日記

11月10日(木)

 

 マジですか。トランプ当選しちゃったよ……(絶句)。選挙終盤にきてもまだ当選の芽が残っていたのが気がかりだったとはいえ、まさかトランプが勝つとは思わなかった。なんか報道を見てると、「トランプのファンだけどそれを公言するのは恥かしい」という隠れトランプファンが多かったんじゃないかと分析されていますね。でも、そういう隠れトランプファンは本当にトランプが大統領になったらアメリカそのものが恥かしい国になっちゃうとは思わなかったんでしょうかね……。もう遅いけど。

 

 これからトランプさんがどんな大統領になるかっていうのは本当に予測不能。過去の暴言は単なるパフォーマンスだとか擁護する人もいるけど、あれは本音に見えて仕方がない。まあ実際に大統領になればもっと勉強するだろうし周囲から束縛されたりコントロールされたりするだろうから、結局は無難に大統領するかもしれない。要は誰がトランプ大統領を操るかによると思うけど、ご本人が束縛されるのが我慢できるタイプに見えないんですよねー。勝利演説みたいにずっとおとなしく「原稿を読ませる」ことができればいいんだけど、しょっちゅう暴発しそう。

 

 それにしても国際情勢の見通しがますます不透明に。アメリカの権威はとっくに失墜しているという意見もあるみたいだけど、それでもアメリカはまがりなりにも世界のリーダーだった。それが建前をかなぐり捨てて内向きになり、政治については無知な素人を大統領に据えちゃったわけなんだから、アメリカの威信は失われる。少なくとも現時点では、各国の首脳からしてみればトランプは良いカモでしかないでしょう。トランプはアメリカを再び偉大な国にすると息巻いているけど、政治素人で浅慮なトランプが大統領になってしまったこと自体がアメリカの凋落を象徴している。まあ、もしかしたら経済的には潤うかもしれないけど。

 

 この変化は日本にとっては不利にも有利にもなる。TPPについてははっきり言ってよくわからないけど、日本の防衛力にとっては再考の良い機会ではある。トランプは在日米軍の駐留にもっと金を出せといっているわけだけど、どっちみちアメリカの威信が低下するならいてもらったところで高い金を払う意義は薄い。どうせ高い金を使うなら、やっぱり防衛費を増額させた方がいいに決まってる。まあ日本がどれだけ装備を増やしたところで抑止力という意味では効果が薄いかもだけど、やっぱりそれがあるべき姿でしょう。中国との荒事は避けられないかもしれないけど、その際に毅然とした態度を示せればアメリカ頼りでなく日本独自の抑止力になるだろうし。

 

3月2日(水)

 

 なんかアメリカが本格的に危うくなってきましたね。トランプ氏が最初に負けた時は一安心したのに、それから後は情けないことに絶好調。なんというか、予想外というより何より呆れました。過激な発言を繰り返すトランプ氏自身はもちろんのこと、そんな奴を選ぶ支持者がこんなにも沢山いることに、です。いくらパフォーマンスとかいったところで、大々的に差別的発言を繰り返す人物を支持するとか何を考えているのか……。仮にも世界のリーダーとか警察とか謳っておいて、これはいくらなんでもあんまりでしょ。アメリカに幻想を抱いているつもりはなかったけれど、それを遥かに下回ったというか。アフガンとかイラク戦争の時はそれでも大義名分だけは用意していたのに、その建前すら持ち合わせない奴に支持が集まるとか……。どこが民主主義の番人?

 ていうか、民主主義の悪いところがもろに出ちゃったって感じなんですかね。あのヒトラーだって実はちゃんと選挙で選ばれたわけだし。日本の選挙で芸能人が知名度目当てに担ぎ出される位なら苦笑いしつつ容認できても、深刻な実害が懸念される人物が(よりにもよって)アメリカの大統領選の有力な候補になってしまう今の事態はまったくもって笑えない。ローマ法王も「壁を作るような人間はキリスト教徒ではない」と言っていたけど、対立を煽るような人物は政治家ではなく単なる煽動家でしょう。民衆が不満を抱いている時に「それもこれもあいつらのせいだ」と誰かに責任をおしつけて自分の指示を上げようと画策する奴は下の下です(少し前までのどっかの国とか日本のあいつらとか)。たとえ自分の支持率が下がったとしても人々の不満を宥め、協調を訴えるのが優れた指導者だと思うのだけど。

 

 まあ、トランプ氏が本当に大統領になっちゃうなんてありえないとは思いますが……。もし万が一でもそんなことになったら目も当てられないでしょうね。本人は「偉大なアメリカを取り戻す」とか言っているようですが、逆にとんでもない愚行を仕出かしてアメリカが覇権を失い、一気に凋落するようなことだってありえるかもしれない。ていうか、もし大統領になったら第三次世界大戦の引き金になっちゃいそうな人物ナンバーワンって感じです、現時点で。

2月16日(火)

 すいません昨日書いた報ステ批判について書き忘れたので追加で。

 

 報道ステーションなんかに出てくる「報道の使命は政府や権力者をチェックすることだ」という主旨の発言に違和感を覚えるのは私だけでしょうか?いや間違っているとまでは言わないけれど、そう言い切られると行き過ぎのように思えてしまうのですが。私の認識としては、報道っていうのは国民の知る権利のために「正しい事実」を伝え、なかなか注目されない立場の人々の生の声を届け、社会で起きている問題についてわかりやすく解説してくれるもの、なんですが(ちょっと漠然としてますが)。

 確かに、そういった報道の結果として世論が動くこともある。でもそれはあくまで結果論であって、「世論を特定の方向に動かすこと」を最初から意図して報道するのは明らかな越権行為だと感じます(私がこんな風にいうのは、先の言い草だと「俺達が正しい世の中を作るんだ」みたいな自意識が透けて見えてしまっているからです)。

 報道する側が独自の倫理観を持つことを否定したいわけじゃないです。新聞記者にしてもテレビの記者にしても人間なんだから、完全に客観性を保ったまま取材なんてできるわけがない。でもそうして発掘してきた情報や意見だろうと、それを視聴者に伝える段階では公平な立場に立たなければならないはず。具体的に言えば、マスコミは特定の問題について「こういう事実があります。政府はこうするつもりです。おかしくないですか?」と問題提起をすることはできても、政府が「正しいか間違っているか」の判断を下すのはあくまで視聴者(国民)でなくてはならない、ということです。報道する側が「これを伝えることで世論が動いてくれれば」と期待するくらいは許されるでしょうが、「この報道によって世論を動かす」とか「世の中を正しい方向に導く」というのは行き過ぎだと思います。なぜなら、情報を握る彼らは実際に世論を誘導できる立場にいるから。彼らが自分達だけの倫理観に基づいて事前に判断を下してしまい、彼らの主張にとって有利な情報だけを流してしまえば、視聴者が自分達の頭で考えて意見を交わし、個々の判断を下す機会を奪ってしまう。

 実際、多くの国民(全てとは言わない)とマスコミの倫理観は食い違ってきています。先の甘利元大臣の不正疑惑の時には殆どのマスコミが甘利さんと任命責任のある安倍首相を叩いていましたが、世論調査では自民党の支持率は殆ど変わらなかった。マスコミが期待したほど世論は甘利さんの不祥事に反感を抱かなかったわけです。これなんかは世論とマスコミの価値観が必ずしも一致しない好例だと思います(まあこの場合は、世論がマスコミに操られなかった好例でもありますが)。

 えーととにかく何が言いたかったかっていうと。報道の役割は世論を誘導することでも正しい世の中を「彼ら自身の手で」作ることでもなく、私たち視聴者の一人一人が世の中の問題について正しく知り、考え、判断を下すための「材料を提供すること」だと思うわけです。マスコミの皆さんが信念を持って取材するのは凄いと思うし尊敬することもできますが、どうか自分達だけで勝手に「何が正しくて」「何が間違っているか」」判断することは謹んで欲しい。私たちの意思決定は私達に委ねて頂きたい、ということです。以上。

 

2月15日(月)

 うーん……。アクセス数が増えたかと思ったけど只の勘違いだったっぽい。なんか恥かしい。でもちょっと安心。

 さて特に言うこともないんですが、以前に触れた沼津市の高尾山古墳の件が保存の方向で決まってなによりです。関係者の方々に祝福を。そして、工事が終わるまで事故がおきませんように。

 

 ところでTBSの岸井アナとテレ朝の古舘君がそれぞれ番組を降板するらしいですね。もしかした

ら世の中は良い方向に進んでいるんでしょうか。……そんなわけないか。

 

 報ステといえば、放送法関連で予想通りというか何というかやっぱり番組内で噛み付いていますね(普段はあんな偏向番組見ないけど反応が気になったので)。まあどう考えても報ステを牽制するための発言なんだから反発するのは当然だろうけど、自分達の偏向ぶりを棚に挙げて被害者ぶる姿は(そういう連中だとわかっていても)ムカッ腹が立ちます。この前は「放送局の自律性を尊重するべきで、政府は口出しするべきではない」とか言ってたけど、その自律性(笑)とやらが全く機能してないからこんな話が出てくるわけじゃん。

 マスコミがいくら被害者ぶろうと、限りある公共の電波を利用して放送している時点で(少なくとも情報発信の面においては)立派に「特権的地位」を有している訳です。連中は何とかの一つ覚えみたいに「表現の自由」と権利を主張しますが、そんな特権的立場を利用して政治的に偏った報道をすればそれは明らかに「正当な行使」の範囲を越え、「権利の濫用」に当ります。

 さらに言うなら、民主主義を成り立たせるもっとも重要な要素の一つはもちろん国民による選挙なわけですが、その投票の際に多くの国民が判断の基準にするのが報道なわけです。だとすれば、マスコミがその特権を利用して政治的に偏った報道をすることは「国民の知る権利を奪う」ことになり、民主主義の根幹を歪ませることになりかねない。マスコミはよく「国民の知る権利を守るために~」とかいいますが、むしろ彼らの方が私達の「知る権利」を侵害する加害者になり得るのです(ていうかもうなってる)。

 だいたい連中は放送権が問題になる度に「先の大戦の反省から放送法は報道の権利を保障している」とか言いますが、そもそも法律なんてものは時代に応じて最適化していくもの。それは社会的に大きな事件や事故が起きるたびに関連法が改正していくことでもわかります。法律は将来起こり得る全ての問題を予測できているわけではないですから、何か問題が生じる度にアップデートして対処するのが当然なのです。その観点からすると、現在の放送法は「政府による情報統制」という先の大戦で生じた問題には対処していますが、「マスコミの政治的偏向報道」という戦後に生じた新たな問題にはまるで対応できていないのだから、何らかの対策を講じるのはむしろ当然でしょう。政府による情報統制が許されないのは当然ですが、マスコミ側の人間が自身の特権的立場を利用して「個人的な政治信条に則った番組作り」をするのもまた許されていいわけがない。

 

 とはいえ、テレビでは一切の政治的意見を言うなと主張したいわけではないです(そんなことは無理だろうし)。なんというか本当の問題は、「偏った意見」を「公平な意見として」報道してしまうことだと思うわけです。聞く側が「これは一方の立場からの意見だ」と予め心構えが出来ていれば受け止め方は自ずと違ってくるわけですし。番組内でキャスターやらコメンテーターやらが発言をする時は、「私は賛成(反対)の立場ですが……」と最初に断りを入れるとか、それだけでも大分違うと思うんですが、そんなことすらしてくれない。古舘君は昨年末の降板発表が話題になった時(そういえばこの発表も年末年始で週刊誌が休刊になるタイミングを狙ったかのようでした。朝日新聞が吉田調書・吉田証言について謝罪したのがお盆前だったのと全く同じ発想。本当にやることがセコイ)、「報道が偏ってしまうのは、人間がやることだから仕方がないと思っています」とか開き直るかのような発言をしていましたが、そういうことは偏らないような配慮を最大限に払ってから言ってほしいものです。

 まあなんていうかともかく、マスコミは「報道の自主性を尊重しろ」というならせめて、自分の身を客観的に振り返ることができるようになってから言ってほしい。「視聴者からのお叱りの意見をたくさん頂いています」とか番組内で申し訳程度に触れる位なら、その意見をちゃんと番組編成に反映させろ……なさい。もしくはネットで揶揄されている通り、番組名を『報道しない自由 偏向報道ステーション』に変えなさい。

 一昨年の夏の朝日新聞誤報問題の時に一ヶ月近くもその話題に番組内で一言も触れず、朝日新聞が公開謝罪に追い込まれる事態になってようやく「この一ヶ月、なんでこの問題を取り上げないんだとお叱りを頂戴していました。でもそれは、今日の放送で特集として取り上げるためだったのです」とか理由になってない言い訳をした挙句、クマラスワミや河野洋平の関係者といった自分達の側に都合のいい証言ばかりを集めて朝日新聞・テレビ朝日の正当化を謀った事、絶対に忘れはしませんので。

 追伸 そういえば、甘利大臣の不祥事を嬉々として取り上げていたとき、週刊文春からの情報をさも自分達で取材したみたいに報道したそうですね。その件について『ネット上で』文春側に謝罪したそうですが、結局番組内では謝罪しなかったとか。その辺どうなんですかね報ステさん。週刊文春に謝罪するのは沽券にかかわるんですかねテレビ朝日様?

