神の死体

 ある温かい、春の夜のこと。

 俺はどことも知れぬ山の中に迷い込んでいた。お月さんは一向に顔を出さず、山の中は真っ暗闇。道も何にもわかりゃしない。俺は途方に暮れていた。

 その時だ。俺の前に突然、でっかい桜の樹が姿を現した。

 それはまったく、今までに見たこともないような立派な樹で、他のどんな桜の樹と比較して言ってみたところで、到底その素晴らしさは言い尽くせるものではない。……大きさだけの話ではない、その美しさもまた、格別だった。

 折よく姿を現した月が、無数の枝の先から溢れんばかりの花びらを、金色にきらきらと光らせていて、その花がはらはらと舞い降りてくる様は、自然の為した業ながら神品とでも言いたくなるほどの、そんな神々しさに満ちていた。

 さっき俺は、月が出たといった。そう、眩しいまでの、黄金の満月が姿を現したのだ。だから勿論、辺りの様子はすっかりわかる。道も探せば見つかるだろう。だがその時の俺にはもう、道を急ぐなどという殊勝な心持はすっかり失せてしまっていた。どうせ急ぐ旅でもなし、こんな美しい桜の樹を前にして、通り過ぎるなんていう法はない。第一、そんな真似をしようものならこんな立派な桜の樹に、失礼が過ぎるというものだ。そんな風流心のない奴は、神罰に当たっても文句は言えまい。

 こうして俺は、その木の下を一夜の宿に定めることにした。屋根はないが、なに、雨一つ降る気配もなし、降るのはただ美しい花びらと、月から零れる光ばかり……。俺は桜の太い根っこを枕にして、満開の花を見上げながら、夢のような心地で、いつしかウトウトまどろんでいた。

 ……その内、俺はふと目を開いた。自分の横に、何者かの気配を感じたからだ。いや、気配もなにも、何か柔らかく、そして温かいものが寝ている俺の隣にいて、黙って俺の顔を覗き込んでいる。それがわかったから、すわ盗人かと思い、俺は慌てて飛び起きた。

 だが驚いたことに、それは盗人どころか美しい女で、花も恥らうような乙女だったのだ。それが寝ている俺の横で、しどけない姿で横たわっているのだから、それを見た時の俺の驚きはわかるだろう。

 正直に言えば、……俺は恐ろしかった。姿こそ美しいが、こんな夜中に女が一人で山の中にいるなど、どう考えても尋常ではない。

 これは妖怪変化の類、いやよしんば人間であったとしても、それはもはや生あるものではあるまい、世に無念を残して死んだ、悪霊の類に間違いない。咄嗟に俺はそう思った。

 俺が口を開こうとした時だった。女が、パッと華やいだ笑みを浮かべたのだ。それはまるで、夜の闇を一時に追い払ってしまうような、そんな輝くばかりの美しい笑みだった。思わずそれに見惚れ、ぼぅっとなっていると、突然女が覆い被さってきて、俺の口を吸い始めた。

 女の体が放つ、思わずとろんとするような、花のような匂い。俺の口の中を這い回る、甘い女の舌。……俺は気がつくと、夢中で女の口を吸っていた。おかしいと思わなかったわけではない、だが俺は、これほどまでに美しい女が、妖しの者である筈がないと思ったのだ。いや、先の考えと矛盾していることはわかっている。しかし女の体は死人のものにしては温かいし、いい匂いもするし、何より、とても柔らかだったのだ。

 俺は女を怪しんでいたことも忘れ、夢中で女を抱いた。それは今考えても、本当に夢のような心地だった。女が甘い声を漏らすたびに、その響きが夜気を震わせ、頭上の桜の花が感応したように揺れたと思うと、薄紅の花びらが一枚、夢のようにはらりと落ちる。その花びらが、俺の下に横たわる、女の白い肌身に落ちる。女がまた声を漏らす。するとまた、女の上に花びらが落ちる……。

 俺は我を忘れていた。この女の美しい肢体を、舞い落ちる花びらで埋め尽くしてやる。そう思った。

 ……それから、どれくらい経ったのだろう?気がつくと、俺は桜の花を見上げていた。いつのまにか、下になっていたのは俺のほうだった。そして俺の身体はもう、半分ほどがあの、薄紅の花びらに埋まっている。

 女はと言えば、俺の上になっている。寝転んでいる俺の目からは、女の後ろにあの美しい桜の樹があって、そしてその枝を透いて、天心の月までもが覗いている。……あの時俺が見たほど美しい光景が、この世にまたとあるだろうか?

