いてやった。背を覆う娘の柔らかな黒髪を、少量ずつ櫛に当てた。梳る度に、絹のような光沢を帯びた髪が、櫛の歯をするするとくぐり抜け、さらりと音を立てて落ちる。その度に、小石の髪に染みついた、どこか甘い香りが立ち昇る。

小石の背中は最初こそ固く強ばっていたものの、次第に緊張が弛んでいった。彼が櫛を通すたびに、娘がくすぐったそうに笑うのがわかった。最初に娘と会って以来、これほど親子として近づいたことはないように月廻には思えた。

髪を梳き終わったとき、小石はすっかり上機嫌になっていた。返した櫛を受け取り、それを大事そうに両手で包んだ。

それを見て、月廻は円心のことを連想した。小石が気の毒だという、円心の漏らした言葉を思い返した。聞いた時は然程気に留めなかったが、小石に関する円心の指摘がこうまで的確であったことを思うと、その言葉もまた無視してはならないように思えた。

娘と二つ三つしか違わないあの若い僧の方が、父親である自分よりもよほど小石のことを理解している。今では、そう認めざるを得ない。……いや、父親であるからこそ、自分は娘を客観的に捉えられなくなっている。そうも考えた。

貴族の血を引きながら、都から遠く離れた地で生を受けた小石。身を満足に飾り立てることもできず、豪華な装束を手に入れても、それを着るべき場所もない。……それが、哀れではないと、思っていなかったわけではない。理解しているつもりだった。……だがそれは、本当にわかったつもりでしかなかったのかもしれない。彼は初めてそう考えた。

華やかな都も、誰もが憧れる高貴な宮中の生活も、それが所詮は虚しいものであると彼は知っている。そんなものが、一人の人間の幸福にとっては実は何ほどのものではないということを理解している。……だが、それは所詮、彼一人の考えなのだ。自分の価値観を、果たして娘に押し付けてよいものだろうか?

宮中の熾烈な権力争いに疲れた人間は、時に出家を望むようになる。それと同様に、宮廷暮らしを知らない人間がそれを望むのも当然なのだ。娘がそれを望んだとしても、責めることができるだろうか?……何より、自分は男なのだ。貴族の生まれではあっても、本質的には武士の気風を好む男だ。男と女では、自ずと考え方は異なる。自分の意見を、小石に押し付けるのは誤まっているのではないか?

親の目から見ても際立って見える娘を見るにつけ、その思いは募った。

せっかく生まれついての気品を持ち、母親譲りの美しい容貌を具えているというのに、着るものも満足に得られない。身を飾っても、それを見せるべき相手もない。……だが、小石はそれら全てを、その気になれば手に入れることができるのだ。都で、華やかに日々を送ることができるのだ。

唯一の懸念は、小石の中に流れる、化鳥の血。だが、それは未だに、その徴候すら見せてはいない。

(……大丈夫だ)

小石には、化鳥の本能は受け継がれてはいない。あどけなく笑う娘の姿を見て、月廻はそれを確信した。

……自分は、月小夜の眠るこの地を、離れることはできない。だが、小石は……。

彼はついに、その口を開いた。

「……小石、京の家に行く気はないか」

「……え?」

小石が目を見開く。

「そなたが望むならば、向こうの者は迎えてくれるだろう。この家の者には悪いが、その方がよい暮らしができるのは確かだ」

困惑を見せる娘に、月廻は根気よく説明した。出家した自分とは異なり、小石は家との縁が切れていないこと。向こうが小石を迎えたがっていること。小石が都での生活、そして貴族としての暮らしを望むなら、自分は反対しないこと……。

娘に語りながら、月廻は自分の中に捨てたはずの貴族の価値観が残っていることを以外に感じた。彼としても草深い里にはあまりに不似合いな小石の姿に、娘には都での生活の方が向いていると思わないでもなかったのだ。……かつては唾棄していた貴族的な価値観が、多少とも残存していたことに彼自身驚いていた。

小石は口を挿まず、黙って彼の話を聞いていた。

「どうだ、小石?それを望むならば、父は反対せぬが……」

「わたくしは、そのようなことを望んでおりません」

迷う様子もなく答える娘に、彼はなおも尋ねた。

「よいのか?都に行けば、そのような美しい着物もいくらでも着られるのだぞ」

「……お父様は、わたくしが邪魔なのですか?わたくしなどいなくなればよいと、そうお考えなのですか?」

目に涙を浮かべている。月廻は驚いて首を振った。

「そんなわけがない。私とて、そなたと一緒にいたいに決まっている。ただ、お前が望むのならば、寂しくても耐えねばならぬと……」

「よかった」

小石が、また笑顔を浮かべる。

「小石も、お父様の御傍にいとうございます。それだけが、わたくしの望みです。それが叶わぬならば、美しい衣装も、道具も、何もいりません」

小石の白い頬に、先の名残の涙が一滴零れ、細い筋を描いて流れた。

「わたくし達は、この世にたった二人きりの、家族ではありませんか……」

 

  6

 

梅雨に入った。この辺りの道は粘土質のため、只でさえきつい坂道が、雨が降るとさらに酷い悪路となる。視界が悪くなれば、道を踏み外す危険もある。そのため、月廻は小石に寺まで登ることを禁じ、代わりに自分から出向くことを約束した。十日に一度必ず顔を出すと約束すると、小石は満足して頷いた。

近隣に出没するという山犬も、まだ退治されていない。相変らず、食い荒らされて首だけになった鳥や獣の死骸が方々で発見されている。里人は不安に思っていたが、かといって深刻な怖れは抱いていなかった。本来、山犬が人を襲うことは滅多にないと、皆が知っていた。実際、まだ人間が襲われたという話は出ていない。

月廻は都に宛てて、小石を京に送るつもりはないという、正式な断りの手紙を書いた。先日の小石の返答を聞いて決断したのだ。

(小石なら、大丈夫な筈だ)

万が一、家の者から直接に誘いを掛けられても、小石はそれを断ることができる。今では、彼はそう信じることができた。

娘には、正しい物の見方が備わっている。先日の一件で、月廻はそう感じた。刺激こそあれ虚飾でしかない都での暮らしより、小石は退屈でも実のある、里での生活を望んでいる。月廻にはそれが何よりも嬉しかった。子供のような我侭を言うこともあるが、娘は少なくとも、正しく成長している……。

それを思うに付け、月廻の確信は次第に強まっていった。もう成人と言ってもおかしくない年頃を迎えているのに、小石には化鳥となる様子が全く見られない。小石は、化鳥にはならないのだ。そう信じられるようになった。

化鳥になるという恐れがなければ、小石を尼にする必要もなくなる。若くして、寂しい尼寺に追いやる必要もなく、この地でいい婿を見つけてやることもできる。小石の生まれや評判の高さを思えば、それは充分に可能な話だった。

月廻は初めて、未来に明るい展望を抱いていた。

 

以前に葬儀を任された家が四十九日の法要を行うため、月廻はまた菊川の里に下りた。まだ梅雨は明けてはいないが、続いていた長雨は昨日から止んでいる。朝からよく晴れていて、幸い道は乾きかけていた。

勤めを終えた彼は、また月小夜の草庵を訪れることにした。この長雨で、どうなっているのか心配していたのだ。

長雨が続いていたところに急に陽が射したため、外気は酷く蒸し暑い。それが、竹林に入った瞬間、空気が替わった。陽の光の差し込まない竹林の空気はひやりと冷たく、全体的に湿っぽくはあっても、不快さは感じない。

濡れて滑りやすくなった竹の葉に足を取られないよう、月廻は慎重に歩いた。……初めてここを訪れた時、足が滑って危うく転倒しそうになったことを、懐かしく思い起こしながら。

ふと、異臭を嗅ぎつけて、彼は辺りを見回した。そして、それを見つけた。彼から見て右手の側、地面に積もるうす白い竹の葉の上に、異質な茶色っぽい物体が転がっている。

彼は近づき、思わず呻いた。

……それは、犬の頭だった。首から下がなく、眼を大きく見開いたまま絶命している。口が僅かに開かれ、彼の目にはそれが、怯えているように見えた。

例の山犬にやられたのだ。そう考えた。

彼はその首を埋めてやった。犬の首を埋める穴を掘るのはさすがに手間取ったが、苦には思わなかった。恐怖を抱いたまま凝固したような表情に哀れを感じて、特に懇ろに弔ってやった。

経文を上げて、再び歩き出したとき、彼の胸には強い不快感があった。それは、犬の無残な遺体に対するものではなく、それを行った山犬に対する、不快の念だった。彼にとっては、他の何処よりも神聖な地であるこの場所が、汚されたような気がした。

まだ、辺りには山犬が徘徊しているかもしれない。そうも思ったが、彼は恐怖を感じなかった。立ち去ろうなどとは、考えつきもしなかった。あの月小夜の草庵が、山犬共が根城にしているかもしれないと、そう考えただけでも堪らなくなった。それは、彼の愛する月小夜に対する、耐え難い冒涜に思われた。

山犬がいるなら、追い払ってやる。そう思い、草庵を目指した。

……しばらくすると、竹林を急ぐ彼の眼に、懐かしい草庵の姿が見えてきた。

さらに近づいて、……月廻は、目を疑った。

……建て直されている?

あれほど荒れ果てていた草庵が、新しく建て直されている。

いや。……違う。

近づいて、己の誤りを悟った。

彼が最初に考えたのは、この場所にあった草庵を何者かが取り壊し、外観が全く同じ、新たな草庵を建てたのだということだった。……だが、よく見れば、建て直されたわけではないことがわかる。使われている材が、入れ替えられているわけではない。

材が一切換えられないまま新しくなっている。……まるで過去に戻ったかのように

……ありえない。ありえないことが、起きている。

混乱しながらも、月廻はある予感に打たれていた。それは彼にとって、最も喜ばしい予感だった。何度も、何度も夢想しながら、その度に虚しく打ち消してきた、そんな予感だった。ある、奇跡の予感。

(月小夜が……。月小夜が、帰ってきた?)

