『タイス』 アナトール・フランス著  アナト-ル・フランス小説集とか

 

 昭和二年~の新潮社の世界文学全集32巻、「現代仏蘭西小説集」に収められていたもの(余談だが、この新潮社の全集のカバー絵はいい感じのものが多く、この32巻もいい感じ。箱は安っぽいのに)。でも、現在どこで読めるかは要調査。ごめんなさい。

 適当なあらすじ。まだキリスト教がローマ帝国から迫害されていた時代のエジプト。その迫害から逃れるため砂漠で隠遁生活をしているバフニュスは、中でも厳しい苦行を修め、多くの弟子に尊敬されている立派な修道士だった。そんなある日、自分の人生を振り返っていたバフニュスは過去の自分の恥ずべき過ち(ただし未遂)を思い出す。まだ神の道を知らなかった頃、巷で美しいと評判だったタイスという舞姫に心惹かれ、危うく邪淫の罪を犯すところだったのだ。ただ、若さ故の臆病と金がなかったために断念した。

 この若かりし自分を思い出すと、バフニュスは過去の自分の愚かしさに恥じ入る。そして、今でもあのタイスが多くの男たちを惑わして罪の道に陥れていると思うと、我慢できないように思えてくる。そしてついに、「あの女を悔悟させて神の道に導くことこそ、私の仕事だ」と思うようになる(全くもって余計なお世話だと思う)。そして本当に会いに行き、首尾よくタイスを改心させ修道女にしてしまう。だが……。

 まだ途中だが、ざっとこんな話。なのだが、最初読み始めた時、はっきり言って苦痛だった。いや、苦痛というのはちょっと違う。読みづらいというわけではないのだが、この主人公のバフニュスというのが、私にはちょっと受けつけない人物だったのだ。というか、読んでて腹が立った。

 というのも、このバフニュスが冒頭に紹介したとおりキリスト教徒なのだが、なんというか……まあ、むかつく感じのキリスト教徒だったのだ。砂漠を出たバフニュスはチモクレスという他の隠遁者に出会うのだが、この隠遁者がキリスト教徒ではないとわかると途端に罵倒する。他にも、アレキサンドリアの街に行ったバフニュスはかつての親友のニシアス(趣味でギリシア哲学を学んでいる)と話すのだが、相手の話に聞く耳をもたない。バフニュスは他の連中の言うことを全て「偶像崇拝者の戯言だ」と決め付け、自分ひとりだけは「正しい神の教えを知っている」と思い込んでいる。なんともおめでたい人物なのだ。

 といっても私が腹を立てたのは単にこいつが気に食わないだけでなく、昔の嫌なことを思い出してしまったからだった。筆者は昔、大学時代に同じ学科の奴から宗教の勧誘を何度も受けたことがあるのだが、そいつとこのバフニュスがそっくりだったのだ(もちろん外見とか性格の話ではない)。自分が絶対的に正しい位置にあり、そうでない間違った連中に正しい教えを垂れてやる、という態度が見え見えだった。そいつは無神論の私に「どうして神がいると言えるのか」をあれこれと(説得力のない)論証してみせたのだが、それでも信じない私に業を煮やし「頭が固い」とか難癖つけてきたのもいい思い出である(嘘)。

 まあ、そんな奴だったのだが、それでも今思えばそいつはこのバフニュスよりはましだったといえる。なにしろこのバフニュスは「自分が正しい」と思うばかりで、どうして自分が正しいのかを証明しようとすらしないのだから。それで相手を偶像崇拝とか軽蔑するのだから、いい御身分である。部外者からすれば、キリスト教がそんな偶像崇拝とどこが違うのかわからない……というか、偶像崇拝以外の何物でもないと思えるのだが、それが本人にはわからないのだ。

 とまあそんな具合で最初から辟易した。なにしろあまり予備知識もなしに読み始めたものだから、作者の考えとこのバフニュスの考えがどの程度まで一致しているのかわからなかったのだ。もしも冒頭の調子のまま最後まで突っ走っちゃうなら、読む必要ないなと思っていたのだが……。

