『藪の中』 芥川龍之介 著  岩波文庫他

 

 芥川については以前に『尾生の信』という超マイナーな作品について語ったが、今回はメジャーな作品について語ってみたい。芥川のメジャー作品と一口に言っても色々と(本当に色々と)あるわけだが、今回は『藪の中』を取り上げることにする。いや、だからといって『藪の中』が一番のお気に入りと決まったわけではないのだが(ベスト5には入るだろうけど)。 

 この有名な作品について、わざわざその概要を語る必要もないだろう。この小説が元で真相がはっきりしないことを「藪の中」と表現するようになったなどと周知のことをいまさら言うまでもない(言ってしまったけど)。また、芥川のいわゆる王朝物に分類されるもので、元ネタが今昔物語だというのも今更である。あまつさえ、ストーリーについて紹介する必要もないだろう。 

 ……とは思ったが、まあ感想を語るうえでは必要かもしれないので、一応最低限の説明はしておくことにする。

 (1)平安時代(?)都から少し離れた街道を、若い武士とその妻が歩いている。その二人を見かけた多襄丸(たじょうまる)という盗賊が、美しい妻を見て情欲を覚える。多襄丸は言葉巧みに二人を人気のない山奥の「藪の中」に連れ込む。盗賊は武士を縛り上げ、美しい人妻を(夫の目の前で!)強姦する。

 (2)それから何事かが起きる(そこで何が起きたのかは、厳密にはわからない)。

 (3)その結果。男(若い武士)は事件現場である藪の中に、刺殺された姿で発見される。多襄丸は逃亡するが、翌日に捕縛され検非違使の取調べを受ける。妻は自害しようとするが果たせず、清水寺で懺悔する。

 以上が大体のストーリーである。

 ここで断っておかなければならないのは、この小説が特殊な形式によって書かれていることだ。この小説にはいわゆる地の文というものはなく、文章の全てがこの事件の被害者や加害者、その関係者や目撃者の証言や供述という形で書かれている。そのため、完全な意味で信頼できる(というか作者によって真実と保証されている)客観的な事実というものはどこにもない。その上、各者の証言がそれぞれ食い違うので(特に当事者の三人のそれが)、一体何が真相なのかがわからなくなっている。

 証言者を全て挙げると、

 ①樵(きこり)。現場の第一発見者。武士の遺体と現場の状況について語る

 ②旅の法師。事件前に夫婦を見かける

 ③放免(ほうめん。警察のようなもの)。落馬して唸っていた多襄丸を捕らえた人物

 ④老婆。襲われた人妻の母親。娘夫婦の性格について証言

 以上の四人は、検非違使に呼ばれてこの事件について語っている。そして

 ⑤多襄丸。事件の後に囚われて、事件について供述する。

 ⑥妻。事件の後に自害を図るが果たせずに寺に行き着き、事件について懺悔する。

 ⑦武士の死霊。既に死亡しているが、巫女に口寄せされて事件について語る。

 この三人は事件の直接の関係者である。ただしこの三人の証言は、事件の肝心の部分についてかなり食い違っている。特に「誰が男を殺害したのか」についてはバラバラで、三人が三人とも「自分がやった」と証言している(つまり本人である武士は、自害したのだと主張する)。

 以上が本書の概要となる。こんな大雑把で拙い紹介でも、この作品が奇妙でそれでいて抜群に面白いものだとわかって頂けると思う(……と思う)。一つの事件についての証言が複数あって、しかもそれぞれ言っていることが全く違う。その奇妙な設定。それによって生じる、なんとも不気味な雰囲気。犯人は誰か?という、探偵小説的要素。しかも真相が明かされていないので多様な読みの可能性が開かれていて、読者が自分なりの解釈をすることができる(もっとも、人によってはこの点は受けつけないだろうが……)。

 実際、この小説が発表された当時もこの推理小説的要素と、その(当時としては)目新しい形式が話題を呼んだらしい。まあ、この形式を生み出したのが芥川というわけではなくて海外の小説に元ネタがあったらしいが、とにかく当時の日本において珍しかったのは確かだろう。