ありえない。それは充分にわかっていた。だが、他に説明の付けようもなかった。かつて、荒れ果てた草庵を全く別のものに見せていたのは、たしかに月小夜の力だったはずなのだ。それと同じことが、今、目の前に起きている。

……人智を超えた出来事が、起こっている。それなら。

月小夜が甦ってきて、何がおかしい?

そう考えた途端、彼は弾かれたように駆け出していた。僧衣の袖を翻し、夢中で垣を乗り越え、懐かしい庵へと駆け寄った。叶う見込みのない望みと知りながら、祈るようにそれに縋りつき、かつて出入りした簾子縁を乗り越えて、月廻は懐かしい庵へと踏み入った。

……そこには誰もいなかった。狭い庵の内を、どれだけ見回しても、何者の姿も見出せなかった。……彼は落胆した。所詮叶わぬと知っていながら、空しい期待に胸を踊らせた、その身体から力が失せた。……そして、暫く動くことができなかった。

……どれほどの時が過ぎたのか。虚脱から回復した彼は、草庵の内を、また力なく見渡した。……そして、おかしなことに気が付いた。昔と寸分変わらぬ、草庵の姿。その内側も荒れ果てていたはずなのに、それが嘘だったかのように、昔のままの姿になっている。……月小夜がいた頃の姿に。 

それに気付いた彼の胸に、再び僅かな、希望の火が灯った。今見ていることは、夢でも幻でもない。それを確かめて、彼の身体にはまた力が湧いた。 

超常的なことは、たしかに起こっている。何か、普通ではない事態が、たしかにここに生じている。月廻は、それに縋った。一度諦めた可能性に、再び縋りついた。 

月小夜は、たしかに戻ってきたのだ。この草庵に、戻ってきているのだ。ただ、今は、ここを空けているだけで……。 

……月廻はそう信じた。 

月小夜の姿を求めて、彼は草庵を出た。人里に出ているとは思えない。近くにいるはずだと思い、竹林の奥へとさらに足を踏み入れた。思いが交錯し、気ばかりが焦り、足が縺れた。無数の深い茂みが、彼の行く手を遮った。目の前が開けたと思うと、すぐにまた別の茂みが道を塞ぐ。夢の中のように、場面が次々と入れ替わる。もどかしいほど足は絡まる。彼の脳裏に、過去に出会った、様々な場面が駆け巡る。まるで悪夢に迷い込んだように、遅々として足取りは進まない……。 

……どれだけの茂みを抜けたのか。月廻の視界が、突如開けた。……思わず目を覆った。いつしか薄闇に慣れていた目の先に、眩い陽光に照らされた、昼の世界が広がっていた。 

竹林は彼のいる地点で途切れ、草の生い茂った野の少し先に、小さな沢が流れていた。水は清浄で、日の光を反射してきらきらと煌めいている。

唐突に出現した明るい世界に、彼は戸惑いを覚えていた。

……夢を見ていたのか。思わずそう考えてしまうほど、目の前の光景には現実感が溢れている。

夜の夢想が、白昼の眩い陽光の前に、容易く蹴散らされるように。月廻は自分の儚い願いが虚しく潰える様を、目の当たりにしたような気がした。

……所詮、奇跡など起こらないのだ。

そう思い、顔をあげた月廻は、そこに信じがたいものを見た。

……月小夜が、そこにいた。

忘れもしない、愛しい女の姿。彼はそれを、沢の中に見出した。月小夜は、彼の最愛の女は、彼の記憶と寸分違わぬ姿で、水を纏っている。月小夜は、眩い陽光の下にその裸身を惜しげもなく晒し、沢で水浴びをしていたのだった。

……それを目にしても、彼はすぐには自分の目を、信じられなかった。二度と戻らぬと思っていたものが、確かに眼前に存在していることを、どうしても信じることができなかったのだ。望んでも無駄だと諦めようとして、それでも諦めきれなかったものが、今彼の目の前にある。

……彼の脳は灼熱していた。灼熱し、同時に一切の活動を放棄していた。動けなかった。彼が少しでも動いた拍子に、眼前に生じたこの奇跡は、忽ち消えてしまうように思われた。恰も甘美な時間が、無粋な騒音にあっけなく消えてしまうように。儚い空想が、たった一言の現実的な言葉で、簡単に砕け散ってしまうように。……彼の胸に、歓喜は未だ湧いては来なかった。簡単に歓喜を覚えるには、抱いた期待があえなく裏切られることに、彼はあまりに慣れすぎていた。……今日だけではない。この十年間、月廻はずっとそれを繰り返してきたのだ。

……それでも、いくら彼が見つめていても、目の前の光景は消えなかった。月小夜の姿は、確かな現実感を持って、彼の視線の先にあり続けた。

彼はやっと放心から回復した。そして、それが現実であることを、おそるおそる認めた。……漸くじわじわと歓喜が湧き始めた時、ふと違和感に襲われた。

最初は、それが何に由来するのかわからなかった。眼前の光景は未だ消えず、女も月小夜にしか見えない。陽射しを浴びて、白く輝く肌を見守る内に、唐突に気がついた。

(……俺は、昼の月小夜を、見たことがない)

月廻が、かつての能柾が月小夜を見たのは、いつも夜だった。彼があの草庵を訪ねるのは、例外なく日が沈み、闇の帳が降りた頃。……月小夜は常に、夜の闇に半ば溶け込むようにして、彼の前に現われた。その儚げな身を照らすのは、いつも月の光だった。

今、月廻の前にいる女。水浴びをするその女は照り付ける白い陽光の下に、確かな存在感を伴い、現前していた。その純白の肌は強烈な光線に曝されながら、それを力強く反射している。そして、眩しく輝いていた。それは彼の眼には、生の力に溢れて見えた。……あの月小夜には、不似合いなほどに。

一度違和を感じてからは、目の前の女と月小夜との相違はたやすく見出せた。月小夜の髪は腰まで届くほど長かったが、女の髪は肩を過ぎた辺りまでしかない。その身体は明らかに月小夜より小さく、全体的に細く見える。月小夜の身体も折れそうなほど細く頼りなく思えたが、その女の身体は輪をかけてほっそりとしていて、未だ大人になりきらない少女のように、華奢に見えた。……いや、まさに少女そのものだった。

月廻の全身から、力が抜けた。

それは、小石だった。月小夜の、そして他ならぬ彼自身の娘が、沢で水浴びをしていたのだ。それを理解して、彼はその場に崩折れた。

今度こそ完全に、自分の望みが絶たれたことを知った。その期待が、望みが大きすぎただけに、落胆もまた大きかった。魂を捥ぎ取られたような虚脱感が、彼を襲った。

(……もう、乗り越えたと思っていたのに)

彼は空しく自嘲した。

長い時が過ぎ、一心に月小夜の菩提を弔い、そして娘に生き甲斐を見出すことで、その死を乗り越えたと思っていた。……それなのに、月小夜の面影を眼前にちらつかされ、一瞬でも再び手に入ると信じたことで、そんな境地はいとも簡単に覆されてしまった。

突然生じた希望に翻弄され、そして奈落に突き落とされた。生々しい傷口が開き、忘れかけていた悲痛な思いが、今新たに彼を襲った。

呻くこともできない。

(……俺は懐かしい、甘い夢を見たのだ。それでよいではないか)

そう考えて、自分を慰めた。

やがて、彼は力なく、その場を去ろうとした。そこで、ようやく疑問を覚える。

(……何故、小石がこんな所にいるのだ?)

妙な話だった。

小石の養家とこの竹林では、距離が離れすぎている。そして、ここは偶然に訪れるような場所でもない。あの竹林には里の者も寄り付かないし、彼にしたところでこんなに奥に入り込んだのは初めてのことなのだ。

彼が月小夜の思い出を求めてここを訪れたように、小石も母親を求めて訪ねてきた、ということも考えられない。ここに月小夜の草庵があったことを、娘に話した覚えはなかった。

……疑問に思いながら、彼はなぜか、小石と始めて会った時のことを思い出していた。あの時、小石は彼が、自分の父親であることを知っていた。誰にも教わったわけがないはずのことを、知っていた。……他にも、幼い娘が知っている筈のないこと、生まれる前のことまでも、当然のように口にしていた。

当時はそんなことを気にする余裕がなく、いつのまにかそんな不思議な振舞いもなくなったので、すっかり忘れていたのだが……。

……その時、彼の眼に、脱ぎ散らされた小石の着物が飛び込んできた。都から届いた衣装ではなく、日頃から小石が身につけている衣服。その、袖の部分が、わずかに赤く染まっている。

血だ。

……そう気付いた瞬間、彼の全身に衝撃が走った。

小石はまだ水浴びを楽しんでいる。しかしその身体のどこにも、傷を負っている様子はない。その楽しげな表情にも、苦痛の色は微塵も浮かんでいない。……彼は、娘の袖に付いているそれが、返り血であることを知った。

身体が、震えた。

……月廻の脳裏には、先ほど弔ったばかりの、犬の生首が甦っている。……その、極限まで見開かれた目。……恐怖を湛えた眼。

……食い尽くされた、鳥や獣の無残な死体。一向に姿を見せない山犬。……突如としてかつての姿を取り戻した月小夜の草庵と、その近くで見つかった、まだ新しい犬の生首。……傷一つない娘の身体……袖に付いた、血の跡。

