夢日記

挨拶に代えて 

 

 

 

 

 私は夢が好きだ。

 夢といっても、もちろん現実の白日の下で見る夢のことではない。天の女王たる月光が統治する、静謐なる夜の世界――草木までもが眠りにつき、代わりに暗闇のそこかしこで妖しげな者共が渉猟する深淵の時間に、寝床の中で密やかに見る夢のことである。

 私は夢が好きだ。夢を見るのが好きだ。そしてどうやら自覚していた以上に、その想いは私という人間に深く根ざしていたものらしい。

 

 まだ大学に通っていた頃の話だが、私はノートに日記をつけていた。備忘と、そしてもっぱら文章修行のために始めたものだが(といって、当時は物書きになりたいなどとは思いついてもいなかったが)、だんだん週に一度、そしてしまいには一ヶ月に一度書くかどうかという体たらくに陥り、ついにはやめてしまった。我ながらだらしないことではある。

 そんなわけで分量というか、文量としては大したこともないのだろうが、それでも五年近く続けたのでノートもそれなりに増えてしまった。それで引越しに当って嵩張るそれらを整理しようと読み返してみると、まあ文章の拙劣なことはなんとか目を瞑るにしても(何しろ文章修行のために始めたものだから)、当時の自分の考えの稚拙なのは如何ともしがたい。その思想の幼さといおうか青臭さといおうか、読んでいて呆れるどころか身悶えするほどで、若気の至りと切り捨ててしまえるならそれでもよいが、自分としてはまだそこまで達観した境地に至ることができず、かつての自分のがむしゃらさにほんの少しでも羨望交じりの感傷を抱いてしまうのだから、それはつまり一見変わり果てたかに見える今の自分もどこかしら過去の自分と連続しているということになり、だから今のところはこの気恥ずかしさに耐えるしかないのだろう。

 まあそんな無駄話はさておき、読み返していて気付いたのは私の日記の記述には、夢についての記録がやけに多いということだった。夢に関しては数年前から興味があって、最近ではユング始め夢や睡眠に関する文献を積極的に集めている程なのだが、どうも私の夢に対する関心はそれを自覚するよりずっと以前から意識下に潜在していたようなのだ。

 もちろん日記という形で残しているものは特に印象に残った夢だけなので、後付けで夢日記だなどと胸を張って言えるほどのものではないのだが、それでも多少はそれに近いものにはなっていた。中には今の私からしても随分と興味深く、「どうしてこんな夢を忘れていたのだろう」と思わせられるものも少なくない。

 そこで、とりわけ印象深い夢を近頃いくつか見たということもあって、そうした夢を抜粋して文章にまとめようかと思いついた次第である。といってもなんのことはない、要するにあの大文豪の『夢十夜』という優れた先例の、猿真似をしてみたくなっただけのことなのだが。 

 しかし漱石ほどの国民的作家ならともかく、私のような物書きとしては虫けらのような輩の夢などを開陳したところで興味を惹かれる者は皆無であろう。古今東西の文献から夢に関する記述を収集して編まれた『夢のかたち』という、まさに「夢の標本函」といった趣きの書物の序文で編者である澁澤龍彦氏も言っているが、「他人から聞かされる夢の物語くらい退屈なものはない」のだから。稀有なる智識人にして幻想文学作家でもあった氏にしてこんなことを言う位なのだから、まっとうな昼の世界に生きる職業人にとっては尚更だろう。

 たしかに、真っ当な人間にとって夢が日常に占める位置など何ほどのこともない。まだあり余る程の時間のある学生時代ならいざ知らず、日中のオフィス街でせわしなく立ち回る現代人に向けて夢の話など始めようものなら顰蹙を買うことは火を見るより明らかで、場合によっては精神の健康さえ疑われかねない。こよなく夢を愛する私でさえ、日中に他人の夢の話などあえて聞きたいとは思わない(それがよほど興味深い夢の話であるならともかくとして)。どこまでも散文的な白昼の現実世界と、神秘的な夢の世界はどこまでも折り合いが悪い。

 しかし他方で、そのように現実界との相性が悪いことこそ夢の魅力と言えるのではないだろうかと、私はそう考える者である。こせこせした堅苦しい日常に飽き足りないと思えばこそ、夢想の世界への憧れは募るものだ。窮屈で代わり映えのしない現実の世界に疲れた時、幻想の翼を思うさま広げたいと誰もが願う。ある者はそれを俳優が演じる映画やドラマに求めるだろうし、ある者は物語や絵画に求める。

 であればそれを、夜の夢の世界に求めたとして、何が悪いというのだろう?

 映画もドラマも、小説やマンガやゲームにしても、結局のところ他人が用意した物語を鑑賞するにに過ぎない。私達はそこではいつも傍観者でしかなく、どれほど主人公に感情移入したところで本当の意味で物語を自分のものとして体験することはできない。

 しかし、夢の中ならどうだろう?夢の中では、私たちは誰もがその物語の主役になれる。この世のどこにもないとびきり奇抜な舞台で、常識からかけ離れた奔放な筋の物語を――胸躍るような冒険譚を、懐かしい子供の頃の自分を、時には魅惑的な異性と演じるロマンスを――他の誰でもない、自分自身の体験として味わうことができるのだ。

 だからこそ、人は夢に惹かれる。夢なんてと口では笑いながら、心の奥では「夢のような」物語を待ち焦がれている。夢に関する本はどこの書店にも並び、この先どれほど科学が進歩したとしても、決してなくなることはないであろう。

 他人の夢の話を聞かされるのは苦痛でも、自分の見た夢については誰もが興味を持っている。他人の夢の話など――という澁澤氏の箴言は、裏を返せば誰もが自分の夢だけは特別だと思っているということに他ならない。だから夢に注意を払う者なら誰でも皆、他人には何の価値もないであろう己の夢を現実界の非難から守るために、心のどこか大事なところにしまっているのだ。可愛がっている愛猫のように、愛してやまない我が子のように、――恋人のように。

 

 私はもう、くだくだと長ったらしい口実を綴るのはよそう。なんと言って正当化したところで、私自身の夢を元にしたこの小品は私の愛する夢たちへの私的な讃歌、いや返歌であり、もっと言えば恋文に他ならないからだ。そんなものを人様にお目にかけるのはどうかと思うが、構いはしない。私は私の自慢の夢たちを力の及ぶ限り、喜びを以って語るだけだ。おそらくはそんなものでも私と同じ夜の種族ならば同類として親愛の情をもって迎えてくれることだろうし、それに辟易すると仰る方は、決して引き止めたりはしないのでどうかお帰り願いたい。

 このささやかな作品の献辞は、だからあなた方の内の誰に献げるものでもない。できうるならばこの贈り物によって、私の夢たちが今よりもっともっと魅惑的な、目眩るめく神秘の夢の世界に私を案内してくれることを、心から願いつつ。

 

 ――この作品を、私の愛する夢魔に献ぐ