『月と六ペンス』 サマセット・モーム 岩波・新潮・光文社他

 

 岩波や新潮など文庫が色々なところから出ているものの私が読んだのは河出書房新社のグリーン版世界文学全集で、阿部知二という人の訳。これは絶対好きな本だろうからグリーン版で探しててそのために読むのが遅くなったのだけれど、やっぱり期待に違わずお気に入りの一冊になった。だからして既に充分満足なのだけれど、好きなだけに他の翻訳がどんな感じかちょっと気になる。

 解説の必要もないだろうけれど、この小説の主人公であるストリクランドという画家はゴーギャンがモデルであると言われている。実際、中年になるまで平凡な勤め人だった男が突然画家を志して仕事を辞め、ついには妻子を捨ててタヒチに行くところなどはそのままだったりする。といっても細部は全然違っているので、着想を得ただけでほとんどはモームの創作である。例えばゴーギャン自身のタヒチ滞在記である『ノア・ノア』(岩波文庫)によれば、ゴーギャンは現地で妻とした少女にせがまれて渋々アクセサリーを買ってやったり浮気を疑って嫉妬したりしているが、モームの生み出した作中人物たるストリクランドは女に媚びるどころか全く顧みようとせず、ひたすら自分の心の中のビジョンを現出せしめようと絵筆を振るう。そのためなら妻子を捨てても善良な友人(とすら思っていない)を手酷く裏切っても、さらには自分の情婦が自殺を図っても歯牙にもかけない。他人の評価など気に掛けず、誰にも理解されなくても或いはたまに褒められたとしても寸毫も揺らぐことはない。こうしてみるとストリクランドの態度はゴーギャンより徹底しているとも言える(もちろん、創作上の人物だから当然なのだが)

 そんな訳でこの小説は芸術を巡る、というより芸術というデーモンに取り憑かれた男を巡る物語なのであり、タイトルの「月」は芸術とか理想、「六ペンス」は世俗とか現実とかを象徴しているという。まあ正直、日本人としては六ペンスという響きにもなんか浪漫的な響きを感じ取ってしまうのだが(私だけだろうか?)。だから単位は円とかドルに直すと原義に添うのじゃなかろうかと思うが、それだとやはりイメージが壊れる気がする。

 

 この小説の見所としてはまず、モームの分身とも取れる「僕」tいう語り手が記す、随所にちりばめられたシニカルな人生観や俗人への鋭い観察眼が挙げられる。例えば「生活のロマンスを実感するためには自己の中にどこか俳優的なところを持たなくてはなら」ないだとか、「恋愛がこの世でもっとも重大なことと見ている男は数も少ないし、またそのような連中はたいして興味のある人間でもない。恋愛に至高の感心を持つ女達ですらそのような男には軽蔑を感じる。彼女たちは彼らの追従をよろこび、のぼせたりもするが、相手はくだらぬ人間ではなかろうかと不安な気持ちを抱く」とか。でも同時にモームには浪漫的なところもあって、有望な前途を自ら擲ったエイブラハムという男の挿話は胸を打つ。「世の中には場違いのところに生まれてくる人々もあるものだ、という考えを私は持っている。(中略)近親の間で全生涯を異邦人として過ごすこともあろうし、それ以外の環境を知らないくせに永久にそれに馴染むことができないこともあろう。(中略)ときとして人は、ある神秘の情とともに自分の故郷だと感じられる場所をみつけることもある(後略)」……など。

 しかしなんといってもこの小説の魅力はストリクランドという生粋の(けれど奇っ怪な)画家の人物造形であろう。彼はひたすら自己の芸術の完成形を目指し、ほとんど脇目もふらずに猛進する。そのエネルギーは凄まじく、そのために周囲の人間を巻き込んで破滅においやる。語り手の「僕」は作家としてストリクランドの人格に興味を覚え、その傲慢さや身勝手な振る舞いもある程度は許容するのだが、自分の友人を破滅させられた際には怒りを覚える。が、それでも結局はストリクランドという人間を理解しようとしてしまう。

 「きみは、おそらくは存在しない何らかの神殿への永遠の巡礼だというように見える。(中略)きみの疲れた魂は女の腕の中に休息を求めたが、そこにはちっとも休息がないと知って女を憎んだのだ」