……結論は、一つしかなかった。月廻は愕然とした。

全ては小石の仕業だった小石の中の化鳥の血はとっくの昔に目覚めていたのだ

 

……月廻は寺に戻った。すでに夕刻になっていた。思い悩み、苦しみながらいくら考えても、よい考えなど少しも浮かばなかった。

直面した現実に、彼は打ちのめされていた。常に危惧していた、最悪の可能性。だが彼は、それが現実にならないことを夢想し、最近ではそれを半ば確信していた。朝夕神仏に祈りを捧げていた。……その希望があっけなく打ち崩された現実を、最悪の現実を、しかし認めるしかなかった。

(このままにしておくわけにはいかない)

幸い、動物が食い殺されたという噂はあっても、人間が殺されたという話はまだ聞かない。娘は、まだ人を殺してはいないのだ。……だが放っておけば、小石がそれを犯す日が遠からず来ることは、もう明らかだった。

……小石が男を愛すれば、それはこれ以上ない悲劇に終わるのだ。未だ少女の域を出ない現在はともかく、早晩娘は大人となり、そして恋人となった男を喰らうことになるだろう。

(……尼にするしかない)

尼寺に送って、生涯閉じ籠めるしかない。

それが娘の人生にとって、辛い選択であったとしても。悲劇を未然に防ぐためには、それしかないのだ。月廻は娘のために、心を鬼にすることに決めた。

小石は納得しないかもしれない。娘は、自分の母親が化鳥であったことも、月廻がその化鳥を討ったことも知らないのだ。……だが、小石がどうしても納得しなければ、その秘密を、化鳥の因縁を明かしてでも、言うことを聞かせるつもりだった。

月廻は上人を探した。上人に相談して、すぐにも彼の考えを実行に移すつもりだった。

上人には自分と化鳥との因縁、そして小石の正体について明確に話したことはないし、向こうからもそれを匂わすことを言ってきたことはない。……だが、上人は勘付いているはずだ。相談すれば、すぐにも賛成してくれるものと思っていた。

上人の部屋は、寺の奥まった場所にある。そこを訪れた月廻は、しかしそこに先客の姿を見出した。上人の前には、円心の姿がある。

明日から円心は、遠方の寺への使いのために幾日か寺を空けることになっている。その件について話していたのだと察しがついた。

「どうした、月廻?」

上人が振り返る。月廻は迷った。事態は急を要するが、円心の前で化鳥の話をするわけにはいかない。彼は焦っていた。

逡巡した彼は、用件だけを告げることにした。それで、伝わるものと思っていた。

「……小石を、尼寺に預けようと思うのです」

口調に苦渋の思いを交え、眼差しに言外の意味を込めた。

上人が片眉をあげる。口を開こうとする。だが、上人に先んじて、反応を示したのは円心だった。

「何ですって!」

叫んで立ち上がり、彼に食って掛かった。

「何故ですか、月廻様!どうして、小石様を尼寺になどやらなければならないのです!」

思わぬ反応に月廻は面食らった。円心が口を出してくるとは思わなかったのだ。

上人ならともかく、円心に真実を話すわけにはいかず、戸惑った。

「……前から考えていたのだ。そなたも言っていたではないか、あの娘を市井の飴屋などに預けておくのは気の毒だと。しかし、今さら都に行ったところで、貴族の真似事などできるはずもない。……それなら、尼寺に預けて仏の慈悲に縋って生きる方が、よほど貴い生き方ができる。小石にとっては、それが一番幸せなはずだ」

「そんなわけがないでしょう!」

もっともらしい口実をでっちあげた月廻に、円心は激しい言葉を返した。

「あんな若い女人が尼寺に入れられるなど、以ての外です!あのように華やかな、美しい小石様が墨染めの衣を着せられ、世間と離れた寂しい暮らしをすることが、幸せである筈がない!」

激昂する円心。月廻は驚いた。子供の頃から知っているこのおとなしい性質の若者が、声を荒らげて怒りを露わにしている様に、戸惑いを覚えた。

「……だがそなたとて、もっと若い歳で出家したではないか」

「男と女では事情が違います。男なら頭を丸めても、ひたすら仏の道に専心し大阿闍梨になるなどということもできますが、女は髪を下ろしても、ただ故人を偲び、来世を願っているだけではないですか」

円心は近傍の豪族の息子だった。稚児として久延寺に入れられ、そのまま剃髪して出家した。稚児になったのは学問や礼儀を学ぶ為だという名目があったが、最初から厄介払いであることは明白だった。兄弟が多く、家督争いを避けるためだ。

円心は、もちろんそうした自身の事情を、全て知っている。望まずして寺に入れられ、それでも修行に自分なりの生き甲斐を見出しているのだ。

そうした事情を知っているだけに、月廻は迂闊なことを口にするわけにもいかず、進退窮まった。適当な口実を設けることもできなければ、真実を話すわけにもいかない。

「まあ、落ち着け円心。どちらにしろ、そんなにすぐに答えの出る話ではなかろう。月廻も色々思案してのことじゃろうが、もう少し考えてみよ」

仲裁に入った上人の言葉を聞いて、彼は耳を疑った。事態は一刻を争うのだ。迷っている間に、小石が人間を襲ってしまったら、それこそ取り返しがつかない。

上人が事情を察しているだろうと考えていた月廻は、これ以上ない程動揺した。

(……上人は、何もご存じなかったのか?)

上人の本心がわからず、月廻には迷いが生まれた。彼の中の上人への信頼が、俄かに揺らいだ。薄々事情を察してくれていると考えたればこそ、彼は上人に何もかも話そうと思ったのだ。小石が化鳥であると察しながら、その存在を受け入れてくれていると思っていたからだ。

……上人が何も知らないならば、あの恐ろしい化鳥退治の真相も、小石の正体についても、話すことは危険かもしれない……。

「この話は円心が帰ってからとする。円心も月廻も、それでよいな?」

円心は不承不承頷いた。月廻も、戸惑いながら頷いた。焦ってはいたものの、どちらにせよ円心のいるこの場で話すことはできない。肝心の上人に話すことにも、迷いが生まれている。

まだ腹を立てているのか、それから円心は月廻に話しかけてこなかった。月廻もまた、強いて話そうとは思わなかった。

翌朝早く、円心は使いのため、遠方の寺へと旅立った。その時も、彼らは互いに口を利かないままだった。

 

しかし、それが月廻の見た、円心の最後の姿だった。

 

  7

 

……月の光を思わせる、淡い黄の羅。

艶やかな漆黒の髪が、その背を優しく覆っている。

夢のように白い肌。壊れそうなほど華奢な、たおやかな肢体。

儚げな美貌。口元に浮かぶ、寂しげな微笑……。

……その瞳に、生じた焔……。

 

目を覚ますと、頬に濡れた感触があった。それで彼は、自分が泣いていることを知った。

……月小夜の夢を見たのは、久しぶりだった。

以前は、よく見ていた。殆ど、毎晩といってもよかった。失くした面影を夢に見ては、涙を流した。自分が矢を放つ場面を繰り返し見て、魘され、飛び起きたことも数知れずあった。……だがそうしたことも、次第に少なくなっていった。

特に、小石の存在を知ってからは。

久しぶりに見た月小夜の夢。それは今の彼にとって、何物にも換え難い貴重なものだった。辛い現実を忘れさせ、彼を酔わせる甘い夢。

……心なしか、目が覚めた今もなお、甘い匂いが残っているように思える。……月小夜の吐息に微かに含まれる、あの懐かしい、甘い香り……。

(……娘を心配して、夢に出てきたのかもしれない)

根拠はない。が、彼にはそう思えた。

立ち上がる際、月廻は少しふらついた。少し、身体が重く感じる。

(寝不足か)

昨夜は、小石のことで悩みすぎて寝付かれなかった。そのせいだと思った。

だが、その日から彼の体調は悪化するばかりだった。身体の芯に鈍い痛みがあり、歩くたびにふらついてしまう。二、三日が過ぎる頃には立ち上がることも困難になり、月廻は床に居付くようになってしまった。

小石も、何度か見舞いにやってきた。その度に彼は、得体のしれない思いを味わった。娘の様子は、普段と変わりない。彼を慕い、その病状の心配をする。だが、一度娘に疑いを持った月廻は、その態度に不自然なものを感じとっていた。はっきりとはわからない。だが、何かを隠しているような……。それは或いは、疑心暗鬼になっている自分の、気の迷いかもしれないが……。

……小石に直接質すことは、どうしてもできなかった。自分の身体を心配してくれる娘に、そんな恐ろしい質問をすることは……。

……月小夜の夢を毎晩見た。その度に月小夜は、ひどく悲しげな顔で彼を見つめている。一度などは、熱を出して意識が朦朧としている彼の、枕元に座っていたこともあった。何かを訴えるような、寂しげな表情で……。

(……俺を責めているのだ。娘のことで……)

不甲斐ない自分を。二人の最愛の娘を、不幸にしつつある自分を。

夢現のまま、月小夜に詫びる。そんなことを、彼は夜毎繰り返した。

 

予定の日が過ぎても、円心が戻ってこない。

珍しく羽が伸ばせて嬉しいのだろう、と最初の内は上人も暢気に笑っていたが、十日ばかりが過ぎると、さすがに顔色が曇った。円心が向かった寺に、人を遣ることになった。

普段なら月廻がその役目を与えられるところだが、彼は病床で動けない。それで、寺で下働きをしている老人を向かわせた。

その年寄りが戻ってきた。彼が聞いてきたところによれば、円心はその寺には来ていないという。それが噂となって、辺りに広まった。

高名な上人が住職を務める久延寺は、この近辺では名が知れている。その弟子である円心のことも、多くの者がその顔を見知っていた。円心がいなくなったことは人々の耳目を集め、その行方を巡って様々な噂が立った。

噂の内でもっとも説得力があるものは、円心が旅の途中で客死したというものだった。旅人が盗賊に襲われることなど珍しくもない。その結果、命を奪われることも頻繁にある。僧が狙われることは比較的少ないが、それでも全くないというわけではない……。

口さがない者は、円心が修行に嫌気が差して、逃げ出したのだと言った。一番酷いのは、外に女がいて、隠していたその女と共に逃げたというものだった。

こんな噂もあった。

「あの小坊主は、山犬に喰われたのだ」

少し前から続いていた山犬の噂と、今度の円心の失踪を結びつけることは当然と言えた。……だが、山犬にやられたにしては、円心の死体がどこからも出ない。この説を取る者は最初こそ多かったが、次第に盗賊説に取って換わられた。

しかし。月廻は一人、その説に奇妙に胸を騒めかせていた。……彼は知っていた。山犬の仕業だと思われていた動物の死骸は、実は彼の娘の仕業だったことを。

では、円心は?