 私がこの小説を初めて読んだのは大学に入ったばかりの頃で、教養科目の日本文学論の授業だった。その授業では戦前の短編作家ということで志賀直哉と芥川龍之介の二人を取り上げ、読み比べるみたいなことをやっていたのだ。

 その講義では教授が本作についても色々と解説してくれたという記憶があるが、正直言ってよく覚えていない(ごめんなさい)。でもたしか色々な予備知識に加えて、この作品の根底には作者の女性への不信感があるという考察があったように思う。主要人物三人の内、武士と多襄丸という二人の男性が(被害者と加害者の関係であるにも拘わらず)互いに好感を抱いており、どちらも妻(女)に対しては悪意やら敵意やらを抱いているから、とのことだった。

 私自身の感想はというと、当時はあまり小説を読みなれていなかったこともあり正直よく覚えていないとしか言いようがない。ただ、教授のような観方はしていなかったので「なるほど」と感心したのは覚えている。ついでに言うと「一体何が真実なのか」は少し気になったが、いわゆる「犯人探し」をしてみようなどとも全然尾思わなかった。その辺については、「真実」なんぞというのは人によって違うとか、各人各様の真実がある、という説明をそのまま受け入れていた。

 それより自分にとって印象的だったのは、全体に漂う不気味な雰囲気。そして何よりも、死んだ(殺害された)人間が、自分が死んだ時の状況を物語るというその状況の異様さこそが、特に印象深かったと思う。なにしろ私達は当然のことながら、人間が死ぬ時の状況・心境を綴った文章なんて普通は読むことができない。しかしこの作品の中では死霊が巫女の口を借りて語るという方法でそれを実現している。それは勿論、作中の設定に過ぎないわけだが、読んでいる時は本当に「死者の告白」を読んでいるような気分にさせられた(少なくとも私には)。特に、目の前で最愛の妻を犯された上その妻に裏切られ、藪の中にたった一人取り残された男が自分の胸を刺した後の独白。

 「おれはそれ(小刀)を手に取ると、一突きにおれの胸へ刺した。何か生臭い塊がおれの口へこみ上げてくる。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、なんという静かさだろう。

 この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。ただ杉や竹の内に、寂しい日影が漂っている。日影が、――それもしだいに薄れてくる。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている(後略)」。

 私はこれを読んで、本当に死に際の人間の言葉を聞いているような錯覚に陥った。作家というものは体験できないはずの「死」をもここまでリアルに描けるものなのか、と思ったものだ。「中有」という不思議な言葉を知ったのも、この作品が初めてだった。この作品を読んだ当時は、まだろくに小説を読んだこともなかったので、余計に印象が強かったのかもしれない。

 それから色んな本を読んで、この本も何度も読み返してみて新たな発見もあったし、他の人々の感想なども目にしたがそれでもやっぱり、今もその思いは変わっていない。

 まあそんなわけで、私はこの作品が好きなのである。

 

 ……さて。

 読んだ感想といえばまあ大体それだけなのだが、今さら『藪の中』をわざわざ取り上げておいてその「真相」に触れないというのも片手落ち、とまでは言わないが若干物足りないであろうというのも事実ではある。あの藪の中で一体何が起こったのか。誰が真実を言い、誰が嘘を言っているのか。或いは、三人とも嘘を言っているのか?

 この「真相」の問題については、どうやらわりと最近までは(といっても40年位前だが)、真実というものはその人によって違うものだ、という解釈で片付けられていたようだ(少なくともそれが主流だった)。でもまあこれは言ってみれば「真相」の解明を諦める、若しくは最初から真相なんてものはない・作者が用意していないという見解である。

 これに対して、作中のそれぞれの証言の整合性や矛盾点を突き詰めて、あくまで「犯人」を探し出そうとする試みが近年になって生じてきた(らしい)。で、専門の学者による研究論文のレベルから読書家の書評レベルまで、様々なレベルで犯人探しがされているようである。これは推理小説流行の影響があるのかもしれない。推理物が好きな人で、この小説もあくまで推理物として読み解こうとするのかと。

 この手のネット上の意見を見ると物凄く細かく考察がされていて、正直驚かされる。まあその細かい点についてはここでは取り上げないのでそちらを参照してもらいたいが、主な論点は多襄丸と男の大立ち回りは本当にあったのかどうかとか、行方不明の小刀の所在、実際の凶器は太刀か小刀か。(男の生霊の証言が事実とすると)男の胸から小刀を抜いたのは誰だったのか……などなど、たしかに気になる点が多い。

