『テス』 トマス・ハーディ著   色々

 

 家にあった新潮社の世界文学全集にあったので読んだ、言わずと知れた……と、これはもう本当にこう言うしかない、イギリス文学の代表格にして世界文学の名作、ハーディの『テス』。ちなみに本来のタイトルは『ダァバァヴィル家のテス』らしいが、やはり『テス』だけの方がしっくりくる。なによりそっちの方が断然かっこいいと思う。 

 さて、そんな世界文学である『テス』なのだが、実を言えば全然読むつもりはなかった。というのも筆者は、小説にはどうしても相性があり、どんな名作や傑作であろうと相性が合わないものはどうしても合わないのだと思っているからである。だから、たとえ同じような世界文学上の傑作、例えば『罪と罰』を大好きだからといって、『テス』を読んで同じように心を揺さぶられるわけがない、と思っていたのだ(勿論、『罪と罰』に比べて『テス』が劣っているといいたいわけではない。その両者の優劣を論じるのは、例えば絵画で言えばフェルメールとゴッホのどちらがより優れた画家かを論じるのと同じように、ほとんど意味のないことだと言いたいわけである。勿論どちらも偉大な画家であるが、好みはどうしても別れるわけで)。それは、大まかなあらすじを読んで判断していたわけだが。

 『テス』の内容を紹介する必要もないだろうから省くが、私が事前に解説を読んだ限りでは要するに、「テス」という一人の(不幸な)女が、散々苦労するというものだった。それも別に何か物凄い事件が起きるわけでもないし、(少なくとも自分には)読む必要のないものだと思えたのである。

 それでもまあ、一応世界文学上の名作と言われるものであるし、全く読みもしないで捨ててしまうのは心苦しかったし、解説にも「ストーリーだけ見ると通俗小説のようだが、決してそうじゃないんだ(大意)」と書いてあったのでまあ試しに、嫌になったらすぐやめよう位の軽い気持ちで読み始めた。

 最初に出てくるのは、もちろん女主人公のテス……かと思いきや、ジャンとかいう単なる村のおっさん(実はテスの父親なのだが)。この何の変哲もない、どころか怠け者で酒飲みのおっさんが、道であった村の牧師に「閣下」と呼ばれて不思議に思うところから物語は始まる。さて、単なる村人であるジャンはなぜ、真面目な牧師から「閣下」などと呼ばれたのか?

 牧師は説明する。今では見る影もないが、実はお前の家は今では落ちぶれているが、昔はダァバァヴィル家という由緒ある貴族の末裔なのだ……と。

 もちろん、元貴族だからといって実際はどうなるものでもないのだが、これを聞いてジャンはすっかり有頂天になってしまう。その勘違いっぷりは甚だしいもので、「この事実が明らかになったからには、そのうち領地がもらえるに違いない」とか本気で考えてしまう。で、そんな妄想を平気で村中に言い触らしたりする(正直、この辺りで既に私は続きが気になっていた。このジャン閣下のはしゃぎっぷりはイタイタしくてむしろ不快なのだが、それでもこれからどうなるのかと思わされてしまったのだから、こちらの負けと言うべきなのだろう)。

 さて、ジャンはこの大発見を家族に話す。私はてっきり、「これは浮かれた馬鹿夫をしっかりものの妻が叱り飛ばすのだろうな」と思っていたのだが、そうではなかった。なんと、妻の方も一緒になって喜んでしまうのだ。冷静なのは聡明な長女のテスだけで、他の小さな弟や妹も両親と一緒になって喜んでいる始末。この時点で不幸なテスである。

 もっとも、さすがに母親の方は現実的な打算も働かせていて、この事実を利用する算段を思いつく。まあその辺は割愛するとして、要するにその算段がテスの生涯の不幸の元になる。で、苦難の生涯を送ることになるわけで、読者はすっかりテスに感情移入して一喜一憂することになる。でもこの辺も多分、実際に読んでもらわないと伝わらないだろう。

 それにしても読み終わってつくづく思うのは、(このジャンを含めて)男の登場人物にろくなのがいないということである。テスの最初の奉公先の主人で、無理やり彼女の処女を奪ったアレクはもちろんとして(こいつは正真正銘クズの下種野朗である)、テスにぞっこんで結婚したくせにその事実を知って急に冷淡になり、テスを置いて一人で南米に行ってしまったエンジェルだってどうしようもない。まあ貞操観念の強いヴィクトリア朝時代だったとしても、それはないだろうという感じは拭えない。まあエンジェルの父親はそこそこまともなわけだけど、頑固だし、たいして物語に関わってくるわけでもない。