最悪の予想に慄きながら、月廻は病床を離れることができなかった。

 

いつになく体調がよくなった日、月廻は床を跳ね除け、寺を出た。足元がふらついたものの、無理に動かし、なりふり構わず山を下りた。

小石が円心を喰ってしまったのではないか。彼はそう疑っていた。

その疑念が正しければ、二人は恋仲だったということになる。そんなことを考えてもみなかった彼は酷く驚いたが、一度そう気付いてしまえば、それほどおかしなことでもなかった。娘が誰かに目を留めるとすれば、それは円心以外には考えられない。

普段の小石は養家に建てられた庵に籠もっている。近隣に同年代の友人もおらず、普段は養親である老夫婦や、飴屋の下働きをする者達のみに囲まれて生活している。ろくに出歩くこともせず、偶に出かける先といえば、久延寺しかない。

そしてそこには、円心がいる。小石にとって、歳の近い唯一の、身近な若い男。赤子の頃に上人に拾われ、寺に縁のある小石にとっては、円心は幼い頃から知る、頼れる兄のような存在だった。それがいつしか憧れとなり、成長すると共に恋愛感情に変わってもおかしくはない。 

……今思えば、父親に会いに来るというのは、口実でしかなかったのかもしれない。楽しそうに語らう二人の姿を思い返しながら、彼は考えた。冷静に考えれば、ごく幼い子供ならともかく小石ほどの年齢の娘が、父親に会うためだけにわざわざ山道を登ってくるというのは、不自然な行動と言えた。……それなら、想いを寄せる若者に会いに来ていたという理由の方が、余程頷ける。 

娘を見誤っていたことを、彼は悔いた。

(……だが、まだそうと決まったわけではない)

この期に及んで、月廻は一縷の望みを捨ててはいなかった。小石が円心を喰らったのだと、半ば確信しながら、噂を信じようとする自分もいた。円心の失踪には別の理由があって、娘は関与していないのではないか、という淡い期待が捨て切れなかった。

甘い考えであると、自分でもわかっている。だが、それには彼なりの根拠もあった。論理的なものではない。彼には自分の娘が、あれほど無邪気な笑顔を浮かべる娘が親しい人間を殺し、そして喰らったなどと、どうしても信じることができなかったのだ。

萎えた脚を叱咤して、彼はひたすら足を進めた。

 

病気で臥せっているはずの月廻が現われたのを見て、飴屋の老夫婦は揃って驚いた顔を見せた。それは彼の顔色が悪く、痩せこけていたことに驚いたというより、その顔に浮かべた鬼気迫るような形相のためだった。

彼等の言葉には取り合わず、月廻は震える声で娘の様子を尋ねた。

「それが……」

彼らは互いに、弱りきった顔を見合わせた。

「円心様がいなくなったということを耳にして、ひどく気を落としておいでで。ずっと、顔をお出しにならないのです」

――その言葉に、彼の目の前は真っ暗になった。もはや、事態は明らかだった。

僅かな逡巡の後、困惑している老人に、意を決して聞いた。

「円心と小石は恋仲だったのか?」

……彼らは酷く狼狽した。そして、弱々しく頷いた。

月廻は思わず天を仰いだ。もう、驚くだけの余裕も残っていない。やはり、という思いだけがあった。

万事は明らかになった。彼は僅かに残していた希望が、今や完全に断ち切られたことを知った。

「いえ、私共も、はっきりそうだと言えるわけではないのですが……」

暗い表情を浮かべる月廻をどう思ったのか、老人は慌てて付け加えた。

「円心様は、時々小石様を訪ねていらっしゃいました。近頃は文や手土産をお持ちでいらっしゃることも多く、どうやら小石様に懸想しておいでだったようで……。くれぐれも、寺には言わないでくれと頼まれるので、月廻様にお伝えすることもできず……」

そうした老人の弁明めいた言葉も、殆ど彼の耳を通り過ぎるばかりだった。

ただ、彼はいつか小石が、その唇に差していた紅のことを思い出していた。それを小石は、円心からもらったと言った。……彼は、円心から直接、託された櫛をも思い出した。そして、その櫛を大事そうに扱っていた、娘の姿をも思い出した。

(俺は一体、何を見ていたのだ!)

彼は悔やんだ。事態は突如として生じたのではなく、その徴候はたしかにあったのだ。円心が小石を想っていたことも、小石が彼に惹かれていたことも、注意さえしていればすぐにも、気付くことができたはずなのだ。

若い二人の密やかな交際は、彼の目の全く届かない処で行われていたわけではなく、その幾つもの痕跡は、彼の前にも投げ出されていた……。

自分の油断と不注意が、円心を死なせてしまった。そう考えると、悔やんでも悔やみきれなかった。

……それでも、娘のことを考えれば、落ち込んでいる暇などない。

(一番辛いのは、小石なのだ)

円心と小石は、恋仲だった。それはもう、疑うところはなかった。……その恋人を、娘は、喰らってしまったのだ。今、小石は、気も狂わんばかりに悲しんでいるはずだ。自らの犯した忌まわしい行為に戦き、嘆き、苦しんでいるはずなのだ。

月廻は、娘のいる庵への案内を請うた。

彼は思った。

円心の死は、一人小石ばかりの罪ではない。小石の父親であり、危険があることを知りながら、それをみすみす看過してしまった、自分にもある。

娘が罪を犯し、それを悔いているというのなら、共にそれを償う道を探そう。月廻は、そう、固く決意していた。

 

「お父様!よくいらして下さいました」

庵を訪れた彼を、いつものように、小石は笑顔で出迎えた。

……いつものように。

普段と変わらぬその姿に、月廻は困惑した。

老夫婦からは小石が悲しんでいると聞いていたが、彼の目には、到底そうは見えなかった。彼が顔を見せるといつものように喜び、そして顔色が悪いと心配してみせた。

……いつものように。

打ちひしがれた娘を見るものと覚悟していた彼は驚いた。朗らかな笑顔を見せる娘に、戸惑った。あまりにも、普段どおりの振る舞い。人間を、……恋人である円心を、殺して、喰らったというのに。その、筈なのに。

(……本当に、小石が円心を殺したというのは正しいのか?)

すでに確信していた筈なのに、月廻は再び迷いを抱く。

人間を殺して喰らうという残虐な行為の後に、こんな態度ができるものなのか。……それも、それは自分の愛していた男なのだ。狂気に陥ってもおかしくない、いや、むしろそうなって当然の、異常な行為だ。……そんなことを仕出かしておいて、このように平静にしていられる人間が、いるはずがない。自分の行為に恐れをなし、隠そうとしているのだとしても、並の人間であればここまで、完璧に隠せるものではない……。

あまりに普段と変わらない小石の態度が解せず、月廻は迷った。……それほど、小石には、平常と変わるところが見られなかった。

「それにしても」

と小石は言う。

「お父様が元気になられて、本当に良かった!まだ、お顔の色は優れないようだけれど、もう起き上がって、ここまで来ることができたのですもの。小石は、本当にお父様のことを心配していたのです」

そう言って、心から安堵しているように、無邪気に微笑む。その心の籠もった言葉を聞き、無垢な笑顔を見ているうちに、月廻の確信はさらに揺らいだ。その言葉も、表情を見ても、到底嘘や偽りのものとは思えない。本当に、父親である彼の身を案じ、その回復を喜んでいるように見える。

……それを見ている内に彼は、全てが自分の考え過ぎだったのではないかと、そう思えてならなくなった。娘の身を案ずる気持ちが強すぎて、本当は何でもない事柄にまでも、疑いの眼を向けてきたのではないか、と。……確かに、円心はいなくなってしまった。円心と娘が恋仲だったというのも、本当かもしれない。だが、彼が心配したようなことは、起こらなかったのだ。小石は化鳥になどなっていない。円心がいなくなったのは、本当に山犬や盗賊の仕業か、……或いは、小石との仲が、うまくいかなくなったからではないのか。……円心の身を案じる様子もない娘を見ると、どうもそうらしく思える。

……或いは。彼は、こうも考えた。全てが、夢だったのかもしれない。自分は病で患って、床に伏せている内に、悪い夢を見ていたのだ。……思えば、少し前から、何もかもがおかしかった。……円心は、いなくなってなどいない……二人は、恋仲などではない。……山犬は、最初から現われてはおらず…………全ては、病床の自分が、熱に魘されて見た……悪夢…………。

「心配ですね」

――突然耳に入ってきた言葉に狼狽し、彼は

「何がだ?」

と聞き返した。……途端に、小石がむくれた表情になる。それで彼は、自分が呆然としていた間に、娘が何か喋っていたことに気付いた。

 気を取り直したように、小石が言いなおす。

「円心様のことですよ」

呼吸が止まる。それにも気付かず、娘は続ける。

「円心様、突然いなくなってしまわれたとか。本当に、どういうことなのでしょうね」

そう言って、言葉のままに、心配そうな表情を浮かべる。……それを見て、娘は潔白だという彼の思いは、また強まった。

……娘は今、円心のことを口にした。そして、その身を案じる表情まで、浮かべてみせた。……もし、そんなことはある筈もないが、もし万が一、小石が円心を殺してしまったのだとすれば、今小石は、彼の娘は、嘘を言ったということになる。恋人を殺しておきながら、平然と白を切り、父親である彼に向かって、嘘を吐いたということになる。

(……そんな筈がない……)

彼は思う。

(もしも娘が化鳥の本性に目覚め、人を殺したのだとしても、それを何とも思わないというわけがない。それを隠して、笑っていられるわけがない)

……もしそうだとすれば……。それはもう、人間ではない。

そして、化鳥ですらない。……あの、忌まわしく、そして愚かしくもありながら、彼にどこか憐れさを催させる、……あの美しい、化鳥ではない。

……それは、魔物だ。

……それは、妖魔だ。

……自分の娘は、月小夜の子は、断じてそんなものではない……。

彼の思いを他所に、小石がまた口を開く。

「そんなことより」

(そんなこと?)彼は疑問を覚える。

……何が、そんなことなのだ?円心がいなくなったことか?