 まあこうした疑問点やら矛盾点やらがあって、色んな人がそれらを元に自分なりの「真相」を打ち立てている。まさに百家争鳴という感じで、さすがにそれぞれに説得力がある。が、それはつまり誰をも納得させることのできる真の解答がまだないということでもある。それは、様々な矛盾点のせいでどんな解釈をしてもどこかに矛盾が出てきてしまう……というか、そもそも信頼できる情報が少なすぎるせいで、どうしても確定的な推測ができないということのように見受けられる。それでどうしても推測で補わなければならない部分が出るわけで、そこに読者の恣意が加わってしまうのだろう。

 で。そんな現状を踏まえて、では私の考える「真相」はというと……偉そうに言っておいてなんだが、実は何も考えていない(笑)。というか、私としてはこの作品はやっぱり、「真実なんてものは人によって違う」という伝統的な解釈でいいと思うのだ。

 でもまあ、それだけのことならわざわざ、こんな文章を書く必要もないわけで。そんなわけで、自分なりの解釈らしきものも若干書いておくことにする。

 

 この『藪の中』という作品において「真相」なんてないんだという解釈を取る人を、仮に「真相は藪の中派」(略して藪の中派)と呼ぶことにする。しかし、真相を究明しようとしないこの「藪の中派」の内部でも、「どうしてそれぞれの証言が食い違うのか」という点については意見が別れることと思う。まあ大きく分ければ、事件の当事者である三人が、それぞれ自分にとっての真実を口にしている(①)か、この三人が故意に嘘の証言をしている(②)か、ということである。要するに、当事者の三人に嘘を吐いているという自覚があるかどうかで、読み方がまた違ってくる。

 さらに厳密に言えば、この②はさらに細かく分けることができるだろう。嘘を吐いているにしても、それは自分にとっての不都合な部分を隠しているためだとか、或いは他の誰かを庇っているのだとか。三人が三人とも嘘を吐いていると考えるか、或いは嘘を吐いているのは二人だけだとか(つまり一人だけは真実を言っている)。けどまあ、その辺の細かい部分には踏み込まない。

 で、この二つの解釈のうち私は①の立場を取る。この三人は三人とも、ことの真相を証言しているわけではない。しかし、嘘を吐いているという自覚はないと私は思う。では、なぜ証言がこうも食い違うのか?

 それは、この三人が三人とも、気が狂っているから

 少なくとも、若い武士とその妻の二人は、完全に正気を失っている。多襄丸については軽度の精神錯乱か、或いは証言の時点では正気を取り戻しているかもしれないが、少なくとも事件の起きた時点では多少は精神をやられていたものと思われる。だからこそ、三人の証言は食い違う。その証言には、各自の妄想や願望や怨念が入り混じっているからだ。

 どうして私がそんな頓狂な考えに到ったのか、説明しよう。

 この小説を何度か読み返して、私の心に引っかかったのは「妻の発した言葉」だった。といっても、「妻の証言」という意味ではない。事件現場において、夫の見ている前で盗賊に陵辱された妻がその後に発した、「謎の一言」のことである。

 まずは多襄丸の証言から見てみよう。加害者である多襄丸の白状に拠れば、首尾よく女を手に入れた(犯した)多襄丸は、満足して(二人を置き去りに)外に逃げようとした。しかしそんな多襄丸に、女が縋りつく。「女は突然わたしの腕へ、気違いのようにすがりつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりも辛いと言うのです。いや、そのうちどちらにしろ、生き残った男に連れ添いたい。――そうも喘ぎ喘ぎ言うのです(傍点筆者)」。そして多襄丸はそれを聞いて、「その時突然と、男を殺したい気になりました」と、(陰鬱なる興奮を覚えながら)証言している。その後の展開としては、男二人で決闘し、多襄丸が男の胸を太刀で刺す。が、見ると女はすでにいなくなっている。