 もちろん、そんな筈はなかった。なにしろ作者はアナトール・フランスだし、この本はしっかり禁書扱いされていたのだから、キリスト教万歳な内容のまま終わる気遣いなど無用だったのだ。淫蕩な娼婦タイスは改心して清らかな生活を送るのに、一方の道心堅固な筈のバフニュスは心乱れ、タイスへの欲情に苦しめられることになる。そしてラスト、タイスが今まさに死の床にあると聞いてバフニュスは彼女の元に駆けつけ、臨終間際の彼女を誘惑しようとすらする。禁書扱いされるわけである。

 こうなってくると途端にバフニュスが人間臭く見えてくる。それで先入観を捨ててパラパラ読み返すと、バフニュスが最初からタイスに会いたかっただけだったのがよくわかる。「あの女が今も世間の男を堕落させている。なんとかせねば」……て、要するにタイスを取り巻く男達に嫉妬してるだけだし。バフニュスはタイスに会いに行く前にかつての親友ニシアス(金持ち)の所に行き金と立派な着物をもらう。色々言い訳しているが、これだって女に会う前に身だしなみを整えているだけ。なのに(この時点では)本人も自分の欲望に気付いていない。

 要するにバフニュスは最初から最後まで、単なる滑稽な道化の役に過ぎない。最初に私が反感を抱いた、バフニュスの傲慢なまでの信仰心も、もちろんわざとそんな風に戯画化して描かれていたわけで、作者の計算通りだったのだろう。

 でもこれ、筆者のような無信心者なら胸のすく思いを味わえるけど、本当に真面目なキリスト教の信者なら眉を顰めるんじゃなかろうか。とくに冒頭のバフニュスそのままのような、教会の教えに凝り固まった偏狭な信者なら絶対に怒り出すに違いない。だってこれ、どう考えてもバフニュスのような頭の固い連中をおちょくるために書かれたとしか思えない本だもの。作者もひょっとして、このバフニュスみたいな連中に現実で嫌な思いをさせられたんじゃないのか、とつい勘ぐってしまいたくなる。

 とはいえ、このバフニュスを単に作者におちょくられるために存在する道化役とだけするのも少し気の毒ではある。この哀れな主人公は最後、タイスが死に瀕していると聞いて、彼女に逢うために駆け出すのだ。そして自分を、そして神までをも罵り、叫ぶ。「貴様はあの女を見たのに、他の世界の宝を望んだのだ!卑怯者め!神を恐れたのだ!神、天、それが何だ?あの女が貴様にくれればくれることのできたもののごく僅かな一片に相当するものを、神や天がくれるとでもいうのか?(中略)あの時、貴様を盲目にした神に呪いあれ!」と。この時、自分ばかりかそれまで信仰していた神にまでも呪いの言葉を放つバフニュスは既に、ロマン的な物語の主役にも値する資質を獲得している。

 寝台に横たわり、神に祈る末期のタイスに、「死んじゃいけない」とバフニュスは呼びかける。しかしタイスはバフニュスの姿を認めながら、その言葉には耳を貸さない。彼女は神の栄光に包まれた神秘的な幻覚を見つつ、喜悦の吐息を洩らして息絶える。

 バフニュスは絶望し、その体を抱きしめながら、「希求と憤怒と愛欲から彼女に噛りつ」く。そんな彼の顔は、自分でも醜いと思うような、吸血鬼のような恐ろしい形相になっている……。

 それにしても。堕落した身から改心して神の道に入り、(無信心者の私から見ても)清らかで幸福な最期を迎えたタイス。神の道から堕落し、肉欲に塗れ(真実の愛に目覚め)、醜く変わり果ててしまったバフニュス。なんだか最初から最後まで、どっちの道が正しいのかわからなくさせる……いや、考えさせる作品である。