「お父様がよくなって、本当に良かった。小石はもう、そればかりを毎日心配して……」

嬉しそうに小石が話し続ける。彼はそれを、聞いてはいなかった。

酷い耳鳴りがする。それでも、彼は考える。

(……やはり、小石ではない……)

がんがんと鳴り続ける頭で、それを必死に堪えながら、彼は考える。

(小石が円心を殺したのなら、そんなことなどと、断じて言える筈がない……)

……いつのまにか、月廻は娘の表情の変化を何一つ見逃すまいと、じっとその顔を凝視していた。何事かを話し続けていた小石も、彼の視線に気付き、頬を染め、恥らう色を見せた。

「そんなにご覧にならないでください。わたくしときたら、お父様が来てくださるとも知らず、このようなだらしない格好で。髪も乱れたままで……」

そういって、顔を隠す仕草をする。小石は、夏の平常着といえる、単袴姿だった。清浄な白の袴を穿き、身には紫の、薄物の(ひとえ)を纏っている。人前に出るべき姿ではないが、家の中であることを考えれば、特にだらしがないわけでもない。

……突然、娘は手に持っていた何かを、彼に向けて差し出した。何かと思い、それを見た彼は思わず、目を瞠った。……それは、忘れもしない。……彼が、円心から託された、あの櫛だった。

呆然と、櫛に目を落とす彼に、おずおずと娘は言った。

「もしよろしければ、お父様……。あの時のように、小石の髪を(す)いてくださいませんか?」

……それを聞いた瞬間、彼は得体の知れない、抑えがたい衝動に囚われた。気付くと彼は、彼に向けて差し出された手を……櫛を持つ娘の手首を、力の限り掴んでいた。……そして刹那の間も置かず、彼は取った娘の手を、瞬時にその背中に捻じ上げた。……それは一瞬の出来事だった。そして彼自身も、それが何のためか知らなかった。

「痛い!」小石が悲鳴をあげた。彼の耳にもその声は届いていたが、しかし届いてはいなかった。……その時彼の脳裏にあったのは、先刻の、小石が放った言葉だけだった。……それを聞いた時に彼の背筋に走った、なんとも言えぬ、おぞましい悪寒……。

苦痛に顔を歪め、身体を捩って彼の方を振り向きながら、小石が再度悲鳴をあげた。

「お父様、痛い!」

その声を聞いて、彼は漸く我に帰った。そして、自分の仕出かしたことに気付いて、慌てて娘の手を離した。解放された小石は、捩じ上げられた腕を擦りながら、窺うように彼を見上げた。……その目尻に涙が浮かんでいるのを見ても、彼の方も呆然としてしまっていて、何も言うことができなかった。

……今の悲鳴を聞きつけたのか、人が近づく足音が聞こえた……。

「どうなさいました?」

中の様子を窺いつつ、老婆が声を上げる。

彼の口からは、咄嗟に言葉が出なかった。彼自身にも、自分の今の行動の意味が全く理解できず、説明することができないからだった。……理由もなく娘の腕を捻りあげるなど、まともな親のすることではない。

狼狽する彼に代わって、小石が答えた。

「何でもないわ、お婆さん」

…………

月廻は驚いて、そう言い放った娘を振り向いた。

……穏やかな声の調子といい、その顔に浮かべた優しげな微笑といい、その時の娘の姿にはもう、実の父親から腕を背中に捻り上げられた痕跡など、微塵も残ってはいなかった。……娘の顔からは、何もかもが、完璧に消え去っていた。……彼は老婆に語りかける娘の表情を見て、心の底から慄然とした。

…………

「私が我侭を言ったから、お父様がお叱りになったの。それが少し怖くて、大げさな声を上げてしまっただけなの。何も心配いらないわ、お婆さん」 

……落ち着いて老婆に、自分の養親に、声を掛ける娘の顔。心配する老婆を逆に気遣い、安心させようとする優しげな顔。……月廻は気がついた。その顔に、実体はない。 

育ての親である老婆を心配させまいと優しげに微笑んでいるように見えて、娘の顔にはその実、心が込められていない。それは表面だけを飾り立てた、嘘の、偽りの笑顔だった。……死んでいる笑顔……人形の顔に、浮かんだ表情…………。 

衝撃を受け、愕然としている彼の横で娘は、老婆と他愛ない会話を交わしている。……その間ずっと、変わらない、張りつけた様な微笑を浮かべて……。 

……すっかり安心しきった老婆が去ってしまった後で、小石が彼に向き直った。月廻は思わず、全身を強ばらせた。 

「ごめんなさい、お父様。我侭を言ってしまって……」 

「い、いや、こちらこそすまなかった」

動揺しながら、彼は思わず詫びていた。すると、殊勝げな顔付きをしていた娘の顔は忽ち綻び、華やぐような笑顔に変わった。……彼には、その娘の顔が、正真の笑顔に見えた。……だがもはや、彼は自分の目を、素直に信用することができなくなっていた。

娘の殊勝げな顔も、浮かべた笑顔も。その内心からは遠くかけ離れた、偽りの表情にしか見えなかった。……彼に向けて笑いかけながら、その実、何を考えているのか、決して見せようとしない……そんな表情…………。

……娘は、いつからこんな顔を浮かべるようになっていたのだ?そう考えた瞬間、記憶の中にあった娘に関する思い出の全てが、彼の中で変貌したように思われた。彼の思い出に残っている娘の笑顔が、泣き顔が、拗ねた横顔が、全て偽りのものに感じられ、色を失ったように思われた。

「どうなさったのですか、お父様……?」

蒼白になった彼の顔を、案じるような表情を浮かべ、娘が見上げてくる。――その瞬間、彼の目には、見慣れた美しい娘の顔が、恐ろしい怪物に変じて見えた。

あまりの恐怖に、月廻の身体から力が抜けた。力なく、床に座り込む。

……彼の頭上から、心配そうな小石の声が、降って来る。

「大丈夫ですか?お顔の色が、とても悪いわ」

「大丈夫だ……」

震える声で答えながら、今、娘の顔が見えなくてよかったと、彼は心の底から安堵していた。……父親の身を案じるような娘の顔を見たら、自分はその恐怖に、到底耐え得なかっただろう……。

……彼の頭が、ふいに柔らかく、温かなものに包まれた。思わず顔を上げると、すぐ目の前に、小石の身体がある。月廻は自分が、娘の腕によって抱かれているのだとわかった。

「駄目ですよ。もう少し、休まなければ……」

……娘の優しげな言葉を聞きながら、月廻はしかし、首筋に強い視線を感じていた。……なぜか彼はいつか見かけた、犬の生首を思い出した。恐怖に怯え、目を見開いたまま絶命している、犬の顔……。弔いをあげた、鶏の首。……そして、円心の首。その目で見たわけではない、円心の生首でさえ、鮮明に彼の瞼に浮かんだ。……血に塗れ、苦痛に歪んだ円心の形相……。首だけになって、恨めしげに彼を見つめる、円心の顔……。

――首筋に、冷たい何かが当たる。

薄い皮膚が瞬時に裂け、大量の熱い血が噴き出す。

……それは錯覚だった。小石はただ、彼の首筋をそっと、人差し指で撫ぜただけだった。……それがわかっても、彼の身体は一度、大きく震えた。小石は小さく声を上げ、彼の震えを抑えるように、更に腕に力を籠める。

「……お父様はお優しいから、円心様のことを心配なさっているのですね。でも、あまり気になさりますとお身体に毒ですわ。……そんなに案じなさらなくとも、きっと円心様は、お元気で戻ってらっしゃいますよ……」

母親に慰められる子供のように、無防備に頭を抱えられて、彼は娘の優しい言葉を聞いた。……全身に、冷たい汗を掻きながら。

――今、小石はどんな顔を浮かべて、自分を慰める言葉を吐いている?