 これを見ると、ことの終わった後に「女が発した叫び」が、事件の重要な転換点になっていることがわかる。

 次に、殺された夫の証言を見てみよう。こちらの証言では、多襄丸はことが終わった後に女をあれこれと口説いたことになっている。しかも妻はそれに聞き入り、どこかうっとりしているように見える。男は嫉妬に身もだえするが、ついに彼の妻は「ではどこへでもつれていってください(①)」という決定的な言葉を口にする。

 縛られた夫の見ている前で、妻と多襄丸は手に手をとって藪から出て行こうとする。しかしその時、突然妻が自分の夫を指差して叫ぶ。「あの人を殺してください。わたしはあの人が生きていては、あなたといっしょにはいられません(②)。――妻は気が狂ったように、何度もこう叫びたてた。」

 この言葉を聞いた多襄丸は喜ぶどころか顔色を変え、女を蹴倒す。そして彼に「あの女はどうするつもりだ?殺すか、それとも助けてやるか?」と聞く。しかし男が躊躇っている内に妻は逃げ出してしまう。「何か一声叫ぶが早いか(③)、たちまち藪の奥へ走り出した」。多襄丸は女の追跡を諦めると、男の縄を切ってから自分も姿を消す。その後、絶望した男は、落ちていた小刀で自分の胸を刺す(そのあと何者かが来る?)。

 これを見ると、やはり「女が発した一言」が事態の転換点になっている。もっともこちらの場合①~③のどれが「一言」に当るのかは少し迷うが、まあ転換点ということでは②が最も妥当だろう。

 最後に、妻(真砂)本人の証言を検証しよう。証言に拠れば彼女は、ことが終わった後に縛られた夫に駆け寄ろうとする。が、盗賊に蹴倒されてしまう。その刹那、彼女は夫の眼の中に自分への侮蔑を読み取り、衝撃を受ける。「口さえ一言もきけない夫は、その刹那の眼の中に、いっさいの心を伝えたのです。しかしそこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?」。そして「わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり(①)、とうとう気を失ってしまいました」と言っている。

 気を失った妻が眼を醒ますと、盗賊の姿はすでになくなっているが、夫は縛られたままだった。しかし夫はやはり妻を蔑んでいる。「夫の眼の色は、少しもさっきと変わりません。やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥かしさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中は、なんと言えばよいかわかりません」。

 ついに彼女は夫に言う。「あなた。もうこうなった上は、あなたと御いっしょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすってください。あなたはわたしの恥を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申すわけには参りません(②)」と。妻は落ちていた小刀で夫の胸を刺し、また気を失う。その後で自分も死のうとするが、どうしても死に切れない。

 男二人の証言とは異なり、この証言においては彼女の発言が特に何かの転換点となっているわけではない。「何か」叫んだという①は勿論、夫に呼びかけた②の言葉にしたところで、その後の事態が決定的に変わったわけというではないからだ。夫の心境は変わっていないし、妻としてはただ自分の決意を語っただけなのだから(言ってみれば彼女は、何も言わずに夫を殺すことだってできた)。

 ……さて。

 このように三者の証言を検証すると、多襄丸が人妻を手に入れた後に、妻が「何か」を「叫んだ」ということは確かであろう。細かな点こそ異なるが、三者が三者ともその叫びを聞いている(言っている)と証言しているからである(これを疑うなら、そもそも強姦事件すら実際にあったことかわからなくなってしまう)。

 問題はその内容である。一体、妻は何と叫んだのか?

 しかし、これについては三者が三者ともバラバラで、正確に何と言ったのかはわからない。それでも三者の証言から推測すると、それがその時の妻の心境(夫の見ている目の前で、別の男に貞操を穢されたという羞恥・苦痛の念)と、それに由来する要求(傷ついた自分への償い)だったのだろうとわかる。そしてこの要求というのは、男の証言の②、真砂の証言の②、また多襄丸の証言から、自分の恥を見た夫の(或いはその元凶である多襄丸の)死に関する発言であったのだろうと思える。