2016年1月17日(日)

 

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 えーーーっと。

 なんか、超久しぶりに(ガチで半年経ってるし)来てみたらアクセス数がちょっと増えてるような……。気のせい?なんか怖っ。

 っていってもまあ、微々たるものなんでしょうが。そもそも前回のアクセスカウンター覚えてないし。

 ていうか何かしちゃった?しでかしちゃった?なにか変なこと書いたっけ……。安保法関連?すいません若気の至りだったんです許してください。いやなぜ新年早々謝っているんだ自分。あ、そういや年が明けたんですね明けまして。

 ……………………。

 いや別に書くことがあるわけではないんです。そういえば半年くらい放置しちゃったけどまだ書き込めるのか確かめたかっただけでして。この文章を貴方が読んでいるということは大丈夫ということですね。なんか死者からの手紙みたいなこと言ってますが。

 あ、血界戦線の最終回良かったです。

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 つうかマジでなんなんだろ。うーーん…………まあいいや。どうせ小説読んでくれてるわけじゃないんだろうし。

7月15日(水)


  こないだ安保関連法案の件であれこれ書いたわけですが、いま思うと意味がなかったような気もしてきました。反対派が主に反対しているのは集団的自衛権の方 で、積極的平和主義についてはほとんど言われていないし。なのに原稿用紙換算で60枚近く書いてしまうとは、本当に何しているんだろう私は……。

 でもこんなことになるのもやはり、反対派が曖昧な言い方からしないからだと責任を転嫁しておくことにします。

  あと言い忘れた、というか反論する価値もないのでスルーしたんですが、「子供や孫達が将来戦争にいくことになる」という意見がテレビを見てるとけっこう目 に付きますが、どうして今の議論の中で徴兵制が議論に上がるのがまったくわからない。どっからそんな妄想が湧くのかと。政治家は誰もそんなこといってやしません。

 集団的自衛権の議論でさえこんなに過剰反応されるのに徴兵制の導入なんてありえないでしょうに。実際に中国と戦争になる可能性より低いでしょう。少なくと も現時点では。

 まあ安倍首相の強引なやり方をみてると「こんなやり方が許されるなら徴兵制だって……」とか不安に思ってしまうのかもしませんが。そういう漠然とした不安を払拭するためにも憲法改正の手続きはちゃんと踏むべきかと思います。

 気分を変えて。

 ちょっと前になりますが少しだけ臨時収入が入ってくれまして、そのお陰でほしかった本を色々と手に入れることができました。『ハザール事典』の男性版に『黄金の驢馬』、『アルゴールの城にて』も変えました(アルゴールは未読ですが)。他にも細々と気になっていた本も買えてありがたかったです。

 新刊は静岡の本屋で買いましたが、古書は大体ネットで買ってます。ちょっと寂しいけれど、田舎に住んでると古書店廻りをしても目当ての本を見つけるなんて奇跡はそうそうないので仕方ないのですよ……。


 写真は、これもネットで購入した折口信夫の『死者の書』の角川書店版(右の方)。初版ですが函なしで表紙の痛みが激しいので格安で手に入れることができました。角川書店版の再版でも函つきだと五千円近くするみたいなので良かったです(青磁社版だともっと貴重でしょうが)。

 ちなみに左は『死者の書』を収めるために自作した共箱。近所のホビーショップで探してきたちょっと仏具っぽい金襴の布を貼っててあります。『死者の書』は日本文学の到達点の一つといっても過言ではない小説だと思うので、良い本にはそれに相応しい扱いをしなければ……。

 これは我が家の国宝にしようと一人で勝手に決めました。できれば箱に書名や著者名を入れたいのですが、それは今後の課題にしておきます。


 あと最近気になったのは、『血界戦線』のアニメ化!です。ていうか放送はほぼ終了してしまったわけですが(最終話はいつになるのやら)。

 『血界戦線』は元々好きだったマンガで、バイトしてた頃にはコミックスを買ってたんですがそれからは立ち読みで済ませてしまってたんですよね(金がないので)。アニメもすごくよくできていたし(第一話と第三話だけはちょっと残念な感じでしたが)、いつかは揃えたいものです。

 あと少年ジャンプの『UBS』を地味に応援していたのですが、あっさり打ち切られちゃって残念。けっこう王道で面白いと思ったのになーーと。もうちょっと続けさせてあげてもいいでしょうにジャンプさん。

 



7月9日(木)


 

 (見てくれてる人がいるのかわからないけど、まあとりあえず)ご無沙汰しております。以前に書き込んでからそろそろ半年が経つので保守のために更新にきました。半年前というとフランスの連続テロやISによる日本人人質事件などイスラム過激派がらみのニュースでもちきりでした。あの時期は私も固唾を呑んでネットや報道を見守っていましたが、知っての通り人質事件は結局最悪の結果に終わってしまいました。

 本当に今さらながらですが、テロ行為の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りします。

 

 *今回はあれこれ語るので、小題をつけておきます。

 『シャルリエブド社の風刺画の問題について;その後』


 フランスの方では一時の熱狂も鎮まり、発端となったシャルリエブド社もムハンマドの風刺画を載せるのはやめたりと、「欧米vsイスラム社会の構図が激化するというのは杞憂だったかな」とか楽観していたのですが、最近になってフランス・チュニジア・クウェートでの同時テロが起きてしまい、自分の見通しの甘さを痛感しました。一気に全面的な対立に発展するほど単純ではなくても対立感情はこちらの想像以上に根深く、些かも溝は埋まっていないように感じます。

 個人的な印象ですが、これはシャルリエブド社の責任を曖昧にしたまま事態を治めようとしたのが良くなかったんじゃないか、と思ったりしています。シャルリエブドは過激派からの報復を受けはしたものの、フランスでは英雄扱い。そしてそんなフランス政府の立場は欧米の各国政府から支持されている(もちろん日本もです)。ムハンマドの風刺画はテロ翌週のものを最後に載せていないようですが、かといって謝罪の言葉も反省もなし。その風刺画を描いたイラストレーターのリュズ氏は四月の雑誌のインタビューで、描かなくなった理由について「興味がなくなった。飽きた。サルコジ前大統領の風刺画と同じ。彼らを描くために生きているわけじゃない」と言ったらしい。むろん本心ではなくポーズでしょうが、世界中の真面目なイスラム教徒の人達を挑発し各地のデモを引き起こしておきながら、こうした言い方が許容される風潮こそ問題だと感じます。

 これでは過激派はともかくとしても(彼らの心情に配慮する道理はないわけですから)、穏健なイスラム社会の人達からしたら納得できないんじゃないでしょうか?もちろん穏健なイスラム教徒の人たちは過激派のやり方を支持してはいないでしょうが、だからといってムハンマドの風刺画を快く思っていたわけじゃない。そんなシャルリエブド社を非難せず庇うばかりの西洋社会の態度は、彼らの目には決して「公正」とは映らないんじゃないか。この状態は危険を孕んでいると思うのです。

 そんなわけで国際社会は、事件の発端となったシャルリエブド社の責任を問うことで、「公正な態度」を示すべきじゃないですかね(シャルリエブドの風刺画がいけないと考える理由は以前の日記に書いた通りです)?例えば国際司法裁判所のような国際機関に、穏健なイスラム諸国が共同でシャルリエブド非難の案件を持ち込むとか。まあ国際司法裁判所で当事者になれるのは国家だけらしいので駄目ですが、何かしら対応できる国際機関があるでしょうし(さっきググッたら国際仲裁裁判所というのがあるみたいです)。

 その国際機関が西洋諸国の価値観に偏らず、公正な立場を守り、はっきりとシャルリエブド社の責任を非難する声明を出すことができさえすれば(この場合「公正さ」を示すことが大事なので、賠償などのペナルティは不要でしょう)、西洋に対するイスラム社会の反感はちょっとでも薄まるんじゃないでしょうか?そうして穏健なイスラム社会(政府ではなく、個々のイスラム教徒の人たち)の不満を宥めることができれば過激派に参加しようという志願者も減って、イスラム過激派を今以上に孤立無援にすることができるはずです。


 もちろんリスクは高いでしょう。そうした国際機関すらシャルリエブド社の擁護に回ってしまえば国際社会に対するイスラム圏の人々の信用はガタ落ちするでしょうし、西洋社会への不信感は却って強くなってしまう。その場合は過激派を孤立無援に追い込むどころか、それまで穏健派だった人達の心情まで過激派へと傾かせることになりかねず、それこそ一気に西洋社会vsイスラム社会の全面的な対立へと発展するということもないとは言えない。融和ムードを演出できるか、却って対立を激化させるか。結果次第でどちらにも転びかねない、まさに両刃の剣というやつです。


 ……まあ普通に考えて、悪化する可能性の方が高いだろうけど。今年始めの連続テロへの反応をみてもわかりますが、移民問題とかも絡めてヨーロッパ諸国の反イスラム感情だって相当に根強いもののようですし。国際機関といったところでどうせ考え方は西洋寄りなんだから、「表現の自由」とか「民主主義」とかいう美辞麗句でもってシャルリエブド社を無罪放免にしてしまうんでしょう。そんなのが今の国際社会の現実で限界だというのなら、「過激派」を共通の敵としてとりあえず歩調を合わせている現状を維持するほうがはるかにましなんでしょう。仮にうまくいったところで経済的格差や差別感情がなんとかならなければ、根本的な解決とはならないわけですし。

 だけど正直な所、今のままの関係をずるずると続けたところで結局は互いへの不満が高まっていくだけのように思えるんです。イスラム諸国が経済的に豊かになれば自然と西洋社会への不満も治まるのかもしれませんが、それは裏を返せば経済政策が成功しなければいつまでも政情が安定しない、ということでもある。西洋社会とイスラム社会が互いの価値観について理解しようと決意できない限り、いつまで経っても本当の友好関係は築けないのではと思います。

 

 近い将来、イスラム教圏の総人口がキリスト教圏の総人口を上回るという話もあるわけですし。西洋社会はそろそろ考え方や態度を改めた方がいいんじゃないですかね。もちろん、日本も含めて。


 『元少年Aが太田出版から出した手記の件』

 

 近ごろ気になった話題と言えば、あの神戸連続児童殺傷事件の犯人である酒鬼薔薇こと元少年Aが出した『絶歌』の件がありますね。あれも色々と言われているようですが。


 出版の意義がどうこうと言うのは後にして、まずは御遺族の許可を得なければいけないでしょ、当たり前のことですが。それで断られたとしても、本当に出版の意義があると信じているなら焦らずに、それを言葉や態度に示して遺族の心証を変えることに努める。それが誠意というものです。仮に最期まで説得に応じてもらえなかったとしても、説得に努めれば努めただけ誠意を積み上げたことになるわけで、そうしていれば世間の反応だって少しは違っていた筈です。でも週刊誌の記事に依れば、太田出版に話が持ち込まれてから出版までわずか三ヶ月しか経っていないという。要するに元少年Aにしても太田出版にしても、最初から誠意などなかっただろ、ということです。

 

 批判の声に対して太田出版の岡聡社長は、問題はあるにしても加害者の生の声を出版することは「社会的な意義」があるはずだとホームページで反論してます。また、そんな太田出版を擁護する意見としては、どんなものであれ出版を制限するべきではないとして「表現の自由」を挙げている人がいます。

 引っかかる点はありますが、私としてもこの二つの意見にはある程度まで賛成です。名誉毀損のような明らかに(その内容が)犯罪に該当する本ならともかくとして、出版の自由を制限すべきではないでしょうし、「社会的制裁を受けた犯罪の加害者が、当時の心境を綴った手記」なるものには確かに社会的な意義があると思うからです(もっとも私は未読なので、『絶歌』の内容がそのレベルに達しているのかの判断はできません)。

 でも。だったら元少年Aだけでなく、出版社だってそこから利益を得たら駄目でしょうと言いたい。出版が純粋に「社会的な意義」を目的としているというなら、元少年Aはもちろんとして太田出版だって利益を被害者遺族に差し出すべきです。それができないなら太田出版の主張は建前に過ぎず、本当の目的は商業的な利益に過ぎないということになる。それならそれで、最初から言い訳などせず、素直にそう言えばいい。

 でもってその場合は、「出版によって遺族の心情を傷つけた」という理由で損害賠償請求を起こして、太田出版の利益を根こそぎ取り上げるべきだと思います。元少年Aに対しては、過去の事件の損害賠償とは別に(それに上積みする形で)今回の出版によって被害者遺族に与えた精神的危害への賠償金を新たに課すべきです。

 現状の法制度では不可能だというのなら法整備すべき。日本もアメリカを見習って、元犯罪者(とそれに協力する出版社)が過去の犯罪をネタにして利益を得ることができるという仕組みはいいかげん是正されるべきでしょう。そしたらこうしたケースでの利益目当ての出版への抑止力になるし、純粋に「社会的意義」を目指した本の出版の自由を制限することにもならないわけです。

 

 ……ていうかそもそも、当時の心境を語りたいだけならそれこそネットで発表するという手もあるわけですし、元少年Aは商業出版という形にこだわる時点で利益目的と邪推されても仕方ないでしょう。ついでに言えば、手記を出版すること自体も犯行当時の幼稚な自己顕示欲・自己陶酔癖が治っていないことを窺わせます。

 


 さて。この件についての最後に、『週刊新潮』のインタビューに答える形で岡社長が言ったという喩えに反論したいと思います。記事によれば岡社長は「包丁を売った相手がその包丁を用いて人を傷つけたとしても、包丁を売った店に責任があるわけではない」という主旨のことを言って、「だから自分達に非はない」と主張したそうです。

 しかし、この喩えは明らかにおかしいでしょう。たしかにホームセンターか何かで包丁を売る場合なら販売者と購入者には何の交流もないわけで、販売者は客の意図など知ることはできない。でも、太田出版と元少年Aとの関係はそんなものではなかった筈です。太田出版は元少年Aが過去に起こした犯罪行為を知った上でその原稿をチェックし、なおかつその内容が被害者遺族の心証を傷つけるかもしれないことを認識した上で(しかも遺族の許可を得ないまま)、出版に踏み切ったわけです。先の包丁の喩えを敢て用いるなら、それは「包丁を打つ職人が客の事情と要望をこと細かに聞き出し、その使用目的を聞き、その包丁で他人を傷つけることになるのを予め承知した上で、相手の望み通りの『よく切れる包丁』を造って手渡す」ということになる。つまり太田出版は無関係どころか、立派な共謀者の立場にあります。

 けれども実は、この喩えでもまだ適切ではなかったりするのです。

 今回の手記出版の騒動をひとまず過去の事件とは切り離して考えるなら、出版社は共犯どころか主犯の位置にいます。というのは、遺族の感情を傷つけたのが手記の内容ではなく、「手記が出版されたこと自体」だからです。もちろん手記の内容を考えたのは元少年Aなのでしょうが(そのこと自体も疑われているようですが)、いくら原稿を用意したところで彼個人では出版などできないわけで、原稿をチェックして編集作業に加わり、印刷して書物の形にし、さらに流通ラインに乗せて世間にばら撒くことができたのは、他ならぬ太田出版です。言うなれば太田出版は元少年Aから「『絶歌』という「よく切れる包丁」を鍛え上げ、その包丁で被害者(遺族の心情)に斬りつけてほしい(出版して欲しい)」という依頼をうけ、それを忠実に実行したことになります。この場合、依頼主は元少年Aですが実行犯はあくまで太田出版だと言えるのです。

 そんなわけで元少年Aはもちろんのこと、太田出版も立派に損害賠償請求の被告席に立つ資格があるわけで。要するに「他人事みたいな言い方すんな」と思った次第なのでした。



『沼津市の高尾山古墳について』


 ちょ!「古代スルガ王の墓」とか、古代好きな静岡県民の一人としては超胸アツなんですけど!



『右と左について、報道について』


 あとなんかあったっけ?……そういえば少し前に、作家の村上春樹さんが日韓関係についてわけのわからないことを言い出して、それに対して百田尚樹さんが噛み付くということがありましたね。あの時は村上さんも浮世離れしたこと言ってるなと呆れましたが、それに噛み付いた百田さんの言い分もピントがずれてるなと思いました(ただの作家でしかない一個人が謝罪・賠償してことが治まるならアジア女性基金の時に解決してたろと)。最近の報道圧力発言もそうですが、冷静に議論ができないタイプなんでしょうかね。作家の中では珍しく(なんで物書きって人種には左翼が多いのか)百田さんは典型的な右の作家だから重宝されるんだろうけど、そういうタイプの人を識者として勉強会に招いた自民党の若手議員もお粗末だという感じです。


 自民党が報道に対して圧力を掛けているというのは少し前から言われていて、でも具体的にどんな形の圧力があったとか全然伝わってこないので実際はどうなんだろうと思っていました。だって放送内容に問題があって呼び出されるとか内容について口を出される程度のことなら、ぶっちゃけ大したことじゃないと思いません?