 「ひたすら自分の目的に専念して、それを追及するためにはすすんで自分を犠牲にしたばかりでなく――それだけならばできる人はざらにあるが――他人をも犠牲にした

 創作のために自分どころか他人をも犠牲にして恥じないストリクランドに「僕」は反発と羨望を同時に感じている。正直、気持ちはわからなくもない。

 

 この後ストリクランドはパリを去り、「僕」は二度とこの画家には会わない。それきりずっと忘れてしまうのだが、後年たまたまタヒチへ出かけ、そこで出会ったブリュノ船長の話によってストリクランドを理解する。

 「ストリクランドをとらえて離さなかったのは、美を創造しようという情熱だったのです。それが彼には心の平和をちっとも与えなかったのですね。あちこちと彼を駆り立てたのです。(中略)真理を求める気持ちがあまりに強い為に、それを得るためには自分達の世界の根底さえも粉砕しようとするような人がおります。そういう人間が、ストリクランドだったのです。ただ、彼の場合は、美が真理に取って代わっただけのことです。私は彼のために、深いあわれみをかんずるだけですね」

 私としてはこうした文章からユングの芸術論である『心理学と文学』(平凡社ライブラリー『創造する無意識』所収)を思い出した。ユングは「無意識の内に働いている人類の魂の、彼(芸術家)は担い手であり形成者なのである。これが彼の公務に他ならない。その責務の重さは重く、そのためにしばしば人間としての幸福や、普通の人たちにとって人生を生きるに値するものにしている全ての善きことを犠牲にしなければならないほどである」とか、芸術家の内には二つの勢力がせめぎあっており、一方は個人的な幸福という願望があり、「他方にはがむしゃらな創造の情熱があって、こちらは必要とあればあらゆる個人的な願望などは踏みにじって通る。だからこそかくも多くの芸術家の個人的な宿命が、かくも不運で悲劇的であるわけで、それもなにか暗い定めといったもののせいではなく」、創造にエネルギーを費やすために適応能力に不足しているからだと言っているが、これはほぼモームの言っていることと同じだろう。

 

 ところで。読んでいたときの不満としては、絵画芸術が主題の小説だというのに、ストリクランドの絵についての記述がほとんど見られなかったことだったのだが、それについてもモームは最後の最後にど派手にやってくれた。

 「彼は絵については何も知らなかったが、それらの絵には、並外れた力をもって彼の心に肉薄してくる何ものかがあった。床から天井まで、どの壁も、奇異な、そして入念な画面でいっぱいなのだった。(中略)彼の胸にみちあふれてきた感動の、正体をつかみ、また分析することは、不可能だった。人がもし天地創造を目撃したならば感ずるであろうような、畏怖と歓喜とを、彼は感じた

 「それは、自然の隠された奥底を掘り起こし、美しく同時に恐ろしい秘密を発見した人間の作品だった。人としてそれを知るのは神を冒すこととなるような事がらを知った人間の作品であった。そこには何か始原的な恐怖があった。(中略)それは美であるとともに、淫らでもあった」

 この、ストリクランドの生涯最後の傑作を目にした医師は思わず言った。「いかにも、これが天才なのだ」

 この遺作の話を聞いた「僕」は、それによってストリクランドが彼にとり憑いた悪魔を追い払い、彼の仕事を完成させたのだと考える。しかしストリクランドは現地の妻であるアタ、孤独な彼に初めて真の意味で連れ添った女であるアタに、自分が死んだら小屋ごと絵を焼き払えと約束させる。そしてアタは愛する男との約束通り、人類の宝ともいうべきその傑作を焼き払ってしまう。

 なぜストリクランドは絵を焼き払うよう命じたのか?彼は死ぬまで他人から評価されることはなく、(その点ではゴーギャンよりむしろゴッホに近い)だから自分の絵が傑作だと思わなかったのか。そうではない、と「僕」は考える。

 「ストリクランドは、それが傑作だということを知っていたと思います。彼は自分の望んでいたことを成し遂げたのです。彼の一生は完結したのです。一つの世界を作り上げ、それがいいものだと知りました。それから、誇りと侮蔑とを感じながら、それを焼き払ったのです」