 また、それが「不明瞭な叫び」という形で発せられたものであることも確かだろうと思う。それは男の証言の③の、妻が「何か一声叫びを上げて」という部分、真砂の証言の①「我知らず何か叫んだ」という部分が共通するからである。ただ多襄丸の証言だけはそれをはっきりと聞き取っているかのようにも受け取れるが、「女は(略)気違いのようにすがりつき」「切れ切れに叫ぶのを聞けば」という表現から状況を思い描くと、この時の真砂がそんな理路整然とした叫びを上げたものとはとても思われない。これは真砂の不明瞭な叫びを聞いた多襄丸が、勝手に自分に都合のいいように組み立てた解釈、あるいは法廷の場で格好をつけるために脚色を加えたものの可能性が高い。実際、法廷での多襄丸には挑発的な言動が見られる(ついでに言えば、真砂の②は「叫び」ではなく夫への涙ながらの訴えということになっているが、これも彼女にとって都合のいい記憶の改竄に過ぎないだろう。といっても、その内容自体は他の二人のそれに近いので、ある程度は信用していい)。

 とまあそんなわけで、真砂が不明瞭な「何か」の叫びを上げたことは確かである。

 ここで、この時の真砂の精神状態について、ちょっと思いを馳せてほしい。……というのも、どうも他の人の感想や意見なんかを見ていると、あまり真砂の陥った状況の特異さに目を向けていないように思えるからである。

 改めて真砂というこの女性が陥った無残な状況について考えて頂きたい。「愛する夫の見ている前で」「初対面の赤の他人に無理やり陵辱される」或いは「赤の他人に陵辱されている姿を」「最愛の夫に一部始終見られる」というその悲惨さに、異様さに、改めて注意して欲しいのだ。

 私は初めてこの小説を読んだ時、以前から強姦という忌まわしい罪悪について嫌悪感を抱いていたということもあって、衝撃を受けた。最愛の男がいるというのに、別の男に手ごめにされるというだけでも言語に絶する苦痛だろうというのに、こともあろうにその様を、その愛する男に見られていたというのだから。……その羞恥、苦痛の念(私にはこんな陳腐な表現しかできない)は、私などの想像を絶する。

 真砂の受けた衝撃は如何ばかりだっただろう?……それは私にはわからないが、一つだけ言えることがある。即ちこの時、この甚大な精神的苦痛によって、この真砂という女の精神は平衡を失ってしまったということだ。

 あまりにも強烈な精神的苦痛を受けると、時に人は狂気に陥る。勿論、同じ状況に陥ったとしても狂うかどうかはその人の意志力次第だが、この真砂の場合には間違いなく気が触れてしまったのだ。それは多襄丸の証言にある「女は(略)気違いのように」という言葉、夫の証言にある「妻は気が狂ったように」という記述からもわかる。真砂の証言の中に同様の記述がないのは、それはもちろん気が狂った本人の証言だからだろう。つまり真砂が上げたという「叫び」が不明瞭だったのは、この時すでに彼女が狂気の世界に足を踏み入れていたからだ。だから(こう書くと気の毒だが)真砂の「懺悔」というのは客観性という観点からは、あまり当てにできない。

 では、男二人の証言が一致しないのは何故か?答えはこうだ。この二人もまた多かれ少なかれ、狂っているからだ。

 こう書くと、読んでいる方は疑問に思うかもしれない。目の前で妻のあられもない姿を見せられた夫が狂気に陥るのはまだわかるが、多襄丸が狂うわけがないと。なにしろ、敢えてそれをした当人なのだから。

 それでも、私はやはりこの多襄丸も、多少は精神をやられていると思う。……なぜなら、狂気は伝染するものだからだ。

 極限の状況下に追い込まれ、正常な精神では耐え切れない負荷を受けた真砂の人格は壊れ、あの藪の中で、狂気に満ちた「何か」を叫んだ。それは不明瞭ではあるが、いやそれだけに、深刻な狂気を孕んでいた。聞く者の精神すらも狂わせるほどの……。

 その場にいた男二人が狂気に引きずり込まれたのは、恐らくこの時だった。もともと、異様な現場を目の当たりにした夫が狂気に陥るのは至極容易なことだったろう。夫もまた妻と近い、あるいは同程度の錯乱状態に陥った。