 圧力っていうのはそれこそ「これ以上余計なこといったら放送免許取り上げるぞ」とか「いい加減なこといったらブタ箱に放り込むぞ」位のレベルだと思うんです(実際にそんなこと言われてたら喜んでマスコミが言い触らしていたでしょう)。でもそうじゃなく、それが単に放送内容について苦情を言われた程度のレベルだったのなら、むしろ今までどれだけ甘やかされてたんだという印象しかもてないです、正直(だからマスコミが騒ぐ「与党関係者からの圧力発言」とやらの具体的な文言を知りたかったわけですが)。自民党がだんだんおかしくなってきたのか、それともマスコミが過剰反応しているだけなのか、その判断がつかなかったんです。

 でも今回のことで(脇の甘い若手議員連中がうかつだったおかげで)、たしかに自民党内の空気がちょっとおかしいとわかってきました。政府与党は先の選挙で大勝できたのは単に「民主党に政権運営能力がないことがはっきりしちゃったから」というだけのことで、自分達が積極的に支持されているわけではないことを自覚しないといけないでしょう。 私個人としては政権与党が報道機関に対して意見をいったとして、それが実効力の伴わないものなら何の問題もないかと思いますが、収入源を断つとか広告主を脅すとか画策するのは明らかにやり過ぎですし、報道免許を盾に脅したり特定の新聞社を潰すとかいうのは言語道断に決まっています。

 だけどマスコミの側にしても、自分達が正しいと本当に信じているのなら「例え逮捕されてでも真実を明らかにする」位の心意気を持ちなさいよと思ってしまいます。そして不祥事を起こしたときだけ反省してみせるんじゃなくて、自分達の報道姿勢が「本当に」非難されるに値しないものなのか、常に自己批判の目を持っていて欲しい。

 世の中が右傾化してきたって嘆いているけど、むしろ今まで左寄り過ぎたというのが正しいでしょうに。

 

 

 むぅ……。なんか最近、時事問題のことばっかり書いている気がする。こんな筈じゃなかったのに。作家を目指そうと思った時から、世間のことなんて知ったこっちゃないという世捨て人の如きスタンスを貫こうと決めたのに……どうしてこうなった?

 しかもこれだけ並べておいて、まだ安保法案の話が残ってるし。なんか今の世の中ってやっぱりちょっとおかしいですよね(今に始まったことじゃないだろうけど)。まったくもって、こんなニート風情がとやかく言わなくていいような世の中になってくれないものでしょうか。そしたら私だって余計なこといわなくていいし。

 はあ…………。長くなっちゃったんで、安保関連についてはまた後日にします。趣味的なことについての話はまた近日中に。……たぶん。気力があれば。

1月23日(金)


 

 フランスの連続テロ事件について感じたことを三日前に漸く書き込みできたと思ったら、ほぼ直後といったタイミングでまたしても大変な事件が起きてしまいました。映像の男は安部首相のみならず、日本国民全体に対しても呼びかけてきています。とすれば無関係を決め込むわけにもいかないと思い、自己満足だろうと何だろうと自分の意見を述べておくことにしました。


 イスラム国の男は安部首相が中東支援に2億ドルを拠出すると表明したことを非難している。安部首相(日本政府)に非はあるだろうか、と考えると、その支援の目的は軍事目的ではなく人道支援であるというから、日本国民の一員としてはその支援を非難するには当らない。ただ現状において――というのは湯川さんが昨年からイスラム国に拘束されているとわかっていた状況下で――過激派を刺激しかねない支援を表明したこと、そしてその表現が(人道支援でなく軍事目的だという)誤解を招きかねないものであったことは失策だったとは言えるかもしれない。ジャーナリストの後藤さんについても昨年末の段階でイスラム国に捕まっている可能性が外務省に報告されていたようだから、今回の殺害予告が出る前になんとか交渉することはできなかったのかという思いはある。

 しかし状況の切迫した現段階では何よりも解決策を講じるのが最優先で、そうした責任を追求している場合ではない。そしてそうした留意点を除外すれば、「支援は軍事目的ではなくあくまで人道支援であるから撤回するつもりはない」という安部首相の判断自体は妥当であると思う。

 では、身代金を支払うことの是非はどうだろう。その額が桁違いであることを考慮に入れなくても、「テロリストの要求に従ってはならない」というのは国際的な合意事項であるから論外だろう……と思っていたのだが、実はそうでもないようだと知って少し戸惑った。英米は断固としてテロリストとは交渉しない方針のようだが(その結果人質は殺害されてしまっている)、ドイツやフランスやトルコといった国々は過去にイスラム国と交渉した可能性があるらしい。もちろん表立ってではなく秘密裏に、ということだが、現に人質は解放されている。

 こうなると迷いが生じる。あくまで筋を通してテロリストに妥協せず外交努力のみによる解決を目指すべきか、それとも英米以外の諸国のように、筋を曲げてでも人命優先のために妥協するのか(もちろん表立ってではなく水面下での交渉で、ということだが)。

 しかし感情を排して冷静に考えるなら、おとなしく身代金を払うようなことはすべきではないと私は思う。要求を呑めば今後も日本人が狙われる可能性があるということもあるが、その身代金がイスラム国の資金原になってしまうことはやはり避けるべきだと考えるからだ。

 イスラム国の真の狙いが本当に金銭であるかは議論の余地はあるが、財政面で苦しんでいるという話は信憑性が高いらしい。イスラム国の主な資金源は原油の売却らしいが、原油安のせいで収益が下がっているというからだ(その原油安自体がイスラム国の資金源を絶つためのアメリカの戦略であるという話もある)。そのために外国から呼び寄せた戦闘員に払う報酬が減り、内部でゴタゴタが起きているという話が年末頃にあったと記憶している。アメリカの戦略が功を奏してイスラム国の屋台骨が軋んでいるのが事実だとしたら、ここで多額の資金を与えてしまえば、せっかく弱らせた相手が息を吹き返してしまうことになりかねない。

 アメリカの戦略を邪魔してはいけない、などと言いたいわけではない。しかしここまで過激なテロリズムに走るイスラム国を放置しておくわけにはいかないだろう。安部首相が申し入れた中東支援は難民になって苦しんでいる人々を支援するためだが、その人々の故郷を奪い難民にしてしまった原因はイスラム国だ。イスラム国に資金を与えて延命させてしまえばそれだけ中東に被害が広がり、多くの人々を難民の身にしてしまうことに手を貸すことになる。一方で難民を救う為に資金を拠出しておきながら、他方でそんな難民の人々を生み出すイスラム国に資金を出すというのでは支離滅裂だろう。

 人の命は地球よりも重い、という。しかし人命の重みを慮るなら、戦火にある中東の人々の人命を軽んじることとてできないはずだ。例え私達の住む国からは見え辛い、その声も姿も、悲惨な現状も届きにくい遠い地に住む人々であるとしても、苦しいながらも日々を懸命に生きている人々なのだから。危険を冒してでも紛争地に入り、そんな人々の声や姿を私達に届けてくれるジャーナリストの人達の信念もそこにあるはずだ。

 人質救出を目指してあらゆる可能性を探らなくてはならないのは言うまでもないが、「人命を優先する」とはテロリストの要求に諾々と従うこととイコールではない。政府にはあらゆるルートを通じて交渉を続け、人質を解放するように働きかけてほしい。イスラム国の真の狙いが金銭であるなら望み薄かもしれないが、ことの発端が中東支援についての誤解にあるというなら、なんとしても誤解を解いてほしい。

 テロリストは日本国民に向けても声明を発し、日本政府に二億ドルを支払わせるよう圧力を掛けろといってきた。けれど私には、その要求に従うことが正しいとは思えない。だから、今も不眠不休で奔走し、人質解放に向けて水面下で動いているであろう全ての人々を信じ、ただ待っているしかない。

 一国民でしかない私達にできることは政府の手腕を信じ、人質の二人が無事に帰ってきてくれることを願うくらいなのだから。



 ……感情を極力排し、理屈でのみ意見を述べれば以上になる。しかし心情としてはそうもいかない。ネット上では10年ほど前の同様の事件の際にも巻き起こった「自己責任論」がまたも噴出しているというが。

 心情を持ち出しておいて冷たいことを言うようだが、正直なところ私は湯川さんについては同情できない。それは、理屈だけでなく心情から言ってもそうなのだ。

 ジャーナリストなら危険な紛争地に行くのもわかる。ボランティアというのも、まあ理解はできる。ビジネス目的であっても、例えば商社マンが会社の命令で厭々ながら危険のある国に派遣された、というのならまだ同情できる(その場合、もちろん無謀な命令を出した企業の責任は追求すべきだろうが)。

 しかしこの湯川さんは「民間軍事会社」なるものを立ち上げた責任者だったという。とても同情できる要素はない。もし万が一、仮にその民間軍事会社の設立に高尚な目的があったのだとしても(邦人の安全を保護するためとか)、その責任者が真っ先に捕まっているようではそもそも見込みが甘かったといわざるを得ない。遅かれ早かれこうした事態に陥っていただろう。

 何より呆れるのは、この湯川という人は別の組織に一度捕まってしまい、後藤さんに助けられていたというのだ。そしてせっかく九死に一生を得たというのに、後藤さんの警告を無視して再び危険地帯に向かい、今回の事態を招くことになってしまった。……危地にある人をこれ以上非難したくないので、ここでやめておく。

 湯川さんについては自己責任というしかない。しかし後藤さんについても自己責任論で非難する意見があるというのには驚いたし、悲しかった。命の危険を顧みずに紛争地帯に入り、現地の情報を伝えてくれる報道関係者に「自己責任」はあてはまらないはずだ。

 彼らがいなければ、私達は紛争地で起きている悲惨な状況を何も知ることができない。下手をしたら私達は世界のどこかで苦しんでいる人々の存在すら知らず、世界を平和だと信じ込んでいる無神経で残酷な傍観者になるかもしれないし、間接的な加害者にさえなってしまうかもしれない(現にそうであるかもしれない)。危険を賭して現地に乗り込む報道関係者のおかげで、私達は自分の国の軍隊がどこで何をしているか、しなかったのかを知ることができる。

 だからこそ国家は報道関係者の生命を保護しなければならないし、今回のような事態が発生すれば総力を尽くして救出する義務がある(身代金を支払うかどうかはともかく)。そして国民にはそんな政府を支持し(場合によっては非難し)、支援する義務がある。

 加えて、報道で伝えられる後藤さんの篤実な人柄を知るに付け、その思いはますます強まった。後藤さんは紛争地の人々の現状を伝えるべく日本各地で公演していたという。現地の人からは「イスラム国はシリアの苦しみを世界に伝えてくれた高潔なジャーナリストを殺すのか」という非難が出ているという。人々のために命がけで戦ってきた優しく勇敢な人が、批判されていいはずがない。

 後藤さんに全く非がないとは言えない。後藤さんは危険と知りながらイスラム国が支配する危険地帯に潜入を試みたというのだから。しかし、普段は慎重で「生きて帰る」ことを信条としていた後藤さんがそんな危険を敢えて冒したのは、イスラム国の捕虜となった湯川さんを助ける為でもあったというのだ。それを聞いてなお後藤さんを批判できるほど、私は無慈悲にも恥知らずにもなれそうにない。

 どうか無事に解放されてほしい。私にできることなど何もないから、ただ祈ることしかできないけれど。

2015年1月20日(火)


 今さらながらですが、明けましておめでとうございます。とはいえ、世間ではそれどころではないようで。今回は真面目な話をさせていただきます。


 フランスで衝撃的なテロ事件が起きてからというもの、またも世界がきな臭くなってきている。テロに対する大規模なデモ行進に各国首脳が参加し、フランスのバルス首相は「テロとの戦争」を呼びかけ、オランド大統領は「言論の自由を守れ」と人々を煽り、犠牲者であり事件の発端でもあるシャルリエブド社は新たな風刺画を掲載してイスラム社会をさらに挑発した。そしてそれに対する抗議として、世界各地のイスラム国家で暴動が起きている。

 西洋社会の価値観とイスラムの価値観(宗教観)の対立によって生じた今回の衝突。この一連の経緯において私が悪いと思うのは、端的に言うと①「イスラム教徒への配慮を欠いたシャルリエブド社の行き過ぎた風刺」であり、②「それに対して暴力という形で報復してしまったイスラム過激派」であり、そして「言論の自由を掲げて国民を扇動するオランド大統領(を含めた政治家)」である。

 もちろん私はテロを容認しているわけではない。今回のような事件が起きて、さらに欧州各地にまだイスラム過激派が潜伏しているかもしれないという危機的な状況においてはテロ対策を講じることは絶対に必要であろう。けれどもそれを正当化するために「言論の自由」や「表現の自由」を錦の御旗の如く掲げるのは間違っている、と言いたいのだ。というのは、(少なくとも今回の)シャルリエブド社の風刺画は「表現の自由」の範囲を逸脱していると感じるからだ。 

 ②のテロ行為が悪いと思う理由を改めて説明する必要はないだろうから、①のシャルリエブド社と③のオランド大統領が悪いと思う理由を述べよう。

 

 まずシャルリエブド社の風刺画についてだが、これには大きく分けて(A)「そもそも宗教に対する風刺がゆるされるか」という問題と、(B)「イスラム教への風刺にムハンマドのイラストを使ってよいのか」という二つの問題点がある。

 この二つの内、(A)はイスラム教に限らず宗教一般についての問題と言える。そして正直に言うとこれについては、基本的には無信仰である私にはよくわからない。特定の宗教についてのみ批判するなら差別思想になるから非難されるべきだが、シャルリエブド社はキリスト教やローマ法王を揶揄した風刺画も掲載している。少なくともこの点に関しては、彼らの姿勢は偏っていない、とは言える(もっとも私自身はシャルリエブド社の風刺画を実際に見たわけではなく、新聞やテレビからの伝聞に基づく推測だと申し添えておく)。

 しかし差別思想ではないから公正だ、ということでもないだろう。シャルリエブド社やオランド大統領、そして彼らに協調する各国首脳は「言論の自由」は民主主義における普遍的な価値だというが、それらの民主主義国家においても言論の自由は無制限に保護されているわけではない。例えば限度を越えた性描写はどこの国でも法律によって規制されている。テレビや新聞などのマスメディアが誤報や記事捏造をすればバッシングされるし、個人情報を流出させたり特定の個人を不当に中傷すれば名誉毀損として犯罪行為になる。言論の自由は保障されるといっても、それはあくまで「適正な範囲」でのことなのだ。

 今回の問題は、その適正な範囲がどこまでなのか、フランスの風刺文化とイスラム社会との間で大きく食い違っているという点にある。これについては一概にどちらが悪いとは言えないが、今回の件についての「家族が侮辱されれば私はそいつを殴るだろう(大意)」というフランシスコ法王のコメントがもっとも的を射ているように思う。宗教を持たない私達でも、自分の家族が公然と侮辱されたら腹が立つし、殴るなり名誉毀損で訴えるなりするだろう。ましてイスラムの人たちにとっての預言者ムハンマドは(ある意味では)家族以上の存在である。そう考えてイスラム社会の側から物事を捉えて見ると、シャルリエブド社は「名誉毀損で有罪」ということになるのかもしれない。イスラム側から見ればシャルリエブド社は犯罪者以外の何者でもなく、そんな彼らを保護する政府もまた間違っている、と感じるのだろう。


 しかしより重要な問題点は(B)の方、「イスラムの風刺にムハンマドの風刺画を用いること」の是非だと私は思っている。というのも、イスラム教には「偶像崇拝を禁止する」という教義の根幹に関わるタブーがあるからだ。その程度についてはイスラム社会の中でも温度差があるらしいが、厳格なイスラム教徒はあらゆる偶像を造ることを禁止しているし、神聖な存在である預言者ムハンマドを描くことは特に重大なタブーに当るという。

 イスラムの側にこの特殊な事情があることを考慮すれば、キリスト教の風刺画を描くこととイスラム教の風刺画を描くことは同列に論じることはできない。また、風刺画を赦すキリスト教徒(西欧社会)は寛容だがイスラム教徒(社会)は狭量である、ということもまた適切ではない。ムハンマドのイラストを描いて風刺することは、イスラム教徒にとっては二重の侮辱になるのだ。シャルリエブド社はこの点についての配慮が欠けている(或いは故意に無視している)。だから不適切であるのだ。

 もちろん、日本も含めた民主主義国家において、ムハンマドのイラストを描くことはその国の法律に違反することではない。つまり「犯罪行為」ではない。加えて私達はイスラム教徒ではないのだから、イスラム教の教義に従わなければならないわけでもない。シャルリエブド社を擁護する人々はそう主張するかもしれない。

 しかし考えてもみてほしい。犯罪でなければどんな行為も許されるのだろうか?自分が信じていないからといって、他者の信じるタブーを犯してよいものだろうか?