そう考え、彼は、娘の顔が見えないことに感謝した。

 

 

  8

 

――上質の絹糸を思わせる、艶やかな黒髪。

……日の光に煌めく、白く、滑らかな肌……。

 

彼はまた、夢を見ていた。月小夜が、彼の前でその肢体を晒している。

一糸すら纏わず、輝ける陽光の下で、月小夜はその美しい顔に満面の笑みを浮かべ、彼の前で水浴をしていた。

強烈な陽射しに差され、白く輝く肌。張りのある肌は水を弾き、細すぎる体つきに似合わぬ活発な、若々しい印象を彼に与える。背中の中程で切り揃えられた黒髪が扇状に広がって、月小夜が動く度に、さらさらと心地よい音を立てる。

彼に見られていることを意識したのか、月小夜が振り向く。……その顔に浮かぶのは、見る者を蕩けさせるような、魅力的な微笑。……それは彼が月小夜に抱いていた、儚げな印象を裏切るかのような、そんな惑的な微笑だった。

……そこで彼は、なんとも言えない、落ち着かない気分に襲われた。何かがおかしい。……何か自分が、手酷い間違いを犯してしまっているような、そんな焦燥が彼を襲った。

月小夜は彼の戸惑いに気付かぬように、その露わな細い両腕を、彼に向けて差し伸べる。誘うような笑みを浮かべて……。一人前の女のように……。

彼は唐突に我に帰った。これは月小夜ではない

これは小石だ。俺の娘だ……

…………

 

……あまりの驚愕に、月廻が飛び起きた。全身に寝汗を掻き、心臓は強い鼓動を打っている。辺りは未だ薄闇に閉ざされ、朝が遠いことがわかった。彼の感覚は、寝入ってからまだ幾らも過ぎていないことを教えていた。

……なぜ、俺はあんな夢を見た?彼は思わず、自問した。夢に見た娘の白い裸身が、いまだ脳裏に焼きついている。

彼は自己嫌悪に陥った。先日小石の水浴を見かけてしまったことは単なる事故だが、それを夢に見てしまったことは、なにか忌まわしい、おぞましい印象を彼にもたらした。

再び目を閉じ、彼は眠りに就こうと試みた。だが、一度覚醒してしまった彼の神経は、易々と眠りに落ちてはくれなかった。体調が思わしくないのに拘らず、昼間出歩いたことで疲れきっているのに、なかなか眠りが訪れない。

……身動ぎもせずに横になっていた彼が、ようやく微睡(まどろ)み始めた時、その耳は微かな物音を捉えた。夜の静寂の中でしか聞き取れないような、そんな小さな音。夢現の状態のまま、僅かに首を巡らせると、そこに娘の姿があった。

小石は部屋の片隅で、彼に背を向けている。月廻は、小石が見覚えのない姿をしていることに気付いた。彼は不思議に思ったが、漸くそれが都から届いた、あの立派な装束だと思い出した。そして、娘は普段着ている衣服から、その装束に着替えているのだと思った。

しかし、自分の娘が何のために夜更けに寺にやってきて、気付かれぬように着替えをしているのか、一向にわからなかった。彼は眠りに落ちる間際の頭で、その非現実的な事態を受けて、これも夢なのかもしれないと考えた。……夢である以上、その作法として、それは黙って見守っていなくてはならない。そう思った。不審な行動をしている娘を咎めようなどとは、全く思いつかなかった。

装束を調え、すっかり着替えの終わった小石が向き直った時も、彼は声を掛けようとはしなかった。薄闇の中、貴族の衣装を身に纏った娘の姿は、母である月小夜に瓜二つに見えた。

小石は彼が起きていることに、全く気がつかないようだった。寝ている彼に向かい、部屋の中をゆっくりと近づいてくる。その時、月廻はようやく、自分が置かれている状況に気がついた。自分は今、娘によって喰われようとしているのだ

そう気付いても、彼の身体は動こうとはしなかった。危機感は、まるでなかった。頭の中が、靄がかかったように、薄ぼんやりとしていた。娘に喰われるなら、それでいい。そう思った。

……小石がそれを望むなら、親として我が身を差し出すことが、間違っている筈がない。それを自分は、たしかに一度望んだことがあった。……あの月小夜のように、自分は娘に喰われるのだ。小石に呑まれ、その肉の一部となり、そこで月小夜に会うのだ。……かつて同じように喰われた月小夜と、また一つになれるのだ……。

着飾った小石が近づき、寝たふりをする自分に覆い被さっても、彼は身体を僅かも動かさなかった。父親が起きていることに気付いたら、小石は自分を襲うのを諦めるかもしれない。それでは、気の毒だと彼は思った。彼の中には、娘の食べたいものを与えてやりたいと言う親としての義務感と、もう一度月小夜に会いたいという願望が混在していた。……彼はもう、静かに目を閉じていた。

小石の髪が零れ、自分の頬を擽るのがわかった。熱い吐息を首筋に感じ、その息に含まれる甘い香りが、彼の顔にまで漂ってくる。……月廻は昼間のことを思い出していた。己の首筋に注がれる、苛烈な視線。首筋を撫でる、小石の冷たい指の感触。……動脈から血が吹き出る、あまりにも鮮明な錯覚。……見覚えのない、円心の生首。

彼はまた、幼児だった頃の娘に、指を噛まれたことを思い出した。年端もゆかぬ幼子とは思えない、あの鋭い、硬い歯の感触……。

……自分は今、その鋭い歯によって、動脈を噛み切られようとしているのだ。

そう悟り、彼は息を殺して、ただその瞬間を待ち続けていた。

……長い時が過ぎた。実際はそうでもなかったかも知れないが、待ち受ける彼にとっては、相当長い時間に思えた。しかし、いつまで待っても、首に硬い牙の感触を受ける瞬間は来ない。その時間の長さに彼は、父に手を掛ける小石の逡巡を感じ取り、娘を哀れに感じた。……それでも目を開けることはせず、ひたすら眠っている振りを続けた。

……突然、彼の唇に、なにか温かいものが押し付けられた。間を置かず彼の口内に、焼けるように熱く、そして柔らかい何かが侵入してくる。ゆるやかに蠢き、彼の口の中を擽るそれは、強い甘みを伴っていた。何が起こったかわからず、彼は戸惑ったが、しかし唐突に訪れたその極上の甘味に、全ての思考力が奪われた。思考は空白となったまま、彼はその稀なる甘味を味わった。口に侵入したその柔らかい何かは、その間もずっと彼の口内を優しく愛撫し続けていた。半ば酔い心地で、陶然となった彼は事態を呑み込めぬまま、いつしかその瞼を開いていた。

眼前には、彼に覆い被さり、そして一心に唇を押し付けている、娘の姿があった。

――それを見た瞬間、彼は我に返った。小石から唇を離し、覆い被さる娘を押しのけた。娘の唇に紅が差してあるのを見て、彼はなにかしら、ぞっとするものを覚えた。

「そなた……そなた、何をしておる!」

小石は父親に押され、上半身を仰け反らせた姿勢で、慌てた風もなく彼の顔を見下ろしていた。……外から差し込む月明かりを受けて、不思議そうな表情が浮かび上がった。……彼の全身に震えが走った。何を怒っているのかわからない、そんな表情に見えた。

……小石は、正気ではない。そう考えた彼の耳に、娘の声が届いた。

能柾様

――彼は愕然とした。未だかつて娘は、そんな呼び方で彼を呼んだことはない。……いや、彼が瞬間に考えたことは、それではなかった。……それは、その呼び方は……まるで……月小夜の…………。

小石がまた、唇を開く。

「どうなさったのですか、能柾様わたくしです月小夜でございます

……彼は落雷に打たれたような衝撃を感じた。似ているどころの話ではない。目の前にいる女は、月小夜そのものだった。姿といい、口調といい、……彼の記憶にある愛しい女、そのものだった。……彼が一日とて想いを馳せなかったことのない、あの忘れられない、恋人の姿そのものだった。

「お懐かしゅうございます、能柾様……」

月小夜は切なげに、ほろほろと涙を零した。……そんな泣き方をする女だった。と、彼はまた殴られたような衝撃をうけた。微笑む顔にも、どこか寂しそうな色の混じる。見ていると、今にも消えてしまいそうな不安を覚える、そんな儚げな女だった。

目の前にいる女には、そんな最愛の女の全てがあった。だから月小夜が彼の胸に顔を埋めた時、彼は自然とその背に手を回していた。折れそうなほど細い肩に手を掛け、それから強く抱き締めた。……暫くそうしていた。

月小夜が再び顔を上げる。切なげな瞳に美しい涙を浮かべ、彼に顔を近づける。今度は彼も、進んでそれを受け入れようとした。……その時にはもう、が月小夜であることを、寸分も疑ってはいなかった。月小夜が自分の元に戻ってきたのだと、彼は固く信じていた。

……たとえ理屈に外れていようと。もしやこれが、一夜の夢であったとしても、月小夜が戻ってきてくれたのだ。……彼はそう信じた。

熱い吐息が、彼の口元をかすめる。……いつかと同じ、懐かしい、甘い香りが彼を擽る。くらり、とした。

……それはいつか味わったことのある、たしかに覚えのある、眩暈だった。……強烈な既視感。三度(みたび)衝撃が、彼を打ち…………。

……次の瞬間、月廻は眼前に迫った相手を強引に押しのけ、立ち上がっていた。その勢いに月小夜が、彼の脇に倒れる。

「なにをなさるのです、能柾様?」

「黙れ!そなたは月小夜ではない!」

自分を見上げるに向けて、彼は叫んだ。

「そなたこそ何を考えておる、小石!」

烈火の如く怒る彼の剣幕にも、相手は動じなかった。

「なにを申されます、能柾様。わたくしは、紛れもなく月小夜でございます。貴方様愛しさに黄泉の国より御許しを頂き、一夜だけ戻ってきたのです。能柾様、わたくしがお分かりになりませぬか?」

「くどい!いい加減にせい、小石!」

「能柾様……」

「よく聞け小石、俺は月小夜と、一度しか唇を合わせたことがない。いいか、たったの、一度きりだ。なぜかわかるか?月小夜が、それを拒んだからだ。あやつは、自分の吐く息に毒が混じっていることを、常に気に懸けていた。唇を合わせることで、その毒が俺の身体を蝕むことを怖れたのだ!」