 それでもやっぱり、アレクのクズ野郎ぶりは群を抜いている。前述の通りテスの処女を奪ったアレクは後にある牧師(実はエンジェルの父親だが)に説教されたのが縁で(屑の分際で)信仰の道に目覚め、各地を説教して回っている。のだが、その途中でテスを見つけると、逃げたテスを追いかけてくる。その挙句、偉そうに「僕は改心したんだ」とか言ったりする(ぶっちゃけ殴りたい)。

 もちろんテスはそんなことは信じないし、許すつもりもない。それで「二度と会いに来るな」と誓わせて別れるのだが、アレクは図々しくもまた会いに来る。完全にストーカーである。そして「過去の贖罪のために君と結婚したい」とか言い出す始末。テスが既に結婚していると知った時はショックを受けるが、それでもしつこくやってくる。

 ……まあ、この辺のアレクのしつこさとか鬱陶しさとかいやらしさとかは、原著を読んでみてもらえればわかるので割愛するが、とにかくここがこの作品全体の中で、最もハラハラする部分であることは間違いない。こちらはすっかりテスに感情移入しているし、なにしろアレクには無理やりテスの貞操を奪ったという過去がある。業を煮やしたアレクが、いつまた腕力に物を言わせて……とか思うと、全くもって気が気じゃない。遠くに行ってしまったとはいえ、テスはまだ夫のエンジェルを信じて待っているし。南米に渡ったエンジェルの方は、病気をしたりしている間に段々とテスを許す心境になってきているし、さっさと帰ってやれよエンジェル!と思わずにいられないのだ。

 その結末は……まあ、世に知られた名作とはいえ、書かないでおく。

 ところで、さんざんアレクのことをクズクズと言って来た筆者だが、まあ一応擁護できるところを述べておこう。先にも書いたとおり、アレクは前非を悔いて説教師になったわけだが、結局はまたテスを誘惑するようになってしまう。その当初の、神の道云々とか詭弁を弄してテスを口説き落とそうとするのははっきり言って虫唾が走るのだが、結局すぐにアレクは還俗してしまう。……まあこれも「改心したとか言ってたのは何だったんだよ!」という感じだが、形ばかり改心したフリをしてるよりも余程いさぎよいという感じではある。ハラハラさせられるとはいえ、結局最後までテスを無理やり襲ったりはしないし、その点は評価してもいいだろう(超上から目線)。

 実際、後半のアレクは単なるクズ野郎ではなくて、誘惑者みたいな位置付けになっている。筆者的には前半があまりにも鬱陶しかったので完全にアウトなのだが、人によってはアレクみたいなのに危険な魅力的なものを感じたりするのかもしれない(ないかな?)。

 

 まあそんなこんなで読み終わって、真っ先に感じたのは、上手くいえないが「ああ、世界文学を読んだな」としか言いようのない満足感だった。それは例えば、『罪と罰』を読み終わったときに感じたそれと同じ(全く同じではないとはいえ)ものだったのだ。少なくとも、筆者にとっては。

 これは自分でも、全くもって不可解なことだったりする。内容の好き嫌いでいえばやっぱり、個人的には『罪と罰』に軍配が上がることに変わりはない。にもかかわらず、両者から感じた満足感にはどこか共通するものがあったのだ。

 これは何に由来するのだろう?……改めて考えても、やっぱりわからない。

 ストーリーははっきり言って、読む前に持っていた情報と全く異なるところはない。読んでいる時にはハラハラドキドキしたとはいえ、そこから何か得るところがあるわけではない(と思う)。それなのに、この言い知れぬ満足感……。

 たとえばの話だが。もし、これと同じような筋の物語を、同じ材料を使って現代の日本の作家が書いたとして、この『テス』と同じだけの満足感が得られるとはちょっと思えない。……いや、想像できないのだ。もしかしたら分量の問題かとも思ったが(なにしろ長い小説だし)、今時のエンタメ小説にはやたら長いものだってあるわけだし、それでいてこんな満足感を覚えたことはないわけだから、やはり単純に分量の問題ではない筈だ。じゃあ何だろう?描写とか、人物の掘り下げの深さとか?

 うーん…………わからない。

 しかし、この満足感。正体のわからないこの満足感こそ、実は世界文学を世界文学たらしめている要素なのかもしれない。なにしろ、なんといってもそれは「ああ、世界文学を読んだ」的な満足感なわけだから。まあ、その由来が何かわからなければ意味はないが。

 

 ところでこの感想の最初に筆者は、「世界文学といえど小説なのだから、相性の有無はある」みたいな生意気なことを書いた。だがもしかしたら、そんな「相性の有無」なんて些細な問題を乗り越えて、あらゆる人にこの満足感を与えることのできる小説こそが、世界文学の世界文学たる条件なのかな、とそんな風にも考えさせられた小説だった。

 ……読まず嫌いせずに、名作と言われるものはやはり読んだ方がいいのかも。