 例えば、タイには「人の頭に触ってはいけない」というタブーがあることは広く知られている。これはタイでは人間の頭に神聖なものが宿っていると信じられているからで、そのために頭に触れられるのを嫌うからだ。だからタイに旅行する時は相手の頭に不用意に触らないようにとガイドブックには書いてある、らしい(私は行ったことがないので)。

 こうしたタイの人々の考え方に科学的な根拠があるわけではない。それはいわば「信仰」の領域で、タイ以外の文化圏の人々にとっては理解することも共有することもできない、タイ人特有の価値観である。西洋的な合理主義者の目には単なる迷信としか映らないだろう。しかし、だからといってそうした風習を前時代的と嘲笑い、嫌がる相手の頭にむりやり触ったりすれば、そんな文明人(合理主義者)の態度の方がよほど野蛮であり、マナー違反ではないだろうか?

 改めていうまでもないが、相手の頭に触れることはどんな国でも法律に違反しない(ひょっとしたらタイでは禁止されているのかもしれないが)。タイ以外の文化圏の人々にとって、相手の頭に触ることは犯罪にも非難にも当らない行為である。

 しかしそれでも私達はタイに旅行に行った時には、タイ人の頭にむやみに触ったりしない。それは私達が良識を備えた文明人として、現地の人々の伝統を精神文化として尊重し、タイの人たちと仲良く付き合いたいと思っているからだ。たとえ相手と全く同じ価値観を共有することはできなくても、相手が大事に思っていることを互いに尊重し、越えてはならない一線を踏み越えないことが、相互理解を進め協調するために必要な最低限の条件ではないか。

 そう考えるとやはりシャルリエブド社の風刺(のやり方)は褒められたものではない。確かにムハンマドのイラストを描くこともフランスにおいては違法行為ではないが、それはイスラムの人々にとっては重大なタブーなのだ。いくらフランスが芸術の盛んな文化的な国であり、そんなフランスにとって風刺が大事な文化なのだとしても、どれほど洗練された知的なユーモアを交えたとしても、相手が大事にしているタブーを一方的に破ってしまえば、その行為は「野蛮だ」と非難されて然るべきなのだ。相手の価値観を無視して、一方的に自分の価値観を押し付けるやりかたは文明人として恥ずべきマナー違反ではないのか。

 フランス人にとって風刺が大事な文化の一つだということは、理解もするし尊重もする。強い立場にある権力者を滑稽に描きつつ非難するその洗練されたやり方は、フランスらしい知的でまた(権力に屈しないという意味で)勇敢でもある思想文化だろう。しかしだからこそ、そんな文化的な国にこんな野蛮なやりかたは似合わしくない。

 そもそも風刺とは、権力者を滑稽に描くことで大衆の不満をガス抜きしつつ、権力者を批判し自省を促すために用いられるコミュニケーションの手段ではなかったか。風刺は弱い立場にある民衆の思いを権力者に伝えるための、社会変革のためのコミュニケーションツールでもあったはずだ。だからこそ自由と平等を尊ぶフランス人に愛されてきたのだろう。

 しかしそんな風刺も、やりかたを間違えてしまえば単に相手を貶すためだけの野蛮で乱暴な攻撃に堕してしまう。相手が大事にしているタブーを侵せばもはやコミュニケーションなど成り立つはずもなく、一方的な侮辱としか受け止められない。シャルリエブド社によるムハンマドの風刺画はこうした性質のものであり、むしろフランスの風刺文化や言論の品性を貶めているとは言えないだろうか?


 私が最初に③として、「言論の自由を守るため」と唱えるオランド大統領が悪いと言ったのもこの点にある。国内で今回のような凶悪なテロ事件が発生した以上、その対策を進めるのは国家元首として当然ではある。しかしだからといって、事件の発端となったシャルリエブド社の風刺画が後付けで正当化されてよいはずがない(実際、テロ以前にはフランス政府はシャルリエブド社に自粛を促していたという)。シャルリエブド社によるムハンマドの風刺画は「表現の自由」の適正な範囲を逸脱しており、守るべき性格のものではない。対テロ政策は敢然と進めなくてはならないとしても、政治家は人々を指導する立場にいる者として、不安がる国民の感情を宥め、国内のイスラム教徒との融和を促し、シャルリエブド社に強く自粛を促すべきだった。しかしオランド大統領はむしろ先頭に立って「言論の自由」を掲げ、イスラムの人々に対する不満や怒りを煽ってしまった(もちろん本人としてはあくまで標的を「凶悪なテロリスト」に搾ったつもりだったろうが)。

 その結果どうなったか?フランス国内では非イスラムとイスラム社会との対立は深まる一方で、それはさらに欧州全域に広がってしまった。加えてシャルリエブド社の新たな風刺画の掲載を見逃してしまったことが、世界各地のイスラム教徒によるデモや暴動を引き起こしてしまった。世界規模でイスラム社会と非イスラム社会の対立が深まり、情勢が緊迫している。対立の芽は事件以前から存在していたとしても、それが激化し噴出してきたのは間違いなく今回の事件のせいだ。

 シャルリエブド社の記者も、オランド大統領を始めとしたフランスの政治家も、そして「私はシャルリ」と連帯を訴える人々も、どうか怒りや悲しみや恐怖を鎮めて、イスラムの人々の言い分にも耳を傾けてほしい。この新たなムハンマドの風刺画に世界中のイスラムの人々が反発するのは、決して理由がないわけではなく、彼らが狭量だからでもないのだ。その風刺画は過激なテロリストを非難するのが目的であって、決して世界中の穏健なイスラム教徒の人々を非難し貶めることを狙ったものではなかったはずだ。しかし現実には、その風刺画は穏健派のイスラムの人々の心をも傷つけ、眉を顰めさせている。イスラム国やアルカイダといった過激派を除き、イスラム教の指導的な立場にいる人々はテロを非難し犠牲者に哀悼の意を捧げる声明を発表しているというのに……。

 私はイスラム教を風刺すること自体を批判しているわけではない。ただ、穏健なイスラムの人々の信仰心をも傷つけるようなやりかたで風刺するべきではないと言いたいのだ。風刺はなにもイラストや漫画でしかできないわけではないのだから、イスラムのタブーに触れない形式で、堂々と活字で風刺すればいいのだ。フランスにはラブレーやヴォルテールやアナトール・フランスといった、脈々と受け継がれてきた風刺文学の伝統があるではないか。漫画やイラストを用いなければ風刺できないというなら、それこそ伝統あるフランスの風刺文化の名折れというものだろう。

 もちろん、活字による風刺だろうと過激派の反発を招く恐れはある(『悪魔の』の時のように)。それでも穏健派のイスラム教徒の心証は大分和らぐはずだ。そして、もしも活字に対する報復としてまたも今回のようなテロが起きたとしたら、その時こそ本当の意味で「言論の自由」を掲げる時なのだ。しかし、今はまだその時ではない。

 シャルリエブド社はムハンマドのイラストを用いた風刺画をこれ以上掲載するべきではないし、政府や世論はそうなるように動いてほしい。それは決してテロという暴力に屈することにはならず、むしろフランスの風刺文化の品性を守るための、賢明で勇気ある決断となる筈だ。

 

 あれこれと批判めいたことを書いてしまったが、私はフランスという国自体は好きだ。といって私如きはフランスの思想や文化に詳しいなどとは言えないし、フランスに行ったこともなければ知人の一人もいないし、そもそもフランス語はさっぱりわからない。けれど芸術の中心地であるパリには強い憧れを抱いているし、ルーブル美術館にはぜひとも死ぬ前に一度は行ってみたい。ネルヴァルは私がもっとも偏愛する作家の一人であるし、ゴーティエもデュマもシャルル・ノディエもアロイジウス・ベルトランもボードレールもサン=テグジュベリも大好きだ。ボレルやユイスマンスやバルザックもかなり好きだし、ラブレーにも今度挑戦したいと思っている(誰か忘れているような……まあいいか)。フランスは疑いなく世界に冠たる文化中心地の一つであろう。そんな文化先進地であるフランスで、日本のコミックやアニメの人気が高いと知った時にはなんだか少し誇らしい気持ちになったものだ(別に私の手柄ではないのだけれど)。

 そして忘れてはならないのは、そんな文化的な側面の一方でフランス人には、祖国や信念を守るためなら銃を持って立ち上がるという勇敢な一面があることだ。それはエルナニ闘争や、著名な文学者でありながら祖国のためにパイロットとして戦争に参加したサン=テグジュベリのような人物に象徴される。フランスの民衆は自由と平等を守るために革命を起こして共和制を勝ち取り、第二次世界大戦では政府が降伏した後もレジスタンスとしてドイツの軍国主義にあくまで抵抗した。フランス人の強い祖国愛や、自国の文化に対する誇りはこうした歴史から育まれてきたものだろう。自虐史観の根付いた日本からすれば羨ましいほどに。……けれど今回の連続テロ事件に関してのみ言えば、それが少し誤った方向で発揮されてしまってはいないかという懸念がある。

 白状するが、今回の事件を最初に知った時、「大変なことが起きた」とは感じたものの、その影響がここまで拡大するとは思っていなかった。どこかの国ではあるまいし、フランスのような成熟した国がここまで感情的になるとは思わなかったのだ。それが「私はシャルリ」の大合唱に始まり、各国首脳がそれに参加して連帯を強調し、オランド大統領やバルス首相が「テロに対する戦争」などと言い出すのを見て段々と違和感が昂じてきた。そしてシャルリエブドが新たな風刺画を掲載し、それに対して各地のイスラム勢力による暴動が報じられる事態に到ってそれは危機感に変じた。今では、あの9.11のテロの頃より以上の不安を感じている。

 これまではあくまで一部のイスラム過激派と西洋諸国との対立という図式であって、そこに一般的なイスラム社会は加わっていなかった(少なくとも表面的には)。しかしシャルリエブドがこれ以上、穏健なイスラム教徒の信仰心をも逆撫でするような風刺画を掲載し続け、さらには西洋諸国がそれを「表現の自由」の名の下に支持する姿勢を示し続けたら、いずれは西洋諸国とイスラム社会全体の対立という図式にまで発展しかねないのでは、と危惧してしまう。

 しかし、私にはどうしてもフランスのような成熟した国家が、世界を単純に「正義」と「悪」に二分し、「悪を滅ぼせば世界は平和になる」などといった幼稚な世界観を抱くとは思えないし、そんなことを信じたくはない。今は怒りや悲しみ、そして凶悪なテロリズムに対する恐怖から過剰反応をしているのかもしれないが、やがては落ち着いて冷静な声が大きくなるものと信じたい。

 希望の持てるデータもある。或るアンケートに依れば、フランス国民の半数近くがシャルリエブド社の風刺画に否定的な意見を持っているという。フランスの10パーセント程がイスラム系移民だと言うから、それを除いても四割ほどの人々がシャルリエブド社のやりかたに批判的な眼を持っているということになる。テロの直後といっていい状況でこの数字だから、人々が冷静さを取り戻せば懐疑的な声はさらに大きくなるかもしれない。やはりフランスはアメリカとは違う。

 テロの犠牲者や、各地の暴動による犠牲者に哀悼の意を表しつつ、憎しみの連鎖がこれ以上続かないことを願う。

 

9月23日(火)

 なんてこった……(愕然)。家のパソコンからは更新できないものと思っていたのに、できるじゃないか。できないと思ったからこないだネットカフェに行ったのに。なんだかんだで長居しちゃったせいでけっこう金かかったのに……(絶望)。

 ……………………まあ……いいや。

 そんなわけで試しに更新してみてるわけなのですが、別に書くことある訳でもないんですよね。朝日新聞の誤報関連ではあれから結構な動きがあったので書きたいところですけど、それだとまた長くなっちゃうだろうし。だからどうでもいいことでも書いときますか。

てなわけで。

 あーーーー『ハザール事典』がほしーーい。出来れば二冊ともほしーーいです。あと『ゴーレム』と『黄金のろば』も読みたいーーんですけど。『アルゴールの城』も気になる。……て、きりがないけど。あと津原さんの『11』がいつのまにか文庫になってたんですねあれ欲しかったのにずっと金なくて買い逃してたんですよ文庫で買おうかなでも絶対好きだろうから結局ハードカバーでとっときたくなるだろうしいやもしかしたら文庫化したからハードカバー版を手放す人とかいるのかなじゃあこれから中古で出回るかもしれないからちょっと探してみるのもいいかもしれないうんそうしよう(自己完結)。

 そういえば少し前、アマゾンで『HYPNEROTOMACHIA POLIPHILI(ヒュプネロトマキアポリフィリ)』のペーパーバックを買っちゃいました。渋澤龍彦氏が『ポリフィルス狂恋夢』と訳して紹介していたこの本、ずっと読みたいと思っていたけれど邦訳は未だに出ていないみたいで諦めていたんですが、ふと思いついて調べてみたら英訳版が出ていたのですよ(原典はイタリア語)。やーまったく盲点でした。澁澤氏がエッセイで紹介した時点ではイタリア語と仏訳しか出てなかったわけですが、近年になって英訳版が出ていたんですよ(99年にアメリカのThames&Hudsonという出版社からハードカバーで出て、2005年にペーパーバック版で出たみたいです)。

 英語で本を読むというのは以前にチャレンジして挫折した経験があって、もう二度とやらないだろうと思っていたのですが、なんかちょっとずつでも続けられそうな気がしてます。というのは、どうしても読みたい!て思っていた本だからなんでしょうね。やっぱ英語をマスターしたいとかいう不純な目的じゃ続かないに決まってる。なにしろ今のところ邦訳がないわけで、読みたければ頑張るしかないわけで。もし邦訳が出ちゃったらきっとこの気力は潰えることでしょうね。

 あとは『悪魔のいる文学史』で紹介されてた、シニストラリ・ダメノの『悪魔姦』も読んでみたいです。あれも『de la demonialite』で検索すれば仏語版、『demoniality』で英語版がヒットするので、同好の士は求めてみては(欲しい人はとっくに買ってるか)。

 ……ていうか、今まで見過ごしていた洋書が選択肢に入ったことでちょっとやばいことになる気もしないでもない今日この頃(金銭的に)。まあさすがに、英語でもいいから読みたい!なんて本は多くはないですが……。

2014年8月20日(水)

 

 またもネットカフェに来ています。というのも、私のパソコン(XP)ではもうこのホームページにアクセスできなくなってしまったからなのですよ。いまだに働くこともできていない始末ですし。

 そんな状態でなぜ、ネットカフェに来てまで日記を書き込んでいるかというと、どうしても鬱憤を晴らしておきたい、というかどうしても一言物申しておきたいことが最近あったからです。例の8月5日と6日の、朝日新聞が従軍慰安婦問題で誤報を認めた件です。実は私は小説をやろうと思った時から、社会問題について意見するのはやめようと思ったのですが、時々どうしても何か言いたくなってしまうときがあります。今回もそう。朝日新聞自体はもちろん、その後の展開にしてもどうにもおかしい。このモヤモヤを吐き出さないとどうにも気持ちが悪いのでここに書き込むことにしました(そしたら少しは腹の虫も治まるでしょう……か?)。

 まず、私が今回の誤報問題について始めて知ったのは、8月8日金曜日のミヤネ屋でした。ミヤネ屋で「朝日がついに誤報を認めた!」という特集をしていたので「これは大変な騒ぎになる」と勝手に思い、特集が終った後コンビニに走ったのです、朝日新聞を買いに。

 だけど肝心の記事が載っていない。おかしいなと思いネットで調べると、なんとその特集は5日と6日の記事だったという。本当に驚きました。なんでこんな大変なことになっているのに、自分は知らなかったのかと。

 テレビを見てなかったわけではないです。むしろ笹井氏関連のニュースをチェックしていたので、5,6日は各局のニュースを見ていた記憶がある。それなのに何で自分は知らなかったのか?それはこんなにも重大な問題なのに、テレビではほとんど報道してなかったからです(本当は静岡新聞の6日の朝刊の25面に載っていたのに、見落としていた私も悪いのですが)。というか、NHK、朝日、TBSでは二週間経った今に至っても尚報道していない。これは一体どういうことなんでしょうか?