激しい言葉を浴びせかけながらも、月廻は自分の身体を蝕む鈍痛に、必死に堪えていた。身体が重く、立っているだけで辛い。……間違いなく、小石の吐息に僅かに含まれる、毒のせいだった。

それを聞くと小石は口を閉ざし、何も言い返そうとはしなかった。膝を着いたまま立ち上がろうともせず、視線を伏せている。

「答えよ、小石。一体何のつもりで、このようなことをしでかした?」

「……何のつもり、と仰るのですか?」

突然、小石が笑い始めた。肩を揺らし、全身を震わせて笑っている。その姿に、月廻は狂的なものを感じ、胆を冷した。元より正気の所業とは思えなかったものの、愈々気が触れてしまったと思った。……だが、その発作じみた笑いは、すぐに治まった。

「お父様は、おかしなことを申されます」

その声は、案外と落ち着いたものだった。それでも娘の精神を危ぶみつつ、月廻は慎重に尋ねた。

「……なにがおかしいというのだ」

「だって」

嬉しそうに笑みを含んだ顔で、小石が彼を見上げた。

「唇を合わせる理由など、一つしかないではありませぬか?わたくしがお父様を、お慕い申し上げているからです」

 

 

「何を……。何を言っておる!」 

思いもかけぬことに、月廻は動揺した。 

「慕っているだと?それは、親としてであろう。だが、親に対する愛と、恋人に対する愛とは違うものなのだ。親と唇を合わせるなど、あってはならないことだ!」 

「お父様は、いつもそうやって、わたくしを子ども扱いするのですね」 

「なんだと?」 

小石は、拗ねるように口を尖らせている。その、いつもと変わらない娘の顔を見て、月廻は却って恐ろしく感じた。 

「小石は、もう子供ではありませぬ。そんなことは、勿論わかっております」

「だったら……」

「ですから」

動揺して震える父親の声に対し、娘の声はあくまで平静だった。

「私は親としてではなく、一人の殿御として、お父様を慕っているのです…」

「黙れ!」

彼は激しく怒鳴った。

「そなたは円心を好いていたのではなかったのか?円心と恋仲だったのだろう!」

「円心?」

そう呟くと、小石は僅かに目を細めた。

「あのような者を、わたくしが相手にするわけがないではありませんか」

……彼の目には小石が微かに、しかし確かに、鼻で笑ったように見えた。円心を愚弄する言葉よりも、彼はそのことに強い衝撃を受けた。

今見たものを否定するように、月廻は必死に言い募った。

「だが、だがそなたは、円心からの贈物を受け取っていたのではないのか?紅をもらったと、言っていたではないか。あの櫛を、大事そうにしておったではないか」

「ただ、差し出す物を受け取ったまでのこと。他意などありません。あの櫛を大事にしていたのは、それは……」

小石は頬を赤らめ、媚びるような眼で彼を見上げた。

「お父様があの櫛で、小石の髪を(す)いてくださったからです」

……彼は言葉を失った。

「あれは、夢見るような一時でございました。お父様が手ずからわたくしの髪を取り、優しく(くしけず)ってくださった時には、天にも昇るような心地が致しました。私はそれまで、あのように幸福な気持ちになったことはありません……」

陶酔したように語る娘の顔を、彼はとてもまともに見ることはできなかった。……そして悔やんだ。親として接するためにしたことが、母親の代わりにしてやったことが、娘の中でそのように捻じ曲がって受けられていたとは。

「では、なぜ円心を殺した?……そなたが円心を殺したことは、もうわかっている」

小石はこともなげに答えた。

「確かに、円心様を殺して、そして食べたのはわたくしです」

――月廻の全身から力が抜けた。半ば確信しながらも、彼はどこかで、小石が否定してくれることを望んでいたのだ。月廻は呻いた。

「……なぜだ。円心を好いていたから、喰らったのではないのか?」

「違います。あの方は、わたくしとお父様を引き離そうとしたのです。突然、明け方に私の庵を訪れ、お父様の悪口を言い、連れ出そうとしたのです。だから……」

……月廻は、円心が旅に出る前日に、小石のことで彼と険悪になったことを思い出した。小石に想いを寄せていた円心は、娘を尼寺にやろうとする月廻に反発し、その前に連れ出そうとしたのだ。

「だが……だが、殺さなくてもよかったではないか。断ればよかった」

責めるように彼は言った。小石が円心を愛していなかったというのなら、殺す理由はない筈だった。

「確かに、命までとる必要はなかったかもしれません。ただ……」

「ただ……何だ?」

あどけない笑みを浮かべ、言った。

「邪魔だったのです」

意味がわからず、月廻の頭が空白になる。呆けたように、彼は聞いた。

「邪魔……?何が、邪魔だったというのだ?」

「だって、円心様の部屋は、この部屋の隣ではないですか」

それを聞いても、月廻はすぐには意味が呑み込めなかった。確かに円心の部屋は、自分の使う部屋の隣になる。円心が姿を消してからは、空き部屋になっているが……。

……漸くその意味に気づき、愕然としながら、彼は娘に向き直った。

「つまり……つまり……」

……声が掠れる。それでも、必死に声を絞り出した。

「こうして私の部屋に忍んでくるために、円心を殺したと……。そう言いたいのか?」

「はァい」

――歌うような、無邪気な娘の返事を聞いて、彼の全身の力は萎え、ついに膝を着いてしまった。娘の異常さ、その罪深さに戦き、彼は顔を両手に埋めた。

「どうされたのですか、お父様?もっと嬉しそうになさってください。わたくしが、こんなにもお父様を好きだと申し上げているのに……」

……小鳥の鳴くような、可愛らしい声。それを耳にしても、彼には煩わしいとしか感じられなかった。忌わしい言葉を恥ずかしげもなく口にする娘が、穢らわしく思えた。

娘を見上げ、震える声で、尋ねた。

「では……では、そなたは円心ではなく、私を喰らいたいと思っているのだな?」

その問いに、小石は初めて僅かな逡巡を見せた。

「どうなのだ」

「……はい」

消え入るような、小さな声。

「だったら、早く私を喰らうがいい。その為に来たのだろう」

やけになって、彼はそう言い放った。これ以上娘の罪深い告白を聞いている位なら、一思いに喰われたほうがましだと思えた。どうせ、一度は喰われる覚悟をしたのだ。

長い沈黙があった。彼は顔をあげた。そして、娘が泣いていることを知った。

込み上げる涙を拭いながら、小石が口を開いた。

「確かに、わたくしはお父様を慕っております。お父様を喰らいたいという、堪らない衝動を抱えております。……でも……」

小石の声は震えていた。

「だけど……」

その衝動を抑えるように、自らの身を抱いて、言った。

「……わたくしは、お父様を喰らいたくなどないのです。お父様はわたくしの、たった一人の家族で、そして、大切な御方なのですから。……だけど、時折どうしようもなく、お父様を喰らいたいという衝動に襲われるのです。……そして、その罪深さに恐ろしくなって……。……わたくしは……わたくしは…………」

苦悩する小石の姿を見て、月廻は僅かな希望を見出したような気がした。娘の中で、今、理性と本能が戦っていることを感じたのだ。常軌を逸した振る舞いを見せていた娘の中に、僅かではあっても正気が残っている。今ならまだ、娘を救えるかもしれない。

……そんな月廻の希望は、しかしあっけなく突き崩された。

「だからわたくしは、その衝動を抑えるために、獣の肉を喰らっていたのです。……そして、円心様も。殺しただけでなく、その肉まで喰らったのは、実はその為だったのです」

「なんだと?」

……それでは、自分の身代わりに殺されたに等しいではないか……。

戦慄する彼に、さらに追い討ちが掛かる

「それでも、やはり私の中の衝動は、鎮まることはありませんでした。……それで、それ以来こうして、夜になる度に、ここに忍んでいたのです」

……不吉な予感に、月廻の胸がざわついた。

「……夜になる度に?……まさか……」

「はい。今宵のように、幾夜もこうしてここに参り、お父様の寝顔を眺め、そうして口を吸うておりました」

月廻の全身が総毛だった。その内容の、おぞましさに鳥肌が立った。

……ここ数日、月小夜の夢を見続けていたことを、彼は思い出した。夢から覚めた時、部屋に残っている甘い匂いを思い出した。……この所優れなかった、自分の体調。身体の芯に根づく、鈍い痛み。脱力感……。

彼は苦悩し、呻き声をあげた。

「何故だ……。お前は、私を食べに来たのではないのか?」

「最初は、そのつもりでした。衝動を抑えきれなくなり、ここにやって参りました。……でも、眠っているお父様の顔を眺め、ふと心を惹かれ、思わず唇を重ねた時……。その衝動が、鎮まっていることに気がついたのです。暫しの間、止んでいるのです。奇跡が起きたのだと、わたくしは思いました。喜びのあまり、涙を流しました……」

「……お前は」

やっとの思いで、月廻は口を出した。

「お前は、肉親への情から来る私を喰らいたいという衝動を、男への愛情と取り違えているだけだ。父親である私を喰らいたくないという気持ちが、お前の心を捻じ曲げているのだ。正気に返れ、小石」

にじり寄ろうとする小石を、月廻は懸命に押し返していた。女とは思えぬ力で迫る小石に対し、月廻は毒にやられて身体が満足に動かせない。

「わたくしは正気です。自分の心は、自分が一番よく存じています。小石はお父様を肉親として、そして同時に、父親として愛しているのです。どうして、そんなに否定しようとするのですか。どうしてそれが、そんなにいけないことだと仰るのですか?」