 では多襄丸は?私は、他の二人ほどではないが、この男もまた正気を失ったのだと思う(少なくともその場では)。多襄丸にしても、彼自身が作り出したその異様な状況下で、特殊かつ異常な興奮を覚えていたに違いないのだ。なんといってもこいつにほんの少しでも配慮の心があれば、せめて場所を変えてことを行う位のことはできた筈だ。それをしなかったのは(単に面倒だったとか無神経だったという可能性もあるが)その特殊な状況が性欲と征服欲を同時に満たすことのできる、彼にとって好ましいものだったからだろう。つまり多襄丸は、そのような状況下で異様な興奮を覚える変態性欲の持主だった可能性が高い。そう考えると「できるだけ男を殺さずに女を奪おうと決心した」などという証言すら、自分の特殊な嗜好を正当化するためだと思えてくる。

 そんな特殊な欲求を貪った多襄丸がその時、平常の心を保っていなかったとしてもおかしくない。そこに、自分がたった今征服した女の、狂気の叫びが耳に入る。その狂気が鎮まりかけていた彼の情欲を再び揺り動かし、おかしな精神状態にさせたとしても不思議はない。現にこの時の自身の心境について、多襄丸は「陰鬱なる興奮」などというそれこそ異常の兆候を見せながら語っている。――とはいえ、やはりこの三人の内では、もっとも正気を保っているのはこの男だろうが。

 ざっとそうしたわけで私は、この三人の証言が食い違う理由を、三人が三人とも狂気に陥っているせいだと思う。極限状況で気の触れた真砂の発したあの「不明瞭な叫び」が、その場にいた他の二人の精神をも破壊してしまったのだ、と。そしてだからこそ、譫妄状態に陥った男二人の証言において、あの「叫び」が重要な転換をもたらすものとして描かれているのだ。

 ここでちょっと脇道にそれるが、この「不明瞭な叫び」(結局彼女が何と叫んだのかはわからない)について考えていて、私は日本書紀の例の「謎の一言」を連想した。冒頭の国生み神話で、イザナギとイザナミが黄泉の国の入り口で、互いに離別の言葉を口にする、その後の場面。菊理姫神(ククリヒメノカミ)という女神が突然現れて、「何か」を言う。それを聞いたイザナギが喜んで、この女神を褒める。但し、この女神が何を言ったのかについては本文に記載がないので、結局わからない。という、とりとめのない話。

 しかも記紀においてこの女神はこの場面にしか登場しないため、その正体すらわからない(加賀の白山比売神とも云われる)。神話であり、こんな重要な場での発言ということもあって、この「謎の一言」がものすごくミステリアスな、魅力的な謎に思えるのだ。

 そして私にとって、この『藪の中』で真砂が口にした筈の不明瞭な叫びもまた、この神話上の謎の言葉と同じくらいミステリアスなものに思えてならない。極限状況において気の触れた女が発した、魂の奥底からくる叫び。聞く者の精神をも侵す狂気の叫びとは、はたしてどんなものだったのか?

 絶望と狂気の叫びが放たれた、藪の中……。

 その時、異様な状況に置かれた女が、そのために異常の叫びを上げて、さらに奇怪な昏迷状態を作り出したのだ。その理不尽さ。奇怪さ……。不可解さ……。

 それは地獄だ。……と、私は思う。この現世に出来した、地獄的状況……。

 あれは泉鏡花の『山吹』だったろうか。この小説にも匹敵するような混沌状態に巻き込まれ、一部始終を見届けた主人公が、最後に洩らす一言がある。「うむ、魔界かな、これは。夢か……いや、現実だ」……こう書くと些か唐突な感もあるだろうが、しかしこの台詞が主人公の陥った摩訶不思議な立場、そしてその苦悩を、よく表している。

 そして私にとっては、この『藪の中』に描かれた状況もまた、この現実世界に出現した魔界的……いや、地獄的状況に他ならないと思えてならない。そして私にとってこの作品の魅力とは即ち、芥川が見事に描いてみせたこの「現実世界における地獄」に他ならない。芥川はこの作品において、我々の住むこの現実世界を舞台に、一つの地獄的な情景……この一人の女にとって救いのない、理不尽な、絶体絶命の情景を生み出し、それを見事に文章中に表現したのだ。

 だからそんなわけで、私にとってのこの作品は決して、芥川が小手先の芸で編み出した単なる推理ゲームなどではないのである。