 朝日新聞の記事については(図書館に行って読んできました)、他のもっと詳しい方々が散々批判してくれていますから今更わたしが詳しく言うこともないですが、これは要するに居直り宣言ですよね。朝日としては「吉田という詐欺師に騙されて誤報してしまった。我々が散々批判してきた従軍慰安婦の強制連行はどうもなかったらしい。だけど強制連行はなくとも慰安婦がいたことは事実だし、それに軍も関与していたようだから、我々は変わらず政府を批判する」と言いたいわけでしょう。誤報があったと認めるくせに、謝罪はしていない。根拠の薄い話に朝日新聞という権威を付与して拡散しておいて、そのために日本は国際的に「異常な性犯罪国家」「レイプ国家」などと呼ばれて名誉を傷つけられているというのに、朝日はその誤解を解くための努力を全くしようとしていない。

 朝日は「それでも従軍慰安婦がいたことは事実なんだから」と言う。でもそれは論点をずらしてるだけです。日本が諸外国や国連(!)から強く責められているのは軍が慰安所を利用していたということではなく、「軍が指揮して慰安婦を強制連行した」ということに他ならないからです。以前に橋本氏も言っていましたが、兵士が性産業などを利用することは各国の軍隊で過去には普通に行われていたことです。もちろんそれは褒められた話ではありません。当時は合法だったと言ったところで言い逃れに過ぎず、反省するべきことではあります。しかし少なくとも、日本ばかりがあたかも「異様な性的異常者の集まり」であるかのように責められる理由はないのです。そう、朝日がでっちあげた強制連行の話さえなければ。

 それなのに朝日はこの吉田証言について「その信憑性が怪しくなってきた93年頃からは証言を扱わなかった」と言い逃れしようとしている。けれど、怪しいと気づいたならもっと早く調査して誤報だったと認めればいいものを、30年以上もそのままにしてきたわけです。少なくともその時点で撤回していれば、吉田証言を根拠とした河野談話も、国連のクマラスワミ報告もなく、世界中から日本が非難されることになどならなかった筈なのですから。

 まあ、朝日についてはこの位にして(まだまだ言い足りないですが)、その後の展開について私が抱いている違和感について述べます。こんなにも国益、いや国の名誉に関わる重大問題であるのに、マスコミがやたらと静かだと言うことです。もっと言うなら、テレビが静かなのです。お盆休みに入っていた週刊誌は今週になって動き出しましたし、図書館でチェックしたところ全国紙の新聞(産経、読売、毎日)はちゃんと一面で大きく報道し検証していました(毎日はそうでもなかったかな?)。それなのに、テレビが不気味なほど静かなのです。

 テレビ朝日が静かなのはわかります、だって当事者ですから。読売系とフジテレビ系列はしっかり(それでも足りないと思いますが)特集していました。それなのにTBSと、それどころかNHKまでもが沈黙を守っている。どうしてかと思って調べてみてわかりました。つまりは彼らも当事者だったのです。言い出しっぺは朝日新聞ですが、その尻馬に乗って慰安婦の報道番組を過去に何度も放映していたようです。

 はっきり言って失望しました。慰安婦の番組を作っていたことが、ではありません。そうした番組を報道しておきながら、朝日新聞の誤報という大ニュースを報道しなかったことが、です。

 常識的に考えて、朝日新聞ほどの権威ある大新聞が32年にも及ぶ誤報を認めたのならトップニュースに近い扱いで流すはずです(まあその日は他にも大ニュースがありましたが)。それなのに、その余波が自分たちにも及ぶのを恐れて無視したわけです。これが報道機関のやることでしょうか?

 私は最初にこのニュースを知ったとき、きっと毎日のようにニュースで取り上げられて大激論が交わされるものと思ったのです。ところがそれは一部の局のみに過ぎず、他は徹底的にダンマリを決め込んでいる。それが怖い。

 慰安婦問題はデリケートな問題なので、うかつなことが言えないのはわかります。報道するだけで特定のメッセージだと受け取られかねない。だけどだからといって、「朝日新聞が誤報を認めた」ことは純然たる事実なんですから報道しないのはおかしい。誤解を与えかねないニュースだとしても、それをさせないように公平を期すのが報道の正しい在り方ではないのでしょうか?その上で自社の過去の報道を見直し、訂正すべきところは訂正し、反省すべきところは反省して、立場を明確にすべきです。今のようにダンマリを決め込んだままでは、せっかくの汚名返上の機会も立ち消えになってしまいかねない(テレビ局のではなく、日本の)。

 誤解されそうなことをあえて言いますと、私は場合によっては殺人は認められると考えている人間です。正当防衛の場合は当然ですが、例えばずっと虐げられていた人間が復讐した場合など。もちろん許されないことではありますが、私はそのような場合どうしても、加害者の方に感情移入してしまう。

 だけど性犯罪の場合は話が別です。性犯罪の加害者には全く同情の余地がない。彼らは身勝手な欲望のために女性の心と尊厳を傷つける卑劣漢です。現行の性犯罪者への刑は軽すぎると思うくらいです。場合によっては殺人よりも重罪としてほしいくらいに。

 そんな考えを持っていますから、日本がかつて従軍慰安婦を集めるために強制連行をして、さらに女性を酷い待遇で働かせていたと知らされた時にはショックでした。私たちの先輩がそんなことをしただなんて、信じたくなかった。けれどもし本当だったら、その罪を認めないのは被害者に対してさらに酷い仕打ちをすることになってしまう。

 その後自分なりに調べて、どうやら強制連行の信憑性は薄いこと、実は慰安婦の待遇はよかったという説がある(外出を認められていたり、兵士よりも高い給料をもらっていた)ことを知っても、それでも過去の話だけに確実な立証はできないものとあきらめていました。

 それが今度の騒ぎで、ひっくり返ったわけです。強制連行にはやはり根拠がなかった。日本人としてこんなにうれしいことはない、と私は感じています(断っておきますが、私は右翼ではないです。集団的自衛権には反対です。というか、アメリカに手綱を握られる形の集団的自衛権には、ということですが)。

 10日の報道2001で慰安婦問題の特集をしていましたが、そこで吉田清治氏が強制連行を行なったと証言したチェジュ島での取材の模様が放映されていました。その中で、島民たちが取材に対し「強制連行なんてなかった」と言っているのを見て、思いがけず涙が出そうになりました。私たちの先輩達は強制連行なんてしていないのだ、と。今回の件で、私は漸くそう信じることができそうです。あとはこの事実を世界に向けて発信し、不当に貶められた祖父たちの汚名を晴らすこと。それこそが今の日本にとってもっとも大事なことの一つだと思います。

 だけど、そうは思わない人もいるらしい。一部の報道機関は、自分たちの過去の過ちを掘り返されるのが嫌で、口を閉ざしてやり過ごそうとしている。そして実際にそうなってしまいそうで恐ろしい。

 勘違いしてはいけないことは、強制連行がなかったからといって日本の過去の過ちが全てなくなったわけではないということです。過去に日本が中国や韓国を含めたアジア各地に進出したことも、(強制連行ではないとはいえ)慰安所が存在していたことは事実であり、反省しなくてはいけない。

 しかしだからといって、「やっていないこと」までをもやったと言われるのは、なんとしても間違っている。と、私は思います。

 以上。長い上に支離滅裂になってしまいましたが、最近感じたことを一通り述べてみました。

2014年5月1日(金)

 最近知ったのだけど『ニーチェ先生』という漫画があるらしい。どうもコンビニの深夜バイトの新人が、傍若無人な客に対して毒舌を振るうとかなんとか。私も経験があるので同感というかこれ実はオレナンジャと思うくらいですが、当時こんなことが言えてたら痛快だったろうにと今さらながらに残念至極。まあ実際こんなこと言ってたらもっと厄介なことになってたんだろうけれど。まあ私の場合、一番腹が立ったのは客よりもオーナーでしたけどね♪

 バイトといえば、とうとう所持金が千円を切ってしまったというのに未だにバイトを探していないというなんとも如何ともしがたい事態に。……いや、こんなことになる前に少しは手を打とうとはしたんですよ。といっても、趣味で描いてる油絵をネット上で売れないかなーという我ながら甘すぎる手でしたが。(慌てて)いや、素人の絵でも売ってくれるというサイトがあるんですよ、全然だめだったけど。売れそうな画題を思いついたと思ったんですけどね……。

 まあそれはすっぱり諦めたし、もうバイト探したいんですがその前にせめて『マイトレーヤ』を完成させておきたいと思って動けないのが現状。だってちょっとはやらないと、この一年何をやってたんだって話ですし。まあ単なる自分ルールなのですがね。

 

 ところで『蟲師』のアニメ第二期が始まってくれたことが嬉しくて堪らない。正月の特別篇もよかったし。正月の特別篇もよかったし(大事なことなので二回言いました)。日蝕の場面で、ちらっと一期の登場人物を順番に出してくれたのはテンション上がりました。なにしろ一期から結構な月日が経っていることもあり、ああいうファンサービスはうれしいですね。

 ていうかできれば第一期を再放送してもらいたい。一期も録画したけど、知らなかったので途中からだったし、ビデオだし(DVDにダビングしたとはいえ画質が……)。やはり蟲師アニメは作画の素晴らしさがあってこそですし。

 そしてもちろんストーリーも。もうなんていうか、幻想文学の域ですよね。ちなみに私は一期では「山眠る」が好きです。愛する男と一緒になりたいがために、山の神を殺してしまった女。その罪を背負い、人間の身で山の神となる男。あの、何も言わずに女の血塗れの手を握る場面が、なんていうか……グッときます。

12月 5日(木)

 もう金がないとか言っといてなんですが、こないだ東京のターナー展を見に行ってきました(もちろん電車で。新幹線ではないですが)。いや、本当にもう金はないんですがやっぱりターナーは見ておきたかったし、今なら本阿見光悦展もやっていると言うし横浜では泉鏡花展も終了間際で、自分的にはこれだけ重なればもう行くしかない状況に陥ってしまったというわけなのですよ。はい、言い訳終わり。

 とはいえそれだけなら日帰りで十分なのに、ネットカフェで一泊して翌日に神保町巡りをしてしまったのはちょっと言い訳できない部分も。……いやだって、本当にもうほとんど余裕がないというのに移動だけで一万近くも使ったんだから、その分ちょっとでも有効活用したいと思うじゃないですか。まあその結果、残高はさらに減ったわけですが。

 でも、今回はなかなか良い収穫がありました。というのは、前から欲しいと思っていた本がわりとお手頃価格で手に入ったのですよ。たとえばネルヴァルの角川文庫の『暁の女王と精霊の王』が二百円だったり、ル・クレジオの『メキシコの夢』と『マヤ神話 チラムバラムの予言』がそれぞれなんと三百円だったり。

 さらには、前から凄く欲しいと思っていたものも手に入りました。岩波文庫の『夜のガスパール』に、そして漸く見つけた岩波版の『夢と人生 或いはオーレリア』!どこかで見つからないものかと古書店に入るたびに探していたのですが、漸く探し当てましたよ。まあ「@ワンダーならきっとある筈だ」との思惑で行ったわけだから意外でも何でもないですが、それでも最初は見落としてしまって「ここにもないのか……!」と絶望しかけただけに、再確認して発見した時はもう感涙ものでした。この苦労も報われたという感じ。

 この『オーレリア』は以前に京都の図書館で単行本版を借りて読んだのですが、その時は忙しかったのであまりじっくり読めなくて心残りだったのです。なのにアマゾンでは在庫がなかったりやたら高かったりで、岩波文庫版はやたら古いのでそこらの古書店にはないし、通販は最後の手段だし。てなわけで、今回ようやく手に入れることができたわけです。

 ……しかし人にここまでさせておいて、あっさり復刊とかないですよね?いやそれはそれで良いことなんですが、こちらの気分としてなんか……。

 それはさておき。実は、私的にそれに匹敵する今回最大の収穫は『ダンタリアンの書架』のオリジナルサウンドトラックだったりするのです。これもアマゾンの中古市場ではあるのに実物にお目にかかったことがなかったやつ。新品で買ってしまおうかとも思ったのですがそうこうする内に貯金残高がどんどん減っていったのでやむなく……(製作会社の方ごめんなさい)。diskunion神保町店にあると知っていたので行ったら、ネット上での価格よりさらに安く売っていたのでラッキーでした。

 とまあ今回の東京行ではまたまた浪費してしまったわけですが、そんな感じで元は充分に取れたのではないかと思っている次第です。ネット通販は便利だけどいちいち送料が馬鹿にならないし、やっぱり古書店で実物を発見する喜びには変えがたいものですからね(しかし、こんな風に書いているとまるで後先考えずに欲しい物を買っているように見えそうで怖い。いや違いますよ?本当なら欲しいのに泣く泣く諦めたのも何冊かあるんですから。いやホントに……)。

 

追記 そういえば、新潮社の日本ファンタジーノベル大賞が休止になったらしい。おやにや。まあ私はもう二度と応募するつもりもなかったんですが、いい賞だったのに。まあ仕方ないですかね。

