『悟浄出世』 中島敦著 (岩波文庫「山月記・李陵」所収)

 『山月記』で有名な作者が『西遊記』を元ネタにしつつ、かなり自由に好き勝手にやらかしてる小説(悟浄というのは勿論河童の妖怪として知られる沙悟浄のこと)。これ自体は短編なのだけれど、姉妹篇として『悟浄嘆異』という短編もあり(タイトルうろ覚え)、どちらも「我が西遊記より」という一文が添えられている。だから中島敦にはどうやらこれをシリーズ化して自己流の『西遊記』を作る構想があったみたいである(ちなみに「出世」というのは文字通り「世に出る」という意味で、昇進するということではないと思われ)。 

 『悟浄出世』は勿論、沙悟浄メインの話。作者は悟浄をかなり内省的な人物として描いている(というか恥ずかしながら原作の西遊記は読んだことないのだけれど)。流沙河(たぶん字違う)の川底には多くの妖怪がいて、中には哲学者(!)もいてそれぞれの思想を掲げている。自分という存在が何の為に在るのかという問いに取り憑かれた沙悟浄は、彼らに弟子入りしてその答えを教えてもらおうと思いつく。こうして沙悟浄は、それぞれが独特の思想を説く高名な妖怪の元を次々と訪ねるのだが……という話。

 この設定だけでもわかる通りかなり風変わりで面白いのだが、悟浄が教えを乞う思想家達もこれまた奇妙で面白い。思想家といっても何しろ妖怪だから、人間と違っていろんな意味でぶっ飛んでいる。数ヶ月に一度しか目を覚まさず、夢と現実が入れ替わってしまっている奴やら、愛の尊さを説きながら、弟子達の見ている前で自分の子供を(無意識に)むしゃむしゃ食ってしまう奴やら。やってることはむちゃくちゃだけど、なんとなく深い意味が隠されているような気にもなり、なんだか考えさせられたりもする。

 悟浄も色々な教えを受け、考えさせられたりもするのだが、結局のところ自分の欲する答えは得られない。それどころか色んな思想を吹き込まれたせいか、却ってよけいにわからなくなってしまったような気になってしまう。最後に仏様が現れて悟浄を諭し、「もうすぐやってくる三蔵法師の弟子となり天竺に行け」みたいなことを言われる。悟浄は一応は納得し、言われた通りに三蔵の弟子になったものの、結局うまくごまかされているような感じが拭えない。

 という話。訪ねた妖怪が次々に自分の思想を語るという内容からも普通の小説という趣きではなく、いうなれば思想小説とでも言えるものになっている。作者はこれに関連して『ツァラトゥストラ』の名前を挙げていたそうだから、やっぱり最初からそうした意図で書いていたのだろう。

 しかし、結局この作品の中では悟浄の疑問は解けずに終わる。姉妹篇の『悟浄嘆異』では悟浄から見た悟空や八戒の姿が描かれ(これも作者なりのアレンジがされていて面白いのだが)、特に玄奘三蔵の在り方に何らかの光明を得るみたいなラストになっているが、やっぱりはっきりとした形で答えは示されない。これはやっぱり未完のまま終わったためなのか、それとも意図的にそういう形にしたのか(『嘆異』のラストでもなんとなくわかったような気にさせられるのも事実)わからないが、とりあえず面白いのだからなんでもいい。

 個人的に好きなのは、最後に訪れた女妖怪が悟浄に語った例え話。ある所にとてつもない大妖怪がいて、過去・現在・未来を問わず、すべてのことを見通すことができた。そんな全知の大妖怪は、けれど万物が何故在るのか(つまりは存在理由)という疑問を抱き、その問いの答えを見つけることができず、苦悶して死んだ。他方、そんな大妖怪とは比べ物にならない、あるちっぽけな妖精がいた。その妖精は、自分はきらきらしたとてもきれいなものを見つけるために生まれてきたのだと信じていた。妖精は結局それを見つけることはできなかったけれど、その生涯は幸福で満たされたものだったはずだ、という話。

 哲学的でそれでいてユーモアがあって、『山月記』とは少しイメージが違うけれど、とにかく面白い。中島敦というと普通は『山月記』が代表作ということになると思うけど、個人的には断然こっちの方が好きだったりする。『わが西遊記』が完成していて、一つの大きな作品にまとまっていたらと、空想せずにはいられない。そしたら作者の代表作はこっちなっていただろうし、奇書にして傑作として、もっと知られていたに違いない。本当に惜しい。

 とはいえ、『悟浄出世』(と『悟浄嘆異』)だけでもだけでも抜群に面白いことには変わりない。もっと多くの人に注目されて然るべき、そんな隠れた名作だと思っている。