「それは、人倫に悖るのだ!人間の道に反する、畜生の愛だ!」

「人間の道がなんだというのです。小石は化鳥です。貴方を愛し、愛する余りに命を落とした、お母様の娘です!愛に生きる、化鳥の娘です!」

……その言葉に、彼は自分でも何故かわからぬ程の、強い衝撃を受けた。彼は、自分の内にある何か強固なものが、揺らぎ始めるのを感じた。……その感触を、強いて無視して、彼は揺らぎそうになる自分を叱咤して、言った。

「……だが、私は人間だ。そして、お前の父親だ。私は人間として、そのような道を外れた行為は断じてできぬし、娘の穢れた想いを正さねばならない」

「……穢れた、想い?」

信じられないという口調で、小石が呟く。衝撃を受けたように、その目を見開いている。

「そうだ。父親を異性として愛するなど、純粋な愛とは言えん」

「わたくしの想いが、穢れているというのですか!」

初めて、小石が激昂した。目に涙を浮かべ、その奥に焔を点し、激しく叫んだ。

「一体、純粋な愛とは何ですか?録に顔も合わせないまま、婚姻を結ぶことですか。物語の中の貴公子のように、多くの女性と契りを交わすことが、純粋な愛だというのですか!世間に認められることが、後ろ指を指されないことが、そんなに大事なのですか?それが、純粋な愛の証なのですか。わたくしはそうは思いません。相手を想う気持ちの強さが、その一途さこそが穢れなき、純粋な愛の証です!神や仏といえども、私の想いを邪恋などとは言えないはずです。たとえお父様であっても、私の愛を穢れたものとは言わせません!」

月廻は息を呑んだ。そう叫んだ時の娘の瞳には、先ほどまでの狂気を匂わせるものがなかった。何か美しい、純粋なものの存在を彼は見た気がした。その切実な声音は弁を弄するものではなく、真情そのものの吐露に思われた。彼の中で、また、何かが揺らいだ。足がよろめき、後退さった。

その彼を、小石が追いすがる。

「お父様。私は幼い頃、お母様の肉を喰らいました。私の肉に、この血の一滴に、お母様が宿っておられるのです。わたくしのお父様への想いは、お母様から受け継いだものやも知れませぬ。……いいえ、小石はきっと、お母様の生れ変わりなのです」

その言葉が、彼の脳天を強く打ち、揺さぶった。先入観を捨てて純粋に見れば、小石の顔立ちは、たとえ親子であっても不自然なほどに、月小夜によく似ていた。似すぎていた。……今となっては、月廻にさえ記憶の中の月小夜と、娘を見分ける自信がない。……彼の胸に疑心が芽生えた……。

(……本当に、生れ変わりなのかもしれない)

脳裏に、かつての月小夜との、儚かった逢瀬が浮かんだ。一月にも満たない短い邂逅と、長く続いた喪失の苦痛。……空虚な時間。それら全てを、思い浮かべた。……できることならやり直したいと、数え切れぬほど何度も何度も、彼は繰り返し望んできた。

(……それが、叶うのか。もう一度、やり直せるのか。……月小夜と)

突如として現われたやり直しの機会に、月廻の心は大きく傾いた。

……彼はついに、手を差し伸べた。小石が、嬉しげにその手を取る。その瞳には、理性の光があり、小石が正気であることを告げていた。頬に零れる透明な涙は、その気持ちが偽りではなく、純粋であることを示していた。

「お父様……」

感に堪えぬ声で呟く小石を、月廻は抱き寄せた。正面から、その顔を見やる。……見れば見るほど、月小夜に生き写しだった。いや、それは懐かしい、月小夜そのものだった。その頬に零れた涙を、彼はそっと拭ってやった。

……その時、外から一筋の清澄な月明かりが差し込み、小石の瞳に宿り、そして強く輝かせた。彼は息を呑んだ……娘の瞳に宿ったその光が、丸い満月の姿に、そしてあの化鳥を討った夜の、あの真円の月の姿に見えた。……化鳥の、月小夜の死に様が、彼の脳裏に鮮やかに甦った。

次の瞬間、彼は娘を蹴倒していた。……小石が悲痛な声を上げた。

「なにをなさるのです、お父様!」

「黙れ!」

彼は叫んだ。

「なにが生れ変わりだ!月小夜は、お前の母は俺を生かすために死を選んだ、誇り高い女だった。死を選ぶ決意を秘めながらそれを一言も漏らすことなく、産まれてくる我が子を案じていた。お前の母親は、そういう女だった!」

懐かしい女を思い出しながら、月廻は娘を睨みつけた。

「お前は自分の母を汚したのだ!あの月小夜が、娘の身体に宿ってまで、想いを遂げようとするものか!あやつは、身籠った我が子の行く末を案じていた。それは紛れもない、そなたのことを案じていたのだ!断じて、自分の生れ変わりの身を案じていたわけではない!お前は甘言を弄して、母の想いを汚したのだぞ!」

叫びながら彼の脳裏には、かつての上人の言葉が浮かんでいた。失われたものには、二度と手は届かないというその言葉を、彼は初めて理解したような気がした。

蹴倒されたまま、小石はしばらく呆然としていた。眼の焦点が合っていないその顔に、彼は不安を覚えたが、やがて黙って起き上がり、彼を見上げた。

……その吊り上がった眼に彼は危険を感じた。咄嗟に身構えたが、時すでに遅く、小石の口から吹き出す、その息をまともに浴びてしまった。……普段、その吐息に漏れ出るものとは比較にならない、むせ返るほど濃密な、甘い匂い。強烈な毒に月廻の身体は痺れ、倒れ、動けなくなった。

……身体の自由が、まるで利かない。消えそうになる意識を、月廻は懸命に繋ぎとめていた。

「安心なされませ。小石は、お父様を殺したり致しませぬ。ただ、暫しの間、動けないだけです」

……倒れた彼に向けて、小石は少しず、つにじり寄ってくる。

「お母様など知りませぬ。わたくしは、お母様が大嫌いです。いつまでも、いつまでも、お父様を縛り付けて、独り占めにして……」

小石が顔を上げる。その眼を見開かれ、そして爛々と輝いていた。

「……お父様は小石のものです。誰にも渡しはしません……」

……小石は完全に正気を失っていた。化鳥の性に蹂躙されて、人間としての理性はもはや、一片たりとも残されていなかった。組み伏せられて抵抗しようとしても、月廻の四肢は既に、完全に力を喪失していた。

彼の目の前に、娘の顔が迫ってくる。

思いとどまらせようと口を開いても、僅かな声も出ない。

……動けない彼の眼前に、月小夜に似た、娘の顔が現われる。視界の端に、紅の乗った唇が入り、瞼に残る。……着物がはだけ、細い肩が露わに鳴る。……髪が崩れ、零れた黒髪が、白い頬に掛かっている。

それを見ながら、彼は自分の舌を強く噛んだ。完全に噛み切ることはせず、半分だけを噛み切った。それで、充分だった。

(これは、罰だ)

痛みを堪えつつ、月廻は思った。

温かい血が流れ出す。口中が、どろりとした液体で満ちる。

(……邪なる想いを抱いたお前への罰。そしてお前の心根を見抜けず、育ててしまった私への罰だ。……たとえ一時でも、心を動かしてしまった私への)

……月廻の口から鮮やかな、紅い血が一筋、垂れた。生臭い匂いが、辺りに満ちる。……突然、小石が顔を歪めて、飛び退いた。大きく見開かれた瞳で、彼を見た。……その視線は、彼の口から、そこから溢れる血の筋から、離れない。獣めいた唸りを上げる。全身が大きく震えだす。手を伸ばそうとして、それを抑える。頭を抱え、苦しげな声を漏らす。

(すまない)

……苦しみ続ける小石の腕から、零れるように、何かが生じる。木の芽のように小さな、……それは羽だった。それが、次第に大きくなる。数を増してゆく。小石が大きく身を捩り、纏った衣服を脱ぎ飛ばす。それは彼の目に、美しい舞のように見える。

小石の身体は、既にその殆どから、柔らかな羽が生じ始めていた。細い肩から、白い乳房から、腹から、或いは背中から。腕はもう羽で覆われ、完全に翼に変じている。小石はしかしその変化に抗するように悶え、苦しみ、一度大きく、その翼を振った。大量の羽が、部屋の中に乱れ、優雅に舞う。……彼は、娘を美しいと思った。薄れゆく意識の中で、化鳥へと変貌する娘を見続けていた。……大きな瞳はもう、人間のものには見えない。滑らかな頬にも、羽毛が生じつつある。それでも、彼は美しいと思う。……。

…………

 

 

 

……小石は目を覚ました。

自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。日頃寝起きする、見慣れた自分の庵ではない。見覚えはあるが、どうしても答えが見つからない。夜はまだ明けてはいない。酷い耳鳴りがして、思わず呻く。

……無意識に襟を整えながら、小石は薄暗い部屋を見回した。そしてそこが久延寺の、彼女の父親の部屋であることに気がついた。部屋の中は何があったのか、酷く荒れている。経机はひっくり返り、戸は外れ、……大量の、鳥の羽が散らばっている。……床には、まるで、血のような跡まで残っている。…………。

薄暗い室内に、それを発見した時、小石は悲鳴を上げた。

 

翌朝、山中にある大きな松の上で、首を吊って死んでいる女が発見された。女は、山頂に建つ久延寺の僧侶の一人娘で、麓の飴屋に預けられていた娘であることが、すぐにわかった。娘はなぜか貴族風の、豪奢な衣装を身に纏っていた。その姿を見た者は、それは世にも珍しい、比類なく美しい姿だったと語ったという。

 

月廻の行方は、杳として知れない。   

 

             

       

               了