11月某日

 旅から戻ってきて数日。特に体調を崩すこともなく、旅先から送った荷物も自転車も無事で、家族も温かく迎えてくれたので一安心。とりあえず荷物を整理したりしています。

 振り返ってみれば、旅に出発したのが10月30日で帰ってきたのが11月15日だから、17日間の旅だったわけで。その間、静岡からほぼ国一を通ってママチャリで名古屋まで行き、四日市とかを通過しつつ伊勢へ、そこからさらに熊野まで行き、四日かけて熊野を観光。最後にズルして電車で帰ってきた次第。まあ速さについては自転車を趣味とする人たちに比べると全然勝負にならないのでしょうが、別に早さや距離を競っているわけでもなし、興味の向くままウロウロするのが醍醐味なので自分的にはオッケーなのです。

 そんなこんなで、帰ってきてから数日が経ったことだし旅を振り返って総括めいたことを書こうと思ったわけですが。なにせ二週間以上に渡って旅をしたことも、自転車で長距離の旅をしたこともなかったわけで、私的には(大げさに言えば)人生初の本格的な旅だったと言えるわけです。普通に考えても自転車の旅とかなんか青春っぽいし、きっと何かしらの発見とか、人生観の変化とか、精神的な成長なんかがあったんじゃないかと期待されるところなのでしょうが。

 はっきり言います。そんなの、まったくありませんでした(キッパリ)。……まあそれだとあんまりなので、ほとんどまったくと言っておきますが、とにかくありませんでした。旅先で出会った人々との触れ合いとかも全然なかったし。

 「じゃあ一体何しに行ったんだよ」とか言われそうなんで言い訳すると、そもそも私としてはこの旅にそんな感じのことは求めていなかったのですよ。今さら自分探しという年齢でもないし、かといって小説のネタ探しとか取材旅行というわけでもなし。単に昔からそんなあてもない旅というのに憧れていて、今の自分はそれができる環境なんだ、とふと気付いたというだけのことで。

 とはいえ全く何の目的もない旅というのもあんまりなので、いくつか見てみたいもの、寄ってみたい場所というのはありました。最初の目的は京都の古書市だったのですが、これは時間的に間に合わないとすぐ断念。その代わりに各地で見かけたブックオフ等には軒並み立ち寄ったのですが、これが滅法楽しい。前から気になってた本とかレトロゲームとかを買い込みました。まあ残念ながら探してたものはあまり入手できなかったのですが。

 成果としては、名古屋の熱田神宮近くの店で見つけた恩田陸さんの『黄昏の百合の骨』の単行本。この本自体はわりと見かけるのですが、初版本はいざ探してみるとなかなか見当たらないので(アマゾンの中古市場にはありますが)。実際、旅を通じて見つけたのはこれ一冊だけでしたし。残念ながら帯欠けですが、名古屋まで来てようやく発見した時は本っ当に嬉しかった。いざ見つけてみると105円だったりするわけですが、探してた本を見つけた嬉しさというのは、値段の問題ではないのですよ。

 しかし名古屋で残念だったのは、愛知県立美術館がちょうど展示換え期間中で休館だったこと。この美術館の収蔵品であるクリムトの『黄金の騎士』が見たくて行ったのですが、休館と知った時の挫折感と言ったら……。館の収蔵品だからいつでも見られると油断していたのが敗因でした。

 美術関連では、三重県の石水博物館に行けなかったのも心残り。そこには三重出身の銀行家で、高名な陶芸家でもあった川喜多半泥子の焼き物を多数展示しているとのことで、実物を一度見てみたかったのです(関連本は一冊持っているのですが)。でも美術館は津市にあるのですが、私が津を通過したのはちょうど月曜日で、美術館関係はどこも閉館。しかも昼頃だったので、そこで一泊するのは時間的にも金銭的にも勿体ない。泣く泣く諦めました。またいつか行きたいですが、しかし伊勢にも熊野にも行ってしまったし、これだけのために津まで行くのも……正直難しいところ。

 まあそんな感じで残念な部分もありましたが、今年中にぜひとも寄ってみたかった伊勢には行けたので満足。そして何より、一度は行ってみたかった熊野にもどうにかこうにか辿り着けてよかった。先日の日記に書いたとおり散々苦労はしましたが、昔から熊野参詣は苦行みたいなものだったというし、その分ご利益があるかもしれないと思うしか。ともあれ、終わってみれば楽しかったから良しということで(今だから言えるのかもしれませんが……)。

 そんな感じで残念な部分もありましたが、概ね満足できた旅でした。それに私としては、そうした見たいもの寄りたい場所へ行くということよりもやっぱり、自転車であちこちをフラフラと旅する、ということ自体が何よりも大事な体験というか、要するに楽しかったわけです。ある意味初めての体験というか、新鮮な感覚でした。最初は不安な面もあったし、実際かなり苦労した部分もありましたが、そうしたこと全部ひっくるめて面白かった。ずっと欲しかったものというか感覚を手に入れたというか、旱天の慈雨を味わったというか。我ながら何を言っているのかよくわかりませんが、なんか潤ったという感じなのです。精神的に。

 最初に書いたとおり、特に何かを手に入れたわけではなく、そもそもそんな期待をしての旅でもなかった訳ですが。だけど今回の旅は私にとって、有り体に言えば貴重な人生経験になったと言えるし、大げさに言えば私という人間を構成するパズルのピースを手に入れたという感じがするのです。それも、わりと大きなピースを。といって、だから成長したということでもないですが。

 その証拠に(?)これまでは電車とかで旅行をしてもその夢を見ることなんてなかったのに、今回は家に戻ってからも旅の夢をよく見ます。なんだかまだ旅を続けているような。それはつまり、私の深層心理に今回の旅の経験が刻み込まれたということかもしれず、その成果といっていいのか、以前より夢の内容が豊かになった気もします。

 そう考えると、今回の旅はやっぱり単なる思い付きではなく、私の内心からの欲求に従った、言うなれば必然的なものだったのかなという気もしている今日この頃です。

11月14日

 前の日記から一週間以上が過ぎまして、まだ旅を続けています。というか今日で家にたどり着くつもりだったのですが、できなかったのです。今は名古屋。今日の三時過ぎに熊野を出たのですが、どうも家まで帰り着けないみたいなのでここに留まったのです。それで、あれから全然ネットカフェがなかったので書き込めなかった日記を書こうというわけで。

 はい、昼まで熊野にいてもう名古屋にいられるわけないですよね、自転車では。しかも普通のママチャリでは。ええ、熊野にまで行ったはいいものの、帰りは正直かったるいので宅急便で自転車を送り、電車で帰ることにしたのですよ。……まさか一万四千円もするとは思わなかったですが。一瞬、やっぱり自力で帰ろうかと思ったくらいですが、一度来た道をずっと帰るのはモチベーションが上がらないし。その間あれこれ使ったら、結局それくらいの金額になるだろうし、と。家族の反応もそろそろ怖いし。

 というか正直、もう熊野近辺の道を走りたくない。アップダウンがきついのはもちろんのことですが、車に気を遣うのがなにより精神的に疲れる。

 伊勢に着くまではよかったのですよ。わりと大きな道を通ってきたこともあってか、ちゃんと歩道が整備されていたし。歩道といっても通行人なんてほぼいないから、車にも人にも気を遣わずにゆったり走れる(もちろん油断はできませんが)。ある程度進めばそのうちネットカフェのある街に着くし。ほんと快適でした。

 が、伊勢から熊野に向かうのは大変でした。まず伊勢の内宮から五十鈴川沿いに剣峠へと続く道を行ったのですが、雰囲気は最高ですがけっこうきつい。しかも距離を勘違いしてて山中で日が暮れてしまい、街灯なんて点いてないのでかなり参りました。しかも剣峠周辺は石やら太い枝なんかがごろごろしてるし。

 まあ、そんなに焦ったわけでもないです。別に道に迷っているわけでもなし、暗いとはいってもまだ午後六時とか七時とかだし。いざとなったら私なりにちょっと奮発した寝袋もあるから夜になっても大丈夫だし。ただ電波が圏外なので、家族に義務付けられた一日一回のメールが出せないというのが問題でした。心配かけるだろうし。

 結局は無事に峠を越えることができたましたが、正直行って峠までの登りはかなりしんどかった。実際、荷物を積んだママチャリなんて全然こげなかったので押して歩くしかなかったわけです。我ながら情けない話ですが、まあ貴重な経験でした。山中で日が暮れてしまった昔の旅人も、こんな気分だったのかな、と。

 まあそれはそれとして、その後も大変でした。南伊勢町に出てから海岸線沿いに熊野を目指したのですが、山→海→山→海みたいな感じでなかなか進めない。おまけに前述したように歩道が(ほぼ)付いていない。路肩を走るしかないわけですが、車もぼちぼち通るし、その度に気を遣う。別に車道を自転車で走っても違法ではないわけですが、ドライバーから見たらやっぱり鬱陶しいと思うんでしょうし。地元の人なら仕方ない面もあるけれど、こちらは物見遊山の異邦人だから後ろめたいし。

 まあそれでも、走りました。走りましたよ、熊野まで。思ったより時間がかかってしまいましたが。

 熊野近辺に着いたのが11日。その日はまず花窟神社(はなのいわやじんじゃ)を参拝しました。詳しい由緒は割愛しますが、ここは日本神話のイザナミノ尊が葬られているとされる地なのです。以前にイザナギとイザナミを題材にした小説を書いたとき、ここの存在を知って一度訪れてみたかったのです。……というか、神話を題材にかなり好き勝手に罰当たりな改作をしてしまったので、挨拶(むしろ謝罪)に行っておきたかったのです。まあ当時は京都に住んでいたので、イザナミノ尊を祀る京都の神社には行っていたのですが。

 この神社は原始宗教の形が色濃く残っているため本殿がなく、巨大な岩がご神体。それも一目見れば納得で、本当に神様が宿っているような感じを受ける。といっても私は霊的なものについて関心はあっても感受性はないのでわかりませんが、単に見た目の迫力だけで圧倒されたわけなのです。普通の言い方をすると、神話に描かれていた舞台に立っているんだという感慨。ちょっと怪しい言い方をすると、神話の世界を幻視するというか、感応しているような感覚(と言ってもスピリチュアル的なものではないですが)。

 と、まあそんな感じの想いに耽っていると、その場にいたもう一人の人に話しかけられた。麦わら帽子にマスクをしていて、正直ちょっと怪しい(失礼)。でも話していると感じのいい方で、しかもこの辺りの別の神社の神主さんなのだという(怪しいとか思って本当に失礼しました)。どうも私の様子を見て神社に関心があると思われたらしく、これから行く神社に人を案内するので、よかったら一緒に乗せていこうか、と誘ってくださる。なんでもそこはあまり知られていないが、日本でも指折りのパワースポットでビートたけしも訪れたことがあるとか。

 ちょっと迷いました。正直、旅にでてからこんな対応をされたことがなかったので(ていうかほとんど話しかけられることがない)、嬉しい反面とまどいもあったのです。ここまで自転車で来たので最後まで自力で行きたい、というのもあるし、そこのご利益は子宝とか安産で、私には縁のない話ですし。そもそも神社仏閣は好きですがパワースポット的なことにあまり関心もないし、ビートたけしってあまり好きじゃないし。

 そんなわけで辞退させてもらったのですがその方は気を悪くされることもなく、それならと場所を教えて下さいました。それで昨日、熊野三山を参詣した後にそのことを思い出し、ちょうど近くを通るので行って来たのです。しかもそれが結局この旅の最後のポイントになったわけで、やっぱり何か縁があったんでしょうかね。

 ていうかこの方は私を学生の一人旅と勘違いしておられ、私も「実は三十路の無職です」と正直に告白するのもあれなので、話をあわせて嘘を吐いたのが心苦しかったり。しかも神域なのに。なんていうか、すみませんでした。

 で、話を戻しますが、熊野三山。これがまた厄介でした。新宮はその日の内にいけましたが、本宮と那智は本当に山奥で、自転車と徒歩で行くにはそれぞれ一日がかり。熊野は一日で回るつもりだったのが完全に目論見が外れてしまいました。道もやっぱりきつかったし。

 まあそんなこんながあって疲労も溜まってきたことだし、とりあえず見たいものはほとんど見たことだし、気力も衰えてきたので、ズルして電車で帰ることになったのでした。

 ただ、この熊野行きでは殆ど古本を漁れなかったのが残念。まあその代わりと言ってはなんですが、熊野ではカラスのグッズをあれこれ買えて満足しました。なにしろカラスってイメージ悪い面があるので、あまり売ってないんですよね。あっても、なぜか嘴が黄色だったりするし(あれって何でなんだろう)。

 にしてもせっかくお金を貯めたのに、この旅では思った以上に散在してしまった。どうしたものですかね。……でもまあ、せっかくの旅でケチって悔いを残すよりも断然ましか。しばらくは節約して、少ししたらまた働くとしますかね。

11月5日(火)

 突然ですが、三重県に来ています。ていうか明日は伊勢に参拝する予定です。今ネットカフェ。

 要するに、夏ごろから主張していた一人旅にとうとうでることができたというわけなのですよ。というかしゅっぱつしたのが先週の水曜日なので、もう一週間になるのですが。自転車とはいえ静岡から一週間もかかるのかよと言われてしまいそうですが、まあ色々とあったのですよ。もともとほぼノープランだったのですが、まあ気になったところにはふらふらと立ち寄ってしまうし、寝過ごしたり、……見かけたブックオフには必ず立ち寄ったり。いやまあぶっちゃけ、最後のが主たる原因だったりするのですが。

 いえ、最初は京都の秋の古書市に行くのが目的だったのですよ。そして伊勢神宮。しかし先述の理由その他のためにどうやら間に合わないことが判明。そこで京都に行くのはすっぱりあきらめて、ブックオフ通いを続けつつ伊勢に参拝に行き、さらには熊野に足を伸ばして帰ろうかと思うのです。

 ていうか、もう一週間か。色々あったような……なかったような。

 思い返してみると、静岡を出るまでが結構大変だった気がします。最初はよかったんですよ。台風も漸く去って、すごい旅立ち日和の好天の下を自転車で駆け出したわけです。そうしてまずは海を目指して走りながら、これがいわゆる「どこまでだって行けるんだ」状態なのかと思っちゃったりしたのですよ。もういい年なのに。

 でもそれからが大変でした。海についたはいいものの向かい風がやたらきつい。やっと抜けたと思ったらお巡りさんに止められる(しかも一時間の間に三回も)。通ろうと思っていた道は歩道が工事中で通れず、それで裏道に入ったら見事に迷う(しかも道路地図を落としてしまった)。正直散々でした。まあ、お巡りさんは三組ともいい人たちでしたけどね。

 それで言うなら、二日目の方がきつかった。大きな道を通ったおかげで順調に進み、昼過ぎには浜松に。……が、そこでまたしても若いお巡りに止められ。その若いのが、前日の三組のお巡りさん達とは違って、なんかやな感じだったのです。こちらの風体を見て(自転車の荷台に寝袋などを積んでた)、ちょっと前まで派遣で働いてたとか話した途端にうさんくさいものを見るような目になった。まあたしかに客観的に私が怪しいので仕方ないのですが、だからってなんでこんな軽薄そうな若造に軽く見られなくてはならないのだろう?私から言わせれば、派遣先の工場の人たちのほうがこいつよりよっぽど思慮深い人たちだと思いましたよ。