 俺の上で踊りながら、女がこんなことを言い出した。

「あなた、桜の樹の下に埋まっているのが何か、知っている?」

 俺は答えた。

「桜の樹の下?さあ、お宝でも埋まっているのかい」

「馬鹿ねぇ」

 くすくすと笑いながら、女が言った。

「桜の樹の下にはね、人間の死体が埋まっているのよ」

「……人間の死体?」

「そう。桜の木はね、人間の死体を養分にして育つのよ。人間の死体と、そこに残っている魂を吸い取って、蕾をつけるの。……だから桜の花は、こんなにも美しいのよ」

 ……そう語った時、女の顔に浮かんだ、妖しいまでの美しい微笑み……。それを見た時、当然ながら俺は思った。

 そうか、この女は桜の精なのだ。そしてこの女は、通りがかった人間を捕まえては、その精を搾り取って花を咲かせるのだ。だからこそこの桜の木は、これほどまでに美しいのだ、と。

 そして俺は、薄紅の花びらに埋め尽くされそうになっているこの俺は、今まさにこの桜の餌食になろうとしているのだ……。

 それがわかって、少し恐ろしくはあったが、しかし俺はどうする気にもならなかった。正直に言えば、俺はもう、その女にぞっこん惚れ込んでしまっていたのだ。その時の俺の心持ちは、この女に殺されるなら、それはもう仕方がない、こんな楽しい思いをしながら死んで、その精をもってこの樹が美しい花を着けるというのなら、それはこれ以上ない素晴らしいことではないか、そういう心持ちだった。

 そんな観念したような気持でいると、また女が尋ねてきた。

「ねえ、桜の樹の下には死体があると、さっき話したけれど……」

「ああ」

「だったら、月には何が埋まっていると思う?」

「月に?」

 おかしな質問に、俺は少し戸惑った。どうにも訳がわからないので、仕方なく思いついたことを口にした。

「そうだな。桜の下に、人間の死体が埋まっているのなら……」

「ええ……」

「お月さんに埋まっているのはきっと、神様の死体だろうな」

 そう答えた俺には、しかしたいした考えがあるわけではなかった。どうせこんなことに、答えがあるものじゃないだろう。桜の下に人間の死体があるなら、あの夜空のお月様の下にはもっと凄い死体が埋まっているんじゃないか。そんな程度の、軽い思いつきで言ってみただけだった。

 だが俺がそう口走った途端、全く思いがけないことに、女は酷く苦しみ始めたのだ。呻き声を上げて、これ以上ないというほどの、憎々しいという顔を浮かべていた。

 そして言った。 

「やっぱりあ知っていたね!」

 女はそう叫んだと思うと、それぎり姿を消してしまった。

 何がなんだかわからない俺が辺りを見回していると、世にも恐ろしい、不可思議なことがまた起こった。まるで蝋燭の火を吹き消すように、突然月の光が消えてしまったのだ。

 辺りは何も見えない暗闇に沈んだ。あの美しい桜の樹も、もうどこにも見当たらない。

 わけがわからず、とにかく恐ろしい思いがして、俺は着物をかき集めると、後も見ないで駆け出した。……だが、辺りは自分の鼻の先もわからないような真の闇だ。走り出したはいいものの、石に躓く、木立にぶつかる。それでも俺は死に物狂いで、手探りで山を駆けずり回った……。

 ……ふと厭な予感がして、俺は足を止めた。恐る恐る手探りすると、なんとそれは切り立った崖の、本当に一歩手前だったのだ。俺は本当に後少しで、落ちて死ぬところだったのだ……。

 ……と、思うまもなく、俺は突然後ろから、誰かに強く押されてしまった。俺はよろめいて、足を踏み外して、そのまま崖から落ちた。

 俺は必死で後ろを振り向いたが、やはり辺りは真っ暗で、俺の背中を押した奴が誰なのか、見ることはできなかった。

 そうして俺は無明の闇の中を、どこまでも落ちていった……。