 前日のお巡りさんたちはそうではなかった。私にあれこれ質問するものの、それはあくまで仕事として必要だから、という感じで悪意は感じられなかったのです。疑いが晴れたら「時間を取らせて……」と謝ってもくれたし。

 けどこの若造はそれもなし。こちらに前科がないとわかると、さもハズレくじを引いたみたいに「もう行ってよし」みたいな感じ(私の主観ですが)。まったくもって不愉快タイムでした。

 まあそれはそれとして。その鬱憤をぶつけようと自転車を漕いだのですが、なんだか息が上がる。というかなんか気持ち悪い。まあ寝不足だとたまにそんな感じになるので気にせずにいたのですが、どうにもいつまで経っても治まらない。浜名湖を過ぎた辺りで腹も痛くなり、とうとう動けなくなってしまい。

 迷いました。今日はもう動けそうにない。ではどこに泊まろうかと。近くにネットカフェはない。ちゃんとした宿には泊まりたくない。いくら寝袋とよさげな場所があるからといって、具合が悪いのに野宿は普通に自殺行為だろう。幸い近くに駅があるから、自転車は置いてネットカフェのありそうな街に避難しようか、と。でも……。

 そんなこんなで、結局ビジネスホテル?に。貧乏旅行なのにとは思ったものの、どう考えても具合が悪いのだからそこは意地を張るところではないなと判断したのです。おかげで、一晩でなんとか回復しました。

 そして。そんな最悪の一夜から打って変わって、その後は快調そのものの旅となりました。体調は万全に近く、無理しないようになったためか足の疲れもそれほどではない(既に一日目の時点で足が疲れきっていたというのに)。なんていうか、まるであの腹痛をきっかけに身体の仕様が日常モードから旅モードに切り替わった、とでもいうような感じなのですよ。いや本当に。旅に出る前は毎日栄養ドリンクを一本とパブロンを飲まないと身体がダルかったのに、今はほとんど飲んでなくても平気なのです。まったくもって我ながら不思議なのですが。

 そんなこんなで、あちこちと立ち寄りながらも旅をしています。そしてわかったことが一つ。私は、「その辺のブックオフに普通に並んでいてもおかしくない本」とかその初版第一刷が、けれど近場にいっこうに入らないので探しているのですが、これがなかなか見つからないんですよね。結局のところそういう本は他所でも珍しいってことなのですかね。なのでまだ目当てのものは一冊しかみつかってなかったりするんです。それ以外の本もたくさん買いましたが。

 あと気づいたこと。静岡と愛知では微妙に品揃えが違う気が。マーク・トウェインの『不思議な少年』が静岡では見かけないのに、愛知ではなぜかよく見かける、とか。いやそれだけなんですが。

 とにかく、明日はついに伊勢。少し緊張するような。今日はひとまず早く寝ます。

10月19日(土)

 久方ぶりの書き込みです。と申しますか、正直言うと面倒だしもうこのサイトも放置して自然消滅させちゃおうかと思っていたのですが……。どうにもムカムカするのでここに書いて発散しちゃおうかと思った次第です。

 というわけで突然ですが、近ごろ腹が立ったことーー。それは何かと言われればーー。

 ……最近の川勝(おっと氏)の言動です!もちろん言うまでもなく、吾らが静岡県知事のことですが。

 なんか、もうね。別に子供がいるわけでもないので他人事と言えば他人事なんですが、あの知事の言い分が、聞いててどうにも不快なのですよ。前に同じような問題で大阪の橋本(元)知事が怒っていた時も同じく不快だったのですが、まあ余所の土地の問題なので聞き流していたのですが、今回は他ならぬ自分の所の知事の発言ですからね。ていうかだから他人事じゃないですね、自分にも責任の一端があるわけで。そんなわけで私にも一言申す権利はあるわけですよ、この世界の片隅で。

 そんなわけで率直な感想なのですが、まず思ったことは、「なんでこんなにムキになってんの?」でした。これじゃあんまり冷笑的なのでもう少し言うと、「それってそんな怒ること?」です。

 そもそもの発端は、全国の小学生を対象にした学力テストで、静岡県の国語の成績が全国最下位になったこと、ですよね。それで知事が怒っているわけで(どう見ても感情的になっているように映ります、私の目には)、教育委員会とか学校の校長のやりかたが悪いんだ、と主張しています。それで成績下位の学校の校長名を公表するしないで揉めてたと。なんで校長名かっていうと、学校名を公表するのは禁止されてるからだと。

 一連の報道では、「学校名の代わりに校長名を公表するのはありなのか」っていうことが焦点で、それと「公表は学力向上につながるのか」「どうすれば学力を向上できるか」、あと「成績最下位になっちゃったのは誰の責任か」、というところ。私の目にした範囲ではどこの報道もそんな論調で、それらに共通しているのは「(国語の)学力が全国最下位なのは由々しき問題だ」という認識(前提)。いわゆる街角の意見というやつでも、その辺の問題意識は共有しているようだった(少なくとも私の見た範囲では)。ということは、それは世間一般の常識的感想なんだろうけど。

 けどさーー……。水を差すというか、元も子もないようなことを言うけれど、それってそもそもそんな重大な問題なの?

 いや、もちろん最下位なのは決して望ましいことではないですよ。問題視はするべきだし、対策を講じるべきです。けどだからって、仮にも一地方の首長の立場にある者があんな感情的な姿を衆目に曝すばかりか、あんな詭弁を弄して(言ってみれば)法の網をくぐるのと同レベルの裏技を公然と断行しようとするとか、あっていいわけ?(校長名と学校名はイコールではないとか言うけど、校長名を曝せば学校名なんて調べられるんだから、規制の意味がない……ていうか、規制の主旨を踏みにじってる)

 だってさ、そもそも教育の役割って、学力の向上『だけ』じゃないでしょ?特に『義務教育』の場合。特に特に、まだまだ未発達な小学生の場合、学力だけじゃなくて運動能力やら図画工作やら家庭科やら……という諸々の能力やら感性やらの習得や育成があるわけだし、それより何より彼らはまだまだ精神的にも発達過程なんだから、一番重視すべきなのは情操教育であるべきでしょう。少なくとも、私はそう思います。人の子の親ではないですが、かつて子供だった一人の人間として(まっとうな社会人じゃないですけどね)。

 ですが知事の言い分は、まるで学力こそが小学校の価値を決める一番の基準であると言っているように私には聞こえます。口では「学力はあくまで指標の一つでしかない」と言っていましたが、あんなにムキになって詭弁を弄してまで誰かの責任を断罪しようとする姿を見せつけられると、それも口先だけの建前にしか聞えません。

 ちょっと前のことになりますが、浜松の方のどこかの高校で体罰問題が明るみになったことがありました(うろ覚えですが)。あの時、川勝知事って何か具体的なアクションを起こしてましたっけ?同じく静岡県内の、教育に関する問題なのに(まあ私自身は、体罰には必ずしも反対派ではないのですが)。

 そのさらに前、いじめを苦にした自殺が問題になりました。それは滋賀県の大津市の事件でしたが、それを機に全国的にもいじめが問題視され、それまで隠されていた事件が明るみになったりもしました。県内でもいじめが発覚して問題になったはずです。

 この大津市を発端とした一連のいじめ問題については、静岡市の田辺市長が「いじめられている生徒は、自分の身を守るためなら学校に行かなくてもいい」という主旨のコメントを発表し、物議をかもしていました。私もそれは印象に残っています。「学校に行かなくていい」という発言は下手をすると「不登校を助長している」とか誤解される可能性もあるわけで、その可能性を恐れずにこのような発言をした静岡市長の人柄に感心したのです。誤解される危険を冒してまで、子供達の生命を守るために、マスコミを通じて呼びかける。この市長の真摯な発言は、何が一番大事なのかわかっていなければ出てこないと思います。こういうところに人柄は出ます。

 ……で。教育問題に熱心な川勝さんはこの時、何か仰ってましたっけ?

 まあ私にしてもそんなに良識的な人間ではないので、当時の報道を熱心に見たり記憶したりしているわけではないのですが、これらの問題について知事が積極的に動いていた印象って正直、ないです(あくまで「私の印象」です、念のため)。まあ何らかのコメントはもちろん出している筈ですが、印象に残るものではなかったのでしょう(実際、田辺市長のコメントは覚えているわけですし)。少なくとも、今回の件のように感情的な知事の姿を見た覚えはありません。

 ということは、知事にとってはこれらの問題よりも「小学生の学力が全国最下位だった」ことの方を重要視している……ように見えてしまいます(もちろん、視聴率第一主義の報道をあまり鵜呑みにしてはいけないですが。報道がされていないだけで、実際はすごく動いていたのかもしれないですし)。少なくとも、そう見られる可能性はある。

 でも本当は、学力よりもいじめや体罰の方がよほど重要な問題じゃないですか?いえ、深刻じゃないですか?少なくとも、同じく教育に関する問題ではあっても、より感情的になって怒るべきなのはこちらではないでしょうか、子供達のためを思うなら?学力の向上も疎かにしてはならない大事なことですが、精神的に健全な教育環境を整える方がもっと大切なんじゃないか。

 少なくとも私なら、クラスの平均点を5点上げることのできる教師より、一人の問題児の心を変えることのできる先生の方が優れた教育者だと思います。高いレベルの講義ができる教員より、いじめ問題に本気で取り組んでくれる先生の方が立派だと思います。生徒の悩みを心から聞いてくれたり、真剣に相手してくれたり、或いは子供達に夢を与えて応援してくれるような、そんな先生方の方が好きです。

 ……とか、こんなことを言うと「何を甘いことを言ってるんだ」とか言われるかもしれません。今の時代、学力を上げないと就職できないとか、日本自体が国際的に生き残れないとか。

 それはたしかにその通りかもしれませんが、でもいくら私だって、例の学力テストが高校生の、しかも進学校を対象にしたものだったらこんなことを言っていないです。彼らは既に自分の人生についてある程度の判断能力と責任を持っていて、その上で進学校に身を置いているわけですから。具体的な進路はどうあれ、親の希望や干渉があったとしても、とにかく学力で身を立てていくつもりで新学校に入ったわけです。学力は彼らにとって必須の能力であり、試験で測られることにある程度の必然性はあるわけです。

 でも、小学生はそうじゃないでしょう?そりゃ小学校にも進学校はありますが、そうじゃない学校の方が多いわけです(よね?)。彼らには色々な可能性があるわけで、その進路には必ずしも学力が求められるわけじゃない。一流の料理人を夢見る子供だっているし、親に憧れて大工になりたいという子供だっている。中には本気でスポーツ選手を目指す子供だっているだろうし、芸術の才能を活かした職に就きたい子もいる……。

 もちろん、どんな道に進む場合でもある程度の学力は要るでしょう。読み書きや計算、社会的な知識や常識などがなければ、社会生活に支障をきたしてしまいます。でもそれは必要なだけ具えていればいいわけで、それ以上を求めるかどうかは本人の意志に委ねればいい。義務教育で学力を鍛えるのって、本来はそのためだったはずです。いやもちろん学力が高いに越したことはないけれど、それを外部から強制するのは筋違いというか、ぶっちゃけ本人には余計なお世話でしかない。進学以外の道に進む彼らにとっては、それは必要な能力ではないのだから。

 だからまあ、そんな子供達をも捕まえて一律に学力テストを受けさせておいて、その結果が悪いと言って怒るのはおかしいんじゃないか、と思った次第なのでした。以上。

 

 (追記。大津市を発端としたいじめ問題についての川勝知事の反応についてちょっとだけ調べて見ました。「いじめはいかん、いじめは卑怯だ、知事はいじめを許さん」というコメントがあったようです。……正直、田辺市長のコメントと比較すると類型的という感しか受けません。まあネット上にあった記事にはこのコメントの時の川勝知事が険しい顔をしていたとありますが、それが事実だとしても、判断の分かれるところです。

 というのは、この発言の背景にあるのが被害生徒に対する思いやりなのか、それとも「いじめは問題だ。だから許さん」という思いなのかわからないから。後者だったら、単に不祥事は許さんというレベルに過ぎないわけで……。まあどちらにしても、とにかく実効的な対策さえ講じてくれれば「問題は」ないわけですが)

 

8月13日(水)

 派遣の仕事は無事に終了。てかもう二週間近く経つわけですが。何をしていたかというと、主に本を読んでます。本当は仕事が終わったらフラフラと長い旅に出たかったのですが、周囲に反対されてしまったので断念したわけです。まあこの熱い中を自転車で旅するとか言われたら普通は反対しますよね……。せっかくだから伊勢神宮とか出雲大社とか行きたかったのですが、もう少し涼しくなってからにします。まだ行く気があればの話ですが。

 そんなわけで、もっぱら本を読んでます。久々に図書館に行ったら思いがけず『クロコディル』を発見。国書刊行会のサイトで奇書という触れ込みに惹かれ、買うべきか否かさんざん迷った末に断念したのです。というのも、内容より装丁に惹かれてるだけの気がしたもので(代わりにネットで『ラピスラズリ』のサイン本を落としてしまったのですが)。

 そんな『クロコディル』ですが、そういえば図書館で借りるという方法をすっかり失念していました。まだ冒頭しか読んでいないのですが、これで気に入ったなら購入も考えようかと思っちゃってます。気に入ったら既読でも欲しくなるのが国書の装丁の魅力。

 

 ところで、同じ図書館に恩田陸さんを特集した本を発見。「現代女性作家読本」というシリーズの一冊ですが、恥ずかしながらこんなシリーズがあったこと自体知りませんでした。なんかちょっと新鮮な感じです。しかし恩田陸さんといえば、またしても直木賞を逃してしまわれましたね。まあ今回の候補作は未読なのでその当否は判断できないのですが、現代作家の中では数少ない好きな作家の一人なので、ファンの一人として残念。直木賞はSFとかファンタジー要素が入ってくると厳しいらしいですが、それを踏まえても恩田さんが未だに直木賞を獲ってないのはおかしいですよね……と。まあ直木賞とか獲ってマスゴミとかに注目されるのもファン心理としては複雑ですが。

 そういえば恩田さんの本は、現代の売れ筋作家の本としてはほとんど例外的なほど装丁に凝っているものが多いですよね。賞を獲ってさらに人気が出る前に、欲しい本を探して見ようかなと思う今日この頃です。

 

7月1日(月)

 あ……ありのまま今起こったことを話すぜ!「オレは短期の仕事を始めたつもりだったが、別にそんなことはなかったぜ」。な…何を言ってるかわからry 

 頭がどうにかなりそうでした。……というのは冗談ですが、ほっとくといつまで働かなきゃいけないかわからないので、こっちから「7月末までで」と話をつけました。まったくもって、こんな感じでグダグダするのが厭だったから短期工の仕事を探していたというのに、紛らわしい求人の書き方するから(嘆息)。……まあ、最初の段階でしっかり確認しとかなかった私も悪いですが(確認したつもりだったんですけどね)。なんかもやもやするので、欲しいと思っていたあれこれをばんばん買ってやろうかな、もう。 

 ところで静岡では先月から浜松のポール・デルヴォー展に続いて静岡でルドン展がはじまるなど、とってもオレ得なことになってます。もちろん両方行ったのですが、地味にお金がかかって辛い。しかも浜松と静岡の両方でとっても好みの品揃えの古本屋を見つけてしまったし。浜松の「時代舎」さんではハードカバーの「さかしま」とかユングとか谷崎の初版本とかあれこれ買って、静岡の「水曜文庫」さんでは世界幻想文学大全がけっこうあったので迷った挙句『創造者』と『ミイラ物語』(とその他)を購入。うれしい悲鳴です。

 他にも時代舎さんには土地柄からか小川国夫(敬称略)の署名本がたくさんあったので、ファンの方は立ち寄ってみたらいかがでしょうか。

 そんな感じで、あと一ヶ月頑張って働きます。ハァ。

6月2日(日)

 5月が終わったわけですが、案の定というかまだ暫らく働くことに。ええ、予想通りなんですけどね……。一ヶ月か二ヶ月の延長になる模様。

 期間が曖昧なのは、派遣会社の態度が曖昧なため。月末に書類にサインしたのだけど、その時は七月末までだったのに、また同じ書類渡されてそっちは六月末までになっていた。まあ後の方が本当なのでしょうが、派遣先の工場に書類を預けて行って伝言もなしだったので事情がさっぱりわからないのですよ。後日に電話ででも説明あるかと思ったけど来ないし……ていうか先月って派遣会社の人に全く会ってないんですけど。仕事が適当すぎるww

 ていうか派遣会社ってなんとなく大手がやっているというイメージがあったのですが、どうもそうではないらしく私の入ったところは超零細だった。派遣先もまだ一つしかないっていうし。不景気で本業が立ち行かなくなったから派遣業始めちゃいました、てなんですかそれ(笑)。最初は本気でちゃんと給料もらえるのか、夜逃げしないかと心配しましたよ。

 いやまあ、零細でもなんでもいいんですけどね、仕事さえちゃんとしてくれれば(そして夜逃げしなければ)。

 にしても一ヶ月の延長でまだよかったですよ。仕事自体は別に辛くないとはいえ(体力的にはともかく)、生活を拘束されるのはやっぱり窮屈だし。ていうか私は基本的に働きたくない人だし。そろそろ色々やりたいことがあるのに、使える時間があんまりないし。これで二ヶ月の延長とかだったら挫けていたかも。

 ま、その給料を使い切ったらまた働かなくてはならないわけで、それなら今の慣れた職場でもうちょっと働いて貯めておいた方がいいとはわかっているんですが。

 そういえばジャンプの話をちょっと前に書きましたが、『ハングリージョーカー』やっぱり終わっちゃいましたね。まあ全体的に微妙な感じではあったので別に不思議ではないのですが、少しキラッと光るものも垣間見えただけにちょっとだけ残念です。助手の女の子が能力に目覚めるところは良かったと思うんですけどね……。あと、最後もちょっと良かった。パターンとしては打ち切りで定番の「俺達の(最後の)闘いはこれからだ」ではあるんですが、ずっと無表情だった主人公の屈託ない笑顔が。それまで、あの主人公が無表情のままハハハと笑っているのがキャラ付けとしても滑っているのでやめればいいのにとずっと思っていたのですが、このラストをやるために狙っていたとは。打ち切り漫画の終わり方としてはなかなか良かったと思います。次回作に期待ですかね。

 そして、ネットで話題になっているらしき、例のワンピースの代原(笑)。いや、ジャンプ編集部もたまには粋なことしますね。腹抱えて笑いましたよ。こんなに笑ったのは、あの伝説のガンダムAGEラスト二話でゼハートが一分でやられたのを見たとき以来ですよ(嘘だけど)。ちなみに私はガンオタではありません。

 そんなこんなで、もうちょっとだけ働きます。小説なんて全然書けないけど、ここである程度稼いどくのもいいですよね。どうせ誰が待っているわけでも、望まれているわけでもないし。

5月5日(日)

 うへへへへ。

 買っちゃいました。ついに買っちゃいましたよ『夢の操縦法』!月末に給料もらってすぐに買いに行ってしまいましたよ。これ一冊で約五千円。……いいじゃないですか、自分へのご褒美ということで。

 そう。久しぶりに働き始めて一ヶ月、しかも初めての肉体労働だったわけですが、ちゃんと続いているのです。ていうか半月の時点ですっかり慣れた感じになってました。まあ肉体労働なので最初は体がきつかったのですが、それにもいまや慣れましたし、接客業と違って精神的なストレスはまったくないし。ひたすら黙々と働いているだけなので、時間が経つのが早い早い。一通り仕事を覚えさえすれば、何も考えなくてもできるし(ということはつまり、どうでもいいことを考えていられるわけで)。まああまりボケッとしてると色んな意味で危険なので、完全に気を抜かないようにはしてますが。

 そんなこんなで給料も出たし、ゴールデンウィークは普通に休めるので(その辺もコンビニとは違う)、昨日と一昨日にかけて東京の、しかも六本木ヒルズに行って参りました。いやヒルズ自体にはさして興味ないですが、ミュシャ展を見たかったので。

 で、ネットカフェで一泊して、昨日は久々の神保町で古書店巡り。まあ祝日で閉まっている店もありましたが、久々に堪能しました。欲しかった本も大体手に入れることができたし。京都の古本市にも行きたかったのですが、やっぱり神保町もいいですね。

 そいえば、知らないうちに三省堂に古書コーナーができていたのでびっくり。しかもガラスケースの中に、『ドグラ・マグラ』の初版本が!お値段はナント38万円……。とうてい手の届かない世界ですが、とりあえず眼福でした。

 そんなこんなで堪能した2日間でしたが、ちょっと心残りなのは「かんたんむ」にあった太宰治の初版(だっけ?)本。函なしでかなり汚れてたので三千円で、ちょっと心惹かれたのだけどそんなに太宰が好きなわけじゃないし……、ということで別の店でバベルの図書館シリーズ17巻のスティーブンソン『声たちの島』をゲットしてきたのです。

 それはそれで満足なのですが、あの太宰も今さらながらちょっと気になっているのです。……まあいっか、あの本にしても、ちゃんとした太宰ファンの人に買われた方が幸せだろうし。

 とまあリフレッシュしたところで、あと一ヶ月、がんばって働いてきます。

3月30日(土)

 春ですね。というわけで私も、新生活します。なんと4月から工場勤めすることになったのですよ。……ていっても二ヶ月の短期ですが。いわゆるハケンというやつで。工場見学というのも済ませたのですが、はたしてちゃんとできるのか少し心配だったりします。接客業よりは、断然向いていると思うのですけどね。

 まったく話は変わりますが、今度の少年ジャンプに『PSYREN‐サイレン‐』の岩代先生が読切を掲載するみたいで、ちょっと嬉しかったりします。いや何を隠そう、『サイレン』好きだったのですよ。ここ数年のジャンプの漫画の中では一押しです、私的に。久しぶりにコミックスを集めてしまった作品でした。もちろん新刊で。イっちゃってるヒロイン(しかも主人公の幼馴染)と胡散臭い都市伝説とを皮切りに、いきなり謎の異世界に行っちゃう第一話からして物凄くワクワクさせられましたよ。サイレンとか電話ボックスとかテレホンカードとかのアイテムも雰囲気あるし、怪物の名前が禁人種《タブー》って!!完全に『家畜人ヤプー』じゃないですか、本当にありがとうございます。

 そんなこんなで凄く先を期待しただけに、だけどどう考えても雑誌のカラーに合ってないだけに、いつ打ち切られるかと最初はやきもきさせられもしました。なんとアンケートまでしばらく出していましたよ……適当な住所と偽名を使って。幅広い層に支持されてると思わせるために年齢を変えたり小細工もしました(まあバレてたでしょうが)。

 見所といえば、やっぱり超能力バトル……ではなく、タイムトラベルの設定を活かした話の緻密な構成ですよね。主人公達が現代と未来を行き来して、間近に迫った世界の崩壊を食い止めようと動く。そうして何か進展がある度に未来世界が微妙に変わる。特に、未来から持ち帰ってきた、重要な事件を記録したDVDの内容が変わるという演出は本当に斬新で、感心させられました(まあSFにはくわしくないので、どこかに元ネタがあるのかもしれないですが)。

 ちょっと残念なのは、途中からサイキックバトルの要素が強くなりすぎたことですかね。私としては序盤の方の、おどろおどろしい怪物を相手に四苦八苦して倒すというドタバタした感じが好きだったので、PSYを覚えたら雑魚は一蹴、というのはちょっと残念でした。超能力バトルが嫌いなわけではないんですが、もうちょっと展開をゆっくりしてほしかったというか。まあ多分そんなことしたらチビッ子の支持を得られず(そもそもあったのか?)早々に打ち切りだったかもしれないし、その辺は悩ましいですね。でも、超能力にしても単純なものではなく捻ってあったのでよかったです。個人的には「夜食にサルファ・マスタード(毒ガス)はいかが?」の遊坂がお気に入り。

 なんだかんだで16巻まで続いて、物語もちゃんと最後までいったのはファンとして喜ばしいことでしたが、それでも最後は諸般の事情で詰め込まざるを得なかったとか。私的には近年のジャンプでは『バクマン』と並ぶヒットだったのに、あちらはアニメを三期もやって『PSYREN』は小説版、しかもちょっと打ち切り気味とかちょっと納得いきかねるのですが。いや『バクマン』はともかくとして、『アレ』とか『コレ』とか、挙句の果てには『ソレ』までアニメ化しているというのに。……いやアニメになるかどうかはどうでもいいのですが、『ソレ』なんてどう考えてもとっとと終わっていいのに何でいまだに続いているんですかね?……かと思うとどう考えても十週打ち切りが見えてる新連載が次々出てくるし、それなら『PSYREN』をじっくりやらせてあげればよかったじゃん!と声を大にしていいたいのですよ。

 ホント、ジャンプ編集部はもっとちゃんと仕事すべきだと思います。ていうか『バクマン』の福田先生も言ってた通り、そもそもシステムに問題あると思うのですが。駄目っぽいのをスタートさせるために何かを打ち切りにする位なら、多少アンケート取れなくても見込みありそうなのを続けさせてあげればいいのに。せめて五巻出す位まで。早々に切られたけれど、私は『鍵人』はわりと好きでしたよ?ちょっと面白くなってきたとこだったのに……。あと『ハングリージョーカー』は最近ずっと後ろですが、まだいけるかもしれないという望みがちらほらあると思います。あ、あと『バルジ』は最近では珍しい王道な感じで、それが逆によくて期待したのですが、これもあっさり終わってしまいました。これは……でも、もうちょっと試してみてもよかったのに。

 はた(正気に戻る音)。何でこんな話になったんだっけ?……ああそうだ。とにかく、岩代先生の読切が楽しみです。

2月7日(木)

 NHK教育の水曜23時からやってる「100分de名著」という番組が結構好きでよく見ています。今月はデュマの『モンテ・クリスト伯』。わりと最近読んだばっかですが。

 それはいいとして、でも先月の『般若心経』は正直、ちょっと?でした。これについても昔、中村元先生が訳した岩波文庫版『般若心経・金剛般若経』を読んで(というよりその解説を読んで)なんとなく理解していたつもりだったのですが、番組ではかなり別の解釈をしていたので驚いたのです。

 なんて言うか……具体的に言うとこっちが反論されそうなので言いませんが……番組にでていた解釈はなんか、スピリチュアルな感じでした。それで思ったのは、岩波文庫の中村元先生の解説がわかりやすかったのは論理的だったからなのかな、と。番組の解説に馴染めなかったのはあんまり論理的じゃなかったからなんですかね。

 まあ仏教はそもそも宗教なので、スピリチュアルなのは責める理由にはならないのですが。でも中村先生がせっかく論理的に説明しているところを、わざわざスピリチュアルな感じにしちゃうのはどうかと思うのも事実で。うろ覚えですが「空即是色」の解説で、物事は常に変化する、だから美しい……て。この「だから」ってどっから出てきの、とか。

 うーんわからん……。これが話題の「超訳」というやつなんでしょうか?それともこっちの方が、現代の仏教界では普通の解釈なんですかね?「あらゆるものに実体はない」なんて言っても一般人には受け入れられないから、取っ付きやすい解釈を採用してるとか……。

 他の専門家の方の意見を聞いてみたい。

 

 そういえば、こないだ創元推理文庫の『ラブクラフト全集』の六巻を買いました。いやクトゥルー神話にはそれほど轢かれてないのですが、『未知なるカダスを夢に求めて』を前から読んで見たかったので。この巻には他にもダンセイニ風のものが納められているので、ダンセイニ好きとしても大満足。『カダス』も期待通りの面白さ。

 ……なのですが。

 いや、作品自体に問題はないのですよ。幻想的な冒険譚で、クトゥルー風味もちょっとあって……。だけどどうも例のアニメ以来、「這い寄る混沌ナイアルラトホテップ」という名詞がギャグにしか見えないのです。集中しようとしてもどうしても、「フォークでドーン!」とか「バレなきゃ(以下略)」とかが浮かんでしまうのですよ。

 ……なんという悲劇。なんという破壊力。ダンセイニっぽい神秘的な雰囲気の文章に、「這い寄る混沌」という言葉が入っただけで、こんなにも、こんなにも……(絶句)。私なんて本放送は見てなくて、youtubeで関連動画をチラ見しただけだというのに……。

 あーいうシュールなの好きなんですけどね……。

 

1月28日(月)

 明けまして。て、年が明けてからもう一ヶ月が過ぎようとしていますが。

 年末にやっていた『マイトレーヤ』も一段落したことだし、金もないし、なのに税金を払えと催促が来るので、年が明けたらいいかげんバイトしようと思っていたのですが。……ですが、ここで思わぬ事態が。

 なんとワタクシ、この年にして祖母からお年玉を貰ってしまいました(爆)。

 ……いや、別にお年玉としてもらったのではないですが。どうも「税金を払う為にバイトする」という話を伝え聞いて、哀れに思ってくれたらしいのです。情けなさもここに極まれリですね。いや、それで本当に税金払っちゃうのがさらに情けないですが。

 しかしそうなると、俄然バイトする気がなくなってしまった訳で(それが一番情けない)。いやないわけではないわけですが、でも祖母はありがたいことに私が小説書くのを応援してくれているみたいですし、恩返しとしてはむしろバイト探すより小説書いた方がいいんじゃないかとかうだうだとあれこれ考えてしまったわけですよ。それで一ヶ月過ぎてしまったわけですが。さて、どうしたものか。

 ていうか年末頃までけっこう体調が良くて、すっかり油断していたのですが、最近はむしろ調子が悪く、年が明けてから既に三回も熱を出してしまった始末。それで病み上がりはやっぱり左胸が痛くなるんですが、異常がないならこの痛みはホント何なんですかね。

 そういえば芥川賞と直木賞の発表がありました。芥川賞の『abさんご』は(ていうか候補作全部)読んでいないのですが、なんかよさげですね。19歳の大学生がとったりしたらさすがにちょっと複雑な気分にもなりますが、歴代最高齢者の受賞となると素直にほっこりした気分になれますね。……いやまあ、自分には全く関係のない話なんですが。